14.桜散る日
14.桜散る日
「ショウが、好きなんだ」
この言葉こそ、夜となく昼となく、ニューヨークに居たときも、空港で別れたときも、離れ離れになってしまった後も、松が待ち望み、恋焦がれていた言葉であった。
松は徳永さんが好きだった。大好きだった。
だから彼女は、もうずっと長い間、彼に好きと言ってもらいたくてたまらなかったのだ。
そして、ついに今、彼はその言葉を言ったのだった。
やっと想いが繋がった。
それが嬉しくてたまらない。
松は、薄く瞼を上げた。
松の唇を貪り、長い睫を官能的に揺らす彼が目の前にあった。
松は、彼の唇は柔らかくて暖かいとか、花びらが耳にも髪にもひっかかっているとか、そんな事を考えながら、彼との接吻に夢中になっていた。
やがて彼は、ふいに松から唇を離すと、
「ショウ、どうして返事をしてくれないの」
と、気難しそうな顔で尋ねてきた。
してくれないのって、思わず吹き出しそうになる。
唇がふさがれている間、喋ることなどできないではないか。
それにあまりに気持ち良くて、なかなか唇をなかなか離すことができなかった。
「それとも、ショウは今、オレと瀬名君を比べてどっちにしようかと迷っているのか?」
「なんで、徳永さんと瀬名さんを比べなくちゃならないんですか?」
未だ疑いの目で見ている徳永さんに、むっとして抗議する。
「瀬名君から交際を申し込まれたんだろ?」
不愉快に歪む口元はなかなか元にもどってくれなかった。
「さっきそう聞いたが」
「瀬名さんには、確かに交際を申し込まれましたけど、そういう目で見ることはできないって、ちゃんと言ってあります!」
松の口調も、もういい加減にしてよと言わんばかりになる。
「・・・・・・・」
今度は徳永さんが黙り込む番だった。
「じゃ、どうして返事をしてくれないんだ」
彼は再び言った。
「ショウは今、どう思っているの」
返事?
何の返事??
松は最初から徳永さんのことを好きだとは伝えてある。交際も承諾している。では何の返事をすればよいのか?
会社を辞めれば、と言った事?
一緒にニューヨークに行かないかと言った事?
結婚しようと言った事?
仕事の事に考えが及んで、松はちょっと冷静になった。
松は、いずれ徳永さんと結婚するときに、仕事を続けるか辞めるか考えねばならないと予想していたが、早くとも三年先と思っていたので、今どうこうしろと言われても、すぐに結論を出すことができない。
が、これは今すぐ考えねばならないことぐらい、松も分かっている。
ニューヨークと日本。
どちらに居場所があるかと尋ねられれば答えは明白だ。
結局松は、本社の経理に行っても、支店に残っても、リストラの可能性があるのだ。
今、彼は、結婚を申し込んでくれている。
ニューヨーク一緒に行こうと言ってくれている。
松は、徳永さんが好きだった。
そして、徳永さんもまた、松を好きと言ったのだった。
ふたりは、いずれ結婚するつもりでいた。
ならそれが、三年またずとも、今実行してしまっても何の不都合もないではないか。
「その顔は」
徳永さんの目が、不安そうに歪む。
「何を悩んでいるんだ?」
「わたし、徳永さんと結婚できるのなら、こんなに幸せな事ないって、考えていた所です」
松は、素直に思っている事を口にした。
「ただ――」
「ただ?」
徳永さんは、ジッと松の表情をとらえた。
「今ここで会社を辞めたら、負け犬のような気がして。わたし、優秀なんかじゃないですけど、これまで真面目に働いてきましたし、悪いことに手を携えた覚えもありません。川崎常務が何を怖がっているのか知りませんが…」
「なんだそりゃ。川崎常務が何だって?」
あ、しまった、舌滑らせちゃった。言うつもりなかったのに。
「川崎常務が何で、ショウを怖がったりするんだ?」
マズい。 徳永さん目がマジ入っちゃって る。ど、どうしよう。やっぱりたとえ徳永さんといえども、不正経理のことは話さないほうがいいよね。
引きつった笑みを浮かべて誤魔化そうとするが、徳永さんには通用しないようだ。
「ショウ、何を隠しているんだ?やっぱりショウは、 川崎常務と愛人関係にでもあるのか?」
うわ、怖い。
「愛人なんかじゃないってば!ち、違うってさっきから言ってるじゃないですか」
「じゃ何なんだ。でなきゃ、仕事上の彼の弱みでも握っているとかか?」
ギクッ。
「やっぱりそうなのか?」
別に川崎常務の弱みを握っているわけはない。作業をした都合上、単にシステムの不備がはからずも不正経理に繋がってしまったことを松は知っている、というだけの話しだ。
「その、徳永さんには、詳しく言えないけど、その、業務のことで川崎常務は私が何かを知りすぎてると思い込んでるだけなんですよ。でも本当に私、誓って言いますけど、本当は、リークしてあの人達が困るような強みなんて、わたし、何もないんですよ」
松の慌てた物言いに徳永さんは余計に眉をひそめた。
「じゃ何で、彼は、ショウを辞めさせたがっているんだ?ショウは何を、誰をかばってんだ?」
「かばう?別に誰もかばってなんかない」
松はむきになって言った。
システムの不備のことについては誰かがわるいというわけじゃないっ て瀬名さんも言っていた。
「ただ、"この件に関しては"外に漏れたらどう誤解されるかわからないから、私や乙部さんに口外するなと、川崎常務はそう言っているだけで」
それでも徳永さんは納得いってないようただった。
歯がゆいのは松とて同じだった。
本社の経理の椅子を提供するよと言っておきながら、その先はリストラだなんて、何てズルがしこいことをするんだ。
会社のリストラ政策の一環で、自分もまたその他大勢の社員と同じように辞めざるを得ないのなら諦めるしかないが、悪いことしたわけでもないのに、こんな風に裁かれるようにリストラされるなんてやっぱり納得できなかった。
徳永さんは難しい顔のままだった。
ハッキリ言わない松に、気分を悪くしたのかもしれない。
だけど仕方ないじゃないか。
松がリストラに納得いかないという言葉を口にしたことが、徳永さんとの結婚に乗り気でないように取られるのは心外だが、
「会社に見切りをつけて、俺のところに永久就職すればいい」
と、まるでバスを乗り換えるような言い方をされれば、いやいや待ってくれ、まだリストラされたわけじゃないんだから、とも言いたくもなる。
「言いたくないなら無理には聞かないけど」
徳永さんは静かに言った。
「ショウが悪くないんだとしたら、このまま、辞めずに会社に残るのは正当なことだ。本社の経理を断っても、リストラされずに支店に残れるかもしれないしね。でも、リスクが消えたわけじゃない。何が起こったのか知らないが、ショウのことを邪魔だと思っているのなら、川崎常務は経費削減という名のもとに、今後、いくらでも辞めさせる方向に持っていくだろう」
「・・・・・・」
「ゴメン、こんなキツイ言い方はしたくなかったんだけど」
松の顔に浮かんだ悲しそうな表情に気付いた徳永さんが口調を和らげて言う。
「将来、ショウが傷つくような事が起らないかと、それが心配で言っているんだよ」
やっぱり、今度の本社の経理の話は、川崎常務が考えた計画的なものなのかな。
「川崎常務のようなエライ人が力をふるって便宜を図るということは、それなりに意味があるんだよ。見返りがなければ、動きはしない。それは“自分に不利な情報を握ってる花家松”と言う目障りな人間をリストラするということなのかもしれない」
それが本当なら全くヒドイ話である。それに、川崎常務の力を借りて本社の経理の話を勧めた瀬名さんも、その悪事の片棒を担いでいたのだろうかという疑念が湧きおこる。
瀬名さんは、本社の経理が東京に移転する一年の間に、松にモーションをかけて「その気」にさせる算段で、付き合ってくれと言ったのかものかもしれない。
現場にいない桐子までもが、
『ライバルがニューヨークに居ている間、瀬名さんは松を本社の自分近くに呼び寄せて、松を手なずけておこうって腹積もりなのよ』
なんて言っていたことがあった。
松は支店枠の採用で、社内規定に照らせれば、支店から外に出ることはではない。
本社の移転が決まれば、東京にも行けず、支店にも戻れず、助けを求めようにも、元の上司は離れてしまい、頼りになる恋人は海の向こうで相談すらできないのだ。
行き場を失ってオロオロしている情けない自分の姿が目の前に浮かんだ。
そこへ、瀬名さんが待ってましたとばかりに現れて、松に手を差し伸べるのだ…
そんな筋書は、劇的過ぎて、昼ドラの見すぎだろうと軽く考えている場合ではない。一年後に本社が移転してしまえば、松は、リストラされる可能性が高いのだから、冗談では済まされない。
考えれば考えるほど、川崎常務と瀬名さん、双方の利益がぴったりと合って、進められた計画なのではと思ってしまうのだった。
松は、だんだんとアタマに来た。
“キミのために本社の経理の席をもってきたんだ”
などと殊勝に申し出てくれた瀬名さんが、もとよりこのカラクリを知っていたのだろうかと思うと、前ほどいい人のようには感じられなくなった。
「その困ったような顔は」
徳永さんは言った。
「返事に困っているのか?」
「え?」
瀬名さんの事を考えていた間、いつの間にか眉間に皺を寄せて考え込んでいたようである。
「オレは、キミに好かれているのだと相当自信を持っていたんだが、単に自惚れていただけなのか?」
さっきのキスで、彼も確信を持ったのであろう。
そんな台詞を言ってくる。松は赤くなってうつむいた。
「そんなことありません」
慌てて否定する。
「じゃ、どうして返事をしない。オレと結婚するのは嫌なのか?」
「い、嫌なんじゃありません!ただ、もっとちゃんと確認しなければ」
「誰に何を確認するんだ?」
「ほ、本社の経理の話です。本社が東京に移転するっていう話を…」
「誰に確認するんだ。確認してどうするつもりなんだ?」
彼は怒った声でぞんざいに言う。
「それで、オレの言っていることに間違いがあったら、やはり、本社の経理に行くつもりでいるのか?」
だんだん怒り口調になってきた徳永さんに、松は慌てふためく。
徳永さんの苛々はピークに差し掛かっており、こんな徳永さんを見た事がなかったので、怖くなってしまった。
徳永さんは、少々テンパることはあっても、それを滅多に表に出さない。機嫌が悪い時ほど、自分のカラに閉じこもって能面を顔に張り付けようとするのに、今日は、焦りが全面に表情に現れていて、どうしていいか分からなかった。
「わ、わたしだって、本社が移転する話は今聞いたばかりなんです。川崎常務からのお願いだから断らないでくれって頼まれていたのに、それがリストラに繋がっていと聞いて、せっかく頑張ろうって思っていた矢先にショックで…」
松は半分、涙声になって言う。
泣かせてしまって、徳永さんは我に返ったようだ。
「ゴメン」
と一言言うと、松の背中を優しくなで始めた。
口調が和らいで松もほっとしたが、まだ笑顔ではなかった。
「困らせてゴメン。返事を無理に迫っているって分かっている。でも、オレも時間がないから、つい」
忘れそうになっていたが、徳永さんは今日にでも東京に移動して、明日はニューヨーク行の飛行機に乗る予定になっていた。
その前にしなければならないこともあった。今日はどうしても、彼に母と会ってもらいたかったのだ…
「ショウ」
彼は、再び松の名を呼んだ。
松は顔をあげた。
「いつも時間なくて、ゴメン。焦らせているのはオレの方なのに、責めるような事を言って」
突然諦め口調になったので、どうしたのだろうかと、松の方が焦りが募って来た。彼女は慌てて言った。
「わたしは、徳永さんと結婚できるとしても少なくとも三年先だと思っていたから、心の準備ができていなくって…徳永さんと結婚することが嫌なわけじゃないんです」
松の口から結婚に前向きな言葉が出て安心したのか、徳永さんの表情が和らぎ口元が少しだけほころんだ。
「分かっているよ、今すぐじゃなくていい…落ち着いてからでもいい。ただ、確約だけ、近い将来一緒になってくれるっていう約束だけはしてくれる?」
「確約?」
徳永さんが落ち着いてくれたので、松もほっとして顔をあげて聞き直した。
「婚約するってことだ。親御さんにもちゃんと紹介してほしい」
この申し出は当然なことであり、今日達成しようと思っていた目的のひとつでもあった。
双方の意思を確かめ合って、将来の約束をする、ということだ。
松は、はっきりと目を見て答えた。
「はい」
と。
話しの流れ的に、この返事は間違っていないだろう―――
徳永さんは、松の返事にやっと安心したのか、いつもの笑みを浮かべようと口の端を持ち上げようとしたとき、松は、今、この桜の花の下ですべきだった重要な話を思い出して、再び心音が早鐘のように打ち始めた。
松の表情の変化を見守っていた徳永さんの方が、もっと青くった。大丈夫、と思っていたに違いない。今言われた台詞の中に何か、不都合な言葉があっただろうか?親に合って欲しいと言い出したのは松の方なのだから、問題はなかったはずだ。
「どうかしたの」
「あ、あの…」
松は、首を振ったり傾げたり、手をもみしぼったりして、言葉を探した。
「わ、わたしの親に合ってもらう前に、その、徳永さんにどうしても話をしなければならないことがあって…」
いよいよ、爆弾を投下する時がやってきた。
松の表情から、よくない情報だと察知したのだろう。徳永さんの笑顔は口の端までもどってくることなく、険しさが額をよぎった。
「話?」
「話といいますか、お耳にいれておかなければならないことがあって…」
松は、増々青ざめる。
身を固くして膝の上で固く握りしめている松の手を、徳永さんは、そっと持ち上げて自分の手に包んだ。
「どうかしたの、言ってごらん」
彼は、優しく言った。
「母に、この前、徳永さんを紹介したいって話したんですけど」
今から口にすることを、徳永さんが聞いたら、昨日の瀬名さん同様に非常に傷つけることになるのではと、それが気が気でなかったが、この話をせずに、彼を母親の前に出すことはできない。
「何?」
「母が…、その、調べたらしくて」
「調べた?何を?」
「あの、その、徳永さんのことを」
「オレの?」
「はい、徳永さんの事を、その、興信所を使って調べたそうなんですが」
松は、徳永さんの目を見ることが出来ず、視線は徳永さんの胸から口元あたりにあったが、“興信所”という言葉を口にしただけで、徳永さんの表情が見た事のないぐらい変わったことが分かった。
「―――オレの何を調べたの」
「あの、徳永さんのご両親が離婚されていることとか、警察にお世話になったことのある弟さんがいらっしゃるとか、その、徳永さんに借金があることとか…」
緊張のあまり固く冷たくなっていた松の手を包んでくれた暖かな手が、その瞬間、離れていくのが分かった。
この話をすれば、彼は驚くだろうと思っていた。
松は顔をあげて、徳永さんの顔をやっと見た。
徳永さんの顔は、昨日の瀬名さんのあの衝撃に満ちた顔と同じぐらいか、それ以上に真っ白で強張っていた。
「オレの借金だって?」
彼は言った。
「借金があることを調べたのかい?」
「ええ。徳永さんには、二千万の借金がおありになるって…」
彼は、借金のことは今まで口にしてこなかったのだ。
それは、きっと、絶対に知られたくない事柄だったからだ。
自分の知らないところで身上を、しかも一番の弱点を調べ上げられ、将来を考えている相手から、不利な証拠として突きつけられ、詰問されれば、決していい気分なわけがない。
「で?」
彼は、こわばった表情のまま、機械的な口調で言った。
「それで、お母さんに何か言われたの」
「あの、えっと、その言いにくいんですけど…母は、その、徳永さんが借金のことを隠したまま、将来を考えた交際を申し込んだのは、わたしにその、借金の返済を手伝わすつもりじゃないかって、言いだしまして」
「・・・・・・」
徳永さんが、呼吸をとめているのが分かる。
顔はますます固く、こわばってゆく。
「わたしは、徳永さんがそんなこと考えるはずないって、すぐに言ったんですけど」
松は、おずおずと続けた。
「そういう話をする暇がなかったから、単に言い忘れていただけだって、言ったんですけど」
「けど?」
「けど、と言いますか」
徳永さんがあまりに、冷たい表情で見下ろしてくるので、松はどうしていいか分からなくなって、こちらも青くなりながら言う。
「それならば、土曜日に、徳永さんが家に来られた時、それを尋ねてみようかと、母は申しまして…」
徳永さんは、胸を上下に揺らして息をついだ。
少しだけ表情が和らいだ。
「それだけ?」
彼は言った。
「二千万の借金のことを尋ねるって、そう言ったんだね?じゃあ、僕は、今日は、その質問に答えればいいだけなんだね?」
彼は、確認を置くように言う。
「ええ、はい、まぁ、そうなんですけど」
それはそうなのだが、それだけではない。
松は、彼が受けるかもしれない衝撃を、事前に知らせておきたかった。
母が、当然、徳永さんのことを明日の見合い相手(もちろん、松は会う気はなかったが)と比較して、徳永さんにミソクソつけるかもしれない可能性があることを知らせなければ。
が、なかなか、それを上手に説明することが出来そうになくて、何とも言葉が濁ってしまう。
だが言いたくなくとも言わねばならない。
たとえどう気に入らずとも、面と向かって、あからさまに不作法なことを当人の前で言いはしないだろうと思いたかったが、母の、昨日の瀬名さんに対する態度を考えると、何をしでかすか分からないからだ。
「母は、その、思い込みの激しい人なんですよ。お見合い相手の方をひどく買っているみたいなので、徳永さんのことを、ちゃんと受け入れてくれるか心配で」
と、松は、ついに言った。
「見合い相手?」
徳永さんの声が上ずって、ひっくり返りそうになっている。彼方へ逐電したライバルが、再び目の前に舞い戻って来たかのような目をしていた。
「誰の見合い相手?」
「この前から断っている、お見合いの相手のことです。母はこの人のことをいたく気に入っているみたいで」
「断っているのに、気に入っているってどういうことなの?」
怒りを孕んだ徳永さんの声が怖い。
「ショウは、お見合いするつもり?」
「し、しませんよ!!しないって、言っているんですけど、母が乗り気で諦めようとしなくて」
「ちょっと待って」
徳永さんは混乱したように深く眉間に皺を寄せて聞いてくる
「ショウはお母さんにオレの事を話してくれたんだよね?」
「も、もちろん話しました。好きな人がいてその人と将来を考えているからって」
「じゃ、諦めないってどういうことなんだ?」
どうしてそうなるんだと、もっと混乱した表情。
「わ、わたしにも分かりません。単に、母が、諦めつかないだけなんだと思います」
「・・・・・・」
「あ、あの」
松は、言った。徳永さんが驚き怒るのは予想通りだったけど、やはり、怒った彼に対峙するのは怖かった。
「母はその」
「お母さんは―――」
彼は暗い声で、何か心の底でひらめいたのか、別なことを考えているかのように、奇妙な表情を浮かべていた。
「オレの事を何だって?」
「え?」
「お見合い相手と比べて、劣るっているって言っているのかい?」
彼は言った。
「う…あ…」
図星を付かれて、返事ができない。
「両親が離婚していて、問題児の弟がいて、借金を抱えているから」
「でも、あ、いや…」
「劣った人間に違いないから、将来の結婚相手に借金の肩代わりを頼むつもりだって、そう考えているんだね?」
「で、でも!!そう思っているのは母であって、わたしじゃないですから!!」
「・・・・・・」
「わ、わたしは、そんな風に少しも思っていません。徳永さんのご両親が離婚していようが、警察に厄介になるような家族がいようが、借金があったとしても、わたしの徳永さんに対する気持ちは変わりません!!」
「・・・・・・」
「と、徳永さんは、徳永さんです。どんなに負債があったとしても、それを含めて、わたしは徳永さんが好きなんです」
ひと喘ぎ、ふた喘ぎを繰り返し、松言葉を繋ぐ。
「母が何と言おうとも、わたしは…」
そこでブワっと涙が出て、言葉が切れた。
そんなに冷たい目で見ないで欲しい。
徳永さんをミソクソつけているのは母であって、私じゃない。
徳永さんにどうしてもそれを分かってもらいたくて、松は言い続けた。
「わたしは…」
「じゃ、何?ショウは、オレに二千万の借金があっても、オレが好きって言っているの」
生気のない声が降って来た。
「結婚したら、二千万の借金を抱えることになるかもしれないのに、それでも好きだっていうの?」
「―――へ?」
「ショウは、二千万の借金を抱えているオレのことを、本気で好きなの?」
「も…もちろん」
この答えに間違いはないはずなのに、どうして徳永さんが、冷たい目をして松を見下ろしているのか分からない。
「どんなに借金があっても、僕の事が好きだっていうの?」
なんで、同じ質問を繰り返すの?
訳が分からず、松は、ぽかんと口を開けた。涙もいつの間にか止まっている。
「オレと結婚したら、二千万の借金の返済を手伝わされるかもしれないんよ。それなのに、そんなオレを好きだっていうのか?」
「徳永さんは、わたしに、二千万の借金の返済を手伝って欲しいんですか」
「そうしないなんて、一言も言っていないよ」
え、どうして何で、何言っているの、徳永さん。どうして、そんな言い方するの。わたしの言いたい事、分かるよね?
徳永さんをひどく言っているのは母であって、わたしじゃないってさっきから言っているのに、伝わっていないの?
恐怖にかられた松は徳永さんの心を読みたくて、彼の瞳の色をジッと見つめた。
徳永さんの顔は、蒼白で衝撃を受けていたけれど、時間とともに、怒りと軽蔑が入り混じったような眼差しが入り混じり始めた。
この顔は見た事がある。それもつい最近だ。
そうだ、昨日の瀬名さんも、母のあの暴言に接して、こんな顔になっていた。おそらく、物凄く怒っているに違いない。
予想通りとはいえ、松は、徳永さんをかなり怒らせてしまった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
松の体は寒風に打たれたかのようにぶるぶると震え始めた。
徳永さんは、松の体の震えに気が付いたのだろうか、唇のゆがみを正して、表情を消した。
その瞬間、松は、徳永さんが遠くへ行ってしまう―――のを感じた。
徳永さん、遠くへ行かないで。
願いもむなしく、徳永さんは、お得意の能面をかぶってしまった。
もう、感情が読み取れない。
徳永さん、徳永さん、徳永さん。
その顔は、怒っているの、悲しんでいるの、それとも呆れているの?
「お母さんの、推理の方が正しいと思わなかったの」
声色も、生気がなく機械的に響く。
「え?」
「二千万の借金をかかえるということを、キミは考えたことはあるのか?」
え、何を言っているの。
どうして怒っているの?
松は、徳永さんに二千万の借金があろうが、家族にどんな問題があろうが、そんなことはどうでもよかった。ただ、徳永さんのことが好きだった。その気持ちは少しも変わらない。それを伝えたかっただけなのに。それなのにどうして、こんなことになっちゃんたんだろう。
今度は松の方が、動悸が激しくなって、冷や汗流れ始めた。
「借金があるというのは、確かに、楽しいことじゃない」
彼の綺麗な口元が、病にかかったかのように歪んで行く。
視線は遠く彼方にあって、彼は、松がここいないかの如く、全く別の方向を見ていた。
「つまりは、お前は人間だ、と言われる前に、借金を持つ男だと見做されるからだ。たとえ返済が終わっていても、あいつは借金をするような男なんだと、永遠に思われ続ける。借金を持っているということはね、前科を背負っているのと同じようなものなんだよ」
松は徳永さんの表情を読み取ろうとしたが、松が大好きな、あのキラキラと黒く輝く二つの目は濁り、皿のように平べったかった。
硬く乾いた表情。
希望もなく、まるで地獄をみてきたかのような虚ろな表情が浮かんでいる。
ついさっきまで、愛を語り合っていたあの熱い瞳はどこへいってしまったのだろう?
どうしてこんなに変わってしまったのだろう?
まるで、ヤクザの如く近づきがたい、やさぐれた雰囲気が漂っていた。
その様子は、カイ君が、機嫌を損ねて、悪態をついている様子にも似ていたが、カイ君の方がまだずっと人間的だった。
目の前のこの男は、まるで機械か、それに似た無機物のような趣を漂わせていた。
「に、二千万の借金を持つということは、大変なことだと思います…そりゃ、確かに徳永さんに借金があるって聞いたときは、驚きましたけど、だからって、徳永さんを嫌いになるなんて、そんなこと、できないです」
「そうでもないだろ?身に覚えのない二千万の借金のために、働かなくちゃならないと考えてごらんよ。普通の人なら、百年の愛どころか、千年の愛も覚めるものだよ」
「徳永さんは、わたしを疑っているんですか?」
耐えられなくなって、松は叫んだ。
「わたしの気持ちを疑っているんですか?」
「そうじゃないよ」
彼は静かに言った。
「むしろ失望しているんだ」
「は?失望??」
なぜ失望されるのか分からず、思わず聞き直す。
「ど、どうして、なんで」
「キミの男の見る目のなさに」
彼は、言った。
「借金があって、なおかつそれを隠しているような男を好きだなんて、まったくキミの目は節穴なんじゃないか?オレが女なら、そんな男はゴメンだよ」
「・・・・・・!」
徳永さんは、両肘を両膝において正面を向いてしまった。
手を組み合わせて、遠くを見ている。
彼は頭を垂れ、前髪が垂れて目元がどうなっているか分からなかったけど、おそらく歯を食いしばって、何かを必死に耐えているようだった。
「と、徳永さん?」
徳永さんは、蒼白な顔は、戦に旅立つ侍のような意思のあるものに変化した。
絶望的な鎮痛な面もちが、背筋を冷たくさせる。
彼は頭をあげると、前を向いたまま、彼は静かに言った。
「ゲームオーバーだよ、ハナイエちゃん」
「え…」
「借金のことは、隠し通せるはずだと思っていたのに」
醜く口の端を歪めた。
「全くとんだ失敗だった」
「ど、いう、こと?」
「キミのお母さんの方が、一枚も二枚も上手だったっていうことだ」
「何を言っているんですか?さっきから言っているじゃないですか、わたしは、徳永さんのことが好きで―――」
「そりゃ、生憎だったね」
「―――え?」
「生憎、それは、もう意味がないんだよ。騙しとおせるつもりだったんが、バレてしまっては仕方ない。これで、終わりにしよう」
そう言うと、徳永さんは、腰かけていたコンクリートの段々からさっと立ち上がって、パンパンとお尻についた埃をはらい始めた。
終わり?
終わりって何の事?
だって、たった今、結婚しようって話をしたばかりだよね?
「どういうことですか、終わりって、どういうことですか、分かりません」
松は、狂気にかられて、彼にすがりつく。
だって、たった今、結婚して、ニューヨークで一緒に住もうって話をしたばかりじゃないか。
「分からないのは、オレの方だよ」
そう言った彼は、さばさばしたような軽い口調だったが、目はまだ死んだ魚のように濁っていた。
「いったいどうして、借金があると知っていて、オレに結婚の申し込みをさせたんだ?」
「借金のある人を好きになってはいけないんですか?」
松は喘いだ。
「借金のある人と結婚したいと思ったらダメなんですか?」
「そうだ」
と、彼は、短く答えた。
「キミがその気にならなかったら、こんなこっ恥ずかしい思いをして、キミに求婚することもなかったのに」
どういうこと、どういうこと、どういうこと??
分からないよ、彼が何を言いたいのか、分からない!!!
「どういうことですか、徳永さんは、私の事が好きじゃないんですか?」
松は、訳が分からないながらも、会話の流れからこう尋ねずにはいられなかった。
「だって、徳永さん、さっき、好きっていってくれたじゃないですか?」
「もう、やめてくれ」
彼は、うざったそうにそっぽを向く。
「もう、言わせないでくれよ。そうじゃないと言ったら、ハナイエちゃん、キミ、傷つくだろう?」
そう言うと、徳永さんは、もうこちらを見る気も失せたのか、身体ごとそっぽを向くと、
「じゃ、さよなら」
と言って、スタスタと歩き出した。
何よ、それ、さよならって、何???
「ち、ちょっと、待ってください!!」
松は、走って彼の上着の裾をつかまえた。
「どういうことか、説明してください、納得できません、わたしは―――」
松は、彼の片方の腕を両手でつかんで、強引に彼をこちらに向かせた。
「さわるな!!」
「…っ!」
腕を取った松の両手を力いっぱい振り払うと、彼は、松を激しく突き飛ばした。
実際、軽く押されただけで、五十センチほど後ろに後退しただけなのだが、地面に押し倒されるぐらいの衝撃があった。
普段の徳永さんから考えられないような手荒な所業に、松はショックが隠しきれない。
彼もまた、自分のした事に驚いているのか、目を見開いていたが、驚くべきことに、その目には涙が浮かんでいた。
え―――?
まるで小さな子供が、親に先立たれ、行き場をなくしたような顔をしている。
それは、松の知っているジェントルマンで3高の徳永さんの顔ではない。傷つき、怒り、悲しみにくれた少年の顔だった。
「近寄らないでくれ」
泣き顔を見られて、狼狽えたのだろうか。更にぶっきらぼうにそう呟いた。あまりのことに松は、ぎょっとして声を発することができなかった。
徳永さんは、松を置いて山を下り始めた。
松は、まるで足が道路に根を生やしたかのように立ちすくみ、追い駆けることができなかった。
手をポケットにつっこみ、スタスタを歩いて行く背中を目で追い駆けることしかできない。
途中、手にしていた空のペットボトルを駅前のコンビニのごみ箱に中に丁寧に放り込むのを、ぼんやりと見守っていた。
どこへ行くのだろう?
その丘からは、駅に向かう道は一本道になっていたが、彼は駅舎の中に入らず、タクシーを拾うためだろうか、国道の方に向かってまっすぐ歩いて行った。
角を折れ、彼の姿が見えなくなると、気持の張りが途切れて、地面に蹲る。意識が朦朧として、地面に両手をつけた。
何がいけなかったの?
何を間違ったの??
分からないことだらけだった。
わからなかったけれど、ひとつだけはっきりしていることがある。
徳永さんは、松の親に会うことなく、行ってしまったということ。
結婚の話どころか、交際そのものも、一方的に断られ、明日彼はニューヨークに帰ってしまうということだった。
<15.厄介者よ、さようなら> へ、つづく。




