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37. 慌しい年の瀬の最中で③

37. 慌しい年の瀬の最中で③



 松は、何度も瞼をこすり、瞬きを繰り返してみたが、目の前に夢のように現れた男が姿を消すことはなかった。額にかかるちょっと乱れた前髪や、長い睫毛に縁どられた漆黒の瞳がこちらをじっと見下ろしているのが夢でなければ何なのか?



「ああ…」


松はつぶやいた。


「よくある幻ってヤツ?蜃気楼?夢ン中で目を覚まそうとしても、ろーしても目が覚めない時にみるアレでひょ?」



「は?何言ってんの。ちゃんと目を覚ませよ。夢じゃないんだけど」


徳永さんは、さっきからペタペタと徳永さんのほっぺを触っていた松の手を取って自分の手のひらにつつみ、ぎゅっと握り返した。


「今、ここにいるのは、夢でも蜃気楼でもない現実のオレなんだけどね」



 そういわれても、酔いのまわった松の頭では、何も理解することができない。


 夢でないなら、なぜここに?


 松との約束を放り出して上司の娘に会いに行った男が、男性禁制の若い女の住むアパートに足を踏み入れている理由は何なのか。



「夢じゃないなら、何れここにいるんでふか?(注:何でここにいるんですか)」


酔っぱらっている勢いで、松はベラベラと喋り始めた。


「それとも、昼間の事を謝りにでも来たんれすか?」


 

 ここは夢の中だ。


 どうせ覚めてしまったら、またいつもの平凡なワタシに戻ってしまうに違いないのだ。


 だったら、今のうちに、苦情なり本音なりを吐き出してしまったほうがいいじゃないか。



「言っておきまふけど、謝ったって許してあげまへんよぉーだ。わらし、すっごく怒っているんでふからね!その生チョコの袋どうしたんですか?専務の娘さんのお土産だったんじゃないれすか?何でここにあるんでふか?」


と、松は徳永さんの手に握られている袋を指さした。



「…これは、専務の娘さんへのお土産じゃないからだよ」


徳永さんはゆっくりと言った。



 松は、さらにカチンと来た。酔っぱらっているので、思っている事がそのまま顔に出てしまう。徳永さんは、不安そうに表情を暗くした。



「じゃ、ほかの女の人にあげるんれふか?なんれこんなところにもってきたんれふか?こんなところまでやってきて、わざわざ、わらひに見せつけに来なくたって、いーらないでふか…(注:いいじゃないですか)わらひをからかってんの?いっておきまふけど、もう、徳永さんに虐められたって、わらひ、もう傷つかないもん。傷つかないことにひたんです。徳永さんが誰と付き合おうが結婚しようが、わらひには関係ない…もう、どうでもいいんでふ…」



「本当に相当、酔っぱらっているみたいだね。聞いた以上だ。大丈夫か?」


徳永さんはそういって、玄関前のスペースに寝っ転がりそうになっている松の肩を優しくつかみ、起こそうと支えた。


「こんなところで寝ちゃダメだって。風邪ひくから」



「わらひが風邪ひいたって徳永はんには、かんけーないらないでひょ。どうせ、わらひはただの後輩だし、単なる子会社の長期出張者で、徳永さんとは何のかんけーのない間柄じゃないでふか。わらひが風邪ひいたって、病気になったって」


松はそういって、一層イモムシのように背中を丸くして床に寝転がった。徳永さんが一生懸命起き上がらせようと肩を抱いているが、そうすればするほど、松はムキになって起き上がろうとしない。



「そんなに床が好きなのか?ここで寝るつもりか?」



「うー…」


猛獣のような唸り声。



「うー?」



「なんでこんな時にいるんでふか…」



「こんな時?」



「…気持ち悪い」



「気持ち悪い?」



「吐きそう…」



「ええ?」



松はさっきまでうずくまっていた床からガバリと起き上がったかと思えば、トイレに一目散に駆け込んだ。そして、胃の中のものを吐き出した。



「う~~~」



 徳永さんが後ろからやってきて、どこからもってきたのだろう、水のペットボトルを渡してくれた。


「ホラ少し、飲んで。もうちょっと吐けば楽になるよ」



 松は素直に受け取って、それを飲んだ。


 そしてしばらくして、再びリバースした。


 吐くものがなくなるまで繰り返した。


 飲んでは吐き、飲んでは吐き、いったいいつまで続くのか。


 まるでたまりにたまったストレスを吐き出すかのように、松は吐き続けた。



「なんで」


情けなくなって、目から涙さえ出てきた。


「だから、なんでこんな時にここにいるんでふか…」


文句が止まらない。


「こんな弱っているところ…みっともないところとか、見せたくないのに、なんでここにいるんでふか。ひろい(注:酷い)じゃないでふか…」



「そんな事言っている場合じゃないだろ。ほらもうちょっと水飲んだ方がいいよ」


徳永さんは水を再び差しだした。松は素直に従った。


 その間、徳永さんはもつぼれそうになっている松の髪を背中で優しく撫でつけてくれていた。



「落ち着いた?」



「わかんにゃい」



「もう一回、飲んで」



もう一度飲んで、気が済むと松はヨロヨロと立ち上がり、徳永さんに支えられながら、部屋に戻り、ベッドに倒れこんだ。



「せめてコートぐらい脱ぎなさい。掛け布団をふんずけるなって、ホラ、風邪ひくぞ」


徳永さんは、小姑のように口やかましく言いながらも、甲斐甲斐しく上布団を松の上に優しくかけた。



「苦しい…」


松は涙目で訴えた。



「まだ、吐きそうなのか?」



「ちがう…」



「じゃ、どこか痛いところでもあるのか?」



「徳永さんに、こんなところを見られて苦しい…」



「こんな時に、そんな事、気にしている場合じゃないだろ」



「わらひの事、キタナイと思っていまふよね?」



「は?思うわけないだろ?」



「みっともなく、飲みすぎて、吐いて、バカだとおもってるれひょ?」



「思っていないってば。心配はしているけど…」



「ひんぱい?」



「そう、心配もしている。それに、今日は約束をドタキャンしちゃったし、機嫌わるかったの、オレのせいじゃないのか?」



 松の見開いていた目は、一層大きくなったかと思うと、涙がボロボロとあふれ出してきた。



「オレが今日、すっぽかしたせいで機嫌悪くして、飲んでるって聞いて…ちゃんと家に帰り着いたか気になって」



「南田さんと一緒にアパートまでタクシーで帰ってきまひたから」



「南田さんが?」



「…だから、大丈夫だったれす…」



 あれ?何か変な話の流れだな。


 今日の飲み会って徳永さん一緒だったっけ?


 なんで徳永さんがわたしが飲みすぎたことを知ってんの?


 心配して松のアパートまでくることがあるの?



「そうか…」


徳永さんは納得しがたいように首をかしげていたが、やがて安心したように、肩で息をついた。


「じゃ、心配することもなかったな」


そういって、ベッドに横たわっている松の頭をポンポンと優しくなでると、優しいスマイルを浮かべて、


「じゃ、安心だな。オレはそろそろ帰るよ」


と言って、立ち上がろうと膝をついた。



 え、帰っちゃうの?



「ま、まってえ」


布団からヌっと腕を伸ばした松は、徳永さんのスーツの裾をむんずとつかんだ。


「かえんないで」



「え?」



「悪いとおもっているなら、帰んないで」



「ええ?」



「もっと、ここに居て」



「何言ってんの?」



「らって、徳永さん、また専務の娘さんのところに行くんでひょ?」



「行くわけないだろ。あれはもう終わったよ」



「じゃ、神楽さんがゴハン作ってまってるんでひょ?ダメ、帰っちゃダメ」



「作っていないよ。誰も待っていないって」



「しんよーできまへんよ。それじゃなかったら、ほかの女の人…」



「女の人?」



「前の奥さんとか…」



「どっから前の奥さんがでてくるんだよ。そんな事ないから、ホラ、服を離しなさい。出ないと、オレ、ここで一晩明かすことになるんだよ?それでもいいの」



「いい」


松は、おっそろしく真面目な声を出した。


「許すから、ここに居て」



「居ろと言われても」



「いかないで、いかないで、いかないでよぉ」


松は服をしわくちゃになるのもいとわず強く握りしめたかと思うと、突然泣き出した。



「困ったなぁ…」



「あたひ、さびじい…」



「え?」


徳永さんは松の唇に耳をよせて聞き返した。



「さびしい…」


松はそういうともっと、徳永さんの服をぐいと一層強くつかんで自分の布団の中に引っ張り込んだ。



「ここは、さびしいんだよお。ひとりにひないで…」



「花家ちゃん」


徳永さんは、松の耳元でささやきかけた。


「そんな危険な事を言っていいの?このままオレ、ここにいれば何するかわかんないよ?」


徳永さんは引き離そうとしていた手を止めると、松の手の甲をやさしくなでた。そして、松の上にかがみこんだ。



 松は、徳永さんの服の端をしっかりとつかんだまま、それを命綱かのように離そうとしなかった。


 松の目頭の先には涙の滴がたまっていた。


 徳永さんの熱い吐息が、最後に、頬の近くにかかったような気がするが、それを境に松の意識はそこでぷつりと切れた。












 次に、意識が戻ったのは、視線の先に朝の光を感じたときだった。


 見慣れた天井、見慣れたカーテン。


 いつもとかわらないはずなのに、なぜか頭が重い。


 しかも目玉を動かすだけで、世界が揺れるような感じがする。


 なんでこんなに、ぐらぐらするんだ?


 確かに夕べは一晩中、徳永さんの夢を見て、雲の上を歩くかのようにフワフワしていたけれど。


 それでは、わたしはまだ眠っているのだろうか。


 だって、体が動かないし。


 足を動かそうにも、手を上げようにもまったく身動きとれないし。


 ああ、きっと夢に決まっている…っていうか、夢の中でも頭痛ってするもんなのかな。


 それに、右手が嫌にしびれて感覚がないんだけど。


 それに、寝違えたせいか肩のあたりがなんか痛いし、額にかかる前髪がやたらとチクチクするし。



 そこまで考えたところで松はハタと思考を止めた。


 松はワンレングスの巻き髪で、前髪を短く切りそろえていないのだ。


 ではこの短い髪は何なんだ?


 昔、犬を飼っていて一緒の布団で寝たとき、ムクイヌの毛の感触がこんな感じだったような。


 いや、これは明らかに犬ではないだろ。


 だって、目の前の同じ布団の中に、黒髪の頭髪を持つ人間がもうひとり眠っているのだから。



 至近距離に男の顔があった。


 昨日みた夢とそっくりな徳永さんの顔である。


 ああ、犬じゃなかたんだ。人間だったんだ。


 てか、そういうことは、まだ私は夢を見ているのだろうか?



 松は、男の顔を覗き込んだ。


 めちゃめちゃ美しい寝顔だ。


 前にも徳永さんの寝顔を見たことがあったが、口が開いていて、どこか間抜けな感じがしたけど、今日の徳永さんは別格に素敵な気がする。


 ああ、そうか、これは夢だからか。


 松は、それを確かめてみるために、男の前髪をかきあげてみた。


 それでも彼は起きない。


 今度は、かわいらしいほっぺに指を突き立ててみた。


 むに。


 その瞬間、魔法が溶けたかのように、両目がバチっと開いて、十センチ先の人物と視線が合ってしまった。



「あれ?もう、朝か」


徳永さんは、眠たそうに


「あー、良く寝た」


と言って、まるで自分のベッドに寝ているかのようにのんきに伸びをした。そして、



「今何時だ?」


と、布団の中から左手をニョキっと出して腕時計に視線をやった。


「八時半か。じゃあ、七時間も寝たのか」



「あ、あの…」


松は、後ずさりながら、目の前の一連の風景を眺めていた。なんで自分の布団に徳永さんがいるのがまるで分らない。



「おはよ」


徳永さんはそういって、にっこりとわらった。


「よく眠れた?」



 徳永さんはYシャツ姿だった。


 壁側に目をやると、見覚えのある三つ揃えのスーツとネクタイがハンガーにかけられてある。



「どう、体調は?」


徳永さんは、だまりっぱなしの松に尋ねかける。



「頭、ちょっと、痛いです…」



「昨日は相当飲んでいたみたいだから」



「なんで知っているんですか?わたしが飲んでいたって、どうして知っているんですか?」



「そりゃあれだけクダまいて、足元もおぼつかなくて、トイレでゲーゲーやらかしたら、誰だって相当飲んだと思うに違いないよ」



 ゲーゲーやらかす…?



「は?誰ですか、それ」


松は真面目に尋ねた。


「誰がトイレでその、ゲーゲーやっていたって言うんですか?」



「は?」



「それに、誰もクダなんてまきはしませんよ」



 徳永さんは興味深そうに、松の顔を眺めていた。


 松の発言と表情が面白くて仕方がないという風に。



「なるほど」


と、彼は言った。


「じゃ、昨夜の事、何も覚えていないんだ」



「昨夜?」



 徳永さんはにやりと笑った。


 そして上半身をこちらに向けて、松をじろじろと眺めまわした。


「花家ちゃん、色っぽかったなあ」



「え?」



「こうやってね、オレの服の裾を掴んで“帰んないで”って懇願したんだよ。離してって言ったのに、寂しいから帰るなって、掴んで離そうとしなかったんだから。だからさ、しかたなかったんだよね…」



「仕方なかった?」


松は、でかい饅頭をまるごと飲み下したかのような顔になって、白目をむいた。


「なななな、なにが仕方なかったんですか?」



「そりゃ、据え膳食わぬは男の恥っていうだろ?あそこまで頼まれて、断ったら男のプライドに関わるからねえ」



 徳永さんのシャツは真ん中までボタンがはだけて、色っぽい鎖骨と美しい胸板が見え隠れしていた。


 もちろん彼は、わざと松に見えるようにしているのだが、初心(うぶ)な松には、それだけで卒倒しそうだった。



 据え膳くわねば?


 据え膳食わねば??


 据え膳食わねばって…???


 その据え膳ってなんの事???



「それを、覚えていないとは、残念だよ」


徳永さんは心底残念そうに、ため息をついた。


「昨夜はあんなに激しく…」



 その瞬間、松は獣の雄叫びのような悲痛な声を出した。



「いいいい、うううう、ううううぃぁあああーーー!!!」



「どうしたの、どこか具合悪いの?まだ、酒残ってんのか?」



「ゆゆゆゆ、夢でしょ?」



「夢?」



「今の話、夢にきまっている!」



「ぁあ゛?」



「夢に決まってる。まだ、夢みているんだ、わたし。さっき見た夢の続きんだよ、これ。でないと、徳永さんがいまここにいるわけないじゃない。何でここにいるの?何でわたしのベットの中にいるの?やだ、わかんない。わかんない。なんで?だから夢だって言ってよ!」


松は腕を伸ばして、徳永さんの鼻をおもいっきり摘まんでみた。



「いたたたたたた!おい、やめろって!」



「夢だもん、これ、夢だから痛くないよ。夢なら早く覚めたらいいんだよ!」



「コラ!夢じゃない、手をはなせ!まったくいつまで酔っぱらっているんだ?ほら、いい加減目を覚ませ!」



 松が手を放そうとしないので、徳永さんが両腕を伸ばして仕返しに松の両方のほっぺを掴んだ。ところがその顔があまりにおかしかったのか、徳永さんはふいに大笑いを始めた。



「うわっ、変な顔!」



「へ?」



「変な顔すぎる!もう、花家ちゃんってサイコーだね」



 笑った徳永さんの顔もまた面白くて、松もまた、笑い出した。


「徳永さんだって、変ですよ」



「いや、花家ちゃんの方が変だよ!こんな変な顔、見たことないよ!」



「徳永さんだって、全然イケメンじゃなくて、おっかしな顔!」



 二人して大笑いした。まったくもって変な感じだった。



「あ、あの…?」



「ん?」



「ゆゆゆ、ゆうべは本当にその…」



「その?」



「本当にそういう事があったんですか?」



「そういうこと?」



「だから、そのそのその」


言っている意味わかるでしょ!


「そういうことですよ!わたし、本当に徳永さんとその」



「シたかって事?」


徳永さんはニヤニヤしながら松を眺めている。


 

 その顔が気に食わなかった。


 まったく悪党め。



「どうだと思う?」



「本当にわたしが、徳永さんを引きとめたんですか?」



「そうだよ」



「そもそも、なんで徳永さんは、ここに居たんですか?昨日の飲み会にいなかったですよね、確か」



「うん。ここに来たのは夜中だったよ。花家ちゃんがヘソまげて機嫌わるくして浴びるように酒を飲んでいるって聞いて、いてもたっていられなくってね」



「聞いたって誰にですか?」



「来たら案の定、クダまいてトイレでゲーゲー吐き出すし。思った以上だったよ。まあ、水飲んだ後はだいぶ落ちつたみたいだから、すぐ帰るつもりだったんだけど」


徳永さんは松の質問を無視して話をつづけた。


「なのに、寂しいから帰るなって、可愛い声で頼まれたらやっぱり、帰り辛いもんでさ」



「わたしが本当に、帰るなって言ったんですか?」


松は信じられなかった。本当にそんな事を言ったのか?


「うん、もうオレの服を掴んで離そうとしないんだよね。それでさ」



「それで?」



「オレの服をこう上着から順番に脱がしていってね、オレもなすすべもなくてさ。だって、花家ちゃんみたいな若くてかわいい女の子に迫られたら、オレも男なんだからそれなりに覚悟きめなきゃいけないって思ってさ…」



 松は、赤く染まった顔をみるみる青くさせていった。


 覚えていないとはいえ、なんと大胆なことをしてしまったのか。



「う…うそぉ」


松は布団を胸まで引っ張り上げて、嗚咽ににた悲鳴をあげた。



「嘘なもんか」


悩まし気な視線で、徳永さんは肘をついていない方の手を伸ばし、松の髪をいじりだした。


「昨夜の花家ちゃんは、これまでにないってぐらい激しく…」



 松は、本当に卒倒するかと思った。


 は、は、激しく???


 だが、そんな貴重な体験をしておきながら、一ミリたりとも、覚えていないとはなんともったいないことだろうとも思っていた。



「激しくイビキをかいていたからね」



「…は?」



「イビキだよ。酒を飲むとイビキがひどくなる人いるっていうけど、本当にそうだね。まったく、こんなイビキのうるさい女の子、初めてだよ」



「い、いびき?」



「そうだよ。オレの服は掴んで離さないわ。イビキはかくわで、昨晩は本当に大変だった。ようやくイビキがおさまって手の力が抜けたころに熟睡してくれたけど、終電は終わっているし、タクシーもなくなっている時間帯だろ?それに帰るなと、花家ちゃんから念をおされたし、これ以上言いつけに背いたら、今度は口もきいてくれなくなったら困ると思って、いっそ泊まっていったというわけだよ」



「え、じゃあ」


松は、力を抜いて言った。


「じゃあ、昨夜は」



「据え膳を目の前にして、食わなかったのはオレ、生まれて初めてじゃないなあ」


徳永さんは、非難がましい視線をこちらに向けて、真面目に怒っている。


「腹がすいているっつうのに、目の前に美味そうな料理をお預けされている気分を想像してほしいもんだね」



「じゃ、本当は何もなかったんですね?」



「帰るって言っているのに、花家ちゃんが寂しいから帰るなって言ったんだよ?まったく、何もせずにお預けくらったオレにどう報いてくれるわけ?」



 そうか、何もなかったんだ。


 ワタシが迫っただなんて、嘘だったんじゃないか。


 松は、はーーーっと大きく息を吐き出した。


 そのときの感情を言い表すことができない。


 ものすごく残念に感じている自分がそこにいた。


 彼と一線をもしこえたとしたら…


 現実に起こり得ないようなロマンティックな出来事が、昨夜、松の身の上に起こったのではないかと、そんな甘い想像が一瞬、松の心を甘い空気で満たしたのである。



 が、松の表情の変化を徳永さんは見逃さなかったらしく、


「えらく、残念そうな顔をしているね」


と言った。


「そんなに残念なら、今からシたっていい。午前中ならなんとか時間あるし…」



「は?」



「花家ちゃんから、迫ってくれるなら」


彼はそういうと、わざとらしく両手を広げておいでのポーズを取った。


「オレはいつでも大歓迎だよ」



「そそそ、そんな事あるわけないじゃないですか!」


松は、再び真っ赤になって言った。


「わたしがそんな事するわけ…」



「えーー、そうなのか?だって昨夜はオレの服をつかんで離そうとしなかったんだよ?オレ、あの時さすがに花家ちゃんに襲われるとマジに思ったんだけどね」



 本当なのか?


 松は白目をむいた。


 昨夜はあまりに頭にきていたせいで、溜まっていたストレスが本音以上の行動となって出てしまったのだろうか。



「それは、、、失礼しました」


松は、涙目になった。あまりに彼が不服げに責めるので、


「ご迷惑をかけてしまって、本当にすいませんでした」


と、素直に頭をさげた。



「うん、迷惑だったね」


徳永さんはビシっと言い放った。



 うっ。


 真剣に肯定されるとさすがに、ヘコむ。



「だけど、花家ちゃん、何が迷惑だったかわかっている?」



「え?」



「オレ、あの時、理性がふっとんでいたら、って、今でも思っているだけど」



「え、あ、は?」



「だから、据え膳食べられなかった気持ちをちゃんと察してよね。花家ちゃん、わかっているかどうかちょっと疑わしいんだけど、オレ、これでも男だからね」



「は?そんなの当たり前じゃないですか」


女にはどうあっても見えない。



「いや、わかっているのか、あやしいもんだ」


徳永さんはそういうと、諦めたようにフっとため息をついて、小さく微笑んだ。いったい彼は何を言っているだろう。



「さて、帰るか」


彼はそういうと、ガバリと布団からでて伸びをした。



 彼は、壁に掛けられている自分の服を手に取って着替えようとした。


 それを見て、松は急激に寂しさを感じた。



「すぐに帰っちゃんですか?」



「だから、今日は用事があるって言っただろ?」



「朝ごはん食べる時間は?」


松は、彼のパンツ一丁姿が視界に入らないよう視線をそらしながら、おそるおそる起き上がり、背中から声をかけた。



「ん?」



「時間あるなら、作ります。簡単なものですけど」



 徳永さんは、振り返ってこちらをじっと見つめていた。


 ん、なんだ?



「待っていてください。すぐに作りますから!」


松は飛び起きた。


 

 自分の姿を見ると、昨日着ていた服のままだった。


 何もなかったんだから当たり前か。



 松は、徳永さんの手を引いてベッドの方向に連れて行き、


「できるまでここで待っていてください!」


と、強引にそこに座らせた。


 

 松は、パタパタとキッチンにまで行き、コーヒーのスイッチを入れ、パンをトースターにいれたり、果物をカットしたり、卵を焼いたりと、ごく普通の朝食を作り始めた。



「シャワー借りていい?」


松の背後から、声がする。振り返ると、至近距離に徳永さんがつったっていた。


「朝食ができるまで、シャワー浴びてていいかな?」



「あ、もちろん」


松は、シャワールームまで彼を連れて行って、タオルやら予備の歯ブラシなどを出して、彼に渡した。


 

 その間中、徳永さんおとなしく松の差し出されたものを受け取っていた。



「あ、あの、男性ものの着替えはあいにくなくてですね」



 徳永さんは意味深な目でじっと見下ろしている。



「ほんっとに、男性の着替えになるものが何もなくて、申し訳ないんですけど」



「それを聞いて安心したよ」


徳永さんは、生真面目な表情をくずさず言った。


「そんなものがあったら、困っているところだよ」



「・・・・・・」



 ほんの十分ほどで徳永さんは昨日きていた三つ揃え姿になって、さっぱりした姿になって、シャワーブースから現れた。


 松がコーヒーを注いでいる間、彼は髪を乾かしていた。



「おいしそうだ」


徳永さんは言った。


「誰かに朝食を準備してもらうだなんて久しぶりだな」



「神楽さんに作ってもらったりしないんですか?」



「朝食はないね。それに晩飯といっても料金制だし」



「は?」



「料理を作りあいしてるっていいっても、一食いくらって晩飯の代金決めているんだよ。あいつ、結構細かいんだよね。作ってもらってありがたいけど、まあ、食堂で食べるようなものだから」



 なんだそりゃ。料金制って、初めて聞いたな。


 料理音痴の松でも簡単に作れるような朝食を食べ終わると、彼は帰り支度をした。



「ああ、これ」


徳永さんは唐草模様の紙袋を差し出した。


「実は、昨日ここに来た理由は、本当はこれをわたすためだったんだ」



「え、だってこれ」


生チョコの袋を眺め、松はとまどった。


「専務の娘さんにもっていったんじゃ」



「最初から花家ちゃんい買ったに決まっているでしょ」


徳永さんはあきれたようにため息をついた。


「前日の夜に急に予定がはいっちまって、花家ちゃんになんて言って謝ろうかとかんがえつかなくてさ、残業中の女子社員に教えてもらった店にいくために、翌朝早起きして、生チョコの有名店で並んで買ってきたんだよ。少しでも機嫌直してもらおうと思ってさ」



「え」


じゃあ、この紙袋は。



「見つからないように、会議室において隠しておいていたつもりだったんだ。ところが、三時ごろになって、会議室でパーティの準備を花家ちゃんが始めているのを見てさ、みつかる前に渡そうとしにいったら、花家ちゃん、天野と食事に行くような話が聞こえて来たから、チョコのことなんて頭からふっとんでしまったんだよ」



「わたしは言ってないです。南田さんがそうじゃないのかって言っただけで」



「でも、誘われたんだよね?」



「断りましたけどね?」



「なんで断ったの?」


徳永さんはジッと松の視線をとらえて離さなかった。


「なんで?」



「なんでって」


別に大きな意味があるわけじゃないけどさ。


「予定したレッスンがなくなっちゃって、がっかりして、そんな気分じゃなかっただけで」



 徳永さんはやっとほっとしたような顔になった。


「昨日の埋め合わせわするよ。三十一日の大晦日はあいている?」



「あいてますよ。でも、カイ君との約束が先じゃ…」



「だからアイツは深夜にしかもどってこないからって言っただろ。朝から夜までレッスンに付き合うよ。とりあえず、それで機嫌なおしてくれないかな」



 徳永さんの言い方がものすごく腰が低かったので、松はその時点で彼を許してしまった。それに、そんなにカワイイ顔してお願いされたら、許さないなんて言えるわけないじゃないか!



「…いいですけど」


わざとすました顔で言ってみる。



「よかった」



 松は紙袋を受け取り中をのぞいてみた。


 そこには美しい装丁の黒のチョコの箱がおさまっていた。



「これ、ずっと昨日からカバンにいれて持ち歩いていたんですか?」


わたしに渡すためにずっと持ち歩いていただなんて、なんか可愛らしい。



「溶けていたらごめんね」



 にっこり笑う徳永さん。


 だからその表情をやめろっての。


 その笑顔にまたやられてしまいそうになるじゃないか。



「…あ、ありがとうございます」


お礼ぐらい噛まずに、嬉しそうに言えよって感じだね。



 しっかしわたしも、不機嫌の原因だったチョコが専務の娘宛てじゃなく、自分のために飼ってくれたものだったというのに、どうしてこう素直にうれしさを表せないのだろうか。



「じゃ、帰るよ」


徳永さんは席をたってコートを着だした。


「朝ごはん、ごちそうさま」



 松ははたと思いだし、昨日玄関口で放り出しっぱなしになっていたバッグを取り上げると、中からリボンのついた包装袋を取り出した。



「あのこれ」


袋をついと徳永さんに差し出す。



「何これ?」


首をかしげながらマフラーをつける徳永さん。



「よかったら、もらってもらえませんか」



「なんで?」



 いや、なんでじゃないでしょ。


 わたしだけチョコをもらいっぱなしっていうわけにもいかないじゃん。


 プレゼントもらったときのお返しに準備していたもので、ぜひもらってもらいたいものなんだよ、と、説明したかったが、そんな風に言ってしまうと、徳永さんのチョコに込めた思いを無下にするようで、言えなかった。



 徳永さんはきょとんとしている。



「手袋です」


まどろっこしくて、松は包装袋を破って、きれいなイタリアンレザーの黒の手袋を取り出した。


「いつも、手袋されていなくて寒そうだったから、徳永さんににどうかなって思って、買ってきたんです」



「え?」



「徳永さん、手袋もっていないでしょ?」


お出かけの時は別として、オフィスには彼は手袋を身に着けて出社することはなかった。



「徳永さん、きれいな指をされているので、あまり冷やしたり乾燥させたりしない方がいいかなって思って…」


何言ってんだ、あたし。



「指がきれいだなんて、初めていわれたよ」


徳永さんは、怪訝そうに見下ろしている。納得いってない顔だな。



「きれいですよ。わたし、徳永さんの手の形、好きですもん。そ、それに、その、ほ、ほら、指先いつも冷たいし」


松は、徳永さんの手を取り上げて、ぎゅっと握って見せた。



「ふーん」


徳永さんはやっと、半分納得したような表情をつくって、何とも言えない相槌を打った。



「あ、それとも、手袋をたくさんおもちだったとか」


なかなか受け取ってもらえないので、松は不安になり、ちょっぴりうつむき加減になってしまった。


「手袋しない主義とか…」



「そんな主義はないけどね」


徳永さんは言う。


「せっかくの気持ちだからいただくよ。だけどさ」


徳永さんは差し出された手袋を手に受け取る前に、握りしめてきた松の手を、ぎゅっと握り返した。


「花家ちゃんも最近、積極的になってきたよね?」



「は?」



「オレにウンと言わせるコツがわかってきたというか」



「な?」



「その調子で、次は、自然に押し倒してくれればいいんだけどなあ」



 松は、飛び上がる勢いで、徳永さんの手から自分の手を引っこ抜こうとした。が、男の力にはかなわない。彼は、左手で松の右手をつかんだまま、右手で手袋を受け取った。



「な、な、な、な、何言ってんですか!」


ようやく、解放された手をもう片方の手で握りしめて真っ赤になって叫ぶ。



「だから言っただろ?今度は…」



「もーー、いいです!そんな事言っている時間あったら、早く行ってください、急いでいるんでしょ?」



「はいはい」


手袋をはめるとかれは


「ぴったりだよ」


と言って、明るく笑い、ビジネスバッグをもって、


「またね」


と言い残して、出て行った。


 

 松はアパートの外の通りまで出て、彼の背中が見えなくなるまで見送った。




<38.新年>へ、つづく。





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