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42.二度目のプロポーズ

42.二度目のプロポーズ



「何、その顔」


 まるでゾンビに遭遇したかのように白目を剥いて驚いているのは、土曜の早朝、松のアパートまで車で迎えに来たカイ君だった。


 徳永さんがいない木曜と金曜、生気の失せた干物状態と化した松は、幽霊のような青白い顔を晒しながら、オフィスの席のまわりを浮遊物のように漂っていた。さながらそれは夢遊病者のようで、隣席の南田さんも、どっか悪いんじゃない、病院に行った方がいいんじゃないの、と、真面目に勧めたぐらいだった。



 どっか悪いだって?


 頭が悪いのか、顔が悪いのか、それとも性格が悪いのかと、今の松の半分死んだ脳ミソでは自分を卑下するマイナスな働きしかしない。


 こんな気持ちのままで徳永さんに会いたくなかった。


 この状態のまま決定的な言葉を聞く勇気なんぞ一ミリだってもちあわせちゃいない。


 ダメだ。土曜日、引っ越しの手伝いをするって言っちゃったけど、具合が悪いからと適当な理由をつけて断ろうと、金曜の夜にそう決心してようやく寝付いたと思ったら、連絡するより前に、朝早く、カイ君の声にたたき起こされたというわけである。


 彼は断りもなくベッドの横までずんずんと上がり込み、松の頭を乱暴にグリグリとひっかいた。


 なんでこいつがここにいるのよ?


 ああ、しまった。ドア、開けっ放しだったかも。



「鍵、掛かってなかったぜ。不用心だよなあ。兄貴が知ったら怒られんぞ」


カイ君は、ゾンビ顔の松に引きつつも、ぐちぐちと説教を垂れる。


「どうしたよ?目の下ひどいクマじゃねえか、具合でも悪いのか?」




 どうやら彼は、兄の寮から荷物を輸送する途中で松のアパートによって、松を拾っていくつもりらしい。


 とりあえず迎えに来たのがカイ君でちょっとほっとした。



「そうなんだ、実は…」


 ちょうどよい。具合悪くておきあがれないんだよね、と、しおらしい様子で具合の悪さをアピールしようとしたのだが。



「ま、どうせ飲みすぎで、寝不足なだけなんだろ」


と、彼は軽く言いはなった。そして、


「今日はやることが山のようにあるんだからよ、ゆっくり寝ているヒマはねえぜ、さあ、起きた!」


と、彼は乱暴に松の体の上にかかっている布団をはぎ取った。



「え?ちょっと?」



「十分待っててやる」



「え?」



「十分だ。十分で支度できなきゃ、寝間着のまま連れてくぞ!」


そう言って彼は、松を追い立てて布団から起き上がらせた。



「ちょっと待ってよ!」



「待っているヒマあるか!今日は兄貴の寮とアパートとの間を何度も往復ほどしなきゃなんねえんだよ、さっさと支度しろ!」



「・・・・・・」



 そんなわけで松は、十分後にはぼさぼさの頭とメバリの入った目を修正できないまま、カイ君と共に車に乗り込んだのであった。



 例の中型車の後部座席には布団袋だの、枕だの、衣装ケーズだのとこれでもか、というぐらいに荷物が積み込まれていて、バックミラーで後ろが確認できないほどだった。



「どんだけ飲んだんだよ」


車が動き出してから、カイ君はバカにしたような口調で聞いてきた。



「お酒なんて飲んでいない。寝不足なだけで」



「仕事が忙しいのか?」



「そんなんじゃないけどさ」



「仕事が忙しいでもなく、酒を飲んだわけでもないのに寝不足でフラフラってことは」


カイ君は松の言葉を慎重にかみ砕いた。


「また兄貴に虐められたわけ?」



 ドキ。



「別に虐められたわけじゃ」



「虐められているわけじゃない、だけど、兄貴がらみの事で、悩んでいるということか」



 カイ君はニヤニヤしている。なんか嫌な笑い方だよなあ。


 でも、徳永さんの結婚云々についての話は、弟のカイ君に尋ねたら何か聞き出せるかもしれない。徳永さんに会う前に聞いておいた方が、ショックが少ないだろうか。



「あのさ」


松はおずおずと口を開いた。


「徳永さん、今度の家はあんたと二人で暮らすって言っていたけど、急な話よね。何か事情でもあったの?」


 

 話を逸らすかのように、いきなり切りだしたわりには、意外とあっさりと答えが返ってきた。


「ああそれはさ、単に家賃が安い物件が見つかったから。それだけ」



「家賃?」



「今度の家、一軒家で一階が美容院で二階が住居になってんの。美容院の経営者が変わったのを機に、持ち主が二階の住居部分を貸すことにしたらしくてさ、オレの通っている大学に“格安にするから身元の確かな人物に貸したい”って依頼が来て、で、張り紙を見たオレが立候補したってわけ」



「え、なにそれ?」



「費用は、二人合わせて以前に比べて約半額」



 半額?!



「それで、ふたりで暮らすことにしたの?」



「築二十年で新しくはねえけどさ、元は四人家族が暮らしていたらしくて、3LDKもあるんだぜ~前のウサギ小屋みたいな部屋(ハコ)に比べたらもう天国」


と言うカイ君は、ものすごく得意そう。が。



「ほ、本当にふたりで暮らすの?」



「ほかに誰がいるっていうんだ?」



「だって、3LDKもあるんでしょ?」



 松は疑っていた。


 神楽さんの話によると、神楽さんではないある女と結婚するために徳永さんはニューヨーク行を固く拒絶しているという。


 神楽さんに借りていた車を返し、ゴハンを作りあうことも辞めたのは、おそらく結婚準備のためであろう。


 徳永さんは、松に“英語のレッスンをするのに都合がいいから、好きなときにウチに寄ったらいい”だなんて、言っていたけど、あんなのただのお愛想だと松は思っていた。


 すなわち新居に移ったのは新しい女と暮らすためだと、松はこの二日間、ずっと疑っていたのだった。


 しかも3LDK?


 そんなに広かったら、もう一人住めてしまうじゃないか。



「なんだよ、羨ましいのかよ、あ、部屋がひとつあくから、お前、一緒に住みたかったら越して来たら?」



「は?」



「リビングはオレと兄貴が共用だけど、個室は三つあるから、もう一人ぐらいなら住めるんじゃねえのか。兄貴も喜ぶだろうし」



 喜ぶ?



「借り手が一人増えれば、家賃も助かるしな。まさかお前、タダで居候する気ねえだろ?」



 はあ?居候する気かって、一人で何勝手に話を進めてんのよ。



「な、何言ってんのよ、わたしそんな事一言も言っていないじゃない。そうじゃなくて、その」


松はごにょごにょと口ごもった。



「は?聞こえねえよ」



「だからさ、その、3LDKもあって家賃、安いんなら、何ちゅうかその、その、逆に、家賃を払う必要のない人が一緒に住めるんじゃないかって、そう思っただけで」


あ、気が動転してしまって、言うつもりのない事まで言っちゃったよ。



「家賃払う必要のない人って、誰だよ。女とか?」


察しのいいカイ君はすぐさまそう言う。


「その辺は大丈夫。オレは女は家に呼ばない主義だから。女の家に行くことはあっても、家には絶対に来させねえ」



「あ、そうなの?」



「ほかに何か問題あるか?」



「問題ちゅうか、そりゃ、カイ君にだって彼女はいるんだろうけどさ。でもわたしの言っているのはそうじゃなくて」


別にあんたの女事情を聴きたい訳じゃないんだよ。



「…そうじゃなくて?」


カイ君は首をかしげている。



「そ、そうじゃなくてさ…」


言い辛くて言葉が続かない。



「オレの女の話じゃないって言いてえのか?」


カイ君は、松の言葉をゆっくりと代弁した。


「兄貴の女って事?」



 松は頷かなかったが、松の心情は相手には伝わったようで、カイ君は前方を見てはいたが、口をぽかんと開けて、何か言いたげに唇をパクつかせていた。



「ま、まさか兄貴、おめえに何も言ってねえとか?」



「え?」



「ちょっと待てよ」


カイ君はハンドルを握っていたが、頭を抱えているような情けない顔になった。


「お前さ、引っ越し云々の前に、兄貴がなんで引っ越しする気になったのか、そのへんのところ聞いてる?」



「え?」



「最初はあの新しい家はオレひとりで借りる予定だったんだよな。だけど、兄貴が突然、自分も一緒に住むって言い出してよ、その話、聞いてねえの?」



「え、そうなの?聞くって何を?」



「何をって、だからさぁ~なんで兄貴がニューヨーク行を断ったかってことだよ。ってか、ひょっとして日本にとどまりたいって会社に言っている話も聞いていねえのか?」



「え、いや、ニューヨーク行を断っているっていう話は聞いているけどさ」


聞いているというか、噂で耳に入ってきたっていうレベルだけど。



「だから、なんでニューヨークに行くのを拒絶しているのか、兄貴の口から聞いてねえの?」



「…聞いてないけど」



 カイ君は、何も答えなかった。


 代わりに、呼吸をとめているのがわかった。


 街の喧騒がやけに耳にうるさく感じられた。


 ずいぶん間が空いてから、大きなため息が聞こえてきた。


 松は、なぜ彼が度肝を抜かれたような神妙な顔になって、目を白黒させているのかわからなかった。



「あ、あの?」



 知らされていてしかるべき事柄を知らされないのかもしれないと思うと、松の心は再び重くなった。


 なんか、ここのところ、人の口から聞かされた噂に打ちのめされてばっかりなんですけど。



「カイ君は知っているの?」


ものすごくショックな事を聞かされるかもしれないと覚悟しつつ、恐る恐る聞いてみた。


「どうしてなの?なんで徳永さん、ニューヨークに行くの拒絶してまで日本に居たがっているの?」



「そ、そんなこと」


珍しくカイ君がうろたえている。


「オレの口から言えるわけねえだろ」



「なんで?」



「なんでって、そ、そりゃ、こ、個人情報を勝手に言いふらすわけにはいかねえじゃねえか」



「個人情報?」



 カイ君は再び、は~~っとため息をついた。



「…ま、年明け早々、アイツも海外出張で、忙しかったみてえだし、年末年始、俺たちも色いろとバタバタしてたし…」


と言って、語尾を曖昧にした。


「もしかしたらよ、今日何か言ってくるかもしれねえぜ?」



「今日?」



「わかんねえけど」



 わかったようなわからないような、不毛な会話を交わしている間に、目的地に到着した。


 そこは国道に面してはいるが、ちょっと引っ込めば完全な住宅街で、文字通り一階は美容院だった。


 

 荷物をかかえておたおたと二階に上がっていった。


 二階は本当に予想していたとおりの普通の住居スペースで、リビングと思しき一番広い部屋は、ダンボール箱が山積みになっており、足の踏み場もないぐらいだった。


 徳永さん、あんまり荷物ないって言っていたわりに、すごい量のダンボールなんですけど!



「あ、オレは今からもう一度兄貴の寮に戻って、荷物を積んで戻ってくるから、この辺の荷物、あけて片づけといてくれや」



「どの部屋に片づければいいの?」


 

 今にも崩れそうな山積みのダンボールを目の前に、不安がつのる。


 これを今日中に片づけろと?



「あっちの一番北側が、オレの部屋だから、この辺のものは全部あっちにいれてといてくれ」



「は?じゃ、この辺のダンボール、全部あんたの荷物なの?」



「あ?あたりめえだろ?兄貴の荷物はこれから運んでくるんだから、これが兄貴の荷物であるわけねえじゃねえか。オレは一足早く先週こっちに荷物を入れたんだけど、片づけるヒマがなくてよ」



 慌てて、北側の部屋をのぞいてみた。


 松は絶句した。そこにはすでに荷物が山積みになっており、これ以上荷物が入る余地なんてありそうにない。



「はぁ?あんた、これ以上この部屋にどうやって、荷物を入れろっていうのよ?」



「この辺のものは、オレの寮の部屋の押し入れに全部はいっていたものばっかなんだよ。片づけられねえわけがねえだろ?」



 後々聞いたところによると、今まで彼は、あまりの荷物の多さに、自分の荷物で寮の廊下をふさぐほどだったらしい。以前から、早くのかせと散々苦情を受けていたらしいのだが、全く改善されなかったので、ほとんど強制退寮の間際までいっていたという。


 つまり、このような広い3LDKの格安物件に巡り合えたのは、彼にとっては願ったりかなったりの素晴らしい話であった。


 そっかー、やっと広いところに住めることになってよかったね。


 って、いや喜んでいる場合か。


 それとこれとは話が違う。



「こんなカオス部屋、片づけられるわけないじゃない!」


松はいきりたった。



「やってやれねえことはねえ、お前のクビの上に乗っかているその丸い脳みそってモンに、ちょっとでも知恵がつまっているんなら、なんとか工夫して片づけられられるはずだ。それに」


カイ君は車のキーを片手に玄関に向かっていた歩みをピタリととめたかと思うと、後ろから追いかけてきた松の方向にくるりと振り返った。


「オレの部屋を二度とカオス呼ばわりすんじゃねえよ」


と、彼は怖い声を出した。


「カオスというならお前のいまの顔を鏡で映してみろよ」



「は?」



「兄貴が来るまで、そのブサイクヅラをなんとかしておけ」



「な?」



「いいか?ちゃんと忠告しておいたぞ。俺らがここに戻ってくるまでその顔とオレの部屋を見られる状態にしておくんだ」


そう言って、カイ君は部屋を出て行った。



 はあ?アタシの顔がどうだって??


 松は慌てて、洗面所に走って行って、自分の顔を見てみた。


 クマはあるし、目はうつろで視線はさだまっていないし、肌ツヤも悪くて、文字通りゾンビの様相を呈していた。


 やだ、あたしこんな顔してんの?


 慌てて顔を洗い、化粧でクマを隠し、その辺にあるドライヤーで髪を整えなんとか体裁を整えた。


 そして、部屋の掃除に取り掛かった。


 徳永さんの荷物だけだと安易に考えていたが、実質、ほとんどがカイ君の荷物だった。


 うっかりミスで人に世話をかけることがあっても、めったに自分から頼み事をしない徳永さんがなぜ、引っ越しの手伝いをしてほしいか頼んできたわけがわかったような気がした。弟の荷物を片づけてほしかったのだろう。



「・・・・・・」



 ものは考えようだ。


 その日、幸か不幸か、一日中、せっせと働かねばならなかったので、お蔭で余計なコトを考えずに済んだことを松は喜ぶことにした。


 ダンボールの中をあけては片づけ、あけては片づけ、畳んだダンボールが積み上がり、床に雑巾を掛け終わった夕方近くになって、やっとひと段落つくことができた。


 四度目の往復で荷物を下ろしに戻ってきたとき、カイ君が、


「次は兄貴と一緒に戻ってくるから、そうしたらメシでも食べに行こう」


と言いのこしていった。


 

 ああ、これでやっと最後か。


 カイ君を見送った後、一仕事終えてほっとしたのと、力仕事に疲れたのか、急激に眠気に襲われて、ちょっと腰かけたソファでうとうとしてしまった。


 昨夜あんまし眠れなかったもんな。


 ちょっとだけ、ちょっとだけこのまま、、、と思っている間に、眠気はますます深くなり、そこで松は寝入ってしまった。





 松は夢を見ていた。


 徳永さんと松はなぜか新婚の夫婦であった。


 松は台所に立って食事の支度をしていたが、上手に料理ができなくてヤキモキしていた。


 何度時計を見ても、夫はかえってこない。


 昨日も今日も帰ってこなかった。


 海外出張の後、二日間有給を取るっていっていたのに、もどってこなかったのだ。


 土曜日の朝に、やっと帰ってきた徳永さんに、松は詰め寄った。



『なんで?なんで帰ってこなかったの?有給とっている間、どこに行っていたの?神楽さんのところ?それとも元の奥さんのところにでも行っていたの?』



『だって、仕方ないだろ』


徳永さんはうるさそうに答える。


『お前は試験に受からなかったから、オレは日本に居る事ができなくなったんだよ。オレはすぐにニューヨークにもどらなきゃならない。だから、もう、お前とは一緒にいられないんだ…』



 そう言った徳永さんの顔は、相変わらずの表情を読めない鉄仮面であった。


 松と視線を合わすこともせず、部屋の奥にずんずんと入ってしまって、目の前でドアがパタンとしめられた。


 松はドアを叩き続けたが、そのドアが開かれることは二度となかった…






「花家ちゃん、花家ちゃん」


 

 遠くの方で自分を呼ぶ声がする。


 頭は冴えているのに、体が言う事を利かない。


 これは金縛りというやつであろうか。


 ウ~ン、ウ~ンと唸ること、数回、目を覚ました時は、冬だというのに、汗をびっしょりかいていた。



「あ、あれ?」



 目の前には、心配そうに見下ろす徳永さんの美しい顔があって、彼の手が松の左肩を優しく揺り動かしていた。


 松は体を起こした。どうやら知らぬ間に眠り込んでいたらしい。



「さっきまでよく寝っていたんだよ。いまちょっと、うなされていたみたいだから、気になって起こしたんだ。大丈夫か?」


心配そうに徳永さんが言う。


 

 松はキョロキョロと見まわした。体には柔らかい毛布がかけられてあった。



「あたし寝ちゃったんですね」



「今日は朝早くから、働いてくれたんで疲れて寝ちゃったんだろ。ごくろうさま。おかげですごくきれいになったよ。こっちに来て、食事でもしないか?」



 松が起き上がったのを見て安心したのか、徳永さんはいつもの柔らかなスマイルを浮かべて、食卓の方に手招きをした。テーブルには寿司桶が置いてあった。



「義己のヤツが待てないって言って、先食っちまったんだけど」


 なかを覗いてみると寿司桶の中身が少し減っている。帰ってきたら、一緒に食事でも行こうっていっていたのに、わたしが寝ちゃったもんだから、いけなかったんだな。それで出前をとったのか。



「すみません」


松は起き上がって、テーブルの方に歩いて行った。


「あ、あの、それでカイ君は?」



「車で十分ぐらいのところにショッピングセンターがあるんだ。そこに買い出しに行っているよ。さ、座って食事にしよう」



 松は寝起きの頭を抱えた。


 日中の頭の重い感じは少し寝たおかげで少しスッキリしたようだ。が、何か言うべきことを忘れているような気がする。



「花家ちゃん?」



「あのえっとですね、徳永さんの荷物はどんな風に分類しているかわからなかったので、本は高さ別にわけて本棚に並べておきました。スーツとかハンガーにかかっているものは、クローゼットにひっかけて、プラスチックの衣装ケースは押し入れにいれときました。あのそれと、カイ君の部屋は、片づけようがないというか、あまりスペースがなかったので、段ボールのなかのものを、そのまま押し入れにいれときましたけど、あれで、よかったですかね?」



「ああ、ありがと。さっきみたよ。押し入れもクローゼットもきれいに拭いてくれていてさすが花家ちゃんだね。それに、なんといっても、義己の荷物をあれだけきれいに押し入れにしまってくれたのはものすごく助かったよ」



 本当に、なんであんなに荷物が多いのかと不思議に思ってしまう。社会人である徳永さんより、なぜか学生であるカイ君の方が荷物が多いんだよね。



「あのそれと、カーテンが二組しかなかったので、東側の使っていない部屋には掛けられなかったんです。あそこ、天井にひっついているタイプのカーテンレールだから、丈の長いのじゃないとサイズが合わないと思うんです」



「ああ、花柄模様の壁紙の部屋?」


徳永さんは温めたお吸い物をお盆に載せて持ってきてくれた。


「まだカーテンを買っていないんだ。ちょっと狭いけど、あの部屋、窓が一番広くて居心地よさそうだろ?何色のカーテンがいいと思う?」



「?さあ?白地にパステル調の花模様の壁紙だから、白でもベージュでもグレーでも、ああ、草花柄とかでもいいんじゃないですかね?」



「そうだよな」


と言って、徳永さんはニッコリと笑った。


「今度、サイズを測ってカーテンを買いに行こう。その時、つきあってくれる?」



「え、わたしがですか?」



「あの部屋って、女性向だろ?女性の意見を聞いた方がいいと思って」



 女性向…。



「どう?」



「べつ…に、それはかまわないですけど」


と言いつつ、松の箸は止まっていた。


 

 徳永さんは嬉しそうにうなずきながら、寿司桶に箸を伸ばしていた。



 いやいやいや!



 松は、大きく首を横に振った。


 なんで“かまわないですけど”と言ってしまったのか。


 全然構わないことないじゃないか!十分構うだろ!!


 と、自分に向かって強烈にツッコミを入れた。


 女性向の部屋の窓に、女性のセンスで選んだカーテンを掛けると徳永さんは言っているのだ。



「あの…」


松は箸をおいた。



「うん?」



「徳永さん、ここでどなたかと、ご一緒に住まうご予定でもあるんですか?」



「どなたかって」


徳永さんは、何言っているのと、意外そうに目を見開いた。


「義己と一緒に住む予定だけど?」



「そうじゃなくて、カイ君以外に」



 徳永さんは首をかしげていた。



「義己以外といったら、花家ちゃんぐらいしか思い浮かばないけど?」



「は?わたしですか?」



「ほかに誰がいんの?義己は女を家に呼ばないって言っているから、ウチに来る女性は花家ちゃんだけだよ。あの部屋、備え付けのクローゼットもあるし、予備布団もあの部屋におくことにするから、いつでも来て泊まって行ったらいいよ」



「ままま待ってください、何でわたしが泊まるんですか?」


頭痛がしてきた。



「だから、前に言っていたじゃないか。この家、会社の帰り道の沿線沿いだから、金曜の夜にでもここによればいい。終わりの時間を気にすることなく、英会話の授業のしたい放題だ」



「英語の授業…」



「場末の飲み屋や蕎麦屋に立ち寄る必要もなくなると思うと、本当に気が楽だよ。これからは、家で鍋でもつつきながら、好きなときに英語の授業ができるぞ」



「そんなご迷惑をおかけするわけには」



「前にも言っただろ、迷惑だなんて、少しもない。むしろ花家ちゃんがウチに寄ってくれたほうがその方が好都合」



 だから~そんなわけにはいかないっつうの。



「そりゃ、表玄関から出入りすれば、二階に上がってゆくのを一階の連中に見られる可能性もあるかもしんないけど、ここは裏にもうひとつ入り口があるから、誰にもみられずに入ってこれるんだよ。そうだ、鍵を渡しておくよ、ほらこれ」


徳永さんはそう言って、ジャラリとした鍵の束から白く輝く銀色の鍵をひとつ取り出すと、松の手のひらを開かせ、そのうえに載せた。



「これでいつでもウチに来れるよ」



「無断で人さまの留守中に、わたし、あがれないです」



「キミはいいんだよ」


徳永さんは、鍵を付き返そうとしている松の手を上からそっと握りしめた。


「オレの方が遅くなる事が多いんだから、先にここにきて待っていてくれても」



 どうしてこんなに話がかみ合わないんだ。


 ふたりは無言で見つめあっていた。


 松の唇には、この三日間、彼女を悩まし続けていた”あの疑問”があふれ出しそうになっていた。


 あの話を聞くなら、今しかないのではないか?



「だ、だって、わたしなんかが徳永さんの家に上がり込んだら、ご家族の方によからぬ誤解が」



 思い切って告白したわりには、意外にあっさりとした顔で徳永さんは言った。


「家族?義己の事なら心配ないよ。アイツはもとからあの部屋は花家ちゃんがウチに来るときに使えばいいと勧めていたし」



「あの、ですからね、カイ君じゃなくて、ほかの」



「ウチの父親はとうに亡くなっているし、母親も再婚して遠方に住んでいるから誤解したり、余計な事を言って、困らせるような人間は近くにはいないけど?」



「いえ、そうじゃなくて、その」


 

 松は何で徳永さんは、こうもニブいのかと思った。


 仕事ちゅうはなんでもバリバリこなして難解不明な中国語も英語もなんでもござれで理解してしまうのに、どうして日本語の行間をこうも読むことができないのだろう?


 松は、意を決した。


 この質問をしたら、爆弾を自らに向かって投げつけることになるかもしれない。


 わたしはもう立ち直れないかもしれない。


 だけど、このまま、真綿で首を絞められるかのように、曖昧な認識のまま時を過ごすことなどできそうになかった。


 松は、口を開いた。



「将来、徳永さんの奥さんになられる方に、よからぬ誤解をされるのかもしれないから」



 その瞬間、寿司を掴んでいた徳永さんの箸がピタリと止まった。


 顔からも表情が消えた。


 あ、やっぱり地雷ふんじゃったかも。


 でもでも!!


 今日こそは、本当に今日こそは、真実を明らかにさせねばならない。


 松は意志を強く持って、徳永さんから視線をはなすまいと頑張った。


 徳永さんはエビの載った寿司をゆっくりと皿にもどすと、箸をおいた。


 そしてまっすぐとこちらを向いた。



「オレの奥さん?」


徳永さんはオウムのように繰り返した。



「徳永さんが結婚するんじゃないかって、そんなふうに聞いています。ニューヨークに戻らないって上に希望を出しているのも、そのためだって」



「聞いたって誰に?」


徳永さんは静かに尋ねた。



「神楽さんから」



「なんて言ってた?」



「なんでも徳永さんは、日本にくぎ付けになって離れられない女性がいるから、ニューヨークに戻る気がないんだって、その人と結婚するみたいだって。それで日本に戻ったままでいるつもりなんだって、そんな風に言っていました」



 しーーーん。


 沈黙が松の胸をますます強く締めあげた。



「そうか…」


徳永さんはそう言って、椅子の背に体を預けると、視線を松からはすし、背後の壁の方に移した。


 

 あのいつもの遠い目、なにを考えているかわからない、不安を掻き立てられるあの目。



「あ、あの、それは本当なんですよね?」


恐る恐る尋ねてみる。



「試験が終わるまで待つつもりだったんだよ」


と、彼はやがて口が開いた。


「試験が終わって、無事契約社員につける道筋が見えて来たら、正式にプロポーズするつもりだったんだ」


自嘲的ではあったが、フッと笑ったその顔が優しかった。



 松は瞬きを繰り返した。


 試験とか契約社員とか、それって徳永さんじゃなくて、全部わたしに関係することだよね?


 それって、今はわたしの面倒を見ることがあまりに忙しいんので、彼女とのケッコンすら話をすすめられないということなの?



「え?花家ちゃん??」


徳永さんは、一転して、ものすごく慌てふためき始めた。予測もなく、松が突然目を潤ませ、いきなり泣き始めたからである。



「わ、わたし、そんなに迷惑かけていたんですね」


ハンカチのような都合のよいものを持っていないので、パーカーの袖で涙をぬぐった。



「負担?べつにそんなに負担ではないけど?」


徳永さんは、松の泣いている理由がわからず、ものすごく動揺しているようだった。


「そんなこと全然ないよ」



「だって、徳永さんに結婚を延期させるほど、わたしの面倒を見る事が負担で」


松はそこまで言うと、ものすごく悲しくなって声をあげてワンワンと泣き始めた。


「そんなに迷惑かけているとは思いませんでした。わ、わたし、徳永さんから英語のレッスンを受けるの、もうやめます!」



「あ゛?」



「これ以上、負担になりたくないですもん…」



 いったん火が付いた子供が泣くのを止めないように、松はおいおいと泣き続けた。


 こんなに取り乱したところを見せたら、余計に困らせてしまうことがわかっていながらも、あまりに悲しくて、松は泣き続けることを止められなかった。



「わ、わかったから、もう泣かないで」


徳永さんは困じ果てているようで、ソファのところからティッシュの箱を持ってくると、数枚とって、洟が垂れそうになっている松の鼻にあてがった。


「ほら、チンして。涙も拭いて」



 松は言われた通り、涙もふいて洟もかんだ。


 だが、涙は後から後から流れるのを止めることはできなかった。



「う~ん、わかった!そんなに言うなら、こうしよう。だからもう泣くな」


徳永さんは決心したかのように、ガタンと立ち上がると、自分の部屋に行ってしまった。そしてすぐに小さなひとつの箱をもって戻ってきた。



「本当は、試験が終わるのを待ってからにするつもりだった。いや、斎賀さんからOKをもらえれば、すぐにでもプロポーズするつもりだったんだ」



「そうだったんですか」


そうか、そんな予定になっていたのか。何にも話してくれなかったから、知らなかったよ。



 徳永さんは松の向かい側の席ではなく、右隣の椅子に座ると、強引に松の体をこちらに向かせた。



「花家ちゃん、こっち向いて」


真面目な声で話しかけられる。断頭台に自分の首が乗っているときって、こういう気分なんだろうか。


「これから言う事をよく聞いてね」



「…ハイ」



 徳永さんは、両手で松の両手をそっと包んだ。


 何が始まるのだろうか。


 わけがわからず、彼の言う通りしていた。


 彼は、松を眼前に据え、すうっと息を吸い込んだ。


 珍しく徳永さんが緊張しているのが、松でもわかった。



「花家ちゃん、いや、(ショウ)、僕と結婚してくれ」


と、彼は一息に言った。



「へ?」



「いや違うな。オレと結婚しよう、結婚するんだ」


と、彼は言い直した。



「????」



「返事は?」



「ほへ?」



「ほへじゃない。へんじだよ、へ・ん・じ!」



「へんじ?」


松はぼんやりと言った。


 

 ケッコンしてくれって、これってプロポーズってことよね?



「あの、わたしに言っているですか?」



「当たり前だろう。この部屋に他に誰がいる」



「じゃ、本当にわたしにプロポーズしているんですか?」



「さっきからそう言っている」



 涙なんて引っ込んだ。


 そのかわり驚きのあまりに目玉が飛び出しそうだ。



「あの、返事って、何て言えばいいんですか?」



「そりゃ、はい、とか、イエスとか、あなたと結婚しますとか、あなたについ行きますとか、そんな風に言うもんじゃないの?」



 なんか、今の例、肯定の答えばっかりじゃん。



「・・・・・・」



「松、返事は?」



「あ、えっと」



「面倒だな」


と、徳永さんはブツっとつぶやいた。


「まだ寝ぼけていてんの?オレと結婚するのと、しないのと、どっちがいいか今考えてご覧?」



「?」



「オレと結婚するのか、ほかの誰かと結婚するのか、それとも、ひとりで一生すごすのか、想像してみてくれ。どれが一番いいのか、選んでみろよ」



 徳永さんと結婚する…?


 徳永さんでない男の人と結婚する?


 それとも一生独身ですごすのと、どれが一番いいかと尋ねられれば、そんなのひとつにきまってんじゃんか。



「…徳永さんと結婚するのが一番いいです」


と、松は頭に浮かんだことそのまま口にした。



「そりゃよかった」


ニッコリ。



「オレと結婚してくれるね?松」



「え?あ、はい」



「してくれるね?!」



「ああ、はい」


 

 あれ?



 彼は、白い箱の中にある、ベルベット調の黒い箱をパコっとあけて、何やら光るものを取り出した。そしてそれを、松の薬指にグイと嵌めた。



「これって」



「うん、サイズもぴったりだったな」



「・・・・・・」


 

 真っ白に輝くキョウレツな光が、なんとも目にまぶしい。


 これって婚約指輪ってヤツ?



「よかった」


再びニッコリ。



「…よかったんですか?」



「そりゃそうだろ?好きな女の子と結婚できるんだから、よかったに決まっているじゃないか。花家ちゃんはそうじゃないの?」



「え?は?うれしいですけど…?」


なぜか語尾があがる。好きな女の子って私の事なんだろうか。


「あの」



「何?」



「あの、これって、わたし、徳永さんと結婚するってことですよね?」



 徳永さんはガクっとうなだれた。



「花家ちゃん、ショックでどうにかなっちゃったの?それともやっぱりまだ眠気が覚めていないのか?景気づけに一杯飲む?」



「あの、徳永さんが結婚しようと思っていたのって、わたしだったんですか?」



「ほかに誰がいんの」


アッサリと言い放った。


「そういう対象でなかったら、家に招いたり、部屋を用意したりするわけないだろ?」



「はあ」



 そういわれても松は、自信なかった。


 だって、どうしてこれが現実だと言えるのか。




「ただいまー」


 

 その時、玄関の扉がガチャンと開く音がして、派手な足音がリビングに近づいてきた。


 カイ君がスーパーの買い物袋を両手に部屋に入ってきた。


「はい、これ頼まれていたもの全部。トイレットペーパーに洗剤に、石鹸に、歯磨き粉に、新しい掃除用具」



「ご苦労さん」


そう言って、徳永さんは立ち上がって、弟から買い物袋を受け取った。


「頼んだもの、全部あったか?」



「あ、何だっけ?兄貴の愛用のシャンプーだけ売り切れていたから、買えなかった。来週には入荷するって言ってたから、今度にしてくれや。あ、それと」


そう言ってカイ君は、一冊パンフレットをバサっと食卓に置いた。


「これ、カーテンのカタログ。店においていたから取ってきた」



「おお、サンキュ」


そう言って、徳永さんはパラっと中をめくるとハイと松に手渡した。


「さっき言っていた部屋のカーテンだよ。好きなの選んでいいよ」



「わたしがですか?」



「ほかにだれがいんの」


カイ君が横から口をはさんだ。


「オレ、あんな悪趣味な部屋に住むのごめんだから、お前が使えばいいじゃん。ってかその指輪、兄貴やっと渡したのか?」


彼は松の左薬指に輝くダイヤの指輪に気が付いて、しげしげとそれを眺めた。


「買ってから長かったよなー」



「うるさいよ、余計なコト言うな」



「へいへい」


そう言って彼は、買い物したものをあちこちにしまい始めた。



「さ、花家ちゃんさっさと食べちゃって」



「え、ああ、はい」



「早く食べて少しでも英語のレッスンをしよう」



「はい」


松は手に箸をもち、左手で吸い物の椀を持ったが、指輪のおかげで心なしか左側が重い様な気がした。





<43.「障害はなくなった」>へ、つづく。

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