24.噂
24.噂
翌日、朝一に出社した徳永さんは、ビジネスバッグを片手に、午前十時前には出張先に出かけて行った。
今日の夜は、久しぶりに二人きりでレッスンかと思うと気持ちも上がるというものである。レッスンの後は食事にも行くというし。まるで、デートみたいではないか。
「はぁ~~~相変わらず、去りゆく姿もカッコいいわねえ」
徳永さんの後ろ姿を見送っていたら、いつの間にか南田さんが隣に立っていて、うっとりとした眼で、同じ方向を見つめていた。
「そうですね」
「でもね。いいんだっ。アタシ、徳永さんは“観賞用”にすることにしたんだ。見てて癒される人ってことでさ。だって、売約済みの人には期待したって後で失望するだけだもんねえ」
南田さんは諦めたように言った。
「売約済み…」
それって、
「神楽さんの事を言っているんですか」
と、松は恐る恐る聞いた。
「そりゃそうでしょ」
南田さんはコクンと頷いた。
「あたしの同期徳永さんと神楽さんと同じ寮なんだけど、ふたりが部屋を行き来しているの、よく見かけるらしいんだよね」
「そうなんですか?」
「しかも、本人達も全然隠すつもりないみたいだし。これは殆ど公認ってことでしょ?」
公認?
本当にそんな関係にまでなっているの?
「野村さんがさ」
南田さんは説明を続ける。
「野村さんって、派遣の?」
「ここだけの話だよ?野村さんが、徳永さんに告ったらしいんだけど」
「エッ!!」
松は、飛び上がった。大人しそうな、奥ゆかしそうな女性ってイメージだよな、野村さんって。あの人が?
「シーッ。本人から聞いたわけじゃないから、ここだけの話だよ?」
南田さんは声を潜める。
「やっぱり、徳永さん、心に決めた人がいるからって、ハッキリと断ったらしいんだよね。だけど野村さん、なかなか引き下がらなくて、相手は誰かって相当強く食いついたみたいでさ」
「教えてもらえたの?」
「はっきりと教えてもらえはしなかったみたいだけど、徳永さん、相手は社内の人だって、認めたんだって」
「社内の人…」
「それって、やっぱり神楽さんしか可能性考えられないでしょ?」
「そ、そ、かな」
うっ、やっぱ、そうなるのか。
同時に酷い衝撃を感じる。
わたしは対象になっているわけないか。
だって社内の人じゃない私は。
子会社からやってきた、ただの長期出張者だし。
「部屋を行き来するような仲なんだし」
「そだね…」
その日、徳永さんがいなかったので英会話ランチはなかった。
松は弁当を買って辞書と英字新聞と筆記用具を持って休憩室で昼食をとった。食べ終わり、その日の出された宿題をこなすべく新聞を眺め、辞書をひきながらノートに英語を綴っているところに、飲み物を買いに来た天野さんがやってきた。
「やあ、花家さん、今日は、徳永さんとのレッスンはないの?」
「はい、今日は一日徳永さんは出張でいらっしゃらないんです」
「そうなの?」
「ええ、なんでも急に決まったとかで」
「そうか」
とニッコリとそう言うと、彼は松の隣の席にどっかりと座りこんだ。
「じゃ、ラッキーだな。キミ一人のところにお邪魔することができたわけだ」
そして、また松が目の前に広げているノート類を見やりながら、
「それって、昨日言っていた徳永さんからの例の宿題?」
と、言った。
「あ、はい」
松は辞書をひっぱって見えないようにノートを隠した。ここで飲み物を飲むのかな。ちょっと邪魔なんだけど早く立ち去ってくれないかな。徳永さんからの言いつけを思い出して、松は天野さんと距離を取ろうとした。
「今日の夕方までにやらないと」
「あれ、でも、今日は徳永さん出張なんでしょ?」
天野さんは言った。
「今日、徳永さん戻ってこないなら、夜、レッスンないんじゃないの。なのに、僕らの英会話講座にこれないのかい」
せっかくのお誘いだったけれども、天野さんには、今晩のアメリカ人を交えた英会話ディスカッションの会は欠席させて頂きます、と今日朝一にメールで返事をしていた。
「はい、英語をしなくても貿易実務とかすること色々ありますし」
「一日だけだよ?それでもダメ?」
「でも、徳永さん、戻ってくるから」
「え?」
「徳永さん、出張先から今日はオフィスに戻ってこられるんです。だから夜のレッスンはする予定なんです」
「出張先からわざわざ、英語を教えるために戻ってくるの?」
天野さんはとても驚いたらしくコーヒーを飲むのも忘れて、目を見張っていた。
「そりゃまた…」
彼は、相当驚いたようで綺麗なアーモンドアイをさらに大きく見開いた。
松は、あまりに驚かれたので言わなきゃよかったと思った。
なぜだかわからないが、徳永さんのことで、天野さんから、あれこれ言われたくないと思ったからだ。
「じゃ、それが今日の宿題なんだ」
天野さんは、松の手元を見て言った。
「ええ、まあ」
「何を書こうとしているの?ちょっと見せてよ」
と、松の手元に視線を飛ばした。
「えっ、いいです」
松は、もっと手前にノートを寄せて隠そうとした。
「まあまあ、見せてごらんよ。まだノート真白じゃないか。今日のレッスンに間に合わせるの?じゃ、昼休みの間にやってしまわないとならないんだろ?」
そう言うと、天野さんは強引にノートの中身を自分の方に向けさした。そして、彼は宿題の中身を理解すると、松が準備していた英字新聞をパラパラとめくり、とある記事を指して
「この辺がいいんじゃない?」
と言って、サラサラと英語で話し始めた。
「え?」
松が、戸惑っていると、
「ホラ早く」
と言って、松に、自分が指さした部分をノートに書き留めるように命じた。
あまりのスマートな流れに松は、ついて行くことができなかった。
「ほら、ポカンとしていないで書き留めて」
天野さんは松のペンケースから一本ペンを取り出して、
「こんな風に書くんだよ」
と説明しながら、美しい筆記体の英字をスラスラとノートに書きだした。
ああ、なるほど、こんな風に書けばいいのか。
松は、彼の命じた通りにノートに英語を綴って行った。
たちまちノートが英文で埋まっていった。
天野さんは英語を呟くだけでなく、話の要約の仕方から、文章をまとめるコツまで詳しくレクチャーしてくれた。
天野さんは同じ人事の人でも、瀬名さんとは全然違った。
とにかく親切心の塊みたいな人で、ものすごく気遣いの人だ。
英語の会話も徳永さんほど流暢ではないが、弾丸トークで英語のシャワーをアメアラレの如く繰り出すのではなく、どちらかと言えばチェルシーさんの英語講座で習っていた時の雰囲気に近い。
理解しやすいので、満足感がある。
どうやら天野さんは人がいいだけでなく、相当頭がキレるようだ。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
時計を見ながら、天野さんは立ち上がった。
「本当にありがとうございました…!」
徳永さんから出された宿題が取りあえず片付けることができてほっとする。
「いや、どういたしまして」
と、天野さんはニッコリ笑った。
「これれで、何とか恰好がついたかな?」
「はい、お陰さまで」
「徳永さん、本当に熱心だよね。花家さんの事、本当にちゃんと考えているみたいだね」
「はい」
まあ、わたしだけでなく土居さんにも熱心に教えているけど。
「今晩、僕達の会の方に来てもらえなくて残念だよ」
「すみません。せっかく、誘って頂いたのに」
「ま、花家さんも忙しいよね。僕らの遊びの会に付き合っている暇ないか」
「別に、そう言う意味ではないです」
松は気を悪くさせてしまったのかと思った。
「本当にすみません、今回はどうしても行けなくて」
「わかっているよ、冗談だよ」
と、天野さんは言った。
「だけどもし、予定が変わったり、気がかわったりしたら、いつでも連絡してよ。簿記も教えて欲しいし」
「え?」
松は、笑顔が固まってしまった。
「アハハ、冗談だよ、徳永先生に怒られるもんね?」
と、彼は言った。
「すみません」
なんか今の言い方、含みがあるな。やっぱり、教えてもらった手前、お返ししなくちゃいけないってことか。
「それでも、時間ができたら、連絡してよ」
戸惑っていると、天野さんは目を細め、ちょっと間をおいて尚も言った。
「なんでも、徳永さんは、毎晩、晩飯を予約して、準備してくれる人が居るみたいって噂だから、あまりに戻るのが遅くなったらその人のところにいっちゃうかもしれないしさ」
「えっ」
天野さんからその話を耳にするとは思わなかったので、思わず大きな声が出てしまった。
「何の話ですか」
「ん?まあ、そういう時は、いつでも連絡してきてくれていいからってこと」
「そういう時?」
と、松は言ったが天野さんはニッコリと笑うだけで答えなかった。
そして
「それじゃあ」
と言って、休憩室を出て、自分の部署に戻って行った。
徳永さんには、毎晩食事を予約して準備してくれている人がいる。
そして彼は、しょっちゅう部屋を行き来している程親しい女性もいるのだ。
このふたつの情報は何を意味するのか?
その相手とはもしかして同一人物ではないのか?
その相手とは誰なのか??
そんな事を考えながら松は、食事の終わった弁当箱をのろのろと片づけていると、真後ろから
「やっぱりねぇ~」
と、いう低い声がボソっと聞こえてきた。
「ヒッ!!」
後ろに人がいるとは思わなかったので、飛び上がりそうになった。あまりにビックリして振り返ると、南田さんがそこに居て、こちらを向いていた。
「み、南田さん、いつからそこに居てたんですか?」
「いつからって、最初っからここにいるけど」
南田さんは紅茶パックに突き刺さったストローをチューっと吸い、一息つくと
「やっぱりねえ」
と、再び呟いた。
「な、何がやっぱりなんですか?」
アタフタと松は、震える手で空の弁当箱をコンビニのビニール袋につっこむ。
「今の話で分かったじゃないの、徳永さんは神楽さんの部屋に夕食を食べに行っているのよ」
「え?」
「きっと、毎晩、神楽さんは徳永さんのために夕食を作っているのよ」
「そ、そんな事できるんですか。寮なのに」
「ああ、あそこは寮はね、寮ったって、ただの借り上げマンションで、部屋は、自分でちゃんと自炊できるようになってんの。だから、食堂なんてないし、寮母さんが毎晩食事をつくってくれたりしないわけ」
「そうなんですか?」
「でなきゃ、普通に考えたって、女の神楽さんが男だらけの同僚と同じ建物の中に住める訳ないじゃない」
あ、そうか。なるほど。普通、男性寮は女人禁制だもんね。
「部屋だって、ワンルームの割には結構広いらしいよ。最新鋭のバス、トイレ、キッチンが完備されているみたいで」
「そうなんですか?」
寮ってそういう雰囲気なの?知らなかった。しかし南田さん、まるで、見てきたような言い方するなあ。
「何ヘンな想像しているの。あたしはあそこには行った事ないからね」
南田さんは質問する前に否定した。
「同期の男共があそこの寮に住んでいるもんだから、それを聞いて知っているだけ」
「そうなんですか」
「そうなんですかって、花家さん、のん気に言っている場合じゃないんじゃないの~~?」
南田さんは、ちょっと呆れたような声を出した。
「へ?」
「花家さんの本命って徳永さんでしょ?」
「えっ」
「もう今更、隠さなくっていいよ、ちゃんと顔に書いてあるから」
松は、ピキンと固まってしまった。
そ、そんな。私の顔に書いてあるの?
松は手鏡を取り出して慌てて覗いてみた。
わたし、徳永さんの事を、そんなに物欲しそうに眺めているんだろうか?
「ほら、書いてあるでしょ?わたしは徳永さんの事、好きですから~って顔にそうとハッキリ」
「ほ、本当ですか?本当に、そんな風に書いてあります?」
と、松はもっと鏡に顔を近づけてみた。
南田さんは、ぷっと噴出した。
そして、松の百面相が面白かったのか、一層面白そうにケタケタと笑い出した。
「やっぱりそうだったんだ!!」
「南田さん、カマかけたんですか?」
「いや、カマ掛けるも何も、花家さんの顔みていたらだいたい分かるよ。それに、花家さんって、徳永さんに特別に英語教えてもらているんでしょ?徳永さん誰にも教えるの断っているのに、むちゃくちゃ特別扱いじゃないの」
「英語なら、土居さんも教えてもらっていますよ」
そうだよ。土居さんの方が優等生で、わたしは劣等生だっちゅうのに。
「それは、花家さんが徳永さんに頼んだからでしょ?それに、花家さんは支店に居ている頃から、徳永さんから英語教えてもらっているそうじゃないのよ」
「それ、誰から聞いたんですか?」
そんな噂まで出回っているの?
「もちろん、鈴木さん」
鈴木さん、そんな事まで聞いているのか。ああ、余計な事を…。
「それで、どうするつもり?」
南田さんはまたストローでチューっと紅茶を吸い上げた。
「へ?」
「このままじゃ、神楽さんにきまっちゃうよ?」
「え?」
「徳永さんも、神楽さんも、公にはフリーだって言っているらしいから、ふたりはまだつきあっていないかもしれないけど、時間の問題かもしれないじゃないの?」
「やっぱりそう思います?」
「そりゃ、そうでしょ。だからさっさと自分から動かなきゃ…」
「いえ、そこじゃなくて、ふたりがまだ付き合っていないっていうのは、そうなんでしょうか?」
「さあ、わたしも本人に確認したわけじゃないから、分からないけど、徳永さんは野村さんには“心に決めた人がいる”って言ったらしくて、“付き合っている人がいる”とは言わなかったんだって」
「そうなんですか?」
「そうみたいよ。だって、野村さん、“まだ付き合っていないのなら、私諦めません”って宣言したらしいから」
うわ。野村さんやるなあ。すごい積極的だ。
「どうするのよ。ライバルだらけじゃない。花家さん、大丈夫?」
「へ?」
「競争率高いうえに、こんなに身近なところに、狙っている人がおっそろしく沢山いるんだよ?うかうかしていられないじゃないの?」
「み、南田さんこそ、徳永さんの事は、もう、いいんですか?」
やたら面白がっているこの人は、ショックというより、どっちかというと楽しんでいるみたいみ見えるけど。
「あたしはいいのよ。だって、徳永さんの事は観賞用にするって決めたから」
「そうなんですか?」
「それに、人と競争して奪い合うのってあたしの性に合っていんだよね。倍率の高そうな人には、最初から近づかない主義。それよりさ、大丈夫?」
「何がですか?」
「花家さんは、徳永さんの事が好きなんでしょ?」
「え…」
「どうなのよ。好きなら好きでちゃんと動かなきゃ」
「いや、あの。まぁ」
「う~~ん、じれったいなあ」
南田さんは、本当にじれったそうだった。
「どうかしたんですか、何もわたしの事でそんなに悩まなくとも」
熱くなっている南田さんを、冷静に眺める松である。
「どうもしないわよ。傍で見ていてちょっとじれったく思っているだけ」
と、彼女は言った。
「で、でも、既に“心に決めた人”がいるのなら…、わたしに勝ち目なんてないじゃないですか」
「結婚を約束しているわけでもないんなら、まだ期待できるっていう意味よ。諦めちゃだめでしょ」
と、南田さんは一生懸命励ますのだったが、松の心にはどんな言葉も響かなかった。
彼は、一度は、彼は、松を結婚対象として見てくれた。
しかしながら、苦しい記憶として胸に刻まれた、桜の舞い散るあの日の出来事を回想すると、やはり、彼とは一度終わった仲だと思わざるを得ない。
松は、徳永さんから、自分を再び英語の生徒以上に想ってもらうだなんて、想像するのすら甚だしいと思っていた。
午後三時を回った頃に、背後から神楽さんから
「花家さん!」
と、呼びかけられた。
神楽さんからいきなり声をかけられるとは思わなかったので、椅子から転げ落ちそうになるほど思いっきり吃驚してしまった。
「バ、バケモノじゃあるまいし、そんなに驚かなくてもいいじゃないの」
ようやく恐々と振り返った松に、パーテーション越しに首だけニュッと突き出した神楽さんが悲しそうに口をとがらせていた。
「なんか、傷つくわ~」
「す、すみません。考え事をしていたもので、つい」
「あ、あのね、徳永君の事なんだけどさ」
神楽さんは顔を元に戻してテキパキと話し出した。
「さっき出張先を出て、新幹線に乗ってこっちに向かっているって連絡が来たんだけど、線路の故障があって今、徐行運転になっているんだって」
「そうなんですか?」
「そ。で、到着が遅くなるかもしれないけどって、伝言」
「あ、分かりました」
そっか。それだけの事か。だけどなんだって、神楽さんから伝言されなきゃならないんだ。直接わたしに伝えてくれればいいじゃん。
と、松は
「ありがとうございました」
と、礼を言いつつも、神楽さんに対して理屈に合わない怒りを感じていた。
わたしってほんとに子供。
“毎日徳永さんは、神楽さんの部屋に、神楽さんの作ったご飯を食べに行っているんだよ”
それはおそらく本当のことだと思う。
前に徳永さんは帰り際に、鈴木さんに『夕食は予約している』と、言っていたことがあったし、そんな徳永さんに『それってひょっとして、羨ましいねえ』って、冷やかされていた。
食事と作ってくれている相手とは神楽さんに違いない。
神楽さんが、徳永さんととても親しいのは事実だ。
彼女は、徳永さんが高校を卒業してすぐにプロ野球球団に入団したことがあることとか、そこで肘を怪我したことまで知っていた。
徳永さんは、わたしには野球をやっていることすら教えてくれなかったのに、彼女は知っていたのだ。
こういった事実が耳にはいってくるにつけ、松はひどい失望を感じ、もう二度と振り向いてもらえないだろうという後ろ向きな気持ちが頭をもたげる。
結局は徳永さんにとってわたしなど、殆ど通りすがりの人間に近い存在だったのではないのだろうか。
彼は、わたしにプロポーズしてくれた事があったけど、それはやはり、一時の気の迷いというか、単なるその時の気分の問題だったのではないだろうか。
そうだよ、わたしが何もしらないだけで、この会社の中にも、彼は、結婚を考えたくなるようなわたし以上に親しい人がゴマンとではなくとも、相当数いるのかもしれないのだ。
五時半をまわって、パラパラと帰って行く人が目立ち始めた。
そうこうしているうちに、六時になり、部署は松ひとりになった。
なんだか今日は早く帰る人が多いよなあ。
この時間帯なら残業する人も多いのに。
だけど自分はまだここに残っていなくちゃならない。
ああ、電車の延着だなんて、なんだってよりによってこんなに日に起るんだよ。
徳永さん、戻ってくるの、一体、何時になるんだろう。
時計を見るために視線をあげたら、コートを羽織って鞄を持って、帰ろうとしている神楽さんと視線が合った。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「徳永君を待っているの?ああ、貿易実務を勉強しているんだ」
仕事の道具を片づけて、松の目の前にある貿易実務の本に、彼女は気が付いたようだ。
「はい」
「津山さんの講座に通っているの?」
神楽さんは言った。
「いえ、津山さんの部署では今、講座を開いていないので、テキストを読んで、分からないところだけを教えてもらっています」
なんて、答えたが、まだ質問になんて一度も言っていないんだよな。
「そっか。津山さんに教えてもらえれば安心だよ。だけど、急ぎで聞きたい事があったら、わたしに聞いてくれてもいいよ」
と、彼女は気安く言った。
「え?」
「前にも言ったでしょ?初級レベルなら教えてあげられるって」
と、彼女はニッコリ笑っている。あ、そうか。神楽さんは乙仲業者に一時出向した経験があるって言っていたっけ。
「あ、ありがとうございます」
「彼女も忙しいみたいだし、わたしでよければだけど」
神楽さんはニッコリとほほ笑んでいる。その笑顔には少しの含みもなく、本当に親切心で言ってくれていることが伺われた。
「はい、じゃ、また、その時は宜しくお願いします」
「うん。じゃ、勉強の邪魔しちゃ悪いから帰るわ。頑張ってね」
神楽さんはそう言うと、鞄を持って立ち去ろうとした。
フロアは誰もいなかった。松は、自分でもどうしてこういった行動に出てしまったのか分からない。だが、気が付いた時には既に神楽さんを呼び止めていた。
「あの!」
「ん?」
神楽さんは踵を返そうとしていたとろを、たちどまった。
「あ、あの…」
あ。思わず声かけちゃった。どうしよう、何を言うつもりだったんだ私は。
「どしたの?」
神楽さんは、キョトンとしている。
「あ、あ、あのですね、神楽さんはその」
「その?」
「そ、そのですね、神楽さんは、その」
ああ、わたしは何を聞こうと、何を言おうとしているんだ。
こんなこと、ハッキリと口にするべきじゃない。
だけど、松は真実を聞き出したい衝動にかられていた。
神楽さんは徳永さんと付き合っているの?
徳永さんの事が好きなの?
そして、将来を約束しているの?彼と結婚するつもりでいるの?
「あの、その、神楽さんは今から家に帰ってご飯をつくるんですか?」
「はっご飯?」
神楽さんは丸い目を更に丸めた。
「あ、あの、今らか帰って、自炊されるのかなって、思って…」
あれこれと悩みあぐねた挙句、思い浮かんだのはこんなチキンな質問だなんて、松は自分で自分をぶん殴りたくなった。
「は、自炊?」
さっきまで貿易実務の話をしていたのに、なんでいきなり自炊の話がでてくるのか分からないようで、神楽さんは首を傾げている。
「あ、あのですね」
松は、季節外れな汗をこめかみあたりに感じた。
ああ、ダメダメこんなんじゃ。
今はオフィスに誰もいないんだ。
せっかく聞きたい事が聞けるチャンスなのだから、思い切って尋ねてみよう。
松は、冷静になれと必死になって心に命じた。
「神楽さんは、徳永さんに毎晩、自宅で作った食事をご馳走しているって本当なんですか?」
ああ、言っちゃったよ。
松は、気軽に尋ねたつもりだが、緊張のあまり声が震えるのを隠すことができなかった。
「えっ、何でその事、知っているの?」
「え?」
神楽さんは相当吃驚した様子で、直立不動だったのに、視線をあちらこちらに移して急にウロウロし始めた。
「神楽さん?」
予想以上に狼狽え始めた神楽さんに、松の心はズンと痛んだ。
「あーーー」
神楽さんは、天を仰いで額に手を当てて考え込みはじめた。
「何で知っているの」
「何でって、噂になっていて、皆知っているみたいですけど」
と、松が言うと、いきなり彼女はこちらの方に歩み寄り、誰もいないのに、ナイショ話をするかのように声を潜めた。
「そうなんだけどさ…」
神楽さんは悩まし気に溜息をつく。
なんでそんなに困った顔しているの?
ひょっとしてわたしに知られて困っているとか。
神楽さんは、ジトーと松の顔を見て、
「徳永君から予約があった日の夜は、ご飯を作ってあげているの」
と、白状した。
「同じ寮の同じ階だから、行き来も便利だし、まあ、わたしも自炊派だから、二人分ぐらい作るの、造作ないしね。でも…」
「でも?」
「徳永君とは、ずっと一緒にお昼食べているんだもんねえ。そういう話題もでるわよねえ」
そう言う話題?どういう話題??
「やっぱり、この前の鯵のカレー南蛮は辛すぎたか」
「は?」
カレー南蛮?
「チキン照り焼きは甘すぎたって言われて、辛口にしてみたんだけどなあ、そんな事言っていなかった?」
「い、いえ」
何の話だ、いったい。
「そう?」
ちょっとほっとした様子。
「じゃあ、春菊のお浸しかなあ、それとも、カボチャの煮物が濃すぎたのか…」
「え?」
「徳永君、そんな事言っていなかった?ねえ、何か言っていなかった?」
神楽さんは非常に心配そうな様子で詰め寄ってきた。物凄く真剣な表情で。
「い、いえ、全然」
何か、自分の聞きたいことから論点がズレているような気がするが、彼女の方がものすごく真剣に悩んでいるみたいなので、何も言うことができなかった。
「そっか~~~~」
神楽さんは言った。
「ま、人の味の好みは其々だからだけどさあ。やっぱ、作ったからには、美味しいって思ってもらいたいよねえ、そう思わない?」
「そ、そうですかね」
同意を求められても、松は、好きな人にご馳走どころか料理さえも殆どできない。
「あ、あの」
松は、心を決めてようやく言った。
「ん?」
「神楽さんと徳永さん、噂になっているの、ご存知です?」
料理の味付けで悩んでいるところを悪いと思いつつも、松は、ようやく自分の思っている事を口にする。
「へ?」
「神楽さんの部屋に、徳永さんがしょっちゅう出入りしているって、噂になっているって、そう聞いたんですけど」
「ああ、そりゃあ、見た事ある人もいるでしょうよ。だって、あの人、私の部屋にご飯を食べに来るんだもん」
物凄く、勇気を出して質問したわりには、シレっとした答えが帰って来た。
「だって、あの人がわたしの部屋に食べに来なきゃ、こっちから持っていかなきゃならないじゃん。ご飯つくってあげている上に、何でわざわざお盆に乗せてあの人の部屋まで配達しなきゃならないのよ。向こうから食べに来るにきまっているじゃない」
「あ、そうですよね」
理屈の上ではそうなのだが。いや、わたしの質問の意図はそこじゃないんだけど。
「で、でも」
と、松は恐る恐る尋ねてみる。
神楽さんは、まだキョトンとしたまま再び首を傾けていた。松が何を知りたいのか、まだ分からないようだった。
「で、でも神楽さんは、その、女性じゃないですか。男性が女性の部屋に出入りするのは、あまり宜しくないんじゃないですか?」
いい言葉が思い浮かばなくて、何か、ヘンな言い回しになってしまったような気がする…。
「宜しくない?」
と神楽さんは言って、眉をひそめていたが、こんなことを言いだした。
「だって、宜しかろうがなかろうが、仕方がないんだもん。そもそも男ばっかの寮に女が入ること事態おかしいんだもん」
と、神楽さんはこれまたケロっとした顔で答えた。
「つまり、女子寮の空がなかったからこんなことになるんだよ」
「は?」
「総合職の女子って少ないんだよ。空き部屋が丁度なくてさあ。こっちに転勤になった時、仕方なく野郎どもと同じマンションにさせられてさ。最初は、わたしの住んでいる階は、他は全部空き部屋だから、心配ないって言われて安心して入ったってのに、今年になって徳永君が突然隣に入居してきてねえ」
「そうなんですか?」
「同じ階に、男性が住まないって聞いていたのに、何でアンタが隣に入居してくんのよって、文句言ってやったら、じゃあ、番犬替わりにしょっちゅう様子見に来てやるって言うもんで」
「番犬替わり?」
「番犬だなんて言って、夜になったらオオカミになっちゃう番犬なんかいらないわよって、最初は、そう言ってやったんだけどねェ」
オオカミ…
「でもねえ、わたしの部屋一階なんだ。一階はやっぱ不用心ってことで、もとから入居すいる人が殆どいないんだよ。徳永君が来る前まではわたしひとりだったんだよね。思った以上に男共の匂いしないし、最初は快適に暮らしていたんだけど、隣近所が空き家っていうのも、別の意味で寂しいもんでさあ。物音とかしたら、ドキっとするし。そんな時に徳永君が入居してきてね。彼が言うには、不用心じゃなない程度に顔だして気を付けおいてやるって言ってくれるし、じゃあ、お礼に晩御飯でもどうですかってことになって、予約してくれた日は、ご飯を作ってあげる事にしたの」
「・・・・・・」
「ご馳走になっている手前、向こうだって、味付けに文句は言えないじゃない?」
神楽さんは言った。
「だから、本当は、味が濃すぎるって思っているんじゃないかなあって。アタシの実家はどっちかって言うと辛口で。薄味にしているつもりだけど、食べた人はどうやら皆辛く感じるみたいで」
「そうだったんですか」
「これから、帰りにスーパーで食材を買いに行こうと思っていたところなんだ。明日のメニューは何にするかなあ」
彼女は腕組みをしなが真剣に考える。その様子は、本当に困っているようで、真面目に悩んでいる顔だった。
「そんなわけで、ちょっと急いでいるんだ。あ、えっと。何の話だっけ」
話が脱線しまくって、本線がどこだったかさえ、見失っている松である。
「わたしが徳永君に襲われやしないかって、心配してくれていた、ひょっとして?」
ひょっとしなくても、だいたい分かるでしょ。この流れなら。
「アハハハハ」
と、神楽さんは笑った。それもとてもおかしそうに。
「な、何がおかしいんですか?」
そこ、笑うところ?ちょっとムッとする。
神楽さんはクククと笑いを堪えながら再び松の方に顔を向けて、ジーッと見つめると、またにやりと笑った。人の顔を見て笑うだなんて失礼な人だな。
「だって~~花家さん、分かりやすいんだもん」
神楽さん、まだ笑うのやめないよ。
「何が分かりやすいんですか?」
「だからさあ、花家さんはわたしが徳永君に襲われないか気にしてくれているんでしょ?それとも逆かな?徳永さんが、わたしに襲われないか気にしているとか?」
横目でニヤリと笑うその顔は何を言いたがっているのだろう、と松は思った。
「そんな事はいままでなかったけどさぁ~。だっけど、あの人、隙だらけだから、いつかそんな事あったっておかしくないって思う事はあるよ」
「え?」
「たまに、缶ビール片手にご飯食べに来ることもあるけど、あの人、酔うと寝ちゃうタイプで、一旦眠りこけると、目を覚まさないんだよね。人の部屋だっていうのに、本当に、遠慮がなくて」
「神楽さんの部屋で、寝ちゃうんですか?」
「そうなのよね~~あたしだって、お風呂入ったり、色々したいっていうのに、野郎のくせして、乙女の部屋で寝ちゃうだなんて厚かましいったらありゃしない」
と言いつつ、神楽さんは面白そうにケタケタ笑っているから、そんなに嫌ではないようだ。
「徳永君を狙っている女なら、絶好の機会よね?」
絶好の機会…。
「とりあえず押したり蹴ったりして起こそうとするんだけど、まるで反応なくってさ…あれじゃあ、いつ襲われてもおかしくなかったと思うよ」
ん?襲われる??
それって、神楽さんが徳永さんを襲うってこと?
「それで、どうなったんですか?」
松は恐る恐る聞いてみた。
「どうなったかって?」
神楽さんは意味深にオウム返しに言うと、ごく真面目な顔になって
「そりゃあ、年頃の男女が密室に二人きりなのよ?いい男が、ネクタイとって胸元ははだけて鎖骨さらしているわ、酔っぱらっている上に、正体失くして眠りこけているんだから、やっぱ、やることはひとつに決まっているじゃない」
と、言った。
えっ。松は、声は出なかったが、血の気が引くのが分かった。
とたんに、神楽さんの顔に焦りが浮かぶ。
「やっだ~~~、本気にしないでよ、花家さん!」
神楽さんは慌てて弁解する。
「冗談よ、冗談!もぉ~~本気にするとは思わなかったわよ。別に何もなかったったら。まあ女一人で大の男を部屋まで連れて行くことなんてできないからさ、その日は、ウチに寝かせて一晩過ごしたけど」
「じゃ、本当に何もなかったんですか?」
「そ。残念ながらね」
神楽さんは本当に残念そうに言った。
え。残念なの?
「残念だよ。だって、徳永君って見た目あんだけ麗しいのに、意外と寝ているときの顔があまりそそられなくて。だって、口あけて寝るんだもん」
ああ、そういや、この前居眠りしているところ見たけど、そうだったな。ちょっと抜けている感があって。
「お酒のせいなのかイビキもかいていたし。ロマンチックなムードなんかカケラもなかったよ。あの日はお陰でわたしも寝不足だった」
「・・・・・・」
「まぁ~~確かに、徳永君の彼女が耳にしたら、聞き捨てならない話だとは思うけど」
「え?」
「でも、徳永君もその点は、残念ながら心配してくれる彼女がいないからって寂しそうに言っていたから、知らない女に乗り込んでこられて文句言われたり、ひっぱたかれたりすることはない思うけどね」
「ひっぱたく…」
「ひっぱたくと言えばさ」
そう言った後に、神楽さんは面白いことを思い出したようだ。
「この前廊下でさ、花家さん徳永君のほっぺた、思いっきりひっぱたいてたね」
「!あ、あれは」
いきなりあの時の事持ち出されて、松は、アタフタと焦った。
「バッチーンって、良い音させてたねえ。お手本になりそうな立派なビンタだったじゃん」
「う、い…いや、あの」
「もう見ちゃったんだから、別に隠さなくってもいいじゃない。徳永君って、ほんと、脇甘くて鈍感な所あるからさ、ムカついたときは遠慮なくバチンとやっちゃった方が、目も覚めるってもんじゃない?」
「え?」
「ま。そう言う訳だから、花家さんは心配しなくっていいよ」
神楽さんはニッコリ笑って言った。
あれ、話まとめられた?ってか、そう言う訳って、どういう訳??
「べっ…別に、わたしは心配してるわけじゃ」
神楽さんは自分の事をどんな風に思っているんだろう?
松は自分の立ち位置が、神楽さんからどのように見えているのか分からず、ものすごく居心地が悪かった。
「あ、そうか。花家さんは、徳永君が私を襲うことじゃなくて、わたしが徳永君に襲われるかもしれないって、心配してくれていたんだもんね」
「ええ、まあ」
あれ、そうだったっけな?
「と、いうわけだから、御心配ご無用。何なら花家さんも今度、ウチにご飯食べにくる?」
「え?」
一体、何が心配ご無用なんだ?
「そんな時間ないか。忙しいもんね」
そう言って、神楽さんは手に提げていたショルダーバッグを肩にひっかけ直した。
「じゃあ、スーパーが空いている間に帰らないと。お先に失礼してもいいかな?」
「あっはい、お引き止めしてすみません」
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
神楽さんはそう言うと、颯爽とコートの裾を翻してカッコよく去ってしまった。
松は、神楽さんの残り香とともに、たった一人でフロアーに取り残された。話しかけたのは松の方だが、なんだか神楽さんに上手く言いくるめられたような気がする。
噂通り徳永さんは神楽さんの作ったご飯を食べに彼女の部屋に通っているんだ。
お酒飲んで寛いで寝てしまうこともあるんだ。
あの無防備な寝顔を彼女の前でも遠慮なくさらしたりしている。
ふたりが部屋を行き来しているのさえ、隠そうともしていなかった。
「なんでもないよ」と、神楽さんはいうけれど、なんでもない事などないではないか。
神楽さんの言う通り「彼女が聞けば、聞き捨てならない内容の話」であることは間違いなかった。
悲しいことに、松は“彼女”ではないから、文句なんぞ言う事すらできないのだけど。
松は思いっきり落ち込んだ。
電話もならず、壁に張り付いている時計だけがカチコチとなり続けていた。
夜の七時を回っても徳永さんは戻ってこず、電話もチリンと鳴りもしなかった。
<25.誤解> へ、つづく。




