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22.あたりクジ

22.あたりクジ



 その日の夜は、あまり眠れなかった。昔よくみた悪い夢ばかり見た。


 瞼が重く、ショボショボ眼で仕事に行った。


 席に就いてパソコンを立ち上げると、


「来月の社内試験の申込は、明日までです。部長席で取り纏めて人事に提出しますから、希望者は明日までに部長席に申し込用紙を提出ください」


と、部長秘書から部員宛てのメールが来ていた。



「明日までか」


松は唸った。



 徳永さんには「社内試験を受けるつもりはない」って売り言葉に買い言葉でタンカ切っちゃったけど、あんなに勧めて下さった佐伯部長の手前、受かるつもりはなくとも受験だけでもしておかなければ、恰好がつかないかなとも思う。


 だがやはり、受けるとなったら、全く勉強も何もしないというわけにはいかないだろうなあ。


 そんな事考えていると、隣席の南田さんにすり寄ってこられて、朝っぱらからコソコソと内緒話をもちかけられた。



「ねえ、花家さん、大ニュースよ。昨日、徳永さんのデートを目撃しちゃったの!」


相当驚いたようで、声は震えているし、かなり興奮しているようだ。



「え?」


松は、鞄を引き出しにしまおうとしていた手元が滑って、バッグの中身が床に転がった。



「昨日の夜、友達と女子会しに行ったお店で、たまたま徳永さんと一緒になってさ。徳永さんと神楽さんが二人きりで食事しているのを目撃しちゃったの~~~!!」



「デート?」


と、松はリップやら携帯やらを拾いながら言った。そして


「デート?」


と、繰り返した。



「そうなのよ」


ショックのあまり、目元が赤く潤んで涙まで出そうになっている南田さん。松は、どっちかというと青白い顔になっている。



 ああ、あのあとやっぱり二人で食事に行ったのか。


 だけど何でデート?食事しただけじゃないの?



「なんかめっちゃくちゃ、いい雰囲気でさ。向こうは、私達がそばの席にいることに気が付いていないみたいだったけど、顔がくっつきそうになっていて、ものすごく親密そうにしていて…」



 なんだと?


 顔くっつきそう、親密??



「てっきり、ニューヨークの現地社員だと思い込んでいたけど、違っていたのよねぇ」


南田さんが残念そうに項垂れる。



「何が?」



「ライバルが現地社員なら、こっちにも勝機はあるけど、真隣に本命がいるんじゃ、こっちに勝ち目はないじゃないのよねぇ」



「本命?それって」


誰の事?



「やっぱ、噂通り、神楽さんだったのか」


南田さんは、おもいっきり声のトーンを低くした。



「噂?」



「徳永さんが、合コンにも行かずに大事にしている心に決めた人って前から噂になっていたけど、それって、きっと、神楽さんなんだよ」



「・・・・・・」




 午前中は、体のあちこちに鉛の文鎮がつるしてあるかのように重かった。


 意識も半分朦朧としていたが、松はそれを寝不足の所為にした。


 その日は、電話で呼び出されることもなく自席でパソコンに向かって仕事をしていたが、今日の徳永さんも外出がないようだった。背後から例の嫌味なぐらい流暢な英語や、神楽さんと話し合っている声がやたら耳に入ってきて、それが余計に神経を苛立たせた。



 徳永さん、心に決めた女性って、神楽さんのことなの?


 やっぱり、私の事は、綺麗に忘れてすっかり過去の事になっているの?



 そんな疑問が、ずーっと松の頭の中でグルグルとしていた。



「やっ、花家ちゃんじゃない、元気にしている?」


 突然席の目の前から声をかけられて、ハッと顔をあげた。見ると、目の前に知り合いが立っていた。



天野(あまの)さん」



 天野さんは、親会社の入社二年目の若手の男性社員である。小柄ではるが、人柄の良さが表側ににじみ出ているような、カイ君とはまた違ったショウユ系のイケメンで、年齢が近いこともあって、この広い親会社の中で気さくに話せる数少ない知り合いだった。



「隣の部署に用事があって、今帰るところなんだ。ところで、どう、だいぶ仕事に慣れた?」



「はい、お陰さまで」


松は、立ち上がって、行儀よく頭をさげた。


「皆さんに良くして頂いております」



 天野さんは、人事部の人で、松が親会社に来た当初、あれこれと教えてもらったり指導してもらったりと、色々と気にかけてくれていた。



「分からないことや、気になることがあったら、いつでも相談に来てね。ああ、そういえば、花家ちゃんって、社内試験受けるの?」


彼は、デスクの隅のファイルの山の上に無造作に置かれて、ペンディング中になっているプリントに視線を落としていた。



「あ、えっと。受けようかなと思っていたんですけど、なかなか、思いきれなくて…」



「花家ちゃんは、一年限定の長期出張だったよね?ってことは、十一月と来年の五月、二回受けるチャンスがあるんだろ?挑戦しないの?」



「挑戦できたらいいんですけど、勉強する時間もないし、どうしようかと思っています」


本当は受ける気はないが、鈴木さんや佐伯部長が近くにいる手前、はっきりそう言えなかった。



「ああ、システム情報課は、残業が不規則に多いからなぁ。社内試験はオレも他人事じゃないんだよね。総合職は初級は必須だし。花家ちゃんは確か簿記が得意なんだっけね?問題の科目は貿易?それとも英語?」



「両方ともです。両方とも、相当やらないと点数とれないと思います」



「ボクの場合、貿易もそうだけど簿記も一からやらないと、ダメなんだよね~。花家ちゃん、簿記、教えてくれないかなあ」



「へ、わたしがですか?」


何を言いだすんだ。この人は突然。



「お返しに、ボクが英語を教えてあげるよ」



「天野さん、英語できるんですか?」



「大学の時一年間語学留学していたことあるんだよ。まあ、日常会話は問題ないってレベルだけど、初級ぐらいなら何とかね。どう?」


どうと言われても返答に困るんだけどなあ。



 松は、曖昧に笑ってごまかした。



 松が返事を鈍っていると


「じゃ、考えておいてね」


と言って、天野さんは颯爽と部署に戻って行った。



「英語を教えてやるか…」


 

 徳永さんに限らず、ここの会社の人は、人に英語を教えるのが趣味なんだろうか。


 何やら親切すぎて気味が悪いぐらいだ。


 だけど、実際、受験するとなったらこういったお誘いはありがたい。


 簿記を教える代わりに英語を教えてもらうのだから、ギブアンドテイクでお互い立場は平等だ。気を使わないで済むではないか。



 夕方近くになって、また営業課から呼び出された。


 会計の新システムのトラブルで、解決するのに結構時間がかかってしまった。戻ってくると八時近くになっていた。



「ううう、お腹すいたよぉ…」


と、呟きながら席に戻ってくると、鈴木さんも、隣の南田さんも残業でまだ席に座って忙しそうにしていた。



「花家さん、やっと終わったの?」


南田さんが言った。



「はい、システムが八時までなんで、これ以上はできないから」



「ああ、そう言えば、システムの稼働時間を短縮しようかって案がでているんだけど、どう思う?」


と、席に座っていた鈴木さんが言いだした。


「旧システムは夜の八時までだっただろ?新システムは以前よりずっと使い勝手がよくなっているから一時間ぐらい短縮しても大丈夫だろって、上はそういっているんだけど、どうかな」



 鈴木さんはそう言うと、『新会計システムの稼働時間改革案』と書かれた書類を松に見せてくれた。



「ああそうですね、短縮すれば残業時間を減らせるかもしれませんね」


松は書類を見て言った。



「そ、人件費の削減につながる」


鈴木さんも同意した。



「賛成~~さんせーい!」


南田さんは、グッタリと机の上に突っ伏せた状態で、右手だけ上げた。


「残業中に呼び出される可能性が低くなるわけでしょ?一時間といわず、もっと短くしちゃってオッケーですよ!そうすれば、今日みたいに、飲み会も合コンもドタキャンせずにすみますもんねぇ!」


恨みがましく彼女は唸っている。



「ドタキャンしちゃったんですか?」


沈没状態の南田さんに問いかけた。



「そうなのー今日の飲み会は、めちゃくちゃ予約の取りにくいお店で一か月も前から決まっていて楽しみにしていたのに」


南田さんは言った。


「あー、残念だ。ねえ、今度は、花家さん一緒に行こうよ」



「合コンですか?」



「うん、せっかく東京(こっち)に来ているんだから、合コンのひとつやふたつ行っといたって損はないじゃない。今まで誘わなくって、悪かったなあって思ってたぐらい。今度、話あったら声かけてもいい?」



 え、でも。


 松は背後を気にしながら答えを濁した。


 パーテーション越しで分からないが、徳永さんも神楽さんも今日は残業でまだ会社にいてたよな。



「で、でも、また突然残業が入ったら、ドタキャンせざるを得ないし、そうしたら周りの方にご迷惑が…」



「そーゆー場合は不可抗力なんだし、諦めるしかないけど。でもさ、残業の事を気にしていたら、いつまでたっても飲み会にさえいけないじゃない」



「まあ、それはそうですが」



「そうでしょ?たまに、ババっとハメはずさないとねぇ!じゃ、今度話あったらお誘いするね」


と、南田さんはそう言って半ドタキャンになってしまった宴会の後半に参加するために、イソイソと支度を整えて帰って行った。



「花家さんも早く帰りな。オレもこれを提出したらすぐに帰るからさ」


鈴木さんはそう言うと、役員向けの決済が必要な書類の山を提出しに、席をたってフロアー奥の向こうの方に行ってしまった。



 シン…



 急に部屋は静かになった。


 はぁ。私も帰るとするか。


 松もまた、パソコンの電源を落として帰り支度をした。


 さあ、と、席を立とうかと言うときに、システム事業部と隣の海外事業部が共同で利用している部署横の商談スペースにコーヒーを飲みながら寛いでいる徳永さんが視界に入った。


 あ、わたしひとりだと思っていたのに、まだ、残っていたんだ。



「・・・・・・」



「・・・・・・」



 お互い視線は合うのだが、言葉を掛け合うことが出来ない。


 って言うか、何を話すべきか話題が思い浮かばない。


 それに、こっちを見ている徳永さんの視線が何気に痛い。



 顔を見ると、またいつもの仮面バージョンの徳永さんなのかと思いきや、仮面と言うより、どっちかと言えばふてくされている感満載で、眉毛は吊り上がっているし、口はへの字とはいわなくとも口角がさがって歪んでいる。


 まるで子供がヘソまげて拗ねているみたいだ。


 だけどなんだって、あんな怖い顔して睨まれなきゃならないんだ。


 何か言いたいのなら、はっきりと言えばいいじゃん。



“お疲れ様です”


 と言って、さっさと徳永さんの側を通り過ぎてやれと椅子から立ち上がったその時、彼の方が口を開いた。



「社内試験の勉強をする時間はなくとも、合コンには行くんだね」


冷たい声が静かな空間に響き渡る。



 え?



 松は、彼を見下ろした。


 そういったその顔は、一層ゆがんで機嫌が悪そうだった。



「わたし、合コンに行くなんて言ってませんけど」


と、松は言い返した。



「ああ、そうか、仕事が忙しいからいけないのか。遅くまでかかる仕事だもんなあ」


そう言って徳永さんは立ち上がると、松の目の前にある鈴木さんの席にドカっと座り、机の上に放りっぱなしなっていた『新システムの稼働時間改革案』という書類を取り上げてまじまじと見始めた。


 

 う、どういう意味なんだ。


 システムの稼働時間が短くなれば、残業することもなくなるから時間とれるって言いたいのだろうか。



「べ、別に試験を受けないってわけではありません」


松は、こんな事言うつもりではなかったのだけど、なぜかそんな言葉が出てしまった。



「へえ、昨日はあれだけ嫌がっていたのに、どういう風の吹き回し?もしかして、いい先生が見つかったから、その気になったとか?」



「いい先生?」



「天野君はネイティブ並とは言わなくとも結構達者だよ。採用の時、僕がリクルーターだったから、よく覚えている。彼ならきっと、いい先生役になってくれるだろう」



 ああ、昼間ここで話しているのを聞いてそれで拗ねていたのか。


 いや待て。どうして彼が拗ねる必要があるんだ?


 だって、徳永さんには…



「わたし、天野さんに先生をしてもらうだなんて一言も言ってませんけど」



「でも、そうしてもらうつもりなんだろう?オレが教えてあげると言った時は、嫌がったくせに」



「別に嫌がっていません。むしろ、わたしを嫌がっているのは徳永さんの方じゃないんですか」



「オレ?」



「だって、今現に、ものすごくふて腐れた顔しているし」



 徳永さんは自分の顔に現れている表情に気が付いたらしい。


 ハッとしたように身体を起こすと、表情を和らげた。


 しばらく間があった。松はこのまま帰ってやろうかと思ったが、拗ねてはいても、どことなし寂し気なふたつの目が松を引き留めた。



「徳永さんは、わたしと一緒にいるのが嫌じゃないんですか?」


と、松は言った。



「それ、昨日も言っていたね」



 だって、最後に別れたとき、“さわるな”って言われたきりだもん。


 それを訂正してもらわない限り、気安く近づくことはできないよ。



「別に嫌じゃない」


と、徳永さんは言った。


「嫌だなんて言っていない」



「ほんとうですか」



「ほんとうだ。信じてくれよ」


と、彼は言った。



 松は何とも言えなかった。


 またしばらく沈黙が続いた。



「それより、今はとにかくキミが社内試験を受けるかどうかの方が問題だろ。社内試験に合格すれば、親会社(ここ)の契約社員に立候補できるんだろ。英語はオレが教えると言っているんだ。単純に、厚意だと思って甘えておけばいいじゃないか」



 なんで、わたしが社内試験を受けるかどうかの方が問題なんだ。


 自分に話題が向けられると、すぐに話題を逸らそうとするところは、変わっていないんだな。



「また、わたしに英語を教えるとなったら徳永さんだって色々と面倒ですよ。そんなに安請け合いしてもいいんですか」



「別にかまわないよ。英語を教えるぐらい慣れている」



「でも…」


松は、他の言い訳を考えようとした。



 彼がここまで受験を強く勧めて、協力しようと申し出てくれるのか理由がやっぱり分からない。



「オレに借りを作るのが嫌なのか?」


と、彼は言った。



「別にそういうわけじゃ」



「どうしても、オレに借りを作るのが嫌だと感じるのなら、子会社に出向していた時、自宅に航空チケット届けてもらったりとか、色々世話になった時の、その恩返しだと思ってくれたらいい」



 そうなの?だから、義理でわたしに英語のレッスンをしてくれるって言うの?


 子会社に居たときに、色々してあげたから?


 だから、心に決めた彼女がいても、わたしの面倒を見れるというわけなのだろうか。



「そんな」


松はちょっと狼狽えた。


「あれは業務の範囲内の仕事で、今更恩義を感じてもらう必要なんてないです。あれはあれで完結していますし」



「キミも頑固だね」



「そっちこそ」



「そんなにオレが信用できない?」


と言って、徳永さんは表情を崩した。


「別に何か企んでいるわけじゃない。昨年あれほど頑張ったんだ。受からなければ何の役にもたたないだろ?今年こそ受かって欲しいって純粋に思っているだけなんだけどね」



 その時ふっと、徳永さんの顔に柔らかい光が戻ったのが垣間見えた。


 一瞬その瞳と目があった。


 え、今の何?



「教えてくれるっていうんだ、教えてもらえなよ。タダなんだし」


その時、いつの間にかフロアーの端っこから戻ってきた鈴木さんが見下ろしていて、松に向かって話しかけていた。



「はあ」



「だけど、コイツはスパルタだからな。いったん教えるとなっちゃめっちゃくちゃ厳しいから。花家さんは一度コイツに英語教わったんだろ?どう、徳永のヤツ、気が短いだろ?」



「誰が気が短いって?」


徳永さんはジロリと鈴木さんを睨んだ。



「短気だろ?キレたら終わり。すぐに結論をだしちまう」



「その言い方は正しくないな。オレは結論を出す前に十分熟考している。キレるのは最終手段だ」



「そうか?ならそれを信用しよう。ま、こいつは責任感の塊のような男だし、英語だけはネイティブ並にベラベラなんだから、だからさ、徳永に教えてもらいなよ、花家さん。さっきも言ったけどタダなんだぜ?何人もの社内試験を手伝って合格させている実績があるんだよ、その点は、天野より信用性があると思うよ」



 確かに、受けるとなれば徳永さんにコーチしてもらうのが一番かもしれないが。



「別に、天野さんと天秤にかけているわけではありません」



「じゃ、何が問題?」



「だって、英語だけ頑張っても」


そうなのだよ。問題は箸にも棒にもかからなかった貿易実務の方だ。



「貿易実務か」


と、鈴木さんは言った。


「確かに、踏み込んだ経験のない人間には、あっちの方が億劫になるかもね。社内で実務に詳しい人間ならいくらでもいるよ。調べておいてやろうか?」



「ええっ?」


松は飛び上がった。


「い、いえ、そこまでして頂くわけには」



「別に、先生を探すぐらいどうってことないよ。花家さんはウチの会社の人間じゃないから、知り合いも少ないし、色々と不自由でしょ」



「はい、まあ、そうですが」



「明日にでも聞いておいてやるよ」


と言って、鈴木さんは帰り支度をした。


「じゃ、今日はこれで帰るとするか」



 三人は立ち上がり席を後にした。


 松はちょっと混乱した気持ちで一緒に二人の後を付いて行った。



 何々、どういうこと。


 なんだかすっかり、わたしが社内試験を受けることになっている。


 まあいいか。


 十一月だけ受けて、どうせおっこちるだろうし、来年の五月を受けるのはその後考えても。



「腹減ったな、花家さんメシ食べてく?」


鈴木さんがエレベーターを待っている間に、食事に誘ってくれた。



「いえ、帰って家で残り物でも食べます。節約のために、外食は極力控えているんです」



「おっえらいね~~一己(かずみ)はどうする?」


と、彼は徳永さんに向かって言った。



「オレも同じくだ。まっすぐ帰るよ。晩飯は予約しているし」


と、徳永さんは言った。



「予約?それって、ひょっとして…」


鈴木さんは意味深に眉を寄せた。



「何の話だ。何がひょっとするんだよ」


と、徳永さんは平然としていた。



「ひえ~~~羨ましいねえ!」


と、鈴木さんは口笛を吹く。



「何言ってんだよ。お前には家族がいるだろうが。さっさと帰って、嫁さんの作った飯をちゃんと食えよ」



「はいはい、分かりましたよ」


と、鈴木さんは素直に頷いていた。



 どうやら徳永さんは、晩御飯を自宅で予約できるような羨ましいところに住んでいるらしい、とぐらいにしか、この時松は考えていなかった。



 翌朝、南田さんがロッカールームで会った時、彼女の口からまたまた、新たな情報を仕入れることになった。



「今朝はまた、聞いちゃった…」


と、彼女は朝っぱらから悲壮な顔で地の底に落っこちたかのような暗い声を出している。



「何、どうしたの?」



「徳永さんと同じ寮に住んでいる人が見たんですって」



「何を?」



「徳永さんが、朝一に同じ寮の女性の部屋から出て来るのを」



「ええ?」



「噂によると、どうやらそれは」



「それは?」



「神楽さんの部屋だったみたいでさ…」


地の底まで落ち込んで、這い上がってこれなさそうな声だ。



「う、噂でしょ?ただの噂なんでしょ?」


松は、息を吸いこんでゆっくり吐きながらいった。息が止まって、呼吸困難になりそうだったからだ。



「でも、女の部屋から出てきたのは本当らしいよ」



 松は、何とも言えない気持ちで部署に向かった。


 着席すると、すぐ後ろの席の神楽さんの元気な声が聞こえてきた。



「徳永君、これ、忘れ物!」



「あ、探していたんだよ。どこにあった?」



「もぉ~~~全然覚えていないの?昨夜わたしの部屋でご飯食べながらこの書類みていたでしょ?」



「そうだったっけ?」



「そうだったっけじゃないでしょ?大事なモンだって昨日言っていたじゃない。酔って忘れちゃったの?」



「ごめんごめん」



「大丈夫?ネクタイは忘れるわ、時計は忘れるわ。ほんっと、相変わらず忘れ物が多いのは変わっていないのね」



「・・・・・・!」



 松は思わず、立ち上がって後ろの席を見つめずにはいられなかった。パーテーション越しに、ふたりの横顔が見える。



「おっと、声が大きかったかしら」


神楽さんが松の視線に気が付いてそう言ってきた。



「い…いえ、たまたま後ろを振り返っただけで」



「ねえ花家さん、聞いてよ。徳永君って、実はものすごく忘れ物が多くてさ」


と、神楽さんは隣の徳永さんをからかうように言う。


「東京に戻ってきてまだ一週間も経っていないのに、数えきれないほどの忘れ物を―――」



「神楽!そんな言い方するなよ。それじゃ、オレがいつも忘れ物ばっかりしているように聞こえるじゃないか」



 徳永さんは思いっきり怒った顔で主張しているが、徳永さんの忘れ物の多さは、松にとって、今に始まった事ではない。これまで彼の忘れ物を幾度となく届けに行っている。


 だが、今ショックなのはそこではなかった。


 隣にいる神楽さんが、彼が忘れ物が多いことを知っていて、なおかつ、それをフォローしているという事だった。



「・・・・・・」



「訂正してくれよ、オレはお前ほど物忘れはひどくない」


徳永さんは憮然として神楽さんに言った。



「失礼ね!何が物忘れよ。あんたの忘れ物の多さ程ひどくないわよ。この前なんか―――」



「あ、あの、失礼します」


松は、たまらなくなって書類を経理に出しに行くふりをして、その場を立ち去った。去り際に、徳永さんの眼がもの悲しそうに曇ったように見えたが、松は心を頑なにした。



 むしゃくしゃする。ああ、苛々する。


 新しくカノジョが出来たからって、目の前でイチャつかないで欲しい。


 彼がわたしの事が嫌っているのは仕方のないことだけど、だけど、こちらはまだ、ふっきれていないのだ。



「ん?」



 松は、自分の言葉にハタと立ち止まった。


 そう言えば、昨日徳永さんは松の事を嫌っていないと言っていた。むしろ


 「徳永さんなんて、大っ嫌い」


 と言ってしまったのは松の方ではないか。



「・・・・・・」



 意味もなくフロアを一周して、トボトボと席に戻ってくると、神楽さんは着席していたが、徳永さんは席外しでいなかった。


 通り過ぎる時、神楽さんに呼び止められた。



「ねえ!」


神楽さんはいつもにこやかだ。笑顔にグッと引き込まれる。



「なんでしょうか」


気が進まないが、仕方なく足を止めた。



 彼女はちょっとちょっとと手招きして、松を隣に座らせると、小声で話し始めた。


「ねえ、単刀直入に聞くけど、花家さん、来月の社内試験申し込んだ?今日は申し込の締切でしょ?」



「いえ、まだ…です。受けるかどうかまだ考え中で」


何で、この人から社内試験の事をあれこれ言われなきゃならないんだ。ああ、そうか、徳永さんが私の事をベラベラと、この人にも喋っちゃっているからか。



「何でも、貿易実務の先生を探しているんですって?」



「あ、いえ」


この話は鈴木さんから聞いたのかな。



「よかったら、あたし、貿易実務の勉強に協力しましょうか」


と、彼女はいきなり言いだした。



「ええ?」



「あたしさ、入社してすぐの頃、(おつ)(なか)業者(※通関業を生業にする法人。他者の依頼により、輸出入の申告、関税の申告などを代行している)に出向していた事があるから、普通の人より詳しいんだ。社内試験の初級ぐらいなら教えてあげられるよ」



 突然の申し出に松は、目を丸くする。



「そ、そんな事をお願いするわけには…」


松は、首をグルグルと横に振った。



「別に、遠慮してくれなくていいよ」


と、彼女はニッコリと笑った。


「そんなにビックリしなくても人に教えるのは特別な事じゃないから。わたしも初級を受けるときは、先輩にタダで教えてもらった事あるからさ」



「神楽さん、初級を持っているんですか?」



「初級だけじゃなくて、一級もあるよ。一般職から総合職に転籍するとき、必須だったから。あ、びっくりしているわね~あたし、この会社に入った時は、一般職だったんだよ」



「ええ~~~そうだったんですか?」



「そ、途中で転籍したの」



 なんと。神楽さんが総合職であることは知っていたが、一般職からの転籍とは。



「当時の上司に勧められてね~忙しい最中に試験受けなきゃいけなかったから、大変だったし、乗り気じゃなかったけど、チャンスは今しかないからって、まわりにも勧められて、で、試験をうけたの」



 へ~~~っ。


 松は、羨まし気に溜息をついた。目の前の彼女がキラキラして見える。



「一般職から総合職って、誰でもなれるものなんですか?」


好奇心にかられて聞いてみる。



「誰でもってわけではないよ。もともとの条件が合うかどうかまず審査されて、加えて、上から推薦してもらえないと」



 もともとの条件って?


 あ、そうか。学歴とかか。



「当時の上司がものすごく厳しい人だったんだけど、目をかけてくれてね。その人に強く勧められてさ」


と、神楽さんは説明してくれた。


「その人は、男性女性関係なく、目に掛けた人は引き抜いてくれる人でさ」



「そうなんですか」



「普段からボロクソ言われていたから、総合職に転籍しないかって言われた時はビックリしたよ。でもね、上司が斎賀さんだったから、あたし、今の自分があると思ってんだ」



「斎賀さん?」



「ああ、今のニューヨーク支社長だよ。当時、わたしの上司だったの。ものすっごくコワイ人でね~今でも鬼軍曹ってあだ名がついている」



 斎賀さんって、徳永さんの上司で、彼をニューヨークにヘッドハンティングした人だよね。確か。



「今となっちゃ、感謝している。だからさ、まだ迷っているなら、あえて花家さんに勧めたかったの。社内試験。受けたらいいと思うよ」



「別に無理して親会社(ウチのかいしゃ)の人になれとは言わないけど、受かっちゃえば、その権利を行使するかどうか自由にできるわけだし。自分の将来を決めるときに選択肢の幅が広がるんじゃないかな」



 う。ものすごく的をついた意見である。


 確かに、東京で働きつづけられる権利を有すれば、松の所属する子会社が乗っ取られたり、リストラされたりする危険性を回避しやすくなるのだ。そして何よりも実家に帰らずに済む。



「英語は、徳永君が教えてくれるって言っているし。彼、スパルタだけど、先生役としては頼りになる人だよ。わたしも試験の時はお世話になったし」



「本当ですか?」


 

 そうなのか。


 徳永さん、神楽さんにも教えてことがあるんだ。


 なんかまたちょっとショック。



「花家さんも、教えてもらったことあるんでしょ、そう思わなかった?」



「はい、思いました。試験の前に詰め込みでしたけど教えて頂いて、英会話以外に英語の筆記まで得点があがって」



「やっぱりね~だから、今回も教えてもらいなよ。試験もコツと経験がモノを言うからね。徳永君が自分から教えるって言ってんだもん。こんな滅多な機会はないよ」



「滅多な?」



「そうよ、徳永君、自分の気に入った相手しか教えないから。逆に、教えるって決めた人には徹底的に教えるし。それにほら、彼のことだから、またいつ外国に呼ばれて行ってしまうか分からないしね」



 そうだった。またいつニューヨークに行くか分からないって、言っていたっけな。



「そうですよね」



「まっ、決めるかどうかは花家さんだけど。わたしも試験を受ける前は逡巡したからね。でも、周りの人の勧めに従っておいてよかったなって、今思っているからさ、迷っているなら花家さんに一言言っておきたかったの。"あたりクジ"を持っていても、それを換金しなきゃお金にはならないでしょ?」



「あたりクジ?」



「さっき言ったじゃない、これはチャンスなのよ。花家さんは、今、環境が整っているって言いたかったの」


彼女はそう言って微笑んだ。そして


「引き止めて悪かったわね。仕事に戻って」


と、言った。



 松は、立ち上がって部署に戻って行った。


 チャンスか。


 徳永さんも同じことを言っていた。


 これはチャンスだって、これを逃したらいつ機会に巡り逢えるか分からないと。



 松は溜息を吐いた。


 徳永さんが絡んできたことで、社内試験について、冷静な判断が出来かねていた。


 松は、神楽さんの言葉を反芻してみた。


 あたりクジを持っている?


 あたしが?


 未だ、彼らの言うチャンスの意味が分からないけど、神楽さんは女子社員の先輩として真面目にアドバイスをしてくれているのだ。



 松は、お昼近くまで試験の申込用紙を手元に置いて、まだウジウジと悩んでいたが、結論として、十一月の試験を受験することにした。


 とにかく一回受けてみよう。


 来年の五月に再チャレンジするかどうかは結果を見てからだ。


 松は、申込用紙に記入すると、部長秘書席にお願いしますと用紙を手渡した。


 そして、その日じゅうに、松は徳永さんに再び、試験を受けることにしたので、英語を教えてくれないかと、お願いしに行った。


 彼は、両眉を奇妙にゆがめた真面目な顔で、口の端をピクリとふるわせた。そして、


「厳しくするぞ」


 と、それだけ口にした。




<23.落第生> へ、つづく。






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