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1.「ニューヨークの恋人」

1.「ニューヨークの恋人」



 メグ・ライアン主演の「恋人達の予感」というタイトルの映画ある。



 舞台はニューヨーク。



 理想の彼氏を見つけて、結婚に至るまでの道のりを描いた、ラブコメディ映画。主人公サリーを演じるメグ・ライアンは、友人マリーのウエディングドレスの試着につきあって、ブライダルサロンの一室で、椅子にだらしなく腰かけ、おやつを食べながらマリーのドレスの試着を見学している。




「ねぇ、ハリーは今誰とつきあっているの?」


サリーは試着中のマリーにチョコをぱりぱり口に突っ込みながら声をかける。



 ハリーはサリーの長年の男友達である。友人以上の存在でありながら、決してそれ以上の関係になることができず、それでいてどんな女とつきあっているのか、サリーにとって、とても気になる男性でもあった。




「人類学者の女と付き合っている。美人でグラマーで女の理想」


マリーは鏡を見ながら答える。マリーは鏡に映るウエディングドレス姿の自分に自信がないのか、それともマリッジブルーなのか、


「ねぇ、これどう思う?」と、


友人サリーにドレスの出来栄えを言ってもらうために、暗い声でたずねている。サリーは涙ながらに


「とてもキレイよ」


と、友人のドレス姿に驚嘆して答えるのだ。




 

 今まさに、松は、今の自分はそのような状態だな、いや、そのような状態ならいいのになぁとモンモンとしながら、鏡の中の桐子を眺めていた。



 桐子は、来月結婚予定で、まだドレスが決まっていない。最初は、あーでもない、こーでもないと、ふたりはあれこれとドレス批評をしていたが、そのうち桐子の方から、


「アンタ今、徳永さんとどうなってんの?」


という、煮え切らない態度の松を叱咤するかのように、鋭い口調であれやこれやと尋ねてきた。




 松は、メグ・ライアン扮するサリーになったつもりで、手元にあったチョコ菓子をばくばくと食べ続けた。




「だから、あれからどうもしていないって言ったじゃん。もう連絡してこないでくれって言われて電話切って以来、それきりだよ」


と、彼女は虚しく返答した。




 あの映画のメグ・ライアンは、紆余曲折の末、友人ハリーと恋人同士になり、最後はめでたくハッピーエンドで幕を閉じる。



 長年の友人…



 長く知り合った間柄にこそ、ふたりの絆があり、絶ち切りがたい何かがある。それに比べ、わたしは徳永さんとどれほどの繋がりが持てているのだろうかと思うと、やはり自分なんて…という気弱な気持ちが頭をもたげてくる。




「一体、なんでそんなことになんの」


桐子は腹立たし気に、ドレスに合う薄いベールを選ぶために、用意されたものを順番に頭上に乗っけたりはずしたりしながら言った。


「十月にニューヨークに行った時は、ラブラブだったでしょ?」




 ラブラブ…



 それはもう、百年も昔のような出来事のように感じられた。


 あの空港での、感動的なお別れを経た二か月後、松は、ニューヨークに滞在中の徳永さんをたよりに、約束通り、アメリカに渡った。


 初めての外国。


 初めての飛行機。


 むちゃくちゃ不安だったけど、「わたしは引っ込み思案じゃないから、大丈夫」と宣言した手前、弱気を見せるわけにもいかず、たった一人でニューヨークに赴いた。


 それでも徳永さんは、松が不安がらないように、途中の乗り換え便で降りた空港の作りとか、システムがどうなっているかとか、事前にメールで色々アドバイスしてくれて、わざわざ車でケネディエアポートまで迎えに来てくれた。




「絶対途中で迷子になると思ってたよ」


そう言って彼は、松の顔を見るなりニコニコ笑って出向かた。


「よくひとりで、まっすぐ来れたね」



 などと軽口をいいつつも、ニューヨークに来てさっそくアメリカナイズされたのか、はたまた本来の性癖なのか、細い松の体をいきなり両手で広げたかと思うと、かつてそうしたかのように、ぐいっと彼女の体をひきよせ、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。


 いきなり予想もしていなかったハグでのお出迎えにはなんとも面喰ってまう。



「顔が赤い」


腕を抱いたまま身体を離し、ゆでだこのように真っ赤に燃えている松の顔をジッと見つめながら、何意識してんの、と言わんばかりの口調で彼は言う。



「赤くなってなんかないです!」


と、言いつつも両掌で両頬を触ると、その顔のどこもかしこも熱くてカイロみたいになっている。



「なっているよ」


徳永さんはからかうように言ってきた。


 「ギュっとするの、嫌いじゃないでしょ?前に、こうやって自分から抱きつきにきたじゃない」


 徳永さんは、ジェスチャー混じりに意地悪を言う。




 抱きつきに来た??



 いやいやいや、抱き寄せたのはむしろあなたの方じゃないのと、記憶を手繰り寄せようとしたけれど、徳永さんはなんてことないような顔している。



「・・・・・・」



「まあ、ボクも女の子とギュっとするの、嫌いじゃないけど」


彼は言った。



「そうなんですか?」


松は、さぐるように言った。



「うん、女の子ってやわらかくって、あったかって、抱くと癒されるからね」


と、天使のような微笑みスマイル。



「…わたし、クッションじゃないんですけどっ」



 真面目に考えて損した。


 サイテーだ。



 来た早々変態発言連発のこのイケメンを、どこからぶん殴ってやろうかと、松は、引き攣った笑いを顔いっぱいにつくってやった。



「冗談、冗談」


徳永さんは、松のトランクを車の後部座席に詰め込みながら言った。


「ハナイエちゃんのことを、クッションだなんて思っていないよ。思う訳ないでしょ。無事にここまで来てくれたんで、嬉しくて思わず抱きつきたくなっちゃったんだよ」


と、再びここでにっこりスマイル。


 このスマイルはズルイ。何も言い返せなくなってしまうじゃいか。元来、この男、脳ミソの構造がガイジンなのだ。歯が浮くようなセリフを口にするのも、キザな仕草も、朝飯前なのであろう。



 二か月も会っていないし、また前みたいなぎくしゃくした関係に舞い戻っていたらどうしようと道中ずっと不安を感じていた。しかし、到着ロビーで彼の顔をみたとたん、その笑みに癒された。結局彼は、松の緊張をほぐそうとしてくれていたのだのだろう。




「ホテルに泊まるの、一泊だけにしときなよ」


 着いたその足で、移動する車の中ですぐこう言った。


「残りの三泊はウチに泊まればいい。そすれば昼間の観光の相談も夜、一緒にできるでしょ」



 

 徳永さんは平日は仕事があるので、松は、殆ど昼間はひとりで観光するつもりだったが、土日が間に挟まっているから二日は一緒に行動できるし、金曜日は有給を取っているから一緒に出掛けられるよ、と彼は言った。




「有給をとって下さったんですか?」



「どういたしまして。前に、有給を取って見送りに来てくれたからそのお礼だよ」




 そんなわけで、初日だけひとりで市内を観光して、翌日から、徳永さんと同じ屋根の下に暮らしつつ、松は、贅沢なラブラブデート状態を三日も過ごしたのであった。





「で?」


 桐子は、じれったそうに尋ねる。


「同じ屋根の下に三日も二人きり住んでさ、どうだったの」




 オラウータン並に鼻の下がのびて、アホ面になっていることも気が付かず惚気話を半日以上もエンエンと話つづけている松の話は終わりがない。さすがの桐子も、いい加減結論をいいなよと、パフェのスプーンを舐めながら話の先を促した。




「どうって今話しているじゃん」


 松はぽけっと答えた。


「マンハッタン島が見えるフェリーの上で自由の女神を眺めてたらねぇ~風が強くってさぁ、あんまりにも寒いんで、徳永さんが後ろからこうやって抱きしめてくれてさ、それが温かくって」


 と、言いつつ、松は頬を桜色に染めながら夢の世界へ行ってしまいそうだ。




「だからさあ~、そのいい雰囲気の後、どうなったかって聞いてんの。ちゃんと、好きって言ってもらえた?」



「へっ?」


 松は、生クリームののっかったプリンをすくうスプーンを咥え言った。


「何ソレ?」



「だって、今度会うときには、徳永さんから好きって言わせてやるって、ショウ、言っていたじゃない。ちゃんと彼の口から聞いたの?」



「あっ、そうか」


松は、今やっと思い出したようであった。


「忘れていた」



「忘れていたじゃないじゃないの~せっかくニューヨークまで行って、背中からギュッとしてもらうだけで終わっちゃったんじゃないでしょうね?」




松は、ぼーっとして考え込み、


「そんなわけないじゃん」


と、神妙に答えた。



「じゃ、何か進展はあったのね?」


桐子が目を見開く。



「うん、オペラを観に行った」



「オペラ?」



「すっごく由緒正しいオペラ劇場にオペラを観に行くって言うもんだから、すごく高価なドレスを買ってもらったの」



「ドレス?」



「うん、こんな風に胸が大きくひらいた、むちゃくちゃセクシーな真っ赤なドレス。わたしの給料一か月分ぐらいする高価なもので、全力で遠慮したんだけど、これが似合うから絶対これにしろって徳永さんったら聞かなくって。ニューヨークに来た記念にって、買ってもらってしまったの」


松はエヘヘとはにかみながら再び惚気た。



「へぇ…」


この話は、桐子には新鮮だったらしい。


「そこまでしてくれるんなら、言ってもらえたんだよね?」


と、彼女は言う。



「何を?」



「だから、好きだって言ってもらえたんでしょ?」



「…いや…そんなこと言ってったっけな?」


松は首を傾けた。



「言ってたっけなって、ショウのこと、そんなセクシーなドレス姿にさせておいて、徳永さんったら、手も足もださなかったってわけ?」


桐子は焦れて足をバタバタさせ始めた。



 手と足を出すと言われても、年末に行われるK-1グランプリしか思いつかないレベルの松の頭は、桐子の言わんとしていることが理解できていない。



「チューもエッチもなかったの?」


何でこんなこと説明しなきゃならないんだと、呆れ半分、恥ずかし半分、桐子は苛々しながら言った。



 言われて初めて、言葉の意味を理解した松。



 と、同時に滑らかだった舌も止まってしまった。




「何もなかったんだね…」


松の止まった表情に、桐子はさも残念そうに呟いた。



「ごめん…桐子」


松は顔を赤らめ、しょんぼりとうなだれた。



「アタシに謝ってどうすんの」


 桐子もため息をついた。


「せっかくニューヨークまで行ったっていうのにさ、あんたったら~、桐子おばさんは悲しいよ」



「そ、そんなに悲しまないでよ。あんまりにも楽しくて、そういったことはすっかり忘れてしまって」




 そう、あの旅行は、あまりにも徳永さんと一緒にいられることが嬉しくて、楽しすぎて、せっかくの初洋行だったとう言うのに、実は何を見たか、どこへ行ったのか、そっちの方の記憶の方がどちらかと薄い。




「普通はさ、年頃の男女が仲良くなったら、自分のこととか、家族の事とか、収入のこととか、色々話すもんでしょ、そういう話もしなかったの?」



「家族のこと?」



「そうよ、仲良くなったら、というか、仲良くなるために、お互いの個人的な事なんか打ち明け合ったりするもんじゃない」



 桐子は、まるで仲人のおばちゃんのような口調で言う。




 そんなこと言われても、付き合いたてホヤホヤの状態で、身元調査員みたいに家族関係やらましてや収入に関するようなデリケートな問題を、口にするのはさすがに不作法ではないだろうかと松は思った。




「不作法なんてことないよ」


と、桐子は言う。


「あたし達はもう学生じゃないのよ?将来を見据えて相手を見るぐらいのこと普通でしょ?」



 

 なんとも現実的な話に、松はたじろいでしまう。


 桐子は松と同じで短大出身で同い年なわりには、しっかりというかシビアな考え方を持っていて、この手の話については譲る気配はない。




「愛や夢で、現実は乗り越えられないのよ」


桐子は続ける。


「どんなに好きでも、現実的な生活ができない相手とは長続きしないものなの」



「そう言われても…」


恋愛初心者であり、好きな人とようやく心がつながり始めたばかりの松には厳しすぎて受け入れがたい内容の話で、


「いきなり収入のことを聞くなんて、そんなことできないよ」


としか答えられないのであった。




 桐子は、何も言わずに「ふーん」と言う顔になっていた。




「じゃ、何?桐子はタケシ君と結婚するのを決めるとき、そう言った話をしたの?」


松は聞いてみた。




「当然でしょ?」


桐子は真顔で答える。


「タケシの一番素敵なところはね、女が一番口にしにくくて、一番気になるところを、事前に先回りして、不安にさせないようにしてくれるところ。両親のこと、家族の事、包み隠さず話してくれて、ウチの親にすすんで挨拶してくれたし、自分の家に呼んですぐに両親に紹介してくれた。就職した時なんか、まだ付き合ってもいないのに、貯蓄と収入がどれぐらいあるかっていうことを、すぐに話してくれたわよ」




「すごい」




「相手を安心させるためには、当然の態度でしょ」


桐子はきっぱり言った。


「そういった現実的に不安を取り除こうとしてくれたタケシに、あたしは心底惚れたわよ。うちの両親に挨拶してくれた時なんて、まだ付き合ってもいなかったんだよ?あたしの歴代の彼氏の中にそんなことしてくれるヤツ一人だっていなかった。タケシだけ、あんな気の利いたことしてくれるの、本当にタケシだけだよ」




 タケシ君、男前だなぁ。って感心している場合ではなかった。




「でも、桐子とタケシ君は長い付き合いだからさ。そういうことも言いやすいよね?」




「タケシがウチの親に挨拶に来てくれたのって、中学三年の時だよ。クラス替えで一緒になって、まだ一か月も経っていなかったような頃だったわよ」




「ホント?」



 付き合ってもないのに、好きな子の親に挨拶に行くなんて、タケシ君は別の意味で強者なんじゃないかと思う。




「まあ、徳永さんにタケシと同じレベルを求める必要ないかもしれないけれど、世間にはこういう男もいるということをショウに知っておいてもらいたいの。あたしは、好きな女と真面目に付き合おうと思ったら、男なら、それぐらいの覚悟を決めるべきだと思っているわけ」




 何気に、徳永さんよりタケシ君の方がいい男だとニオわせている部分はスルーしておいて、この話が本当なら、タケシの徹底ぶりも素晴らしいと思う。




「ホント、タケシ君、惚れそうなぐらいいい男だね」


と、松は褒めた。



「ちょっと!人の彼氏に勝手に惚れないでよ」


 本気で腹をたてる桐子がまたかわいい。



「何いってんの。惚気るあんたが悪いんでしょ」


と、松は言い返してみるものの、 


徳永さんにタケシ君と同じレベルを求めるべきなのか…?


という課題は、今後の松と徳永さんとの付き合いに、疑問をなげかるものであった。




 桐子とこのやりとりをしたのは、十月のニューヨーク旅行から帰った後のことである。




 松は、普段、松は徳永さんとはメールでしかやりとりはしていない。


 それでも一日、二、三回は海を越えたメッセージが行き交うし、時には英語が交えてあり


「次回まできちんと翻訳して、返事も英語でするように」


 と、いきなり英語レッスンメールがやってきたりして、気がぬけないときもあるが、概ねそれも、会ったり電話したり直接やり取りできない互いの関係をマンネリ化させないための、徳永さんの配慮だと松は嬉しく思っていた。




 しかしながら、そういったメールでの会話の中に、桐子の言うような互いのごくプライベートな部分、家族関係や、友達や、収入の話などはいっさいはいってこなかった。仕事の話なら多少なりとも理解できるのだから、してくれてもいいのに…と思ったりもしたが、徳永さんはそれさえも話題にしようとはしなかった。




(あたしって、やっぱり、ただの女友達だとおもわれているだけなのかな…)




 と、いう気持になってくる。 


 それでも、用もないのに一日三回も、女友達でもそうそうメールなどすることはない。やはり彼とは、友達以上の関係であるのは確かな気はする。



 恋人未満なのか、それ以上の存在なのか、



 桐子の言う通り、自分達の関係がどの場所に位置しているのかはっきりさせたいのなら、このままではいけない気もするのだが、かといって、互いの関係を確認するにしろ、発展させたいにしろ、今の二人には、物理的な距離がありすぎた。



 松は、何もできずにジリジリと時を重ねた。




 そうこうしているうちに、クリスマスシーズンが近づいてきた。




「町はイルミネーションが綺麗で、クリスマスツリーの点灯式を見て来たよ」というメールが写真付で徳永さんから送られてきた。



 わぁー何て綺麗なんだ。外国のクリスマス…すごく憧れる。



 いいだろうなぁ、と言っていたら、そんな場合じゃないと、またまた桐子に怒られた。




「クリスマスだなんて、一年で一番ロマンチックな季節に、徳永さんのような3高が大都会で、たったひとりでいるのよ?女が放っておかないと思わないの?」




そう言われても…




 行けるものなら、もう一度、ニューヨークに行って、徳永さんと一緒にクリスマスを過ごしたい。



 しかし二か月前にニューヨークに行ったばかりで、お財布も厳しいし、何より同居している家族に何と言い訳していいかわからない。




「前回は桐子と一緒にニューヨークへ行くって出て来ちゃったしなぁ。二か月しか経っていないのに、またニューヨークへ行くだなんて言ったら、不審がられて、いったい何の用事があるんだと、根掘り葉掘り聞かれるに違いないし」



 ただでさえ普段からあれやこれやと子供の交友関係にうるさくイチャモンつけたがる母親に祖父母。心配してくれているのだろうが、人の友人をいちいちつかまえては、


「あの人はどの家の出身なのか、とか、どこの大学出なのか」


とかなんとか、あいかわらず詮索好きで無遠慮に聞きたがる性質は、子供の頃からかわらず健在なのである。



「いつまで、親の顔色をうかがって、ビクビク生きてゆくつもり?」


桐子が気弱になっている松の顔を睨みつけながら言う。


「自分の一生に関わることなのよ。自分の人生は自分で手綱とらないと、一生後悔することになるわよ!」




 徳永さんと一緒に、ニューヨークでクリスマスを過ごせればどんなにか素敵かと思う。桐子の言うことも一理あるかもしれない。それにわたしはもう二十歳を超えた大人なのだ。自分のお金で自分の行きたい所に行って何が悪いのだ、と強気に考えてみた。松は、徳永さんに会いたかった。




 その日、自宅に戻り、今年のクリスマスはニューヨークに行ってくると家族に告げようとしたその時、母から信じられない言葉が飛び出してきた。



「今年のクリスマスはお見合いがあるから予定しておいてね」



 え?何々?誰の話をしているの??



「お見合いって、誰が?」


松は、硬直したまま尋ねた。



「もちろんアンタに決まっているでしょ。この家で結婚していないのは、アンタだけでしょうが」


母は、そう言って釣書をグイと差し出してくる。



「いやあの…」


と、松は引きつった。


「お見合いなんてわたしは」



「いやー、今度はいい話なのよ!」


母は嬉しそうに話し始めた。


「仲人さんの話ではね~親がちゃんと両方揃っていないと、何かとこういった好条件の人はこないらしいんだけど、今度こそお母さん、やっとお前にいい話をもってこられて、ほっとしているのよ」




 母は今年になってからお見合いして、会ってすぐに再婚した。母と十歳以上年上のこの老人くさいこの男の、どの辺が母のお気に召したのか最初よく分からなかったが、母好みの職業に就いており、経済力があるところが決め手になったようだ。加えて彼は、気の強い母とは正反対に、性格は極めて温和、その上、離婚歴はあるが、子供がいない。これ以上の好条件はまったく見当たらないと、祖母は、娘の再婚話を手放しに喜んでいた。


「こんどのお母さんの結婚は、お前のためにもなるんだよ」


と、祖母は松に言った。



「何でアタシのためなの?」



「両親がキチンと揃っていないと、いい縁談っていうものははかなかこないもんなんだよ」



 だったら、お父さんと離婚しなかったらいいじゃん。


 自分の結婚を子供の結婚の引き合いにするんじゃないわよ、と、思ったものだが、まあ、基本、結婚は当人同士の自由だ。母が幸せならそれにこしたことはない。それに母に夫ができれば、今後、こちらへの干渉が減ることだろうと、いい加減、母や祖父母の監視下から逃れたかった松は、母の結婚を概ね賛成する方向で受け入れていた。



 とはいえ、今回の話は寝耳に水だった。



「やっぱり、うちの家柄と釣り合う格式ともなると、いい両親がついていないとね」


 母は、松の返事を待たずに、イソイソと見合い話をすすめる。



 桐のタンスをあけて、鼻がまがりそうになるぐらい防虫剤の匂いがたちこめる母が娘時代に着たという振り袖を何着か出してきては、お見合いの日はどれを着る?なんて言いながら、


「やっぱりピンクか赤か、男性受けする色がいいわね~」


と、人の意見なんて聞く耳もちもせず、まるで自分のお見合いのように嬉しそうに目を細めながら着物を選んでいく。



「〇〇大学出身で、××っていう企業に勤めていて、△△っていう御家の御出身なのよ」



 今聞いたような名前は、松も耳に覚えがあるが、どうも腑に落ちなかった。


 確かに素晴らしい肩書であるが、あまりに素晴らしすぎて、逆に、我が家とは格式が合わないような気がした…


 

 我が家は確かに、百年以上前は、水戸黄門でおなじみの葵の御紋を持つ□□藩の家老の家系で、遠い先祖は歴史の教科書の片隅に出てきそうな名のある武将の一人だったらしいが、経済的にも、社会的地位にしても、今ではただの一般人にすぎない。



 確かに祖父母所有のお化けが出そうな古い蔵には、御殿様から拝領の葵の紋入りの甲冑やら、調度品やらが眠っているが、今は虫を食って、カビが生えて、人目にさらせるような様相すら保っていないのだ。




「そ…そんな立派な人とのお見合いなんて、ちょっとわたしには荷が重いなぁ」


と言ってみるが、聞いちゃいない。



「何言っているのよ、こんな棚から牡丹餅の話、めったに来やしないんだから、気合入れて、何が何でもゲットする気構えでいかなきゃ!」


と、母は鼻息を荒らげる。



 そんな、むちゃくちゃな。



「いや、それに、わたしクリスマスはトモダチと予定していて、ちょっと行けないかも」



「イブ?それとも二十五日?どっちかなら空いているでしょ?」



「いや、両方とも約束があって」



「じゅあ、二十三日ならいいでしょ」


と、母は祝日を指さす。


「この日なら大丈夫よね?」



「いやそうじゃなくてさ」


ここで本当のことを言わなければ本当にお見合いさせられると思った松は、なんとしてでも言わなければならないと腹をくくった。


「わたし、お見合いなんてできないよ」



「何でよ?」


母は着物を膝の上に広げたまま、怪訝そうに眉をつりあげる。わたしの苦労が分からないのかと言わんばかりの顔だ。



「あの…あたし、その、今、好きな人がいるから」



 何ソレ?と言った表情が母の顔に浮かぶ。




「そんな話聞いていないわよ」


と、母は言う。



「だから今言っているんだって」



「その人、どこの誰なの?」



 来た。絶対そう聞かれると思った。



「え…と、同じ会社の、ううん、うちの会社の、親会社の人なんだけど」



 母の顔から、険しさが消えた。松の勤めている会社は規模は小さいが、親会社は、東京一部上場の超のつくエリート企業だからであろう。



「そう…それなら、結構な話じゃないの」


母の顔に笑顔が漏れる。


「で、その人、どこの出身なの?」



「出身?」



「収入は?」



「収入?」



「大学はどこ?学歴は?」



「学歴?」



「家族関係は?ご両親は何をされているの」



「ええっと」



「名前はなんていうの?生年月日は?」




 やっと返答できる質問が来た。松は、徳永さんの生まれた日とフルネームを教えた。


 母はおもむろに、姓名判断辞典を取り出して調べ始める。




「何しているの、お母さん」



「もちろん、お前と、その徳永さんっていう人の相性を名前で調べているのよ」 


母は、ページを繰りながら、手慣れ様子で辞典を引いて行く。



「お母さんちょっと聞いていい?」


嫌な予感を感じながら、松は尋ねた。


「その姓名判断で、悪い結果がでたら、どうだっていうの?」



「まぁ~参考資料だから、気にしなくっていいけど」

 

と言いつつも、母の目は真剣だ。


「でも、これはたいがいの確率で当たるから、少しは気にしておいた方がいいと思うのよね。あっと出た出た。ありゃーこれはあまり良くないわね」



「何がよくないの」



「行きずりや、すれ違いの多い相手に出やすい相性だってでているわ。今あんた、この人とうまくいっていないでしょ?」



「いっていないことないけど」



「すれ違っていることない?」


 

 うっ。すれ違っていると言われれば、どうなのだろう。


 遠距離って時点で、すれちがっているって言われるのだろうか。




「まあね」


黙り込んでしまった松に、母は今度は変だと思わせるぐらい折れて出た。


「まあ、うまく行くところまで好きにすればいいんじゃない」




 松は顔をあげて母の方を見た。


 さっきまでの歓迎する雰囲気はなくなっていて、逆に無関心なそぶりで肩をすくめていた。


 妙な言い方だなぁと思った。


 うまく行くところまで好きにすればいいってどういう意味だろう。


 それは、うまく行くところまで行けば、限界が来て終わりがくるというニュアンスを感じさせた。




「どういう意味?」


松は恐る恐る聞いた。



「所詮、うまくいきっこないって思うからよ」


母は言った。


「この相性は、家柄や格式の違う相手や、親の反対のある相性に出やすいの。どうせうまくなんていかないんだから、好きにしなさいって言ってんの」



 

 未来を断定するかのような厳しい母の物言いに松は、恐怖に慄いた。




「じゃ、クリスマスがダメなら、お年始に予定しとくから」



「待ってよ、アタシ、お見合いしないって言っているじゃないの」



「お見合いぐらいしたって、減るもんじゃないでしょ」


母は強引に言った。


「断るのは簡単だけど、こういった話はめったに来ないんだから、せっかくの機会を不意にしなくってもいいじゃないの。ひょっとしたら、その人より見合い相手の方が気に入るかもしれないんだし。それとも」


母は言った。


「その徳永さんって人と、将来の約束でもしているの」




 将来どころか、松は、徳永さんから好きだともいわれていない。これには言い返せない。




「クリスマスは好きに過ごしていいわよ」


答えられない娘に向かって、母は言った。


「そのかわり正月三が日は絶対あけておきなさい。分かったわね」




 これで話は終わりだといわんばかりに母は、席をたった。


 打ちのめされたような気分で松はそこに取り残された。


 桐子が昼間口にしていた言葉が、チクチクと胸に刺さる。




「タケシはね、付き合う前からウチの両親に挨拶してくれて、自分の両親にもわたしを紹介してくれた。痒いぐらいに先回りして、わたしの負担を軽くしてくれるの」




 桐子の惚気話が重くのしかかる。



 松はまだ、徳永さんから特別な関係にはなっていない。



 ひょっとして本心は想っていてくれているのかも…



 なんて都合のいいことも想像しなくもないが、それを裏付けるような言葉も、行為も何もない。




 あ、やばい、アタシ泣くかも。



 もういい加減いい年なんだから、親と言い争ったぐらいで泣くなんて馬鹿みたいだと思う。



 松は、涙をこらえて、あまり深刻に考えないようにしようとした。


 親とこういったやりとりは珍しくない。昔、神崎君への想いを書いた詩を焼かれた時も、今と同じ様な気持ちになったことがあった。



 気を取り直して、クリスマスに二度目の洋行を決意した。


 お金のことも考えて今回は二泊だけにした。


 メールでその旨を伝えると、徳永さんは、十月に引き続き二度も連続してニューヨークに来てくれるなんてと、とても恐縮しているようだった。



「夜景の見える、すごく素敵なレストラン予約しておくから」


 といった返信が海を越えてやってくる。


 松は、携帯の小さな画面から語りかけてくる短いメッセージを、貪るように何度も読み返した。ダメだ。徳永さんの顔を思い浮かべると、抑えていた涙が決壊しそうになる。耐えられなくなって、思わず電話をかけてしまった。



 プルルル…



 『もしもし』


海の向こうだというのに、隣で話しているかのような近い声。


『ハナイエちゃん?どうしたの、電話かけてくるなんて』



 徳永さんの、いつも変わらない包み込むような優しい声に触れて、ついに涙腺が決壊してしまった。



「徳永さん…徳永さん、わたし、あの」


なるべく明るい声を出そうとしたが、ダメだった。


「なんでも…ない」


と言った声が、震えてしまった。


「ない…けど、声がききたくなって」



『何もないなんて』


彼は、ものすごく驚いているようだった。



 さっきまでクリスマスの予定を伝えるメールを上機嫌でしていたのに、いきなり電話がかかってきたと思ったら、泣き声で、戸惑いもするだろう。



『何もなくて、泣いてるわけないだろ。何があったの』



そう言われて、松は答えることができなかった。しばらくして徳永さんが言った。



「何も…ない…から」


松は、しゃくりあげながら言った。


「ただ、徳永さんの声がききたくなっただけで」



 徳永さんは、ハーっとため息をついたようだった。そして言った。



『オレがそっちにいくよ』



「え?」


 

 何を言っているのか、よく分からない。



『クリスマスは来なくていいから、オレがそっちに行くことにする。お年始なら、都合つくから、予定しておいて』



 それはいけない。


 徳永さんは今年の秋に赴任し、仕事もプロジェクトを立ち上げたばかりですごく忙しいのを松は知っていた。クリスマスも正月も返上しないといけないぐらい時間がないって、言っていたじゃないか。



「だめだめ!徳永さんの仕事の邪魔、したくないし」


松は慌てて言った。



『大丈夫だよ』


徳永さんの声は断固としてゆるぎない。


『ちゃんと行くから心配しないでいいよ。お年始の都合のいい日言ってくれたら、その日に会いに行くから』



「あ、あの」


松は、涙を止めて平静を装った。


「ゴメンなさい。ちょっと、嫌なことがあっただけで、もう大丈夫。徳永さんの声聞いたら、元気になったよ!クリスマスにはそっちに行くから、気にしないで」



『何度もニューヨークまで来させるの悪いし』


徳永さんは尚も言った。


『今度はオレがそっちに行く番』



「でも、徳永さん忙しいでしょ?」


松は言った。


「わたし、仕事の邪魔したくない」



『年始に休みぐらいとれるよ』


断固とした声。


『いつがいい?』




 ああ、どうしよう。


 徳永さんはこうと決めたら、絶対なのだ。自分のペースを崩さず、意思をどこまでも通そうとする。



「実は…その、お年始は用事があって」



『三日間とも、用事があるのか?』



「いや、三日間とも用事があるわけではないけれど」



『じゃ、そのうちの一日でもいいからあけておいてよ』



 どうしよう。何て言い訳しよう。



『いいだろ?』


と、返事をしない松にたたみかけるように徳永さんは言う。



「だ、だめなの。どうしても外せない用事があって、お正月は会えそうにないんだ」


松は言った。


「ほんとゴメン」



『一体正月早々、何の用事があるの?』


徳永さんは疑わし気に言った。


『旅行にでもいくの』



 お年始はお見合いが予定されている。


 松は、本当はお見合いなんか行きたくなかったけれど、母にお見合いを断りきれないでいた。徳永さんは、松がどんな用事があるのか、どうしても口にしないので、とうとう黙ってしまった。


 マズイ。


 まずい、まずい。


 このままじゃ、せっかく縮まった徳永さんとの距離に溝ができてしまう。




「あ、あの、お年始にお見合いしろって言われていて」


と、ポロリと言ってしまった。言いづらかったが、嘘をつくことはできなかった。



『お見合い?』


と言った声の語尾はしり上がりではなく、お見合いの文字を辞書で引いた時のような低い声だった。



「あ、あの。母が持ってきた話で、その、断ったんだけど、すごく勧められてしまって。本当はその、行きたくないんだけど」


しどろもどろに説明する。




 沈黙。




「母が、すごくいい条件で、めったにこない話だから会うだけ会えって、すごく言うもんで…」


 

 一体何言っているんだろう。徳永さんは、そこまで詳しく聞いていないじゃないか。



『いい条件って、どんな条件なの?』


と、低い声でたずねてくる。



「さぁ、学歴がいいとか、家柄がいいとか、勤めているところがいいとかそんな風にいっていたけど」


と、松は答えた。


「でもわたし、お見合いできないって母にはすごく訴えたんだけど」



『じゃ、何でお見合いするの?』


徳永さんはめちゃくちゃ低い声で言った。



「えっと」




 また沈黙。




『じゃ、質問かえるけど、何でお見合いできないってお母さんに言ったの?』



「好きな人がいるからって、そう言ったけど」


 

 徳永さんはなぜ、こんな質問をするんだろうか。


 あの日、空港で見送りに言った日に、松は、「徳永さんのことが好きです」って、はっきりと言ったはずなのに。



 電話越しに嘆息が聞こえてきた。



『分かったよ』



「え?」



『正月に行くのはヤメにする』


徳永さんは言った。


『大丈夫だよ。無理におしかけていって困らせることはしないから。クリスマスこっちに来てくれるんだろ?』



「え?ええ、うん」



『じゃ、予定しておくよ』


彼は言った。声色はもとにもどっていた。


『楽しみにしておく』



「え、あ、うん」


機嫌が直ったようでほっとする。



『夜景の見えるレストランも予約しておくよ』



「あ、ありがとう」



『こちらこそ、どういたしまして』


徳永さんは言った。



『じゃ、電話代かかっちゃわるいから切るね』



「はい、おやすみなさい」


と言って切った。が、向こうは夜じゃないことを、電話を切ってから気が付いた。




 松は、部屋の床に蹲るようにして座りこんだ。


 何か、サイテーな事ばかり口走ったような気がする。


 徳永さん、呆れちゃったんじゃないだろうか。


 せっかくのニューヨークでのクリスマス。楽しく過ごせるのか、物凄く不安を感じた。



 母親には、桐子と、ニューヨークにいる知り合いを尋ねてクリスマスを過ごすつもりだと嘘をついたが、二か月おいて再び同じニューヨークに行くというのに、別段何も言いはしなかった。


 前回も桐子と一緒だと言っていたので、問い詰められたらどうしようとあれやこれやと言い訳を考えたいが、それについても何も言わなかった。




 重い気分のまま、ニューヨークに向かった。


 二度目だったので、前回ほどストレスなく飛行機に乗れたが、徳永さんに会うまでが、いやにドキドキした。




 今回も、前回と同じく徳永さんのアパートのゲストルームに泊めてもらった。


 部屋に通されて一番初めにしたことは、ベッドの下をチェックして、前回ここにあったものがまだあるのかどうか確かめることだった。


 松は、膝をついて、かがみこんだ。暗くて見えにくかったので、床にほっぺたがくっつくぐらい体勢を低くして探してみたが、そこには、薄い埃がたまっているだけで、二か月前に松が見つけたあの化粧ポーチも口紅もなくなっていた。



 ガチャッ



 前触れもなく、部屋のドアが開き、徳永さんが入って来た。



「あっゴメン、ノックしたんだけど返事が聞こえなかったから」


彼は松のトランクをもってきてくれたのだ。



「あっいいえ」


松は慌てて、体を起こした。



「ベッドの下に何かあるの?」



「いえ、あの」


こんな妙な体勢でいるところを見られるなんて、我ながらドジとしか言いようがない。


「あの、前にここに泊まらせてもらった時に、忘れ物をしちゃったかもって思って」



「忘れ物?」


徳永さんは、松のスーツケースを丁寧に部屋に運びながら言う。


「何を忘れたの?」



「ええと」


なんて言ったらいいんだ。と言いつつも、嘘をつく勇気などない。


「前に、口紅をこのベッドの下で見かけて」



「口紅?」


徳永さんは言った。



「あの時慌てていたから、落ちていたのをそのままあった場所に戻しておいたんだけど、ひょっとしてあれ、わたしが落としたもんじゃないかなぁって、帰ってからやけに気になっちゃって」


我ながら下手な言い訳だ。



 徳永さんは自分もかがみこんでベッドの下を覗いてみてくれた。すごく奥の方まで懐中電灯を出して調べてくれたがやはり何も出てこなかった。



「口紅ねえ」


と、彼は頭をあげて言った。


「すぐに言ってくれたら見つけられたかもしれないけれど、ひょっとしたらハウスキーパーのおばちゃんが持って帰っちゃったかもしれないな」



「へっ?」


松はぽかんと口をあける。



「チョコレートの食べかけとか、Tシャツとか、目につくところにほったらかしにしていると、すぐなくなるんだよ」


と、彼は淡々と答えた。



 どうやら、あの化粧ポーチはお掃除のおばちゃんが持って行ってしまったらしい。徳永さんの無頓着な様子から、嘘をついているようには見えない。



「ごめんね、気に入っているものだったの」


徳永さんは言った。



「いえ、ただちょっと気になっただけなんで、なかったらそれで全然かまわないです」




 着いた日の翌日、松は徳永さんと夜景の見える高層階のビルのレストランで食事をしに行った。


 日本ではお見かけすることのできない素晴らしい夜景に目がくらみそうだった。


 松は、前回徳永さんがプレゼントしてくれた赤いドレスを着て、ショート丈の胸元があいているフェイクファーのボレロを羽織った。日本に帰って、寒い日にでも着られるように今日の日のために買い求めたものだった。



「よく似合っているね」


と、にこにこしながら言ってくれたのでほっとした。



「ありがとう」



「ここはね、日本人にも口が合うって評判の店でね。駐在員の御用達なんだ。味は保障するから、好きなだけ食べて」




 こういった上品な場所に似合う人とそうでない人がいると思う。


 スーツ姿の徳永さんが素敵なのは言うまでもないが、とにかく彼の立ち居振る舞いは別格だと思った。


 店員の接し方も、料理やお酒の注文の仕方も、ソツがない。外国育ちで、海外生活が長いのだから慣れていて当たり前なのだが、生まれながらのセンスってあると思った。


 勧められたお酒の中から、どれがいいのか思案している徳永さんの姿を横目で眺めながら、何だか、自分の方が場違いな気がして、何を喋っていいのやら無口にならずにはいられなかった。




「居場所のなさそうな顔しているね」


徳永さんはにやりと笑みを浮かべ、メニューを閉じてこちらを向いた。


「そんなつまらなそうな顔していたら、せっかくの綺麗なドレスがもったいないよ」



「だって、徳永さん、かっこいいから」


松は素直に言った。


「ついていけなくなっちゃって」



 かっこいい、と言われるのも彼にとっては珍しいことではないのだろう。彼は、別段照れもせずに、


「こういうのはね、慣れの問題なの。駐在員は日本からやってくるお客を接待するのも仕事のひとつ。ハナイエちゃんだって、回数をこなせれば、飽きる頃には板につくよ」


と言った。



 そんなものだろうか。と、返事もできずにボーっとしていると、


「それはそうと、英語頑張っている?」


いきなり話を変えられてアセってしまった。



「えっと、最近はサボっています」



「そうだろうね、そんな気がした」


 と言って、彼は笑ったが、いつものように「怠け者」とか、「何やってんの」とかそういった事は口にしなかった。



 その夜の食事は素晴らしかった。


 料理は美味しかったし、会話も楽しかったし、そして何より徳永さんがこれでもか、というぐらいカッコよかった。


 まさに目の保養というもの。


 なのに、どうしてだろう。前回と同じに、浮かれて地に足がつかないというのとは何か違っていた。時折のぞく、何とも言えない詮索するような視線をとらえようとした瞬間に、小鳥が飛び立つように、彼はどこかへ意識を飛ばしてしまうことがあった。



 デザートのスィーツが出ることになると、徳永さんはコーヒーを片手に黙りがちになった。




「この前、電話くれたでしょ」


彼はおもむろに言い出した。


「あれ、何で泣いていたの?」



「エっ?」


アイスをすくいあげる銀のスプーンが空中でとまる。


「別に泣いてたってわけじゃ」



「泣いてたよ。泣きたくなるようなことがあるから、電話したんじゃないの」



 

 やっぱりこの話題になったか。


 どうしようかと返答をしぶっていると、挑むような視線で見つめてきた。


 だめだ。徳永さんはこうと決めたら、絶対に意思を翻さない。聞きたいことがあれば、問い詰めることをやめないし、話題をそらされたり絶対しないのだ。




「あー、ちょっと親とモメちゃって」


松は、しぶしぶ認めた。


「よくあることなんです」




 徳永さんは、ジッとこちらを見ながら待っているようだったが、松が何も言おうとしないので、低い声で続きを促した。




「お見合いしろって言われたから?」


と、彼は切り出した。



「ええ、まぁ…はい、そうです」




 徳永さんはコーヒーカップのふちに唇をつけてゆっくりと飲み始めた。松はそれを見ながら、溶けてしたたり落ちそうになっているアイスのスプーンを口にもっていった。




「で、お見合いするの?」


と、彼は言った。



「したくないって言ったんですけど」


松は言った。



「したくないのに、するの?」



「やっても減るもんじゃないから、してもかまわないだろうって強引に言われちゃって」




 電話で交わしたのと同じやり取り。


 徳永さんは、今の話にちょっと眉間に皺をよせていた。きっとなんて横暴な親を持っているんだと呆れているに違いない、と松は思った。



 徳永さんはコーヒーカップを再び唇につけて、視線を窓の外の夜景の方に向けた。窓の影が彼の顔におちて表情を暗くみせた。眉間に小さな皺がよっていて、唇はかたく閉ざされている。





 彼は時々、こんな風に表情をかためて、心を閉ざしてしまうことがある。


 松は、本当は好きな人がいるからお見合いしたくないと母親に言った事を、ここでもう一度主張するべきだろうかと思った。けれど、それを言ってしまうと、曖昧なままにしていたふたりの関係に、なにかしらけじめをつけないといけない雰囲気になってしまいそうで、それが怖かった。



 自分はまだ、徳永さんから好きだと言われてはいない。


 付き合おうとは言われてはいないのだ。



 松は、お見合いの話なんかしなければよかったと、今になって後悔し始めた。親の気が済むように会うだけあって、断るのなんかいつでもできたかもしれない、と思った。




「で、お見合いするんだ」と、彼は言った。



「でも、わたしの意思じゃないし」


松はスプーンをおいて言った。



「でも、するんでしょ?」



「・・・・・・」




 徳永さんはコーヒーカップを置いた。




「じゃ、正月はそっちにいかないよ」


と、彼は言った。



「へっ?」



「こっちに二度も来てくれたお礼に、お年始はそっちに行こうかとおもっていたけど、お見合いの邪魔しちゃ悪いからね」



「え…?」


 

 どういう意味なのか分からない。


 お正月は、松がクリスマスに来なくていい代わりに、自分が日本に行くと言っていたけど、彼がいまだその気でいてくれただなんて、思いもしていなかったのだ。


 

 松は、顔をこわばらせて徳永さんを見ていた。


 彼の言葉に、意図的な意地の悪さを感じたが、表情はいまだ固まったままで、何を考えているのか読み取ることはできなかった。




「でも、わたし、断れなくて…」


と、言い訳にもならない言い訳を必死にする。


「母が、どうしてもって言うから、仕方なくするだけで」



「何言っているの、お見合いなんていい加減な気持ちでするもんじゃないよ」


徳永さんは厳しい口調になって、言った。


「相手にも失礼だろ」



「え…」


と、松は再び呟いた。



「君はまだ、特定の人がいるわけでなし」


徳永さんは平然としている。


「親御さんがどうしてもと言うのなら、きっと君のために言ってくれているのだから、無碍にしちゃいけない。是非した方がいいんだろうと思うよ」




 


 エっ、何?




 今、徳永さんの口から発せられた今の言葉が、津波のように頭の中に何度も押し寄せてくる。




“君には特定の人はいなんだから”




 その言葉が、予告もなく松の心に真正面から打撃を与えた。



 つまりは、目の前にいる自分もまた、君の特定の人間でないと、そう裏打ちするものであった。






 …徳永さんは、わたしのことそんな風にしか思っていなかったってこと…?




 だから、今までわたしのことを、好きと言ってくれなかったの…?





 では、ここに座っているわたしは何のだろう?




 松は自分が木像のように感じた。




 わざわざ日本からニューヨークへ、想われてもいない人の家に二度も泊まりに来た自分は、彼にとって何者なのだろうか?




 徳永さんから想われているかもしれない、と、高をくくっていた自分が、むちゃくちゃ無様に思えた。


 貧血のように頭がグラリとして、目の前が暗くなった。


 自分の座っている椅子から下が崩れて、これ以上まっすぐ座っていられないような気がした。



「今日は来てくれてありがとう」


 徳永さんは静かに言った。


「独り者の駐在員なんて寂しいものでね。ニューヨーク在住なんて見た目は華やかに見えるけど、賑やかな都会っていうものは。満員のホテルみたいに寂しいものでさ、こんな人の多い所でひとり寂しく暮らしていると、知人に訪ねてきてもらえることがやけに嬉しくってね。二度も続けてきてもらってしまって、ハナイエちゃんにはつい甘えてしまったな」



「いえ、わたしはそんな」


松は、掠れた声で言った。



「まぁ、仕事にかまけていれば、寂しいと思う暇は、本当はないんだろうけど」


そう言いつつも、徳永さんは寂しそうに微笑んだ。


「幸運なことに、これからはもっと仕事が忙しくなりそうなんだ、ハナイエちゃんに何度も遊びに来てもらえたお陰で、充電できたよ。これからは仕事にうちこめると思う」



「そうですか、よかったです…」


と言った松は、自分の声が本当によかったと思って言っているのか分からなかった。



「本当に」


徳永さんは言った。


「来てくれてありがとう」



 まるでゲームオーバーと言わんばかりの幕切れだった。


 徳永さんが自分を求めてくれないということ、その事実を目の前に突き付けられて、松は、どうにも身動きとれなくなってしまったのである。




 その後、どうやってレストランを後にしたのか、松は覚えていない。


 徳永さんの部屋に戻った後も、いつもと同じ様に彼と接しつつも、松の胸はショックで押しつぶされそうだった。



 翌日、徳永さんは、前回と同じに空港まで車で送ってくれた。



「元気でね」


と、彼は言った。


 前回にここでお別れを言った時は、いつぞやの空港での別れの時のように、ギュッとハグして別れを惜しんでくれたが、彼はにっこりと笑うだけだった。



「来てくれて、ありがとう」


と、彼は再び言った。



「こちらこそ、お世話になりました」


と、松も言った。




 松は、手を差し出した。


 ふたりは握手をして、そのまま別れた。





 日本に到着して、すぐに無事に着いたことを知らせるメールをしたが、返事がなかったので、向こうが夜になる時間を見計らって、こちらから電話をした。




 松は、お見合いをすることになったので、彼はそれに対して単に怒っているだけなのではと、自分に都合のいいように考えようとしていた。


 どうしても、言い訳がしたかった。必要とあらば、彼が機嫌を直してくれるとあらば、母がどんなにか勧めてもお見合いを断ろうと思ってもいた。




 通話ボタンを押して耳を澄ます。


 コール音が聞こえてきた。電話をとってくれなかったらどうしよう?




 幸い数回のコールで、徳永さんの声が聞こえてきた。無事に到着した旨を伝えると、メールは日中忙しくて返事ができなかったのだと彼は言った。



「あの…」


松は言おうとすると、徳永さんが遮るように言い始める。



「これまでは頻繁に毎日メールしていたけど、それもできないんだ。忙しくなりそうで、時間がとれなくてね」



「えっ、あ、はい」



「しばらく仕事に集中することになると思うんで、また、遊びに来てもらっても、付き合えそうにない」



「・・・・・・」



「電話もできないと思う」


と、彼は言った。


「掛けてきてもらっても、出られないかも」




 ここまで言われると、松を意図的に避けようとしているのが強く伺える。


 わたしだって馬鹿じゃない。


 松は、自分が彼にとって邪魔な存在になっているのだと思った。


 もはや好かれていないのだと悟った。


 こんな風に、気持ちを固めている人に何を言っても無駄な気がしてきた。




「そうですか」



 せっかく、手間暇かけて築いた間柄も、ほんのちょっとしたボタンの掛け違いでこんな風になるのかと思うと、虚しいとともに、情けなくなって涙がでてきそうだ。



「分かりました」


と、松は言った。





 その後徳永さんは、忙しくなる仕事の内容を詳しくつらつらと話していたが、右から左だった。


 別れ話にこれ以上電話代をかけるのはもったいないように思われた。


 いつもは甘いはずの低い声も、虚しく響いて、味気なく感じられた。




「じゃ、今後は、わたしも電話もメールも控えます。お仕事、頑張ってください」


と、松は言って切ろうとしたが、



「あのね」


予想外に、徳永さんの方から引き留めてきた。



「はい?」



「この前、最後に言ったと思うけど、親御さんが勧めてくれるのなら、君の幸せを考えてのことだろうと思う」



「何の話ですか」



「お見合いの話だよ」


徳永さんは言った。


「君はまだ若いんだし、色んな人と会った方がいいと思うってそう言っているんだよ」





 松は息を止めた。何という言い草だろう。


 敢えて今、こうやって念を押すというのは、釘をさされたということなのだろうか。


 徳永さんは、やっぱり私の事、そう言った対象で見てくれていなかったのだ、本当にダメだと彼は言いたいのだ。いっそキライと本気で言ってくれたらいいのに。




「気にかけて下さって、ありがとうございます」


徹底的に打ちのめされた松は、悔し涙を浮かべることしかできなかったが、泣いていることを気取られたくなかった。


「お言葉、ありがたくうけとっておきます。じゃあ、これで」


と、わざと元気のよい声を出した。落ち込んでいると思われたくなかった。




「元気でね」



「さよなら」




 電話は切れた。


 なんとも言えない気分でベッドを背に床に座り込んだ。



 松は、出会ってから今までの、徳永さんとの短くて数少ない思い出を回想した。


 色んな事があったように思うけど、所詮半年の間のことだった。


 たったの半年。

 

 彼との間に何か強く結ばれるような絆があっただろうかと探してみたけれど、これといったものは何もみつからなかった。




 しばらくぼーっとしていた。


 部屋の床に、ニューヨークから持ち帰ったトランクが目の前の床に寝転がっている。


 重い腰をあげて、荷物を整理し始めた。中から、レストランに着て行った赤いベルベットのドレスと、フェイクファーのボレロが出てきた。くしゃくしゃになったそれを両手で広げて眺めてみる。これを買ってもらった時のブティックでの風景が蘇ってきた。

 


 徳永さんが、「似合うよ」と、感嘆の眼差しで言ってくれたこと。その時のドキドキした気持ち。本当に幸せだった。けれど、あれすら、あの時の気持ちですら、真実でなかったのか、あの時の彼の包み込むような好意が、松が想像していたより、ずっと軽いものであったのだと思うと、腹が立つと同時に無性に悲しくなってきた。




 高価なドレスを買ってもらって浮かれていたあの時の自分が馬鹿に思えた。



 結局、彼は、恋愛初心者の反応を見て、楽しんでいただけなのだ。




**

 


 クリスマスソングがナリをひそめ、正月ソングが鳴り響く年末の慌ただしい、都会の一角。松は、チョコレート菓子を口にしながら、友人桐子のハレの日のドレス姿を眺めていた。



 桐子はつい昨日、華々しく寿退職を果たし、松が世話役になって送別会を開き、彼女を送り出した。


 友人の幸せの門出を見送ることは、まだ若い松にとって曇りのない喜びを感じさせてくれるものである。


 が、ついこの前まで、自分も桐子と同じような幸せが、自分にも無縁なものでないのかもしれないと、徳永さんと共に訪れた現実的な夢は、夜空に咲く花火のようにあっけなく消えてしまい、今の松は、徳永さんと出会う前の、男性に興味のないただのオクテの女に戻ってしまっていた。




「遠距離って、微妙だね」


話を聞き終わった桐子は、心の底から残念そうな口調で言った。


「たとえ遠距離でも、まだ日本の中での話だったら事情が変わっていただろうに、ニューヨークと日本じゃね。どんなに気持ちがあっても、距離の問題でうまく行かなくなることがあるし。徳永さんが離婚したのもそれが原因だったんでしょ?」



 試着を終えた桐子が試着室から出てきて、同情をこめて松を慰めた。


 聞いたことのある話だ。


 海外出張や駐在の多い徳永さんは、奥さんと何かとすれ違が多くそれが原因で離婚に至ったと人づてに聞いている。




「まぁ元気だしなよ」


桐子は隣にすわって、松のチョコ菓子の袋に手を伸ばして明るく言った。


「期待していた分、失望も大きかったと思うけど、たかが一度のお見合いの話をしただけで、電話もしてくれるななんて、だいぶ極端だと思う。

 向こうがそういう態度に出て来たってことは、結局徳永さんも、ショウの期待通りの男じゃなかったってことなんじゃない。

 ウジウジと悩んで、待ち続けているより、スッパリと諦めをつけて新しい人とつきあう方が、あんたのためになると思うんだけど」




「新しい人と、つきあうか」


そう言われても、当の本人は、なかなか前向きになれない。


「そんなに簡単に次の人に出逢えるかなぁ」



「そりゃあさ、徳永さんは稀に見ないレベルの持ち主で、めずらしく松の好みに合う人だったかもしれないけれど」


桐子は言った。


「まだ二十三歳じゃない。恋愛できる機会も時間もまだまだ沢山あるじゃない。一度や二度の失恋で落ち込んでいてどうすんのよ。ここは徳永さんのいう通り、新しい人とうんと逢って、新しい恋をするのもいいんじゃないの?」



「そうかなあ」



「そうよ、案外あっさり次の恋しちゃうかもよ。とにかく、気持ちに区切りをつけなよ。”命短し、恋せよ乙女”って言うでしょ。その、親のお勧めのお見合いの相手に期待しても悪くないじゃない。その人の方が、徳永さんよりずーっと気が合うかもしれないんだしさ」




 桐子がやたらと次の恋を進める理由は、彼女自身がやけに徳永さんを買っていて、松に彼を勧めていた過去の経緯があったからであろう。


 せっかくハッピーエンドを迎えたと思った矢先、このような結果になって、気にしているのだろうと松は感じた。


 そんな桐子の気遣いに、松はわざと声を明るくして言った。



「そうだね、新しい出会いも悪くないかも」




 本当にそんな日が来るのか、松には、何の希望もなかった。


 むしろ、徳永さんに嫌われてしまったことがショックで、新しい恋なんてしない方がいいやとさえ思っていた。




<2.イケメン登場> へ、つづく。







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