28.訪問者たち
28.訪問者たち
松達システム情報課の連中は、翌日から忙しい日が続いた。
外貨システムの改訂案を上司に報告したところ、年明け早々にデザイン変更をするからと、アンケートを取り直せと命じられたからだ。
要は、要望を漏れなく調査及び精査して、抜けがないようにしろと言う事だ。
まったくこの忙しい所にまたアンケートかと思っていたら、あちこちの部署から、ああして欲しい、この辺を変えて欲しいと予想以上の様々な意見があがってきたため、それらの意見を取り纏めるのに、一層時間を食われることになってしまった。
どうやら、どこからどう伝わったのか、「年明けの変更が最終の決定」という噂が全社的に出回ってしまったらしい。
しかも、そんな時に限って、定例の社内監査とかちあってしまい、新しい会計表の見方、読み方が分からないから教えに来てくれと、各部署から頻繁に呼び出された。
日中松は殆ど自分の席に就けない日々が続いた。
その間自分の作業ははかどらないし、アンケートはまとまらないし、ない時間の合間を縫って、システム会社の人と打ち合わせをしなければならなかったので、その頃の松は、残業続きどころか寝る間もないような本当に忙しい日々を送っていた。
しかも、忙しい時に限ってトラブルが発生するのである。
ある日、やれやれと自席に戻ってきてコーヒーをいれてやっと一息つこうとしたら、メインサーバーがダウンしたという連絡が飛び込んできた。
ええ、どういうこと?さっき、システム会社の担当者がやってきてみてもらったばっかりだってのに。
頭が痛くなりそうだったが、悩んでいる間などありはしない。サーバーが止まれば全社的にシステムが使えなくなってしまう。
松は慌てて、いましがた帰ったばっかりのシステム会社の担当者を呼び返した。この年の瀬にむこうだって暇なわけではないはずだが、帰ったばかりだというのに、文句のひとつも言わずに戻ってきてくれて、丁寧にシステムを再稼働してくれた。
本当に申し訳なかったが、こればっかりは仕方がない。担当者には本当に申し訳ないと頭が下がると同時に、その忍耐強さに心から敬服した。自分ならとっくにキレてしまっただろう。
「年始の改訂が最終だって噂が流れているでしょ?」
ある日の残業中に、疲れ眼の南田さんが籠った声で松に呟いてきた。
「あの噂、誰かがわざと全社じゅうに流したらしいのよね、誰だと思う?」
あまりに疲れすぎて、動きの鈍くなった頭で松は必死に南田さんの言っている事を理解しようとするが、耳元でワンワンと唸っているようにしか聞こえない。
「うんーー、誰なんでしょう?」
と、松は機械的に言った。
「但馬さんらしいのよ」
後ろに居ないのを確認してから、南田さんはコソっと呟いた。
「但馬さんが?」
松は振り返った。
「システム情報課の連中はシステムの改訂作業を積極的じゃないから、年明けの改訂にもれちゃったら今度いつ営業課の意向を取り入れてくれるかわからないから、直してもらいたい所があったら早く言っておいた方がいいって、彼女、そう吹聴してまわっているらしいのよ」
「ええ?」
松達、システム情報課の連中は、別にシステム改訂に積極的でも消極的でもない。
各営業課から意見がそれ相応に集まってきたら、直すべきところは直すから案がまとまったら報告してくれと、上司から言われていたが、いついつまでと時期は決まっていなかった。
確かに、システムの改訂は定期的には行われないが、改訂する必要がある時は、上の判断において、必要度合いに応じタイミングを見計らってする事になっている。
「その上彼女、システム情報課はノルマが課せられているわけじゃないから、もともと仕事に対してやる気がないし、怠けることばかり考えているって言いふらしているらしいんだよね」
「それ、本当なんですか」
やる気がなくて仕事してないかのように噂がでまわっているんだなんて、全く信じられない話である。南田さんはプリプリしながら言った。
「そのくせ、残業だけばバッチリして、ガッポリ残業代だけは稼いでいるって言ったんですってよ?」
「はぁ?」
「いくらなんでも、つい最近やってきた、たかがニューヨークで採用された現地社員にそんな事言われたくないわよ。一体、何の権利があってそんな事言いふらすのか分からないわ。まるで私達が、残業代を稼ぐために、わざと仕事を怠けているみたいじゃないよ」
どうやら南田さんはランチの席で他部署の同期からその噂を聞きつけて来たようである。営業課の連中は、ニューヨークから期間限定でやってきた現地社員の言い分を全部鵜呑みにしてないようだが「今回の改定が最終決定」という部分だけは信じたらしく、皆焦って、あれこれ要望をあげてきたのだった。
「全くやってられないわよねえ」
南田さんは、深い溜息をついた。
「ただでさえ、疲れているっていうのに。わたしのやる気を返してほしいわ」
松も同じ思いだった。
システム改変にあたって予想以上の要望が上がってくることに対してではない。
寝る間を惜しんで働いているというのに、いったいどうして、彼女に給料ドロボーのように言われなければならないのか全く分からない。
松はふとこの前の彼女とのやり取りを思い出した。
『英会話の勉強だか社内試験だかしらないけど、プライベートの方に現をぬかして仕事がいい加減になっているんじゃないでしょうね?』
但馬さんは、ニューヨークの現地社員でありまがら、徳永さんを追っ掛けて東京までやって来た人だ。
あの時、徳永さんは『憶測でものを言うな』と、松のことを庇ってくれた。
ひょっとして、彼女は、松を目の敵にしていて、腹いせにそんな事をしているとか?
悪意は抱きたくないが、やはりそんな噂を聞かされれば身構えてしまう。
その日も但馬さんに外貨決済の使い方を教えてくれと呼ばれて彼女の席まで行ったが、但馬さんの甲高い声が耳に入ってくると、話の内容を理解する前に身体がカチコチに固まってしまうのだった。
「前のシステムでは、このあたりに窓があって、クリックしたら社内口銭を入力する画面が出てきたのに、今回の画面では窓自身もなくなっているのよね」
但馬さんは自分の小さなパソコン画面にペン突き立てる。
「あのですね、あの子窓はなくなりまして、わざわざクリックしなくてもここに直接入力できるようになったんですよ」
松は画面の隅にある、小さ窓をアクティブにさせて三角印をカチカチおしてみせた。
「ほら、ここに口銭計上欄があります。ここに相手店を入れて、口銭のパーセンテージを入力するようになっているんです」
但馬さんは松の説明を聞いても、眉間に皺をよせたままだった。
彼女の言いたいことは分かる。
おそらく文字が小さいと言いたいのだろう。
小窓をクリックして別窓を開くやり方を廃止にして、ひとつの画面で見やすくしよう!
という意図での改変だったのだが、いかんせん、その分、画面が小さくなりすぎて、めちゃくちゃ小さい文字にならざるを得ず、見やすいどころかゴマ粒のような小さな文字になっている。
確かに見にくい。
もちろん画面を大きく引き伸ばしたらいいのだが、いちいち手間だし、彼女の言う通りにスクロールしなければ端っこが切れてしまう。
確かにこのパソコンは彼女の使っているシステムを見るには小さすぎた。
「画面が小さくて見ずらいとは思いますが」
松は、文句を言われる前に口を開いた。
「確かにこのパソコンは小さいですよね。上の方に頼んでもうちょっと大きな画面のをレンタルするようにお願いしてみたらどうですか」
「そんな事とっくに、頼んでみたわよ。だけど、社内ではこれが一般的なサイズだからダメって言われたの。一般的にこのサイズを使うことが分かっているんなら、それに応じたシステムにすればいいのに、全くセンスないとしか言いようがないわよ」
と、但馬さんは言った。
全く図星な意見である。だが、彼女の非難のこもった甲高い声で繰り出されると、なんだか空恐ろしいものを感じた。また彼女の口から、システムが使いにくいのはシステム情報課のせいなんだと、また吹聴されるのじゃなかろうか。
「システムは年明け早々にデザインを変えてもらえるように、お願いはしてありますので」
と、松は言った。
「それまで申し訳ありませんが、今の画面で我慢してもらえないですか」
「今度は本当に見やすくなるんでしょうね?」
但馬さんはギロっとこちらを見やりながら言う。
「あ、はい、文字を大きくするようには要望を出しています」
「本当?期待しているんだから嘘言わないでよ?」
彼女は念を押した。
松は頭をさげるとそそくさと席に戻って言った。
席に戻る途中、徳永さんと目があった。
彼は何か言いたげに松を見つめていたが何も言わなかった。
だが、松と但馬さんとのやりとりを見ていた鈴木さんも徳永さんと同じ様な目をして松の事を見ていた。
松が視線を合わせると、逸らされた。
何が言いたいの?
その理由はすぐに分かった。南田さんが後からコソっと教えてくれた。
「花家さん、いくら厳しく言われたからってあんまり謝らない方がいいよ。私達が悪いわけじゃないんだし」
「え?」
「但馬さんよ。あの人に、下手に謝ると何かあった時にこっちの責任にされるよ。こっちは年明け早々に改変できるようにやっているんだから、好き放題いわせないほうがいいよ」
松は
「わかりました、今度から気を付けます」
と答えたが、何だか面倒くさいなあと思った。
松達の仕事はシステムの使い方を教えると同時に、クレームの担当処理もある。あれが見にくい、こっちが使いづらい、と言ってくる人に、まず頭をさげて謝って宥めておいてから、話を聞く。
別にこちらが悪いと思っていないが、こっちが下手に出ておいた方が後々話が早いので、松はそうしているだけだった。
もちろん松は、最初からそんなペコペコ頭をさげるような卑屈な性格と言うわけではない。
ここに来る前はそんな態度はとらなかったが、長期出張中の子会社の人間であるという身ゆえ、敢えてそうしていたのである。
その日は、徳永さんは外出で接待の後は直帰だったので、英会話レッスンはなかった。
昼休みに十分ほど英語で短い言葉のやり取りをしながら、ランチを一緒に食べただけだ。
この日も残業。
貿易実務の勉強をしなくちゃなと思いつつも、毎日重いテキストを鞄に入れて持ち歩く日々が続いている。
「花家ちゃん、遅くまでご苦労様だね」
電気がポツポツとしかついていない暗がりの中から現れたのは、天野さんだった。
鈴木さんも南田さんも既に帰社していて、システム情報課は数人しか残っていなかった。松もあと少しで帰るところだった。
「どう、一緒に飯でも食べて帰らない?」
天野さんとは久しぶりだった。
彼は試験の後、実は同じフロアの営業課に異動してきていたが、滅多に会う事がなかった。松の方が、席外しばかりだったのですれ違う事すらなかったのだ。
「あ、お疲れ様です」
松は疲れてはいたが、笑顔を作って見せた。
「せっかくですけど、今日は家に帰って、食べますよ。今月、外食ばかりで金欠なもんで」
そう。最近、あまりに外食が多くなり、体調不良に加えてこのままではお金が続かないだろうと判断した松は、ついに自炊をするようになった。松ができる料理は限られているが、週末に作りためておいて、平日の夜にチンして食べるようにしている。
…のだが、天野さんは平然と、
「ホントに?じゃ、驕るよ」
なんて言ってくる。
「いつも驕ってもらってばかりですし、そんな、悪いですよ」
その申し出に松はきっぱりといった。驕ってもらうのも悪いが、このまま天野さんの御誘いを受けてしまえば、余分に時間を取られることになる。松は一刻も早く家に帰り、お風呂に入って、時間が余れば、貿易実務のテキストを見ようと思っていた。
「そんな事いわないでさ、よかったら試験勉強の手伝いするよ。貿易実務の分からないところとか、分かる範囲なら教えられるし」
貿易実務?松はハタと立ち止まった。
実は津山さんに質問したいところをいくつか纏めているのだが、最近彼女も忙しいようで、なかなかつかまらなかったのだ。神楽さんも教えてあげるよと言ってくれていたが、彼女も津山さん同様、忙しくて取り付く島もなかった。それになんとなく、神楽さんには近づきにくかった。
彼女側の事情ではなく、松の気持ちとして、徳永さんと特別な関係にあるかもしれない彼女に近づくのが怖かったのだ。
天野さんに勉強を教えてもらうのも気が引けたが、彼はもう試験に受かっている身だ。お返しに簿記を教えたりしなくてもよいのだから、気持分的に楽かもしれない。それに徳永さんだって、天野さんに教えてもらえばって言っていたし。
「じゃあ」
貿易実務のエサにつられて、松は素直に彼の誘いに応じた。
そんなわけで、ふたりしていそいそとフロアを出た。
天野さんも松が早く帰りたがっているのを見越してか、ビルの地下にある比較的料理が早く出て来る洋食屋に入って、料理を待っている間も、無駄に時間をつぶさず、松に貿易実務を丁寧に教えてくれた。
天野さんは本当に優秀な人だとつくづく思う。
とにかく教え方がウマイ。
彼は試験の結果はギリギリだったよ、だなんて言っていたけど、本当はもっとできるひとなんじゃないだろうか。
松は数回彼に簿記を教えたが、一度言った事は絶対忘れないし、のみこみが早いうえに、理解範囲も広い。
ひとつ言えば十個返って来るようなレスポンスのよさに脱帽してしまう。
天野さんは花家ちゃんの教え方がいいんだよと言うが、いやいや、生徒の方の理解力がいいからに違いないと思っていた。
「今日はありがとうございました。勉強も教えてもらっちゃってすごく助かりました!」
テキストを読んで疑問に思ったところをまとめたものを、ずっと持ち歩いていたのだが、ようやく疑問を解くことができて、とてもすっきりした。やっぱり教えてもらえてよかった。
「なんの、これぐらいお安い御用だよ。オレはもう初級は受かっちゃった身だから、分からないことがあればどんどんと聞いてよ、津山さんほど詳しく教えられないかもしれないけど、やらないよりマシだろ?」
と、天野さんは気前よく言う。マシだなんてとんでもない。全く彼はなんて親切な人なのか。
「最近、残業が多くて津山さんのところに質問にも行けなくて、困っていたんです。本当に助かりました」
松は素直に礼を述べた。
「ああ、システム改変で忙しくしているんだって?南田さんが嘆いてたよ。年内に終わらせなきゃならない他の仕事が沢山あるのにって。花家さんはどう、年は越せそう?」
「はい、結構たまっていますけど、まあ、なんとか頑張りますよ」
「年末年始はどうするの、実家に帰るのかな?」
「いえ、帰りません、実家に帰っても落ち着かないし、せっかくの休みですし、こっちに残って勉強することにしたんです」
徳永さんとのレッスンが最優先だが、毎日ずっとレッスンをするわけではない。せっかくの休みだ。年明けも同じ様に忙しい日が続くのなら、ここの所まったくすすんでいない貿易実務やら、英語の筆記の方を少しでも手をつけておきたかったのである。
「へぇー、殊勝な心構えだね。じゃ、クリスマスも勉強するのかな?」
「二十五日は平日ですよね。仕事しているか、残業しているかどっちかと思うんですけど」
天野さんは、「ふぅん」と箸で食べ物を口のなかに放り込みながら何気ないように返事をした。
「じゃ、その日、徳永さんのレッスンとかはないの?」
「え?ああ、はい。なんでも名古屋に泊まりで出張があるとかで」
「名古屋に泊まりで出張?」
天野さんはニヤリと笑った。
「クリスマスだっていうのに、出張だとは味気のない話だね」
「ええ、徳永さんも忙しいみたいで。年明けにニューヨークに行くみたいですし」
「ああ、その話は聞いた。年明けに神楽さんと一緒にニューヨークらしいね」
「神楽さんと?」
「ああ、人事に出張申請があがっていたのを、たまたまその場にいててね、チラッと聞いたんだよね。ひょっとして名古屋も一緒に行くんじゃないの?」
「え、神楽さんとですか?」
「あのふたり、仲良いよね。結婚も間近だってい噂も流れているし。花家ちゃんはそんな話し聞かない?」
「いいえ」
松は、相手に気取られぬように表情をかためたつもりだったが、血の気がひいていたかもしれない。
「聞いていません。それより徳永さんが、ニューヨークに神楽さんと一緒に行くって本当なんですか?」
「申請が出ていたからね、ウソもなにもないだろ」
クリスマスを一緒に過ごさないなら、きっと二人の仲はそんなんじゃないんだって期待していたけど、一緒にニューヨークに出張にいくのか。
「で、でも、仕事で行くんでしょうし、その、お二人は、プライベートまでそう言う仲とは限らないでしょう?」
質問というより心の声がダダ漏れたといった方が正しいだろう。松は顔を青くさせた。
「さあ、そこまではねえ。僕も、あの二人が同じ寮に住んでいて、ご飯をご馳走したりするような仲というぐらいしか、聞いていないからね」
ちょっと困ったように天野さんは眉尻をさげた。
「それよりさ、花家ちゃんは二十五日に南田さんのクリスマスパーティーには行かないの?オレ、誘われちゃったんだけど、社外の連中がほとんどらしくて知っている人が一人もいないんだよね。南田さんが花家ちゃんも誘ったっていうから、行くなら一緒にいこうと思ってね」
「いえ、勉強していますから、多分行かないと…思います。クリスマスはイブもずっと勉強していると思うので」
「イブも?今年のイブは休みだけど、ずっと勉強?」
「はい」
「もしかして、二十三日の祝日の日曜日も勉強しているのかな?」
「はい、多分。ここのところ全くできていないし、全然手をつけていない所も勉強したいですし。いい加減やらないといけないと思っていて」
と言った松の声は、さっきの情報でやたら暗い。
さっきまで心に満ち満ちていたやる気のようなものが、フウセンが萎むみたいに一気に萎れてしまった。
「そっかー、それは残念だね」
やや間を置いてから天野さんは言ったが、松は、何が残念なんだだうかと思った。
残念なのはこっちだっちゅーの。
しかし天野さんはニッコリ笑って、
「じゃ、週末はずっと家にいているわけだね」
なんて言っていた。
松はそれが何か?と口を開く前に、天野さんは席を立ってお会計をしに行った。
松は半分払うからと後を追いかけて言ったが、彼は受け取ろうとしなかった。松の財布を握っている手をそっと押しやった。
「また、お返ししもらうからいいよ」
翌日、出勤前に、会社の入っているビルの地下にあるコンビニで朝食を買にいくと、見覚えのある人に、物凄くなれなれしく声をかけられた。
「よぉ、久しぶりだよな、ニブチン」
レジに並ぶ列の隣から、にゅっと高いところから男が一人、松の頭を見下ろしている。
「か、か、か、カイ君?」
松は手にしていたペットボトルを取り落しそうになるぐらい仰天した。
「蚊取り線香じゃあるまいし、その呼び方やめて」
「なんでこんなところに居るの?」
松は目を見張る。
「兄貴んところに、借りていた車を返しにきたんだよ」
カイ君は以前みたときより、すっかり日焼けしてたくましくなっていた。彼と話したのはいつぶりだっけ?9.11の事件の時に、電話で話したとき以来?
「今、駐車場に停めてきたんだよ。鍵を返して帰ろうと思っていところ。ああ、そう言えばお前、また苦戦しているみてえだな」
「へっ?」
思わぬところで、思わぬ人と再会して、思わぬ事を聞かれて、松は、頭を真っ白にした。
何、どういう事?
「えらく、まわりにライバルがいっぱいいるようじゃねえか。だからあんとき言ったんだよ。早く電話して仲直りして、さっさと自分のものにしちまえばよかったのにって」
「な、な、な…」
相変わらず何でも知っている様な口ぶり。松は、返答に苦慮して、金魚のごとく口をパクパクひくつかせた。
「お前の事だから、相変わらず、理由つけてグダグダやってんだろうけどよ、何度も言うが、お前の方から仕掛けなきゃ、兄貴は自分から石みてぇに硬くなってぜってえ動かねえから、待っていたって、時間を無駄にするばかりか、後から来たやつに横からかっ攫われることになるぞ」
「え?」
「女が兄貴の家に出入りしているみてぇだし、ホント、気を付けろよ」
と、カイ君は言ったが、これ以上話すのがめんどくさいのか、眠たそうに、あくびをかみ殺して頭を掻き、持っていた弁当をレジに持って行って会計をした。
「そうだ、ここでお前に会えてよかったよ。兄貴にこれを渡しておいてくんねぇか?呼び出す手間が省けたよ」
そう言うと、カイ君はジャラリと重いキーホルダーを垂らした車の鍵を松の目の前にかざし、強引に鍵を受け取らせると、返事も待たずに、出口の方にスタスタと歩いてゆく。
「何?女が家に出入りしているってどういう事?誰が徳永さんの家に出入りしているって?」
松は、手に鍵を握った状態で、焦って、カイ君を追いかけた。
「誰かってお前、そんな事も知らねえのか」
カイ君は言った。
「いや、徳永さんの食事を作っている同期の女の人の部屋に、徳永さんが出入りしているっていうのは聞いているけど、その人のことのなの?」
「あ、知ってんの」
と、彼はポツリと言った。
「じゃ、そいつに違いねェ。その女がな、この鍵の持ち主なんだよ」
え、これが?
「これって、徳永さんの車じゃないの?」
松は、何の変哲のない車の鍵を握りしめて言った。
「だから、その女だよ、神楽っていう…」
やっぱり神楽さんだったんだ。カイ君は続けた。
「この前、兄貴の寮の部屋に行ったらさ、その女が兄貴の部屋に居て、一緒にメシ食ってんだよな。おれもご馳走になったんだけど、その時、帰りが遅くなったんで、その兄貴の部屋でメシ食っていた女が、自分は車を持っているから、それで帰れって言って、オレに車を貸してくれたんだよ」
え?
松は固まってしまった。
神楽さんが徳永さんの部屋に?
「自分はめったに乗らないから週末までに返しに来てくれたらいいって言うから、今日返しに来たわけ。だけど、変だと思わねェか?なんで乗らねえ車をわざわざ駐車場代を払って手元に置いてんだって思う?」
「どういうこと?」
「あの女、兄貴に車を貸しているんだよ」
「え、何で?」
「そりゃ、あそこの寮は坂の上にあって、駅からちょっと遠いだろ。遅刻しそうになったら車があれば便利だし…それに」
「それに?」
その先を言わないカイ君に、松はじれったそうに食いついた。
「それに、何よ」
カイ君はそんな事もわかんねえのかよって顔になった。
「お前ちょっと考えてみろよ。独身の男と女が、車が必要なシチュエーションを想像してみろよ。んなもん、デートに使う決まってんだろ?」
で、で、デート??
ガーーーーーーーーーーーーーーーン。。。
松は、言われて初めて気がついた。
そうか、車はデートの必需品だよね。
デート経験の限りなく少ない松は、今ここで初めて車がデートの重要アイテムであることを、知ったのであった。
「お前、こっちに来てから、兄貴に車に乗っけてもらったことあるの」
カイ君は言う。
「ううん、一度も」
東京に来てから車を運転している所だって見た事ないし。
「あの神楽って女、週末車を使うからって言っていたけど」
カイ君は言った。
「一体誰が使うんだろうねえ」
誰が使うのか?
徳永さん?それとも、神楽さん??
それとも、徳永さんが運転して、神楽さんが助手席に乗る事もあるんだろうか…。
カイ君と分かれて松は、鍵を片手に重い足取りで部署に赴いた。
その間中ずっと徳永さんの事を考えていた。
席に就く前に朝食を食べようと休憩室に寄ったら、徳永さんがそこでヨーグルトのパックを片手にサンドイッチをパクついているところだった。
「おはよ、どうしたの」
徳永さんはちょっと目を丸くしてジッと松の顔を覗き込んだ。
「顔色悪いけど。花家ちゃんって、朝よわかったっけ。なんか、白いよ」
松は両手で自分の冷たい頬を覆った。
確かに、朝は低血圧だが、白いのはそれが理由じゃない。
松はおもむろに手にしていた鍵を徳永さんに差し出した。
「おはようございます。別になんともないですよ」
「ほんと?」
徳永さんは更に、顔を松の方に近づけた。
ヤバイ。これ以上近づかれたら、動揺しているのがバレてしまう。
「はい、本当です」
松はとりあえず元気よく答えた。
「あっ、さっき、地下のコンビニでカイ君とバッタリ会って…車を返しにきたから、これを兄貴に渡しておいてって。駐車場に停めておいたからって言ってました」
徳永さんは何やらいいたげに松の顔をじっと見つめていたが、松の手から鍵を受け取ると、
「ああ、あいつ来ていたんだ」
と、眉をはらした。
「よかったよ、車が帰ってきて。コレ週末に使う予定だったんだよね」
「使う予定って…それ、徳永さんの車なんですか?」
徳永さんの車じゃないのは知っていたが、つい言ってしまった。
「いや、違う。これはね神楽の車なんだよ。イブの日にね、借りることにしたんだ」
え。何に使うの。デートとか?
「イブの日に、花家ちゃんと英語レッスンするって約束しているでしょ。その日、遠出をしようと思ったんだけど、車がある方が便利だし。神楽が車持っているんで貸してくれたんだよ」
「へ、イブの日ですか?」
週末と言うから、二十二日の土曜日か、二十三日の日曜の事かと思ったよ。
「イブの日は祝日ですけど月曜ですから、週末ではないですよ」
と、思わず松は言ってしまった。
「ああ、そうか」
徳永さんはちょっと、気まり悪そうに眉毛をハノ字にさせて視線を泳がせたが、松はその土日に、彼は他に車を使う別の用事があるのだろうかと思った。
「徳永さん、あの…」
さっきのカイ君の言葉が耳に残っている。
徳永さんと神楽さんの部屋へご飯を食べに行くような仲だ。
神楽さんが徳永さんの部屋で食べる事もあって。
その輪の中に、弟であるカイ君が混ざって、カイ君は神楽さんから車さえ借りることもあるのだと思うと、いままで浮き立っていた気持ちがしぼんでしまい、自分が、秋風に簡単に吹き飛ばされるたよりない枯葉のように感じた。
「ん?」
そんな事を知りもしない徳永さんは、松の顔をジッと覗き込んだまま、松の言葉の続きを待っていた。
「いえ、何もないです。あの、イブの日、楽しみしています」
「・・・・・・」
松が、無理な作り笑いをしたので、徳永さんは一層松の方に身体をかがめてジッと彼女の表情をとらえた。
「どうしたの、何か気になることでもあるの」
と、彼は言った。
「気になること?」
松は、狼狽えたところを見られたくなかった。そしてもじもじと視線を逸らせた。彼にこれ以上見つめられたら、心の奥底で滞って、ずっとそのままになっている不安をぶちまけてしまいそうだった。
「徳永さん、神楽さんとつきあっているの?彼女の事好きなの?私の事はもう全く気にも留めてくれないの?」
と。
「き、気になることはですね、あの、年末にテスト形式で質問するって徳永さん言っていたので、どんなこと質問されるのかなあって、そんな事を考えていたんです」
と、松は言ったが、そんな事を考えていないのはまるわかりだったと思う。
「当日の試験を意識した質問で、大したことじゃない。いつも通りにしていたらいいから」
と、彼は言った。
「…ですよね」
徳永さんは、ジッと松の顔を見ていた。
「この前…」
と、彼は言いだした。
「え?」
「この前、オレが外出先から直帰した日、地下のレストランで天野君とメシ食べていたんだって?」
「えっ」
松はとたんにきまり悪くなった。何でそんな事知っているんだ。
「え?あ、あの遅くなったから、一緒にご飯食べて帰らないかって誘われて、それで」
急いでアタフタと言い訳する。いやまて、どうして言い訳をする必要があるんだよ。わたしは何もやましいことはしていないぞ。
「花家ちゃんの方から誘ったの、それとも天野君から?」
と、彼は言った。
「あ、えっと、天野さんが帰るときに寄ってくれて、遅いから一緒に食べて帰らないからって言ってくれて」
「でも、最近は金欠だから自炊しているんじゃなかったのか?」
と、徳永さんは言った。
「え?あ、はい。その日も作りだめしていたのを食べるつもりだったんですけど、驕ってくれるって言ってくれたんで…じゃ、なかった、貿易実務を教えてくれるっていってくれたんで、それで、一緒に食事したんです」
「貿易実務?貿易実務までヤツに習ってんの?」
微かに口が歪む徳永さん。
「あ、津山さんほど詳しくないけど、教えないよりマシだろって言ってくれて。最近、津山さん忙しくてつかまらないから、ちょうどいいかなって。天野さんは初級にもう受かっているんで、お返しに、簿記を教えてあげなくてもいいし」
「そうか」
徳永さんは、食べ空のヨーグルトのパックをサンドイッチの包装材と一緒にぎゅっと片手で握りつぶした。
「あの?」
え、何か、機嫌悪いなあ、別に何も悪いことしてないよね、アタシ。
「貿易実務なら、神楽だって教えられるし、何で神楽に頼まないの。彼女の方が百倍も詳しいのに」
「あ、そうだと思うんですけど、神楽さんも忙しそうだから、何か悪いなって気がして」
実は神楽さんは、女子トイレなどで顔を合す度に、勉強の進み具合を聞いてくれる。本当に気遣ってくれているのが分かるが、やはり頼みにくかった。
「ふうん」
徳永さんはそれ以上言わなかった。そしてまた無表情な顔のままゴミをゴミバコに投げ入れた。
「あの」
松は、後ろ姿に思わず声をかけてしまった。
「ん?」
松は、今週末の土曜と日曜、車に乗ってどこかに出かけるんですか、と一瞬、尋ねようとした。
神楽さんと一緒にデートをするんですか、彼女とクリスマス前の週末を過ごすんですか、
と。
「何?」
と、彼は言った。
「いえ、あの、なんでもありません。服に埃がついていたので」
松は、徳永さんの美しい肩の先にひっついた糸くずを持ち上げた。ピンク色の糸くずだった。こんな派手な埃をどこでくっつけてきたんだろうか…
「ああ、ありがとう」
と、彼は言った。
その日、一日中、徳永さんも神楽さんも席に座って仕事をしていた。
相変わらず殺人的な忙しさで、二人の間にロマンチックな雰囲気など微塵も感じられないが、男女の関係は他人の眼には分からないものだ。ビジネスライクに見えるこの二人の間に特別な感情が流れていたっておかしくはない。
モンモンとした疑問が晴れないまま土曜日になった。
日頃の疲れを取るかのように、一度も目を覚まさず、松は、昼までグッスリと眠りこけた。
昼の十二時頃目を覚まし、おぼつかない足取りで食事をした。その後、部屋の中の掃除をにぶい動きでなんとかこなし、コートを着込んで買い物に出た。週末の作りための分の食材を買いだしに行くのである。
カレーとシチューとおでん、八宝菜。このサイクルの繰り返しだが、ないよりはずっといい。
ひととおりスーパーで買い物をした後、トイレットペーパーやら歯磨き粉やらなどの雑貨品を買うためにドラッグストアなどに寄ったので、けっこう時間を要してしまった。
家についてすぐに料理を始める。
今日はカレーでいいかな。
材料を適当にガンガンと切って、塩コショウとニンニクを入れて炒めて、後は煮込むだけ。
ご飯にスイッチをいれて、食事が出来上がる頃には、すっかりあたりは薄暗くなっていた。
食事ができあがった頃、松のお腹もいい塩梅に空いてきた。皿にカレーをよそい、水を用意してさあ食べようとしたところに、ピンポーンと部屋のチャイムが鳴った。
「絶妙なタイミングにいったい誰?」
通販で買った物は今のところないし。またセールスかと、うっとうしく思いながら「はい」と、ぞんざいな口調で受話器に出た。
『あの、天野です』
「…?」
『天野です。こんにちは』
松は、自分が幻聴を聞いたのかと思った。
慌ててドアの小窓を覗きに行ったら、そこに見覚えのある顔が映り込んでいた。
「あ、天野さん?!」
松は、ガチャリとドアを開けた。天野さんは両手に紙袋を提げて、ドアの前に立っていた。
「ど、どうなさったんですか?どうしてここに?」
「いい匂いだね、夕食はカレー?」
と、天野さんは質問に答えずに、部屋の奥にチラと視線をやってクンクンと鼻を鳴らした。
「ええ、はあ」
「あっ、これ。オレの実家がウチに送って来たもんなんだけど、沢山ありすぎて貰い手を探してるの。缶詰とミカンなんだけど、よかったらおすそ分けにと思って」
そう言って彼は、両手に提げていたふたつの紙袋を差し出す。
「花家ちゃん、最近自炊しているって言っていたから、あったら重宝するんじゃないかって思って」
「あ、ありがとうございます」
松は紙袋を受け取った。ひとつにはミカンが、もうとつには缶詰がどっさりとはいっていた。ミカンはいい香りがしているし、缶詰はよく見ると高級なものも混ざっている。
え、何、これを渡すためにわざわざ家まできてくれたの?
「あ、よかったら上がられますか」
一人暮らしの女性の家に、男性をうかつにあげるのは無防備と思いながらも、外は寒いし風はピューピュー吹いているし、ものをもらっておいて、すぐに追い返すのも失礼かと思った。
「よかったら、お茶でもいかがですか」
「ほんと、いいの?」
と、言いつつ
「すぐに帰るから」
と言って、彼は靴を脱いで中にあがって来た。
部屋の中に上がると、ローテーブルの上に今まさに食べようとしていたカレーの皿がのっかっていた。
「あ、今から食事だったんだね。ごめんね、邪魔して」
と、天野さんは申し訳なさそうに言った。
「あ、いいんです。そこに座って下さい。お茶入れますから。あ、それとも天野さんもお夕飯まだでしたら、カレーを一緒にいかがですか?」
「え、いいの?」
天野さんは目を輝かせる。
「材料を煮込んで、カレールーを入れただけの単純なものでよかったらですけど」
「とんでもない、でもせっかく、作った物を横から取るような事、もうしわけないよ」
「あ、いいんです、沢山作りましたから。味は保障しませんけど」
まあ、味が保障できないのは謙遜じゃなくて本音だけど。
「じゃ、お言葉に甘えようかな」
そう言って、天野さんは松の用意した座布団の上に座ってあぐらをかいて寛いだ。松は急いでお湯を沸かしてお茶を淹れ彼に勧めた。そうしているうちにカレーを温め直して、テーブルに持って行った。
「うわあ、おいしそう」
彼は、嬉しそうに目を細めてカレーを眺めている。
「どうぞ、召し上がってください」
「「いただきまーす」」
二人して手を合せて、スプーンでカレーをすくい、まさに食べようと思っていたその瞬間、再び「ピンポーン」というチャイム音が室内に流れた。
「誰今頃?」
松は声を上げた。
天野さんはカレーのスプーンを手にもったまま、固まっている。
「あっ、見てきますので、天野さんは先に食べててください。きっとセールスか何かと思うので、すぐに終わりますから」
そう言って、松は玄関に走って行った。
もぉ、何なのよ?
食事を待たされる事ほど、苛々させられることはない。
松は、受話器を取って幾分不機嫌な口調で、
「どちらさまですか?!」
と、応対に出た。だが、帰って来たの声は、
『わたしよ、早く開けて』
だった。
「は?」
『開けてって言っているでしょ。寒くて凍えそうよ!』
非常に聞き覚えのある声に仰天して、松は慌てて扉を開けた。
そこに立っていたのは、暖かそうなコートにくるまれてダルマみたいになっている母と、嬉しいんだか嬉しくないんだか、いつも曖昧な微笑みを浮かべている義父であった。
「何しに来たの?」
と、松は叫ばずにはいられなかった。
「そりゃあんたが、年末に帰ってこないっていうから、心配して様子をみにきてやったんじゃないの」
と、母は答えた。
<29.母と天野さん>へ、つづく。




