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20.カズミがショウと出逢った時

20.カズミがショウと出逢った時



 2001年の9月11日。


 その日が過ぎて、約一か月たった。


 相変わらず世界のどこかでどんな大事件が起ろうが、地球は規則的にまわり続け、暦は時を数えることを休むことはなかった。



 親会社のシステム情報課に松がやってきて一か月半。


 仕事にもだいぶ慣れてきた。


 ある日の夕方、となりの部署に業者の人達がワラワラとやってきて、机を寄せたりついたての位置をずらしたりと、慌ただしく作業を始めた。



「お隣、どこかに移動しちゃうんでしょうか?」


胸の高さのパーテーショーン越しに後ろを振り返り、騒々しくモノを動かしている様子を物めずらしそうに松達は見ていた。



「ああ、移動するんじゃなくて、レイアウトを変更するみたいだね」


鈴木さんが説明してくれた。


「何でも人員がまとまって増えるみたいで、増えたついでにスペースを狭めることにしたんだってさ」



「へ?増員なのに、スペースを狭めるんですか?」



「そ。家賃の負担を軽くするためにね」



「家賃の負担?」



「このビル、一等地だろ?会社から振り替わってくる家賃の負担金も馬鹿にできないんだよ。前から、費用削減のために下の階に引っ越す計画もあったなんて言ってたけど、今回は狭めることで落ち着いたんだよ」



「下の階の方が、お家賃安いんですか?」



「普通のマンションと一緒。見晴しのいいフロアの方が家賃が高いんだよ。だから、儲かっている部署ほど上の階に住んでいるってわけ」



 へぇ、そうなのか。


 小さなビルで家庭的にワヤワヤとやってきた松は、都会の一等地の自社ビルの中でそんな競争があるだなんて、初めて知ったのだった。



「誰か帰って来たのかもしれないな」


鈴木さんがボソっと言った。



「お隣って海外事業部でしょ?」


同じ課の、隣に座っている同僚の社員の女性と一緒に引っ越し作業を眺めながら言う。


「帰って来たって海外からですか?お心当りでも?」



「まあね」


と、鈴木さんは言った。



 埃の立ち込めるオフィスの隣の空間を、松は特に何も考えずに、鈴木さんやその他の人達と一緒に、ぼんやりとその風景を眺めていた。



 翌週の月曜日には、お隣の引っ越しはすっかり終わって綺麗に机が並べられていた。


 なるほどよく見ると、机の数が増えて、デスクとデスクの間が若干窮屈になっている。


 始業ベルが始まる直前に、後ろの部署の人達もバラバラと小走りにやってきた。



「あれっ、神楽(かぐら)さん、後ろの席に変わったんですか?」


隣の席の南田さんが、知った顔を見つけて驚いていた。これまで事業部の一番端にいた人がパーテーションを挟んで真後ろの島に引っ越してきたのだ。


 南田さんは松の隣に座っている一年先輩の女子社員である。


 松も後ろを振り返ったが、神楽さん以外にも、昨日いた人達とは違って知らない顔の人がいっぱいいた。



「そうなの、今度からこの席なの、よろしくね」


神楽さんは、松と南田さんの席の真後ろの席から振り返って挨拶した。



 海外事業部と言えども、静かな課もあれば、賑やかな課もある。いままで後ろの席は比較的おとなし目の事務作業が中心の人達ばかりだったが、今度隣にやってきたのは、どうやらいままでとは正反対の人達のようだ。


 始業時間がすぎると、途端にけたたましく電話が鳴りだした。時たま、英語やら英語以外の言語も混じったりする。



「お隣の島、英語の電話が多いみたい」


南田さんが松に心細そうに耳打ちした。


「お隣が留守の時には電話とりにいくこともあるかなぁ。英語の電話だったら、花家さん、出てくれる?」



「えっ、わたしがですか?」


松は焦って言った。



「だって、花家さん英語できるんでしょ?鈴木さんがそう言っていたけど、違うの?」



「ええ?」


松は、鈴木さんに視線を移した。



「あれ、花家さんは、英語はできるって聞いていたけど、ちがうのかい?」


鈴木さんが顔を上げて言った。



 なんだと??


 誰だ、誰だ、誰がそんな事を言ったんだ!!!



「僕は、花家さんは、簿記は得意、英語もそこそこできる、後は貿易実務を勉強して社内試験に臨むつもりだって、聞いているけど」



「ええ???」


どういうことだ。あたし、社内試験を受けるだなんて一言も言っていないけれど。


 

 誰がそんな事言っているんだと口を開こうとしたとき、電話がかかってきたのでその会話は中断された。



 その日、松は、午前中の間、ずっと、営業課から呼び出され、部署に赴き会計システムの使い方を教えに行ったり、不備な点を聞き取りにいったりと殆ど席にいなかった。


 昼前に戻ってくると、隣の海外事業部の部署はひとっこひとりいなくなっていた。その代わり、真隣にある会議室から大勢の人のザワザワとした声が聞こえてきた。



「海外事業部、全体会議で全員席外しですって。電話番宜しくって言われちゃって」


南田さんが、戻ってくるなり救世主に縋るように松に話しかけた。


「花家さん、お願いだから今日は一緒に電話当番してくれる?」



「はあ」



 昼になって松は、一階エントランスの片隅に入っているカフェに二人分の弁当を買いに行った。そして、南田さんと一緒に席で昼当番をした。隣に英語の電話がかかってこないよう細々と祈りながら、二人で仲良く弁当をつついた。



「お隣、いきなり五人も海外から帰って来たんですって。それで挨拶がてら、部内ミーティングしているんですって」


南田さんが、卵焼きにかじりながら言う。



「そうなんですか」


と、相槌をうちながらも、上のそらで弁当をつつく。松は、一階のカフェのレディースミニ懐石弁当より、表通りの出張屋台で売っている幕の内弁当の方が美味しいと思っている所だった。だがミニ懐石も不味いというわけではない。多少、卵焼きの味が落ちるとしても、チキン照り焼きは悪くない。量もそこそこあるし、これで野菜の量がもうちょっと多ければまずまずなんだけど。


 と、栄養価の事を考えたりしている。


 これまで松が居た子会社のビルの近くには、近くに洒落たカフェなんぞありはせず、食堂メニューも貧相なものだった。だけど、今、松がいるここは大都会のど真ん中だ。ここに居ればそれなりに美味しいものにもありつける。今食べているようなカラフルな弁当だって、支店に居ている時はお目にかかることもできなかった。それだけでも、東京に出てきた甲斐があったというもんじゃないか。


 まぁ、美味しいモノにありつける、と言っても、お財布がついていけばの話だけど。


 ああ、だけど、なんだかんだ言っても、この弁当は野菜が少ない。やっぱ、サラダだけでも別に買って来た方がよかったかなぁ。



「ねぇ、ちょっと、聞いてる?」


南田さんが言った。



「あ、聞いていなかったです」


松は、我に返って南田さんの方に顔を向けた。



「その帰って来た中に、すごいイケメンが一人混じっているらしいって聞いたんだけど」


南田さんは声を潜めて言った。



「へぇ、イケメンですか」


と松は、お愛想で興味深そうに相槌を打ったが、実のところあまり興味はなかった。



 松にとってもはや、世にイケメンと呼ばれる存在は徳永さん以外に存在せず、いかにイケメンと評される男性であっても、たとえレオナルド・ディカプリオであろうが、松の目には“へのへのもへじ”にしか映らないのであった。



「派遣の野村さんが言うには、もう、それはそれはもの素晴らしいイケメンらしくて」



「どんなイケメンですか、ブラピみたいな?」



「ブラピ?野村さんが言うには、笑ったところがトム・クルーズみたいだって言っていたけど」



「なるほど、トム・クルーズですか。それは御尊顔を拝するのが楽しみですね」


松はふむふむと口角をあげて頷く。


 

 そりゃトム・クルーズは文句なしにイケメンだけど、野村さんの年からしたらちょっと世代が上だ。きっと彼女はストライクゾーンが広いんだろう…と、ぼんやりとそんな事を考えていた。



 ジリリリリリ…



 その時、パーテーションの向こうの電話が鳴り響いた。



「ヒッ!で、でんわ、電話が鳴ってる!!!」


南田さんが飛び上がる。


「ど、どうしよう!」


まるでゴキブリでも見つけたかのように、ビビっている。



「そ、そんなに警戒しなくても…」



「で、電話でてよ、花家さん!」



「え、私ですか?」



「でてよ、英語得意なんでしょ?お願い!!!」


得意なんかじゃないよ~~ヒッシのパッチの英会話特訓からだいぶ時がたってしまって、以前のように聞き取れるかどうか自信なんか、まるで残っていないって言いたくとも、先輩から手を会わされて、拝みこまれたら反論する間もありゃしない。



 松は、後ずさる南田さんを諦めて、ブーブーと口をとがらせつつ、パーテーションを超えて、しぶしぶ電話を取りに行った。



「はい、〇〇倉庫(親会社の名前)です」


と、日本語で出たが、案の定、



“Hello?”


 という訛りのある英語。


 うわ、やっぱりきたよ。


 その次は、ベラベラとおきまりの立て板に水のごとくの英語のワードが降ってきた。


 うーむ。聞きとり能力が落ちているのかやっぱり聞き取れない。


 えーっと、落ち着け。


 電話での会話では、最初に何を話すんだったっけ。


 英会話マニュアルを思い出しながら考える。


 えっと、とにかく向こうの名前を聞くんだっけな。


 それで誰に出て欲しいのか、それさえきけばなんとかなるよなと考えながら、あまり待たせたら悪いと、


“This is Shou Hnaie speaking.”


と、焦った松は、いきなり自分の名前を言ってしまった。


 

 おっとしまった、自分にかかってきた電話じゃないっつーの。



 ここは海外事業部だ。慌てて


“May I have your name, please?”


と、次の言葉に繋いだ。


 

 そしたらどういうわけか、向こうからものすごく嬉しそうな声が聞こえてきた。


 嬉しそうというか、驚いた声だ。


 松は、その声を聞いて、相手が誰なのかすぐに分かった。


「ス、スワニーさん??」


声の主は、なんと、あの懐かしの、インドのスワニーさんだった。



 スワニーさんとは会った事はないが、電話では何回も話している。


 二度と話すことなどないと思っていたので、懐かしい声にちょっとウキっとなってしまった。


 それにしても、どうして、ここに電話をかけてきたのだろう。


 あ、そうか。ここは海外事業部。スワニーさんは取引上、本社に電話をかけてくる事が多いのだろう。


 松は、ゆっくりと誰を呼び出したいのか、英語で尋ねてみた。



 ・・・・・え?



 思わず、受話器を持つ手に力が入る。



「花家さん、大丈夫?」


南田さんが困惑顔の松に話しかける。


「誰に電話?隣の会議室に行って、その人呼んでくるけど」



「えーっと」


松は、歯切れ悪く答える。



 その時、ミーティングが終わったようで、海外事業部の前にある会議室のドアがバタンと開いて、大勢の人がワラワラと話しながら出てきた。


 出てきた半分以上の人達は昼食に行くのだろう、席に戻らずそのまま廊下を通って行ってしまった。


 残りの人達は、パラパラとデスクに戻って、メールチェックをしたり、奥の方で輪になって雑談したりしている。一部、興奮気味に声を高めている人もいて、楽しそうな声で喋り合っている。



「本当に、久しぶり」



「お前と会えるなんてなぁ」



「何年ぶり?」



「いつまでいられるの?」



「そういや、独身に戻ったんだってな!」



 輪になった人達は


「それじゃあ、オレ達と一緒だな」


なんて言いながら、ワハハと笑いあっている。



 歓迎されている人は独身者らしい。



 松は、電話の向こうの人にもう一度、誰と話したいのか尋ねてみた。


 信じられない人の名前に松は、首をかしげる。何かの間違い?



「花家さん?」


南田さんがもう一度声を掛ける。


「どうする?神楽さん呼んでこようか」



 その時、輪の中の一人が振り返り、その人が、海外事業部の電話の応対をしている松を見つけたようだ。



「ああゴメン、電話なんだ?」


南田さんの声に、神楽さんが気が付いたらしい。


「ひょっとして国際電話?」


神楽さんが、松の強張った顔に気付いて慌ててこっちに向かってついと身を乗り出した。



「はい、海外からです。英語の電話で…」


松は、受話器を片手に呟く。



「あっ、ごめんね。誰からか分かる?」


神楽さんが、大きな声で声を掛ける。



 松は、左手で受話器をもち、右手で保留音を押した。


「はい、インドのスワニーさんと仰る方で…」


松は、まだ首を傾げていた。


「何でも、トクナガさんという人と話したいって言っているんですけど…」



 トクナガという人は、海外事業部にはいなかった。


 いないが、出張でやって来た人とか、似たような名前の人がいるかもしれない。


 インド人は独特の訛りがあるので、聞き間違えたのだろう。


 あの徳永さんであるわけがない。


 トクナガと言う名前はありふれてはいないが、この会社に何人かいているのかもしれない。



「トクナガさんって人、こちらの部署にいらっしゃるんですか?」


松は、「いないですよね?」とうニュアンスを含ませて神楽さんに言った。



「ああ、徳永君ね」


神楽さんはにっこりと笑った。



 そして、くるりと振り返ると、さっきの輪の一団に向かって通る声で言った。



「徳永君に、インドから電話かかってる」



 一団の中にいた、椅子に腰かけていた人がその声に触発されて立ち上がった。


 その人は背が高いらしく、ちょっと頭がつきだしていた。


 やがて背広姿の、若い男性が人の輪の中から現れて、こちらに向かって歩きだした。



「花家さん、誰からだっけ?」


神楽さんが言った。



「インドの…スワニーさんと仰る方…だ、そうです…」


松は、たどたどしくはあるが、近づいてくるその男性の顔をじっと見つめながらもう一度答えた。



 その人は、ツカツカと松のいる所にやってきた。


 長い睫に縁取られた黒い二つの目が、松の顔をじっとみつめている。


 見覚えのある濃い紺色のスーツ。


 白のストライプのシャツに、えんじ色のネクタイにクルミボタンのカフス。


 松の見覚えのあるものばかりだった。


 最初、男の見開いていたその目は、驚きに満ちていたが、そのうち、冷静な仕事用のスマイルが口の端に浮かんだ。


 星のようなぱっちりした目も、男らしい喉元も、美しい肩のラインも、そして悠々と歩くその立ち姿は、相変わらず素晴らしいカリスマがあった。



「ありがとう」


と、その人は松の目を見て言って、受話器を受け取った。受け取った時、松の手とわずかに手が触れた。



 彼は電話を取って、ベラベラと例の流暢な英語で喋りはじめた。


 聞き覚えのあるスワニーさんと話すときのハイテンションな喋りっぷり。


 彼は視線を前方にまっすぐ向け、真剣に話をしている。


 どうやらスケジュールを詰めているらしい。


 電話を片手に手帳をひらいたりしているその姿を見るのも本当に久しぶりだった。



「よかった~花家さんが出てくれて。誰か分かった?」


南田さんが役目を終えた松に、そっと囁きかけた。



「はい、インド人でした。クセのある英語でしたけど、ゆっくり話して下さいって言ったら、なんとか名前を聞きとることができました」


松は、答えた。



「そっかーホントありがとね」


南田さんはとてもホッとした様子だった。そして再び弁当に手をつけ始めた。松はもはやチキン照り焼きも卵焼きの味も分からなくなっていた。



「あの人が、野村さんの言っていたイケメンじゃない?」


南田さんはいまだ、電話で話を続けている徳永さんの背中を見ながら、コソっと囁く。


「背も高いし、スタイルいいし、英語ベラベラだし」



「え、あ、そう、でしたっけ?」


箸がすべって卵焼きがボトリと落ちた。



「そうでしたっけって、顔見たでしょ?」



「英語の電話に慌てちゃっていて。見る暇がなくて」



嘘。ばっちり顔みたよ。だからこんなに心臓がバクバクしているんだよ!



「あの人、トクナガさんって言うんだね。そう言えば、さっき鈴木さんが神楽さんから聞いたって言っていたけど、十月からニューヨーク事務所の体勢がかわって、何人か日本に戻ってきたんだって言っていた。そのうちの一人なのかなあ」



「・・・・・・」



 松は、返事をするかわりに飲みこんだお茶がむせた振りをして、返事を濁した。


 南田さんは噂話をしているだけだ。松の返事を期待しているわけではない。



「後で、鈴木さんにきいてみようか」


なんて、言っていた。



 彼は、スワニーさんとの電話を終えると、神楽さん達数人と一緒に、遅いお昼ご飯に出て行ってしまった。


 部屋を出るところで、彼は、一足早く昼を終えた鈴木さんと通路ですれ違っていた。



「おっ、カズミじゃないかよ。やっぱり、帰ってきてたのか」


っていう、鈴木さんの声が聞こえてくる。



「―――昨日帰国で、今日から出社なんだ」



「相変わらず、休む間もなくだな。住むところは落ち着いたのか?ああ、そうだ、連絡先教えとけよ。"あんとき"もお前に散々電話したんだけど、全然繋がらなくってさ」


そう言いながら、二人は携帯電話の番号を交換し合っているようだ。



「えらく可愛らしい携帯つかってんな」


と、鈴木さんが言った。



「ああ、コレは弟のセンス。"あんとき"に弟からめっちゃ連絡きてたみたいなんだけど、繋がらないってえらく怒られてさ。こっちに帰って早々に、強引に機種変更させられたんだよ。オレの趣味じゃない」



 ふたりは、また会おうとか、飲みに行こうとか、そんな会話を交わしていた。


 しばらくして鈴木さんが戻ってきた。南田さんが早速鈴木さんの所にすっ飛んで行って、トクナガなる人物の詳細を聞きだしている。



「ああ、アイツ、徳永(とくなが)一己(かずみ)って言って、オレの同期なんだ」



「ご結婚されているんですか?」



「いや、離婚歴があるが今は独り者だよ」


鈴木さんは、南田さんの質問を嫌がらずに細々と説明していた。



 昼休憩に出た時間が遅かったので、ベルが鳴っても徳永さん達は戻ってこなかった。


 松の真後ろの神楽さんの席の椅子の背に、見覚えのあるビジネスバッグが置かれている。おいおい、よりによって、真後ろの席なのかよ。



 松は座って、三時からの打ち合わせに必要な書類を揃えようと机の上を見下ろした時、見た事もない資料が目の前にボンと乗っているのを見つけた。中を見ると昨年度の社内試験の過去問題だった。



「え?」


松は目をまるめて資料を見る。


「なんでココにコレが?」



「あ、さっき人事に行ったついでに届けておいてって、頼まれてオレがそこにおいたんだよ」


鈴木さんが、戸惑っている松に声をかけた。



「え、誰がですって?」



「誰がって」


鈴木さんは不思議そうにしている。


「人事の課長からだけど」



「・・・・・・?」


何で人事の課長が?はて。



「花家さん、社内試験受けるんでしょ?」


鈴木さんは松が怪訝に首を傾げていることが意外だったようだ。


「そんな風にきいているけど」



 返事ができない。


 受けるだなんて一言も言っていないし人事の課長に過去問を下さいと頼んだこともない。確かに、こっちに来る前にトクミツ部長から受けたらどうかと言われていたけどさ。



 松は返事をうやむやに、曖昧な表情を浮かべた。鈴木さんは、不思議そうにこちらを見ていた。



 その後松は、また営業課から電話がかかってきて呼び出された。


 三時からソフトウェア会社の人と打ち合わせなので、いまやっている仕事を後回しにして、急いで一階下のフロアの部署まで走って行った。途中の廊下で、昼食から帰って来た神楽さん一行とすれ違った。



「花家さん、さっきは電話ありがとう」


と、彼女は言った。



「いえ、電話ぐらい」


神楽さんに返事をするために彼女の方に顔をむけると、自然その隣にいる背の高い男性と目があう。


 

 ああ、見るつもりはなかったのに、と思ったその瞬間、向こうから視線を外された。


 うそ。



「・・・・・・」



「花家さん、こちら徳永(とくなが)一己(かずみ)君、わたしの同期なんだ。ニューヨーク帰りで同じ海外事業部なの」


神楽さんは愛想よく松に隣の新参者の紹介を始めた。


「徳永君、彼女、花家さんって言うの。となりのシステム情報課に一か月ほど前から長期出張で来ていて、英語ができるので、たまにウチの部署の電話をとってもらっていて―――」



 ちょっとちょっと、英語ができるだなんて、口が裂けても言わないでよ~~~!


 神楽さんも鈴木さん同様にとんでもない誤解しているかと思うとたまらなくなった。


 一体誰なんだよ!わたしが英語ができるだなんて嘘八百を吹聴したのは。


 兎にも角にも、わたしが英語ができるなんて、特に、この人の前で絶対に絶対に言ってほしくない。



 松は神楽さんの隣にいる男に強烈に意識しまくりながら、ムキになって、


「あ、あのっ。すいません、ちょっと急いでいて、失礼します」


神楽さんに軽く頭をさげて、ばびゅんと脱兎のごとくその場を逃げ出すかのように走り抜けて行った。



 呼び出された部署で、システムの細かな質問をいくつか受けた。


 いつもならスムーズに答えられるはずの単純な作業が、今日は全然できなかったばかりか、手元が狂って変なところをクリックしてしまって、ミスばかり犯した。お陰で、営業課の鬼課長と言われている鬼瓦みたいなオヤジに、


「キミのミスのせいで今日の締切に、出張精算が間に合わなかった」


と、ネチネチと嫌味を言われてしまった。



「スミマセン…」


頭をさげて、とぼとぼと営業課を後にする。



 ああ、こんな簡単な事もミスしちゃうだなんて、私ってダメな人間だ。



 はぁ。


 松は溜息をついた。


 東京にきてからそれなりに色んな事があったけど、今日は特になんでもない事で落ち込んでいる。


 落ち込みの原因は分かっている。


 さっき、視線を逸らされちゃったのが結構堪えているかもしれない。


 そんな事を考えながら、おそるおそる部署に戻って来た。


 怖れ半分、期待半分でコッソリと後ろの部署をのぞくと、神楽さんの席もその隣も空だった。椅子の上にあったビジネスバッグもなくなっている。


 ああ、そっか。外出なんだ。


 ほっとしたというか、がっかりしたというか。


 松は大人しく席についたが、一度どきどきし始めた心臓はなかなかおさまらない。


 しかし、なんだって、彼がここに居るんだ?


 ずっとニューヨークにいるんじゃなかったのか。


 ニューヨークで美人でイケてる現地社員とよろしくやっているんじゃなかったのか。


 一緒に暮らして、永住するんじゃなかったのか。


 めったな事がない限り日本に引き上げてこられないんじゃなかったのか。


 トクミツ部長は彼のことを「ようやくプライベートも落ち着いてほっとしたよ」なんて言っていたけど。


 もう、いったいぜんたい、どうなっているんだ。


 分からないことだらけ。


 いや、向こうからしたら、松がここにいること事すら、有りえない事態に違いない。


 ものすごく驚いた顔していた。


 あれは相当迷惑に感じているのだろう。


 遠い記憶の彼方に行ってしまった過去の遺物が、ゾンビみたいに、いきなり目の前に現れたら視線を逸らしたくもなるだろう。



「ゾンビ?」


南田さんが、松に声を掛ける。



「へ?」



「さっき、ゾンビがどうとかって、言った?」


自分に話しかけられたのだと思ったのだろう、ものすごく不審そうな顔をしてこちらを見ている。



「え、わたし、そんな事言っていました?」


松は、あわてて唇に手をやる。



 ヤバイ。


 心の声がダダモレていたらしい。



「さっきから変だね、大丈夫?」


と言いつつも、彼女はちらと背中のパーテーション越しに視線を送って誰もいないことを確認してから、松の耳元でコソコソと囁きはじめた。


「ほら、昼休みに花家さんが電話とりついであげた、例の海外事業部のイケメンがいるでしょ?」



 イケメン?ああ、徳永さんの事か。


「はい」



「あの人、鈴木さんの同期なんだって」



「そうですか」


それは知っている。が、何の話が始まるんだ。何か嫌な予感。



「今までニューヨーク事務所に居てて、その前は上海に居てたらしくて、英語も中国語もできて、次期社長からも目をかけられている超のつくエリートらしいよ」


それも知っている。耳にタコができるほど聞いた。


「今は、九月から一年間の予定で、となりの海外事業部に戻って来ているんですって」



「そうなんですか」


へぇ、そうなのか。



「鈴木さんにさ、むちゃくちゃイケメンですねーって言ったら、奥さんと離婚したばっかりだから、今独身なんだって、教えてくれた」



 彼のプロフィールを聞きだしたのか。離婚したばっかと言ったって、一年以上も前の事なんだけど。


 この先の事を聞きたくなくて、あらぬ方を見てしまう。


「そうですか」って、初めて聞くみたいにシラっとした返事をするのが難しくなってきた。南田さんは、松の戸惑いなんぞお構いなく言葉を繋いでいく。



「それでね、鈴木さんに、徳永さんと飲み会するときは連れて行ってくださいよってお願いしたら、飲みには連れて行ってあげられるけど、期待しない方がいいって言われちゃった」



 え。なんで。


 あ、ドキンと心臓一瞬止まったような。



「どうしてですか?」



「鈴木さんが、日本に居る間に合コンに連れて行ってやるって誘ったらしいんだけど、アッサリ断られたんだって。どうやら、心に決めた人がいるみたいで」


 

 え、そうなの。


 だだだ、誰なの、それ。


 なんか、またまた頭上から岩石が落ちてきたぞ。



「そ、そ、そうなんですか?」


平静を装うつもりが、ダメだ、声が震える。ああ、鼻がツンとして目の奥まで熱くなってきた。


「そ、それはやっぱりニューヨークの人なんですか?」



「へ?」


松の質問の意味が分からず、南田さんは首を傾げている。



「あ、あの。さっき、ニューヨークの事務所に居たって言ったから、現地社員の女性の中に素敵な人がいたのかなぁと…」


なんか、舌が上手に動かないよ。



「現地社員?それは初耳だな、そうなの?」


南田さんは興味津々だ。



「いや、えっとそうじゃなくて、その、ニューヨーク事務所には、キレイどころの現地社員の女性が沢山いるって、噂で聞いたことがあったから」



「きれいどころねぇ。それは知らないけど」


南田さんは言った。


「だけどもしそうなら、やっぱし、こっちにチャンスあるってもんじゃない?」



「へ?チャンス??何でですか」



「相手は現地社員なんでしょ?てことは、今、遠距離ってことじゃん」



 遠距離。


 その言葉に、何度苦しめられたことだろう。



「こっちは、真後ろの席に座っているわけだし。一年の間に頑張ればさ、彼が、わたしの魅力にコロっと参っちゃうって事もあるわけでしょ?」



 そっか。


 今、彼はフリーなんだもん。


 誰と付き合う事になっても不思議はないよね…



 ガーーーン。



「・・・・・・」


松が、言葉を失っていると、南田さんが、顔を崩して


「もぉ!」


と言って、笑いながら松の肩をバシンと叩いた。



「そこは、そんな事あるわけないって、ツッコむところでしょ!!」


南田さんは松の顔が相当面白かったのか、ケタケタと笑っている。



 南田さんは標準語を喋っているが、実は、関西出身だ。関西の人と一緒にいると、漫才師顔負けに流暢?な関西弁を喋り出す。ウケ狙いにワザとトボけた事も平気で言ったりする。そんな時、関西では、相手がボケている時は、気を遣ってツッコむのが作法らしい。



「あっ、そうでしたね」


松はなんとか立て直して、言った。


「すいません、気が回らなくて」


 本当は、もっと彼女の冗談に付き合ってあげるべきだったのだが、就業中だし、忙しかったので、その会話はそこで打ち切られた。



 ああ、もう。頭痛い。


 ひび割れた。


 なんだって今日は、やたらとこんなに突然固い物が落ちて来るんだ。


 天気予報で、隕石の落下を予報してくれたらいいのに。



 三時にソフトウェア会社の人がやってきたので、資料を持って鈴木さんと共にミーティングルームにこもる。


 使い手の希望とレイアウトの見やすさを重視して、今回は、それに沿ったシステムに変えてくれるということで、その結果を鈴木さんとその話を一緒に聞いた。


 あれやこれやと打ち合わせて、試験運用の日取りを取り決めた。


 それを各部署に伝えるのが松の役目である。


 それで問題なければ、無事運用開始と相成るわけだが、そう簡単にはすすまない。必ず部署から不満が出るし、それにしたがって希望通りにあちこち弄れば費用もかさむ。


 さすが一部上場会社だけあって、費用削減の精神(ケチとも言う)は、松の会社と同じぐらいに素晴らしいので、便利さばかりを追求すると途端に上からチェックが入るのだ。


 まぁ、ある程度は仕方のないことかもしれないが、便利さを追求することは非常に重要なことだと、長年(といっても二、三年の間のことだけど)会計システムを使ってきた松は実感していた。


 見やすければ見やすいほど、便利であれば便利であるほど、ミスは減るし、社員の負担は確実に減る。


 負担が減れば残業も減るので、松はその方がむしろ経費削減につながるのではと思っている。


 それに、あの“不正経理”の事にしろ、その発端は、もともと営業課で入力していたデータが会計側に反映されていなかったのが原因だった。


「チェックすれば分かることだろ」


と、指摘されれば、それまでだが、もともと、不備なシステムを作って採用し、見落としていた側にだって、半分責任がある。



 川崎常務は、今回は不問に伏すと言っていたけど、ケチな精神で運用を続けていけばまた以前と同じ様な事件なり事故が発生するのではないかと思われた。



「―――と言うことで、じゃあ、テスト運用の初日はわたしもこちらに詰めておりますので、何かあればお手伝いします」



 ソフト会社の人とのミーティングは二時間弱ほどかかり、松はやれやれと会議室から出てきた。


 ソフト会社の人はいそいそと帰って行った。


 これから、こちらが出した希望が通るか戻って上司と打ち合わせするらしい。こっちもテスト運用を営業課の誰かに頼まねばならないのだが、それを選んでお願いするのは松の役目だった。ああ、また「やりたくないって」顔されちゃうんだろうなぁ。



 席に戻ってくると、パーテーションを挟んだ背後の席は相変わらず空席のままだったが、神楽さんは戻ってきていた。


 五時半になってベルがなると


「お疲れ様!」


と言って、彼女は珍しく早く席を立った。



 鈴木さんが「じゃ、同期会の場所、お願いな」と、帰り際の神楽さんに声をかけている。



「同期会があるんですか?」


同期でもないのに、南田さんは鈴木さんに聞いている。



「海外事業部に同期が戻って来たので、同期会することにしてさ」



「ひょっとして、今からですか?」



「いや、当の本人が今日は先約があってダメらしいんで、また後日だよ」



 当の本人って、徳永さんの事だよね。



「同期仲良いんですねー私の同期だなんて、誰も同期会なんてすすんで開こうとしないですよ」


なんて、南田さんは言っているが、耳がダンボになっていた松は、また固まっていた。



 先約…が、あるのか。


 ああ、彼は今からデートでもするのかな。


 ってか、誰とデート?少なくともあたしじゃないでしょ。


 約束なんかしてないし。


 ニューヨークから追っ掛けてきたカノジョがビルの前のカフェで待っていたりするんだろうか。


 松はビルから見える大通りを挟んだ向かいのカフェに目をやる。


 真っ暗で人の影すらわからない。


 それだけに余計妄想がはげしくなってゆく。


 ああ、あそこで待ちあわせて、手をつないで夜景の見えるレストランにでも夕食を食べにいくのかな。


 それとも、真っ赤なセクシードレスの置いている店でお買い物して、んでもって、ロマンティックな劇場で、オペラ鑑賞をする…とか。



 はぁ。また岩石が降ってきた。いや隕石だったかも。さっきの五倍、いや十倍は痛い気がする。眩暈がしそうだ。今日は、これで最後にしてほしいよ。



 ミーティングで色々と取り決めた事を忘れないうちにメールを作って、担当部署に配布し、今日一日席をはずしていてできなかった仕事を、片づけようとするのだが、どういうわけか仕事がはかどらなかった。


 モノを取り落したり、片づけたりしているうちに、知らない間に、部署は松以外の人達は全員帰っていなくなってしまった。


 振り返ると、海外事業部も人っ子一人いない。


 真後ろの席も変化なし。


 ああ、きっと直帰しちゃったんだな。松は再び深い溜息をつく。今頃デートでもしているのかなぁ。時計を見ると七時を指していた。


 警備員さんが見回りにやってきて「帰る時は電気を消して下さいね」と、声を掛けて出て行った。


 松は、パソコンをシャットダウンして席を立った。


 もっと早く帰ればよかった。


 わたしは何を期待していたんだ。



 松はバッグを持って席を立った。


 オフィスの電気を消してそのまま帰ろうと通路を通り過ぎようとしたその時、海外事業部が専用で使っている角のミーティングルームからわずかな光が漏れているのが見えた。



「電気、消し忘れてるな」



 経費削減!電気はコマメに消すべし、と、しょっちゅう総務から“お達し”がまわってくるわりには、わりと皆、こういうところで抜けている事が多い。


 ったくもう。


 ここで消さなかったら、フロアーで最後だった松が消し忘れたとチェックが入ってしまう。


 ISO導入いらい、電気をコマメに消せだの、ブラインドを下ろせだの、こういった省エネ活動もここに限らず、松のいた支店でもうるさかった。



 松は、フロアーの角のミーティングルームが嫌いだった。


「ここが最後の電気だと、消した後、エレベーターホールにつくまで誘導灯しかついていない暗い廊下をひとりでとぼとぼと歩かないといけないんだよね…」



 松は、そ~っと、部屋をあけて中に入って行った。


 部屋はさほど大きくないが、表通りに面した広い窓ガラスから美しい夜景を眺めることが出来るのが長所だった。


 電気は一か所点けっぱなしになっているだけ。


 なんでここだけ点いてんのかな。


 スイッチに手を伸ばそうとしたその時、窓際のつなげた椅子の上に、人がひとり寝転んでいるのが見えた。


 あ、残っている人が居たのだ。


 じゃ、消しちゃ悪いよね。


 

 松はスイッチから手をひっこめた。


 そしてそっと踵を返して、帰ろうとしたその時、その椅子の上で寝転がっていた人物が寝返りを打つかのようにムクリと動くのが見えた。


 明かりが窓際の一か所しかついていなかったので、部屋は中途半端に薄暗く、それが誰なのか最初分からなかった。


 松は、何という理由もなく近づいて行った。


 その人は、椅子の上に身体を投げ出して腕を組み、スースーと寝息をたてていた。



<21.負け組になる?> へ、つづく。



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