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19.変化の過程

19.変化の過程



 あれこれとカイ君に言われたけれど、結局、松はニューヨークに行くことはなかった。


 一時、


「このまま終わりになってしまうなんて嫌。二度と会えないのなら、最後に一目会ってから終わりにしたい」


という気持が先にたって、なりふりかまわずニューヨーク行のチケットを取ろうとした事もあったが結局しなかった。


 それは、単にお金の問題ではなく、また、気持ちが変わってしまったわけでもない。


 秋以降の人事発表がいつ行われるか全く見通しが付かず、常に出社してデスクに張り付いて御沙汰(・・・)を待っていなければならないという非常に現実的な問題があったからである。


 閉鎖や再編が決まっている部署の連中は、毎日が戦々恐々の日々だった。


 皆、いつ、呼び出しを受けて「クビ」の一言を言い渡されるかと、ビクビクしながら毎日を過ごしていた。


 それは松も例外ではなかった。


 本社の経理の話を断って以来、松の秋以降のポストも他の部員と同じように宙ぶらりんで、白紙の状態だったからだ。


 五月の終わりごろになって、秋以降に再編の予定が、七月に前倒しになるという御達しがあった。


「さっきさ、トクミツ部長に親会社の人事の人が訪ねて来たんだけど」

 

ランチの席で、乙部さんが声を潜めて午前中仕入れてきた情報を松に教えてくれた。


 

「どうやら、売却の話があるみたい」



「売却?何を売るんですか?」


松はスパゲティーを頬張りながら、問いかえした。



「ウチの会社のことよ」


乙部さんは声を潜めた。


「どうやら親会社は、ウチの会社を売却する方向で話を勧めているみたいなの。早々に高く売れる様に、人員を整理したがっているみたいで、今度の組織再編は、そのために行われるらしいよ」



「売却?ウチの会社をですか??」


松は、飛び上がらんばかりに驚いた。


「それは、本当ですか?」



「本当かどうかわからないけど、親会社の人事の人が、上がそういう方向で検討しているって話を、さっき会議室でちらっと聞いたの」



「ば、売却って、どこに売られちゃうんですか、私達」


ドナドナのような気分で、松は問い返す。


 

 これは、安穏としている状態ではない。


 松の勤める会社は小規模だったが、東京一部上場の立派な親会社の傘下であるというブランドイメージが付随しているお陰でこれまでプライドを守ってこれたのである。親会社から離れてしまえば、大手一流企業の下請けの強みは一なくなってしまうのではないか。



「さぁねぇ。外資とか」


乙部さんは、ハーッと息を吐きながら言う。



「外資!?」


松は飛び上がらんばかりだ。


「外資なんかに売却されちゃったら、私達、どうなるんでしょう」


松は、怯えた声を出した。



「さあねー。外資系はキツイからねー。役に立たない人員は容赦なくバッサバッサ切り捨てられちゃうかもしんないね」



「バッサバッサ?」


恐ろしい首切り音に、松は真っ青になった。



 乙部さんはスパゲティーの入った皿を眺めながら、再び溜息をつき、フォークに麺を絡ませてゆく。


「やっと社員になれたっていうのに、またリストラの危機かと思うと嫌んなるよ。この分じゃ、今年の冬のボーナスもでるのかどうか」



 派遣さんが社員に昇格して、一番うれしくありがたいのが、ボーナスが出ることだそうだ。


 きっと楽しみにしていたに違いないんだろうなー…って、人の事を心配している場合ではない。


 今の状態では冬のボーナスどころか夏のボーナスも出るのかどうか。



「そ…そうだね。わたしなんか秋以降のポストさえきまっていない状態だし」


ハハ…と、乾いた笑い声しかでない。



 乙部さんの顔を見ると、彼女も苦笑いを浮かべていた。



「秋以降のポストと言えばね」


乙部さんが思い出したように言う。


「トクミツ部長はね、上の方針では、今回の人員整理では、若い人はなるべくリストラするつもりはないみたいだって、仰ってた。一番の働き盛りの、二十代、三十代の若者の希望を無碍に切り捨てたくないって。かといって脂の乗った家族持ちの中年世代を無暗に職を失わせるわけにはいかないし。となると残るは、養うべき家族もいない、かつ、再就職ができそうな独身者になってくる可能性があるって」



「でもさっき、若者はリストラしたくないって」


松は言った。



「だからさ、会社は今、その若者の選別をしているみたいなのよね。会社に残って欲しい人、そうでない人のとの選別をさ」



 うう…。


 と言う事とは、会社が役に立つと判断した人間が残るってことだよね。


 わたしなんか会社に貢献しているかどうか分からないレベルのごく一般的なフツーの事務員だし、しかも、不正経理処理の調査を手伝った(いや手伝わされた)件で、川崎常務から目をつけられているし。


 普通よりふるいに掛けられやすいんじゃないんだろうか。



「乙部さんは今回は大丈夫じゃないですか」


松は、乙部さんをチラと伺った。


「わざわざ社員に採用してまでついてきて欲しいって言われたんだから、リストラされるような事ないでしょう?」



「だからさ、今回は大丈夫でも、外資なんかに買収されたら、次どうなるかは分からないって話を今しているんだって」


乙部さんは、顔を暗くして言った。



 お互い、引き攣った笑みしか浮かばなかった。


 何でこんな事ばかり起るのか。


 これは、失恋どころの騒ぎではない。


 職を失うという人生最大の危機が目の前に迫ってきているのだ。


 ああ、うまく行けば、目出度く寿退社ができる可能性があったことは、この際記憶から消し去ってしまおう。


 思い出すのは辛すぎる。



 重い足取りでふたりしてパスタ店からオフィスに戻った。


 部屋はなんとなく閑散としていて静かに感じられた。


 電話で喋る声すら、広い空間に木霊するように聞こえてくる。



 その日は、定時が終わってまっすぐ家に帰った。


 玄関をくぐると、待ってましたと言わんばかりに、奥から出てきた祖母からお見合い写真を手渡された。



「何これ?」



「お見合いの話がきているの。いいお話しよ。見ておきなさい」


と、祖母は言った。



「お祖母ちゃん、わたしもう、お見合いは…」


さすがに今、お見合い写真なんて見る気もない、というか、触りたくもない。



「とにかくいい話なんだから、見てみなさい」


祖母は無理やり写真の表紙を開いてぐいと松の目の前に差し出した。


「バツイチだけど〇×大学のご出身で、大手銀行にお勤めなのよ。どう?優良物件でしょ」


祖母は、ついこの前のドタキャン騒ぎを忘れたかのようにウキウキした表情だ。



「バツイチ?」



「良い話でしょ?まだ、三十八歳だし」



「さ、さんじゅうはち??十五歳も年上???」



「子供が一人いているけど、別れた奥さんが引き取っているから、全然問題ないし」



 全然問題ないって…


 松は眩暈を感じた。



「いい加減にしてよ!そんな話、もってこないで」


松は、写真を受け取らずに突っ返した。



「あら、気に入らなかった?」


祖母はそう言うと、後ろからもう二冊か三冊ほどの見合い写真を撮りだしてきた。


「じゃ、こっちはどう?御仲人さんが、この前のお見合いがぽしゃっちゃった件を気にして、沢山お話しをもってきてくれたのよ。ほらこっちは、××市役所にお勤め元華族とご縁のある方でしょ、こっちは、教師をなさっている田舎に不動産をお持ちの元地主の方。こっちは、〇〇電力にお勤めのエリートコースに乗っている四十一歳の方で」



「四十一歳!?」



「あんたはどっちかって言うと、老け顔なんだから四十代でも全く問題ないから大丈夫よ、ね、どれがいい?」



 何が大丈夫なんだ。


 見た目はともかくわたしはまだ二十代なんだぞ。


 眩暈を通り越して今度は悪寒がやってきた。



「お祖母ちゃん、気を利かせてくれてありがたいけど、わたしは、結婚相手をデパートで品物を選ぶみたいに、あるなかから決めるような事できないから」


なるべく祖母を怒らせないように気を遣いながらそう言う。



「何言ってんの、結婚相手なんて、あるなかから選ぶもんよ」


祖母はあっさりと言った。


「わたしが若い頃は、結婚相手の顔さえ知らずに嫁いでくるのが普通だったんだから、ある中から選べるだけましじゃないの。あれこれ文句をつけていたら、()き遅れるわよ」



 何言ってんだ。


 あれこれ文句をつけて徳永さんを厄介払いしたのは、お前たちじゃないか、と言い返しそうになったが、祖母に直接文句を言っても仕方なかった。


 松は、首を力なく横にふると



「お見合いなんかしたくない」


とだけ、言って、写真を受け取らずに二階の自室に引き上げて行った。



 バサッと、ベッドに大の字になって仰向けに寝転がる。


 目を瞑り両手で顔を覆った。


 物凄く疲れた。


 こんな事がいつまで続くのだろう。


 彼氏がいない限り、


 結婚を予定している相手がいない限り、


 彼らはお見合い話をもってくるのだ。


 今頃、


「私達の気遣いを無碍にするなんて、何て思いやりのない子供だろう」


だとか何とか、下でわたしの噂話をしているに違いない。


 

 言われても別に構わないが、こういったやり取りにもうウンザリだった。


 好きな人を連れてきても、気にくわない点が一か所でもあれば、会う前からその欠点に的を定めて、徹底的に叩きのめそうとするのだから、話も何もできたもんじゃない。


 松は、もはや自分が好きになった人を家族に会わせたいと思わなくなった。


 母の毒舌にかかれば、瀬名さんのような本命でない人を始め、徳永さんのような代わりの利かない大切な人さえも、竜巻が家々を寝食するかのごとく、ひとからげに木端微塵にたたきつぶされてしまいそうだからだ。



「ひとり暮らしをしようかな」



 家を出ようという気持は、前々からあった。


 何かと事情をつけて実行に移すことはなかったけれど、今回はいい潮時なのかもしれない。


 だけど、一人暮らしをしたところでお見合いの話がこなくなるわけではない。


 必要とあれば、母や祖父母は松の住んでいるところにやってきて強引にお見合い写真を受け取らせるであろう。


 それに、秋以降の自分のポジションがはっきりと決まらないことには、一人暮らしを安易に望むこともできない。

 

 会社が外資なんぞにのっとられたりしたら、その後の生活がどうなっていくのか、考えるだけでも恐ろしい。


 最悪、転職しなければならないとも限らない。


 くやしいけれど、今は、実家にいる方が、生活的には安心であった。


 こんな考え方は、カイ君に言わせれば「甘い」部類にはいるんだろうな、と松は思う。


 彼が目の前に居れば、派遣に登録するなり、バイトをかけもちするなり何でもしたらいいって言うかもしれない。



 松はハーッとため息をついた。


 やはりわたしは、根性が座っていないのだ。



 七月になって、再編後の組織が発表された。


 旧来の部の形がなくなり、閉鎖された隣の支店からやってきた人達と大きな一つの大きな部門が作られた。


 松の知らない、隣の支店で事業部長をしていた笹竹さんという男性が部門長となり、トクミツ氏と乙部さん、そして瀬名さんは、予定通り本社にいってしまった。


 松はと言うと、経理課ではなく、新しくできた部門の秘書役として採用された。なんとかリストラを免れたのである。


 ところが新しい部門には、松の他にもう一人秘書役の年配の女性がいたのだった。



「「秘書がふたり?」」


 辞令の発表後、もうひとりのその秘書役の女性と松は、新しく部門長に着任した笹竹さんに向かって、目を丸くして同時に尋ね返した。



「以前よりだいぶ大所帯の部になってしまったから、秘書ひとりではまわらないんだ。一般職も以前と比べて少ないし、雑用も増えると思うから、ふたりで頑張って部を支えてくれ」


と、笹竹部門長は言った。



 なるほど、以前のような細かな組織をいくつもつくるのではなく、今回は、大きな部をボンと一つ置き、部内は、大まかに分けたチームに、数人のリーダーを配置するという形になっている。


 管理職は以前よりずっと少なく、それに応じて、若手の女子社員も以前の半数に減った。


 そのいなくなったアナを埋めるのが二人の秘書役ということらしい。


 らしいが、松の目から見れば、このぐらいの規模の組織に秘書二人は、不必要ではないかと思われた。


 が、これは、トクミツ部長が居場所のない松に考え出してくれた苦肉の策だったかもしれなかった。



 週末を利用して、七月の始めに、引っ越し作業が行われた。


 今年は暑くなるのが早く、エアコンの効いていないオフィスは蒸し風呂のように暑かった。


 汗をぬぐいながら休日出勤をしてきた社員たちと一緒に黙々と作業をしながら、松は昨年の事を思い出していた。


 去年の今頃は、来月の社内試験に備えて徳永さんの英会話レッスンと貿易実務の勉強に追われて手一杯だったっけ。


 あれから色んな事があった。


 嬉しいことも悲しいことも、どれも予想もつかない事ばかりだった。


 一年後の今の自分の姿なぞ想像なんてできなかった。



 八月のより一層暑い季節になり、新しい仕事に落ち着いたころ本社に行ってしまってから顔を会わすことのなかったトクミツ部長が松のいる支店にひょっこり現れた。


 彼はしばらく笹竹部門長と部屋にこもって話していたが、しばらくして部門長が出て来ると、入れ替わりに松にミーティングルームに来るよう呼び出された。


 ノックをして部屋に入って行くと、トクミツ氏は机の前に資料を広げて松を待っていた。



「どう、花家君、新しい部署は」



「あっ、はい。居心地いいですし、笹竹部長や部の皆さんのお役にたてるよう一生懸命やらせて頂いております」



「そうか、それはよかった」


トクミツ部長はそう言って手元の資料をパラパラと繰った。


「花家君、東京の情報システム部に、一年間限定で研修に行ってみないか?」


と、彼は唐突に言った。



「は?研修ですか」


なんで、トクミツ氏が研修の話をもってくるんだ?あ、そうか。彼は今、本社で人事部長をしているんだっけ。



「親会社から、関連会社にいる事務職を数人、期間限定で親会社の本社に招聘するという企画があるんだよ」



「わたしがですが?」


思いもかけない話に松は目を丸める。



「これは、誰でも利用できる企画ではないんだ。親会社の希望部署の方から、招ばれた人材しか対象にならない。今回は、システム情報課がこの企画を利用して、花家君に来てもらいたいと依頼があったんだよ」



「システム情報課ですか?」



「会計の新システムの開発の段階から、花家さん、何度か関わっただろ?次は外貨決済や、海上保険のシステムを新しくするんで、知識のある人材が欲しいそうだ」



 外貨決済や、海上保険の新システム?


 貿易や外貨に関する事なんて全然詳しくないから、自分のような人間なんか行っても役に立てるとは思えない。


 向こうの人は、わたしの事を経理のプロフェッショナルか何か間違えているんじゃないだろうか。


 だけど、せっかくの申し出。


 早々に辞退するのも憚られた。



「キミは事務職だから、本来転勤や店外への異動はない。だから、今回は本当に珍しい試みなんだ」


トクミツ氏は言った。


「ゆえに、一年間だけの期間限定だ。嫌なら無理に勧めたりしないがね」


トクミツ部長は言葉を選びつつ、間を置いて言い続ける。


「だけど、向こうの社内試験を受けてキャリアアップしたいというのなら、いい機会だと思う」



「キャリアアップと申しますと?」



「東京に転勤している一年の間に、向こうの社内試験を受けて、親会社の契約社員に手を挙げるという道もある」



「親会社の社内試験?」



「子会社の総合職が親会社に転職する際、採用されている制度だ。その制度を利用したのはこれまで殆どが総合職の男性社員だし、誰でも受けられるというわけでもない。が、今回は一時的に女性の事務職にも門戸を広げたんだよ。花家さんは、以前に一度、社内試験を受けているだろ?一科目だけ得点が足りずに不合格になったんだっけ?たしか」


と、トクミツ部長は、人事部から借りてきた松のプロフィール資料であろうものを見ながら言った。


「また、受ける気はないかね?」


「社内試験ですか」


そう言って、松は遠い昔を思い出すかのように、視線を空にやった。


 とたんに徳永さんとの英会話授業の思い出の日々がどっと押し寄せてきた。


 早朝と深夜のオフィスや、バーベキューパーティーに呼んでくれたこと、お寺への参道でデートをしながら英会話のレッスンをしてもらったことなどを。



「英会話と英語の筆記と簿記は素晴らしい得点だったのに、貿易実務が実に惜しい点数だ」



 トクミツ氏が手にしている資料には、松が去年受験した社内試験の得点までもが書かれてあるようで、穴があくほどまじまじ見ている。


 うわ、そんな恥ずかしいもの、あまりジロジロと見ないでほしいよ…



「はい、勉強不足だったんです。お恥ずかしい点数で…」


松は、消えいるような声で言った。ああ、はやくその紙から視線を離してよ。



「でも簿記も得意、英語もなんとかなりそうなら、後は貿易実務だけじゃないか。初級なら親会社の試験もウチの会社の試験もそう変わらないよ。東京に行くんならもう一度トライしてみらどうだい」


トクミツ氏は是非にという感じで勧めてくる。



 もう一度トライと言われても、英語や英会話なんかすっかり忘れてしまっているし、あの忙しい日々をもう一度繰り返すのかと思うと、二の足を踏んだ。



「まぁ、試験を受けるか受けないかは、本人の自由だし、向こうに行ってから決めてもかまわいけど」


トクミツ氏は言った。


「今回は、親会社の意向だから、費用も半分は親会社が出すことになっている。転勤というより一年間の長期出張という扱いになる。わたしとしては是非にお勧めできるいい話だと思う。強制はできないが行った方がいい」



 やけに勧めるな、と松は思った。


 トクミツ氏がいう通り、子会社の事務職は支店採用だから、異動や転勤は基本ない。


 松が本社の経理に行くか行かないかであれほどモメたぐらいだから、松一人が一年限定の研修といえども親会社に異動するのは稀どころか、他人の目には異常な事態に見えることだろう。


 そういう事情をふまえて、強制ではないとは言っているのだろうが、松は、何とも腑に落ちなかった。何が起っているんだ?



「答えは、向こうで話を聞いてくれてからでもかまわないから」


と、トクミツ氏が言った。



「向こう?」



「実はまたキミに東京に出張の話が来ているんだ。さっき言った、キミの研修先として挙がっている親会社のシステム情報課。今年の春にも一度手伝いに行っただろ?そこに情報課を取り纏めている佐伯さんという部長がいるから、仕事がてら話を聞いてくるといい」



「えっ、そうなんですか」



「うん、期間は今回は二日間だ」



「何のお仕事をするのでしょうか?」



「さっきも言っただろ、親会社は、新しく外貨決済のシステムを導入することになっている。セミナーをひらくとかで、その手伝いが欲しいらしい」



「そうですか」


松は、外貨決済には詳しくないので、今すぐ返事をすることはできなかったけど、東京に呼ばれているのなら、是非手伝いたかったし、出張自身は快く引き受けた。


「わかりました、東京でセミナーのお手伝いをして、お話しを聞いてきます」



「そうしてくれ」


トクミツ氏は言った。


「―――そうだ、東京と言えば徳永君の事だけど、今、彼がどうしているか知っているかい?」



「え、徳永さんですか?」


いきなり徳永さんの名前が出て松はびっくりして何も言えなかった。



 どういう事だ。 何で


「東京と言えば」


という枕詞がつくんだ。


 

 徳永さんと東京が何か関係あるのだろうか。


 トクミツ部長がどこまで徳永さんと松との関係や起った事柄を知っているか推測できず、



「え?あ、あの、あ、いいえ、よく知らないですか」


と、言ってしまった。



「彼も、色々とプライベートで大変だったみたいだけど、ようやく落ち着きそうでほっとしたよ」



 何の話?



「えっと」


松は、戸惑いの表情を浮かべる。



 浮かない顔の松に、


「花家さんも、知っているでしょ?」


みたいな、顔でトクミツ氏の表情が変わって、彼は口を噤んだ。


 そして、


「あれ、もしかしたら知らないの?」


と、彼は言った。



「あ、あの」


松は、しどろもどろになった。



「じゃ、ボクの口からあれこれ言わないほうがいいな」


子供っぽい笑顔を浮かべてトクミツ氏は言った。


「もし、会う事があったら、本人に聞いてよ。ボクがヨロシク言っておいて」


と、彼は付け加えた。



 会うようなことがあったら?


 それって東京でっていう意味なのかな??


 何で?


 今年の春に、東京に出張に帰ってきていた彼が、同じ年の八月に再び戻ってきているとは思えなかったけれど、何かあるのだろうか。


 松は、何の事やらサッパリだった。


 トクミツ氏はそんな松の表情を、目じりをよせてニヤニヤと笑って眺めていた。



 翌週、松は東京の親会社へやってきた。


 あいかわらず都心の中心にある大きくて美しいビル。


 二度と来ることはないと思っていたけれど、松の会社が外資などに乗っ取られたら、それこそ本当に、親会社とは縁が切れてしまう。もうここにも来ることもなくなるんだな、と思いながらエントランスをくぐって行った。



 春に訪問した時と同じシステム情報課に赴いた。


 以前お世話になった鈴木さんという男性社員の方が出迎えてくれた。松はその日行われる新外貨決済の説明会のサポートを早速することになった。


 資料を見れば、新しく導入しようとしているシステムはこの度新しくなった円決済の帳表とさして変わった点もなく、とても見やすくなりそうな感じだった。



「今度の新しい外貨決済は、こうやって操作することによって、営業課でupしたデータを、瞬時に財務部にあげられるようになります。時間短縮にもなりますし、締切時間もこれまでよりずっと余裕をもたせることができます」


と、鈴木さんが壇上で出席者に説明している。


「これは、大手商社で使っているスタイルを真似てつくったものです。これで銀行とのやりとりもすっきりとスピーディにできるようになるはずです」



 なるほどなぁ。


 松は、営業課にいたこともなければ、実務を経験したこともなかったが、貿易実務講習を受講していたお陰で何となくしか理解できないが、何となくは理解することができた。


 まぁ、紙に手書きで記入したり、五枚つづりのシートにタイピングするのに比べたら、ものすごく効率化を図れることは一目瞭然だった。



 セミナーの手伝いが終わると、責任者の佐伯さんという女性の部長からのヒアリングがあった。


 佐伯さんから、今回の支店の事務職の女性を何人かを親会社に一年限定で研修させる制度を利用して、花家さんさえよければ、今度の新しい外貨決済のシステムの導入に手伝いに来てもらえないかと言った。



「本当に、わたしのような人間でもよろしいんでしょうか?」


松は、いまだなぜ自分のような人間が選ばれたのか理解できず尋ねてみる。



「この前の新会計システムの導入の時に、色々とやってくれた経験がある人に手伝ってもらいたいのよ」


と、彼女は言った。


「ま、東京に来るとなったら、一人暮らしもしないといけないし、ご家族の許可もいるだろうし、まわりの人ときちんと相談してから返事をしてくれてかまわないから」


 

 大した仕事ではないし、経理の経験があって会計システムを使った事のある人なら、誰だってできる仕事なら、わざわざ子会社の支店にいるような松をひっぱってくることもなかろうに…と思った。


 どうも、腑に落ちない。腑に落ちないが、考えてもお上の考える事など松に分かろうはずがなかった。



 二日目はセミナーで回収したアンケートを開封して取り纏める作業を手伝った。



「今日は、川崎常務はいらっしゃらないんですね」


手を動かしながら、ふと目の前にある空っぽの役員席に気が付いて鈴木さんに尋ねてみる。



「川崎常務は、もうこちらにはいないよ。今は佐伯部長が実質の責任者だ」


鈴木さんが教えてくれる。



 あ、そう言えば、川崎常務もううちの会社の社長に就任したんだっけ。


「そうでしたね、後任の方はこられないんですか?」



「いまは空席になっている。暫定的に、人事の田中専務が兼任でこっちの面倒をみてくれているけどね」



 夕方近くになって、アンケートの結果をパソコンで集計する作業をしていると、部署に、神楽(かぐら)さんという女性が鈴木さんを訪ねてやってきた。


 彼女は鈴木さんと同じ年頃の方で、話しの内容を聞いていると、どうやら彼とは同期のようだった。鈴木さんは松のいる席の真後ろのデスクだったので、ふたりの会話が後ろから聞こえてきた。



「―――というわけで、ウチも人手不足なわけよ」


神楽さんは鈴木さんにグチグチと漏らす。


「派遣でいいからひとりよこしてくれないかって人事にかけあってんだけど、新システムになったら楽になるはずだから、増員する必要ないでしょって言われちゃってさ。でも稼働して起動にのるまでには時間かかるしねぇ。でさ、この辺のここ、どうすればいいの?朝から手こずっちゃって…」



 鈴木さんはしばらく画面をいじって、神楽さんという人にあれこれとシステムの説明していた。


 ひととおり神楽さんの質問が終わったところで、


「そういえば」


と言って、鈴木さんの方から神楽さんに話しかけてきた。



「今さ、徳永のヤツ、どうしてんの?」



「ああ、ニューヨークの?忙しそうよ。前以上に忙しいみたい。ああそうそう、昇格したっていってた。上司の増井さんがロンドンに転勤になったんで、決裁権のある人がいなくなってそれで急きょ課長に抜擢されたんだって」



「増井さん、ロンドンに行っちゃったの?それじゃあ、忙しいだろうな」



「忙しいってレベルじゃないみたいよ、先週東京に帰って来た時、ボヤいていたけど…」



 先週?


 松は思わず声をあげるところだった。


 徳永さん、先週日本に帰ってきていたの?



「忙しくてちゃんと話せなかったけど。なんでも組合に用事があるとかなんとか。今年の春にも来ていたし。最近よく東京に出没しているのよね、彼」



「ああ、思うところがあんだろ」


鈴木さんが意味深に言う。


「おれはてっきり、アイツは神楽に会いに東京に帰ってくるんだと思っていたけど」



 え?どういう意味?


 思うところって?


 神楽さんに会いに東京に戻ってくるって、どういうこと?


 松は、ヒヤリとしたものを胸の奥に感じた。



「何でわたしに会いに帰ってくんのよ?」


神楽さんが怖い声を出して鈴木さんに言い返していた。



「だからさー、お前に気をつかって帰ってきているのかと…」


鈴木さんは本気なのか冗談なのか、どちらとも取れないような声色だった。


 

 松は、自分の顔色がさっと変わったような気がして、思わず下を向いてしまった。



「そんなわけないでしょ。あの人、愛想いいけど、結構うわべだけだし」


神楽さんは、淡々と言っていた。


「私の事は、目にもとめてないと思うよ」



「でも、あの何考えているか分んねぇ徳永のことだからなぁ。常日頃、結婚願望ないって言っていたくせに、突然結婚するし、結婚したかと思えば知らない間に離婚しているし。アイツの本音が見えたためしがない」



 え、そんな風に見られているの?



「じゃ、お前ホントにそういう関係じゃないわけ?」


鈴木さんが念を押した。



「色々と、日本に帰って来た時は、世話をやいてあげているけど、それだけよ。相変わらず、気を遣ってはくれているけど、本当にそれだけ」



「そうかーこの前会った時は、何か、機嫌よさそうだったから、どうかなと思ったんだけど」



 この前っていつだろ。今年の春のことかな。



「そうねー。でも、機嫌いいと言えばよかったわよ?忙しいわりには結構元気そうだったから、今はさすがに、羽のばしてるんじゃないのかしらねぇ。ニューヨークの事務所には、独身に戻った徳永君を狙っているキレイどころの現地社員がわんさかといるらしいしさ」



「へぇ~、外人からもモテるのかアイツ」


と、鈴木さんは呆れたような、面白そうな声を出した。


「さすがは徳永君だねぇ~~~、ま、そういう流れになったら、アイツ、ニューヨークに居つくかもしんねぇなあ」



「そうねー。ま、そうなったらなったで、日本にも戻ってくる必要ないし丁度いいんじゃないの?」



 え、どういうこと。


 ニューヨークにいるキレイどころ?


 羽を伸ばしている?


 そういう流れ?


 今の会話を聞いて松は氷のように固まってしまった。



「おい、神楽。あんまり大きな声で冗談言うなよ、まわりに聞かれている」


そう言って、鈴木さんは、彼の真向いの席で仕事をしている若い女性の派遣さんに気遣っているようだ。


「ほら、野村さんもびっくりしているじゃないか」



「あら、野村さんも徳永君のファンだったの?」


神楽さんが意外そうな声を出した。


「やめときなさいよ、あんな変わり者。自己中だし、偏屈だし、結構ナルシストだしね」



 松は、たまらなくなって書類を数えている手をとめた。


 そして、別の書類を取りに行くふりをして、席を立ち、何気なく席をまわって神楽さんの向かいがわまでやってきて、彼女の表情をチラと伺った。


 彼女は面白そうな表情を浮かべて野村さんをからかっているように見える。



「別にわたしは、ファンってわけじゃ…」


野村さんが真っ赤になっている。


 ああ、この人も徳永さんの事が好きなんだな。



「あっはっはっは、冗談よ、冗談!」


神楽さんはそう言って一層面白そうに笑った。


「徳永君は稀に見るイイヤツだけど、ちょっと変わっているってだけの話。ほんと、あんなイケメンはわたしもいまだかつて見た事ないし、眺めているだけなら目の保養よね」


神楽さんは、無駄口をたたきまくって、部署を去って行った。



 鈴木さんは


「ごめんな、アイツ、口悪くてさ」


と言って、野村さんに謝っているけど結構面白そうな顔をしている。



 神楽さんがいなくなって、松はホッと肩で息をついた。


 それにしても、変わり者だの、自己中だの、偏屈だの、ナルシストだの、徳永さんにまるで似合わないワードの羅列に松は大いに戸惑ってしまった。


 徳永さんって、同期の人からそんな風に見られているのかと思うと、ちょっとビックリした。



 一泊だけの東京出張はすぐに日程を終えて、松は帰途に就いた。


 帰りの電車の中で神楽さんの口にしていた事が頭から離れず、松は、その事ばかり考えていた。



『結構元気にしているみたいよ』

『独身者になった徳永さんをねらっているキレイどころがわんさかといて』



 独り身になった徳永さんを狙っている女性が沢山いたところで、驚くべきことではない。


 徳永さん、また東京に来ていたんだな。そう言えば、トクミツ氏も


『東京と言えば徳永君が』


とか


『プライベートが落ち着いてよかったよ』


なんて、意味深な事を言っていたけど、その事を言ってたのだろうか。



 元気にしてくれているのなら安心だなとホッとしている反面、松との間に起った諍い事もとりたてて気にする程のものでなく、数日経てば忘れてしまえるほどの些細な出来事だったのかと思うと、やはりショックだった。



「もう既に、新しい女性(ひと)がニューヨークに出来て、そういう仲になっている…とか」



 あれだけ外見のよい、見目麗しい男だ。


 松の代わりなぞいくらでもいるのだ。松がダメなら、次の人、次の人がだめなら、そのまた次の人と、彼なら、選びたい放題なのかもしれない…



 松は、窓の外を流れる景色に視線をやった。


 流れて飛んで行く風のような景色が日光にあたってキラキラと輝いていた。



 時は流れているのだ。



 どんな辛い事が起っても、死にそうなほど悲しい涙を流しても、地球は休まず回転するし、毎日お日様は顔を出す。



 徳永さんは、もう次に向かって歩きはじめているのだ。



 未来は動き出している。



 松は、自分ばかりが、クヨクヨと落ち込んで同じ場所で停滞しているのではないかと思うと、一層わびしい気分に苛まれた。




「今週の週末、西大寺さんからナショナルホテルでどうかって言ってきているんだけど、ショウ、お前都合はどう?」


と、祖母が聞いてきた。



「は?」



「だから、お見合いよ。この前見せたでしょう?××市役所にお勤め元華族とご縁のある方よ」



松は思いっきり眉間に皺を寄せた。まだお見合いの話をしているのか。



「お祖母ちゃん、わたしお見合いするなんて一言も言っていないけど」



「あら、気に入らなかった?じゃ、西峰さんの方がよかったかしら。ほら、元地主で不動産をお持ちの」


祖母は、孫娘は、その男よりほかの見合い写真の男の方が気に入っていると思っているかのようだった。



「西峰さんはいいわね。わたしもいいと思っていたのよ。ショウとは年が離れているけど、たったの四十一歳だもんねぇ。初婚だし、財産もおありになるようだし、何よりエリートコースに乗っているらしいし」



「・・・・・・」



 母は、御仲人さんから“写真の束”が届いて以来、この前のお見合いがドタキャンされた事からすっかり立ち直っているようであった。



「お母さん、その人は後回しにして、西峰さんを優先してもらったら?」


母が祖母に言う。


 早く予約しておかなきゃ、他人(よそ)にとられてしまうかのような焦った言い方だった。



「そうだねぇ。わたしも西峰さんはいいと思っていたのよ」


祖母もノリノリだ。



「ち…ちょっと」



 松は、アングリと口をあけて祖母と母のやりとりを見守った。


 相変わらず


「どう?」


と、確認を取る振りをしていながら、自分達で勝手に決めてしまいそうな勢いである。



「じゃあ、今晩にでも早速電話してみるわ」


と、祖母が言ったところで、いつもは静かに話を聞いているだけの義父がめずらしく横から口を出した。



「なあ、向こうに予定を聞く前に、本人の予定を先にきくべきじゃないか」


義父は松をチラと眺め言った。


「ショウちゃんにだって、予定があるだろう?最近、休日出勤もしているようだし、忙しいんじゃいかい」



 事務所の引っ越し作業や、新しく始まった業務の引き継ぎなので実は最近とても忙しかった上に、今回の東京出張。せっかく消えていた目の下のクマも復活しかかっているような状態だった。



「疲れているようだし…お見合いならもっと元気な時にした方がいいんじゃないか?エステなり温泉とか行って身体休めて、綺麗になってからしたっていいじゃないか。最近のショウちゃんは、何というか、いかにも疲れたOLみたいになっているしさ」



 え、何。


 本当にそんな風にヤツレて見えるのだろうか。


 それに、どっからエステやら温泉が出て来るんだと思ったが、ああ、義父なりに松をかばってくれているのかなと、普段は感じられない義父の心遣いにちょっとあったかいものを感じたその時、口を挟まれて機嫌を悪くした母から鋭い横やりが降っていた。


「温泉?エステ??」


母は呆れたように眉を顰める。


「何言ってんのよ、たかが事務職のOLが。あんたなんかより、ずっと大変で忙しく働いている男性達が、世には沢山いるのよ。なぁにが疲れたOLよ!」


母は馬鹿にしたように松を眺め、見合い写真を庇うようにそれらに手を添えた。どうやら、母の言う“世の男性”というのは、見合い相手の男達の事を指し示しているらしい。



 食卓はシーンとなった。


 母のこういった発言には慣れっこだったけれど、予期していなかった分、頭上から重い岩石が落ちてきたような衝撃を感じた。


 暑い最中、目が乾燥し真っ赤になるまで連日残業をして、データ拾いをしたこととか、アンケートの回収をするために、あちこち歩き回って足を棒にした事とか、チケットとパスポートを渡し忘れて夜遅く徳永さんの家まで届けに行った事がよみがえってくる。


 確かに、松の仕事は大したものではなない。


 松よりもっと重要で重大な責任を負っている人はいくらでもいる。


 こんなこと、取り立てて反論するほどの事ではないのかもれしない。


 が、この時松の中で保っていた何かが壊れた。 


 我慢の限界と言うか。


 何かの臨界点を達したというか。


 ここまで言われて簡単には割り切れなかった。


 松は深く息を吸いこんで、思い切って言った。



「御仲人さんに、お見合いはしないとお断りして下さい」



「何言ってんの。お見合いしなけりゃ相手見つからないでしょうが。それとも、オールドミスになるつもり?」



「とにかく断って」


松は断固として言った。



「あんたねぇ」


母はやり始めた。


「今の仕事を一生続けて行けるとでも思っているの?たかがOLでしょ?いずれは辞めざるをえないんでしょ?さぁ辞めるとなったときに、頼りになる旦那がいなかったら、どうするのよ、一生一人で過ごすの?あんたなんて何の取り柄もないんだから、若い時に相手を決めておかなけりゃ―――」



「わたし、転勤が決まったの。一年間、東京へ行かきゃならないの」



「転勤?」


母が素っ頓狂な声を上げた。


「あんたが、東京に転勤?」



「そうよ」



「あんたの会社、事務職に転勤があるの?」


母は祖父に向かって言った。松の働いている会社は祖父のツテで入ったのだが、祖父はそんな話は聞いたことがないと言った。



「ショウちゃん、それ、本当なの?」


祖母も不思議そうに言う。



「普通は事務職には転勤はないの。今回だけは特別で」


松は短く言った。



「どうして特別なの、何であんたが選ばれたの?」



「何でわたしが選ばれたのか、分からないけど」


松は、顔をずいと突き出している母親にその疑問を解いてやらねばならなかった。



「わたし、世の男性ほど大した仕事をしていないかもしれないけれど―――親会社の方が、是非、わたしに来て欲しいと言ってくれたので」



 嫌味に聞こえたかもしれないが、嘘はついていない。


 このぐらい言っても許されると思う。



「そう…なの」


母は、まだ事態が理解できずに口をぽかんと開けていた。



「だから、少なくとも、わたしが東京に行っている一年の間は、お見合いがきても断っておいてください」


と、松は静かに言った。



「仕事なら仕方ないね」


だいぶ間があいてから、沈黙の空白を埋めるかのように義父がぽつりと言った。


「一年経ったら、また戻ってくるんだろうし、一年ぐらい仕方ないね」



 松は、小さく頷いた。


 社内試験を受けたら、親会社の契約社員に採用される可能性は、ここでは伏せておいた。



 食卓は静かになった。


 その後、それについて誰も発言しなかった。




 松の転勤までの期間は瞬く間に過ぎて行った。


 準備をしながら、一年後に戻って来た時の事を考えた。


 東京に行っている一年の間、リストラがすすんで松の席はなくなっているかもしれない。


 もしくは外資に買収されてしまうかもしれない。


 その時自分はどうなるのか。


 どうしようにもなく不安に煽られて胸が潰れそうであったが引き返すことはできない。前に進むだけだ。



 八月の終わりに、松は東京のシステム情報課にやってきた。


 一年間限定の長期出張だ。


 なぜ松が選ばれたのか、理由は分からないままだったけど、その事については、考えるのをやめた。


 与えられた仕事を頑張ろうと思った。


 徳永さんも、次の道を歩み始めている。


 私だって、同じ場所で佇んだままではいられない。


 今後最悪、彼が、新しい誰かを見つけたなり、結婚なりすることになったと、そういう噂を耳にすることがあっても、それに動じないぐらい、自分で自分に自信をつけておきたかった。強くなりたかった。



 

 お盆を過ぎて、月が変わってしばらく日々が過ぎた。


 ある日、松は、下宿先のマンションの一室でぼんやりとテレビをつけてみていた。


 そろそろお風呂にでも入ろうかなとリモコンに手を掛けたとき、見ているニュース番組に速報が流れ始めた。



『ただ今入ってきました情報によりますと、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機がつっこみまして、ただ今、炎上しております…』



 若い女性のキャスターがそう言うと、画面はアメリカのCNN放送の画面に切り替わった。青空を背にした細長いビルの真ん中から炎と煙が見える。


 ニューヨークという土地に親しみを持っていたので、視線がその画面についと引き込まれた。


 最初は何が起っているのか分からなかった。


 しばらく成り行きを見守ってゆくと、隣のビルにも二機目の飛行機が突っ込んでゆく姿が映し出された。


 奥側にも同じような細長い双子のビルがあったのだ。



 双子のビル…?



 聞き覚えのある言葉がふとよみがえってきた。



「あの二本の細長いビルは、ワールドトレードセンタービルと言って、双子のように寄り添っているように見えるから、ツインタワービルと呼ばれているんだよ…」



 ヒヤリとしたものを首筋に流感じる。



『世界貿易センタービルには千二百を超える企業が入っていて、五万人が働いています…』


 アナウンサーの実況が続いて行く。



「あのビルに取引先が入っていてね」


マンハッタン島をめぐるフェリーの上で風を受けながら、腕を伸ばしてあの美しいビルを指し示し、徳永さんは松の背中を抱きしめながら説明してくれた。


「仕事でしょっちゅう行くんだ」



 松はテレビのリモコンと取り落した。


 顔から血の気が引き、全身がブルブルと震えだす。



『発生は、現地時間の朝九時頃です、丁度現地では通勤時間だったと思われます…』



 まさか、まさか、まさか。


 画面は、二本の細長いビルをとらえていたが、その細長い建物は、鉛筆の真ん中がポキリと折れるのではなく、パラパラと一部分が崩れ始めたかと思うと、砂で作った塔が崩れ落ちるように一気に形を変えて跡形もなく崩れ落ちた。


 画面から『オーマイガッ』という現地のレポーターの悲鳴混じりの声が聞こえてくる。


 松は声を上げることもなく、息を吸いこみ、呼吸を止めた。


 冷や汗ではないまた別の水分が、目の中から溢れてきた。



 嘘だ嘘だ嘘だ。



 その瞬間。



 松は、現地で何が起っているのか、ようやく理解したのである。



 生きていて、この時ほど衝撃を受けた事はなかった。


 松は、世界で一番大事な人が生死の境をさまよい歩いているかもしれないこの時、ニューヨークから遠く離れた東京の狭いマンションの一室で、ただテレビに釘付けになっているしかできなかった。




<20.カズミがショウと出逢った時> へ、つづく。








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