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21.負け組になる?

21.負け組になる?



 9.11の事件が起こったあの日、松は、テレビで事態の深刻さを目の当たりにしていた。

 

 嘘だ、こんなこと、悪い夢にきまっている…。


 狭いアパートの中を熊のようにうろうろとひとりで歩き回り、何もない所で躓いたりと、とにかく正気でいられなかった。


 落ち着け、とにかく落ち着くんだ。


 彼はあのビルで働いていたわけではない。


 取引先があるので、よく出向くと言っていただけだ。


 難を免れている可能性の方が高いのだ。


 テーブルの上の携帯電話が視界に入る。


 松は、震える手でそれを掴み、何度か押し間違えながら、目的の電話番号を探し出して通話ボタンを押した。数回のコールで繋がった。



『こんな時に、電話してくんな!』


こちらから名乗る前に怒鳴られた。


『今お前の相手してる暇ねぇんだよ、ボケ!!』



「お願い、切らないでよ、テレビ観たんでしょ?ねぇ、徳永さんは?徳永さんは大丈夫よね?」


徳永さんと松を繋ぐ最後の蜘蛛の糸かのように、松は、携帯電話にしがみついていた。



『電話がつながらんぇんだよ!!!』


カイ君は叫んだ。もうそれは、悲鳴に近かった。


『あのビルが炎上するちょっと前に電話で話したばっかりだったのに、今は全くつながらねぇ』



「直前に徳永さんと話したの?どこに居ていたの?彼、どこに居ていたのよ??」



「今から取引先に行くって言っていた。それしか聞いていねえんだよ。まさか、あのビルに兄貴が出入りしてたり、取引先があるってことはねぇよな?お前、聞いたことあるか?」



 取引先…


 カイ君の言葉に、松の真っ青な顔は更に血の気が引いて行く。


 あのビルの中に仕事の取引先の会社が入あるって、徳永さんは言ってた。だけど、そんな事、カイ君に言えるわけない。



「ううん、聞いたことないよ」


松は、ウソをついた。


「仮に、もしあそこに取引先が入っていたともしても、しょっちゅう行くとは限らないし。それに、今はただ現地の通信事情が一時的に悪くなっているだけかもしれないし」



『オレ、今からニューヨークに行ってくる』


カイ君は松の話を聞いているのかいないのか いきなりそんな事を言った。



「えっ?」



『ここでぼんやりしていても、ラチがあかねぇから』



「ほんとに?気を付けてね。何か分かったらわたしにも連絡してくれる?」



『ぁあ゛?』


もんのすごく機嫌の悪い声が聞こえてきた。


『…お前、今更じゃねェのか?』


カイ君はふてぶてしく言った。


『そんなに兄貴の事が気になるんなら、何で、もっと早く会いに行かなかったんだよ?オレ、散々、会いに行けって言ったよなぁ?』


ドスの効いた地鳴りのような低い声。



「・・・・・・」



『チャンスはいつでもあるとはかぎらねぇって言ったよなぁ?』



「・・・・・」



『何で、今なんだよ?』


カイ君は絞り出すような声を出している。


『今頃心配して何になるんだよ??』



 カイ君の言葉が胸をギューッと圧迫する。


 ああ、その通りだ、彼のいう通りなんだ。


 もし今、彼が事故に巻き込まれているのなら、わたしの心配が何になろう?全てが遅すぎる。



『勝手に心配しとけよ』


カイ君は吐き捨てる様にそう言うと、プツっと電話を切った。



 その後、徳永さんが無事だったかどうか確認する術もなく、カイ君とも連絡がとれないまま時が流れた。



 ようやく徳永さんが生きて無事でいるらしい、という事が分かったのは、会社が出している社内報で、今回の9.11の事件では、親会社子会社合せて、事件に巻き込まれた人は一人もいなかったとの報告を読んだ時であった。


 その時の気持ちは、何とも形容しがたいものだった。


 張り詰めていた神経がゆるんだような、しばらく止まっていた脳への酸素の供給が再開されたような感じだった。



 その社内報には、事件当時WTC内にたまたま居合わせた関連会社に出向していた社員の手記が掲載されていて、テレビ中継でビルの外側からしか様子をうかがうことができなかった内部の出来事などが記されてあった。



 何時頃、衝撃を感じたのか、避難を始めたのはいつ頃なのか、脱出できるまでどの位の時間を要したのか。


 ビルを降りてゆく途中、非常階段で上層階に登って行った消防隊の隊員達とすれ違った事。


 下の階に近くなるにつれ、内部の破壊が目立ち始め、足の踏み場もないぐらいだった事。


 床に横たわった、動かない人が沢山いた事など。



 それは、決して、涙を誘うような情緒的なのではなく、状況を説明するためだけの簡単なものだったけれど、それだけに一層興奮せずにはいられなかった。


 一言一言に、背中に、ゾッとするような感覚を覚える。


 書き手の、当時の衝撃と冷静さが見て取れるようなレポートだったように思う。






「う…ん」


目の前の寝姿の徳永さんが、体勢を変えて再び寝返りを打った。その拍子に、ポケットから固い物が床に滑り落ちる音がした。


 

 携帯電話だ。


 かがんで拾ってみると、それは松の携帯電話と同じもの。



「え?これ、わたしの携帯?」


あれ、アタシ、今、落っことしたの?手に取った携帯を、明るい方に向けてみると、若干松の携帯と機種は同じだが色が違うようだ。



 松のはシャンパンゴールドだが、これはシルバー色が強い。


 だけど、これはどっちかって言うとレディース向けの人気機種。


 徳永さんって、こんな趣味あったのかなぁ?



 尋ねてみたくとも当の徳永さんは、生憎、狭い椅子を繋げた即席ベッドの上でグーグー寝ている。


 イケメンは寝姿まで麗しいだなんていうけれど、徳永さんの寝顔は子供っぽくてどこか抜けている感がある。


 おいおい、口あけて寝てると、虫が入るぞ。


 しっかし、こんな近くに人が立っているのに、全然目覚める気配がない。


 ああ、昨日帰国したばっかりで時差ボケか。


 でも、今日は用事があるんじゃなかったの?


 時計の針は七時を回っている。


 彼女とデートするんなら、早くでないといけないんじゃないのと、気を利かせて起こしてあげたいところだけど、今この状況で、彼を揺り起こすのはどうもキマヅイ。


 目が覚めた後、わたしとバッチリ目が合ってしまったら、目覚めが悪いに違いない、と松は思った。


 また「さわるな」とか言われて、振り払われたら、地中の奥深くまで落っこちて、二度と這い上がってこれない自信がある。



 松は、彼の携帯を開いてアラーム機能を操作してこちょこちょと設定した。


 同じ携帯だから、操作は簡単だった。


 五分後にアラームを鳴らすようにしておけば、無理にでも起きるでしょ。


 松は、携帯をそーっと彼が組んでいる腕の間に、差し込むようにいれておいた。



 よしよし。



 松は、ほくそ笑むと、その部屋を音をたてないように静かに後にした。



 翌朝、出社すると何食わぬ顔をした徳永さんが、松の真後ろのデスクにすでに着席していて、あの見覚えのある真剣な表情でパソコンを睨んでいた。顔色も悪くない。松はちょっとほっとした気分で、


「おはようございます」


と、まわりに声をかけて席に就いた。



「花家さん、コレ」


朝一に鈴木さんから一枚の用紙を手渡された。



「何ですか?」



「社内試験の申込用紙だけど?」


何、質問してんの?と言う顔。



 え。 またまた、頭が真っ白になる。どうして鈴木さんがこれを持ってくるの?



「佐伯部長から、花家さんに渡しておけって言われたんで」


鈴木さんが言った。



「佐伯部長がですか?」


松は首を傾げる。



「そ、部長がそう言ったんだ。じゃ、オレは、確実に渡したからね」


と、鈴木さんは言った。



 トクミツ氏は、社内試験を受けるか受けないかは、松の意思で決めていいと言っていた。だが、佐伯部長が勧めているということは、つまり会社として松に試験を受けろということである。


 どういうことだよ。わたしは試験を受けるだなんていった事ないぞ。


 どうしようか。


 ひとりで悩んでいても仕方がない。昼前の佐伯部長の手持無沙汰な時を選んで、彼女をつかまえ尋ねてみた。



「社内試験は、受けても受けなくても、全然どちらでもかまわないわよ」


佐伯部長は自らコピー機を操作しながら答える。彼女は運動のため、務めてフロア内を歩くようにしているとのことでコピーですら人に取りに行かせない主義らしい。


「社内試験は年に二回あるから、ええと、花家さんが受けられるチャンスは今年の十一月と来年の五月になるわね」



「十一月って、来月ですよね?」


後一か月もない。勉強も準備も何もしていないし間に合わない。



「とりあえず、来月受けて様子をみてみたらどうかしらね。結果を見て、箸にも棒にもかからなければ次うけなければいいし、なんとかなりそうなら来年の五月再チャレンジしてみてもいいし。どっちにしろ、一年もこっちにいるんだからいい機会でしょ?初級は契約社員の条件だしね」


と、佐伯部長は、トクミツ氏と同じ事を言った。



 その後数日、松は徳永さんと接触はなかった。


 パーテーションを挟んで背中合わせに座っているにも関わらず、松は席外しが多いし、徳永さんは神楽さんで殆ど外出しているので顔を会わす機会がなかったからだ。


 廊下ですれ違う時も誰かが一緒だったり、視界に入っていても急いでいたりすると視線が合うようなこともない。


 一度だけ、鈴木さんをお昼にさそいに松の部署にやって来たことがあったが、やはり、松は仕事に没頭して彼が視界に入らないようにしていた。


 目が合ったら、挨拶をしなくてはならない。挨拶をしたら、あれからどうしていたか話さなくてはならない。


 松は彼の今の近況を知りたくなかった。まだ、受け止めるだけの心の準備ができていなかった。





 その日、松は、同じく松と同じく支店から研修にやってきた土居さんと部署の席でランチを取った。


 土居さんも地方の支店限定の一般職だった。松よりも三か月早く親会社の人事部で働いていた。



「ねぇ、社内試験を受けてみろって勧められてない?」


松は、土居さんに早速聞きたいことと切り出した。土居さんの所属する子会社もまた、松の会社と同じくリストラ政策が進んでいるらしい。



「社内試験ね~受けてみればってやってきて早速上から話あったよ。合格したら親会社で契約社員で採用してもらえるからって」


土居さんは言った。



「やっぱり、そうなのか」


と、松は答えた。自分だけではない、皆、勧められているのだ。


「で、受けるの?」


と、松は尋ねた。



「今でも試験は受けてみようかと迷っているけど、実際問題、仕事が忙しくて勉強できる暇がなくて」


彼女の表情は暗い。


「英語の筆記と、英会話と、簿記と、貿易実務でしょ?過去問をやってみたけど、ぶっちゃけ、まともにできたのは英語の筆記くらいかなぁ。参考書と問題集を繰り返しやればできるって言うんだけど、英会話は参考書だけで上達するとは思えないし。時間のない中で、受かろうと思ったら、まとまった時間と、それなりの手段を確保できなきゃ無理よ」


土居さんは、鼻息を荒らげている。



「そっかあ」


やっぱり、親会社の社内試験も、そう甘くないんだな。



「そうなってくると、人に教えてもらうとか、スクールに通うとかって考えるんだけど、こっちに来てから、そんな事頼める知り合いいないし、外の学校に通うにもお金がかかるし、通えたところで、仕事忙しくて時間とれないしさ」



「そうか」



「最近は、社内試験受けろだなんて、上は気分で言っているだけじゃないのかって思うんだよねぇ」



「気分で?」



「とりあえず、勧めておけばいいや、みたいなさ。私達が居ている支店がなくなったりリストラされるような可能性があったとしても、とりあえずの救済措置として社内試験を勧めておきましたよ、みたいな。だけど、私達は子会社のしかも支店採用で、社内試験に必要なスキルもなくて、これまで必要とされたことももちろんないわけで。親会社の温情で契約社員に格上げしてあげるから、試験に受かれって急に言われたところで無理にきまってるじゃない」



「温情?」



「そ、温情。単に、善人になった気分で人助けをしたかったんじゃないの。ホントの意味で私達を救済するつもりなんて、ないんじゃないのかしらねえ」



 気分で人助けか。


 そういう見方があったのか。


 何か、ちょっとショック。


 だけど、そうなのかもしれない。我々は学生ではないのだから自由に勉強できる時間もない。家賃の高い都会に住んで、スクールに通う余裕もない。



「学生みたいに勉強できる時間が確保できれば考えもするけどさ。もとから英語が得意だとか、貿易実務の知識があるとか、最初から安定した実力がある人じゃないと得点を取れるとは思えないよ」


と、土居さんは言った。



「そっか…」


箸を咥えて松は黙り込む。



「花家さんは?」



「え?」



「花家さんは、過去問やってみた?わたしは英語の筆記しかとれなかったけど、花家さんは手応えあった?」



 松は首を振った。


「いや、まだ過去問解いてないけど、多分、まともに取れるのは簿記だけだと思う。貿易実務が全くダメで。昔は、講習会があって受けはしたけど、他の科目に時間をかけすぎて、結局足引っ張っちゃったんだよね」


松は、思い出しながら言った。



「足引っ張っちゃったって、じゃ、花家さんは社内試験、受けた事あるの?」



「ウチの会社のね。親会社のは受けた事ないよ」



「結果はどうだった?」



「四科目中、三科目は合格ラインだったけど、貿易実務だけが赤点で、ダメだった」



「じゃぁ、英語は、二科目とも合格ラインに入ってたの?」



「うん」



「えー。花家さんって、英語喋れる人だったんだー。いいなー」


土居さんは、さも羨ましそうな声を出した。



「ううん。わたしはむしろ、全然できない方で」


松は慌てて否定した。


「その時は、猛特訓してもらったから何とかなったものの、今は、全然やっていないから、また元の状態に戻っていると思う」



「特訓?スクールに通ったとか?」



「いや、すごくベラベラに喋れる英語話者の人がたまたま近くに居て、その人に教えてもらうことができて」


 

 一年前の、あの徳永さんとの無料英語スクールの日々がどっと蘇ってきた。



「へぇー、いいなぁ。その人って、外人?近くって、友達?それとも会社の人?」



「会社の人だよ。日本人だけど」


と、松は自分で言って、更に落ち込んだ。



 ああ、去年得点とれたのは、結局は、徳永さんが熱心に教えてくれたお陰なのだ。元のレベルにおちちゃったのなら、また、同じぐらい努力しないと上には上がらない。その際、今度は一人で頑張らねばならないのだ。


 

 そんな事を憂鬱に考えていると、カタンと音がして背後に人の気配を感じた。


 振り返ると、丁度、神楽さんと徳永さんがお昼休憩から帰って来たところで、席に座るところのようだ。


 いきなり振り返ってしまったので、視線を逸らすことができなかった。


 徳永さんと、バチっと目が合ってしまった。


 え、何か、目が怒っていない?。



「あの人、ニューヨーク帰りの徳永さんでしょ?イケメンで有名な」


土居さんがコソっと囁く。



「土居さん、知っているの?」



「うん、帰国子女で、めちゃめちゃ英語がペラペラだという…」


え。そんな事まで知っているのか。



「あんなにイケメンなのに、すごく気前のいい人で、社内の若手に昼休みを利用して英語を教えているって耳にしたけど…」



「そ、そうなの??」


え、何。徳永さん、英会話ランチ講座って、ここでもやっていたのか。って、軽くショックを受けてしまう。



 ああそうか、彼にとっては慣れた事なんだ。


 だから、教え方も上手いんだな…


 と、なぜか微妙に腑に落ちる松であった。


 彼は誰に対しても親切な人なんだ。私だけじゃなくて。



「あたしも教えてもらえないなあ。あ、でも、英会話だけできても、他の科目が追い付かなきゃ意味ないか」


と、土居さんはブツブツ言っていた。



 昼休みが終わって、仕事に戻り、いつも通り、忙しく過ごした。


 この仕事はシステムが軌道に乗るまで、テスト運用している部署のあちこちから呼ばれるから、自分の時間の配分が自由にとれない。


 呼び出しが少ない日は、暇を持て余すこともあるし、定時に上がれるけど、いったんトラブッたり解決できない案件が出て来ると、深夜近くまで残業になることがある。


 以前のように、何曜日と何曜日を英語の日、この日は貿易実務の講習会の日、と決めて勉強したりすることができなかった。


 土居さんの言っていたことも頷ける。


 会社は機会を与えてくれるだけで、それ以上のお節介をやいてはくれないのだ。



 はぁ。


 トクミツ部長から話を聞いたときは


「東京の親会社で契約社員になるのも、ひとつの道かな」


 なんて、一時浮かれていたけど、冷静に考えると、全然現実的ではない。


 このままで行くと、一年後にはもとの会社に戻るのか。


 実家に戻れば、またお見合いを強制されたりするのかと思うと、背中にゾクっとしたものが走った。


 まあ、それ以前に、もとの部署に、松の椅子が残っているかがどうかも問題なんだけど。


 

 ミルクティの缶がガコンと落ちて来るのを、松は、自販機の前で案山子のように立ちつくして眺めていた。



「次、いいかな?」


と、声を掛けられてハッと我に返る。



 どうやら、一瞬、意識を飛ばしていたらしい。


 松は慌てて缶を取り出して次の人に譲るために、後ろを振り返った。


 なんと、そこに立っていたのは徳永さんだった。



 う。まずい。



 いや、何がマズイのか松にも分からない。


 あたりを見回してみたが、幸か不幸か松と徳永さん以外にあたりに人はいなかった。


 どうしよう、とうとう二人きりの状態で鉢合わせてしまった。


 いや、隣同士の部署にいるからにはいずれ挨拶しなければと思っていたが、うだうだと先送りにしていた。


 松は、下を向いて視線を外し、身体を横にずらして、場所を譲った。このまま、この場を立ち去るべきか。そう思いつつ少し距離を取った。



「ねえ」


どうしようかと一歩距離をとったところで、呼び止められる。



「はいぃぃ!」


不本意ながら、不自然なぐらい上ずった声が出てしまった。松はミルクティとお財布を胸に抱いた状態で飛び上がった。



「おつり取り忘れているけど」


と、冷静な声。



「あっ、はい。すみません!!」


何意識してんだ。松は、耳まで真っ赤になった状態で慌ててつり銭口に手を伸ばして、つり銭を取り出し、財布にしまった。


 

 ああ、恥ずかしい。心臓に悪い。



「あのさぁ」


と、徳永さんは、何でもない風に声をかけ続ける。今度は何なんだ。


「日本茶が飲みたいんだけど、どれがオススメ?」



「は?」



「今、どれが流行っているの」


徳永さんはコインを入れた状態で、どれにしようかと真面目な顔して悩んでいる。



 自販機には三種類ぐらいのお茶があるけど、松もお茶に詳しくなかった。と言うか、そんなもの、あまり意識して選んだことない。だけど、徳永さんは選びかねているようで、松の顔をジッと見て返答を待っている。


 うう…一体、何なんだ。



「これがいいんじゃないですか?」


と、松が指さしたのは、南田さんがこだわって飲んでいる京都産の茶葉のお茶だった。


「私達は、お弁当に合うのでよく飲んでますけど」



「そうか。じゃ、試してみよう」


そう言って徳永さんはニッコリ笑うと、点滅しているスイッチの一つを押した。そして、かがんでペットボトルを取り出した。



「ずっと外国暮らしだから、日本茶に詳しくなくて」


徳永さんはそう言うと、キャップを取ってペットボトルを傾け、その場でゴクゴクと喉を鳴らしてお茶を飲み始めた。


 

 本当に喉が渇いていたんだな。


 男らしい上下する喉仏が目の前にあった。


 むちゃくちゃ懐かしい徳永さんの横顔。


 でも、彼の話に「そうですか」と、相槌をうつのも、この場にそぐわない気がして黙っていた。



「四日ほど前にニューヨークから帰ってきてばっかりでさ」


と、彼は続ける。うん、知っているよ。



「次の日から、荷物を解く暇もなく出社だろ。全く、人遣いの荒い会社だよ」


と、愚痴っている割には元気そうに微笑んでいる。


「会議室でちょっと仮眠を取ろうと思ったら、つい爆睡しちゃって危うく会社で一晩を過ごしそうになって―――」


そう言って、再びお茶を煽る。


「よくやっちまうんだ。オフィスでちょっと仮眠をとろうと思って、寝過ごしちまうの。気が付いたら終電も何もなくっなっていてね。若い頃はオフィスの椅子の上で一夜を明かしたもんだけど、年齢がいくにつれてちょっとづつツラくなっていくもんなんだよね」



「はぁ」



「アラームをつけてくれて助かったよ。ありがとう」



「いえ」



 徳永さんはしたり顔でニッコリ笑ってこちらを見ている。


 しまった。


 うっかり彼の携帯のアラームを設定した事を肯定してしまったではないか。



「いえ、あの、約束があるみたいだったから」


勝手に他人の携帯を操作するなんて、なんて厚かましい人間だと思われたかな。なんとか誤魔化したかったが、今更、そんなお節介な事をしたのは自分ではありませんと嘘をつくのも不自然だったので、大人しく認めることにした。



「約束?」



「鈴木さんが、あの日は徳永さんが約束があるって言っていたから、起こした方がいいと思って」



「約束なんて、なかったけど?」


徳永さんは本当に覚えがないみたいだった。



「そうだったんですか?」



「うん、あの日は、ハナイエちゃんの残業が終わるのを待っていたんだよ。待っているうちに寝ちまってさ、せっかく待っていたのに、先に、帰っちゃうし。アラームなんてつけずに、そのまま起こしてくれたらよかったのに」



 え、わたしを待っていたってどういうこと。


 だって、約束してなかったし。


 って、そういう問題じゃないでしょ。


 何か話すことでもあったのだろうか。


 キチンと別れようとか、そんな事を言うつもりだったんだろうか。


 いや、そんな事は今更か。


 松は混乱した。


 以前と同じような気安い喋り口調に、どうしようかと戸惑ってしまう。



「なんで―――」


と、徳永さんはちょっと不思議そうに言った。


「そんなに離れたところに立っているの」



「え?」



 松は徳永さんから二メートル以上間をあけて立っていた。


 彼は、手でこっちに来るように手招きする。


 もっと話していようよ、とでもいう風に。



「だって、嫌だろうと思って」


と松はボソっと思わず呟いてしまった。


「徳永さんは、わたしに会うのも、近くにいるのも嫌なんだろうと思って」



 あの時の事を思い出したのだろう。彼の目に、たちまち悲しそうな陰りが浮かんだ。


 ああ。なんて事を口にしちゃったんだ。


 松は言った傍から後悔した。


 最後に彼に会った時、徳永さんは、松に向かって


「ゲームオーバーだ、もう終わりだよ。キミがその気にならなければ、こっ恥ずかしい思いをしてキミに告白することもなかっただろうに」


と言った言葉が、未だに心にこびりついて離れていなかった。



 駅まで追い駆けて行ったあの時の、石のように固く皮肉に歪んだ表情。


 彼は、松を拒絶していた。


 だが、彼は、飛行機を一日ズラしてまで松の母親に会うために、松の家に訪ねてきてくれている。


 今、彼は松の事をどう思っているのだろう?


 松は、彼が自分をどう思っているのか、計りかねていた。



「ああ…そっか」


と、徳永さんは小さく言った。



 そのちょっと落ち込んだような声がちょっと可哀想になって、松は後ろずさっていた脚を止めた。



「そんな事言ったっけな。あの時は…本当に」


と、言ったその時、廊下の前を人がひとり通り過ぎた。彼は言葉を止め、その人が行ってしまうまで黙っていた。



 あの時は本当に…?その後は??


 しばらく沈黙が続いた。


 松は、壁を背にしてその場でミルクティを飲んだ。



「話って?」


と、松はミルクティを飲みながら言った。


「わたしに話したいことってなんだったんですか?」



「ああ…」


徳永さんはペットボトルの栓を閉めて片手に下げた。そして松が背にしている壁の隣に、彼もまたもたれかかった。そして静かに口を開いて説明し始めた。


「突然こんな所でオレと会って、ビックリしただろ。ニューヨークから帰ってきた理由を説明しておこうと思って」



「一年間、こちらに戻ってきているってお聞きましたけど」



「聞いたって、誰から?」



「上司の鈴木さんからです」



「別に、一年って限定されているわけじゃない。実はね」


と、彼は言い始めた。


「9.11の事件があってニューヨークの取引先にでかい損害が出たんだよ。それでニューヨーク事務所に置いていた拠点をにロンドンに移さざるを得なかったんだ。それに応じて、ニューヨークの人員を減らすことになったんだよ。今回の帰国で、何人か帰ってきている。だけど、オレはもとからあの事件が起こる前から帰国願いを出してはいたんだがね」



「え?」


松はハッと顔をあげた。



「オレは海外駐在が長いから」


と、徳永さんは言った。


「連続して五年以上の駐在になる場合、本人が希望すれば、帰国することができるって、組合の規定にもあるんだ。その権利を行使する人は少ないけど、オレはかねてからずっと言い続けていた。上司からは思いとどまってくれとかなり説得されて、なかなかウンと首を縦に振ってもらえなかった。で、そんな時に9.11の事件が起こって、結局は駐在員の半分が帰ってくることになったというわけ」



「わたしも、徳永さんはよほどの事がない限り戻ってこれないと思っていました」



「そうだな。でも、今回は、その、よほどの事が起ってしまったということ。あれほど引き止められたのに、こんなにもアッサリと帰国することになって、皮肉なものだよ」



 皮肉?


 なぜ徳永さんがこの言葉を使ったのか、わからなかった。


 だが、松にとってはこれは全く皮肉な話であった。


 そうだ、これは立派に皮肉な出来事だと言えるだろう。


 あの事件が起きるまで、松は、徳永さんはニューヨークに行ってしまって、五年は戻ってこれないと思い、彼が一時帰国している間に、結婚の約束をしなければと、馬鹿みたいに焦ってうまく立ち回ろうとしていた。


 なのに彼は、あっさりと日本に帰ってくることになったのだ。



「一年間限定っていうのは、上がたてているただの予定だ。それも取引先との兼ね合いやプロジェクトの進み具合にもよる。決まっているわけではないけどね」



「いずれにせよ、また、ニューヨークに戻る可能性はあるんですね」



「まあね、次は、どのぐらいの期間になるかは分からないけど」



「そうですか…」



 徳永さんの顔はしっかり前を見据えていて迷いはなかった。


 しかし反対に松の表情は暗く沈んで行った。


 そうか、またニューヨークに行ってしまうのか。


 別に驚くべきことではない。


 彼は、自分で自分の行く道を決めてすすんでいく権利がある。


 彼の頭の中は、もはや、松のことはすっかり過去になっているのであろう。


 松と関わりのない、全く違った新しい人生を歩み始めたとて、少しもおかしくはない。


 だが、松は、性懲りもなくまたもや落ち込んでいた。


 悲しがる権利などどこにもないのだが、落ち込まずにはいられなかった。


 自分の人生は、徳永さんの人生と交わることはもうないとはわかっていたけれど、徳永さんが今では自分とは全く関係のない人間で、またニューヨークに行ってしまうのだと直に聞かされれば、やはり胸に堪えるものがある。


 松は、痛みをこらえ、押し殺したような、小さなため息をついた。



「ハナイエちゃんは」


と、彼は声の調子を変えて言った。


「システム情報課に、一年間限定の長期出張で来ているんだってね?」



「え?あ、はい」


鈴木さんから聞いたのかな。



「いつから来ているの?」



「先月からです」



「そうか…」



 松は手持無沙汰を隠すため、ミルクティを飲んだ。


 ああ、彼は久しぶりに東京にもどってきたというのに、わたしと再会してしまうだなんて、なんて間が悪いんだろうと思っているに違いない。


 松はもう行った方がいいだろうと、もたれていた壁からそっと背中を起こした。



「英語は」


と、不意に徳永さんは引き止めるような声を出して喋り出した。



「え?」



「英会話は続けていないの?」



 何の話?



「あれ以来全然やっていないから、元の状態に戻っているって言っていたけど、本当?」



 ああ、土居さんと話していたの、聞いていたのか。



「ああ、はい」


松は頷いた。


「必要ないと、どうしてもやらなくなってしまうんですよね」



「いったん離れてしまうと、できなくなっちゃうって言っていただろ。せっかくあのレベルまで頑張ったのに」



 う。そう言われても、アンタと再会する前も、再会した後も色々と忙しくて英語なんぞやっている暇なかったんだよ、と、言いたいところだけど、怒ったところで仕方がない。



「またやりなおしじゃないか」


と、彼はちょっと面倒くさそうな声を出した。


「また、一から頑張らないと、間に合わない」



「何に間に合わないんですか?」



「社内試験だよ」



「わたし、社内試験受けるだなんて言っていないですけど」


松は、ちょっとムカっとした声になって言った。


 

 なんで社内試験の話を知っているの?


 ああ、昼休みの会話をずっと聞かれていたなこれは。


 全く、どいつもこいつも…



「え、なんで受けないのさ?」


ものすごく不思議そうな顔。



「受けないのさって」


松は混乱する。


「その、色々と」



「色々?」



「仕事の終わるのが不定期で、勉強期間を確保するのが難しいので…」



「時間は、なんとか工夫して作るものだよ。貿易実務の講習会は定期的にないかもしれないが、津山君ならまだ社内にいるから、相談に乗ってもらったら?」



「え?」



「英語なら、また、オレが教えてもいいし」



 え、何て言ったの?


 松は自分の耳を疑った。


 もう一度教えてもいいだって?


 徳永さんが私に?


 うそでしょ?


 何で?


 何のために?



「いや、そんなご迷惑を、またかけるわけにはいきませんよ」


松は、目を丸めて辞退した。


「わたしになんか気を遣わないでください」



「気を遣っているわけじゃない」


彼は言った。



「いや、そうでなくとも、それに、さっきも言いましたけど、わたし、社内試験受ける気ありませんので」



「ないって」


松の意思の強さに、徳永さんは、ものすごく意外そうな呆れたような表情になった。


「じゃ、社内試験をうける気もないのに、いったいなんのために東京に出てきたの?」



「へ?」



「東京に社内試験を受けに来たんじゃなかったの」



「は?」



 徳永さんの顔は一転して、額に青筋がたっている。何、怒ってんの?



「はい、わたし、社内試験を受けるために親会社(ここに)に研修に来たのではありません」



「改めて聞くけど、なんで、試験を受けるのを嫌がるのさ」


徳永さんは、全然解せないようだった。



「さっきも言いましたけど、お金も時間もないので、試験勉強に集中できないんですよ」



「でも、去年はそう言いながらも頑張っていたよね?」



「去年と今とでは、色々と状況が違うんです。住んでいる場所も、仕事の内容も」



「状況が違うことは、最初から分かっていたことだろ」


と、徳永さんはものすごーく不機嫌な声を出した。


「分かっていたことなのに、何で東京に出て来たのさ。何で今ここにいるのさ」



「何でって」


松は、息を呑んだ。


「いちゃ悪いんですか?」



「キミは、目的もなく東京へ出て来たのか?」



 はあ?目的もなく??んなわけないだろう。



「目的もなく出て来るわけないでしょう。研修が今回の東京行の目的なんです」



「研修って何?今何の仕事しているの」



「新しい外貨決済と、海上保険のシステムを作るのでそれのサポートをさせてもらっているんです」



「は?そんな事のために、東京に来たのか?」


徳永さんは繰り返した。



 そんなこと?


 その言葉に一層カチンときた。


 コイツ、何様のつもりだ。


 いったい、何が理由でそんな人を小馬鹿にした態度をとるんだ。


 サラリーマンなんだから、会社の命令に従うのは当たり前の事の事だろうが。



「と、とにかく!わたしは、試験を受けに東京に来たわけじゃありませんから」


と、松はハッキリキッパリと言い切った。



 徳永さんは、さも当然かという松の返答に心底衝撃を受けたようで、最初は驚きを隠せないようであったが、その美しく整った顔は、たちまち軽蔑の入り混じった呆れ顔に変わった。



「研修って…与えられた仕事だけして、それで何もせずに一年過ごすつもり?キミは…それで満足なのか?」


と、彼はそう言った。



 何もせずに?


 どーゆーこと。


 意味さっぱりわかりませんが。


 それに、さっきから物凄く馬鹿にされている気がする。


 なんでこんな態度を取られなきゃなんないのか。


 なんか、全身の血が頭に向かって走り上がっていく感じがした。


 ああ、ついこの前、生きているのか死んでいるのか、テレビの前で熊のようにうろうろと部屋の中を徘徊し、この男の事を死ぬほど心配してやったというのに、この明らかなる人を見下したこの態度は、なんなんだ。


 そのポカンと口を開けた間抜け面が、いかにもアホ呼ばわりされているようで、松の堪忍袋の緒もとうとう切れてしまった。



「…どういう意味ですか?」


松は、ありったけの力をかき集めて睨みをきかし、怒りをこめて言う。



「は?」



「研修でこっちにきちゃいけないんですか?」



「え」



「社内試験をうけるような人間でなきゃ、ここにいちゃいけないんですかっ」



 そりゃ、東京一部上場の親会社に採用されるような優れた人間なら、社内試験のひとつやふたつ朝飯前だろう。


 だけど、私達は違うのだ。それをこの人は分かっていない。


 松は、グイと顎を引いて挑むように言った。



「心配しなくたって、たとえ、社内試験を受けるような事になっても、徳永さんの力は借りませんから、心配はご無用です」



「え?」



「無理してわたしに英語を教えてくださらなくってもいいってことです」



 徳永さんは、松が何を言っているのか分からないようで、増々眉間の間の皺が深まっていった。松はその皺を睨みつけながら言った。



「ご自分の査定のために英語を教えようとしてくださらなくってもいいという意味です」



「オレがそんな事を考えて、英語を教えようと言ったと思うのか」


たちまち不機嫌そうに片眉が釣り上った。



「だって、去年わたしに英語を教えてくださったのは、それが理由だったんでしょ?」



「だから、今回もそのつもりだとキミは思っているのか?」


うわ。声まで震えているよ。相当怒っているなこれは。



「思ってます」


松は、はっきりと答えた。



 本当は、徳永さんがどんなつもり英語を教えようと言い出したのか分からなかったけど、侮辱された手前、このぐらい言っておかないと気が済まなかったのだ。



「じゃ、わたしはこれで」


松は、残ったミルクティを一気に煽ると、缶を自販機の横のゴミバコにガコンと投げ捨て、くるりと踵を返し立ち去ろうとした。ああ、イライラする。



「キミは―――」


後ろから低い声が聞こえてくる。


「キミは、負け組になりたいのか?」



 え。



「まあ、それならそれで、オレはかまわんが」



 負け組?


 何を言っているの?


 身体をよじって、真後ろの男の顔を視界にいれた。


 そこに居たのは、イケメンで紳士で王子の徳永さんではなかった。


 唇はゆがみ、目は何かを値踏みするかのように細められている。


 なんなんだ。社内試験に挑戦しなければ負け組になるのか。


 負け組とか勝ち組とか、そもそも、そんなつもりでわたしは仕事をしていない。


 松は、徳永さんの顔を再び見た。


 不敵な微笑みが尚、見下ろしていた。


 腹の底から湧き出るパチパチと怒り以上の燃え盛る何かを感じた。


 が、あともう少し冷静に彼の表情を観察していれば、嫌味な眼光は色を変え柔らかく光り、口元にはユーモラスな陽気さが漂っていたことに気が付いたであろう。だが、今の松にその余裕はなかった。



 バッチーン!



 めちゃくちゃいい音がオフィスの廊下に響き渡る。


 気が付いたら、松は、徳永さんの左頬を平手でひっぱたいていた。


 徳永さんは特に動じず、飄々とした表情で突っ立っている。


 その平然とした態度が更に怒りを煽った。


 痛そうに赤くなった頬を睨み付けるだけでは飽き足らず、もっと傷ついてしまえばと、思いっきり目の前の相手に向かって毒づいた。



「徳永さんなんか、大っ嫌い!」



徳永さんは腫れた頬を手で覆っているけど、目は相変わらず、ニヤニヤと笑っている。



「何がおかしいんですか」



「いや、何も。なかなか、いいビンタだと思ってさ」



「はあ?」



 ななななな、何考えてんのよこの人!バッカじゃないの?ひょっとしてドМ?


 そんなに気に入ったら、もう一発お見舞いしてやろうじゃないの。


 松は今度は左手にゲンコツを作って振り上げたが、今度は彼の方がとっさに身構えたので、相手の右肘に直撃してしまった。



「ウッ!!」


徳永さんは、非常に痛そうなうめき声をあげたかと思うと、右ひじを庇ってかがみこんだ。そのまま痛みを耐えるように膝を折ったまま、動こうとしない。



 松は、ハッと顔色を変えた。どうしよう、力が入りすぎてしまったのだろうか?


 松は、拳をしまって自分もかがみこんで彼の顔色をうかがった。


 彼は、相当痛かったのか、右ひじを左手で庇いながら彼は苦笑いを浮かべ、時間をかけて起き上り、体勢を正した。


 彼はまだ、右肘を擦り続けている。


 口元は痛そうに歪めているけど、顔はどことなしに笑っているように見える。



「・・・・・・」



「・・・・・・」



 ふたりは、自販機の前でしばらく睨みあっていた。


 いや、睨んでいたのは松の方だけで、男の方はてんで相手にしていない様子だったけれども。



「じゃ、また」


彼はそう言いうと、左手にペットボトルを持ちかえて、再びニッコリと笑うと、いつもの悠々とした足取りで、その場を立ち去ってしまった。



 松は視線を上げて彼が行ってしまう背中を見つめていた。


 その廊下の先に神楽さんがこちらを向いて立っているのが見えた。


 彼女の目は驚きに見開かれ、口元がにやけていている。


 いかにも、今、修羅場を目撃したかのように、さも面白そうに笑いをこらえていた。


 松と目が合うと、慌てて視線をそらし掌で口を覆い、どこかに行ってしまった。










 失敗した。こんなはずじゃなかった。



 席に戻ってきてからようやく冷静さをとりもどした時、松は、思いっきり反省するはめになった。


 ああ、何てことやっちまったんだ。ここは大人の余裕をみせて、にこやかに再会の挨拶をかわすべきではなかったか。


 なんという失態。


 あれでは子供の癇癪とかわらないではないか。


 もっと普通に話をしようと思っていたのに。



「しっかし、何で徳永さんは、アタシが社内試験を受けるつもりでいると思ったんだろう?」



 彼は、松が社内試験を受けるために、口実を作って東京に来ているかのような言い方をした。


 しかも、松に英語を教える気マンマンだったようだ。


 それにしても、負け組って何?受ければ勝ち組になるってことなのか?


 社内試験を受けるつもりはないと言った時の、あの怒り様は何だったんだ。


 彼が何に腹を立てているかさっぱり分からない。


 それに王子徳永にはあり得ない、人を小馬鹿にしたようなあの表情。


 カイ君が腹をたてて嫌味を言ってきた時にそっくりだと思った。


 いや、あっちが弟なんだから、カイ君が兄に似ているというべきなんだろうが。


 その時、カイ君の言葉がふと思い出された。


 徳永さんは、野球選手時代に喧嘩で肘を怪我したことがあるって言っていたっけ。


 松はハッと狼狽えた。


 ど、どうしよう、わたしの拳が、ひょっとして古傷に直撃してしまったとか?



「謝った方がいいかな…」



 急に心配になってきた。相当痛かったりする?思いっきり平手をお見舞いしておいて、今更な話だけれども。



 その日、終業ベルが鳴って、徳永さんが上着を着てバッグを持ち、一人でエレベーターホールに向かうのを確認してから、松は後ろからそっと追い駆けた。


 案の定、徳永さんは六台もあるエレベーターの前でひとりでいた。


 松は静かに歩み寄った。彼もこちらに気が付いたようだ。



「あの、今日はすみませんでした」


松は彼に近寄って行き、素直に頭をさげた。



「え?」


徳永さんは、何か期待したように曇らせていた両眉の間を一瞬晴らしたが、硬い表情の松の顔を見て、またふいと顔をそむけてしまった。



「ああ」


と、頷くと、


「何。じゃ、社内試験、受ける気になったのか」


と、また唇の端を上げて言った。



「ちがいますっ」


ムっとして言い返す。なんだってこの人は自分にこうも都合良く解釈するんだか。


「右肘だいぶ痛そうにしていたので、大丈夫かなって、それだけです」



「大丈夫かって?確かにけっこう痛かったな」


と、徳永さんちょっと赤くなって腫れている頬をさも痛そうに触った。



「パンチも、結構きいたし」


と、次に、彼は右肘をもう一方の手で擦った。



「・・・・・・・」



「そんなに配してくれるって言うんなら、社内試験受けるよね?」



「わ、わたしが社内試験うけようがどうしようが、徳永さんには関係ないでしょ?」



「オレは去年、慰みで試験勉強を手伝ったわけじゃない。受かってもらわなきゃ、責任もって教えた手前、オレの沽券にかかわる。ハナイエちゃんだって、遊びで社内試験を受けたわけじゃないだろ?」



「・・・・・・」



「オレの事は大嫌いでもかまわないが」


と、徳永さんは言った。


「自分の事をもっと真面目に考えた方がいい。目の前におっきなチャンスが転がってるんだ。それを逃したら、今度いつそんな機会に巡り逢えるかわからないぞ」



「え?」


チャンス?チャンスって??



 返事に詰まっていたら、反対側の通路から神楽さんが姿を現し会話が途切れた。



「徳永君、おまたせ~あら、どうしたの」


神楽さんは、鞄も持ってもう帰るところのようだ。


「また、ヒジ痛めたの?」


右肘を庇う徳永さんに気付いたようで、心配そうに声をかける。



「大丈夫。ちょっとぶつけただけだから」


と、徳永さんはなんてことのない調子で言った。



 神楽さんは松の方をちらっと垣間見た。


 ああ。この顔は、やっぱりさっきの修羅場を見ていたって顔だよな。殴った時も見られていたんだ。


 ああ、気まずすぎる。穴があったら、入りたい。



「ただの神経痛だ」


徳永さんはそう言って左手を右肘から離した。



「湿布しておいた方がいいんじゃないの?」



「ケガしたわけじゃないから心配することないよ」



「何言ってんのよ。あんたはいっつも無頓着なんだから。もっと自分を大事にしなさいよ」


神楽さんはとても心配そうに言った。



「はいはい、相変わらずご心配をおかけしてすいませんね」



「そんな事いってるんじゃないわよ。もう野球選手になることがないからって、無頓着にしていたらぶり返すわよ」



 え?どういうこと。


 神楽さんは、徳永さんが野球選手だったことを知っているの?そのせいでケガしたことも?


 わたしですら、弟のカイ君からしか聞けなかった情報を、どうしてこの人が知っているの?



 松は驚いて徳永さんの顔を見たが、神楽さんがその事を知っている事に全然気にしているそぶりはなかった。気安い雰囲気のふたりの会話。胸がギュッと縮まる。仲良いんだな…



 下向きのエレベーターがやってきた。


 徳永さんはこちらを少しもみようともしないで、松に背を向けてエレベーターの方に歩いて行った。



「じゃあね、花家さん、お疲れ様」


神楽さんもそう言って同じエレベーターに乗り込む。扉が閉まる瞬間、神楽さんの


「今年開店したばかりの女子向けの店なんだけどいい?」


という声が聞こえ、エレベーターの戸は松の目の前で静かにしまったのだった。




<22.あたりクジ> へ、つづく。









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