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17.徳永さんの身の上

17.徳永さんの身の上



 会社近くのシアトル系コーヒー店は、外回りの営業マンや会社帰りのOL達でにぎわっていた。丁度客が入れ替わる時間帯で、店の最奥のファブリックソファーのあるゆったりとしたスペースに座ることが出来た。



 松は、キャラメルマキアート、カイ君はモカを手に取り腰を下ろした。松がここに来るのは、あの雨の日に、徳永さんに親に会って欲しいと電話をかけた時以来だった。ついこの前の出来事だったのに、ずいぶん昔に感じる。



 カイ君が上から松を見下ろしていた。


 こうやって眺めていると、彼は徳永さんと良く似ていた。目はいくぶん切れ上がっているけど、ぱっちりと大きいし、睫も長い。顎のあたりはすっきりとしていて、整った口元も、筋の通った鼻も、美しい肩のラインも、彼を思い起こさせるものがあった。



「兄貴が一時帰国していて、こっちに来ているって聞いてさ」


カイ君は、わたしの顔をジッと見つめながら、ポツポツと語り始めた。


「で、この前の土曜日に、東京に戻ってからニューヨーク行の便に乗るって聞いていたから、駅まで見送りに行く予定にしていたんだよ。ところが、夜の新幹線って話だったのに、昼の二時頃に、もっと早い新幹線に乗れそうだから見送りはいいって、兄貴から電話があったんだよな」



 どうやらカイ君は、土曜のお午後、桜の木の下で彼と別れた後の、徳永さんの行動について話してくれるらしい。



「それが、前の日に話していた時とうってかわって調子の悪い声でよ、どうしたんだよって、聞いてみても台風みたいに荒れ狂っていて話になんねぇんだよ。電話じゃ埒があかねえし、どうしたもんかと思ったが、週末にオマエと会うって聞いていたから、オマエと何かあったんだなって、すぐにピンと来たんだよ。で、なんとか今いる場所を聞きだして、迎えに行ってさ、あの日は新幹線には乗せず、兄貴をオレのアパートに泊まらせたんだよ」



 そんな強引な。



 そんなことすれば翌朝の朝一の成田発のニューヨーク行の便に乗れなくなるじゃないか、って口を開こうとしたとき、



「飛行機なんて毎日飛んでんだからよ、一日ぐらいズラしたところでかまうこたねぇ」


と、カイ君は厳しい口調で言った。


「だけど、こういった一生を左右する事は、チャンスを逃したらそれで終わりになっちまうことだってあるんだよ。今が踏ん張りどころなんだから、ここで諦めるなって説得したんだよ」



 カイ君はそう言いつつも、わたしに非難をこめた視線を送ってくる。


 なんでこんなになるまで彼をおいつめたんだよ、とでも言うように。



「話を聞きだすの大変だった」


カイ君は、疲れた表情でそう言った。


「アイツ、プライド高いから、おだててやってその気にさせなきゃ口わらねえんだよ。まず、怒っているのを宥めて、落ち込んでいるのを慰めて、冷静になるのを待って、ようやく話を聞けた。まぁ、話の内容はだいたい予想はついていたけどよ。兄貴、お前に別れようって言いだしたんだって?」


彼は、そう言って、一層キツイ視線を松に送る。



「え、あ、うん…」


松は土曜日の桜の木の下での出来事を思い出すと、胸苦しさが再び襲ってきた。



「兄貴もしくじったよな」


カイ君は言った。


「兄貴にも言い分があるのかもしれねぇけどよ。だけど、隠し事をしていたのがバレたんだ。言い訳は通用しねえ。兎にも角にも、女の親を怒らしちまったんだ。まずはそれを何とかしねぇと。直接会って、頭下げて謝って来いって説得して、翌日お前の家に兄貴を送り出したんだよ」




 そっか、そうだったんだ。


 カイ君が徳永さんを説得してくれたんだ。


 だけどさっき、変な事をきいたような気がする。



 プライドが高い?


 徳永さんが??



 以前に松の方こそが、プライドが高くて扱いにくいだなんて徳永さんが言っていた事があるけど、弟の目から見るとあの兄は宥めて機嫌をとらないといけないほどプライドが高いらしい。



 カイ君の顔をみると、真面目で嘘などついているような様子はまるでない。


 松は、嵐のように荒れ狂っている徳永さんの姿を想像した。


 紳士で朗らかで、落ち着いていて、感情的になることなどめったにならない徳永さんが、弟の目の前では素をさらけ出して喚きたてることもあるのだと思うと、不思議な感じがするのと同時に、彼を遠い存在に感じた。


 彼は、そんな姿を一度も松の目の前で晒したことなどなかったのである。




 世話をかけたカイ君に、感謝の気持ちが溢れてきたが、せっかく一日飛行機を送らせて会いに来てくれたというのに、松は徳永さんとは仲直りどころか、まともに話をすることすらできなかった。



 最後に見た冷たい眼差し。


 歪んだ口元。



 胸がキューッと締め付けられ、涙が浮かんできた。



「翌日の日曜はバイトで見送りに行けなかったんだけどよ」


カイ君が続ける。


「新幹線に乗る前に兄貴から電話があって一通りの事は聞いたんだけどよ。兄貴は、お前の携帯に電話をしてみてもつながらなかったので、思い切って、そのままお前の家に行ったと言っていた。ところが、お前は留守で、聞けば、あのいけ好かない上司と会っていて留守だと聞かされたと言っていたけど、それは本当かよ?」


カイ君が軽蔑したような非難がましい視線を投げかけてくる。



 松は頭を抱えた。携帯に電話をくれていたとは何というタイミングの悪さ。


 頭痛を感じてこめかみを押さえた。



「上司の瀬名と会っていたんだろ。あいつと休みの日に何していたんだよ。まさかお前、兄貴にフラれて、あの上司に鞍替えするつもりで、わざわざ会っていったんじゃないだろうな?」



「そんなわけないでしょ!」


キッとなって言い返す。


「日曜に呼び出されたのは月曜の朝一にある部長との面談に、事前にどうしても話さない事があったからよ」



「仕事だぁ?休みの日にわざわざ?」


カイ君はだいぶ疑わしそうだ。



「仕事の事だけじゃなくって、仕事にまつわるプライベートな話しもあったのよ。言っておくけど、付き合って下さいとか言われたわけじゃないからね」



 むしろその逆。

 

 フラれたのだ。


 まぁ、向こうからの申し出を勝手に取り下げただけなのだから、フラれるという表現は正しくないかもしれないけど。



「それでも昨日の今日の事じゃねぇか。疑うのも無理ねぇ話だろ。電話もでねぇし。オレのあの時兄貴の隣にいたが、何度かけてもかけても全然つながらなかったじゃねぇか」



「電話に出られなかったのは、携帯が壊れて電源が入らなかったからだよ」



「ウソつけ。そんなに都合良く携帯がつぶれるもんか」



「嘘じゃないわよ」


何で疑われるんだ。松は憤慨した。


「まぁ、壊れたっていうより、壊したって言う方が正しいかもしれないけど。でも、つぶれていたのは事実で」


松は、真新しい携帯を彼に見せて言う。



「壊した?」



「土曜日に徳永さんと別れた後、夜中じゅう電話してもとってもらえなかったんだよ!なのに出てもらえなくって、それで、あったまにきて、腹立ちまぎれに床に投げつけたら壊れたのよ」



 全く運が悪いというか、何というか。



 一晩じゅう電話したのに出てもらえなかった上に、本当なら飛行機に乗っている時間帯に、まさか徳永さんから電話来るとは、全く思いもよらなかい話ではないか。



「それ何時頃?」



「さぁ、時計みてなかったけど明け方頃だよ」



「あーなるほど。兄貴がやっと電話を掛けようって気になった時には壊れていたってことか。しっかし、床になげて壊したって…お前、つくづくタイミングのいいことするよな…」



 タイミングの悪いの間違いでしょ。



 カイ君は、相当呆れているのか口を大きくあけている。


 

 そしてボソっと呟いた。


「あのな、兄貴はな、せっかくお前に会いにいったのにお前はいないし、お前の義理の父親だという男に、お前の母親に会うのを拒絶されるし、挙句の果てに、借金の事を隠していたのは許されることではないと言われて、立つ瀬がなかったと言っていた」



「・・・・・・」



「おい、顔そむけんな」


カイ君は恐ろしく低い声で言った。


「お前があの上司と会っていちゃいちゃしている間、兄貴はお前の家に行ってそんな事になっていたんだよ。少しは反省しろよ」



“いちゃいちゃ”の所で頭髪が逆立ちそうになったが、反論する元気がなかった。



「反省しろと言われても、望んでそんな状況になったわけではないわよ」


松は言った。


「でもね、結局徳永さんは、何で隠し事をしていたのか、それについては何も言わずに帰ってしまったらしくて」


 



「やっぱ、何も言わなかったのか…」


カイ君は、残念そうに椅子の背にのけぞった。



 松もまた、胸が痛かった。


 徳永さんは、なぜ、苦しい重荷を背負っていたというのに、私に話してくれなかったのか。


 松は、徳永さんを苦しめている事実を少しでも知りたかった。


 受け止めてあげたかった。


 できるものなら、一緒に担いで軽くしてあげたかった。


 だけど、昨日の徳永さんの最後の表情を思い出すと、もうどうしていいか分からない気持ちで胸がいっぱいになった。


 あんな冷たい徳永さんを見た事はなかった。



「でも、徳永さんがウチから出て行った後、わたしすぐに家にもどって義父から話をきいて、急いで駅まで追い駆けたんだよ。すんでのところで、改札のところで追いついて、呼び止めたんだけど」



「けど?」


鼻水を垂らすまいと我慢して、スンスンとすすっている間、まどるっこしそうに彼は続きを促した。



「徳永さん、ものすごく冷たい目でわたしを見て…」


松は、呟いた。


「あんな徳永さん、見た事なかった。別人みたいに見えた。あまりにも冷たくて、近寄れなかったの。で、そうこうしているうちに、電車が来て行ってしまった」



「いっちまったって?」


カイ君は言った。


「お前が目の前にいるのがわかっていて、何も言わずにいっちまったのかよ?」



 松は、ハンカチで鼻を抑えながら頷いた。



「あ~~~」


絶望的に、額を抱えながらカイ君はうなる。


「アイツ、アホだな」



「ね、カイ君なら知っているでしょ?どうして、徳永さんは借金をしていたことを隠していたの?何で言ってくれなかったんだろう?」



「さっきも言っただろ。好きな女に不利な情報をすすんで話すヤツはいねぇって。兄貴だって、お前に嫌われたくなかったんだよ」



「嫌うわけないじゃない!」


松は言った。そうだよ、借金があるだけで嫌いになれるわけない!!


「義父だって言っていた。借金をする人は世の中に沢山いて、借金自身は悪いことじゃない。返済計画がきちんとしていれば、普通に話せたはずだって、なのにどうして」



「兄貴は、借金については、ちゃんと返済計画をたてているよ。別にサラ金に追われたりしていたわけじゃないし、ヤバイところから借りてるわけじゃない」



「じゃ、どうして言ってくれなかったの?」


松は訳がわからないと言った風に頭を振った。


「徳永さんは、なんで借金をすることになったの?」



「もとは、兄貴が自分で借金をしたわけじゃなかったんだよ。親父が事業を畳む時に残した負債を兄貴が負ったんだ」



「本当に?」


松は言った。


「じゃ、徳永さんはお父さんの借金を、お父さんの代わりに返済しているだけ?」



「ま、そういうことだな」



 じゃ、隠しだてする事などひとつもないじゃないか。


 むしろ、若くして、死んだ父親の借金を返そうとするだなんて、なんて男気のある孝行息子なんだと、松はむしろ徳永さんを誇りに思った。



「っていうか、親父の借金だけじゃなかったって所が、問題だったのかもしんねぇけど」



「え?」


カイ君を見上げると、彼は気まずそうに視線を逸らす。


「どういうこと」



「ホントは言いたかねぇけど」


そう言って、カイ君は頭を掻いたが、本当に言いにくい内容なのか口を閉じてしまった。



「何?」



 カイ君はチラと視線を松の方に戻した。



「本当は兄貴の名誉のために黙っていたかったんだよ。だけど、今更隠してもなぁ」



「何なの?」


松はじれったそうに言った。


「教えてよ」



「兄貴のヤツ、一度、投機に失敗して借金を増やしちまった事があんだよ」



「投機?」



「最初に就職した時にさ、まとまった金が入って来た時に」



 最初に就職?



「え、何、徳永さん前に別のところで就職したことあるの?」



「お前こそ、そんな事も知らなかったのかよ?」


カイ君は驚いているようだった。


「お前、ほんっとうに何にも知らねぇんだな。っていうか、兄貴のヤツ、何にも教えていなかったんだな」



 だから何!!



「兄貴、高校卒業後に一度S球団に採用されてんだよ」



「は?S球団?」


松は、思いもよらない組織の名前をあげられて目を白黒させた。



 S球団って、S球団でしょ?


 プロ野球のチームの。


 そこに就職?


 何のために?



「S球団で、何の仕事をしていたの?」



「お前なぁ、S球団だぞ。野球選手として入ったにきまってんだろ」



「やきゅうせんしゅぅ?」


松は飛び上がらんばかりに叫んだ。


「ええええ????」



「兄貴は日本の高校に行っていないから、甲子園はおろか地方大会にも出てないんだよ。出ていたんなら、有名になっていたかもしんねぇけど、米国(あっち)のチームに居たときから、こっちのスカウトに目をつけられていて、ドラフト三位で入団したんだよ」



 知らなかった…



 っていうか、徳永さんが高校球児だったなんて、想像すらしたことなかった。



「契約金が三千万で…」




「さ、さんぜんまん??」



「ホントは、日本の大学に進学する予定だったんだけど、親父の会社が倒産して借金かかえたばっかの頃だったから、兄貴のヤツ、大学いくのやめて、球団に入って、契約金で親父の借金の返済を肩代わりしたんだよ」



 そうなのか、なるほど。


 徳永さんの性格から、そういった行動は予想できる。男らしく責任感を持って物事に挑んでいくいかにも徳永らしい選択だと思った。


 思ったが、徳永さんは、誰もが知っている高名な大学の出身だった。じゃ、その後、球団をやめて大学に進学したのだろうか。



「で、その三千万で、借金を返せたの?」


 と、とりあえず尋ねてみる。



「まあな。借金を返してもおつりがきたので、残った金で兄貴は投機に手を出したんだよ。最初はうまくいっていたんだ。だけど、入団して直後に、トラブルを起こして」



「トラブル?」



「喧嘩だよ。選手同士の殴り合いになってさ。それで運悪くヒジを怪我した」



「ヒジ?」



「兄貴はピッチャーだったんだ。検査したら、運悪く致命的な傷で、治らないと言われて」



「ウソ」


 

 ヒジにケガ?


 そんな話聞いたこともないし、そぶりにも気が付かなかった。



「日常生活を送るには問題ないレベルでも、投手としては使い物にならないことが分かって、それで、球団を辞めることになって…」



 何ということだろう。


 だけど、喧嘩?


 あの穏やかで紳士の徳永さんが喧嘩をしたって?


 あの美しく長い指を持つあの徳永さんが誰かと殴り合いをしてケガしただなんて想像できなかった。


 なにか理由があったのだろうか。


 松は、話の続きがききたくて耳をすませていたが、カイ君は言いにくそうにしていた。



「なんで喧嘩になったの?」



「さあな。ただの言いあいの延長で殴り合いになったって言っていたけど、本当のところは分からねェ」



「わからない?」



「兄貴はあまり語らないから…」


カイ君は寂しそうに言う。


「あの兄貴が手を出したんだ。余程の事があったにちげぇねぇって思うんだけど、問い詰めても何もいわねぇし」



 何か裏がありそうな気がするけど、カイ君も本当に事情がつかめなかったようで苦しそうに顔を歪めている。



「それで?」


と、松は言った。


「それでどうなったの?」



「ぁあ゛?」


カイ君は松の言葉に不愉快そうに眉を顰めた。


「どうなったかって、どうなったかって…お前、話の先ばっかりききたがるんだな。オレを話きいてたのか?あんときの兄貴がどんな気持ちだったかお前、気にならねェのかよ?」



「え?」



「気にならねェのかって、聞いてんだよ!!」


カイ君は突然怒り出したかと思うと、バンと拳でテーブルを打ち付けた。カップの中のコーヒーが滴となってテーブルのあちこちに飛び跳ねた。



 突然大声を出されて松はびっくりして口をつぐんだ。


 店中の客達の視線が松達の方向に向けられる。


 カイ君もハッとして、ちょっと声のトーンを落とした。



「お前は、兄貴の気持ちが気にならねぇのかよ?」



「気になるわよ。き、気になっているにきまっているじゃない。だからどうなったか続きを聞いているんでしょ」



「そうかよ、なら教えてやる。オレは、自分から手を出して暴力事件を起こしてしまったことを兄貴は今でも恥じているんだと思っている」



 恥じる…?



 カイ君は、低い声で、いまいましそうに話を続けた。


「元は、兄貴だって野球選手にならずに普通に進学するつもりだったんだよ。だけど、家の借金のせいで、ゆく道を変えたんだ。親父は返済不能だったし、お袋も知らん顔だし…自分でなんとかしなくちゃと思っていた矢先に、大金ぶらさげられて、気持ちが揺らいだんだよ」


 カイ君の声は絞り出すかのようだ。


「でも、あんな結果になっちまって…」


カイ君は松の質問に答える代わりに、視線をそらして、再び苦しそうに顔をゆがめた。



 その時何かあったのだろうか?


 彼の身に何が起ったのか、彼の話だけでは想像できなかった。


 カイ君の苦しそうな顔見ていると、こちらも胸が苦しくなった。



「あんな結果?」


松は言った。


「あんな結果ってどんな事があったの?」



 カイ君は死んだように顔を硬直させテーブルに視線をおとしたまま、低い声で呟いた。



「あの直後に、親父が死んだんだ」



「え?」


松は息を呑んだ。



「兄貴が球団をクビなった直後、病気が悪化して…」



 苦しそうに顔が歪んでゆくカイ君の顔。


 キツイ事を思い出させたのかもしれない。なんだか申し訳なかった。



「持病の治療をするために入院してたんだよ。兄貴の事があって、それを知った直後に急激に病状が悪化してさ」



「・・・・・・」


 

 かける言葉も見つからなかった。



「突然死んじまった。親父も兄貴が成功者の道が拓けて喜んでいたのに。兄貴が野球選手を辞めた後のことだ。あんな結果になっちまったから、相当ショックを受けたんだろうな。あんな落胆した親父を見るのは、本当にツラかった」



 やはり、徳永さんのお父さんは、母が調べた通りやはり亡くなっているのかと、松はぼんやりと思い出していた。



 ツライ気持ちが伝染してくる。


 カイ君はハーッと息をはいた。



「で、あの後、それに、退団後に、球団から、契約金を返せって言われて…」



「返せって、三千万を?」



「ああ。でも、借金を払うのに使っちまったから、すぐには返せなかった。とりあえず分割払いにして球団に少しづつ返済することになったんだ。兄貴は翌年、奨学金で大学に行くことになって、大学に行きながら、借金を返し続けた」



「大学に行きながら借金を返すって、大変じゃないの。アルバイトでもしてたの」



「いや、バイトもしていたけど、そうじゃねぇ。契約金の残りで投機に手を出したって言ってたろ。それでうまくやれば全額返せると思ったんだよ。だけど、素人がそう上手く儲けられるわけがなかったんだ。半分近くまで減らしたが、その後、行き詰まってしまって」



「・・・・・・」



「返済が滞ってしまった」


 カイ君は再び、ハーッという溜息をついた。


「だいたい、兄貴が進学せずに野球選手になろうと思ったのは、親父の借金を返す他に、弟のオレの学費を払いたいって気持ちもあったんだよ。オレは両親が離婚した後は、お袋と一緒に暮らしていたけど、お袋の再婚相手にオレの学費を頼れるような雰囲気もなかったから。自分がなんとかしなきゃって責任感じて、無理な投資に手ェ出しちまったんだよな」



「そ、それで?」


話がより一層辛い方向に向いて行く。聞くだけでも心臓に悪い。



 その後どうなったのだろう。


 松は心配になって息を詰めた。


 少なくとも彼は大学を無事卒業して、今の会社に就職しているのだから、追い詰められたりはしなかったはずだよね?



「実はあの後、運よく、残りの借金は、親父と一緒に事業を興した共同経営者だった親父の友人が、肩代わりを申し出てくれて」



「肩代わり?」



「ああ。ありがたいことにな。信用できる人で、いまでも何かと色々気にかけてくれている。あの時は、さすがに、兄貴がひとりで借金背負っているのが見てらんなくなったんだと思う。あれは親父の葬式の日だよ。彼は、親父が残した借金については、自分も無関係だったとは言えない。共同経営者だった自分も責任を持つべきだから、親父が残した借金の返済は自分が持つと申し出てくれたんだ。兄貴は最初断ったけど、どうせ借金をするのなら、球団にするより、親父の友達に借りているほうが気分的に楽だ。兄貴は親父の友達の申し出を受けて、その金で球団へ返済すべき金を全部支払ったんだ」



「そ、そうなの」


そうなのか。その話を聞いて少しほっとする。



「でも、兄貴はその人に借金を踏み倒す気持ちはなかったんだよ。就職してから毎月決まった金額をその人に返しているし、オレの学費も続けてはらってくれていた」



「カイ君の学費?」



「オレ、中学の頃に何度も補導されているし、十四の時から母親の家からも出て、兄貴の援助で夜間学校に通いながら、昼間働いて独り暮らししてんだよ」



「十四の時から?ずいぶん早くから一人暮らししているのね」



「そうか?オレみたいな境遇の人間は、世の中には腐るほどいるぜ?あんたみたいな親のスネかじってのうのうと生きている人間は知らねェかもしれんけどよ」



 カイ君は軽蔑したような目つきで、松を見下ろしながら、以前と同じことを言った。



「それでも、こんなオレでも見捨てずに、気にかけて、人間らしい暮らしをさせてくれてくれたのは兄貴だけだった。両親が離婚した後、オレは外で喧嘩ばっかしていたけど、喧嘩して補導される度に迎えに来てくれたのは決まって兄貴だった。兄貴はオレが何しても黙っていて、お袋みたいにオレを責めなかった」



 カイ君は少し目元を和らげて静かに語っていた。


 今まで聞いたこともない、想像したこともなかった徳永さんの過去や彼の優しさに触れることができて、親しみがわいた。


 と同時に、胸がじわんと温かくなり、目の奥にツンとくるものを感じた。



「おい、話はまだ済んでねぇぞ、泣くのはやい」



「だ、だって…」


松はハンカチの隅でマスカラやらアイシャドウが取れないように用心深く涙を拭いた。


「どんなにか大変だっただろうって」



「大変?誰が??」



「両方だよ、徳永さんもカイ君も」



「まぁ~な。でもな、オレには兄貴がいたけど、兄貴には誰もいなかったから、大変だったのは兄貴の方だったと思う。オレはあの頃、まだまだガキで、まだ周りに当たり散らすだけの余裕があったんだよ。だけど、兄貴は誰にも相談できなかったし、オレのことも重荷でしかなかったと思う」



「重荷?そんなことないでしょ?」



「いや、今だってまだ学生で、手ばかりかけているし」



「でも仕事とか色々世話してくれているんでしょ?優しいお兄さんじゃない」



「そ。オレは頼ってばかりなんだよ。本来なら、兄貴の背負っている親父の借金は弟のオレだって一緒に返済する義務があんだよ」



 松は、彼の目を見た。


 鋭く光っていて、狙いをつけているような眼差し。


 しっかりしているよな。


 こういった話をきかされると、就職して月々ちゃんとした給料をもらっているにも関わらず、親元から離れず同居している自分としては身がすくむ思いがする。


 世の中にはお金がなくとも、親から目をかけられなくとも、自立して立派に生きている人がいるのだ。


 その人達と比べると、松は何もできない自分が本当に情けなく感じるのだった。



「お前さ」


カイ君は自嘲的に唇を歪めて静かに言った。



「何?」



「兄貴が、ボーっと意識を飛ばしている時、何考えているか分かる?」



「え?」



「兄貴のヤツ、時々、時間が止まったみたいに、周りが見えなくなっている時があるんだよ。めちゃくちゃ落ち込んでヤバイ時とかに、たまにあんな表情するんだよな。何考えているんだよ、ストレスためずにオレにぶちまけてみろよって言ってみても何もいわねぇんだ。オレと兄貴は年が離れている。昔はオレがガキだったから、言ってくれねェのかって思っていた。でも、違う。兄貴はものすごい何かに拘る性質(タチ)で、そこのはまり込むとそこからでてこねぇんだ。聞いても大丈夫だって言うだけで、顔色悪くする一方なんだよ」



 カイ君の言う、徳永さん時々、ぼうっとして意識を飛ばしている時は、松も覚えがあった。


 ニューヨークのレストランで、彼は、感情のない静かな表情で、松を見下ろしていた。あの時、彼の心の内を松も知りたいと思っていた。彼をとても遠くに感じたのだ。



「わかんない」


松は力なく、首を横に振った。


「徳永さんの、そういった感じになる時は、話しにくかったし…」



「・・・・・・」



 カイ君は黙り込んだ。


 松とカイ君は互いに向かい当たっていたが、両者とも視線をテーブルの上におとしていた。


 カイ君はひょっとして、苦しんでいる兄を助けるために、解決になるような糸口のようなものを、わたしから引き出そうとしているのかなと思った。



 カイ君は、苦しそうに目を細めて遠くを見ていた。


 事業がおもわしくなくなってから、坂道を転げ落ちるように悪いことばかりたて続けに起った時の事を思い出しているのだろうか。



「オレは兄貴によく似ているって言われるんだ」


カイ君は兄の話を続けた。


「少なくとも外見はね。中身は全然ちがうけど。兄貴は品行方正、オレはガキで手が早い。でも兄貴は今でこそ、上品に構えているけど、昔は、目つきも態度も兄貴の方が怖くて、皆、兄貴に睨まれたらヘビに睨まれたカエルみたいになっていたもんだよ。今でも、ちょっと機嫌が悪くなると、昔みたいなキツイ目をして凄んでくるんだぜ」



 カイ君は、また遠い目になっていたが、ちょっと苦しそうに口元を歪めていた。



「そんな兄貴、想像できる?」


カイ君は言った。



 まあ、確かに睨まれたり機嫌の悪い時はちょっと怖いなぁって思う時あるけど、あの紳士な徳永さんがカエルを睨み付けるヘビになっちゃうなんて信じられない。



「いいえ」



「喧嘩も強かった」



「喧嘩?」



「マジでかかっていったら、ぜってぇ叶わないって皆、知っていたから、誰もかかっていかなかったんだ。だから滅多に警察沙汰にはならなかったんだよ。むしろオレの方が、派手にやっちまって、よく補導されていたってわけ」



「何でそんなに喧嘩が強いの?」



「兄貴は、アメリカの住んでいた頃に、武道を子供の頃から習っていたんだ。オレはまだガキだったんだけど、兄貴は図体がでかくなるの早かったし、結構本格的にやっていた」



「武道?カンフーとか?」


武道と言われたって、ジャッキー・チェンぐらいしかイメージできない想像力の乏しい松である。



「カンフー?いや、柔道とか合気道とかね」



 なんか徳永さんが柔道とか合気道をしている姿が想像できない。


 松は、柔道も合気道もカンフーと同じぐらい知識はないけれども。


 そんな話も、初めて聞いたな。



「兄貴は、むちゃくちゃ強かったけど、絶対自分からは手を上げなかった。自分が手をあげたら、相手が普通のケガで済まないからだって言っていた。だから、よほどのことでは喧嘩沙汰にならなかった。だから職場で暴力沙汰を起こした事が信じられなかったんだよ」


カイ君は、また遠い目になった。


「何があったのかな…」



「・・・・・・・・」



「何で話してくんねぇんだろ」



「・・・・・・」



「あの頃からさ。あれから、だんだんと口を噤むことが多くなってさ」


カイ君は心配そうに目を細める。



「一応、奨学金でなんとか生活も落ち着いてはいたんで、ストレスは減っていたとは思うんだけど」



「・・・・・・」



「結局、親父の死が、全てが変えちまったんだよな」


カイ君は続ける。


「親父は家業が倒産したのは自分のせいだって責め続けて、自分が不甲斐ないってずっと思っていたんだと思う。でも、もっと生きてて欲しかった。親父が生きていたから、オレも兄貴もギリギリのところで頑張れていたのに」



 カイ君の苦しそうな表情が、徳永さんと重なる。


 りりしい眼差しや、美しい口元が苦しみに歪むときのあの表情が、蘇ってくる。



「兄貴はだんだんと口数が減って言って」


カイ君はぼそりと言った。


「相変わらずオレの生活費や学費を援助してくれていたけど、全くと言っていいほど弟のオレにさえ自分の事、何も話さなくなっていった。大学を卒業して、就職先が決まって少し落ち着くと思っていたけど、そうでもなかった」



「おかしいって、どんな風に?」



「人と関わらなくなっていったんだ」



「???会社ではよく人と喋っているけど」


人と関わらなくては、営業マンとして仕事にならない。



「でも、自分のこと、あんま喋んねぇだろ?」


カイ君は言う。


「愛想よくしているのはあれは見せかけだよ。あれは自分の領域に踏み込ませず相手を気持ちよくさせるためで、意識的にしている芝居なんだよ。普段は仮面かぶったみたいに表情がないんだ」



「ちょっと待って。じゃぁ、愛想のいいのが芝居で、仮面をかぶったみたいな無表情顔の方が素だって事?」



「オレの前じゃ、愛想よくなんか話さねぇからな。普段はむっつりして表情がない。でもそれも異常なんだ。昔はもっと表情が豊かで、面白れぇヤツだったのに」



「・・・・・・」



「オイ、今度は何を落ち込んでいるんだよ」



「落ち込みもするわよ!」


松は唸った。



「何言ってんだよ。少なくともお前と一緒に居てた時は、兄貴の野郎、機嫌よかったんだろ?」



「だから、それも芝居だったんじゃないの?」


松は嘆いた。物凄く今、ドツボにはまっている。


「わざとそう見せかけていたんじゃないの?」



「オレも最初はそう思ったけどよ」


カイ君は腕組みをしてじっと考えている。


「でも、どうやら、そうじゃねぇって事が、わかってきて…」



「へっ?」


そうじゃない??



「お前が最初にニューヨークに遊びに行っていらい、また違う方向に兄貴の態度が変わってきて…」



「違う方向?」



「なんつうか人が変わったっていうか」


カイ君は言葉を選んでいる。


「上の空って言うか…」



 うわの空。


 上の空になっているって、徳永さんに叱られたことがあったけな。


 って、そんな事考えている場合じゃないでしょ。



「とにかく、あんたと会って、兄貴は変わったんだよ」


と、カイ君は最後に言った。



「だから、どう変わったの?」


奥歯にモノが挟まった物言いに松は説明を促した。



「どうって言われても、うまく説明できねぇが」


カイ君は頭をかいて言葉をさがす。


「兄貴が、普通の人間に戻ったっていうか」



「普通?」



「まるで、死んだ人間が生き返ったようなそんな感じっちゅうか」



 ゾンビか何か?



「つまりな、あの兄貴に春がきたんだよ」


と、彼は最後にそう言った。





<18.難破船の行方> へ、つづく。





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