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3.仕事と恋

3.仕事と恋



 会社近くのシアトル系コーヒー店。


 千歩は外回りが多いので、一緒に食べられるときは、なるべく外ランチを楽しむことにしている。桐子がいなくなって、千歩と一緒に外ランチに行く機会が増えた。



「瀬名さんが経理課に異動になったんだってね?」



 通りに面したガラス前のテーブルカウンターの椅子にふたりして腰かけて、千歩がメキシカンチキンサンドを美味しそうに頬張っているのを、松は横目で眺めていた。



「そーなんだよ、いきなりでしょ?びっくりしちゃってさ」


と、松は答えた。



「で、うまくいっているの」



「うまくいっているって言えば、いっているけど」


松はエビカツサンドをかじった手を止めて言った。


「最近仕事が増えてさぁ…」




 そう、トクミツ氏と、乙部さんが経理課の仕事からはずれ、課内の秘書的な仕事は全て松に振られるうえに、新しくやってきた瀬名さんにあれやこれやと、細々としたことレクチャーしつつ、その上、トクミツ氏がこれまでやっていた仕事の半分以上を松がチェックしなければならなくなって、てんてこまいな状況に陥ってしまったのだ。


 その上、従来までの松の仕事内容はまったく変わっていないので、松の仕事量は一気に倍に膨れ上がってしまったのだ。



「ちょっと待ってよ」


訝し気に千歩が言う。


「なんでショウが、トクミツ課長の仕事をひきついでんの?それって管理職の仕事でしょ?」




 まったくである。


 本来なら、課長であるトクミツ氏がしなければならない仕事は、部下である瀬名さんがチェックをして、トクミツ氏に持っていって許可印をもらうことになっていた。


 しかしながら、人事部からやってきた瀬名さんは、経理課の細々とした仕事が分からないばかりか、覚えようとしない。そしてこともあろうに、その仕事をショウにふってくるのである。




「だからね、トクミツさんがハンコを押す瀬名さんがチェックすべき仕事を、まず事前にわたしがチェックをしなけりゃならないってわけ」


松は、悲壮な声を出した。



「えーっそうなの?そんなの、職務怠慢じゃない」



「わたしもそう思うんだけどさぁ。トクミツさんからは、彼は経理課の仕事は初めてだから助けてやってくれって言われているしさ、瀬名さんは一日の半分は席にいないし、放っておくと書類が滞っちゃうし」



「席に居ないって、どこいってんの?」



「裏にある書庫にいって、過去の帳表類を調べたり、後は人事部に行っていたり」



「何でまた人事部に行く必要あるの?」



「瀬名さんって、経理課に異動って形になっているけど、人事部にも席があるんだよね」



「席があるって、彼、まだ、人事部に仕事を持っているの?」



「そうなの、彼の負担金、人事部と経理部とで折半にしているのよ」


 と、松が説明する。



「じゃ彼、人事部と経理部と二足の草鞋(わらじ)をはいてるってわけ?社内の人間のポジションをあちこちに動かす立場の者が、経理課で仕事しているなんて不自然な感じがするけど」



 千歩の疑問ももっともである。その点は松も違和感を感じていた。


 人事部から完全に経理課に席を移すならともかく、なぜ人事部に席を残さねばならないのだろう。



「でも今回の人事は、上からのお達しらしくて、彼が何のために経理課にやってきたのか、私達も事情がよく分からないんだ」


と、松も曇り顔だった。



「上からのお達し?」



「みたいよ?瀬名さんって、ひょっとして結構出世コースに乗っているのかもしんないね」


と、松は言った。



「ほんと?」



「まぁ、本人が自分で言ってるだけだけど」



「せ、瀬名さんって、ショウにそんなこと話したりするの?」


千歩は、キャラメルフラペチーノをストローで吸い上げるのを止め、驚きを隠せないような変な声を出した。


「進退に関わるようなことまで話したりするの?」




「え、千歩?」


と言って、松は千歩の様子が変わったのに逆に驚いて彼女の顔を覗き込んだが、それを確認する前に、千歩の方から尋ねてきた。



「ショウ、最近、瀬名さんからアプローチされてない?」



「えっ、アプローチ?なんで」



「瀬名さん、この前の合コン、ショウが先に帰って機嫌が悪かったって話したでしょ?瀬名さんって、ひょっとしてショウのこと気になるのかなぁって思っていたんだけど」



「ええー?」




ショウはエビカツを口いっぱいにさせた状態で動きを止めた。


アプローチされているなんて全くもって思いつかないけど…



「ショウはさ、瀬名さんのことはどう思ってる?」



「どうって?」


心の中を覗き込まれそうな視線に、慌ててしまう…


「ええっと」



 瀬名さんは、いわゆる親分肌の体育会系。体つきがガッシリしていて、まあまあ背も高い。ラグビーやサッカーをやっていそうな雰囲気がある。



「そうだね、そう言われればカッコいいとも言えなくないかな」


と、松は考えながら言った。



「……そっかぁ」



 長い間があって、千歩が小さく嘆息するのが聞こえてきた。その、さも残念そうな声が、松に何か振り向かせるものを感じさせた。


 彼女はエビカツを強引に飲み下すと、千歩の顔を覗き込んだ。


 千歩の、何とも言えない落ち込んだ顔…


 ははぁぁ、千歩のヤツ。やっと分かったよ。


 松は膝を打った。





「なんだ、千歩ったら、瀬名さんのこと好きなの?」


松は、思わず叫びだしそうになるのをぐっとこらえて、小声ではあるが、はっきりと言った。



「え?そんなことないよ!」


千歩は慌てて否定する。


「そんなことないったら」



 そんなことないと言っている千歩の顔は耳まで真っ赤になっている。



「なんだ、それならそうと早く言ってよ。言ってくれれば、協力するじゃないのよ。何、わたしに瀬名さんのことふっているのよ」


 松は言った。



「な、何よ、何ともないって言っているでしょ!」


千歩は全力で否定しようとする。



「なぁにが、何ともないよ」


松は、千歩の慌てぶりがおかしくて笑い出したくなるのを必死にこらえた。


「あんたの顔にかいてある」



 だんだんと本心を悟られたことに諦めをつけた千歩は、まだ真っ赤になっているが、もう否定はしなかった。



「…あたし、誰にも言っていなんだよ」


千歩は、モジモジしながら下を向き、ボソリと言った。


「だからさ、ほんと、黙っていてね」



 千歩はサバサバした性格で、男勝りなところがあるので、そうやって乙女になっている姿がなんとも可愛らしい。



「千歩ったら、わたしが瀬名さんに惚れているとでも思ったの?」


松は尋ねた。



「だってさ、今はそうでなくとも、これから、毎日一緒にいて顔合すわけでしょ」


彼女は心配そうに言う。


「少なくともショウと徳永さんとは、隣同士の席にいて、そういう関係だったじゃない」



「隣に座っている人に、片っ端から恋してたら大変なことになるよ」


そうであれば、トクミツ氏にも恋しなくてはならないではないか。


「本当に、大丈夫だから。それに、わたしは瀬名さんのこと何とも思っていないし」



「ほんと?」


千歩は顔を上げた。



「ほんと、ほんと」


松はにっこり笑って、彼女を安心させた。



 結局、瀬名さんに頼まれてコンパを開いたりしていたけど、単に千歩は、瀬名さんとなんらかのつながりを持ちたかったのだと気が付いた。



「また何かあったら、連絡するよ」


と、松が言うと、千歩は、


「ありがと」


と、ほっとした様子を見せた。




 ふたりは、時計を見て席を立ち、コーヒー店の前で別れた。


 松は、千歩が大きな営業鞄を持って、会社とは反対後方の電車の乗り口の方に向かっていくのを見送った。



 そっかぁ、千歩が瀬名さんに…。


 千歩のあの可愛らしく赤くなった頬を思うと、ふとほくそ笑んでしまう。


 松は、桐子や周りの人達が徳永さんの時に、やけに応援してくれたことが思い出されて、自分も千歩を何かしら応援してやりたいという気持になってくる。瀬名さんと一緒に仕事をすることになったのも何かの縁だろう。彼女は、千歩のために、食事のセッティングでもしてあげようかな、と、そんなことを考えながら、お昼を終えてギリギリで席に戻って行った。



 ところが…




「ちょっと」



 机の上にドーンとそびえ立つ書類の山を目の当たりにして、さっきまでの浮ついた気持ちが吹っ飛んでしまった。


 お昼前に、瀬名さんの机に山積しておいた、彼がチェックすべ“山”が、その状態のまま松の机に横移動しているではないか。




「この書類何?」


松は、口をとがらせ声高に叫んだ。



「瀬名さんが、置いていったわよ」


松の後ろ側の秘書席に異動した、部長秘書の乙部さんが振り返って松に声をかけた。


「今日はチェックする時間がないので、花家さんにお願いしますって」



 松は掌を額に当てた。


 やられた。瀬名さんは午前中いっぱい人事部だったから、午後なら席に戻っているだろうと、書類の山を彼の席の一番分かりやすいところに置いておいたのだが、それに目を通すことせず、そのまんま松に仕事を振って来たのである。



 なんなのよ。


 少しでもいいから、早く仕事を覚えて欲しいと思っているのに、努力もせずに雲隠れだなんてあんまりじゃない。


 出欠ボードを見れば、今日の午後は、瀬名さんは書庫にこもると書いてあって、戻り時間は夕方五時。この書類をこのまま今日一日持越したら、出張申請やらが間に合わなくて、チケットや前払い金などの払い出しが一日遅れることになる。そんなことになれば、困るのは営業課の人達だ。



(くくく…この書類の山を全部わたしが見ろっちゅうこと?)



 見れば、今日いつにもましてチェックする書類の量が多かった。

 

 この山を片づけるのに、おそらく二時間いっぱいかかるであろう。


 松は、自分の業務を横に置いて、泣きそうな気分で、しぶしぶ書類の山を手前に引き寄せた。サラリーマンは仕事を選べる身分ではない。瀬名さんは一応上司なんだから、命じられればやらねばならない。


 その日、松は、瀬名さんからまわされた仕事をやりこなし、二時間ばっちりかけて残業した。


 夜の八時頃になって、やれやれと書類の束を部長boxにドンとのせて、帰り支度をする頃には、あたりに殆ど人がいなくなっていた。



席を離れ、フロアーの電気を消して部屋の外に出た。



 正面玄関は閉じられていたので裏口へ向かう通路に向かった。そこでばったりと知った顔に出会った。



「コンバンワー」


ニコニコ顔で挨拶をしてくる、顔に傷のある男。



「カイ君」


松は、あくび中の大きな口を隠すため、あわてて手を口にあてた。


「こんな遅くまで残っていたの?」



「んー、食堂で晩飯食ってた。ここでの仕事は五時チョッキリで終わりだけど、この近くで遅番のコンビニのバイトが入ってんの。それまで下の食堂でまずくて安くて栄養価の高い食事を摂ってたってわけ」


と、彼は答えた。下の食堂はまずいが栄養バランスがとれているところが唯一の長所だった。


「アンタこそ、何、残業?」



「まぁね」


松は、右手で自分の左肩をもみながら答える。



「瀬名さんにこき使われているんだってな」


と、カイ君は、またニヤニヤしながらわけ知り顔で言ってくる。



「別にそんな」


と言いつつ、そんなことまで知っているのかと思うと、ちょっとびっくりする。


「こき使われてなんか…」



「隠したって無理なんだよ、ハナゲさん」


カイ君は、切れ長の目をもっと細めて言った。



「だからわたしの名前は、ハナゲじゃないんだってば」



「でも、アンタの隣に昔座っていた人は、そう呼んでいたじゃねぇか。アイツ、未だに、アンタの事をオレに話す時、ハナゲちゃんって言うぜ」



「アイツって、徳永さんのこと?」



「他に誰がいるっていうんだよ」



「徳永さんがわたしのことをそんな呼び名で呼んでいたことまで、あなたに話すの?」


松はやや狼狽えながら尋ねた。



「まーまーそう怒んじゃねぇよ」


カイ君はクスクス笑う。




松は、意味深な笑みを浮かべているカイ君をまじまじと見返した。一方カイ君の方は、松の睨みなどお構いなしと言った顔で、平然と見返してくる。



カイ君は守衛室の方を向いて、中に入る人達に


「お先に失礼します~」


と言って、ぺこりと頭をさげて通り過ぎた。




松は、そんなカイ君の様子を、真意をさぐるかのように怪訝に眺めまわした。




「おい、眉間にシワ寄ってるぜ。それに最近寝てねぇんじゃねぇか?目の下にクマができると、実年齢より十歳老けてみえるって知ってたか?」



「何ですって?」



心配になって、慌ててカバンからコンパクトを取り出してチェックする。


今朝見たクマがどの程度ひどくなっているのか、松は鏡を片手に睨み付け、目の下のところを素早く粉ではたいた。自分でも最近、ばっちりクマができていることぐらい分かっていた。


 本当に二十三歳ではなく、三十三歳に見えているのだろうか?




「ヘンな顔」


必死な形相の松を、おかしくてたまらないとクツクツと笑いながら、カイ君がからかう。


「全く、女って言うのは、化粧すればするほど醜くなるってわかっていねぇんだよな。そうやって、一生懸命、アイツに嫌われるように努力しているつもり?」




松は、パチンとコンパクトを閉じると、眉根を思いっきり寄せた。




「さっきからうるさいわね。だいたい、アンタと徳永さんからは、あなたとどういった関係なのよ。そんなにしょっちゅう、連絡取りあうような仲なの?」



「しょっちゅう?」


と言って、カイ君は立ち止まって振り返った。


「そうだな、最近は連絡を取りあっている方かな…最近は、特にアイツ、あんたの話ばっかしているから、オレはもっぱら聞き役なんだけど」



「わたしの話?」


松は言った。


「何でわたしの話をするの?」



「さぁ~」


カイ君は、真面目顔で考えている。


「オレが思うに」


と言って、とても言いにくそうにしている。



「思うに、何なの?」



「アイツ、女性不信なんじゃないのかねぇ」



「女性不信?」



「そ、あんたなら、心当たりあるだろ」



「心当たり何てないけど」



「気づいてもらえないなんて、ヤツも哀れだねェ」


と、彼は言ったが、言葉ほど彼は同情していないようでむしろ面白がっているようだった。



「何の事を言っているの?」



「覚えがないなら、別にかまわねぇけどよ」



「どういう意味?」



「じゃ、オレ、いかねえと」


カイ君は松の質問に答えずに、足早に行こうとした。



「ち、ちょっと!」


と、松は呼び止めたが、彼は少し振り向いただけで歩みを止めようとしなかった。



「想われているからって、余裕カマしてんじゃねぇよ」


彼は後ろ向きに歩きながら言った。



「え?」



「待っていたって、誰も助けてなんてくんねぇぞ」


と言うと、


「お疲れ」


とだけ言って、正面を向いて行ってしまった。




 翌朝、松は、今日こそは瀬名さんに一言物申すつもりで、一本早い電車に乗り仕事に向かった。いくら何でも、そろそろ本来の業務をこなしてくれなければ困る。いくらトクミツ氏からの命令とはいえ、本来なら管理職がすべき仕事を事務職の松がチェックをするべきではないはずだ。




 フロアに入って行くと、すでに臨席の瀬名さんは出社してきていて、パソコンに向かって何かを調べものをしているようだった。



「おはようございます」


と、松は挨拶した。



「おはよう」


そう言って、瀬名さんはキーボードから手を離しこちらを向いた。


「昨日は、チェックどうもありがとう、助かったよ」



 来た。話を振ってくれたので、切り出しやすくなった。今後はこの手の書類は全て瀬名さんの責任で引き受けて下さいと、そう口を開こうとしたとその時、瀬名さんの方から話しを始めた。



「今まで、僕の仕事を肩代わりさせちゃってすまなかったね。今後はこういったことは全部僕がするようにするから」



「あっそうですか」



 思いもかけず、言う前から自主的に申し出てくれて、ほっと胸をなでおろす。


 が、それもつかの間、瀬名さんは引き出しから新しい資料を取り出すと、ボン、と松の目の前に差し出した。



「その代わりと言っちゃなんだが、この仕事を手伝って欲しいんだよ」



「何ですか?」


 松は資料を手に取った。




「来年から新しい会計システムに入れ替わることになっているの、花家さんも知っているだろ。来年の立ち上げの際に、現システムでの使い勝手を踏まえて、もっと改良をして使いやすいものにするために、全社的にアンケートを募って、情報を取りまとめることになったんだよ。この辺り一帯の支社関連会社合せて十八社の取り纏め役を、オレと花家さんでやることになった」




「支社、関連会社合せて十八社とはかなり大きな規模ですね」



「新しい会計システムは、親会社主導でも関連会社も全て同じシステムを採用することになっている」



「へぇーそうなんですか」



「何でも、システムを統一した方が経費削減になるらしいとか何とかいっていたけど、結局は、面倒くさい仕事は親会社の連中はやりたがらないんだよな」


その口ぶりから、瀬名さんはこの仕事にもあまり興味がないのだろうというのが分かって、なんだか嫌な雰囲気になってきた。



「アンケート用紙はもう出来上がっているから」


瀬名さんは親会社の方で準備されたプリントのたっぷりした紙の束を、松に指し示した。


「各支店の経理担当者に連絡して、このプリントを配って、記入してもらって、こちらに返却してもらうように手配してくれ。そして取りまとめたものを、僕に渡してくれないか」



「いつまでですか?」


松は、アンケートのプリントをパラっとめくり、情報量のボリュームを確かめた。結構ありそう…



「来月の頭ぐらいまでには」



「来月の頭?」



 来月の頭までもう二週間ちょっとしかない!それまでに十八社分のアンケートを回収しろっちゅうこと?



「できれば、郵便で送るだけじゃなくて、数か所でいいから直接出向いて、システムを使っている現場の人から直に話を聞いてきて欲しいんだよ」



 瀬名さんは簡単に言うが、松は、なんだか腑に落ちない気分が募ってくる。



「瀬名さんが、取りまとめされるのでしたら、瀬名さんが直接動かれた方がいいんじゃないですか?わたしがしますと、また聞きになって、行違いや誤解が生じやすいですし」



「そうしたいんだけど」


瀬名さんは、目じりをさげて、ハァーっと言った。


「時間がないし、会計システムなら、花家さんの方が詳しいでしょ」



「それはそうですが…」


と、松は言ったが、瀬名さんのやる気のなさが全面的に伝わってきて、言い返すのがだんだん虚しくなってきた。それに、瀬名さんが会計システムに詳しくないのは事実だった。彼にやらせるより、自分がやった方が作業は早く進むだろう。



「頼むよ」


瀬名さんはそう言うと、もう自分のパソコンの方に体を向けて、自分の仕事に戻ってしまっている。結局、彼は、最初からやる気がないようだ。



「分かりました。なるべく、期限内に収まるようにします」



 やれと言われれば、仕方ない。



 瀬名さんは、


「宜しくね」


と言うと、パソコンをケーブルから離して、それを持って書庫に行ってしまった。




 松は、そんな彼の背中を見送りながら、書庫で一体何をしているんだかと、もう何十回目かのため息をついた。


 一日の半分は人事部に居て、残りの半分は書庫に。時間が余れば、申請書類に大慌てで目を通す…というのが彼の毎日だったが、席に座っている事が少ないので、結局この後、何度も、松が彼の仕事のフォローをするはめになった。




 自分の業務に、課内の秘書仕事。


 瀬名さんの仕事のチェックに、アンケートの回収と取りまとめ。帰る時刻が夜の八時をまわる日々がそれ以降続いた。睡眠不足は解消されないし、頭痛がすることが増えて、布団に入っても眠れない日々が続き、目の下のクマは収まるどころが、更に黒くなっていった。




 眠れないのは、仕事が忙しくなったせいだけではないような気がするな…と、松は手鏡を見ながらクマにファンデを塗りつける。




 ひとりぼっちの寂しいオフィスでぽつんとパソコン画面とにらめっこしている時、ふと、徳永さんがかつて占拠していた空間に目がいって、彼と過ごした輝かしい日々が思い出されることがある。湧き上がる懐かしさと同時に起る胸苦しい気持ちが、彼が今ニューヨークにいて、松とは連絡を取りあえない状況であることが、現実として思い知らされる。話したくても、会いたくても、それはできないのだ。彼が、松と距離を取りたいと思っているのであれば、ふたりの関係は終わったと解釈して、潔く諦めるべきなのであろう。




 そういえば、あの人、妙な事いっていたっけな。


 ふいにカイ君があの日言っていた言葉が思い出された。



「あいつ、女性不信なんじゃねぇの?」



 なぜ徳永さんが女性不審になることがあるのか松は理由が分からなかった。


 彼は一度離婚しているので、女性に対して不信感を持った経験があるのかもしれないが、カイ君から敢えて


「気づいてもらえないとは可哀想に」


 と言われる筋合いはないと思った。



 松は、徳永さんの口からはハッキリと


「電話もしないし会いに来ないでくれ」


と宣告されている。


 その上、彼からお見合いはした方がいいとも勧められすらしたのだ。


 もし彼が、耳かき一杯ほどでも松のことを想っているのであれば、そんな言葉は出てくるはずはない。




(あー、ダメダメ。仕事に集中しなきゃ)


落ち込んだ気持ちを振り払おうと頭を左右に振った。


(徳永さんのことは、もう諦めたはずじゃないの。何を今更ごちゃごちゃ考えてんのよ)




 松は、頭をかかえてアンケートの回収用紙の山に目を移した。


 関連会社十八社分と言えども、会計システムを使用している人間は、星の数ほどいる。それらの意見をひとつひとつ取り上げてまとめて、瀬名さんが理解しやすいような資料の形にしなければならない。



(はぁ…アンケートを回収するだけでなく、直接出向いて意見を聞かなくちゃならないんだっけ)



 翌日から朝一に支社支店をめぐる外回りを始めた。


 内勤の松が、外に仕事をしに行くのは初めてだった。その分、中でする仕事の時間がすっかりとられて、またまた残業の日々。



 外回りといっても所詮、相手は社内の人間。もっと要領よくできるはずだったのに、ききとりやチェックに手間取ってしまった。時間が足りなくなってしまい、アンケートの集計と表作りを、秘書席の乙部さんが見かねて手伝ってくれた。




「あまり時間ないんでしょ?」


乙部さんはエクセルを立ち上げ、テキパキと数字を入力してゆく。


「直前になって、ばたばたと人に助けを求める前に、もっと事前にいってくれたら、こっちもゆとりもって手伝えるんだから」



 乙部さんは派遣社員だけれど、松よりずっとベテランで部内や課内での信頼も篤く、要領もいい。



「すみません、乙部さん」


返す言葉もない。全く、ひとりで抱え込み過ぎだと自分でも思う。




 松は席に戻る時、今朝、瀬名さんの机の上に置いてあった書類の束が、乙部さんの隣にあるトクミツ部長の大きな机の上にあるBoxに入っているのに気が付いた。



「瀬名さん、今日は席に戻ってきたんですか?」



「ああこれね」


乙部さんはエクセルの画面から目を離さずに答えた。


「さっき、書庫に行く用事があったんで、瀬名さんに、書類たまっているからって声をかけておいたの。今日はトクミツ部長は三時には戻ってくるけど、明日から三日間出張でいないのよね。部長の判子もらうには、絶対三時までにチェックしてもらわなきゃならなかったから、今日こそは絶対に自分でチェックするようにって、きつ~く言っておいたの」



「そうだったんですか、すいません、助かりました」



 きつ~く言うってどんな風に言ったんだろ。わたしが何を言っても、瀬名さんはと適当に答えて受け流してしまうのに、やっぱりベテランは人の扱い方がうまいよな。乙部さんはマジ入ると結構迫力が出るし、イザとなるとすご味がでるのかもしれない。


「だって、この書類のチェックに関しては、瀬名さん、花家さんのことを当てにしてしまっているでしょ?ここの所、花家さんが外出して席にいないこと、あの人、分かっていないみたいだし」



 部長印の受領が遅れると、各課の営業マン達から苦情があがってくるのは予想済みなのであろう。乙部さんも気を利かせて動いてくれているのだろう。



「それに、明日は、親会社の情報管理課からヒアリングがあるんだって?」



「そうなんです、新しいシステムの一通りの説明と、アンケートの結果を聞きにくるとかで」



「ふーん、そっか。結果を報告すれば、これに関しては一段落かな」


と、乙部さんはそう言い、松もそう期待していたが、実際は一段落どころの話ではなかった。




 翌日、親会社の情報チームの人間が東京からやってきた。


 彼らは、おおまかな新システムの概要を瀬名さんと松に説明した。が、例によって、瀬名さんは冒頭の挨拶だけ愛想よく済ませると、


「じゃ、後は頼んだから」


と言って、早々と席を立ってまた書庫に引き上げてしまった。




 結局、この連中の相手を午後一杯ひきうけたわけだが、彼らはまたとんでもない仕事をふってきたのである。



「花家さんに、新システムのテスト運用を頼めないかな?」



「は?テスト運用ですか」



「毎日入力する情報を、旧システムと新システム両方やって欲しいんだよ」



「両方?つまり二度、入力すると言うことですか」



「面倒とは思うけど、一週間でいいから頼まれてくれないかな。帳表でチェックして、エラーが出てこないか、見ずらいところがないか見比べて確認する必要があって」




 倍の容量を入力せよとは、大変なボリュームになる。


 松は、最初、ウンと素直に頷けなかった。



「何で私がそんなことしなきゃならないのよ…」


 不満が尖った口から飛びでそうだった。それに気が付いた親会社の人達は、「お願い」と、頭をさげてもう一度頼み込んだ。



 松はどうしようかと思ったが、せいぜい、一週間のことだ。それでこのシステムに関する仕事は終わりだ。乗りかかった船だ。グダグダと理由をつけて断るより、引き受けてしまった方が、後々気分がいいだろう。




「分かりました」



「ホント、やってくれる?」


彼らの目に安堵の色が映る。



「一週間だけなら」



「うん、一週間だけだから、すまないね」




 この一週間の間、膨大な量を残業しなきゃならないだろう。


 仕方がない。


 どの道暇にしていても、デートをする約束もないし、相手もいないのだから。


 というやけくそ半分な気持ちな松であった。




<4.崇拝者登場> へ、つづく。

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