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44.浮かれ気分

44.浮かれ気分



 昨夜の別れ際の徳永さんの燃えるような唇の感触を思い出しつつも、嬉しいとも楽しいとも感じられないまま、翌日の日曜の朝を迎えた。


 わたしは夢でも見ていたのではないか。


 はたまた、妄想の世界をさまよっていたのではないか。


 刑期の終わった囚人が、足枷(あしかせ)(おもり)など、長い間ぶら下がっていた負担を突然取り外されても、すぐには釈放されたと思えないものだと聞いたことある。


 時間がたてば、もっと実感できるだろうか、などと、ぼんやりと考えながら、松は、寝起きのボーっと頭をめぐらせベッドサイドに置かれた黒のベルベッドの箱に視線をやった。



 中を取り出して、ずっしりとした重みのある指輪を眺め、左の薬指にはめてみる。


 ダイヤは陽光を帯びて昨夜と変わらない美しい輝きを放っていた。


 その白い煌めきがあまりに眩しすぎて、松にはそれが何だかわからないぐらいだった。


 が、これが婚約指輪であるに違いなかった。彼は「覚悟の()」だと言った。


 そうだ、彼はわたしと結婚すると言ったのだ。


 同時に、昨夜の徳永さんの熱い吐息が頬にかかった感触さえも蘇ってきて、顔だけでなく体中が火照ってくるのを感じた。



 松は、もはやこれを黙っているわけにはいかなかった。


 誰かに言わねばならない。


 話せば、この喉につかえたようなもどかしさも解消されるだろうか。


 早速ベッドから起きすと、



>徳永さんと婚約した。


と、桐子に短いメールを送った。



 送信してすぐに携帯がなりだした。画面を見るとやはり桐子。



『徳永さん、今度こそ本気なの?』


 朝の挨拶をすっ飛ばして、低い声で開口一番がこれである。



「本気だって。その証に指輪をくれたの」


松は左手の薬指を持ち上げそれを眺めた。



『指輪?』



「うん、鑑定書付きのプラチナリングのダイヤの指輪」



『ほへ~~~~!』


体をのけぞらせて驚く桐子の姿が目に浮かぶ。


『ついこの前まで、結婚どころかつきあうのすらできないだのなんだのって言っていたくせに、どうして急にそんな展開にになったのよ???』



 松は昨日まで起こった出来事を順序立てて話した。



『借金がなくなったの?そりゃ万々歳じゃない!』


桐子は自分のことのように喜んだ。


『借金さえなけりゃ、殆ど問題なくなったのと同じじゃないの。ほんっとよかったわよね~~アタシも安心したよ。そっちで再会したって聞いたときは天地がひっくり返るほどびっくりしたけど、まさかこんな展開になるなんてさ!で、結婚式はいつなの?』



「昨日結婚しようと言われたばかりだもん。何も決まっていないよ」



『すぐにでも籍いれちゃえば?』



「え、なんで」



『なんでって、そりゃ、早く入籍しとかないと前みたいに、やっぱりヤメたってまた言われかねないじゃないの』



 桐子も松と同じ事を考えていたようだ。松は苦笑した。



「すぐにはむりだと思う。向こうはプロポーズだってもう少し先のつもりだったらしいし、少なくとも社内試験が終わるまでは、このままじゃないかな」



 試験に受からなけりゃ本末転倒だって言われたしな~~



『そんなのんびり構えて大丈夫なの?徳永さんだっていつニューヨークに帰れって言われるかわからないんでしょ?』



「それに関しては、もうニューヨークに戻らないから大丈夫だって言ってた。組合の規定を利用するから、自分は絶対日本に残れるんだって」



『組合の規定~~?何よそれ?』



「なんでも、親会社では五年海外駐在した人は日本に戻ってこれる権利が組合の規定にあるらしくて、それを行使するんですって」



『はぁ?ナニソレ??そんなもん効力あんの?組合の規定だなんてさあ、あってなきがごとくじゃないの?そんな権利、下手にふりかざして上の命令に逆らったりしたら、どんな目に遭うかわからないことない?』



 うっ。やっぱりそうなのかなあ。


 桐子の言葉で昨日感じた不安が蘇ってくる。


 でもなあ、徳永さんは斎賀さんの許可はもらっているから大丈夫だって言っていたしな。



『まあ、わたしは親会社の事情なんて分からないから、徳永さんの場合は違うのかもしれないけど。ああそういえば、人事で思い出した。こんな時に水を差すような話で悪いんだけどさ』


桐子は突然声を低めた。


『実はこの前、変な噂を聞いたのよ』



「噂?」



『ショウところの元の上司の瀬名さんって人が、なんでも福岡に左遷されるんだって』



「え?」


いきなりな情報を聞かされて飛び上がるほど驚いた。


瀬名さんが左遷?


「何、聞いたことない。なんなのその話」



『あ、やっぱり知らなかったんだ。実はこの前会社の近くに行く用事があって、元の部署の先輩とランチをしたんだよね。その先輩が、ショウの元上司の人事の瀬名さんと同期でさ。瀬名さんって、上が命令してきたリストラの予定数を達成できなかったって事で左遷になるんですって。でもそれは表向きの理由で、実は瀬名さんは会社の極秘事項を知っていて上層部から目をつけられているから、リストラされるのはそのせいに違いないって、本人がボヤいていたらしいのよね』



「それ、ほんと?」



『だって、ありえない数の一般職を一気にリストラしろって言われたんですってよ?会社はもとからできもしない命令をだしておいて、実は瀬名さんを最初から左遷するつもりだったんじゃないかって』



 ついこの前本社の人事に異動になった瀬名さんが左遷になる?


 自分の婚約の話も一瞬ふっとんだ。


 瀬名さんが言っている“極秘事項”とは例のシステムに関する不正経理の話ではないかと、松はヒヤリとした。


 この件に関してはデータの拾い出しをした松も無関係ではない。でも。



「そ、そんな事ってあるのかな。にわかには信じられないんだけど。だって、瀬名さんは川崎常務、じゃなかった、川崎社長からも気に入られていたみたいだったし」



『川崎社長って、波野社長の後任だっていう親会社から天下りしてきた人?』



「うん、その人。ここだけな話、瀬名さんはね、本社の人事のポストも川崎社長の推薦で就けたらしいんだよね」



『へえ、そうなの?』


桐子はだいぶ意外そうだった。


『じゃあ、逆に不思議だよね。何で上から気に入られている瀬名さんがそんな目に遭うんだろう』



 本当に疑問だ。なんだってそんなことが起こるんだ。


 何が起こっているのか全く想像できないが、今の情報はあまりうれしいものではない。



『やっぱさあ、サラリーマンの世界では、上からお気に入りだからと言って、何でもこちらの意見が通るとは限らないのかな』


桐子は暗い声を出した。


『上の都合で、いくらでも下の首の挿げ替えができるわけよ。敢えて権力のある人の機嫌を損なうような事はしない方がいいのかもしんないね』



 桐子の意見に、松は何とも言えない気持ちになって、絶句してしまった。


 考えていたのは徳永さんの事だ。


 斎賀さんのお気に入りだからと高をくくっていて大丈夫なのかと、不安が再び頭をもたげてきたのだ。



『あ、ゴメン、こんな話、今することじゃななかったよね』


桐子は松が言葉を失っているのに気が付いて慌てて取り繕った。


『ちょっと気になったんで言ってみただけ。まあ、徳永さんは大丈夫だと思うよ?瀬名さんは子会社の人で、徳永さんとは全く関係はないわけだし。親会社と子会社では組合と会社との力関係も違うだろうしね。徳永さんは大丈夫だって言ったんでしょ?』



「うん、まあ」



 瀬名さんが左遷になるのは驚きだが、かといって徳永さんも同じようになるとは限らないんだから、気にすることはないはずだが。



「大丈夫だとは言ってたけど」



『そっか』


彼女は明るい調子で言った。


『ゴメンね。せっかくおめでたい話をしていたのに、こんなこと言ってさ。徳永さんのことだから、将来のことはきっとしっかり考えてくれているだろうから、心配する必要ないよね~わたしも最近、あれこれ考え事する事が多くて、つい不安要素を口にしちゃうクセがでちゃってさぁ』



「どうかしたの?」


自分の話ばかりで桐子の近況を聞いていない事に気が付いた。


「そういえば、桐子、体調の方はどう?元気なの?」



『んー順調だよ。赤ちゃんは問題なく育っているみたい』


桐子は間もなく母親になる予定だ。


『ただ、旦那がさぁ…』



「旦那って、タケシ君?」



『最近、帰ってくるのが遅いんだよね』



「うん?」



『妊娠が分かって悪阻がひどいときは、こまめに早く帰ってきてくれていたのに、安定期になってから夜戻ってくるのが遅くって。十一時過ぎて帰ってくるのザラなんだよね』



「そうなの?」



『部署が変わって付き合いで飲みに行かされる事が多いらしくて、その分残業が増えちゃったみたいで。まあ、仕方ないとはおもうんだけど』



“仕方ない”という桐子の口調は少しも仕方なさそうだった。



『実は、その新しい部署に若い女の同僚がいて』



「その人がどうかしたの?」



『仕事の件だって言って、休みの日にまで旦那の携帯に電話がかかってくるんだよね』



「えーーーっ、それは非常識な」



『よほどの急用だったらまだしも、毎週のように仕事だって言ってかかってくるんだもん。アッタマきちゃってさあ。この前それで喧嘩になったの』



「タケシ君と?」



『そ。休みの日にまで、電話なんてかけてこさせないでよって言っちゃった。でも旦那も、全部仕事にまつわる話だし、年下とはいえ向こうの方が先輩にあたるから無下にできないだろって言うばっかりで、全然わたしの意見を聞いてくんないんだよね』



「ええ?」



あのマジメなタケシ君がそんな風な言い方をするなんて。



『とりあってくれなかったもんで、あたしも悲しくなって、その女と浮気してんじゃないのって、つい言っちゃって』



「そんな事言っちゃったの?」



『そんな風に疑っているのかって、逆切れされちゃってさあ、それ以来、口きいてくれないんだよね』



 なんたること。



『あたしって、バカ…』


桐子は本当に悔やんでいるようで、涙声になっていた。


『タケシに限って浮気なんてするわけないって信じていたのに、何でこんなこと言っちゃったんだろ』



「なんで、言っちゃったのよ?」



『だって、アタシ今、妊娠中だし』



「は?」



『だって、今、サセてあげられないじゃん?』



「??」



『もう何か月もシてないわけじゃない。まあ、安定期だったら妊娠中にシても問題はないらしいんだけど、タケシはアタシが妊娠してからまったく触れてこようともしないし、なんかタイミング逃すっていうか』



「あ、そう…か」


なんの話をしているのか気が付いて、松はどうリアクションしてよいかわからなくなってしまった。



『こっちからアプローチするにも、帰りが深夜じゃそれもできないし。そんな時に、休みの日に女から何度も電話かかってきて、プッチンきれちゃってさ』



 なるほど、話が見えてきた。



「そ、そうかあ、そうだったんだ」


松は、同情を込めて言った。


「せっかくの休みの日なのに、そんな時に女から電話かかってくるなんて、そりゃないわ」



『でもね、悲しい事に、浮気されても仕方ないのかもって、納得している自分もいて』



「どういう事よ?」



『お腹はデカいわ、太っているわ、こんな色気のない自分に、魅力なんか感じないだろうなって』



 どうやら桐子は妊娠してから十キロ以上も体重が増えたようで、医師からも減量しろと厳しく注意されているようなのだ。



「そんな事ないでしょ。お腹がおっきいのは赤ちゃんがいるからだし、太っちゃったのも赤ちゃんのためじゃない。そんな事でタケシ君が浮気だなんて」


タケシ君の性格からして、そういう理由で浮気するなんて考えられなかった松は、断固として信じられなかった。


「桐子、考えすぎじゃない?そりゃ、健康面では、も少しダイエットした方がいいかもしんないけど、タケシ君がそんな理由で浮気するだなんてまさか」



『でもねえ~普段マジメな人に限って浮気するもんよ。よくそういう話聞くもん』



「へ?」



『ウチのご近所のアパートのご夫妻にも…』



「ええ?」



『旦那が奥さんの妊娠中に浮気したらしくてさ、夜中にめちゃ大きな声で喧嘩しているの聞こえてくるんだよね』



 う、そうなのか。そんな修羅場を近くで見聞きしたりしているのか。



『まあ。だからといってタケシまでもそうだとは限らないけど。だけどさ~子供が生まれたら、どういう子育てをしようとか、どんな家庭にしようとか、色いろ夢見ていたのに、タケシがその女からの電話で嬉しそうに顔ユルめて話をしているの見てたら、めちゃくちゃ腹立ってきて、なんつーか、奈落に突き落とされたみたいにショックで』



「だよね…」



 桐子の気持ちが手に取るようだった。



『徳永さんとはどうよ?』



「へ?」



『アッチの方。うまくいっている?』



 答えられずに、沈黙してしまう。



『まあ、徳永さんみたいなモテ男は逆に、結婚した方が落ち着くかもね』



「え、そう思う?」



『三十超えてさ、そろそろ落着く年齢じゃない?"そういう意味"では年上の男性の方が安心かもしれないよね。若い頃遊んでいる分、頼りがいがありそう』



 なぜ、若い頃遊んでいる男性が年齢がいってから頼りがいが出るののだろう?二十代と三十代では何か違ったところがあるのだろうか。う~ん、分からない。分からなかったが、聞き返すのも恥ずかしいような気がして松は黙っていた。


 “徳永さんは自分よりずっと年上だからアッチに関しては頼りがいがある”もしくは“ない”だなんて、まだ経験のない松は、とてもじゃないが言えない話であった。



「き、桐子。そ、そういうのって年齢は関係ないんじゃないかな」


松は話を戻した。


「タケシ君だってそんなんじゃ全然ないと思うよ。そりゃ会社では女の人との接点はあるのは仕方ないんだろうけど、本当に仕事上の話だけで、単に忙しくて、イライラしていただけかもしんないし」



『そうかな』



「そうだよ」



 その後、松は桐子に思いつくままの励ましの言葉をかけた。


 最後には桐子も


「旦那とちゃんと話をしてみる」


 と言って、電話を切った。



 松も、はぁ~っとため息をついて携帯を閉じた。


 まさかこちらの方から桐子の恋愛相談に乗るなんて、そんな日がくるだなんて夢にも思わなかった。


 こういうことに関しては桐子はいつも先生であり、先輩であり、よきアドバイザーで、何歩も先を歩んでいる“物知り”だと頼りにしていた。


 だから、今回も「初エッチ」がまだだから、心得なるものを逆に聞きたいと思っていたぐらいだった。


 ところが桐子の方が、婚約したのだから、当然"そんなもの"は済ませているに違いないと思っているようで、感心すらないようであった。




「初エッチ…」


 思わずその言葉が口から漏れ出てしまい、松は恥ずかしさのあまり、自分の唇を両手で塞いだ。


 だが言葉を口にして、初めて松はわれに返る。



 初エッチ?



 くるっと頭をめぐらし、松は時計に目をやった。


 引っ越し二日目で、今日は徳永さんは、家の中のこまごまとした片づけをすると言っていた。カイ君は遅番のバイトが入っているので、夕方は家にいないらしい。


 夜は一緒に食事をしようと約束をしていて、彼の方から車で迎えに来てくれる事になっていた。



 夜に彼と食事をする?



 ボッ!!!!


 突然、顔から火が出た。



 夜一緒に食事をとってそれから、その後はどうなるの???


 普段なら英会話の時間だよな、と普通に考えるのだが、昨日と今日では事情が違う。


 松は、再び指輪に視線を落とした。


 彼の覚悟の()がキラキラと輝いていた。



「本当に結婚する気なんですか?」


と尋ねたとき、


「本気本気、超本気」


と、超大真面目で彼は言ったではないか?



 松はガバリと起き上がった。


 

 ちょっと、ちょっと、ちょっと!!!



 止まっていた思考がいきなり回転し始めた。


 悠長に昨夜の余韻に浸って、指輪に見とれている場合じゃないんじゃないの?


 ひょっとしてひょっとして、今日はそういうコトになっちゃう可能性があるんじゃないの?



 パジャマ姿のままその足でクローゼットまで直進した。



 ドカッ!



 あまりに勢いよく歩きすぎたせいでドアの端に頭をぶつけた。



「いった~~」


 頭の先に星がとんだような気がするが、気にしている場合ではない。


 松は、熊が穴倉の餌をさぐるように、ドアをあけ、ボフッと頭を押し入れの中に突っ込み、あるものを探し始めた。


 しばらくもぞもぞと奥をかき回しているうちに、目的のものに巡り合った。


 それは、東京(こっち)で使うことなど決してないとは思っていはいたが、実家において家人に発見されるのを懸念して、カバンにつめてからそのままになっていたものであった。


 かわいいピンクの袋をあけると、買ったときのタグまでついている、白のレースの勝負下着が顔をのぞかせた。


 改めて光の下で見てみると、ひも状の下着のそれは、下着と呼べるような様相をたもっているようには見えない細工の美しい工芸品のようなものに見えた。



「これって、こんなにどぎついものだったっけ?」



 いったいいつ着るつもりで、どんなテンションで購入したのか全く思い出せない。


 果たして、こんなもの下着として機能するのだろうか?



(これを着て、エッチするの?)



 未だ婚約の実感はなかったけれど、別の意味での実感が出てきて、松は冬だというのに大量の汗を体中に感じた。


 本当に今日、そんな状況に陥ってしまうのだろうか?


 頭が爆発しそうなほどカーーーっとのぼせたかと思うと、同時に青ざめてもくる。




 どうしよう、どうしよう、どうしよう……!!!



 本当に"そういうこと"になってしまうの?



 

 慌てて、ソレを袋の中にしまい込み、代わりに着れるものがないものかと手持ちの下着を探ってみたが、マシに見えるものさえ見当たらない。


 上下そろっていないし、色あせて破れているのさえある。


 こんなものを着ている姿を、徳永さんに、いや、大好きな人にさらしたら、百年の恋も冷めてしまうかもしれない。


「やっぱり結婚はとりやめよう」


と、言い出しかねないかもしれない。


 あの男は前科がある。


 じゃあ、ヒモ状のこれを着るしかない?



 紐レース状のソレを手に取って、身に着けた自分を想像するも、全然色っぽく感じられなかった。


 腹に食い込んだゴムのレースは、ボンレスハムにまとわりついているヒモのようになってしまうでのはないだろうか。




「ううううう……」




 再びベッドまで戻ってくると、困惑のあまり思考が停止してしまって、松は布団の中にもぐりこんだ。



 どうしよう、どうしよう、どうしよう。



 お腹や太ももに蓄えた脂肪が気になって仕方がない。


 最近は、運動不足で以前より心なしかたるんだような気さえする。


 こんなに急にこんな状況で体形の事を気にしなきゃならないならない日がくるだなんて、思いもしなかった。


 いったいどうしたらいいんだろう?


 心臓がバクバクと作動し、額からおちる汗が止まらない。


 以前から口やかましくあれこれ意見していた桐子に「ハジメテの日の心得」なるものを聞きておけばよかったと心から後悔した。


 もう一度電話をして、彼女に聞いてみようか?


「わたし、実は、今日がハジメテなんだけど、どうしたらいい?」


と、聞かされたら彼女はなんというだろうか。



 松はガバリを起き上がり頭を左右に振った。


 恥ずかしくもあるし、プライドのようなものが邪魔をして、今の桐子にそんな相談はできない、と思った。




 松は、再び布団から這い出て、再びクローゼットまで歩いてゆき、今度は頭をぶつけずにドアを開け、さきほどのピンク色の袋をとりあげ、中を取り出した。


 白い紐状のレースの下着ともいえないような下着は手のひらにすっぽりと収まるサイズだ。



 うーーー、仕方ない、自分でやれることをするしかないよね?



 下着にぶら下がっているタグを切ってベッドの上に置いた。


 そして、あれこれ考えた挙句、ムダ毛処理の道具を持って風呂場に直行した。


 半日の努力で、どれぐらい綺麗になれるだろうかと思いながら、そして、今日という日が、記憶に残る歴史的な記念日になるであろうと予感しながら、いつもの倍の時間をかけて、この日、松は入念にカラダの手入れをしたのだった。






 こんな事なら、人さまの経験談をもっと聞いておけばよかった。


 こんな日はどんな心得でいたらいいの?


 学生時代の友人たちは松同様に初心な連中が多かったので、松はリアルな「初体験」なる話から昔から縁遠かった。


 情報はもっぱら本や映画や雑誌などで、要は、行為の限定的(・・・)な部分、もしくは美化された知識しかない。


 だから、どんな格好で望めば男は喜ぶのか、どんな心づもりでいればいいのか、どんな反応が望ましいのか、男のリードはどんなものなのか、はたまた女の方からリードするべきなのか、全くもって分からなかったのである。



 昔読んだ恋愛小説に、こんな話があった。







 とある国の王子に嫁いだ王女が新婚の床に就く前、「花嫁の務め、どんなことが起こっても夫に従わねばならない花嫁の務め」を前に、寝台の上で体をこわばらせ、また、胸を高鳴らせていた。


 王女は夫である王子のずんぐりした身体をちらりと眺めた。王子は王女の視線に合うとあわてて眼をそらして、顔を赤くした。


 王子にとってもその「事」はやはりひとつの「義務」なのだろうか、と王女は思った。


 それは最初は痛いけれども、後には世の中で一番楽しいものになると、前に侍女から聞いたことがある。


 楽しみ…それは王女が何よりも好きなことだった。できるだけ楽しもう……





 松は王女ではないし、外見はともかく徳永さんもどこぞの王子でもなかった。


 もちろん"コレ"は義務などではなく、お互いの合意いによって為されることなのだから、こんなに緊張する必要もないのだ。


 もし、“徳永さんと世にも一番楽しい行為”をすることができるのなら、これほど幸せな事はないだろう。


 

 ではなぜ、松は今恐怖を感じているのだろうか。



 松は今ものすごく恐れを感じていた。


 もちろん痛いのは嫌だが、誰でも通る道なのだから、そこまでビビらなくてもよいのだ。


 後は、自分の勇気だけだ。


 松は徳永さんを幸せにしたかった。


 彼が望んでくれるのなら、松はなんだってしたかった。




 そんな事を考えながら風呂に入っていたので、のぼせてしまった。


 風呂から上がると一層落ち着かなさが迫ってきた。


 松は、気持ちをおさめるためあちこち部屋を掃除したり、英会話のテープを聴いたり、簿記や貿易実務のテキストをひらいたりしたが、効果はなかった。



 早く夜になればいい。


 そうでなかったらいっそ明日の朝が来てほしかった。


 長生きすればどちらも叶う願いである。




 そんな事を考えながら、着替えを始めた。


 下着は"あの紐状のレース"を身に着けた。


 あれこれと吟味した結果、服は、ワンピースやスカートといったデート仕様な服装は避けて、昨日着ていた普通のジーパンにちょっと鎖骨の見えるVネックの優しい色合いの無地のセーターを選び、チェックのマフラーをまいた。



 徳永さんは時間キッカリに車に乗って現れた。


 後一分遅かったら、松の心臓は緊張のあまり破裂してしまったかもしれない。


 窓からようやく彼の姿を視界にいれることが出来て、ほっとした。


 慌てて外に飛び出そうとして、指輪をしていないことに気が付いた。


 ベルベットの箱の蓋をあけると、それは相変わらずまばゆい光を放っていた。


 松は取り出して指にはめた。




「お、お、お待たせしばしたっ」



 何気ない雰囲気を作ろうと笑顔で挨拶したつもりだが、どうやらこわばっていたらしい。しょっぱなからかんでしまった。


 徳永さんは、ブハっと吹き出しそうになっていたが、必死にこらえているのがわかる。


 背中震わせているもん。


 あたしって、肝心なところでどうしてこんなヘマばかりするんだろう。


 恥ずかしくて、崖から飛び降りたいよ。



「今日はいつもと感じが違うね」


と、彼は言った。そして


「何だろう、シャンプーの香りかな」


と、鼻をクンクンとさせた。



 徳永さんは、ギアの上においていた左手を離すと、松の肩にかかった髪にふれた。それだけでも松は心臓がどうにかなりそうだった。



「さっき、お風呂にはいったから」



「いい匂いがする」



 そういうと、徳永さんは香りをたしかめるように、松の肩にかかった髪を自分の鼻先にもちあげた。


 それだけで、松の心はバクバクだった。


 昨夜、この車の中で帰り際にキスされた時だって、こんなにも緊張しなかったのに、今日はどうしたというんだろう。



「昨夜はよく眠れた?」



「え?ああ、はい。よく眠れました」



 徳永さんは、しばらく髪を弄んでいたが、髪を離すと、その手を松の頬のあたりにもっていった。


 熱燗のように熱を持った松の頬は、不自然なまで汗ばんでいたかもしれない。


 松の緊張は最高潮となり、体が震えてきそうだった。


 徳永さんの美しい指先は、そんな事おかまいなく、松の頬から首へと漂い、さらにはVネックの近くまで降りてきてしまった。



「どうしたの、頬が赤い。今日は熱でもあるみたいだ」



「べっ、別に熱なんてありません。大丈夫ですっ」



「そんな事ないでしょ、額が熱いよ?」


徳永さんはそういうと、いきなり顔を近づけて自分の額と松の額をコツンとくっつけた。



 徳永さんの顔がすぐ近にあって、松の心臓は早鐘のように素早く鼓動し始めた。


 徳永さんの高い鼻先が、松の鼻に触れていた。


 長い睫毛が瞬いている。



「風邪かな?」


徳永さんは松の額の熱さに真面目に心配しているようだ。



「ききき、きっと、ついさっきまで部屋で筋トレをしていたから熱いんだと思いますっ」



「筋トレ?」



「最近、運動不足なんで筋トレすることにしたんですっ」



 筋トレの話は嘘ではない。


 あまりに腹まわりのぜい肉が気になったので、直前まで腹筋をしていたのは本当だ。


 まあ付け焼刃ではあるが。



「そうか、風邪かと思って心配したよ」


そう言うと、徳永さんは額にチュッと触れるだけのキスをしておとなしく離れて行ったが、松はそれだけでも、ユデダコになってしまった。


 

 わたし、本当にどっか悪いのかもしれない…徳永病とか。



「具合が悪くなったらすぐに言って」


にっこり笑ってハンドルを握る徳永さん。



「大丈夫です…」



 徳永さんはクスっと笑うと、前を向いてエンジンをかけた。


 その微笑みが、自分の考えている事が見透かされたようで、松は恥ずかしくてならなかった。



 車は走り出した。しばらくは外の景色を楽しんでいたが、すぐに英語の会話になってしまった。


 あれ、今日はデートじゃなかったんだろうか。


 ドライブの目的を告げられていなかったので、肩透かしにあったような気分だったが、まあ、英語を話している間は、それに集中していればいいわけだし、余計な事を考えずに済む…



「花家ちゃん?」



 しばらくドライブした後、とあるショッピングセンターの前で車が止まった。



「え?」



「さっきから呼んでいるのに。晩飯、家で作って食べるのと、外食するの、どっちがいいかって聞いているんだよ?」



 ついさっきまで英語で話していたのに、日本語で話しかけられて松はわれに返った。


 隣を見ると、徳永さんが心配そうに松を眺めている。



「あ、ど、どっちでも」



「今日は本当に、変だよね?上の空だし…具合悪いんじゃないよね?」



「わ、悪くありません。元気です!いたって健康ですっ。本当に、すみませんボーっとして」



「そう?ならいいけど。で、食事はどうする?カレーにするか、それとも、お好み焼きにする?」



「あ、ここで食事にするんでしたよね?」


目の前のショッピングセンター街にあるレストランに目をやって松は慌てて言った。


「ここに、美味しいカレー屋さんがあるんでしたっけ?そこに行きましょう!」



 徳永さんはハーっとため息をついた。



「花家ちゃん、やっぱり、オレの話聞いていなかったよね?ここのレストラン街には美味しいお好み焼き屋はあるけど、カレー屋はないから、カレーが食べたかったら、材料を買ってウチで作って食べようかって話をしていたんだよ?」



「え?」



 そうだったの??



「今日は本当に上の空だよね?」



「す、すみません」



「いいよ、()なコトが重なったしね。花家ちゃんが悪いんじゃないし」



「え?」



「今日は、材料を買って、家で食事にしようか」


と、徳永さんはそういうと、車から降りて、目の前にあるショッピングセンターの中にある食料品店の中へ入って行った。



 その背中がなんとも寂しげで。


 前を歩く徳永さんの後を、松は追いかけるようにしてついていったのだった。




<45.婚約二日目>へ、つづく。



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