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16.道を誤った女

16.道を誤った女



 新しい機種を注文して、松は、壊れた携帯を持ってそのまま店を出た。


 友達のアドレスを復活させなきゃな。

 

 そんな事を考えながらポテポテと道を歩き、家に向かう電車に乗りこんだ。


 幸いこの携帯はプライベート用で、お客などのデータは入っていない。友達に連絡しまくったら、半分は復活できるだろう。だが、今一番かつ急ぎで重要なのは、徳永さんの携帯電話の番号だった。



「徳永さんの電話番号、誰が知っているだろう…」



 徳永さんは、長い間携帯番号を変えていなかったが、向こうに行ってしまってからは、こちらの殆どの人間とはつながりが切れているので、今でも関係があるのはトクミツ部長ぐらいだ。が、トクミツ部長は、ああみえて、仕事とプライベートとの線引きをキッチリしたがる人なので、意外と知らないかもしれない。



 インドのスワニーさんなら何度か徳永さんのアドレスを聞かれて教えてあげたことがあったが、スワニーさんに聞くのなら、こちらから国際電話をかけて英語で話をしなければならない。



 なんとも言えない気持ちで、家に向かう。


 今日は不思議な事ばかり起きる。


 立て続けに起こる求婚者からの“お断り”。


 昨日の徳永さんの態度のから数えて、二度ではなく三度も連続して別れ話をされた勘定になる。


 おまけに携帯まで壊れてしまっては、全ての繋がりのある人達と縁が切れてしまったかのようで、松はとても心細くなった。



「・・・・・・」



 モンモンとした不安を胸に、自宅に帰って来た。


 庭先で義父が庭仕事をしている姿が目に入った。玄関脇の、窓から死角になっているデッキチェアの横を通り過ぎる時、折り畳みのテーブルの上に空の缶コーヒーが二つ置いてあった。このデッキチェアは義父が、母に気兼ねなく個人的な知り合いと談笑するときに利用している彼のお気に入りのプライベートスペースだった。



 家に入ろうとする松を、庭先の義父が呼び止めた。



「おかえりショウちゃん」



「ただいま」



 彼は立ち上がると、デッキチェアの方向に来るように松に目配せした。



「上司の方とあって来たのかね」


と、椅子に座って言った。



「そうですけど」


義父がこうやって松と二人で話そうとしたことは、これまでめったになかった。松はどうしたんだろうと、彼を見下ろした。



「…実は、ショウちゃんが留守の間に、ショウちゃんにお客さんがあってね」



「え、誰ですか?」


訪ねて来る予定の人いたっけな。


「誰が来たんですか」



「男の人だ」


義父は言った。


「名前を聞いたら、その人は徳永と答えた」



 え?



 松は、聞き違えたかと思った。



「背の高い…若い男前の男性で、あの人、ショウちゃんの言っていた、ショウちゃんのいい人だろ?」



 松は信じられない思いで、目を瞬かせ義父を凝視した。


 ウソ。徳永さん、今頃雲の上の人じゃないの?ここに来たってどういうこと??



「ショウちゃんは出かけていて、生憎(あいにく)留守だって言ったら、ここで帰ってくるまで待っているって言って、ついさっきまでここにいたんだよ」



 あれだけ電話をしてもかかってこなかったって言うのに、訪ねて来たってどういうことなの?



「さっきまで相手をしてあげていたんだが、なかなか帰ってこないもんだから、きっと会社の上司に呼び出されるぐらいだから、何か急な用事が出来て、引き止められているに違いないって言っておいた」


義父は言った。



「そんな事を言ったんですか?」


松は叫んだ。



「そう電話で話していただろ?」


義父は汗をぬぐいながら言う。



 何でそんな余計な事を言ってくれるんだ。な、何か嫌な予感がする…



「そ、それで?」


松は恐る恐る聞いた。


「そのほかに何を言ったんですか?」



「何をって?」



「徳永さん、何か言っていましたか?わたしの事、何か言っていましたか?」



「いや。ただ、今日会っているのは会社の上司ってトクミツさんですかって、聞いてくるもんだから、違う、もう一人の方の瀬名さんっていう若い男性の方だって、言っておいたよ」



「ええっ!!」


松は、飛び上がった。


「わたしが瀬名さんと会っているって、徳永さんに言ったんですか?」


何てことを言ってくれたんだ。



「何かマズかったかい?」



「や、休みの日に男性と会ったって知られたら、どんなに誤解されるか…!」



「誤解って、何さ。仕事の話で会っただけだろ?」



 それはそうだけど。



 松は、握りこぶしをつくって、身を震わせた。徳永さん、何て思っただろう。それに、何しにここに来たんだろう。それに今まで居ていたったことは、この近くにまだ居るってことだよね?




 松は、くるりと振り返り、来た道を走りだそうとした。



 それを義父が呼び止めた。



「待ちなさい、ショウちゃん」


普段は耳にしない、意思に満ちた強い声。


「行く前に、話を聞きなさい」



 松は、足を止めて振り返った状態で、佇んだ。



「な、何?」



「あの人は、ショウちゃんに会わない方が良いと言って、帰ったんだ。追い駆けない方がいい」



「え?」



「本当は、自分がここに来た事は黙っておいてくれと頼まれたんだが…」


義父は気まずげにちょっと肩を竦めた。



「どういうことですか」



「今日は彼は、ショウちゃんに会いに来たのではなくて、本当は、お母さんに会いに来たんだよ」


義父は、優しい声で言った。



「え?」


お母さんに?



「ニューヨークに帰る前に、どうしてもショウさんのお母さんに会って、話しておきたいって仰ってね」



「そ、それで?」


松は、うまく呼吸をすることができない。



 徳永さんが、昨日、あんな酷い態度をとって去って行ってしまった徳永さんが、今日ここに来て、松の母に会いたいと言うだなんて信じられないことだった。



「だけど、今日は、やめておいた方が良いと言っておいた」



「なんで?」



「お母さんは、昨日の出来事がショックで寝込んで普通じゃないし、徳永さんに対して悪い印象しか持っていない。そんな時に会わせたって、挨拶どころか、印象が悪くなる一方だろ?」



 悪い印象か。



 確かに、徳永さんを調べた興信所の結果は、母の気に入るようなものではなかった。



「だからと言って」


せっかく来てくれたのに。



「あの状態のお母さんに会わせたら、お母さん、何を言いだすかわからないから、今は、お母さんのためにそっとしておいてあげた方がいいと思ったんだよ」



「・・・・・・」



「その代わり、わたしと話したいと彼は言ってね」



「え?」



「興信所が自分の事について調べた件について、黙っていたことを謝りたいと彼は言ってきたんだ」



 謝った?


 何で徳永さんが謝る必要があるの?



「自分の両親が離婚していること、非行経験のある弟がいること、そして、二千万の借金があると言う事とかね。それらの話は全部本当で、隠していてすいませんでしたと彼は言っていた。家庭環境の事はともかく、借金の事は、少なくとも話すべきだったと反省しているとね」



「本当に、徳永さんがそんな事を言ったんですか?」



「ああ、本当だ。いつもショウちゃんに会うたびに話そうと思いつつも、話せなくて、ここまで引きずってしまったと言っていた」




 徳永さんの心中を想像して、目頭がジワと熱くなったのが分かった。


 徳永さん、いったい、どんな思いで、どんな気持ちでここに来たんだろう。


 それを思うと、胸が張り裂けそうな程苦しかった。



「すみませんと、何度も謝っていたが―――」


義父は言った。


「謝ってすむことじゃないだろうと、わたしは言ってやった」



「ええ?」


素の顔の義父を前に、松は、馬鹿みたいな声を出した。



「だって、そうだろう。結婚を考えている女性がいて、その女性に結婚を申し込んだのに、二千万もの借金があることを知らせていなかったなんて、意図的に隠していたと取られても仕方がない。誤解されてしまうのも、無理からぬことだとね」



「で、でも、徳永さんには、きっと言えない理由があったんです!」



「そうであっとしても、こういった事はすぐにバレる。現にお母さんは興信所を使って調べている。母親に限らず、ショウちゃんを大事思っている家族なら、心配するのは当たり前のことだ。それを考えたことがあるのか、現に、母親はそれを知ってキミに良い印象を持っていない。借金を隠して娘に求婚するだなんて何てことだ、位の事は言われても仕方のないことだ、と言っておいたよ」



 義父は、今まで見た事もないような憤った目をしていた。


 普段は物静かで母の尻を金魚の糞のように付いていくしか能のない男だと思っていたのに。



「酷い!どうして徳永さんにそんな事言うんですか?」


 松は座っていた椅子を蹴り倒して立ち上がった。


 そして、狂ったように叫び始めた。


「せっかく会いに来てくれて、頭下げて謝っているのに、まだその上、責め立てたって言うんですか?」



「声が大きい」


 義父は母屋の方に目配せした。


「お母さんに聞こえる」



 松は構わず大声で続けた。


「そんなに徳永さんが嫌いなんですか?徳永さんに借金があるから?ご両親が離婚しているから?警察に厄介になる家族がいるから?そんな事、徳永さんの人柄と関係ないじゃないですか!借金の事だって、何か事情があったに決まっている。話も聞かずに、なじるなんて―――」



「少し落ち着きなさい」


 義父は、松の肩を持って宥めた。


「もっと冷静に考えなさい。借金のあること事態は珍しいことではない。家を買う多くの人はローンを組んで銀行に借金をするし、経営者と呼ばれている人の多くは借金をしている。信用がないと金を借りることはできないと言って、借金ができる事をむしろ自慢に思う人間だっているんだ。だから、借金があること事態は問題ではないんだよ。人に知られて問題のない借金なら隠さず口にしたはずだ。返済計画はどうなっているかとか、普通に言えたはずだ。だけど彼は、それを敢えてそれを隠していたんだ。求婚し、結婚しようとしているお前にさえ黙っていたんだ。借金している事実を隠していた事の方が借金をしている事よりずっと重大なんだよ、それを、分かっているのかねと言ったんだ。分かるかね?お母さんやわたしが問題にしているのは、徳永さんの借金の内容よりも、彼の人柄なんだよ」




 松は、グッとツバを飲みこんだ。


 反論できない真実が、義父の言葉の中にあった。



 “隠していた”



 そうだ。



 徳永さんは隠していた。



 うっかり話し忘れたのではない。



 隠していてすみませんとさえ、謝ったという事は、意図的に話さなかったと言うことだ。




「きっと話すことが(はばか)れる内容だったんだろう」


義父は言った。


「でなかったら謝ったりしないからね」


 そう言って、義父は、ふぅと溜息をついた。



「…それで、徳永さんは?」


松は怒りを押し殺して話の続きを促した。



「何も言わなかった。何の弁解もしなかった。ただ、そうです、仰る通りですと言って黙っていた。納得のいく言い訳ができないのなら、母親にも会わせられない、今日のところは帰った方が良いと勧めた」



「・・・・・・」



「納得がいく説明ができるようになったら、またおいでと言っておいた」



「またおいでって、徳永さんは、今、ニューヨークに駐在しているのに」


すぐに帰ってこれるわけないじゃないか。



「そうかい」


義父は言った。


「それでも、ずっと向こうに行ったままってわけじゃないんだろう?また日本に帰ってくるんだろ?」



 そんなノンキな言い方ってない。


 三年先か、五年先か分からないって言うのに!



「それで?」


松は、苛々した調子で言った。


「それで徳永さんは何て言ったの?」



「黙っていてすいませんでした、と、彼は言ったよ。娘さんを傷つけて申し訳なかったと。そして、帰ると言って自分から立ち上がった。ショウちゃんに伝言はないかと尋ねたら、今日自分がここに来た事を黙っていてくれと言っていた」



「な、なんで?」



 義父は答えなかった。


 松は混乱した。


 どうして、どうして、徳永さん。わたしに会いたくなかったの?



「・・・・・・」



「そんなにションボリしなくても」


義父は慰める様に言う。


「また、会いに来てくれるよ」



 松は、まじまじと義父の顔を見た。



 今のはどういう意味なのだろうか。


 厄介者を追い払ってせいせいしたと言った母と同じ気持ちでいるのだろうか。


 それとも本気で、徳永さんがまた会いに来ると考えているのだろうか。



 この人は母の夫だ。


 母の飼い犬のように、何でもウンと頷いて合せている彼が、松の肩を持つなどと、松は考えたこともなかった。



「黙っていた理由を話す気分になれれば、また会って話す機会もあるよ」



 その安易な言い方に松はカッとなった。



「そんなに簡単に言わないでよ!だって、彼は今、ニューヨークにいるのよ?また会って話すなんてこと、そう度々あるわけないじゃないの!!」



「もし、これで二度と会いに来ないようなら、彼の事は諦めた方がいい」


義父は言った。


「そこまでショウちゃんに想いがないということか、もしくは、それだけの骨なしってことじゃないか」



 骨なし?



 松は、徳永さんの代わりに自分が思い切り侮辱されたような気分になった。この男を真正面からぶん殴ってやりたいと思うのを、必死に拳を握りしめて耐えた。



「徳永さんは骨なしなんかじゃありません」


努めて冷静に言う。


「徳永さんほど、努力家で、人間の出来ている人はいません。皆、勘違いしているのよ!勝手なことばかり言わないで!!」



 義父は、松が怒り狂っているのを、「やれやれ」と、両肩をそびやかした。


 松は、くるりと踵を返すと、義父が後ろから


「追いかけるのはやめなさい!」と叫んでいるのを無視して、家の外に飛び出して行った。



 自転車に乗り込み、駅に続く道をひた走りに走り続けた。


 駅まで歩いて軽く二十分ぐらいかかる道のりなら、自転車で追い駆ければ追いつくかもしれない。



 徳永さん、徳永さん、徳永さん…!!!



 心の中で、愛しい人の名前を叫び続け、松は漕ぎ続けた。




 下り坂の道なので、五分少々で駅までついた。


 駐輪場に回すのももどかしく、その辺の舗道に駐輪して、階段を上って改札の方に走って行った。


 途中、頭を左右に振り、視線めぐらせ、必死の思いで愛しい人の姿を求めた。



 徳永さん、今度こそ行かないで!!



 私のところに戻ってきてよ。


 今まで隠してきたこと、話せなかった事も、わたし、聞くから。


 一言も責め立てずに、全部受け止めるから。


 だから、お願い、逃げないで。


 ここに戻ってきて。




 生理的な汗と冷や汗が混じってこめかみを流れ落ちてゆく。


 昨日別れたときは、まだ近いうちに会えるんじゃないかと、心のどこかにかすかな余裕があったが、今はそんな気持ちには微塵なかった。


 今日ここで、会えなかったら二度と会えないような気がした。


 永遠に彼を失ってしまうような気がした。




 改札の向こうの電光掲示版に空港に直行するバスが頻繁に出入りする大きな駅に向かう快速急行が、数分後に出発すると表示されていた。



 二番線だ。



 電車は二番線に来るのだ。



 松は定期券を使って構内に入ろうとしたところ、人ごみなからから、見覚えのある背の高い人が、改札の向こう側を左から右に横切るのを視界の端に捕えた。



 間違えるわけない。



 松は、気が付いたらその人に向かって叫んでいた。


「徳永さん!!」




 後ろ姿の肩がびくりと震えた。


 彼は、身体を半分だけ反転させて、首をよじってこちらを見た。


 昨日と同じジャケット姿。髪はバラけて、顔色も悪かったが、目はいつものようにりりしく光っていた。



「徳永さん…」



 徳永さんはジッとこちらを見ている。


 ああ、徳永さんだ。松の大好きな徳永さんだ。


 あれは松を好きだと言い、求婚してきた徳永さんに間違いなかった。



 彼はしばし、疑うような目つきでこちらを眺めていた。


 松が目の前にいるのが信じられないのだろう。


 松は、一刻も早く彼の側に行きたくて、定期券を取り出して、改札をくぐろうとしたが、その瞬間、徳永さんの表情が変わった。



 えっ。何?

 

 彼は口の端をあげて笑っている。


 わらっているのだけど、その微笑みは、今まで彼女が見た事のないものだった。




 どうしたの徳永さん。


 なんでそんな顔しているの?



 一瞬のうちに目からりりしさは消え、上がった口角はいびつに歪んだ。笑うというより、嘲笑ってるという表現がぴったりかもしれない。


 松は、ビックリしてその場から動けなくなってしまった。



 こんな冷たい顔の徳永さんを知らない、


 この人は徳永さんなのだろうか、


 それとも私の知っている徳永さんに似た誰かなのだろうか。



 松は、化け物を見たかのようにゾッとして彼から目をはなせず、また動けなくなってしまった。



 


 松の足が止まったのを見届け、彼は、安心したかのように、歪んだ唇をもっと歪ませてフッと息を吐いた。


 それは誰かを嘲笑しているかのようで、何に向かってその表情が作られたのか分からなかった。


 そして彼は、松から視線をはずすと、いつもの軽々とした足取りで、トランクを引いて構内にあるやってきたホーム行きのエレベーターに乗り込んだ。




 彼を見納めたのはこの時が最後だった。



 

 後々、徳永さんとの出来事を思い出したとき、この時の彼の姿が最後だったのを何度も思い出すに違いない。


 楽しく、希望と明るい未来をもたらしてくれた大好きな徳永さんとの最後の姿が、冷たくそっけなく、こんなにもあっけないものだったと思い出すに違いない、


 と松は、そんな事をぼんやりと考えていた。




 ホームは一階だから、改札をくぐらないことには彼の姿を見ることはできなかったが、松はもはや追い駆けなかった。彼は追いかけられることを望んでいないのだ。



 付いて行ってはいけないのだ。


 わたしを必要としていないのだ…



 間もなく


『二番線に到着します列車は…』


というアナウンスが流れ、電車がやってきた。


 

 ドアが開く音。人々が乗降する音。



 降りてきた人達が、階段を上がり波になって改札に向かって流れてきた。



 ドアがバタンと再びしまる音が聞こえる。


 ファン…


 という列車が発車する音と共に、電車が駅を離れてゆく音が聞こえてきた。



 松は相変わらず、改札をくぐらない状態で佇んだまま、その一連の音を聞いていた。


 

 徳永さんはその電車に乗ってしまったことだろう。


 彼は飛行場に向かって行ってしまった。


 ニューヨークに帰って行ったのだ。




 松は、踵を返し、その場を離れた。


 もう追い駆けることはなかった。


 呆然と言うより、予期していた事が起ったような感覚、


「ああ、やっぱり」


と、予想していた事が的中したみたいだと思っている自分がどこかにいた。



 不思議と冷静だった。


 松はただぼんやりと、


「徳永さんとはこれで終わりなんだな」


と言う確信にも近い何かを、静かな気持ちで噛みしめていた。



 徳永さんは、隠し事をしていた。


 二千万の借金があることを敢えて隠していた。


 そして、それについて事情も話すこともなければ、言い訳もせずに去ってしまった。



 恋人が去って行ったというのに、松は、自分の心の中かどうしてこんなに冷めていて、喚きたてることもなく、嘆き悲しむこともない自分が信じられなかった。


 

 私は徳永さんに冷めてしまったのだろうか?



 いや、そんなことない。



 そんなはずはなかった。



 松は、徳永さんの事が好きだった。



 今でも好なのだ。



 彼と共にいられる時のあの忘れえない居心地の良さ。



 言葉がなくとも隣にいるだけで伝わってくるあの癒されるような感じ。



 怒った顔も、厳しく接してくれた時でさえ、松にとっては、大事なひとときだった。



 それを、こんな形で終わるだなんて、思いもよらない事だった。



 でも、彼は去ってしまった。



 云ってしまったのだ。



 やはり彼は、松を騙していたのだろうか?



 借金の返済を手伝わすために、松に求婚したのだろうか?




 そんなはずない。


 と、松は首を左右に振った。



 彼は松を大事に思っていたはずだ。



 でなければ、今日発つはずだった飛行機に乗らず、松の家までやってきて、隠し事をしていたことを詫びたりしないはずだ!




 無言のまま、自転車をついて、自宅に帰った。


 義父が何か言い足そうに松を眺めていたが、何も言わなかった。


 夕食のとき、やっと自室から出てきた母が、気疲れした表情で食卓についていたが、お互い、一言も発しなかった。




 翌日の月曜日に、トクミツ部長と面談があった。


 瀬名さんが前日に話を通していたので、彼は、本社の経理にはいかず、支店に残る旨を、淡々と確認し、新しい組織編制は秋になる前には発表されるから、それまで今の体制で頑張って欲しい、とだけ言った。


 彼は、松と瀬名さん、または徳永さんとの関係を色々と聞かされて知っているだろうに、そんな事には一言も触れなかった。彼は、本当に忙しそうで、疲れていて、他人のプライベートに首をつっこむような余裕など米粒ひとつほどもないようだった。



 とりあえず新しい携帯電話に新しくアドレスを登録しなくては。


 新しい携帯電話を手に、松はぼーっとした頭で考えた。


 さっそく友達に頼んで、新しいメルアドと電話番号を教えてくれるように頼んだ。


 友人達は、すぐに連絡してきてくれた。


 徳永さんの連絡先は、トクミツ部長でなくても、部長秘書の乙部さんなら控えをもっているかもしれないが、松は、自分から聞きに行くことはしなかった。



 数日後、珍しい人からメールが来た。


 カイ君からだった。


 彼とは最初の合コン時からメルアドは交換していた。



『今日、五時半に一階エントランスに来い』



年上に向かって命令口調とは、相変わらず生意気な態度だ。


 彼とは、長く連絡はしていなかった。


 何の用だろうかと考えるまでもない。


 きっと徳永さんとのことに違いない。


 彼のことは、この前からも社内でチラチラ見かけたが、接触したくなくて、なんとなく避けていた。



 このような直接的なメールが来たのでは仕方がない。


 彼には色々と相談にのってもらっていた。


 徳永さんとのことが、どういう結果になったか報告する義務があると思った。


 彼には、ビル一階に入っているオープンカフェ前で待っていてと返信した。




 終業時刻になって、さっさと仕事を終わらせた。


 お疲れ様と言って、席を立つ。瀬名さんもお疲れ様と、ふつうに声をかけてくれる。


 いつもと変わらない慇懃(いんぎん)な態度。彼とは昔からこうだった。


 これが普通だった。ふたりはずっとこんな関係だった。やっと元に戻ったのだと松は思った。



 オフィスの入っているビルの一階カフェ近くのエントランスのところで、カイ君が柱のすぐ脇で立って待っているのが見えた。


 足は肩幅に開き、両腕を組んで何かを睨みつけるその様は、この往来を行き来する人を監視する、仁王像かなにかのように見える。


 彼は、松の姿を認めて近づいてきた。



「久しぶりだね、カイ君」


なるべく、何気ない調子で明るく声をかける。



「あんたに話があんだよ」


彼は、機嫌が悪そうにそう呟いたかと思うと、さっそくベラベラと喋り始めた。


「アンタ、なんだって、アイツを繋ぎ留めなかったんだよ。どうして一人でいかせちまったんだよ」



 松は、ハーッとため息とついた。


 カイ君が“アイツ”と呼ぶのは徳永さん以外にいない。



「何の話?」


松は、うざったそうにすっとぼける。


 こんな人通りの多い場所で、彼とこの話をしたくなかった。だけど、カイ君はかまうことなく話を続けた。



「前に、忠告しておいただろ?アイツ、一人で色々と不自由事を抱えていてんだよ。もっと信じてやれって言ったじゃないかよ。どうして、諦めんだよ」



「何の話よ?」


松は言い返して話をきりあげてやろうと思ったが、



「ぁあ゛?」


反論を許そうとしない恐ろしい声音が帰って来た。


 「何他人事ような顔してんだよ。何の話なのかわかってんだろ?アイツの話に決まってんじゃんか。どうして、もっと話し合わなかったんだよ。どうして、追い駆けなかったんだよ」



「追いかけるって、ニューヨークまで行けってこと?」


この口ぶりから、おおかたの事は聞いているのだろうと松は諦めをつけて返答する。



「そうだよ、ニューヨークまで追い駆けて行くんだよ。そして、話し合えよ」



 そんな、むちゃくちゃな。



「でも、追いかてくるなって、言われているから」


松は、そっけなく言った。


「どうせ訪ねて行っても門前払いだと思う」



 カイ君は、眉間のしわを更に深く寄せた。



「何意地張っているのかしらねぇけどよ。お高く留まって、腹立てても、誰も、何もしてくれぇんだぞ。後悔することになっても後の祭りだぞ」



「だって、ものすごく拒絶されたんだよ?」



「言葉通りに受け取るなって、この前から何度も言っているじゃねェか。アイツだって色々苦しんでいるんだよ」



 そうかもしれない。


 彼はきっと、色々かかえて苦しかったのだと思う。


 だけど彼は、わたしに一言も相談しなかった。


 打ち明けてくれなかった。


 二千万の借金の事を隠して、説明してくれないまま云ってしまった。


 これ以上どうしようがあっただろう。


 わたしに何ができただろう?



「わたしだって、徳永さんの事、もっと知りたかったよ!」


泣きそうになるのを必死に抑えながら、精一杯反論する。


「もっともっと知りたかったよ!!だけど、教えてくれなかった。話してくれなかった。徳永さんの事、何も分からないまま、酷いこといっぱい言われて、尋ねる隙なんか全然なくて、結局、ダメだったんだよ」



 最後の方は、本当に泣きそうだった。


 エントランスを行き来する人達が、ちらちらとこちらに目をやりながら通り過ぎてゆく。



「このまま何もせずにいたら、本当に終わりになっちまうんだぜ」


カイ君は言った。


「後でぜってぇ後悔する」



「あたし、もう、これ以上何かして傷つきたくないんだよ」


松は力なく言った。


「もう、何のする気も起らないんだよ。だからもう、放っておいてよ」



 松はそう言ってカイ君を振り切り、ビルの外に出ようとした。



「あんた間違っているよ」


 カイ君は松の後ろから引き止めるように言った。


「あんた道、間違ってる。辛いのは、アンタだけじゃねえ。お前は今、自分の不幸しか見えていないようだけど、人の心の痛みも想像してみろよ。兄貴が今どんな思いでいるか、少しでも考えてみろよ」




 松は、外に向かって歩こうと踏み出していた脚を止めて、くるりと振り返った。




「…兄貴って?」


松は、思いっきり目を見開いた後、眉を顰めた。


「兄貴って誰?」



 カイ君は静かに言った。


「そうだよ。アイツ、オレの兄貴なんだよ」



「嘘、兄貴って、え、まさかカイ君って?」



「嘘じゃねェ、アイツはオレの兄貴。オレは弟」



 松は否定する言葉を探したが、すぐにひっこめた。


 松はまじまじと、目の前の男の顔を眺めた。


 いや、どうして気付かなかったのか。


 考えてみれば、すぐに分かることだ。


 彼と最初に会った時から徳永さんをショウユ味にしたような顔だとずっと思ってきた。



「カイ君が徳永さんの弟なの?」


松は再び尋ねた。


「なんで黙っていたの?」



「これだけは、絶対口滑らすなって、言われていたからだよ。だけど、事此処に至っちゃ隠していてもしょうがねぇからな」



「じゃぁ、警察に厄介になった事のある弟って…」


思わず、口が滑ってしまい、慌てて掌で覆ったが、もう遅い。



「オレ以外にいないだろ」


そう言って、何でもないような顔をして、カイ君は自分のこめかみの傷を指し示した。



 出逢った当初の頃、ほんの一瞬兄弟かも?と疑ったこともあったが、苗字が違っている点で、その可能性を忘れてしまっていた。


 しかし、考えてみれば、両親が離婚していれば、兄弟でも名前が違うのは有りうる話だ。


 普通の親戚にしては近すぎる関係だと思ってはいたけれど、兄弟だと言えば全て辻褄があう。


 徳永さんとそっくりな顔を持つこの弟は、徳永さんと同じ遺伝子を持つ弟なのだ。



「それだけじゃねぇ」


 カイ君は、驚いている松に話を畳み掛ける。


「家庭の事情も、色々金に苦労していることも、そういった事がばれるのを、兄貴はものすごく恐れていたんだよ。もちろん会社にも隠していたし、アンタには一番知られなくなかったんだよ」



「恐れていた?」


松は、前髪をかき上げながら、半信半疑で、尋ねた。


「なんで、なんでよ。アタシに知られるのを恐れるの?」


 

 なんで恐れるの?


 そんな辛い悩みなら、むしろ一番に教えて欲しかったぐらいなのに。



「なんでかって…」


カイ君は非常に苛立たし気に毒づいた。


「あんた、それ、わかんねぇのかよ」



「え?」



「なんでわかんねぇんだよ!!」


カイ君は、一階のホールじゅうに響き渡るような大声を出した。



「ええ?」


 混乱したまま、松は、カイ君の怒りに狂った顔を見つめる。



「お前は、どこまでアホなんだ!!」



 松は、眉間に大きな皺を寄せて怖い顔をしているカイ君が、徳永さんそっくりだと思った。まるで徳永さんに怒られているような気分だった。



「そりゃ、あんたの事が好きだからに決まっているだろうが!!!」


彼はそんな事わかんねぇのかよ、と言いたげにキツイ口調で言い放った。


「誰が好き好んで、好きな女に自分の不利な情報をすすんで教えるっていうんだよ!それもわかんねぇのかよ!!」


彼はそう言って再び叫んだ。


「このどアホ!!!」



 カイ君の叫び声がホールじゅうに響き渡る。




 好きな女。


 好きな女…?




 その言葉が耳に入ったと同時に、全身に電流が流れたかのような衝撃を感じた。


 と同時に、両目から涙がぽろぽろと流れ落ちた。



「す、好き?」


松は、涙を流しながら目の前の男に尋ね返した。


「徳永さんは、本当に私の事、好きなの?」



「あ、あ、あ、あったりめぇだろうが。今更何ジタバタ疑ってんだよ」


カイ君はその後に、アホは相手にしてられねぇわ、と、ブツブツ言っていた。



「だ、だって、ゲームオーバーだって…」


涙が次々と床に落ちる。


「わたしとの事、ゲームだったって、徳永さん、そう言ってたから」



「だから言ってんじゃねェか。あいつ、ついに、自分から言いだせなかったんだよ。だから、自分からおわらせようと、そんなアホな事言っちまったんだよ。だけどなぁ、よく考えてみろよ。本当に好きでなかったら、忙しい中わざわざ口実作ってニューヨークから日本に戻ってお前に会いに来たりしねぇだろ?付き合ってくれって言わねェだろ?結婚しようって、言わねェだろ?」


「・・・・・・」



「好きでなかったら、予約していた飛行機を遅らせてまで、喧嘩した翌日にお前に会いに来るか?お前の親に挨拶しようとするか?お前の家族に頭下げたりするかよ?」



「カ…カイ君…」


徳永さんそっくりの顔を見てもっと涙が溢れてきた。



「オイ、コラ。ビービー泣いてんじゃねぇよ。しっかりしねぇか。このどアホ」



 松は、ハンカチを目がしらに当てて必死に涙を抑えたが、流れはじめたものはとまらななかった。



「こうなるの分かっていたから、だから、オレは、お前の方から聞き出せって言っていたんだよ。覚えてんだろ。?前にオレが、そう言った事、覚えているだろ?」



 そうだ。覚えている。


 松は頷いた。


 徳永さんには色々言えない悩み事や事情を抱えていて、だから聞いてみろって、カイ君は徳永さんの自宅の電話番号さえ教えてくれた。


 その悩みとは、もしかして、彼のかかえている借金のことだったのかもしれなかった。


 彼はそれをひとりで抱え続けて、苦しんでいたのだ。


 言いだせなくて悩んでいたのだ。


 なのにわたしは何をした?


 彼の部屋に女の人がいると知り、それだけで動揺してしまい、尋ねるどころか、電話さえ切ってしまったのだ。



「カ、カイ君…、アタシ、どうしよう…あたしもう、死んじゃいたい」


松は、いきなり彼の肩に顔をうずめたかと思うと、ワンワンと泣きだした。


「と、徳永さんに、きっと、呆れられた、嫌われちゃったよ」


嗚咽の中から言葉にならない言葉を出した。



「何言ってんだよ、嫌ってねェよ。ちょっと頭きて、腹立てているだけだって」


カイ君はいきなり死ぬ気にさせてしまってアセったのか、ちょっと優しい口調になって、珍しく慰めてくれたけれど、松は、一層激しく泣き出した。



「そんなことない、あたし嫌われたよ」


松は咽び泣きながら言い続けた。


「あたし、間違えた。馬鹿なことした。話を聞いてあげるどころか、そんな徳永さんを追い詰めるような事を言った。呆れたに違いない、取り返し付かないよ…」



 カイ君は、だまって松の垂れた松の頭を見下ろしていた。


 その視線がつらかった。


 彼には、以前、



「人ん家の庭をキレイだと羨むような人間に幸せなんてくるわけがねぇ。人の気持ちを想像すらできねえ奴に、てめぇの幸せばかりを考える奴が、幸せになれるわけねぇだろうが」


と、指摘されたことがあった。


 その時、彼のことを何てキツイ事を言う人だろうと、その言葉にものすごく傷ついたが、このことだったと、やっと彼の言わんとしている意味を理解したのだった。



 

 自分の事情や感情ばかりにかまけて、徳永さんの抱えているものを少しも見ようとしなかった。


 考えようとさえしなかった。


 ただ彼の事を3高の呼び声に相応しい、美しい見た目通りの人物だと信じて疑わず、浮かれてばかりいたのだ。




 カイ君の言うり、本当にわたしは大馬鹿者だと思った。




 どうしたらいい、どうしたらいいの?


 どこにも希望は見いだせなかった。




 本当に道を誤ったのだと、松は今やっと気が付いたような気がして、後から後から涙が止まらなかった。




<17.徳永さんの身の上> へ、つづく。


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