2.イケメン登場
毎日、数行づつ更新しています。
2.イケメン登場
年が明けた。
始業は一月四日だった。この日は、殆どの営業マンは挨拶まわりに外に出てしまう。内勤の連中も、半日だけで午後は自由退社となる。松のいる経理課も、帳表類が出てこない事もあって、あまり仕事にならない。
社食にひとりでランチをとりに行くと、友人の千歩が通路側のテーブルに座りこちらに顔を向けて手をふっているのが見えた。
彼女から「こっち、こっち、一緒に食べよう」と、誘ってきてくれたので、松は千歩の向かい側に席をとった。
「正月早々、御出勤ご苦労様~今年もヨロシク」
と、互いに社会人らしく頭をさげて挨拶をする。千歩は同期入社で、まあまあ仲の良い友人の一人だ。
「休み明け早速なんだけど、合コンに行かない?」
椅子に座って箸を持つ間もなく、千歩が話し始めた。
「合コン?」
「うん、人事部の瀬名さんって知っているでしょ?あの人に合コン設定してくれないかって頼まれちゃって」
瀬名さんは松や千歩達より四年上の、飲み助で有名な男性社員だ。
「瀬名さんには、前に、男性の数の足りない時に助っ人で来てくれたことがあって、そのお返しをしなくっちゃならないの。頼むよ~」
と、手を合せて頼み込まれる。
合コンは入社一年目二年目は、よく誘われていったものだ。
昨年は英会話講座や、社内試験があったりとすっかりご無沙汰だった。それに、徳永さんとのこともあった。
「あっそれとも、ショウは誘っちゃだめだったかな?ひょっとして、付き合っている人がいるとか」
千歩は松の戸惑った表情に気が付いたようだ。
「別にそういうわけじゃないけど」
「そう?ならいいんだけどさ」
と言いつつ、千歩はまだ気にしている様子。
「その、それにショウのあの人って、今、ニューヨークでしょ?」
“ショウのあの人”。
千歩の部署は松と同じフロアで、彼の送別会にも来ていたので、松が誰と噂があったかもちろん知っているのだ。
「あーそうだね」
先日の徳永さんとの電話の内容を思い返し、わびしい気持ちになってしまった。
ニューヨークだろうがアラスカだろうが、あんな言い方をされてしまったからには、彼が今どこに住んでいるかだなんて、あんまり関係ないのだけれど。
「どしたの?やっぱマズかった?」
「ううん!そんなことないよ」
松はわざと明るく言った。
「行く!合コンにいく!いい人いたら紹介してよ」
フラれた相手に遠慮して、新しい出会いを遠慮するなんてバカらしい。
「ほんと?よかったー」
その後、千歩は、「じゃ、日にちと時間が決まったら連絡するから」と言って、食事を終えると先に席をたって行ってしまった。
松は食後のお茶を飲みながら、しばらくひとりでぼーっとしていた。
正確には、ぼーっとお茶を飲みながら、徳永さんの事を考えていた。
徳永さんに合コンに行くっていったら、何て言うだろうか。
きっと、お見合いをする、と言った時と同じ様な反応を示すのだろう。
君はまだ若いんだから、まだこれから新しい人との出会いがいくらでもあるんだから、と言って、是非に行ってこいと言うに違いない。
さすがにあの最後の会話の後はショックでしばらく動けなかったけれど、時が経つにつれ、悲しさは薄れ、年が明けるころには、
「それならお見合いでも何でもやって、徳永さんがアッというような素敵な彼をみつけてやる!」
という強気な気持になっていた。
ところが、意を決して挑もうと思ったお年始のお見合いが、二月に延期になってしまったのだ。
「なんで?」
残念なような、嬉しいような、そのどちらでもないような、微妙な気持ちで母親に尋ねる。
「先方の御都合でね。お正月に帰省することになっていたのが、スキー旅行にいってしまったんですって」
なんだ、そうなのか。
せっかくやる気になったというのに。こんなんなら、徳永さんにお見合いの件を持ちだすまでもなかったじゃないかと思う。
はぁー、人生とはうまくいかないもんだな。
そんなことを考えながら、ため息がでてしまったらしい。今の松の心の中を覗いていたかのような声が、傍らから聞こえてきた。
「つきあっている人がいるのに、合コンなんて行っていいの?」
と、突然知らない男性の低い声が、松の耳に入って来たのだ。
顔をあげて声の主を確認すると、さっき千歩が座っていた席の右隣に座っている若い男が、こちらをジッと見つめているではないか。
こめかみ近くにナイフでつけたような傷痕のある顔。
彼は、楊枝で歯の隙間をシーハーしながら足を組み、こちらを見下ろすかのような態度でジロジロと眺めまわしていた。
誰この男?
「わたしに言っているんですか?」
「あったりめぇだろ?ここには、お前以外いねぇじゃねぇか」
顔に傷のある男。
もし、外見が角刈りの目つきの悪い男なら、ヤクザの端くれに見えたかもしれないが、大田原君をショウユ仕立てしたような、所謂、松好みの目元のさわやかな若いイケメン青年であった。
「あんた、四階の経理課のハナゲさんだろ?」
「・・・・・・」
「隣の席の男と噂になっていた」
「いえ、わたしは」
「ソイツとつきあってんだろ。合コンになんて行って良いわけ?」
「・・・・・・?」
「それともナニ?向こうはニューヨークにいるんだから、何したってバレないからいいってか?」
何でもお見通しと言った具合の顔。
松はまじまじとこの男を眺め返した。
一体何者???
室内の中とはいえ、スタイルのよい体は白いシャツとズボンだけで、セーターもジャケットも着ていない。寒くないのだろうか。
「人の体、ジロジロ見るんじゃねェよ。気持ち悪ぃ」
彼は切れ長の目を細めて吐き捨てるように言った。
「それとも誘っているわけ?」
松は、慌てて目を逸らした。
「だから、女っていうのは、信用できねぇんだよ」
「は?」
と、訳が分からず松は言う。
「誰のことを言っているんですか」
「おめぇしかいねぇだろ?」
と、彼は言った。そして、楊枝をぽんと皿の上に放り投げた。
「あっちの男がいいとスリよっていったと思ったら、こっちの男にも色目を使う。だから、女なんて信用できねえって言ってんだよ」
「なっ・・・!」
と松は言い返そうとしたが、彼は立ち上がると
「合コンなんて、どこが楽しいのかオレにはちっともわかんねぇな」
と言い捨てて、そのままトレイを持って去って行ってしまった。
呆気にとられて、その男の後ろ姿を見送った。
「もぉ、なんなのよ!」
なんつー慣れ慣れしい男だ。
しかもハナゲって許せないじゃないのさ。
しかし、彼は一体…?
見たことあるような気がするけど思い出せない。
同じフロアにあんな人いなかったし。
同業者にしては若すぎるし、サラリーマンというよりホストっぽい印象だし。
どこかで見たことあるけど、あんな目立つ傷がある人なら、忘れるはずないと思うのだが、どうしても思い出せないなぁと、松はその後ずーっとひっぱっていた。
彼が何者なのか分かったのは、例の千歩主催の合コンに行った時だった。
その日、月末締めの作業で忙しかった松は、七時の始まりから大幅に遅れて、会場に到着したのが八時半だった。
会は始まっており、すでに宴たけなわ。
男性側の幹事の瀬名さんはすでに酔っぱらっており、隣の女性を口説こうとしていた。女性側の幹事の千歩も、連れてきた女友達に気を配るのに忙しそうにしていた。
松は、空いている隅の方に席を取った。
こういった合コンの場に遅れて参加することほど、居ずらいことはない。最初の三十分で自己紹介が終わってしまうし、次の一時間で場が盛り上がってしまう。盛り上がりきった中へ、会話に入っていくのはなかなかしんどいし、もともとオクテの松は進んで男性に話しかけるほど、積極的ではない。
しかし今回ばかりは別だった。
「ふぅ」と席に着いて、「何か飲めるものはないかな?」と、辺りを見回したその時、親切な手が隣から現れて、メニューがスッと差し出された。
「どうぞ、飲み放題だから好きな物、頼んだら?」
なんか、聞き覚えのある声だなーと、頭をあげて、隣に目をやった。
そこにいたのは、ついこの前食堂で会った、大田原君をショウユ仕立てしたようなあの傷のある男だった。
彼は、こちらを見下ろしながらにやにやしている。
「また会ったねえ」
と、彼は言った。
「ハナゲさんだったっけ?」
松はまた呆気にとられて、彼を見つめていた。
「いいえ」
間はあったが、松ははっきりと言った。
「わたしの名前、ハナゲではなく、ハナイエなんです」
「そうだったね」
と、彼は前回会ったときとはうってかわった雰囲気で上品に微笑んで言った。
「ハナイエさん。俺、カイって言うんだ。宜しくね」
にっこりと笑って自己紹介する。
「こちらこそ、花家松と言います」
ハナゲと言われてむかついたが、合コンの場だということを思い出して、一応、愛想よく答えた。
「何にする?ここ、甘いお酒なら充実しているよ」
と言って、カイ君は手際よくメニューを繰って、
「これなんかいいんじゃない?」
と、面白そうなカクテルを選んでくれる。
「ありがとう、じゃ、それにする」
松は言った。
「どうも、ご親切に」
「どういたしまして」
彼は、手際よく店員を呼んでドリンクを注文してくれた。そして、肘をテーブルに乗せて手を顎につけて、じっとこっちを見ていた。
合コンだっていうのに、彼はテーブルの向こうのことなんて、てんでお構いなしって感じだった。
「あのー、この前食堂でお会いしましたよね?」
と、松から話しかけてみた。
「カイさんは、ウチの会社の方なんですか」
「バイトに来てるんだ。俺、あんたとこの会社の総務部のメールセンターでバイトしているの。一日四回、郵便物の配達に各フロアーまわっているんで、ここにいる女の子のことは殆ど顔見知りなんだよ」
メールセンター。
それでか。
やっと納得いった。
そう言えば、昨年の秋ごろから総務部に若いイケメンがバイトに来ているって耳にしていたけど、彼のことだったのか。メールセンターで働いているんなら、社内の人間ことを知っていて当たり前だな。
「ショウ、彼カッコいいでしょ?」
斜め前に居た千歩が合間に話しかけてくる。
「今日は突然欠席者が出て、瀬名さんに言われて無理に来てくれたみたいで」
「あっ、そうなんですか」
と、松は言った。
「頼まれたんでね。安く酒飲ませてくれるって言うからさ」
と、彼は言った。
「でも今日はカイ君に来てもらえてよかった。今日は、松の知らないメンツばかりだから、カイ君がいたら話しやすいと思って」
千歩は言った。
「へ?」
意味わかんない。この人とはそんな知り合いじゃないし。
「カイ君はね、徳永さんと親しいらしいから、ショウとは共通の話題があるかなぁと思って」
「と、徳永さんと知り合いなんですか?」
思わず、声がうわずってしまう。
「まぁ~そうだね。実は、今の仕事もあの人のツテで就かせてもらったもんだから」
カイ君は、にまにま笑いながら答えた。
「その、親しいんですか?」
「親しいって言えば親しいよ」
千歩が、期待するような顔でこちらを眺めている。何よ、その顔。徳永さんを肴に、彼と酒でも飲めっていうの。
「そ、そうなんだ。カイ君って、若く見えるから、徳永さんと知り合いってあまり想像できなくて」
「あ、オレ。見た目通り、若いッスよ。高校に行っているし」
「え、そうなの?」
意外な情報に、松も千歩も目をまるめる。
「通信制の高校なんだよ。昼はお宅の会社でバイトして、夜はコンビニでの仕事の合間に、単発のバイトしたりして暮らしている」
「へぇーそうなんだぁ~えらいね」
高校生と知って、上から目線なコメントになってしまった。
「別にエラクなんかないけどねぇ。オレぐらいの年の連中なら、俺と同じような暮らし方しているヤツなんていくらでもいるし」
「オレぐらいの年って、あなた、いくつなの?」
「あと半年で二十歳になる」
「あーっそうなんだ」
と、松も千歩も深く頷いたが、三十秒ほど間があった後、松は雷にうたれたかのように体を痙攣させ、いきなり、彼の手にあったグラスをぐいっととりあげた。
「ち、ちょっと、アンタ、未成年じゃない!お酒はダメでしょ?」
「あ゛?」
グラスを取り上げられて機嫌を悪くしたのか、ドスの効いた声で言い返された。
「どこがいけねぇんだ」
「十代の少年にお酒飲ませるわけにはいかないよ」
松の言っている意味を理解した千歩が、一緒に青くなっている。
松達の会社は、そういった風紀や法律に関わるようなことは厳しくて、飲酒運転で捕まろうものなら即クビなので、松や松の会社の連中は、朝から運転するような場合は、前日の夜から一切アルコールに手をつけない。
「オレ今日は電車だから飲んだってかんけぇねぇだろ?」
彼はグラスを奪い返そうとする。大人しかった口調が、不機嫌になったせいか、この前食堂で会った時のやさぐれた雰囲気に戻っている。
「だから、それ、けぇせよ」
「ダメダメダメ、そう言う問題じゃないの!未成年にお酒飲ませたって会社に知られたら、アタシ達とんでもないことになる!」
松は、ちらりと瀬名さんの方を見た。今の会話はもちろん瀬名さんはまるで平気な様子で、そんなことは知っていたようなそぶり。
「固いこと言いっこなし」
瀬名さんは何食わぬ顔をしている。
「だいたい、ウチの会社は二十歳未満は雇わない方針なんだぜ?ヤツが未成年なわけないだろ」
あっ、そうか。
と、松は千歩と顔を見合わせる。瀬名さんは人事部の人だから採用するときに、カイ君の年齢を確認しているはず。 それに、うちの会社は、たとえバイトであっても、高卒以上でなけりゃ雇ったりしない。
となると…?
「ま、彼は、徳永さんの口利きだからね」
瀬名さんは言った。
「こういうことは珍しいことじゃないでしょ」
縁故ってヤツだ。きっと年齢を誤魔化しているに違いない。
しかし、びっくりする話だった。
親会社の人とはいえ、徳永さんが人事部に無理を通せるような人だとは思いもしなかったのである。と同時に、このカイ君とやらが、徳永さんとそれほどまで親しい間柄なのかと思うと、ちょっと驚いてしまった。
「フフン」
と、松の思っていることが分かっているかのように彼はにやにやと笑った。
「じゃ、そろそろいい時間だし、二次会と行きますか」
と、九時半近くになってから、瀬名さんが席を立ったと同時に皆も立った。
松は、一次会の半分もいられなかったが、目の前で自分をジロジロ眺めているカイ君が徳永さんに近い人間で、この場にいることにツッコミを入れたそうにニヤニヤしているのを見ると、なんとなく二次会に行く気になれなかった。
「ゴメン、あたし二次会遠慮してもいい?」
松は、千歩に小声で頼み込んだ。
「ちょっとあまり体調よくなくて」
「え、具合悪いなら、帰ってくれていいよ。大丈夫?」
千歩は心配そうに言った。
「大丈夫だよ。悪いけど、瀬名さんに宜しく言っておいて」
そう言ってシレっといなくなろうとしたとき、カイ君が松の方に振り返った。
「帰るの?」
相変わらずにやにやしている。気分が悪くないことはバレバレな気がする。
「送ろうか?」
「い…いえ、結構です」
「ふぅん」
と、彼は言った。
「じゃ、また会社でね、ハナゲさん」
訂正するのも面倒なので、
「どうも」
とだけ言って、松はそのまま彼を振り切って帰ろうとした。
「具合悪くなるぐらいなら」
踵を返した松の背中に向かって
「合コンなんて来なけりゃいいんだよ」
と言う、カイ君の声が最後に聞こえてきた。
翌朝、今日は始業前に人事発表があるから二十分早く来るようにとのお達しで、八時過ぎには会社に着いた。
ロッカールームで眠そうな表情の千歩と目が合う。千歩は営業職なので、朝は早かったり遅かったりとバラバラだ。
「昨夜は早く帰ってごめんね」
松は謝った。
「あの後、遅くまで飲んでいたの?」
「いや、結構早く終わったよ。急に瀬名さんの機嫌が悪くなっちゃってさ、あんまり盛り上がらなくて十時半にはお開きになってね」
瀬名さんの機嫌が悪いって、それは。
「瀬名さん、ひょっとしてわたしが二次会に行かなかったの、怒ってた?」
「怒りはしなかったけど」
千歩は言いにくそうだった。
「多分、瀬名さん、ショウに居て欲しかったんじゃないのかなぁ」
松は、困り顔の千歩に悪いことをしたと思った。
瀬名さんは、こういうところに結構律儀なところがある。五対五のコンパをするとなれば、面子が途中で欠けたり増えたりするのを嫌がるタイプなのだ。
「それより、メールセンターのカイ君がショウは大丈夫なのかって、あの後、何度も心配して聞いていたよ」
「カイ君が?」
「彼、いまだ高校生だっていうから、ビックリだったわ~。ショウは彼のこと、知っていたの」
「ううん、殆ど。一度食堂で少し話しただけだったし」
「へぇー、彼、徳永さんと知り合いっていうから、てっきりショウとも知り合いかと思っていた。カッコいいし、十代とは残念だなぁ」
千歩は言った。
「千歩の好みのタイプ?」
ちょっと興味あるのかな。
「たとえ好みのタイプでも、まだ高校生じゃん」
千歩は残念そうにつぶやいた。
「でも、四、五歳の年の差なんて、別に珍しくないじゃない。今はアルバイターでも、あれだけイケメンなら将来化けるかもしんないわよ。今からツバつけとけば?」
と、松は真面目に勧めてみる。
「そういう話は、最近冗談で聞き流せなくなってきたのが悲しいわ」
千歩は声のトーンを落とした。
「あたし今年で二十五歳なのよ。あの子がマトモに社会に出て何とか様になるまで、タップリ五年ぐらいかかりそうじゃない。そういう相手にはときめかないの」
千歩は同期だが、四大卒なので松達より二歳年上なのだ。結婚観も二年先をいっているわけだ。
「徳永さんみたいに素敵な3高がいるわけでなし、ホントは贅沢いってられないんだけどさ」
「ハハハ」
笑う気分じゃないが、ここは笑うしかない。
「笑い事じゃないわよー。あんただって、徳永さんを基準に考えていたら、出会いなんて本当になくなっちゃうわよ。あんな何でもかんでも条件がそろっている男なんて、普通に見まわしてみたって、そういるもんじゃないんだからさ」
「別に徳永さんを基準になんかしていないよ」
と、松は抗議した。
そうだ、徳永さんを基準に考えているわけではない。
ただ、徳永さんを好きになってしまったので、彼以外が目に入らなくなってしまったという、重篤な状態というだけで。
その時、八時半のベルが鳴り響いた。
「やばい、今朝は、部署で朝礼前の人事発表があるの、先行くね」
松は時計を見て、先にロッカールームを後にした。
途中で、荷物を積んだ台車をついている人を追い抜きそうになった。いつもは見慣れている景色だけど、松はその台車の横でピタリと足を止めた。
「あれっ」
「おはようございます」
と、松の姿をみとめたその人は、にっこりと笑みを浮かべる。
「昨夜はどうも」
昨夜のやさぐれた雰囲気が嘘のような、さわやかな笑み。
そうだ、空気のようにさりげなく居て当たり前の、いつも決まった時間に郵便物を宅配してくれているこの人が、カイ君だったのだ。
ついさっきまでロッカールームで彼の噂話をしていたバツの悪さから、つい赤くなってしまう。かといって、このまま何も言わずに素通りしていくのも気まずい。昨夜の事を少しでも尋ねた方がいいのかな、と思案しているうちに、あまりこの人とは関わらない方がいいのかもと考えていたらマヌケ面になっていたのだろう、ぼんやり顔の松に、カイ君はとっておきの笑顔で笑いかけると、手にしてあった郵便物の入った大きな袋をドサっと手渡した。
「え、何?」
「丁度良かった。コレ、お宅の部署宛の郵便物。ついでに持って行ってくんねぇかな」
かなりの重みのある袋を突然手渡されて、松は、困惑して、立ちすくんでしまった。
「ほら、早く行ったら。今日は朝礼前に人事発表があるんだろ?」
「あっ、そうだった」
と言って、松は、行こうとした。そして、ハタとたちどまった。
「ちょっと待って。なんでアナタがそんなことまで知っているの?」
「うちのメールセンターは人事部のとなりなんだよね」
と、カイ君はシレっと答える。
「それに、総務部のオバサマ方の口に戸は立てらんねぇからな。オレら、社内のことなら結構何でも知ってんの」
「・・・・・・」
「さ、早く行けば」
カイ君は、カートの方向を変えて行った。
「さっき、おたくの所属長がもうここを通ってったぜ」
松は言われて、踵を返し、すぐに走って行った。郵便物の入った袋を両手に抱えて部署にはいっていくと、トクミツ氏がすでに前に立っていて、スピーチをしようとしているところだった。松は郵便物を自分の机に置いて、トクミツ氏を取り囲んでいる輪の後ろの方にそっと加わった。
今朝の人事発表の内容は、松達もだいたい分かっていた。
トクミツ氏の上司にあたる事業部長が昇進してここを去るため、トクミツ氏がそのポジションを引き継ぎ、彼が経理課長と兼任することになった。それにともない、新たに一人、経理課への人事異動があった。
「経理課でのわたしの仕事を、引き継いでやってくれる、瀬名君を紹介する」
と、トクミツ氏は経理課の課員に彼を紹介した。
「どうも、瀬名春信と申します。人事部からきました。宜しくお願いします」
瀬名さんは、昨夜の疲れを見せずに、きりりとひきしまった表情で皆に挨拶する。
「よろしく頼むよ、瀬名君。あ、花家君、瀬名君のことアシストしてあげてね。課内の事も色々教えてあげてくれ」
いきなりの瀬名さんの登場にトクミツ氏からそのように命じられて、松はぽかんとしてしまった。
「え、わたしがですか」
アシスタント役はともかく、課内の秘書役なら、普段から、乙部さんと言う名前の、松より三歳ほど年上の派遣社員の女性が担当している。
「乙部君は、事業部長付きの秘書に異動してもらうことになった」
と、松の何か言いたそうな顔を察して、トクミツ氏は言った。
どうやら、前任の事業部長が、自分の秘書だった女性を自分の異動先につれていくことにしたので、それならばと、トクミツ氏も以前から馴染みのある乙部さんを自分の秘書として連れて行くことにしたらしい。
「経理課内の事は、乙部さんに劣らず花家さんはとても詳しいからね」
トクミツ氏は言った。
「瀬名君、何でも花家さんに聞いて」
「分かりました。宜しく、花家さん」
と、瀬名さんは松に挨拶する。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
と、松も答えたが、この時、瀬名さんの異動が松の人生を左右することなど、この時松は、まだ全然知る由もなかった。
<3.仕事と恋> へ、つづく。




