18.難破船の行方
18.難破船の行方
「春…?」
「そ、春。兄貴にもやっとそういう人が現れたのかとあの時はそう思ったんだけど」
「で、でも」
松は信じられない思いで確認してみる。
「元の奥さんがいたでしょ?その人とは」
フィラデルフィアに定住して記者をする、知的な女性。
あのエスティーローダーの口紅の似合う女性なんだから、きっとものすごく素敵な人だったに違いない。
私以上に仲良かったんじゃないのだろうか。
「ああ、別れた奥さんね」
カイ君は言った。
「あの女は、親父の借金を肩代わりしてくれた親父の友達の娘なんだよね。アメリカに居ていた頃からの幼なじみで、日本にも一緒に帰ってきてしばらく兄貴と同じ学校に通っていた。兄貴があの女に本気だったのかどうかは聞いたことねぇけど、兄貴にとっちゃ、楽な相手だったのかもしんねぇな。ウチの家の事情も借金をすることになったいきさつも全部知っていて、隠すことなんて何にもない間柄だったから」
「じゃ、どうして別れることになったの?」
「それは、本人に聞かなきゃわからないけど…」
カイ君は言い淀んだ。
「お互い仕事を持っていて、ずっと転勤転勤で離れ離れだったからじゃねぇかな。でも、一番は、やっぱりほったらかしにされても大丈夫って思われたところだと思う」
「ほったらかしにされていた?」
「兄貴は、家庭的な温もりみたいなモンに弱いんだよ。外国に駐在が決まった時は、ついてきてほしかったと思う。だけど、相手も仕事を持っていたから、無理だったんだよな」
「家庭的な温もり…」
松は、さも重要そうにそのキーワードを繰り返した。
「兄貴は、自分に厳しくて背負っているものも多かったから、本当は、弱さをさらけ出せる所が欲しかったんだと思う」
それを聞いて一層落ち込む。
彼は決して松に弱さをさらけだしたりしなかったからだ。
いつも完璧に紳士然として、隙のない所作で、いつも松を優しく包みこもうとしたがるのだ。
「家庭的っていう時点で、わたしはアウトだわ…」
松は頭をかかえて呻いた。
「あ?なんでだよ」
「ウチの家族は、全然家庭的じゃないもん。少なくとも徳永さんに対して評価キビシイし」
「やっぱお前アホだな」
カイ君は馬鹿にしたように吐き捨てた。
「兄貴が選んだのはお前だろ?お前の家族と結婚するんじゃあるまいし」
「わたしだって、全然家庭的じゃないよ」
「でもお前はよ、ニューヨークまで自分から会いにいったじゃねぇか」
「あ…」
「それも二度も」
「・・・・・・」
「もう一回行ってみたら?」
「そ、そんな。今度追いかけて言ったら、それこそストーカーだよ」
「兄貴の前の嫁はな、兄貴が離婚しようって言った時は、めちゃくちゃ抵抗していたけど、結局は、離婚に応じたんだよ。なんでだと思う?」
「さあ、なんで?」
「追いかけてこなかったからさ」
「・・・・・・?」
「兄貴は寂しかったんだ。追いかけるのはいつも兄貴の方だった。休みがとれたらまず兄貴が嫁の所にいっていた。嫁が駐在していたフィラデルフィアに一番近いニューヨークに希望を出していたのに、それにもかかわらず嫁の方は、自分のキャリアを優先して、一か所に定住し続けて、自分から動こうとしなかった。兄貴の意見は二の次にしていたんだ」
「そうなの?」
「オレは前からあの女が嫌いだった。結局自分の父親がオレらの親父の借金を肩代わりしている事に、あぐらをかいているんじゃないかって、そんな態度がミエミエだったから。オレには、あの女が、兄貴を軽んじていているように見えた。兄貴の方がいつも下手に出ていたんだ」
そうなのか、そんな人だったのか、とほっとする反面、それは、考えすぎじゃないの、とも一瞬思った。徳永さんが選んだ人が、そんな冷たい女性だっただなんて思いたくないからだ。
「兄貴はあの嫁にずっとふりまわされていたんだよ」
カイ君は嫌そうではあったが、はっきりと結論づけた。
「だから、兄貴としても、あの嫁の父親に肩代わりしてもらった借金は、一刻も早く返したかったんだ」
「そっか…」
「だからよ」
「うん」
「お前、諦めんなよ。兄貴は、拗ねているだけなんだって。本当は追いかけてきてくれる事を望んでいると思う。来てくれるのを待っていると思うぜ」
そうだろうか。
だいたい、拗ねて相手の気を引くだなんて子供のすることではないだろうかとも思うけど。
「でもさ」
しばらく間を置いて松は言う。
「たとえカイ君がどう言ってくれても、徳永さんから追いかけてくるなって言われたからには、わたし、ニューヨークなんて遠い所まで行けないよ」
「お前、オレの話ちゃんと聞いていたのかよ?」
お前はアホか、と言いたげな表情。
「それともオレの話を信用してねぇのかよ?」
「聞いていたし、信用もしているわよ。だけど、だけど」
松はどうもスッキリしなかった。
弟の口から語られたと兄の姿。
徳永さんの経験してきた過去の出来事は、松が想像できそうにないほど、辛くて大変なものだった。だた…
「だけどなんだよ?」
カイ君はイライラしはじめた。
「徳永さんは、カイ君からわたしに弁解してほしいって言ったの?」
「え?」
「自分の言えなかった事を、あなたから説明してくれって、そう言ったの?」
「お前なんだよ、オレの話を聞いて兄貴に愛想つかしたのかよ?」
カイ君は不安にかられたのだろうか、腹立たし気な口調になった。
「そうじゃないよ。愛想なんてつかしていない」
むしろもっと徳永さんの事を知りたくなった。だけど今松が言いたいことはそういうことではなかった。
「そうじゃなくて、徳永さんのことを、徳永さん本人からではなく、弟のカイ君から聞かされたって事がポイントで」
「え?」
「徳永さんは、決して、弁解したくなかったんだと思う」
松は言った。
「・・・・・・」
「言い訳したくなかったんだと思う。黙っていたっていう事は、そういう事だったんだって思う」
「じゃ、オレがした事はお節介だったってことなのかよ?」
「弟の立場で、よかれと思って言ってくれたんでしょ?それはありがたいことだと理解しているよ。だけど、事情を知ったからと言って、無暗に同情するなんてそれは失礼なことではないかしら」
もし、松が逆の立場だったら。
自分の知らない所で、親切心からとはいえ、第三者が松の弱点を話されれば、よい気分ではいられないだろう。
「お前ら、似た者同士なんだな」
カイ君はぽつりと言った。
「え?」
「兄貴とお前。プライドが高くて、意地っ張りなところ、良く似ている。事情がわかったんなら、さっさと会いに行きゃいいだけだろうが。いったい何が問題なわけ?」
カイ君は呆れたように深く息を吐いた。
「問題なんて何もないよ」
松は寂し気に答えた。
「ただ、これがわたしと徳永さんとの距離感なんだとわたしは思う」
「距離感?」
「お互いの事をちゃんと二人で話し合えなかった。心の距離を縮められなかった。だから、離れ離れになってしまったんだと思う。日本とニューヨーク。海を隔てて遠く離れたこの実態が、わたしと徳永さんとの正しい距離感なんだと思うんだよ」
「…小難しいことを言うんだな」
「そうかな」
「そーゆー理屈っぽい所も、兄貴と似ているけど」
「ありがとう」
何に対して礼を言っているのだろうか。
「ま、どうするかは本人が決めることだけどよ」
カイ君は、表情も声色も落ち着いていた。
「後悔するような事だけはすんなよな」
「そうだね」
「オレも、今言った事、お前に言うか言うまいかだいぶ迷ったけど、やっぱ、何も言わずしてサヨナラしたら、それこそ心残りになりそうで」
「サヨナラ?どっかいくの?」
「この度めでたく高校を卒業したんで、大学に進学するんだよ。来週、東京に行く」
「東京?」
「またバイトしながら、兄貴の援助を受けての生活になるけど、まあ、出世払いって事で、今は真面目に学業に集中しようと思っている」
「…そっか。ええと、おめでとう」
「ありがと」
そう言って、カイ君はいつか徳永さんがしたように唇のコーヒーの泡をぬぐった。美しい指先は兄とそっくりだった。
「オレが日本に居る限りは、兄貴と繋がりがあるから、兄貴と話したくなったらいつでも連絡してきたらいい。でも、オレは、チャンスっていうのはいつでも目の前にあるものじゃねぇって思っている。本当に後悔したくないのなら、すぐにでも連絡するのがベストだと思う。なんなら今、電話をしてやってもいい」
そう言って、カイ君は、自分の携帯を水戸黄門の印籠のように掲げてみせた。
「どうする?」
松は、カイ君の真っ黒な携帯を凝視した。
それは最後残された、徳永さんとの唯一の架け橋のように思われた。
松は徳永さんの事がまだ好きだった。
前より好きになってしまったかもしれない。
だけど―――
五分程、ふたりは無言のまま見つめ合っていた。
その間、電話をかけるかかけるまいか、激しい葛藤が松の心の中で繰り広げられていた。
「徳永さんに会いたい、会って、徳永さんに思いのたけを聞いてもらいたい」
という熱い情熱に
「もっとよく考えなさい」
という理性の声が、必死に呼びかけていた。
「彼の心の中を想像してみなさい。彼は今、本当にあなたの訪問を望んでいるの?押して押しまくるだけが、正解ではないのよ」
と。
カイ君は、「タイムオーバーだな」とつぶやくと、静かに椅子から立ちあがった。
「オレ、もう行かなきゃ」
彼は言った。
「バイトがある。今日がこっちでの最後のバイトになるんだ。来週向こうに引っ越して、また新たにバイト始める。ま、今度は兄貴にたよれねぇから、自分で探さなきゃななんねぇけど」
「そっか」
松も合せて立ち上がる。
「オレも、早く、兄貴に世話かけずに自立してぇな。でも、今がふんばりどころだから、四年の間、我慢して真面目に勉強するよ」
「頑張ってね」
「お前もな」
そう言って、ふたりは店の前で別れた。
カイ君は、最後は笑顔で見送ってくれた。
目じりの寄せた皺が、印象的だった。
松は、徳永さんそっくりなカイ君の後ろ姿を見送った。
彼と再び会う事があるだろうかと、心の中で呟きながら。
だが、そう長い期間をおかずに松は、意外な事件をきっかけに、彼に連絡することになる。
あんな事が起ろうとは、その時は、思いもよらなかった。
その週の金曜日。
泊まりで遊びに来ないかと桐子から誘われて、松は、初めて彼女の新居を訪問していた。
桐子は、松を家に招き入れると、開口一番
「旦那は実家方面に出張で、向こうの家に泊まってくるから、今夜は思い切り二人で飲み明かせるわよ」
と、嬉しそうに言った。
「出張?今日は帰らないの?」
「うん、鬼の居ぬ間に何とやらよ。今夜は、久々に女二人で羽伸ばしましょ!」
そう言って、桐子は嬉しそうにテーブルの上に食事やらお酒を準備し始めた。松は手伝おうと立ち上がったたが、
「お客さんは座っていてよ」
と押し切られ、松は言われた通りに大人しくリビングの床の上に座った。
明るい白の壁紙に木目調の家具、床には柔らかいベージュ色のラグが敷き詰められていて、ガラスのテーブルの上には小さな花瓶に小花とアイビーが生けられ、サイドボードには数冊の本と雑誌と共に、結婚式の時の写真がクリスタルの写真立てに美しく飾られていた。
何もかも新しくて初々しい感じの部屋。
新築のアパートは塗り立てのペンキの香りが微かに漂っていた。
桐子は食事や飲み物、おつまみなどを準備しながら、対面式のキッチンからリビングにいる松に何度も何気ない声で話しかけてくる。
陽気な話しぶりではあるが、彼女が松に気を遣っている事は丸わかりだった。
彼女は、電話で、その後、松の身の上に何があったのかを粗方聞いて知っていたのだが、報告して来た時の、松のあまりの落ち込みように、彼女は、いたく心を痛めていた。
桐子は秘蔵の洋酒までも持ち出して来て、
「ふたりでこっそり飲んじゃおうね」
と、氷とロックグラスまでも準備し始めた。
「それ高いんじゃないの?」
松のような酒に無知な人間でもわかる、飲んだら口が腫れそうなほど高そうなネーミングの酒の瓶。
「いいのいいの、どうせ旦那のだし」
桐子は悪びれもせず綺麗な琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「だったら、私が飲んだりしたら、よけいに悪いじゃん」
「大丈夫よ!後で水を足しておけばバレないから」
可愛くウィンクしながら彼女は言った。
気をつかっているのかな。
ひょっとしてタケシ君も、ふたりが気兼ねなく話せるように、遠慮して家をあけてくれたのかもしれない。
何気ない心遣いに感謝しつつも、そんなに落ち込んでいるように見えるのかと思ってしまう。
(秘蔵の酒を飲んだ事を)バレた時の事を考えれば、恐ろしいけど、桐子がとても飲みたそうにしているのにのっかって、松は、知らぬ存ぜぬを通すことにした。
そんなこんなで、女ふたりの酒宴が始まった。
出だしは、桐子が主に喋った。
新婚旅行や、その後に始まった新生活、旦那の愚痴&ノロケ話など。
桐子がまだ会社に居た頃は、恋愛や仕事の話の他は、ファッションや化粧品、評判のレストランや美容のこと等、他愛のない話題が殆どだったが、今はもっぱら、家賃や、光熱費は一月いくらぐらいかかるのだとか、お互いの実家の両親との交流に気を使うとか、隣近所とのつきあいだとか、殆どがお金に関わる事とリアルな雑事ばかりで、全くと言って程色気がない。
あまりに夫であるタケシ君の影が薄いので、
「タケシ君とはうまくいっているの?」
と、心配になって聞いてみたほどだ。
「うまく行っていないことないよ、っていうか、いっていないわけないじゃん」
と、桐子はあっさりと答える。
なんで、そんなに断言できるんだろうかと、と松は不思議に思う。
「共同生活だなんて、大変な事ばっかりなんだもん。好きな人とじゃないと乗り越えてなんていけないよ」
「そっか、あんた達、仲良いもんね。喧嘩とか想像できないし」
「何言ってんの、喧嘩ぐらい普通にするわよ。いくら長い付き合いとはいえ、お互い初めての事だらけなんだし」
「でも、すぐ仲直りするんでしょ?」
「そうだね。っていうか、あまりにも色々と大変な事がありすぎて、喧嘩している事も忘れてしまってるって感じ。
今朝だって、昨日の夜、喧嘩した後寝ちゃったんだけど、いつもお願いしている朝のゴミ出ししてくれないかもと思って早起きしたらさ、すでに起きていてだしてくれてんの。
ありがとうって言ったら、何でお礼言われているのか分かんないって顔になって、一秒ぐらい間があってから『アレ、オレ、お前に腹を立てていたはずなのに、忘れていた!』なーんて言ってんの。
で、私が『いや、お陰で助かったよ』って言っても、『よくない、ゴミ、出してしまった、畜生!』ってさ。
で、『じゃ、お弁当持って行くのやめる?』って言ってやったら、『いや、忘れついでに持って行く』ってプリプリしながら鞄につめていったよ。
あの調子じゃ、何が原因で喧嘩になったのかも記憶にないかもね」
「えー、何が原因だったの?」
「昨日さ、オセロをしていて、八回連続であっちが敗けたの」
「は?オセロ??」
「あたし、オセロ強いの。勝てるコツを知っているから誰にも負けた事ないって、いったら、そんな事はあり得ない、絶対勝ってやるから向こうからやろうって言いだしたもんで、つきあってあげたんだけど、案の定、絶対勝てないわけ。しまいに『こういう場合、妻っちゅうもんは夫に遠慮して、負けてあげるもんだろ』って怒り出して」
「ぷっ、何ソレ」
「ホント馬鹿よね~」
桐子はケラケラ笑いながらグラスを傾ける。
「最初っからあたしは絶対負けないからって念を押したでしょ、わざと負けたって意味ないでしょ?って何度言っても聞きやしない。そればかりか、男のプライドを傷つけられたような顔して、だんまりを決め込んじゃってさ。まぁ、ヤツは数学科の出身だから、それなりの自負心があって引っ込みがつかなかったんだろうけど。それでもさ、たかがオセロだよ?昨日はさすがにこっちも腹たっちゃって「いい加減機嫌直しなよ、子供じゃあるまいし」って言い返しちゃった。ああいうのはやっかいだよ~。しかし、あそこまで勝ちに拘るとは思わなかったよ。結婚して初めて知った」
男のプライド。
勝ちに拘る。
そう言えばカイ君も徳永さんはプライドが高くて拘るタイプだって言ってたっけ。
一緒に居ている時は全然気が付かなかったけど、男の人って、やっぱりそういうもんなんかな。
松は、松の知っているクールで静かに淡々と語る彼女の夫のタケシ君と、親友の桐子の新婚生活を想像してみた。
お互い良く知りつくている者同士でも、結婚してから初めて分かることもあるんだな。
「結婚生活なんて、やってみないとわからないもんなんだよね」
桐子は言う。
「共同で解決していかないといけないことばっかりで」
桐子の実際的な意見にそうかと頷く。
「でもね、どんなつらい事があっても、どうにかやっていけていけるのは、相手を尊敬しているからなんだよ。そうでなかったら、一緒にいたいと思わないよ」
尊敬か。
松は、桐子の言葉を自分に当てはまるだろうかと考えた。
松は、徳永さんを好きだった。
尊敬しているかと言われれば、もちろんイエスだった。
あれほど素晴らしく、誇りに思える人は未だかつてなかったと思う。
では、徳永さんと自分が、桐子とタケシ君夫婦のような関係を彼と築けるだろうかと思うと、曖昧な想像しかできない。
オセロに勝てずに拗ねてしまい、翌朝、喧嘩している事を忘れてゴミ出しをしてくれる徳永さんの姿を思い浮かべてみる…
だ、だめだ。全然似合わないよ。
「だからさぁ。結婚たって、そんなにいいことばっかりじゃないって事」
黙り込んでしまった松を気遣うように桐子は言った。
「付き合っている時みたいにお気楽じゃいられないの。以前はくっついてラブラブして、未来を夢みていりゃよかったけど、結婚したら、現実の生活が始まるんだよ。意見の相違もあれば、喧嘩になることもあるし。甘い事ばっかりじゃないんだよね。だから、逆に言えば、どんなに小さな事でも、絶対相容れない所が、一か所でもあったら、うまく行かなかったりするんだよ」
「・・・・・・」
「あたし達みたいな、お互いの事を何でも知り尽くしている長いつきあいでも、いざ結婚したらそんな風に感じるんだもん。あんたと徳永さんなんて、まだまだ知り合って間もないんだし。だから、そう落ち込むことないじゃない。逆に言えば、そんな状態で結婚しなくてよかったのかもしれないし。それでも、ご縁があれば、また、お付き合いできる日が来るかもしれないし」
「またお付き合いか…」
松は呟いた。
「ホントにそんな日、来るのかなぁ」
「人生、うまく行く時ばかりじゃないよ。わたしだって、タケシとは絶対ダメだっていう時期、結婚する日が来るだなんて思いもしない時が何度もあったしね。だからこそ、今こうやって、一緒にいられるだけで感謝できるんだけどさ」
「感謝?」
「うん、喧嘩して何年も話さない期間もあったんだよ。あの時の寂しさに比べたら、今はほんっと感謝してもしきれないと思っている」
「感謝か」
「そう、ささやかな幸せがありがたいなってそう思うの」
松は、桐子の言葉を噛み砕いた。
「じゃあ、わたした今、こんな風になっちゃったのは、感謝が足りなかったのかなあ」
と、松は、独り言のように呟いた。
「徳永さんとうまくいかなかったのは、感謝が足りなかったのかなあ」
「え?」
「わたしは徳永さんに対してものすごく傲慢だったのかもしれないって最近はそう思うんだ」
松は徐に言い始めた。
「彼を、すごく自分に都合のいい存在に思っていたのかもしれない。
徳永さんという人は、お伽話なんかでよく出て来る、白馬にまたがってやってきた救世主かなんかで、自分の理想を叶える理想の王子のように見ていただけなのかも。
イケメンで、高学歴で、一部上場企業に勤めていて、帰国子女で中国語と英語をあやつれて、ニューヨーク支社で大型プロジェクトを手掛けていて、バリバリと仕事をこなすと噂されていて、エライ人物からの評価が高くてさ。
そんな完璧な人から好意をもたれて、結婚を申し込まれて天にも昇るような気持ちになっていた。
彼のような完璧な王子なら、見目麗しい人なら、社会的地位の高い彼なら、そしてこんなにも優しい人なら、わたしの不幸せや、不遇な人生を理解して、救ってくれるって、馬鹿みたいに信じて疑っていなかったのかもしれない」
お酒で少し朦朧としているのだろうか、松の舌は、思っている事を深く考えもせず、水が流れるように口からすべりおちてゆく。
「信じて疑っていなかったって」
桐子は不思議そうに眉をひそめた。
「過去形なの?じゃ、今はそうじゃないって、あんた、そう思ってたりするの?」
「え?」
桐子の問いに、松は首を傾げた。
「ひょっとして、今は、徳永さんのこと、見込み違いだったって思ってんの?」
と、桐子は言った。
見込み違い?
そうなのだろうか?
つらつらと思ってみたことを口にしは見たけれど、そう尋ねられて、松は改めて考えてみる。
徳永さんの事を見当違いをしたのだろうかと、松は何度ともなく自分に問うてみた。
徳永さんとは、本当は、見た目通りの高潔な人格者などではなく、どこにでもいる平凡なサラリーマンだったのだろうか?
弱い人間には優しいけれど、すすんで善行を行う徳のある人間ではなく、強い者にすごまれたら大人しくまかれ、台風のような圧力にさらされれば、さっさと逃げだしてしまうような弱い人間だったのだろうか?
だから、ガラガラ蛇のように有害な母の毒舌に、尻尾を巻いておめおめと退散してしまったのだろうか?
最後の別れ際の時も、松との事など、まるで好きでなかったの如く冷たく振舞ったのだろうか?
「そんなわけないよ。そんなわけないじゃない。わたしのために、わざわざニューヨークから出張作ってきてくれたんだもん。見込み違いだなんて思ってないよ」
松は首を横に振って、一生懸命否定した。
「結婚して一緒にニューヨークに行こうって言ってくれたんだもん。喧嘩した次の日も、帰国を一日送らせて、ウチの家に挨拶に来てくれたんだもん。見込み違いどころか、それ以上の人だったんだと思ったよ。わたしが残念に思ったのはそうじゃなくて」
そう言って松は、大きく息を吸いこんゆっくりと吐きだした。
「わたしが彼を見込み違いをしたのではなくて、わたし自身が、彼のそう言うところに少しも気づかなかったって事に気が付いて自分に失望したのよ。要は、わたしの方が馬鹿だったって事」
「え?」
「わたし、話をしようとしなかった」
松はぽつりと言った。
「前に、桐子言っていたでしょ?つきあいだしたらお互いの事もっと喋りあうものでしょ、って。
なんでもっと、本当の彼の姿を見る努力をしなかったのかって。
今になって、思い知らされるよ。
彼の外見だけでない、彼自身をなぜ、もっと知ろうとしなかったのかって思うんだ。
彼の家族構成も、彼の趣味も、スポーツの好みも、どんな学生時代を過ごしてきたか、どんな友達にかこまれてきたのか、どんな彼女とつきあっていたのかとか、別れた奥さんとの馴れ初めなども、知ることはもっともっとあったはずだったんだと思う。
徳永さんは隠したがっていたから、尋ねても、教えてくれなかったかもしれないけど、やはり徳永さんを大事にしたいと思うのなら、もっと知る努力をするべきだったんだって、今になって思うの」
桐子は松の真剣な顔をじっと見つめていた。
「でもさあ、結局、それをしなかったって事は、わたしの方こそ、自己保身に走っていたからなんだよ」
「そうなの?」
「今思えば、瀬名さんのお付き合いの返事を保留したのは、徳永さんとの事が本当にダメになった場合を想定していたからなんだよね。
それに、母が、徳永さんの家庭的な事情を嫌って、彼自身を低く見下している事を、知られたくなかったって気持ちもあった。
それは、多分、彼を傷つけたくないという立派な思いだけではなかったんだよ。―――閉鎖的で、差別主義的な考え方を持つ家族がいることを、彼に知られて、嫌われたらどうしようって、ふられたらどうしようっていう、自己中な気持ちがあったんだ。
そう言った自己保身的な気持の方が先にたって、徳永さんとの距離を縮める努力を怠ってしまったんだよ」
そうだ。結局自分本位だったのだ。
松は、子供の頃に、男子生徒からからハナゲとよばれてからかわれたり、男友達からもらったラブレターをクラスメイトに見せて彼に恥をかかせたり、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで卒業式に好きな人からボタンをもらいに行って補助ボタンしかもらえず、神崎君にフラれた時と同じように嫌われて避けられた時のように、彼から嫌われるのを恐れたのだ。
松は恥ずかしさのあまり、歪んだ顔を両手で顔を覆った。
何ていうことをしてしまったのか。
自分が馬鹿で能無しで、人の心なぞすこしも想像せず、自分の気持ちばかりを見てきた自分が恥ずかしくてたまらなかった。
自分で自分をぶん殴ってやりたかった。
「・・・・・・」
桐子は、眉毛をハノ字にさせて、気の毒そうに松を見ていた。
「後悔先にたたず、かな…」
松は、テーブルに視線を落として諦めきったように言う。
もっと酔いたくてグラスを傾けた。
霞んだ視界に、意識をとばしてぼんやりとする徳永さんの姿がふと見えたような気がした。
彼の精神はどこをさまよっているのだろうと松は何度も思ったものだ。
その時の彼は、元の美しい顔はナリを顰めて、能面そっくりになる。
時には、不細工に表情を歪めることもあった。
あの時どうして気が付かなかったのか?
どうして、尋ねなかったのか?
ああ!あの時、わたしがもうすこし勇気があったのなら。
もうすこし冷静に彼の事をみていられたら。
もうすこし、彼の変化に気付けていたのなら。
「あの時、結婚を焦って、母に会って欲しいと言いだしたのはわたし方だもん」
松は、クダを巻くように言い続ける。
「徳永さんは、とても喜んでくれていた。私の両親に受け入れられると思っていたと思う。だけど私は、母が徳永さんを嫌っていているのを分かった時点で、徳永さんをお母さんに会わせるべきじゃなかったんだと思う。
そんな事をすれば、母は徳永さんを逃げたと見做して軽蔑したかもしれないけれど、徳永さんの気持ちを大事にしたいのなら、そうすべきだったんだよ。
冷静に考えれば、したくないお見合いだって、徳永さんの事を抜きにしても、強い意思があれば、退けることができたはずだったんだよね…」
「それに関しては、わたしも悪かったよ」
桐子はすまなそうに言った。
「ごめん…」
「なんで桐子が謝るの?」
「あたし、徳永さんとショウがさっさとくっついて、結婚すればいいと思って、ずっと応援していたから。ショウの家庭の問題をあんまり考えずに、徳永さんにもっと迫ればってアドバイスしていたし」
「桐子は、徳永さんとの事、応援していくれていたの?」
松はキョトンとして言った。
「あったりまえでしょ?」
「だって、さっさと合コンでもお見合いでもして、新しい出会いを見つけたらいいじゃないって、桐子言っていたじゃないの」
「それは、ショウの気持ちを分かっていたくせに、あれだけショウに気を持たせておいて、徳永さんったら、手のひら返すような態度をとったから、頭に来ていたのよ。自分がイケメンでモテる男だからって、強気にでているんだと思ったのよ。だからさぁ」
桐子は申し訳なさそうだった。
「こんな事になるなんて思わなかったの。無暗に煽ってホント、後悔している」
そう言って、桐子はグラスの底に残った酒をグイっと飲み干した。
松も飲んだ。
さっきから一生懸命アルコールを摂取しているのだが、一行に酔ったような気分がしない。
「桐子が悪いんじゃないよ」
見上げると、天井がぐるぐると回り始めていた。
「桐子だけがけが悪いんじゃない…」
「でもさ…」
松は再びグラスを煽った。
本当は周りの責任にしたかった。
母や義父、祖父母が悪いと言いたかった。
でも最終的に判断を下したのは自分だ。
今の状況を招いたのは自分の責任なのだ。
松は再び両目を覆った。
失恋なんて珍しい事ではない。
世の多くの女性が経験するのだ。
ハッピーエンドになるカップルもいれば、ならないカップルもいるのだ。
自分はたまたま、バッドエンドに終わっただけで、わたしが徳永さんと両想いにならなかったとしても、誰も困ったりなどしないのだ。
「わたしはもともと、こうなる運命だったのかもしれない」
酒のせいなのか、涙のせいなのか真っ赤に染まった目は焦点が合っていなかった。
「失恋だなんて、珍しい事でもないし」
「え?」
「たかが恋なんて、忘れてしまえばいいんだよ。泣きたいだけないたら、次の恋が見えてくるかもしれないし」
松は、そう言って自虐的に笑いながらボタリと涙を膝の上に落とした。
「またそんな強がり言って…」
桐子は松にティッシュの箱をわしたて同情をこめて言う。
「それで徳永さんを忘れようってつもり?」
松はアハハと笑おうとしたが無理だった。
唇はゆがみ、再び涙がしたたり落ちる。
「そう言えばそんな歌があったっけ」
松は呟いた。
「失恋して、寂しすぎて壊れそうになっている人の歌」
あれはなんて歌だっけ?
「え?」
酒で視界が回るなか、松はあの歌の歌詞の続きはどうだったっけ、と考えていた。
夢の中で、その歌の主人公は、大好きな人に会えない夜の街をひとり歩き続けていた。
誰もかれも知らんぷりで、無口なまま通り過ぎてゆく、たかが恋人をなくしただけで、何もかもが消えてしまった…そういう歌だった。
わたしは?
わたしも全て失ってしまったのだろうか?
徳永さんを失って、全てのものを失くしたのだろうか?
朧げに消えゆく意識の中、松は目の前に現れては霞んでゆく徳永さんの後ろ姿を追いかけていたような気がする。
名前を呼ぶと彼は振り返ってくれたが、それは、能面のような冷たい表情だった。
笑いかけもせず、話し掛けもしない。
まるで赤の他人のようにふるまう彼に松は近づくことはできなかった。
「うう…」
ふいに唸りだした松にびっくりして、桐子は松の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「うううぅぅぅ…」
唸り声は涙声に変わる。
「ショウ?どうしたの、気分悪いの?」
「ひぃぃっく」
松はそれでも俯けた顔をあげない。
やってくる激流に耐えるべく、歯を食いしばり、目をきつく閉じ必死に自分を保とうとした。
「と…な……が、さん」
「え?」
「とく…なが…さん…」
彼の事を忘れよう、忘れようと頑張れば頑張るほど、思い出が津波のような大きな塊となって押し寄せてくる。
ダムが決壊したかのように、涙がブワっとあふれ出た。
桐子がものすごく驚いた顔で心配そうに松にかがみこんでいた。
今この瞬間、松は、桐子に、一万キロ離れたところにいてほしかった。
物凄く悲しかった。
寂しかった。
彼の事を愛していた。
でも、徳永さんは傍にはいない。
それは全て松が招いたことなのだ。
これは、当然の報いなのだ。
「大丈夫…このぐらいで、死ぬことなんかないだろうし」
松は、涙にぬれた顔で笑みを浮かべ、桐子に笑いかけた。
桐子は黙って、優しく松の事を見守っていた。
松は、座礁した難破船のように身動きできず、ただただ、そこにぼんやりと立ち尽くしていた。
<19.変化の過程> へ、つづく。