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41.周囲の思惑③

41.周囲の思惑③



 徳永さんは、なかば松を引きずるように居酒屋から連れ出した。


 五分ほど歩いたところに路駐してあった、ついこの前買ったと言っていたあの例の車の助手席に松を乗せ、無言で車を発進させた。


 なんだろ、なんでそんなに黙ってんの?


 怒らせるようなことしたっけなあ。


 理由を問いただしてやろうと運転席の方にぐるりと向いてみたが、思いっきりおっそろしく機嫌わるそうな仏頂面で、前ばかりを見ている。(運転しているので当たり前なのだが)



 危うき君子に近寄るのはやめておいたほうがいいかも。


 だまっとこ。


 しばらく車内はエンジンの規則正しい音で満たされていたが、たまりかねたように徳永さんのほうから口を開いてきた。



「水曜日は英語のレッスンデーだって忘れていたのか?」



「あ」



 忘れていた。


 そうなのである。毎週水曜日は、どうしても避けられない仕事は別にして就業後は英語を頑張る日にしましょう、と二人で取り決めていたのだが、さすがにこの日はしないだろうと念頭になかったのだ。



「す、すみません、忘れてました」


いきなり平謝り。



「携帯に電話してもでないし」



 松は慌てて、電話を見た。着信記録が三件もはいってる。うわ、やっちゃった。



「それに、オレの居ない間に、なに引き抜きにあってんの」


徳永さんはハンドルを切りながら、思いっきり不満そうに言う。


「家成さんに誘われたんでしょ?」



「なんでそれ知っているんですか?」


驚いて徳永さんの方向に向いて言う。



「さっき、ここに来る前に残った仕事があったんで、オフィスに寄ったんだよ。そしたら家成さんとばったりでくわして。その時、これから花家さんを兄の会社に引き抜こうと思っているんだけど、口説いてもいいかなって、いきなり聞いてきたから」



「は?」


松は間の抜けた声を出した。


「な、なんで家成さんが、徳永さんにそんな事言うんですか?」


どういうことだ。わたしを引き抜くのに、なんで徳永さんの許可がいるのよ?



「はぁ?当たり前だろ!」


雷のような鋭い口調で降ってくる。


「キミは今、親会社に転職しようとしているんだろ?社内試験を合格できるように頑張っているんだろ?そのためにオレが、英語を教えているんだろ?そんな事は周知の事実じゃないか!」



 オレの許可がいるのは当たり前だろ、っていう口調。



「はあ、まあそうですが」


そうなんだけど、そりゃそうなんだけど、でも、こんな風に怒鳴りながら言わなくってもいいじゃないのよ。怖いなあ。



「で、断ったんだろ?」



「え?」



「だ・か・ら!家成さんの誘いを断ったんだろって言ってんだけど?」



「い、いえ、それはまだ」



「なんで断らないの!」


徳永さんは、車をいきなり路肩にとめると、ブレーキをかけた。そして、ハザードランプをつけ、ぐるりとこちらに向くと、


「いったい、どういうつもりんなんだ!!君は転職したいのか?」


と、叫ぶように言った。



 わかりました。聞こえてますから、そんなにツバ飛ばさないでくださいよ。



「ち、ちょっと待ってください、徳永さん、落ち着いて。どうしてそんなに怒っているですか?」



「別に怒っていない!」



「怒っていますよ!額に青筋経っていますもん」



 徳永さんは、後悔したように少し表情を和らげた。が、ㇵの字になった眉が少し寂し気だった。



「しかも、なんで天野までその話を知っているんだよ。さっき、あいつからも転職を勧められていたじゃないか」



 めちゃくちゃ腹立たしそう。


 あの話、聞かれていたんだ。



「あれはたまたま、あの場所に天野さんがいただけで」


そうだよ、あの人が、勝手に聞いていただけで、わたしが話したんじゃないし。



「転職するっていう事は、今までの努力を全部無駄にするということなんだぞ?わかってるの?」



「わ、わかっています」



「じゃ、なんでそんなに隙ばかりなんだよ?」



 ハーっと深いため息をついたかと思うと、徳永さんは残念そうに目の前の向いてしまった。松は胸が苦しくなった。きっと失望させてしまったに違いない。



「あの、最初はすぐに断ろうと思ったんです。でも、返事は今じゃなくていいって言われて強引に名刺をわたされて。それに、ウチの会社のワークシェアリングの話を持ち出されたもんだから、なんか強く断れなくなってしまって」



 ピクリと徳永さんの顔が揺れる。



「ワークシェアリング?何それ」



 松は、ついこの前、天野さんから松の子会社にワークシェアリングの話を聞かされて、ここ数日不安に感じていた事を徳永さんに話した。



「ワークシェアが導入されたことで将来自分が用なしにされる可能性を引き合いに出されて、転職を考えないかと言われて、強く断れなかったんですよ」



 ぐだぐだと松の言い訳が続く。


 が、徳永さんはみるみる顔色を変えて行った。


 ひえ~~!また青筋たってるし!!



「どうして今までその話をしなかったんだ?!」



「え?」



「あれほど“何か変わったことないか”って聞いたのに、なんであの時言わなかったんだよ!!」



「だ、だって、これは、わたしの個人的な事だし」



「でも、天野には相談していたんだろ?」



「まあ、そうですが」


だって、情報を持ってきてくれた人だし。聞いてくるし。



「なのに、何でオレには言わないんだ?」



「だって、お忙しい出張中に、わたしの事なんか、わざわざ耳に入れる必要はないと思ったんです。本当にそれだけですよ」



 徳永さんは、松のその言葉を聞いて、思いっきり両目を見開いた。


 その顔は驚愕とともに、ものすごく落胆していた。



「クソッ」


徳永さんは、急に黙り込むと、チっと舌打ちをして前を向いてしまった。


 

 松は呆気にとられ、ハンドルに腕を預けて超不機嫌に小刻みに指打ちを始め、拗ねモードに入ってしまった徳永さんを眺めた。




 しぃーーーーーーん。


 ついに、徳永さんはハンドルに顔をうずめ、動かなくなってしまった。


 なんで?


 なんでこんな風になっちゃうの?



「と、徳永さん、帰りましょうよ」


あまりにも無反応になってしまったため、心配になってきた松は、徳永さんの耳元に向かって話しかけた。こんな交通量の多い路肩で車を止めっぱなしでいいわけがない。


「こんなところに車停めていたら、迷惑ですから、出しましょうよ、ね?」



 だが、全く反応がない。


 いったいどうしたんだ。


 何がしたいんだ。


 いったい何に腹を立てているのかわからない。


 松はだんだん腹がたってきた。何ひとりで怒ってんのよ。



「あの、クソって、どう意味ですか?それ、わたしの事ですか?」


いきなり松は言い始めた。


「それに、わたしばっかり責めますけど、徳永さんだって、だまっていたじゃないですか?」



 置物のように固まっていた徳永さんの体が、熊のようにむくりと起き上がる。あ、動いた。



「あ゛?」


鈍い声で返事が返ってくる。



「徳永さん、出張に出る前に、会議で自分はニューヨークに戻らないつもりだって宣言したそうですね」



「なんで知ってんだ?」



「何言っているですか。フロアーじゅうの人みんな知っていますよ。五年以上海外に居たから、三年は日本に帰れる組合の権利を行使するつもりだって言ったそうじゃないですか」



「それは、別に決まった話じゃない。まだ承認されていないし、どうなるかわからないのは以前と同じだけど?」


と、彼は何でもない事のように言った。それが松のカンに触った。



「ああそうですか。わたしだって、ワークシェアリングの話だって、まだ決まった話ではなくて、話す必要はないと思っただけですけど?」


こっちも開き直ってやる。



「ふぅーん」


徳永さんの、片眉がぐいとそり上がる。また不機嫌度があがってきたぞ。


「だけど、ワークシェアリングの話は、転職話に大きく関わってきているじゃないか。話す必要ない事じゃないだろ」



「その時は、まだ転職の話なんてなかったんです!家成さんにはついさっき言われたばかりだし」



「だから言っているんだよ。何が起こるかわからないんだから、こういう事は早めに報告してくれなくちゃ困るよ。オレ、何も知らされずに、今日は、出張帰りでフラフラになっているのに、家成さんから“花家さんを引き抜いていいか”っていきなり尋ねられて事情がつかめず困ったんだけど?」



 そんな風に言われても…


 だいたい家成さんがわたしに転職話を考えているなんて思いもよらない事だったし、それを徳永さんに報告しなくちゃならないなんてまったく思いつきもしなかった。


 でも、徳永さんものすごくイラついているし。


 わたしのせい?


 そんなことないと思うんだけど。


 いやいや、やっぱわたしが悪かったのかな。


 だんだん、自信なくなってくる。



「花家ちゃんは、だまっている事が多いから」


徳永さんはグチグチと言い始めた。


「ギリギリになるまで、肝心な事を打ち明けない事が多いでしょ。実はこうでしたっていう話をいきなり聞かされることになるのは、もう御免なんだけどね」



「え?」



「まだ、オレに隠し事してないだろうね?」



「べ、別に隠し事なんてわたしは」



「本当か?」



「敢えて徳永さんに隠している事なんて何もないですけど」



 なんか前にも同じような言い合いになったことあるよな。


 ギリギリまで黙っていたことって何の事だろう?


 以前、桜の木の下で、母親の事を徳永さんに話したときに彼の態度が急変したときの事が思い出されて、松の胸は、ぎゅっとしめつけられた。


 彼を失望させるような事は、早く報告するべきで、ギリギリになって言うなと言っているのだろうか。



 しばらくの沈黙ののち、徳永さんは体を元に戻し、ギアを戻して車を発車させた。


 車は国道の上をなめらかに走り始めた。街のネオンや街灯が流れるように二人を横切って行く。




「せっかくの時間がもったいないから、少しやろうか」


そう言って、徳永さんは減速させた。そして、とつとつと英語で話し始めた。


 

 彼はこういう人だった。


 いつも、決めたこと、やると約束したことは、絶対に違えなかった。


 やるといったことはいつも約束を守ってくれたし、どうしてもできない時も守る努力をしてくれる人だった。


 今日だって、出張帰りで疲れているのに、わざわざ車を飛ばして松を迎えにきてくれたのだ。



 松は、彼の横顔をぼんやりと眺めた。



 徳永さんって本当にいい人だよな。


 彼のような外見も内面も素晴らしい人が、なぜ松のような取柄のない、凡人を絵に描いたような人間の世話を焼きたがるのだろうか、興味を抱くのだろうかと単純に不思議に思った。



 帰るまでの三十分ほどの間、ふたりは英語で会話をし続けた。


 出張先でどうだったか、天気の話、人込みの話、交通の話など、他愛のない会話が続いた。


 車は知らぬ間に松のアパート前に到着していた。



「明日、明後日は有給を取っているんだ。レッスンはできないけど」


徳永さんは言った。


「土曜は引っ越しの予定なんだ。手伝いに来てくれるよね?」



「ああ、仰っていましたね。もちろんです、伺いますよ」


普段お世話になっているんだもの。これぐらいお安い御用。



「作業が終わって余裕があったら、また時間とってレッスンをしよう」



「ありがとうございます」


と言ってから、松はちょっと気が付いた。


「よかったら、明日明後日も、お手伝いに行きましょうか?」



「へ?」



「引っ越しの荷造りとか掃除とか、まだできていないんじゃありません?」


松は、彼が明日明後日、有給をとったのは引っ越しのためだと思ったのだ。



 徳永さんは目をぱちくりさせていた。



「手伝いって、オレの家に?」



「ええ、部屋の片づけとかよかったら手伝いますよ?残業せずに会社が終わってすぐに出たら、寄れると思うし」



「いや、いらない」


はっきりとした返事が降ってきた。


「荷造りなんて、大袈裟にするほど荷物ないんだよ。必要ない」



「…あ、そうですか」


あまりにも、きっぱりと即答されてちょっとガッカリしてしまった。


「そ、そうですよね。せっかくのお休み、ゆっくりしたいですよね」



「違うんだよ、明日明後日は、遠方に行かなきゃいけない用事があるんで、家は留守にするんだ」



「え、お仕事ですか?」



「仕事だったら有給とるわけないだろ。私用で…」


と言って、そこまで言って徳永さんは言葉を濁してしまった。


「それはどうでもいいよ。とにかく、英語のレッスンができないのは、残念だ。明日も明後日も、本来やった方がいいんだろうけど」



「いえそんな。私の事なんかでお休みの貴重な時間を煩わせるの悪いですし…」



「時間なら、とっくの昔から、煩わされている」


と、また、徳永さんの冷静な声が降ってきた。


「それに、何悠長な事言ってんの。オレがいない十日間、サボっていたでしょ?そのぐらいすぐにわかるんだよ」



「・・・・・・・」



「バレてないと思っていたのか」



 確かにさぼっていたけど、お見通しだったとは。



「いやあの、隠していたわけではなくて。あの実は」



「ん?」



 さっきから、何で言わなかったんだ、って責められてしまったので、これも言った方がいいのかなと思いながら、松は恐る恐る口を開いた。



「実はですね」



「何びびってんの、言いたい事があれば、ちゃんと言って」



「実は、簿記の点数が落ちてしまって」



「は?」



「年明けに、一度簿記の過去問を解いてみたんです。そしたら、思いっきり下がっていて。徳永さんがいない間、簿記の勉強をしようと思いつつ、英語も貿易もしなきゃという気持ちもあって、なんだかんだと、勉強が手につかなくって」



 あ。徳永さんの眉間の皺が増えていくよ。



「・・・・・・・」



「す、すみません、英語だけでなく、ほかの教科の点数まで落としてしまって」



「花家ちゃん、最近、何か悩みを抱えているの?」


徳永さんはいきなり言った。



「は?え?いえ、別に」



「何か気にかかることがあるから、勉強に身が入らないの?そりゃ、ワークシェアの話や、転職の話なんて持ちかけられたら、気になるのは仕方ないと思うけど、それだけじゃないんじゃない?」



「べ、べつに、ありませんけど。それに、ワークシェアの話は結局はわたしの所属部署は対象ではなかったですし、転職の話は今日聞いたばっかりですし」



「ならいいけど、今度何かあったら、オレに先に相談してよ」



「あ、はい」



「頼りにならないかもしれないけど、できる限り相談にのるから、何でも言えよ」



 相談?


 なんでも?


 仕事の事でっていいう意味じゃないよね?


 プライベートのっていう事?


 ああ、そうか。馴染みのある先輩、と言う立場で言っているんだよね。



「はい」



「じゃ、土曜日に車で迎えに来るからよろしく」


そう言って、その後、松は徳永さんの車から降りたが、本当は気にかかっているもう一つの事、徳永さんが神楽さんと大喧嘩をして、ほっぺに手の後がくっきりと残るぐらいひどくぶん殴られたことを、最後まで自分から話してくれなかったよなあと、そんな事を考えながら彼の車を見送った。



 翌日の木曜は、わりと静かに過ごせた。


 但馬さんが休みで、珍しく後ろのシマから呼び出しがなかったし、徳永さんがいないからだろうか、神楽さんの話声もあまり聞こえてこなかったからだ。


 年始からおかしかった神楽さんの機嫌はだいぶ収まっているようで、部署の人達にもいつも通りに接しているようだった。



(神楽さん、徳永さんと仲直りしたのかな)



 ニューヨーク出張は、徳永さんと神楽さんは一緒だったらしいし、ずっと険悪なままじゃ、仕事にならないもんね。



 そんな事を考えながら仕事をしていたら、あっという間に時間が終わってしまった。


 今日ぐらいは早く帰ろうか、でもって勉強もしなくちゃ。


 カバンを持ってお疲れさまと言おうとしたとき、


「花家さんちょっと」


と、後ろの席の神楽さんから声をかけられた。



「はい?」



「ちょっと、話があるの、こっち来てくれないかな」


近くの会議室を指さして、こっちこっちと、話ををしようと彼女に呼び止められる。


「すぐにすむから」



「なんでしょう?」



 二人して会議室に入ると、部屋はカラだった。


 パタンをドアをきっちりと閉めて、神楽さんと向かい合った。


 ?何の話だろ。



「単刀直入に聞くけどさ」


神楽さんは、じっと松の目を見下ろしながら、静かに尋ねた。


「花家さん、徳永君と結婚するの?」



「・・・・・・は?」


何を言っているのかわからず、松は目をまるめた。


「は?誰と誰がですか?」



「だから~花家さんって、徳永君と結婚する予定があるのかって聞いているんだけど!」



 なにをいきなり聞いてくるかと思ったら。



「え?いいえ???」



「それ、本当?」



「え?あ、はい」



「本当に、徳永君と結婚する予定ないのね?婚約の予定もないのね??」



「え?あ、はい」


何を知りたいのかな、この人。



「ぜんっぜんっ、ないのよね???」


確認するかのように尋ねる。



「…ぜんぜんないですけど。どうしたんですか、神楽さん」



 神楽さんは、ものすごく難しそうな顔になって腕組みをした。


 なんか、見当ちがいかっていう顔になっている。



「花家さんはハズレか~」


と、彼女は唸るように言った。



 ハズレ?



「ね。花家さんも聞いているでしょ?徳永君、今さ、ニューヨークに戻らないってダダこねて、日本に残るって言い張っているんだよね。斎賀さん直々に徳永君に一緒にニューヨークへ戻ってもらいたいって言われているのに、絶対イヤだって今回ばかりは首をタテに振らないのよ。いったいどうしたのよって、この前、問いただしたら、どうやら日本で結婚する予定があるような事をにじませたんだよね」



「は?ケッコン?」



「前から、心に決めた人がいるって言っていたけど、まさかその女のために日本に残ると言い出すとは思わなくてさ。だってさ、ニューヨーク行の話を断ったら、出世コースから完全に外れるのよ?それをわかっていて断るだなんて!女がいるんなら、結婚したらいいじゃない。結婚して相手を一緒に連れて行けばいいだけの話でしょ?それができないっていうのは、相手が、日本に固定されて動けない女なのかと思ったわけなんだけど」



 松は、今の話をじっと耳を澄ませて聞いていた。


 徳永さんが結婚する…?



「あ、あの、神楽さんから見て、わたしって、日本に固定された女なんですか?」


松はとりあえず思っている事を素直に尋ねてみた。



「だって社内試験受けて親会社の契約社員になろうとしているんでしょ?結婚するんで今更やめますって言えない立場でしょう、花家さんは」



「それはそうですけど」


松は頭を抱えた。


 

 そもそも神楽さんの目から見て、わたしって徳永さんとそういう関係に見えるのかな。


 わたしに言わせりゃ、神楽さんこそ、徳永さんは婚約間近に見えるのに。


 神楽さんは、困惑顔の松の顔の前に、自分の頭をずいと寄せた。



「本当に、徳永君とはそういう関係じゃないのよね?」


神楽さんは念を押す。



「もしそうだったとしたら、どうするんですか?」



「徳永君に日本に引き留めることを止めさせるように説得したかったの。ここで斎賀さんの手から離れたら、せっかくキャリアを棒に振ることになる。そんなもったいない事を、指くわえてみてらんないわよ」



「と、徳永さんは本当に、結婚するって言ったんですか?」



「言いはしないけど、言ったも同然よ。だって、大切な人と離れたくないって言っていたから」



「それは本当ですか?」



「やっぱり、花家さんじゃなかったんだ」


ハーっと神楽さんは深いため息をついた。


「もしその女のために、ニューヨーク行を思いとどまろうとしているんなら、徳永君も女の見る目ないと思わない?本当なら、女の方が旦那の立場を思い遣ってニューヨーク行を勧めるのが普通でしょ?それをどうしてそんな」


神楽さんは心底残念そうだった。


「わたしだって、こんな急に言われたって、心の整理つかないし」



 心の整理?



「あ、あのもし、徳永さんがニューヨークに行かなかったら、神楽さんが代わりに行くことになるんでしょうか」



「おそらくね」


彼女は言った。


 

 彼女は乗り気ではなさそうだった。やはり、家庭の事情なのだろうか。



「花家さんもそう思うでしょ?」



「え?」



「徳永君の事よ。女のためにニューヨーク行を断るだなんて、バカだと思わない?何のために今まで頑張ってきたのよ?」



 松は答えられなかったが、かわりに質問してみた。



「じゃ、神楽さんが引き留めたらいいじゃないですか。神楽さんって徳永さんと食事を作りあうぐらい仲いいんでしょ?神楽さんの言う事なら耳を貸すんじゃないですか」



「耳を貸すぐらいなら、殴ったりしないわよ」


神楽さんはグーパンチを真似してペロリと舌を出す。


「この前、あんまりにも頑固にこっちの言う事に耳を貸さないから、頬をぶん殴っちゃったわよ」



 やっぱりそういう事情だったのか。



「前に、花家ちゃんが徳永君を殴ったのを見ておかしくって笑ってしまったことがあったけど、あの人、本当に頑固で言う事聞かないよね~殴りたくなる気持ちがわかったよ」



「はあ、そうですか」



「ごめん、引き留めて。変なコトいってごめんね」


松が困惑しているのをようやく気が付いて、神楽さんは言った。



 責めるべき対象ではないと期待が外れて、だいぶ残念そうだけど。



「いいえ」



 ふたりは会議室を出た。


 神楽さんは席に戻り、松はカバンを持ってコートを取りにロッカールームに向かった。


 ロッカー室には南田さんがまるで、松が来るのを待ち構えていたかのように、腕組みしてこちらを見ながら立っていた。



「さっきの話、聞いちゃったわよ~」


南田さんが言った。



「南田さん、立ち聞きなんて行儀が悪いですよ」



「何言ってんのよ~神楽さんが嫌に神妙な顔して花家ちゃんを会議室に連れ込んじゃったから、今度はあなたが殴られるんじゃないかって、心配でドアの外で待機していたんじゃない」



 本当かな。好奇心の方が強そうな顔になっているけど。



「彼女、花家ちゃんにカマかけたね」


彼女は言った。



「え?」



「徳永さんの相手は、花家ちゃんだって思っているんでしょ。だから、結婚の話を持ち出してどんな反応になるか見てみたかったんだよ」



「あの、南田さんも何か誤解しているようですけど、わたし誰とも結婚どころか婚約する予定だってありませんから」



「うん、わかっている。だけど、どこまで話が進んでいるのか、神楽さんも知りたかったんだよ。徳永さん自身は何も語ってくれないし、ゴハン作りあう約束は解消されてしまうしさ」



「え?」



「ほら、神楽さん、年始早々機嫌悪かったでしょ?どうやら、年の瀬の休みの間に、徳永さん、引っ越しするとかで、神楽さんから借りていた車を返されて、そのうえ、これからはゴハン作りあう事もできないって言われちゃったらしいんだよね。それで相当落ち込んでいたみたいで。あ、花家ちゃんやっぱ徳永さんが引っ越しするって聞いても驚かないんだね」



「ああ、それは本人から聞いていたので」



「やっぱりね~」


南田さんはニヤニヤしている。



「何がやっぱりなんですか?」



「神楽さんは、徳永さんを失うんじゃないかって気になって仕方ないんじゃない?」



「そうでしょうか?だって、彼女、徳永さんのことは、誰と結婚してもいいけど、それなら一緒にニューヨークに行けばいいのにって言っていましたけど?」



「だから~それがカマだっていうわけよ。徳永さんが誰かと結婚する可能性をニオわせて、花家ちゃんの反応を見ようとしていたのよ」



 そうかなあ。南田さんの方が、考えが先走っているような気がするけど。



「南田さん、想像しすぎですよ」


松は言った。


「それにしても、南田さんの情報網も相当ですね。車の件といい、朝ごはん作りあうのを止めたとかいう話とか、それ、誰に聞いたんですか?」



「あ?わたしの情報はほとんど鈴木さんだよ。徳永さんが神楽さんの機嫌を損ねたって話を、鈴木さんに愚痴っていたって耳にしただけ」



「はあ」



 鈴木さんと徳永さん、同期で仲いいみたいだから何でも話しがツーツーなんだろうな。


 ってか、ここまで繋がっているのわかっているんだろうか。



「花家ちゃん」


南田さんは言った。


「実のところ、どう思っているの?」



「え?」



「徳永さんが結婚するらしいって話を聞いて、どう思っているの?そんなに平気な顔していられるのは、何とも思っていないから?それとも」


彼女は一呼吸置いた。


「本当は、徳永さんとは結婚の約束をすでにしていて、安心しているから?」



「わたし、誰とも結婚の約束はしていないし、徳永さんからも結婚するだなんて一言も聞いていません」



「本当に?」



「本当です」



 それは本当のことだ。


 昨日の夜遅くまで彼と一緒だったが、そんな話を一言も彼は口に出さなかった。



 松は、ロッカーからコートを取り出しマフラーを身に着けると、そのまま家路についた。


 そして、部屋に入り、暖房で部屋を暖め、夕食の準備に取り掛かった。


 冷凍ゴハンを解凍して、適当な缶詰を選んで暖める。もらった食料を消費するために、最近はひたすら缶詰を食べている。


 缶詰は本当は好きじゃない。


 やたら味が濃くて、素材の味なんてしないし。


 それに、今日はどういうわけかしょっぱさが先に感じられるのは気のせいだろうか。



 お茶碗を手に持ち、缶詰のオカズを口にいれながら、熱いお茶を口に含む。


 どうしたのだろう。


 お茶さえも塩味がしてしまうのは、わたしの味覚がおかしくなってしまったからなのだろうか。


 早々に食事を終えて、風呂に入り、英語のテープを聞くのも、簿記のテキストを見るのもやめて、松は布団にもぐりこんだ。


 そしてようやく、布団に顔を押し付けて、松は、思い切り泣いた。


 何が悲しのかわからなかったけど、どうしても、気持ちが昂って抑えられなかったのだ。



 徳永さんが結婚してしてしまう。


 わたしではない他の女と結婚してしまうのだ。


 その事を考えただけで、胸がえぐられるように辛く、二度と立ち直れないような気持がした。



 翌日の金曜、腫れた瞼を冷やすことなく松は出社した。


 恐ろしくブサイクで憔悴しきった松の顔を見たときの神楽さんの驚いた顔や、同情するような南田さんの眼差しをうっとうしく感じながら、黙々と仕事をこなした。


 もはやカラ元気も出なかった。


 明日は彼の家に行って、引っ越しの手伝いをしないといけないのに、どんな顔でいったらいいのかわからない。


 徳永さん、結婚するんですね、わたしには隠し事はなしにしてくれと言ったのに、どうして徳永さんは自分の結婚の事を黙っていたんですか?


 と、どうやって問いただしてやろうと、一日中頭の中でグルグルと考えていたが、いざ本人を前にしたらそんなセリフは、根性なしの松の口から出てくるはずはない事も松はわかっていた。



 態度のおかしな松に、その日、誰も話しかける者はいなかった。


 唯一、松に食らいついて離れなかったのは、後ろのシマの天敵である但馬さんだけだった。



「だから、あのデータ、ちゃんと計上できているんでしょうね?できていなかったら、クビだからね?」


 

 社長でもないのに、エラそうにクビクビと喚きたてる毒蛇のような女に、松は、氷のような態度で彼女に応えた。


「この前から何度も調べて、わたし、ちゃんと計上されているって言っていますし、OP表もマル印をつけてわたしていますよね?この表を見て、どうして計上されてないって疑うんですか?」



「こんなOP表、わたしは知らないわよ!」


彼女は鼻息を荒らげて息巻いた。


「ロンドン店がちゃんと計上したのかって、何度も尋ねてくるから聞いているんでしょ!!確認するのがあなたたちの役目じゃないのよ!」



 何度も同じやりとりに辟易してくる。


 松はあの日の出来事を昨日の事のように思い出せる。


 神楽さんの


「徳永君と結婚するの?」


と、松に詰め寄ってきたときのあの顔。南田さんが、


「本当のところはどうなの、徳永さんが結婚するかもしれないって平気そうに見えるのは、本当は結婚がきまっているから?」


と言ったときの好奇心いっぱいのあの口調、そして、但馬さんの、がなり声を張り上げて自分の無知を棚にあげ、他人に責任押し付けようとするあの厚かましいあの態度。



 バラバラに見えたそれぞれの事象が、意味をなしたひとつの出来事、ひとまとまりの記憶として蘇る日が来るとは、松はこのとき、露とも想像していなかった。



 徳永さんに会いたくない。


 会って彼の口から絶望する言葉を聞かされるぐらいなら、死んじまったほうがいい。


 本気でそんなことを考えていたのは、松が、彼の口から二度目のプロポーズの言葉を聞かされる前の日のことだった。




<42.二度目のプロポーズ>へ、つづく。




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