35.慌しい年の瀬の最中で①
35.慌しい年の瀬の最中で①
その夜、寝る直前まで、「好きな人は守らなきゃ」とか、「強くなりなよ」という桐子の言葉が頭の中で壊れたテープレコーダーのように繰り返し鳴り続けていた。
松はその意味をかみ砕こうと夜じゅう考え続けた。
守るって、何?強くなるってどういうこと?
そのうちいつの間にやら眠りに落ちてしまったらしい。
夢の中に徳永さんが現れた。
彼は、大勢の女性に囲まれ、その一番近くに神楽さんが陣取っていた。
徳永さんは松に背中を向けていて表情が見えない。すると、すぐ傍らから桐子の声がした。
「ほら、あんなにたくさんの女性に囲まれて、徳永さん困っているじゃない、助けてあげなきゃ」
彼女はそう言って、松の背中をドンと押した。
松は、徳永さんに近づこうとするも、幾重にも重なる女性の波にさえぎられて顔すら見ることができなかった。
「徳永さん!」
という呼びかけも、彼の耳には届かず、松はいつの間にか、彼からずっと離れたところに追いやられてしまった。
「根性なし!」
ふいにそんな言葉が降ってくる。
「弱虫。好きな人ひとりも守れないの?」
「違う!私は根性なしなんかじゃない!」
松は歯を食いしばって立ち上がるいと、再び徳永さんの姿を求めた。
徳永さんはまだ松に背中を向けていた。そこにはさっきいた大勢の女性の姿はなかった。
代わりに、神楽さんがただひとり、彼の傍らに立ち、細い腕を彼の腕に絡ませていた。彼女は、幸せそうな顔でほほえみかけていた。
松は、
「徳永さん!」
と、再び声をかけた。
こちらに向いた徳永さんの顔は、真っ白で無表情な能面をかぶっていた。彼は静かにこういった。
「君のお母さんはオレを嫌っている。君とは一緒にいられないんだよ」
彼は、神楽さんの手をとり、歩き始めた。
松は追いかけたが、足が重くてどうしても進むことができない。
徳永さんの姿は見るまに小さくなってゆく。
そのうち闇に紛れて彼の姿を見失ってしまった。
探せど探せど、彼をどこにも見つけることはできなかった…
「ちょっと!何、朝からぼーっとしてるの。それに、ひどい顔しているよ」
悪夢にうなされてほとんど眠れなかったクリスマスの翌朝、松は大きなクマを作って出社した。
ひどい顔なのは知っていたが、今日は、一番会いたい真後ろの席の人がいないのだから、きれいじゃなくたって構わない。メイクも服もほとんど適当だった。
「土居さんかぁ。おはよう、クリパはどうだった?」
眠気眼で答える。
エレベーターで乗り合わせた土居さんは、松とは正反対に、お花畑のように元気いっぱいに光り輝く笑みを浮かべていた。
「楽しかったよー、わきあいあいとしたパーティでさ!花家さんも、来ればよかったのにねえ」
「そう?」
昨夜のクリスマスパーティが相当楽しかったのだろう。身振り態度で見て取れる。
彼女はべらべらと昨夜のことを喋っていたが、途中で止まった階で、降りて行った。
松は、はぁ~っとため息をついた。
「そういうわけにはいかないよなぁ?監視人の目がうるさいもんなあ」
再びエレベーターが動き出したとき、背後から話しかけられた。振り返ると、そこには鈴木さんが立っていた。
「監視人?」
「アイツ、きょうまで出張だろ?次はいつレッスンなの?」
「アイツって、誰のことですか?」
松はしらばっくれた。
「もちろん、昨日から名古屋に出張に行っている、キミの真後ろの席のヤツのことだよ。どうしたの、そんなひどい顔して。喧嘩でもしたの」
喧嘩…
松は、考えた。
この前の車の中での出来事は喧嘩ではないよね。
どう見たって、向こうは喜んで面白そうにしていたし。
と、悩ましげに眉を寄せた。
「鈴木さん」
エレベーターを二人して降りた松は、歩きながらいきなり喋り始めた。
「私って、何が至らないんでしょう?」
「何、突然」
「英語も貿易実務も頑張っているつもりなんですけど、それだけじゃダメなんでしょうか」
「は?」
「いっつも、機嫌を損ねているような気がするんですけど…」
いや、彼が機嫌の悪い理由はわかっている。
神楽さんがどうだの、彼を慕う女性がたくさんいるんじゃないだのと、松がしょっちゅうか彼を困らせているからだ。鈴木さんにこんなことを尋ねるのはお門違いであろう。だけど、口が勝手に動いてしまうのは、ストレスが溜まっているからか、それとも、寝不足のせいか。
「ふーん」
鈴木さんは顎に手を当てた。
「そういえば、アイツも同じような事を言っていたっけな?」
「へ?」
「オレは、東京で再会してから花家ちゃんを泣かせてばっかいるって言っていたけど、そうなの?」
泣かせた?
そんなに泣いたことあったっけな?
ぶん殴ってしまったことはあったけど。
まあ、つい数日前、車の中で思いっきり泣いたことは事実だが。
「最近、すれ違い?」
鈴木さんは気遣うように言う。
それ、どういう意味?
彼は、どこまで知っているのか、ふたりの関係をどう見ているだろう…
「すれ違いっていうか」
松はぽつぽつと話し始めた。
「徳永さんの仕事が忙しいみたいで、時間とってもらうの、迷惑じゃないかなあと思ってはいるんですけど」
「ああ、最近あいつ、新しいプロジェクトを任されたらしくって、忙しくしているみたいだね」
「そうなんですか?」
初めて聞くな。
「ここだけの話」
彼は声を潜めた。
「そのプロジェクト、あんまり乗り気でないって、本人は言っていたけどね。それを受けると、派閥争いに巻き込まれそうだからって」
「派閥争い?」
「あいつ、もともと、上海駐在だったろ。中国に強いんだ。人脈もあるし。それを斎賀さんが強引にニューヨーク支社に引き抜いちゃったろ?でも今、戻ってきた事情はともかく、日本にいるんなら、彼を中国担当に戻そうかって言いだしている人達がいてさ。それで、何やらモメているらしいんだよね」
「モメている?」
「アイツを中国に戻したがっているのは、海外事業部の家成副部長なんだ。それを聞きつけたニューヨーク支社長の斎賀さんが、アイツが家成さんから中国向けの仕事を押し付けられる前に、早々にニューヨークに引き戻そうとしているみたいなんだ」
「えっ、じゃあ、徳永さんが年明けにニューヨークに帰っちゃうっていうのは、本当なんですか?」
「いや、まだ決まった話じゃない。こういう話はね、うえの力関係によるんだよ。家成副部長は、中国担当の清野専務派で、清野さんは徳永の事をよく知っているんだ。アイツ、上海に派遣されて右も左もわからなかったとき、清野さんからものすごく可愛がられたことがあってさ。清野さんの方も相当徳永の事、買ってるみたいだし。で、その清野さんが、徳永が、ニューヨークから帰ってきているのなら、上海の仕事に戻ってほしいって言いだしたらしくて。だけど、斎賀さんが首を縦にふらなくてね。あたりまえだろ?いまは事情が事情で、いったん商売を東京に引き上げてきているけど、いずれアイツはニューヨークに戻る身だ。斎賀さんは、アイツを手放すだなんてこれっぽっちも考えていないんだよ。こういう話はね、直前まで決まらないんだよね。だから、まだどちらとも言えないんだ」
そうなんだ、徳永さんって、斎賀さん以外にもいろんな人から目をかけられているんだ。やっぱり彼は優秀なんだよなぁ。だけど、徳永さん、そんな話、これっぽっちも、してくれなかったよな。
鈴木さん、“ここだけの話”なんて言いながら、私のような立ち場の人間に話すなんて、これって結構、周知の事実なんじゃないだろうかと思った。
「花家ちゃん、徳永のヤツとデートするときはあるの?」
松が暗くなってしまったので、気を使ったのだろうか、いきなり鈴木さんが明るい声で尋ねてきた。
「一緒に食事とか」
「は?デートなんかしたことないですよ。ゴハン食べながら英語のレッスンとかはありますけど」
「それでもいいや。今度、ふたりで食事にでも行っておいでよ」
鈴木さんはいきなりデートを勧め始めた。
「実は、友達が最近、この近くでイタメシ屋を開店してね。割引するから来てくれないかって、頼まれたんだ。年末までのサービス券があるんだよ。これ、あげるからアイツとメシでも食って来ない?」
彼はポケットの中から細長い紙を取り出して、松の前にひらひらとちらつかせた。
「え?でも」
いきなり何なんだ?デート??
「クリスマス明けの時期の悪いときに開店しちゃって、お客さんは閑古鳥なんだってさ。寂しくてたまんないらしいんだよね。ぜひ来いって頼まれたんだけど、オレもこの通り忙しくて。どう?ふたりで行って来たら」
一緒にイタメシ屋で食事?
次の徳永さんとの夜レッスンは、最終日の二十八日だけれども。
「嫌かな?」
「別に嫌というわけじゃ…」
「じゃ、よかったら考えておいてよ」
松が返事を渋っている間に、デスクに到着してしまったので、鈴木さんはそれだけ言い残して、席に着いた。
松も席に着いた。イタメシは大好きだし、そういう事情なら南田さんや部署のほかの方を誘って食事にでも利用できそうだなと感じたが、どういうわけか鈴木さんは、“アイツと一緒に”というところを強調した。
松は、どうしたもんかと考えた。
ちゃんとしたところでふたりで食事をしたことは、この前のような休日の課外レッスンを除いて、英会話レッスンが始まってから、一、二度あるかないくらいだった。イタメシ屋だなんていう恰好のついたところに入ることなど、殆どなかった。
松は、ぼんやりと考え続けた。
ひょっとしてレッスンの後、食事をする所とか、そういう場所の設定なんかも生徒の身である自分が進んで探し出して、連れていくぐらいの事をしなければならなかったのだろうか。
徳永さんとの終業後のレッスンは、大概、部署横にある商談コーナーか、空いている会議室を使う。その後、時間があるときは安い食堂にふたりしてよる事もあるが、時間がないときはコンビニで弁当を買って食べながら話したり、そのまま食事をしないで徳永さんは帰宅することもあった。そんな時はきっと神楽さんが食事を作って待っているんだろうと思うと、キリっと胸が痛むこともあった。
ううむ、どうしたものか。
出しゃばったことをして、余計な事をするなと言われるだろうか。
だけど、この前の休みの日も、オゴってもらってばかりだっし、寮の部屋でご馳走になったし、いくら松が安給料といえども、少しぐらいのお返しをせねば義理がたたないのではないだろうか、と、改めて考えた。
ええい、一度くらい、かまわないだろう。
徳永さんとは、ニューヨークに訪問したとき、何度も一緒に外食をしたものだ。
あの時のように、ゆっくりとくつろぎながら話せたら。
近頃は英語英語英語ばかりで、一緒にいても、気を抜く間がまったくなかったもんな。
松は、鈴木さんを昼休みに呼び止めた。そして、今朝話していたイタメシ屋の割引チケット頂けないかと頼んだ。鈴木さんは、
「よかった、きっと気に入ると思うよ」
と、いって、ほっとした表情を浮かべ、チケットを手渡してくれた。
翌日の二十七日、徳永さんが出社してきた。
相変わらず忙しそうだったが、ランチレッスンの予定があったので、レッスンが一通り終わると、松は、さっそくその話を切り出した。
「イタメシ屋で食事?」
徳永さんが、何を急にそんな事を思いついたんだという顔で問う。
「どうしたの、急に。いつもの食堂に飽きた?」
「そうじゃなくて、12月28日は最終日でしょ?」
最終日は、午後の三時ごろで業務を終わらせ、机の上の物を一切合切片づけて、皆それぞれ掃除をするのが習わしである。五時が過ぎたら、会議室に集まりジュースやお酒などがふるまわれ、軽いお疲れさまパーティが行われる。その流れで飲みに行く人もいるが、要は、この日はオフィスに残って残業ができないのだ。パーティは三十分ほど顔を出せばよいから、この日はたっぷりレッスンできるな、とふたりで言っていたのだ。
「五時半から二時間ぴっちりやっても、まだ食事に行く時間あるし、鈴木さんから、鈴木さんの知り合いの方のイタメシ屋に、ふたりで行って来ればって薦められて」
「鈴木が?」
徳永さんは眉を寄せる。
「ひょっとしてそのイタメシ屋って、青山のラ・カンターレってお店?」
「なんで知っているんですか?」
「知り合いが、クリスマス明けの悪いタイミングにイタメシ屋を開店したって、聞いたことあるからさ」
そう言って、徳永さんは腕を組み、鼻をつまんで何やら考えだした。
「そうなんです、そういうわけなんです。鈴木さんは忙しくていけないらしくて。鈴木さんのかわりと言っては何ですけど、安くしてくれるって言うんで」
松は、徳永さんが負担に感じないように敢えて“安く”と付け足した。
「あ、あのですね。こ、今回は、その、わたしが徳永さんを招待したくて」
「へ?」
「わたしが徳永さんをご馳走したいんです」
と、松は言った。
「いや、それは」
徳永さんは言った。
「いえ、ぜひ、そうさせてください」
「そんな事をしてもらうわけにはいかないよ」
「いいえ、わたし、いつも英語をタダで教えてもらって、お世話になってばかりだし」
「だけど」
「仕事場でお世話になっている先輩に、後輩が食事に誘うだけのことです」
松は言った。
「英語を教えてもらっているお礼なんですから、ウチの母も、いえ誰も何も思ったりしないと思います」
徳永さんはしばらくじっと松の顔を見ていたが、納得したのかやがて緊張させていた頬を緩めた。そして、鼻をつまみながら
「フウン」
と、言った。
「なるほど、そういうことなら、招待に応じようかな」
松はほっとした。いつもの大衆食堂に行くのをやめて、場所をイタメシ屋に変えただけだ。何も大袈裟に考えることはない。大したことないよね?
「よかったぁ。ありがとうございます」
「花家ちゃんから、食事の誘いをうけるとはなぁ」
と、彼はしみじみといった。
「それ、この前も言っていましたよね?」
松はテキストをたたみながら、幾分しょぼくれた。
「それは、わたし、今まであまりに、徳永さんに気をつかってこなかってことですよね?これからは、素敵な場所があれば招待できるように気を使うようにしますから」
桐子が言う「好きな人を守る」だの「強くなれ」だの、彼女のいう意味は分からないけど、松は松なりに考えて、今までと同じに、好意を受けてばかりではダメと思ったのだ。
「そういう意味で言っているんじゃないよ。招待を受けるというものは、うれしいものなんだなあと思っただけだよ」
と、彼は、柔らかく微笑む。
ああこれだよこれ。この前も見た、破壊力抜群の笑顔。
「それは、若い女の子からの誘いだからですか?」
冷静に尋ねてみる。
「は?」
「この前、そんな事いってたじゃないですか」
「確かにそういったけど」
徳永さんはそう返されるとは思わなかったらしい。ちょっと目を見開いた。
「でもそれじゃあ、オレが、ただの女好きみたいじゃないか。若い女の子だからと言って、誰彼構わずだなんて思っていないよ」
「違うんですか?」
松はわざとツンとすませてみせた。
「男なら、花家ちゃんに食事を誘われたら誰でもそう思うと思うけどな」
はたまた社交辞令かリップサービスか。いやいや、これしきの事で何も動ずるまい。
「お食事に招待かぁ、楽しみだな」
徳永さんは、ニコニコしながら言う。
「じゃあ、オレも何かお礼を考えなくちゃね」
「やめてください、お礼をされたらまた、お返ししなくちゃならなくなるから」
「だからって、女性から食事に招待されて、手ぶらではいけないし」
なんて言いながらニコニコ笑って松を見ろおしている。
う、やめてくれその顔。
この前、車の中で見せたあの笑顔とおんなじ顔。
ここ、社食なんだから、そんなに幸せそうに笑わないでほしい。
ほら、まわりで食事をしている人たちが変な顔してこちらをみているじゃないか。
いったい、何がそんなにうれしいんだか。
「花家ちゃんって、好きなものなに?ほしいものとかないの」
「もぉ~、だからいらないって言っているでしょ」
松は懸命に辞退する。
「女の子のほしそうなもの、リサーチしとかなきゃな」
何度言っても徳永さんは、お返しの話をやめない。
だめだこりゃ。松は
「早く戻りましょう」
と、徳永さんを急かして、食器のトレイをもって立ち上がった。
徳永さん、ものすごく嬉しそう。
こんなに上機嫌な徳永さんを久しぶりに見た。
めったにお目にかかれない笑顔だが、これまで松が自分からすすんで彼に近づいたとき、何度かこんな笑顔を浮かべて喜んでくれたことを思い出した。
有給を取って空港の国際線に彼を見送りに行ったとき、
単身でニューヨークに彼を訪ねにいったとき、
桜のきれいな公園に連れて行ったとき、
そして、つい数日前、彼にキスをしようと松の方から迫ったとき----
「また赤くなってる」
「は?」
「何かいやらしいことでも、考えていたのか?」
「そんなこと、考えていませんよ!考えているわけないでしょ!!」
「え、だってついこの前車の中で迫ってきた時だって真っ赤になってたし…」
「ちちち、ちょっと、やめてください!」
「だって、本当のことじゃないか」
ものすごく嬉しそうに言う。
「だからって、口に出さないでください。他の人が聞いてるじゃないですか」
松は、もっと真っ赤になって、やめてと言わんばかりに、バチンと徳永さんの背中をたたいた。
「痛いなあ。暴力反対」
背中をさすりながら言うの口元もニヤけている。
まったくもう。やらしい事考えているの、徳永さんじゃないの?
とはいえ、松はその日一日中ハッピーだった。
但馬さんからのいつもの「これが見にくい、使いづらい」攻撃もなんのその、明日どんな服を着ていこうかとか、髪はどんな風にまこうかとか、そんな事ばかりを考えて浮かれて一日を終えた。
だから変える間際、「お疲れさま」と、声をかけてくれた徳永さんの声に覇気がなくて、表情が暗いのに気が付かなかったのだ。
翌朝はいつもより一時間早く起きた。
今日は今年の最終日。
いつもより早く業務が終わるから、時間が足りなくなるに違いないと、余裕をもって早めに家を出た。
会社の最寄り駅の改札で徳永さん後姿を見つけた。
三つ揃えの濃いグレーのスーツに、カフス付きの薄ピンクのカラーシャツ。そして白のポイントの入ったブルー系のネクタイをしていた。
今日はいつにもましてオシャレだ。
グレーのスーツは松のお気に入りの組みあわせだった。
イタメシ屋に行くからってそんなに気を使わなくてもいいのになぁ。
顔が緩むのを必死にこらえながら彼の後姿を目で追う。
追い越そうか、声をかけようかと後ろからついていこうか悩んでいたら、彼の手に洒落た唐草模様プリントの紙袋が左手に握られている事に気が付いた。
松は目を見張った。
あれは、キャラメル・シフォンの紙袋ではないか?
間違いない!
キャラメル・シフォンは今年の九月に東京にやってきた松でさえ知っている、このあたりの若い女性の間で評判の洋菓子店で、そこのチョコキャラメルが絶品なことで有名だった。
ちょっと待ってよ。
今日のディナーのお礼に、わざわざキャラメル・シフォンまで行って、松のためにチョコ菓子を入手してきてくれたとか?
松は、カバンの中に手を入れて、小さな紙包みにそっと触れた。
実は、徳永さんが昨日あまりに「お礼をしなきゃな」とやたらというので、何かもらったときのために、というわけでもないが、遅くなってしまったクリスマスプレゼント代わりに、手袋を用意していたのだ。ブランド品ではないが上品なイタリアンレザーの黒のスエードで、触り心地の良い絹で裏打ちがしてある、松が昨夜、閉店間際のデパートで買い求めたものであった。
「よかったぁ。お礼のつもりで食事に招待したのに、プレゼントなんかもらったら、恰好が付かないもん」
その日は、業務が午後の三時までということもあって、誰もかれもが忙しそうにバタバタしていた。特に但馬さんは海外事業部の入力業務を一手に引き受けているのに、システムの動きがトロく、運悪くサーバーがダウンするなどのトラブルが発生し、半端ないヒステリーの嵐をあたりにぶちまけていた。
もちろん、その矛先は松にも及ぶ。
まず彼女は、きょうの松のデート仕様の衣装を上から下までジロジロと見まわし、より一層強く松にあたった。
「今日の台風は大型だわ…」
などと愚痴っても誰も慰めてくれはしない。みな、自分の事で必死だ。まあ、これを乗り切ったら今日は掃除とパーティだけで、あとは徳永さんとのレッスンと食事のみ。あとちょっとだ。頑張ろう。
昼前にエレベーターホールで徳永さんとばったり会った。
彼はコートを着てカバンを持っていた。
松は、これから社食に行って、静かにひとりでランチを取ろうと思っているところだった。
「外出ですか?」
時間を気にしている徳永さんに、松が話しかける。
「ああ、お客とランチでそのあと打ち合わせだ。三時ごろには戻るが」
と言っているその顔がどうも浮かない。何かあったのか、落ち着かないそぶりだ。
どうかしたんですか、と尋ねる前に、彼は腕時計から目を離すと、非常にすまなそうに、
「花家ちゃん、朝一に言おうと思ったんだけど、副部長に呼ばれてずっと会議でね、メールもできなかったんだ。ごめん、きょうは夜のレッスンも食事も行けなくなった」
と、言った。
「えっ?」
最初、何を言われているのかわからなかった。
何?いけなくなった??
「昨日、残業中に家成副部長から呼び出しがあってさ、今日の夜、急遽接待が入ってしまって」
こういった、キャンセルはよくあることだ。
だけど、今日なだけに、松の失望は半端なかった。
「ごめん、きっと埋め合わせはするから。ええと、次は年の瀬の12月31日なら空いているんだ、どうかな?その日に、例のテスト形式のレッスンをしようと思っているんだけど」
松はショックのあまり、顔がこわばったままだが、なんとかスケジュールを思い出そうと思考を巡らせた。
「え…と、31日は、津山さんがこの日ならって、やっと時間をあけてくれて、貿易実務のわからないところを教えてもらう予定にしているんです」
なんとか気持ちを立て直そうとするが笑顔が作れない。
「29日か30日じゃダメなんですか?」
徳永さんはポリっと頭の後ろを掻いた。
「29日は一時帰国している斎賀さんの自宅でのホームパーティに呼ばれていて」
「パーティ?」
「斎賀さんの奥さんのご厚意なんだ。毎年、独身者を家に招いてふるまうのが恒例行事みたいで。あ、いっておくけど招待されているのは全員男ばっかりだからね。斎賀さんの子供も男の子ばかりだし」
気を使って”男ばっかりだよ”と言う徳永さんは、松の失った顔色に焦っているようにも見えた。
「あ、それじゃ、仕方ないですね。じゃあ、30日は?」
「…ああ、30日は、福祉施設のボランティアがあって…」
視線を落としてものすごくいい辛そうだ。
福祉施設のボランティアって、なんだそりゃ。
斎賀さんのパーティは仕方がないとしても、松の英会話レッスンより優先すべき事柄なのだろうかと、思いよどんだとき、彼の気まずそうな表情から何を意味するのかすぐに察しがついた。
神楽さんのお父さんの事を言っているのだ。
お父さんを福祉施設に連れて行かなくてはならないのだ。
松は急にがっかりしてしまった。
彼が神楽さんの用事を優先したことも残念だったが、それ以上に、言葉を濁して「福祉施設のボランティア」とあいまいな表現を使ったことにイライラしたのだ。
松は、彼が神楽さんのお父さんの介護を手伝っていることを知っている。
だからはっきりそう言ってくれたらいいじゃないか。
だけど、彼がなぜそういわなかったのも松が原因だった。
松の前で、“神楽さん”の名前を出すのを、彼は遠慮しているのだろう。
「義己に代わってもらえないか頼んでみたんだけど、あいつも冬休みちゅうはバイトのシフトがガチガチで動かせなくてね」
「・・・・・・・」
責めることなどできはしない。
仕事なんだから仕方がないじゃないか。
徳永さんは優秀で、彼の才能を認める重役連中から引っ張りだこなのだ。
それに神楽さんのお父さんは徳永さんが松が知り合うずっと前に徳永さんがお世話になった人で、立てねばならない義理があるのだろう。
松の先生役は余った時間になされるべきもので、そちらが優先されるのに決まっている。
だけど、だけど。
松は、作り笑いも浮かべることができず、ひきつってしまったのをどうしようにも出来なかった。
「31日の津山との約束は、午前中?もし、午後があいているようなら、午後からどうかなと思って」
と、徳永さん。
「31日の大晦日はカイ君から兄弟二人水入らずで過ごすって聞いているんですけど、大丈夫なんですか?」
「あ?別にそんな事ないよ。義己の寮は年末年始は閉鎖になるんだよ。だからその間だけ、オレの寮に転がり込むことになっているんだけど、オレが迎えに行かなきゃ、あいつ、オレの寮に入れないから、午後は開けておかなきゃならないだけでさ」
「じゃあ、わたしとのレッスンなんてできないじゃないですか?」
「いや、どのみち、あいつバイト行ってて、帰ってくるの深夜になるだろうし、まったく問題ないよ」
松は、以前から、カイ君から、年末は兄貴の寮に行くんだと聞いていたのだ。というのも、両親が離婚して父親が死去して以来、年末年始だけはいつも兄弟水入らずで過ごすことにしていたと、そんな話を聞いていたことがあったからだ。そんな特別な日に、他人が割り込んで、大事な家族の時間を邪魔するのは申し訳ない気がした。だけど、徳永さんと会える日はこの日しかないという。松は答えた。
「津山さんとは、まだ時間を決めていないんです。今日メールして津山さんに聞いてみます」
津山さんは大晦日の午後の便で、彼女は松との約束の後、そのまま電車に乗って実家に移動すると聞いている。おそらく、午前中に約束しても問題ないだろう。
「ごめん」
徳徳永さん、本当に申し訳なさそう。
「時間がきまったら、後でまた、携帯に連絡してくれ」
と言って、やってきたエレベーターに乗って行ってしまった。
松は、トボトボと食堂に向かった。
今日の楽しみが台無しになってしまった。
松が地元に帰らないと聞いて、年末の休みの間にしっかりレッスンをしようと以前から徳永さんの方から言っていたので、二十九日と三十日はまるまるあけておいたのだ。それが両方ともダメだなんて。
松は、肘をついてもぐもぐとゴハンを食べたが、味がしなかった。今日はこれから三時まで終わらせねばならない仕事がたくさん残っているというのに、元気がでなかった。
午後一に、部署に戻ると、松は、落ちていたサーバーを立ち上げなおしをした。これで海外事業部のシステムがうまい具合に稼働しますように…!
と願いながらというか、ほとんど念じるような気持でスイッチを押した。
システムは順調に稼働し始めた。が、カミサマのイジワルなのか、機械の気まぐれなのか、但馬さんの使っているパソコンのみ、動こうとしない。これは、システムどうのという問題ではなく、明らかにパソコンの故障であった。
システムに関しては松の担当だが、パソコン自身の事は専門外だ。
だが、めちゃくちゃ運が悪い事にパソコン修理の担当者がその日は不在で、松はその担当に代わってわざわざシステム会社に電話をかけて、超特急で代替品を支給してもらうように頼むハメになった。
「あと、一時間でもってきてもらえるようなので…」
「はぁ?一時間??」
但馬さんが赤鬼になったかと思った。
「今日は3時でシステムが終わってしまうっていうのに、たったの一時間ちょっとでどーやってこの山のような入力をこなせっていうわけ??間に合わなかったら、どう責任とってくれんの?」
機嫌が悪いのは松も同じだったが、但馬さんは、怒るだけのエネルギーが余っているのだろう。大声で思い切り怒鳴りまくった。
松はこの場をうまくやりすごすために、目だけ怒りながらも口元はにっこり笑い、
「ほかの方のパソコンを借りたらどうですか」
と、言ってみた。
「はぁ?この忙しいのに、空いているパソコンがあるわけないじゃない!」
さらにキンキンした声。
松はくるりとふりかえった。但馬さんの真後ろの席に、同事業部で同じシステムを使っている派遣社員さんがいた。松はその人に
「但馬さんにパソコンを一時間だけ貸してあげれれないか」
と、頼んでやった。
但馬さんは、それを見て一層、額に青筋を立てていた。
彼女はニューヨークからの移動組の現地社員で東京で知り合いが少ないうえ、態度が態度だけにここの事業部の人から好かれていない。
特に、松がいま頼み事をした派遣社員さんと但馬さんは犬猿の仲で有名だった。
おそらく但馬さんは、彼女のパソコンを触るのすら嫌だと思うかもしれないが、松は、但馬さんの事情なんか知るもんか、と思った。派遣社員さんは松とは懇意で、借主が但馬さんにも関わらず、快く承諾してくれた。が、松はなんで但馬さんの代わりに、人に頼み事をしてやらなきゃならないんだ、という気分だった。
二時半頃に、津山さんからメールが来て、大晦の彼女との予定は午前中に決まった。
とりあえずほっとした。
三十一日は、お昼を津山さんと食べて、午後一から夕方ぐらいまでなら徳永さんと一緒に過ごせる。
っていうか、テスト形式の質問があるから気は抜けないんだけどね。
松は携帯を手にもって、徳永さんに私用メールをするために近くにある空き会議室に移動した。
その部屋は中で仕切りがあって、松は仕切りの向こう側に入り込んだ。椅子に座り、手短に徳永さんにメールしようと携帯を開いたとき、半開きの扉越しに、複数の若い女性の声が聞こえてきた。
「あ~、今日は忙しいのなんのって。死にそうだわ~あれ、こんなところにキャラメル・シフォンの紙袋がおきっぱなしじゃないの~もらっちゃおうっかなー」
どうやら声の主は隣の海外事業部の事務を担当している女性職員のようだ。
「あー、それ多分徳永さんのだと思う。触んない方がいいと思うけど」
もうひとりがいう。
「なんで知ってるの?ああ見えて、徳永さんって甘党?」
「いやいや、自分で食べたりしないでしょ~多分お土産に持って行くんだと思うよ。今日の夜さ、徳永さん、清野専務のお宅に食事の招待されてたから、お土産にお菓子でも買ってきたんでしょ」
「えー何々、清野専務のご招待って何なの?」
「清野専務のところに、年頃の娘がいるみたいでさぁ~、徳永さんとは前からの知り合いらしいんだけど、その娘が、どうしても徳永さんに会いたいからウチに呼んでくれって、父親に泣きついたらしいんだよね。っていう話を、清野さんと徳永さんが打ち合わせしている会議室にお茶を運んだ時にチラっと聞いたんだけどさ」
「ああ、徳永さんが上海にいてた時って、清野さんにえらく可愛がられていたってきいたけど、娘にも気に入られていたんだ。それで?」
「昨日の夜、清野専務との会議が終わった後に、あたし徳永さんに聞かれたのよ。たまたま残業していて他に女子がいなかったから聞いてきたんだと思うけど。若い女性がお土産にもらって喜びそうなモノって何かなって。で、キャラメル・シフォンの生チョコなら、普通の女性なら大概喜ぶと思いますよって、教えてあげたんだよね」
「でも、あの生チョコ一日百個限定じゃなかったっけ?」
「今日早く出社していたでしょ?きっと早くお店に行って、買ってきたんじゃないのかなあ」
「へぇーそうなんだぁ。わざわざあんなところまで早起きしてチョコ買いに行くだなんて、徳永さんその娘にまんざらでもないとか?」
「どうなんだろうねぇ。徳永さんの気持ちは知らないけど、清野専務の方は大乗りきりだと思わない?」
「思う、思う!今だって、ニューヨーク支社長の斎賀さんと徳永さんを取り合っているんでしょ?あわよくば娘とくっついてくれれば、清野専務としては万々歳だもんねぇ」
「ほーんと!だいたい29日に斎賀さんの家で、独身者だけのホームパーティに徳永さん、招かれているじゃない。清野さんも負けてらんないって、それに対抗して徳永さんを家に招待したのミエミエよねえ」
「しっかし、徳永さんって本当にもてるよなぁ。確かにカッコいいし親切だけど、わたしは遠慮したいな」
「なんで?」
「めっちゃくちゃ仕事人間じゃない!結婚なんかしたら、“私と仕事、どっちが大事?”って絶対奥さんから言われそうな人だと思う」
「ああ、それわかるよ。でもそういわれても結構動じないタイプではあるよね」
「そうそう!冷静っていうか。ちょっとロボットみたいなところあるよね。ホラ、隣のシステム課の子会社から長期出張してきている花家さんっているじゃない」
突然、松の名前が出てきて、松の心臓は口から飛び出すかと思うぐらいギョっとした。
「あの子に英語教えているの、食堂とかブースで見かけるけど、徳永さん、めっちゃくちゃ厳しいんだよね。彼女だけ特別扱いだって、最初みんな、あの子にやっかんでいたけど、キツイのなんのって、相手が涙目になってビビっていても、容赦ないんだもん。食堂にいたみんなが近くに寄れなくて、徳永さんたちのまわりの席だけ空席になってんの。妬むどころか、最近じゃ、同情乞われるぐらい徳永さん、あの子に強くあたっているらしいんだよね」
「ああ!その話きいた~徳永さんに女ができたって誰よって、聞かれたことあるけど、みんな、本人の顔見たら、彼女は違うって納得するんだよね。ああ、いっつも社食で徳永さんに泣かされている子でしょって」
「絶対、彼女とか特別な女性とか、そういう扱いじゃないよねぇ~立ち食いソバ屋で一緒にいるところを見かけた人もいるみたいだし」
「えー!そうなの?」
「いくら夜遅くまで特訓してるからといったって、立ち食いソバ屋はありえないでしょ?彼女とはそんなところいかないわよねえ。普通」
「いかないと思う。っていうか、わたしは無理だ」
「わたしも」
「少なくとも、清野常務の娘を立ち食いソバ屋には連れては行かいだろうねえ」
ふたりはそんな事を言い合いながら、自分好みの男性はどうだとか、こうだとか無駄話をしてから、その会議室を出て行った。
この会話がなされてた最初は、こちらの部屋に入ってこられたらどうしようかと、ひやひやしながら、耳をそばだてていた松であった。
が、だんだんと話しの内容が聞き捨てならなくなって、こっちから出て行ってやろうかと半分椅子から腰を浮かせていたのだが。
だけど、最後の
“清野常務の娘を立ち食いソバ屋には連れては行かないと思うなぁ”
と言うセリフに松も妙に共感してしまい、文句の言葉も唇の先で消え失せ、結局出ていくことはできなくなってしまったのであった。
<35.慌しい年の瀬の最中で②>へ、つづく。




