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23.落第生

23.落第生



「厳しくするぞ」


と、申し渡されたものの、その翌日、徳永さんは出張で一日留守だった。



 理由はどうあれ受けることにしたのだ。応援してくれている人のためにも、とりあえずの最善は尽くすことにした。


 使える便宜は全部使おう。


 津山さんに貿易実務を教えてもらえないか問い合わせたところ、講座は今開いていないし、その時間も予定もないが、分からないことがあれば、いつでも個人的に質問に来てくれていいと、親切な返事が返ってきた。


 講座を受講することを期待していたので残念だったが、当面必要になる専用のテキストを彼女に借りに行った。


 津山さんは、たっぷりとした参考書やらテキストを渡してくれた。


 ああ、またこれを借りる日がくるなんて。



「人事の天野君もテキストを借りに来たわよ」


と、津山さんは意味深に言った。



「そうなんですか?」


あ、やっぱり受けるんだ。



「花家さん、天野さんに簿記を教える代わりに英語を教えてもらう約束をしているんですって?」



 え。何言ってんだあの人。


 まだ、何も返事していないって言うのに。



「あのさ、差し出がましい事を言うようだけど」


津山さんは真面目な声で言う。


「本当に受かりたいなら、今回は相当やらないとダメだよ」



「あ、はい。わたしもそう思っています」



「わたしもなるべく協力するし、質問に来てくれていいけど、システム情報課って、残業が多いんでしょ?あまり勉強できる時間とれないようなら、人の面倒は積極的に見ない方がいいと思うよ」



「え?」



「天野君は、教えてあげなくたって、要領いいから自力で何とかするよ。それに彼は今年受からなくても来年でもいいんだし。でも花家さんはチャンスは後、二回しかないでしょ?」



「はあ」



「あんまり、他人の世話を焼いている暇はないと思うよ」



「・・・・・・」



“差し出がましいけど”って言った通り、津山さんは普段はあまりこういった厳しい忠告はしない方だ。それだけ頑張って勉強しないといけないってことか。


 そんな事を考えながら仕事をしていたら、土居さんが就業時間中にやってきて、話があると言って部屋のすみっこに呼び出した。



「花家さん、社内試験やっぱり受けるんだってね?」


と、土居さんは言う。



「え、ああ。うん」



「本当に受けるんだ」



「部長からも受けた方が良いって言われて、とりあえず十一月だけでもと」


と、松は答えた。



「そっか~」


土居さんはちょっと嬉しそうにニコっと笑った。


「それで折り入ってお願いなんだけど」



 何か嫌な予感。何が“それで”なんだ?



「実はね、わたし、徳永さんの英会話ランチに参加させてもらいたいの。それを、花家さんから徳永さんにお願いしてもらえないかと思って」



「えっ」


松は土居さんの申し出にビックリしてひっくり返りそうになった。


「ひょっとして土居さんも試験を受けるの?」



「まあね」


土居さんは恥ずかしそうにニコリと笑ったが、すぐに元の表情に戻った。


「なんか、花家さんは、徳永さんから英語を教えてもらう約束してるんだって?噂で聞いたけど」



「ええ、まあ」


何ソレ。どんな噂が出回っているんだ。



「徳永さんに英語を教えてもらいたいって言っている人、大勢いるみたいだけど、今ね、皆断られているだって。なんで、花家さんだけ教えてもらえるの?」



 なんで?なんでかって?


 う~~ん。なぜ自分だけ教えてもらえるのだろう?


 結局その答えを、松もハッキリと聞くことはできなかった。


 ああ、そう言えば、昨年、あれだけ熱心に教えてもらったので、わたしが受からないと彼の沽券にかかわるからだとか、そんなことを言っていたっけなあ。


 だけど、それを今、土居さんにそれを言ったら、きっと、徳永さんとの関係を根掘り葉掘り尋ねられることだろう。


 いやだ。それだけは避けたい。


 面倒事から遠ざかりたい事なかれ主義の松は、


「さ、さあ?」


と、首を傾げるだけにとどめておいた。



「なんかね、徳永さんって、一見さんには教えないんですって。紹介がないとダメだって聞いて」


土居さんが説明する。



「そ、そうなの?」


ああ、そう言えば、教える相手を選んでいるって聞いたな。



「花家さんも誰かの紹介で教えてもらうことにしたの?」



「わたしの場合、紹介って言うか、席が後ろでしょっちゅう話したりするし。試験を受けるんなら教えてあげると言ってくれて」



「ふぅ~ん」


と言って、土居さんは、じーっとこちらを見つめていた。



 え。なにその“ふぅ~ん”は。



「だからさぁ~お願い!」


いきなり土居さんは、両手をパチンと顔の前で合せて松を拝んだ。


「徳永さんにわたしも英語を教えてもらえるようにお願いしてもらえない?ダメ?」



「ダ、ダメっちゅうか」


松はアタフタした。


「本人がダメだと言っているのなら、わたしがお願いして通るものかどうか」



「だって、わたしだって、試験受けるんだよ?立場は花家さんと同じじゃない」


 

 それをわたしに主張されても。



「だからそこらへんのところ、うまく説得してくれないかなぁ」



「で、でも土居さん。この前は受けないって言っていたじゃないどうしたの、気分がかわったの?」



「気が変わったというか、まあ、受かることはまずないとは思っているけどね」


と、彼女はあっさりと言った。



「へ?」



「前にも言ったじゃない。そりゃあ、受かればいいと思うよ。でも、今更頑張ったってもとから無理よ。でも、わたしのところの上司もさ、受ければってやたら何度も言ってくるしね。あんまり気のりしないんだけど、まあ、せっかく東京にでてきたんだし、記念に、徳永さんから英語を教えてもらえるならいいかなあと思って。それで試験を受けることにしたの」



 記念?なんだそりゃ。



「ち、ちょっと待って」


松は頭を抱えた。


「じゃ、土居さんは、つまり、試験に合格したいわけじゃなくて、徳永さんに英語を教えてもらいたいから社内試験を受けることにしたってわけ?」



「まあ、そんなとこ」



「なんでまた徳永さんに教えてもらいたいの?」


またまた嫌な予感を感じながら質問してみる。



「だって、徳永さんってお忙しい人みたいだし、こんな機会でもなけりゃ、お近づきになれないじゃない。絶交のチャンスでしょ?」



 絶交のチャンス?一体何のチャンスなんだ。


 それにどうして彼とお近づきになりたいんだよ。


 松はものすごーく、嫌な予感を感じた。



「だからお願い」


土居さんは再び言った。


「ねっ、お願いしてよ」



「頼むことは頼んであげれるけど」


と言ったが、松はこめかみのあたりに、一層頭痛を感じた。



 彼女の頼みを受けてやるのものすごく気がすすまなかった。


 だって、英会話レッスンに土居さんに入ってこられたら、徳永さんとの貴重な時間を半分彼女にくれてやることになるじゃないか。


 徳永さんを私物化するような考えに、我ながらずいぶんと自分勝手だと思ったが、徳永さんに対してまだ気持ちが冷めていない松にとって、この申し出は、何ともヤキモキさせられる話である。



 松はできるだけ平静を装って言った。


「徳永さんって、真面目な人だから、そんな中途半端な気持ちじゃ教えてくれないと思うよ。それに、ああ見えて結構、スパルタらしいし」



「スパルタ?」



「社内試験って、英語だけじゃないでしょ?他の科目も時間割かなきゃならない時でも、容赦なくレッスンがあるみたいだし、大変みたいよ」


去年の事を思い出しながら松は言う。



「それなら大丈夫だよ」


土居さんは、自信ありげに答えた。


「あたし、別に受からなくてもいいから、今回は他の科目勉強するつもりないもん。英語だけに時間を割いてりゃいいわけだしさ」



「・・・・・・」



「じゃ、お願いね!」


と言って、土居さんは去って行った。



 ああ、ダメだって結局言えなかった。


 嫌な頼み事でも、厳しくガツンと断れないところが松の弱点の一つでもある。


 と、自分の性格の弱さを反省しているところに、次は天野さんが現れた。


 ああ、今度は何なんだよ。



「花家ちゃん、社内試験受けるんだって?宜しくな!」


と、ニッコリスマイルの天野さん。



「えっと、何を宜しくされたのでしょうか?」



「前、言っていたじゃないか。簿記の先生になってくれるんだろ?代わりに僕が、英会話の勉強を手伝うって」



「で、でも…」


まだあの話を覚えていたのか。やけに強引な人だな。



「ああ、そうか。花家ちゃんは、徳永さんに英語を教えてもらう約束してるんだってね」



 え、天野さんも知っているの?どんだけ噂が広まっているんだ。



「あ、そうなんです。多分これから毎日、昼休みとか就業後はレッスンになるかと思います」


松は、去年の詰め込み授業の日々を思い出して言った。だけど、押しの強い天野さんは、こんな事で簡単には引っ込んだりしなかった。



「徳永さんだって、毎日オフィスに張り付いてるわけでもないだろ?」


そう言って、彼はチラと真後ろの徳永さんの席を見て小声で言う。


「外出も出張もあるだろうし」



 ああ、そうか。現に今日も出張で留守しているし。



「何人先生が居たって邪魔にはならないだろう?」



「そ、そうですね…」



 天野さんはニッコリ笑った。


「毎日じゃなくてもいい、時間と都合の合う時は一緒に勉強しようよ」


と、丁寧に言われれば、やはり反論できない松であった。



 ああ、なんか試験うけるだけで面倒な事になりそうだ。








「キミは、本当にやる気があるのか?」


案の定、翌日、徳永さんに土居さんと天野さんからの申し出があった事を告げると、徳永さんは松の話を聞いている間中、思いっきり眉毛を吊り上げて憮然とそう言い放った。



「はぁ…」


シュン。やっぱり、言われてしまった。



「キミを教えるために、わざわざ、他のレッスンは全部断ったっていうのに、当の本人がそんな気持ちじゃ話にならない」


徳永さんは、長い脚を組み、椅子をキィキィ言わせながら、コツコツとデスクの上を指先でたたいていた。


「試験は来月だよ?それがダメだった場合、来年の五月しかチャンスはない。他人に義理立てている暇があるのか?」



「あ、あの、そりゃあ徳永さんに教えて頂ける事はありがたいって思っていますけど。で、でも試験を受けるっていう前提なら、土居さんだって試験を受けるんですし」


ああ、何で土居さんのために、わたしが頭をさげてお願いしてやらなきゃならないんだよ。


「そ、そういうわけなんで、わたしと一緒に、彼女にも少し教えてあげてくれません?」



「オレは英語教師を生業にしているわけじゃない。その事ばっかりに時間をとられる訳にはいかないんだよ。社内試験を受ける連中全員の面倒を見ていちゃキリがない」



「それは分かっていますけど」


松は、こわごわと徳永さんの顔を見た。綺麗な顔には少しの余裕もなかった。机をコツコツと叩く音の間隔が短くなっていく。ああ、イラついているんだな。


「で、でも、やっぱり、わたしだけ優遇して教えてもらうわけには」



「キミはいいんだよ。去年教えて結果があった実績があったんだから、今年合格する確率が高い。そういう人は優遇されても」



「そうとは思いますが、でも」


本当は、こんな事は言いたくない。だけど。



「でも何?」



「あ、あの、わたしだけ徳永さんに目をかけてもらって“何で花家さんだけ”って、周りに言われているみたいで」



「え?」



「社内で噂になっているみたいなんです」



「・・・・・・」



 釣り上っていた眉は、ナリを顰めたが、今度は眉間に皺がよった。青筋も消えて、不安げな表情が浮かんでいる。


 そうだよね、わたしと噂になったりしたら、やっぱ、マズイよね…。



 松は、ショボンと俯いてしまった。


 松とて、好きで土居さんを教えてくれと頼んでいるわけではない。


 だけど、長期出張中とはいえ、子会社の社員の身で、これ以上社内でヘンな噂になって欲しくないのも事実である。



 松の困り果てた顔が何を意味するのか、それにようやく気が付いたのか、徳永さんは、はぁーっとため息をつくと、今度は額に手をあてて悩まし気に何か考え始めた。


 その顔を見て、松は、一層不安になった。


 ああ、コイツ、やる気ないんだなって、呆きられてしまったんじゃないんだろうか。



「わかったよ」


と、彼は折れた。


「その子の事は引き受けてあげよう。だけど彼女だけだ。それ以外は引き受けない」



「あ、はい。ありがとうございます」


と言いはしたが、内心少しもありがたいだなんて思っていないわたしって性格悪いよな、と松は思っていた。社内試験にやる気のない土居さんと一緒にレッスンだなんて、なんてウザいことだろう。



「人数が増える分、レッスン時間も短くなるわけだ。その分しっかり集中して勉強してくれよ」



「はい」



「じゃ、早速今日の昼飯からレッスンを始めよう。場所は、社員食堂だ。君の友達、ええと…」



「土居さんです」



「ああそうそう、その、土居さんとやらにも来るように伝えておいて」


と、彼は言った。





 その日、社員食堂の四人掛けの正方形のテーブルに、徳永さんと土居さん、そして松の姿があった。


 三人で定番のA定食を食べながらのレッスンである。



「ねえねえ、徳永さん、タダって仰っていたけど、やっぱり何にもしないっていうのは悪いじゃない。ランチぐらいご馳走しましょうよ」


 という、土居さんの発案により、一食四百円のA定食をふたりで折半して徳永さんに振舞うことにした。


 ところが席に三人そろって座ったとたん、嫌味混じりの雷が飛んできた。



「稼ぎの少ない君たちからランチを驕ってもらおうなんて思っていない」


うわ。むちゃくちゃ怖い顔。そんなに怒らないでも。


「今度からこんな事はしないでくれ」



 あまりの剣幕に松は、両肩をすぼめてシュンとなってしまった。


 重苦しい空気の中、ランチレッスンが始まったが、久しぶりだし、徳永さんは怖いし、となりにいる土居さんの存在がヤケに気になって、松はあまり、集中できなかった。終わると、徳永さんは



「今日やった事、明日も聞くから、復習しておけよ」


と、言って早々に立ち去ってしまった。



「はぁ~」


久しぶりのレッスンに疲れた松は、グッタリとした気分で徳永さんを見送った。



 隣に座っている土居さんはというと、意外に飄々とした様子でお茶なんぞすすりながら、考え事でもしてるかのように黙り込んでいた。



 次の日のお昼も、同じ場所でランチレッスンが行われた。



「ランチは驕らなくてもいい」と言われた手前、松は、自分の分だけ食事をトレイに乗せて席についたが、なんと土居さんは二人分の弁当箱を机の上に乗せて待っていた。



「ずいぶん、沢山たべるのね」


松は、ふたつの弁当箱を見下ろし不思議に思って言う。



「あ、これね、ひとつは自分のだけど、もうひとつは徳永さんの分なのよ」


と、彼女はニッコリ笑って答える。


「わたし、今日からお弁当を作って持ってくることにしたの。余分に作りすぎた分を箱につめて持ってきただけ。それを徳永さんに食べてもらおうと思って」



 ナヌ?弁当ですと??


 松の驚きをよそに、土居さんは弁当箱の蓋を誇らし気に開けた。


 土居さんは、東京にでてきてからは、松と同じでアパートで独り暮らしをしている。


 これまで時々一緒にランチをした事があったが、彼女が弁当を持参してきたことなど、ただの一度もなかった。


 弁当箱の中は、見るからに手の込んだものがギッシリ詰め込まれてある。



 彼女が弁当を持ってきたという事実と、料理の腕前の高さに、松は、全く圧倒されてしまった。


 わたしだって…!


 と、言いたいところだが、生憎松に、料理の才能も経験もない。


 自分の女子力の低さを地味に感じる。


 それにしても、この弁当を作るために、一体何時間早く起きたのだろう?



 徳永さんも、土居さんが弁当を持ってきた事に驚いていた。


 自分の弁当を作った残り物と言われれば、文句の言いようもなかったのか、彼は、出された弁当を大人しく食べていた。


 徳永さんの口に運ばれてゆくおかずのひとつひとつを眺めていると、勝負する前に負けた感を、何気に感じてしまう。


 いや、彼女と料理の勝負だなんてはなから思っていないのだが。松は自分のA定食に箸を付け、飲み下すように食べていたが、さっぱり味が分からなかった。


 徳永さんは、弁当箱のオカズを一個一個指し示しながら、これはどうやって作ったのか、材料は何なのか、作るのにどのぐらい時間がかかったのか、土居さんに英語でスピーチさせていた。


 土居さんは、質問されることが分かっていたかのように、よどみのない美しい英語で返事をしている。


 ええ?土居さんって英会話、苦手じゃなかったっけ。こんなにできるなら英語習わなくったって、いいじゃん。


 その流暢さに松の方が、あっけにとられる番だった



 松は、徳永さんの話に必死についていこうとしているのだが、理解できない単語や文章が出て来るとたちまち集中力が消えてしまうのだった。


 松は、昨年培った英会話のスキルを殆ど失ってしまっている現実に、今初めて気が付いたのだった。


 徳永さんと話し始めれば少しは復活するかと思っていたが、どうやら、完全に元のレベルにも戻ってしまっているようだ。


 これはヤバイ。


 松が、会話に参加することもできず隣でポカンとしている最中も、会話は、どんどん続いて行く。


 二人がものすごくレベルの高い所にいて、自分が全然違う世界に置いて行かれたかのようだった。



“Hey,Shou.Can you hear me?”



「え?」


ぼーっとしていたら、突然話がふられた。



"Are you listening to me?"


徳永さんは、話し、聞いてんの、と、じっと顔を覗きこまれた。



“Oh,sorry.”


話を聞いていなかったので、スミマセンの言葉しか出てこない。



 しまった。ええと…


 何か言わなきゃ何か。


 と、思えば思う程、頭が真っ白になる。


 チラと徳永さんを見ると、両眉が上がって大層ご立腹の様子だ。



 うう、どうしよう。何か言わなきゃ。


 だけど、焦れば焦るほど「あー」だの、「うー」だのと言った擬音しか出てこない。



” She was just daydreaming.”


と、土居さんが、彼女、ぼーっとしているわよって、ちょっとフフンって鼻高々って感じで、慣れた巻き舌で言う。


 松は、余計に圧倒されて声がでなかった。小さな声で


“I’m sorry.”

 

と同じ言葉を繰り返すぐらいしかできなかった。



 昼休憩が終わる間際まで、こんな感じだった。



「じゃ、明日もこの時間にここで」


と言って、徳永さんは


「お昼御馳走様」


と言ってその場を去って行った。



 翌日のお昼も三人でレッスンをした。


 前日と同じ様な雰囲気で進んで行った。


 松は、何とか食いしばって付いて行こうとするのだが、どうしてもできなかった。


 土居さんは、松が返答に困って、まごまごしている間に、徳永さんの繰り出す話題にスラスラと答えて行く。


 取り残された松は、黙り込んでしまうか、よくて、会話の流れに合わない見当違いな返答をするぐらいであった。


 そんな折、徳永さんは、眉を顰めたり、不思議そうな顔をする。


 ああ、やっぱり呆れている?


 彼は、我慢強く、色々と指示を与えて松が会話の糸口をつかめるように、話を補足してくれたりするのだが、焦れば焦るほど、言葉が出てこなくなってしまう。


 ああ、土居さんよりだいぶ落ちるよな、コイツは。と思われているんだろうなと思うと、余計に、何も話せなくなってしまうのだ。



 そのうち宿題が出るようになった。


 明日のレッスンには、これをテーマにやってくるようにと、キツク言い渡された。


 が、残業続きの松は、宿題なんぞしている暇もない。


 今日のレッスンは休んじゃおうかと、後ろ向きな気分で午前中を過ごしていると、昼前に、幸か不幸か、昼休憩中にどうしてもシステムを見に来てほしいと営業課から依頼があった。


 案の定、作業は長引き、仕事を終え、お弁当を買って部署近くの休憩室に入って行ったのは午後の一時前になっていた。


 今日は、レッスンをさぼっちゃったな…。


 宿題をしていなかったから、丁度良かったんだけどさ、と思いつつも、今頃、徳永さんが土居さんと差向いで食堂でレッスンをしているのかと思うと、どうしても落ち着かなくて、食事も喉を通らない。


 こんなことなら、土居さんを教えてくれだなんて、頼まなきゃよかった。


 いや、社内試験を受けようだなんて思わなきゃよかった。


 徳永さん、私の事、やっぱ呆れたかな。


 今頃、アイツ、やっぱ見込みなかったってそう思ってんじゃないかな。



 そんな事をウジジ考えながら弁当をつついていたが、もくもくと下を向いて食べていたら涙が出てきそうだったので、慌てて手元にあった貿易実務の本を開いた。


 しばらく目を通してそれに集中しようとしているところに、偶然、天野さんがやってきた。



「あれ、花家ちゃんじゃない。今日はひとり?食堂で徳永さんと土居さんがふたりでレッスンをしている所を見かけたけど、花家ちゃんがいなかったから、今日はやすみかと思ったよ」



「はあ」


松は、情けない顔のまま、顔をあげてしまった。



「どうしたの」


天野さんは、沈んだ表情の松にちょっと驚いたようだ。



 松は、


「ハハ…」


と苦笑いを浮かべ、ションボリとうなだれた。


 

 表情を作り直して取り繕う元気も残っていなかった。


 天野さんは、コーヒーを買って、松の向かいの椅子に腰かけた。



「天野さん、社内試験の勉強、すすんでいます?」


松はおもむろに言った。



「んー。まあ、ぼちぼちってとこかな」



「そうですか」



「どうしたんだよ、物凄く暗くなっているけど」


天野さんが顔を近づけてジッと覗き込んできた。


「仕事の事で落ち込んでいるの?それとも、試験の勉強の事?」


そう言って、彼は彼女の手元のテキストに視線を落として言った。



「ええ、こっちの勉強も、英語も全然進まなくて」



「ひょっとして、今勉強中?お邪魔だったかな」


天野さんは、貿易実務のテキストの下になっている英語で何かを書こうとしていた原稿をチラと見て、行った。



「あっこれは」


松は、拙い英文を見られたくなくて慌てて隠した。


「勉強中というか、単なる宿題でして」



「宿題?」



「徳永さんから英語教えてもらっているんですけど、その都度宿題が出るんです」



「どんな宿題が出ているの?」



 松は、かいつまんで説明した。


 徳永さんから出された宿題というのは、あらかじめ出されたテーマに従って、自分でスピーチ原稿を作らないといけないのだが、今の松には、英文を考えている暇というか、心の余裕なんぞなかった。


 その上、レッスンではその原稿を読み上げるだけではない。


 スピーチの内容に沿って、そこから徳永さんとのディスカッションが始まる。


 それはそれは長いディスカッションで、チェルシー先生の教室でやっていたような生ぬるい会話ではない。


 滝のように降ってくる英語の洪水に対処しなければならないのだ。


 松は、自信がなかった。


 前日に土居さんがこれをしたが、彼女の予習は完璧だった。


 彼女は、思っていた以上に達者だった。


 松が聞き取れないことも、土居さんには理解できているようだったし、徳永さんは明らかに、松に話しかけているより上のレベルの英語で土居さんに話しかけているようだった。


 これ以上に土居さんと差をつけられたら、徳永さんに呆れられてしまう。


 何もしないでこのまま続けて行けば、松は、完全に、物覚えが悪く、教えた事をすぐ忘れてしまう頭の悪い人間だと思われてしまうだろう…



「なるほどねぇ」


と、天野さんは言った。


「宿題まででるのか。噂通り、徳永先生は厳しいんだね」



「ええ、とても熱心に教えて下さるんです。でもなかなか」



「なかなか?」



「やっぱり場数を踏まないとダメみたいで、いつも付いて行けなくて」



 天野さんは、


「そっか、場数か」


と呟いてから、何かひらめいたかのように笑顔になった。


「突然だけど、明日の夕方あいていない?」



「明日ですか?」



「明日、ボクの同期同士の集まりで、一日限定の英会話講座があるんだよ。講座って名前がついているけど、丁度アメリカから数人現地社員が数人来るんで、単に英語でディスカッションするだけなんだけどね。ボクも、同期の連中の何人かと一緒に行くことにしているんだが、花家ちゃんもどう?」



「明日ですか」


松は唸った。



 複数での英語のディスカッション。


 松は未だかつて、本場の英語話者と本格的な英語での会話をしたことがなかった。


 インド訛りのスワニーさんとは徳永さんが支店に出向していた頃は、何回か英語で話していたが、それも一年以上前の事で、ほぼ忘れかけていた。できれば参加してみたい。だけど…



「明日の夕方なんですか?」



「うん、丁度時間があくのが明日の夜の六時から八時まででね。その後、よかったら一緒に晩飯にいかないか?」



「食事ですか?」



「晩飯がてら、簿記教えてくれないかな」


と、天野さんは期待のこもった熱い目をしていた。



 ああ、そうか。


 英語を教える代わりに、簿記を教えて欲しいって言ってたっけな。


 津山さんに「他人の世話やいている暇はないわよ」って言われたけれど、やっぱりこんな風に気を使ってもらってめったに会うことのない外国人とタダで話ができる会に参加させてもらえるのなら、後で余分に時間を割いてでも天野さんに簿記を教えてあげなきゃならなくとも、行った方がいいんじゃないかな。


 是非行きたい。


 行きたい気持ちは強いのだが…



「明日は多分ダメだと思います」


と、松はションボリと言った。


「明日の夜は、徳永さんとの英語のレッスンの予定が先にはいっていますし」



「明日一日だけのことだよ。英語は昼のランチの時もしているんだろ?どうしてもだめ?」



「行きたいのはやまやまなんですけど」



 うーん。一日ぐらいのことだもん。


 行ってもいいかな?


 徳永さんに頼んで休ませてもらおうか。


 徳永さん、どういうだろう。


 オレのレッスンよりそっちを優先するのかって、怒られちゃうかな。


 最近、レッスン以外でもやたら機嫌悪いんだよね。


 就業中に後ろから聞こえてくる仕事の声もなんだか荒っぽいし。



「なんだか浮かない顔色だね」


と、天野さんは言った。



「えっ、そうですか?」


松は慌てて表情を元に戻した。



 それを見ていた天野さんは、またクシャっとした笑みを浮かべた。



「徳永さん、結構厳しそうだもんね」


と、彼は言った。



「ええ、まあ」



「個人レッスンもいいけど」


天野さんは言った。


「たまには大人数で話して、本場の英語に触れてみるのも悪くないと思うよ」



 そうよね、そうだよね。



「こういった機会はあまりないから、なるべく明日は行った方がいいと思うんだけどね」



「そうですね」


と、松は言った。


「ダメモトで、ちょっと、徳永さんに聞いてみます」



「そうしなよ」


と、天野さんはニッコリと笑った。



 昼休憩から戻ってくるとき、ちょうど、廊下でエレベーターから食堂から戻ってきた徳永さんと出くわした。



「あ、今日は参加できずに、すみませんでした」


松は、ぺこりと頭をさげ、昼休み中に営業課に呼ばれて時間がとれなかったと理由を説明した。



 徳永さんは最初、ものすごく拗ねたような機嫌の悪い顔だったが、事情を聞いて、表情を和らげた。



「システム情報課は本当に、しょっちゅう呼び出されるんだね」


と、徳永さんはそう言って溜息をついた。



「システムが立ち上がったばかりで、まだ皆さん落ち着いていないみたいで」


 と言いつつも、松は、頭の中で、さっきの天野さんの申し出の件を言って明日休ませてもらおうかと思ったその時、松が口を開く前に徳永さんが言った。



「実は明日は、急に出張が入ってね」


と、彼は言った。



「出張?」



「明日は一日留守になりそうで、レッスンはできそうにない」



 えっ。そうなのか。


 松は一瞬喜びそうになったが、なんだかいつもより元気のない暗い徳永さんに、そんな気持ちはすぐに沈んだ。


 どうかしたのかな?



「って、さっき食堂で土居さんにも明日はできないってそう言ってきたんだが、夜には会社には戻れると思うんだ」



「え?」



「多分、六時頃には戻れると思う」



「六時頃?」



「そう。その時間に戻ってこれたら、すこしでもレッスンできるだろう?明日の夜は、部署横の商談スペースでいいから、久しぶりに個別レッスンをやろう」



「個別レッスンですか?」



「そうだ、マンツーマンでやろう。思っていた通り、ハナイエちゃんは、複数レッスンになると、やっぱりダメだね。レッスンにならなくなっちまう」



 ドキ。見破られていた。



「あの土居さんって子、ものすごく積極的だから、ハナイエちゃん、全然集中できていないでしょ?」



「…すみません」


う。図星。



「オレに謝らなくていいんだよ。とにかく、効率よく効果を高めるには、しばらくでもいいから集中的に英語に触れて慣れた方がいいと思う」



「そうですね、そうですよね」


松は、気にかけてもらっている事が嬉しくて、ジーンと胸が熱くなってしまった。


「で、でも」



「ん?」



「じゃあ、明日は、レッスンのためにわざわざ会社に戻ってきてくださるんですか?本当は、寮に直帰する予定じゃなかったんですか?」



「このぐらいどうってことないよ。六時からオフィスで二時間ほどやって、それから食事に行こう。食事中も英語でずーっと喋っていたら、少しはカンが戻るんじゃないか?」



「カン?」



「去年もずっとこんなレッスンだっただろ?ハナイエちゃんは、一対一のずーっと喋りっぱなしの方が効果あるみたいだから」



「そうですか?」


松は言った。



「そうだよ」


と、徳永さんは言った。


「ハナイエちゃんはいつも一対一の方が生き生きしている」



 徳永さんは、ちょっと元気を取り戻したようでニコっと爽やかな笑みを浮かべた。



「ひょっとしたら、帰る時間が六時より遅くなるかもしれないけど、その時は、連絡入れるよ」



「あ、もしかして、接待があるとか?」



「いや、接待はない。誘われても断る。先約があるって言えばそこまで強く誘う人達じゃないから」



 先約って、わたしとのレッスンってこと?



「時間はハッキリしないが、必ず会社には戻ってくるから。待っている間、仕事がなければ貿易実務の勉強でもしていてくれ」



「貿易実務?」



「英語も大事だが、そっちの方が手こずっているんだろ?」



 う。手こずるも何もまだ、殆ど手をつけていない。



「はい」



「空いた時間は貴重に使えよ。他人に簿記を教えてる暇なんてないぞ」



「え?」


松はいきなり簿記の話がでてきて今、自分が言おうとしていた事が見透かされたのかとドキリとした。思わず、


「何でですか?」


と、言ってしまった時には遅かった。またまた、徳永さんの眉は、思いっきり不機嫌に釣り上った。



「システム情報課は残業が多いって聞いている。あまり自由に勉強できる時間ないだろ?これから英語漬けにしようと思っているのに、のん気に他人に簿記を教えている場合じゃないっていっているんだよ」



 うわー、機嫌わるくしちゃった。



「で、でも、これからも徳永さんも出張とかでいらっしゃらない時あるわけですし、そういう時は…」



「そういう時は、ひとりで貿易実務の勉強をすればいいじゃないか」


と、松が何か言う前に被せるように徳永さんはそう言い放った。



「それはそうですけど」



「ですけど何?」


あ、またイラっときている。



 何て説明しよう?


 徳永さんは明日、松のために遠方の出張からわざわざオフィスに戻ってきてくれるという。


 明日、徳永さんが出張でいないなら、英語の会に参加して、天野さんに簿記を教えてもいいですかなんて言った日には、わたしは死刑かもしれない。



「ひょっとして、また、天野君から教えて欲しいっていわれてるのか?」


松の表情の変化に気付いたのだろう、徳永さんは訝しむようにジっと松の顔を見ていた。


「英語を教えるかわりに簿記を教えて欲しいといわれているんじゃないだろうね?」



「う…あの」


図星をつかれて松は狼狽える。



 徳永さんは、何も言わず、ハーッっとため息をついた。


 ああ、やっぱり呆れている?


 その顔がたまらなくなって、



「で、でも、徳永さん、天野さんは、いい先生になれるって、そう仰っていたでしょ?」


と、思わずやけっぱちな事を言ってしまった。



「・・・・・・」



「ネイティブ並じゃなくても結構達者だからって言っていたから」



 彼は、自分の言った事を思い出したのか、再び頭をかかえた。そしてチラとこちらを見やりながらボソっと言った。



「オレも色々とバチあたりな事を言っているよな」



「は?バチ??」



 徳永さんは、目を閉じて、ふぅーっと、深いため息をついた。ちょっと目元が寂し気に見える。



 ああ、ここまで気を使ってもらって、「明日、天野さんの同期の方の英語ディスカッションの会」に行っていいですか、なんてやっぱり言えないよな、と松は思った。


そうは言っても、実のところは、松とて、徳永さんと二人きりになれる機会が持てるだなんて、内心嬉しかった。


 徳永さんと一対一なら、むしろそっちの方が大歓迎だ。


 久しぶりの徳永さんとのレッスン。


 土居さんに邪魔されずに心おきなくお喋りが出来るじゃないか。



「あ、あの」


沈黙がたまらなくなって、松はおずおずと話しかけた。


「どうかしましたか?」



「なんでもない」


と、彼はふっと優しく笑うと、


「とにかく明日は夕方戻ってくるから、席に就いていろよ」


と、言った。



 そして、いきなり松の方に身を乗り出したかと思うと、何か探し物があるかのように、松の顔をジっと見つめている。



「な、何ですか?」



「本当にキミは」


と、徳永さんは松の視線を外さずじっと見据えていた。



「なんですか?」


松は、再び言った。



「相当ニブいみたいだから、かなり厳しくしないとダメみたいだね」




<24.噂> へ、つづく。





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