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13.桜舞う日

13.桜舞う日



 自室に戻ってからも、瀬名さんの衝撃に満ちた顔が瞼に浮かび続け、落ち着くことができなかった。


 あの蒼白な顔。見開かれた目。


 次に会った時、何て話そう。何て説明しよう。来週からどのように接しようか。胸が掻き毟られるような思いで悩み続けたが、夜が更けるにつれ、明日の徳永さんとのデートのことが心配になってきた。



 

 明日、徳永さんには松の親に会ってもらうことになっている。松がそうして欲しいと頼んだのだ。母の耳にも入れているし、徳永さんもそのつもりでいるだろう。


 母と徳永さんが会えばどんな感じになる? 母は、徳永さんに会えば、彼の借金のことを尋ねると言っていたけれど。


 まさか母は、彼の借金を理由に今日瀬名さんにとったような失礼な態度で彼を追い返すつもりなのであろうか。警察に厄介になるような弟がいることを非難の材料にしたり、借金の肩代わりを期待して娘に結婚を申し込むつもりなのかと、あからさまな質問して、責めたてるつもりでいるのだろうか。




 松とて、母の気持ちがまるで分からないわけでもないのだ。




 こういった事情をうやむやにしたまま、徳永さんと結婚まで突っ走るつもりはなかった。両親の離婚、弟の非行、借金の存在。それは事実かもしれない。事実かもしれないが、徳永さんの口から打明けてもらうのが筋ではないか、と松は思っていた。




 そもそもこういった事柄は、他者が介入しないところで、もっとゆっくりと話し合うべきであろう。だいたい、松と徳永さんには落ち着いて付き合っている時間があまりに短すぎた。短いどころが、殆どなかった。想いがつながったのは彼がニューヨークへ旅立つ直前で、二人きりのデートを楽しんだのは、二度松がニューヨークに遊びに行ったときだけで、後は、殆どメールか、短い電話だけだった。




『普通はさ、年頃の男女が仲良くなったら、自分のこととか、家族の事とか、収入のこととか、色々話すもんでしょ?どうして話さなかったのよ、愛や夢で現実は乗り越えられないのよ!』




 今更ながらに、初洋行から帰って来たばかりの桐子の助言がやけに耳が痛く感じられる。あの時は


 「他人の資産状況を知りたがるなんて不躾(ぶしつけ)な」


と思ったものだが、ここに至って、それがいかに大事なことか思い知ったわけである。




 全く、今まで何をやっていたのだろう。




 彼は人の心を読むのが上手だし、先回りして要所要所を押さえてくれたり、想像力が豊かで楽しい会話や雰囲気を作ることの天才だが、自分のことになると、不自然なぐらい話そうとしない。




 松は今まで、徳永さんとそういった事柄を話し合う機会があっただろうかと二人の関係を回想してみたが、同じ場所で働いていた時でさえ、普通以上に一身上のことを自ら何も話さなかったような気がする。この辺は、松が常日頃持ち続けていた疑問であり、告白して以降、松の心の中でずっとつきまとっていた不安の種でもあった。




 彼とわたしは想い合っている。




だが、お付き合いしている状態だと確信するには、松はあまりに徳永さんの事を知らなすぎた。彼に弟がいることすら、母の口から知らされて、ショックだった。そんな具合だから、徳永さんの家に女が入り込んでいるといった情報が入ってくれば、自然疑う気持が湧いてくる。彼は、この件に関してはキッパリ否定して、理由を話してくれたけれど、二千万の借金のことを問い詰められれば、どのように釈明するだろう?




 いずれにせよ、あの母の態度はマズイ。




 母はもとから、日曜のお見合い相手がハナマルで、後はクソ以下に思っているのだから、邪魔者を撃退するためになら、どんな手段にでるか想像もつかない。どれほど徳永さんがジェントルマンで、丁寧誠実に振舞おうが、そんなもの母になんの効き目もないのだ。




 母はダメだ!


 あの人に期待をするのはやめた方が得策だ。とれる揚げ足はすべてとって、難癖をつけ、相手が音を上げて退却するまで、ネチネチと人を見下すような態度を取り続けるに違いない。徳永さんが相当な資産家でない限り、彼が、たとえディカプリを超えるイケメンであろうと、まるで関係ないのだから。





 どうしたらいい、どうしたらいいのだろう?


 ものすごく気が重くなる問題だ。





 明日は楽しいデートの予定だったけど、無事すますことができるだろうかと恐ろしく不安になってくる。松は頭をかかえ腕組みをし、部屋の中をぐるぐると歩き回った。




 明日の母との対面は延期にする?


 理由をつけて中止にしてみる?




 いや、問題を先延ばしにしたところで、何の解決にもならない。


 とにかく、借金の件はクリアーしなければ前に進まない。




 まずは、徳永さんから話を聞くのが先決だ。




 なぜ借金をしているのか、どういった支払方法をとっているのか事情を知らねばならない。彼は素直に話してくれるのだろうか。松は、徳永さんのプライベートな部分にまでズカズカと踏み込んで行くのは本当は嫌だった。できれば時間をかけてゆっくりと打ち明けてもらう方向にもっていきたかったが、そうぼんやりしている時間はない。彼は明日にはニューヨークに向けて帰ってしまうのだ。そして、この件はこのまま保留することもできなかった。徳永さんを明日紹介しなければ、母は徳永さんが尻尾を巻いて逃げたと見做すであろう。




 松は、明日のデートのときに、彼の口から事情を確かめるしかないと思った。事情を詳しく話してもらった上で、母に会ってもらうことにしよう。母がお見合い相手を数段上に買っていて、徳永さんを貧乏だと見做して見下す可能性がある事も、事前に彼の耳に入れておいて、心の準備をしてもらった方がいいだろう。




 だけどもし、彼の説明が母を納得させるようなものでなかったら?




 意図的に彼がわたしに隠し事をしたまま、結婚まで話を持って行くつもりだった場合、状況はどう変わるのだろう?




 考えすぎて、頭痛とともになにやら胃のあたりがシクシクと痛いような気がする。




 ああ!今すぐ徳永さんに会ってこの不安な気持ちを彼に癒してもらうことができれば。




 いつものあの爽やかな優しい笑顔で


「どうしたの」


と、言ってあの広くて大きな胸にギュッとしてもらえれば、この胸の痛みはきっと和らぐであろうに。




 一時間以上、額に手をあてたり足をふみならしていたが、何の結論も出なかった。



 結局、今ここであれこれ考えたところでどうにもならないのだ。



 とりあえず明日に備えてベッドに入った。が、高鳴る動悸はなかなか収まらずすぐには寝付けない。



 明日はせっかくの徳永さんとのデートだというのに楽しみどころか、胸は苛まれ、圧迫感でいっぱいだった。



 松は、祈るような気持ちで目を瞑り眠ろうとした。




 大丈夫、きっと大丈夫だ。




 徳永さんは母の毒舌に屈するような弱い人じゃない。詰問されて驚くかもしれないが、あの巧みな話術の持ち主の徳永さんのことだ。きっとうまくいくように母をうまく誘導してくれるに違いない。私達は、愛し合っている。愛があれば、どんな困難も乗り越えられる…心配ばかりしてはいけない。事はきっとうまく運ぶに違いない…




 寝たのか寝てないのか分からないまま夜が明けた。


 目覚ましが鳴る前にベッドから起き上がった。窓をあけて外の状況を確認する。昨日までの雨が嘘のように、快晴だった。青い空が機嫌よく広がり、暖かな日差しが燦々と降り注いでいた。雲一つないデート日和だ。




 目がやけにショボショボするので鏡で見てみれば、これまで見た事がないほど瞼が腫れあがっていた。大事なデートの日にわたしったら何やってんの。松は、急いで、アイスノンをタオルにくるんで目元を冷やした。




 鏡の前に立って、何着も着直した結果、淡いピンクベージュの優しいフォルムのワンピースが似合うと思った。去年の秋、いつか大事な日に着ることがあるかもしれないと買ったままそのままになっていた一張羅で、出番なく放置されていたものだ。袖を通して姿見の前に立つ。




「悪くない、似合うよね?」


確かめるように鏡の中の自分に尋ねてみる。松は、目じりに皺を寄せて笑いかけ、気合をいれた。



 四月に近い三月とは言えまだ空気は肌寒く、ワンピースの上に春物コートを羽織り、服に合うストールを首にまきつけて待ち合わせ場所に向かった。時間に余裕を持たせすぎて、約束よりずいぶん早く駅についてしまった。


 待つこと二十分。


 列車が到着した音が聞こえてきた。明らかに周りの人間とは違う上質な雰囲気を醸し出した長身の男が、ゆっくりと駅の階段を下りてきた。




 改札をくぐって、徳永さんは松に近づいてくる。


 品のある黒のニットに、細身のパンツ、仕立ての良さそうな厚手のフランネルのジャケット姿。


 今日も半端なくめちゃくちゃカッコいい。徳永さんはモデル張りに首から肩にかけてラインがきれいな上に、胸板が厚く、それでいて下半身がしまっているから、黒を着ると美しい体型が際立つのだ。




 私服姿を拝んだのは、ニューヨークでデートをしたとき以来だっけ。その前は、日本でバーベキューをしたときだっただろうか。松は微笑み返して彼と向かい合った。本当にこんな素敵な人が自分を好いてくれているのだろうかと思うと、未だに信じられない思いでぼんやりと見とれた。




「今日は一段と綺麗だね」


悪戯っ子のように瞳を躍らせている。そのにこやかな表情は、一番最初にケネディエアポートに迎えに来てくれた時を思い出させた。


「その服、とても似合うよ」



 着ている物にいち早く気付いて、開口一番褒めるなんて、徳永さんらしい。



「さて、今日は、どこへ案内してくれるの?」



「まだ秘密です。ご案内しますよ」


元気よく答える。



「遠いの?」



「ここから三十分ぐらいです。とっておきのお散歩コースなんです。乞うご期待です」



 彼は、


「そりゃ楽しみだね」


と言うと、ニコっといつもの極上スマイルを浮かべた。彼は、松の手を取ると、恋人つなぎにした。



「じゃ、行こうか」




 急激に熱があがったほっぺたが恥ずかしくてたまらない。


 松は、なんでもないように口元をひきしめようとしたけれど、うまくいかなかった。徳永さんは面白そうにニヤニヤと眺めている。手をつなぐぐらいのことで照れたり小娘のように頬を赤らめる自分が何とももどかしい。


 全くこういうシチュエーションになると、わざとやっているのだろうかと時々疑いたくなるときがある。あまりに緊張して失神しそうだったけど、倒れそうになっている場合ではないと思い直した。松は、平常心をかき集め、こちらですよと案内する。徳永さんは大人しく松のつれられるまま歩いていた。


 バスに乗って、人気のないターミナルで降りてからまた十数分ほど歩き、松は徳永さんを先導する。松は、もう少しですからしっかり歩いてくださいねと、彼の手を引き、その場所に案内した。




「うわ、桜?」



 そこは桜で有名な市営の公園だった。右も左も目の先も広場じゅう桜桜桜で埋め尽くされている。彼は驚いて目を見開いていた。



「せっかく、いい季節に日本に帰って来たんだから丁度いいと思って。ここは週末はファミリーでいにぎわうんですけど、午前中は比較的空いていて穴場なんです」



 今日は、めったにない徳永さんとの二人きりの時間である。松は、絶対楽しく過ごすんだと、決めていた。それで選んだのがこの桜だった。



「徳永さん、海外生活が長かったから、ゆっくり日本で桜を見た事ないかもしれないって思って」



「うん、本当にその通りだよ」


彼はそう言って、近くにあった大きな巨木の枝垂(しだ)れ桜を仰ぎ見た。



 この公園は十数年前に整備し直されたばかりで若い木も多いが古い木もそれなりに残っている。珍しい花は少ないし、昨日の大嵐で見ごろの花が半分散っていたが、半分は美しい状態で咲いていた。


 真白な花はどれも見事だった。風が凪ぐ度に花びらが鼻先をかすめて散って行く。盛りを過ぎたソメイヨシノは、散りかけで葉っぱが覗いているのが多かったけれど、風が吹くたびに公園のどの小路にもひらひらと花びらが舞お入りて、まるでお伽の国のように幻想的だった。ふたりは手をつないだまま公園の中に入って行った。



「すごく綺麗だ。上海でも東京でも桜は見たけど、こんなに綺麗に咲きそろっている桜を見たのは本当に久しぶりだよ」


と、いたく感動しているようだった。


「何年か前に、〇×通りの並木道を通り抜けたときに花見をしたことがあったけど、どうしてかな、たいして感動もしなかったし。見た事事態忘れていたよ」



「〇×通りの桜とても有名じゃないですか。よくニュースで取り上げられていますし」


あんな綺麗な並木道の桜なら感動しないわけないでしょ、と松は不思議がる。



 徳永さんは、そうなの?と言った顔になったが、ああそうだと膝を打つように頷くと、


「ああ今日はね、ハナイエちゃんが一緒だから、よけい綺麗に感じられるんだよ」


と言ってフッと微笑み、松の肩を抱き寄せた。



 だから、頼むから、そんな風に笑わないでくださいって。どうしていいか分からなくなるじゃないか。そんなに優しくされると、今日彼に話さなければならないことが、増々言いにくくなってしまう。


 彼が触れてくる手から伝わってくる熱が全身にひろがって、松の体はたちまちカチコチになってしまった。



「どうしたの」



「え、何がですか」



「なんで、こんなに固くなってんの?」


そう言って、彼はわざと彼女を抱き枕のようにギューッとしめつけてきた。



「わぁ、やめてください、桜が見えない~」



 大きな腕の下でバタバタともがくが、反応を楽しんでいるのであろう、徳永さんは、腕の力を強めるどころかもう一方の手もそえて、よけいにキツク抱きしめてくる。



「だから、わたしはクッションじゃないんですってば」


松は彼の胸の下からどんどんと叩いて喘ぐような声を出した。



「うん知っているよ。前にも聞いた。でもオレは、ハナイエちゃんをギュッとするの好きだからやめられないの」


 そう言ってしばらくの間力をいれていたけど、ひとしきり満足したのか、大人しく腕の力を緩めてくれた。




 ふたりは公園の小路をゆっくりと歩いて行った。


 公園の中は結構な広さで、葉桜が多かったとはいえ、十分花見を満喫できる咲き具合だった。美しい景色を大好きな人と一緒に見れると言う事は、なんと贅沢なことだろう、こんな時間が永遠に続けばいいのに、と、松はニューヨークを最初に訪問したときと同じことを思った。あの日のマンハッタン島も夕陽を浴びた自由の女神も、美しいビルたちも、恋する松の目には今日の桜と同じ様に美しく光り輝いていた。


 一時間以上そうやって歩き回った頃、花見の見物客達が、レジャーシートを広げ始めた。



「私達もお昼にしましょうか。お腹すきません?」



 松は自動販売機で買ってきたジュースを徳永さんに渡して誘ってみたが、徳永さんはいまだ夢の国にさまよっているらしく恍惚としていた。



「徳永さん?」



「え?ああ、うん、そうだね」


松の声に引き戻されて、いつもの顔になる。



「さっき降りた駅の近くに素敵な和食屋があるんですけど」



「和食?それはいいね」



「実は予約しているんです。そこでよければ」



 予約しているとは、準備がいいねと、また例のスマイルで褒めてくれる。


 バスで行くと不便な場所なので、少し歩くけどいいですかと尋ねると、ヒールの高い靴を履いているようだけど、大丈夫かいと、逆に心配されてしまった。



「少しぐらいなら大丈夫ですよ」



「なんならタクシー拾っていこうか?」


彼は本気で心配しているようだ。



「タクシーなんてもったいないです」


車などに乗るよりも、松は、少しでも徳永さんと二人きりの時間を持ちたかった。


「ちょっとの距離ですし、少しぐらい痛くなっても大丈夫ですから」



 ところが徳永さんときたら、松が遠慮していると思ったのか


「何を言うんだ。遠慮しなくていいから、痛くなったらすぐに言いなさい」


などと真面目に言う。


「なんならオレがおぶってあげるから」



 まったくもう、この人ときたら、どこから冗談でどこが本気なのか分からない。



「わたし結構重いですよ?徳永さんが折れちゃうかもしれませんよ?」



「それぐらいで折れたりなんかしないよ。そんなにヤワじゃない」



「まだまだ若いと思っているでしょうけど…」



「年寄扱いするもんじゃない。それに」


 と、彼は次の言葉がよく聞こえるように言葉を切った。


「もし仮に、そんな事になったら恋人冥利に尽きるってもんだよ」



「・・・・・・」


なぜ答えられなかったのか自分でも分からなかった。


 私達は恋人同士ではないか?


 ふたりとも将来を見据えてそういった関係になることを望んだのだ。


 なのに、どうして胸がこんなに苦しくなるのだろう?




 松は答える代わりに頬を染めてうつむいた。彼はふふふと微笑んで、また松の肩を抱きよせたが、なんとなく気まずくて視線を合すことができなかった。



 和食のお店まで歩いて二十分もかからない距離だった。


歩いている間、主に徳永さんの方が喋っていた。彼は、子供の頃の桜の思い出や、ニューヨークのアパートの近くにもこんな風に散歩できる公園があるんだよとか、そんな話をしていた。



 お店は混雑していたが、予約をしていたのですぐに入ることができた。半個室の座敷はふたりきりを堪能するには丁度いい空間だった。松と徳永さんは松花堂弁当を注文した。頼んでから十分もしないうちに料理が出てきた。あまりにスムーズなので、もっとゆっくり料理が出てこればと思った程だった。



 徳永さんは、久しぶりの日本食なのだろうか嬉しそうに箸を運び、おいしいと何度も言っていた。天麩羅やお刺身を口に入れる度に、彼のほころんだ表情から、心から喜んでいるのが伝わってくる。



 ここに連れてきて本当によかった。


 が、当の松の方は、徳永さんが微笑みかけてくれたり、話しかけてくれたり、抱き寄せてくれたりするたびに、胸に締め付けられるようなストレスが込みあがってくるのをどうしようにもできなかった。




 彼の借金のこと。


 家族関係の事。


 松の家族がそれを理由に徳永さんを拒絶したがっていることを、どうやって切り出したらよいのだろう?




 食事が進むにつれ、お弁当箱の底が見えてくるのがもどかしかった。


 もっとゆっくり食べてくればいいのに。松は悩まし気に、そのことばかり考えていた。




「そろそろ出ようか」


デザートの抹茶アイスを食べ終わると、早々に立とうと徳永さんが言う。


「混んできたから」



 そんなに早く出ることないじゃないか。もう少しここで寛いでいたい松だったが、店の玄関口に目を向けると、長い列ができていたのでしぶしぶ立ち上がった。



 お会計は徳永さんがしてくれた。松が払うと言ったが、


「じゃ、また今度はハナイエちゃんが驕って」


と返されてしまった。



 お店を出て、駅に向かって歩く。


 この後の予定はなかった。


 後は松の家に行くだけしか用事はない。


 親に合わせる前に徳永さんに話さなくちゃならない事が沢山あるのに…


 なかなか口火の切れない松の足は自然に遅くなる。


 徳永さんは何も言わずにさっきの駅の方に向かって歩こうとしている。


 彼もこのまま松の家に向かうつもりでいるのだろう。


 徳永さんに言わなくちゃ。


 彼と話さなくちゃ。


 額に汗すら浮かびそうな面持ちで松は道路に視線を落としながら、足を進めていたら、さっき彼と待ち合わせをした駅の屋根が見えてきた。



「あの!!」



「ん?」



 手をつなぎながら歩いていた脚を急に止めたので、徳永さんをひっぱるような形になる。彼は振り返った。



「あ、あのですね。この駅の裏側の山道に、もうひとつ素敵なお花見スポットがあるんです!行ってみませんか?」



「お花見スポット?」



「並木道になっていて、高架下の桜が一望におさめることのできる、知る人ぞ知るとっておきの場所なんです!ぜ、是非徳永さんにお見せしたいです。行きましょう」



 松は、返事も待たずに裏山に続く道に向かって彼をひっぱって行こうとする。


 彼は一瞬怪訝に目を細めた。


 いきなりすぎて怪しまれただろうか。


 でも、このまま電車に乗ってしまう訳にはいかなかった。松は、行こう行こうと、彼を急き立てた。



 駅の裏山の桜並木はそう高いところにあるわけでない。駅から歩いて五分もたたない古い住宅街にある。片方が小学校に続く土手になっていて、道路を挟んだ向かい側が民家の庭になっているのだが、その庭先に植えられている古い桜の巨木が三、四本せりだしていて、桜の季節に白く美しい翼に姿を変える。そして、素晴らしい桜のアーケードを作り上げるのだ。



「なるほど、これは素晴らしい」



 ほんの十数メートルの桜並木だが、両側から道路を覆うように伸びた枝が頭上で絡まり合いそうになっている。こちらも昨日の雨で半分は散っていたが、メインの老木は悠々と花を咲かせて貫禄があった。



「ここは地元民だけが知っているスポットなんですよ。飲み食いするような場所がないから、人もあまりこないし。枝がね、すごく伸びているから綺麗なアーチ状になっているんですけど、来年には何本か切られちゃうらしくて」



「切られちゃうのかい」



「ええ、あの辺の伸びている枝が電線にひっかかるっていうんで」


松は電線にひっかかりそうになっている枝を指さした。



「それは残念だな。こんなに綺麗なのに」



「ほんとに。だから、今年が言一番見ごろなんですよね」



 徳永さんはなるほどと言って、その辺を歩き回っていた。さっきの公園の桜も素晴らしかったが、ここは人気がなくてゆっくり堪能できる分、落ち着いた気分を味わう事が出来た。



 頭上に桜の天蓋を頂いた土手沿いのコンクリートの階段に、ふたりして腰かけ、駅舎の裏側に広がる桜の森を無言で眺めていた。徳永さんはさっき駅の近くで買ってきた水をハイと松にすすめた。



「ありがとうございます」


ペットボトルを受け取って水を口に含む。



「さてと」


と、徳永さんはペットボトルを松の手から受け取るとゆっくりと言った。


「そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」



 いつもの穏やかで静かな口調。松は何のことを言われているか分からずキョトンと首を傾げる。



「え、なんですか」



「今日一日、うわの空になっている理由だよ」



 松はぎくりと肩を震わせた。



「う、うわの空でしたか、わたし」



 徳永さんはクツクツと笑っている。



「明らかにそうだろ?質問をしても生返事だし、呼びかけてもハイかイイエしか言わないし。この前電話で話したときから、また何かあったんでしょ?」



 う…どうして、この人は何でもお見通しなんだろう。



 向こうから尋ねてくれたので助かったが、話さなければならない内容のヘビーさを考えると、怖気づいた松の顔は逆に青ざめていった。



「ハナイエちゃんのうわの空は、怒っている事が多い」


徳永さんは言った。


「何でもないなんて言いつつ、実は相当腹をたてているでしょ」



「そ、そんな、腹を立てているわけでは」



「じゃ、何か困った事でも抱えているの」


 

 きた。



「困った事といいますか、はい、まぁ、そうなんですけど」


徳永さんの作りもののような笑顔を前にして、逆にのど元でセリフが詰まってしまった。


 

 どうしよう…



 ふたりが沈黙している間、松は、桜の花びらが風にゆられてひらひら落ちて行く様をじっと見つめていた。



「言いだせないのなら、オレの方から言ってあげようか」


徳永さんは何気ない様子で言葉を繋げる。



「え…?」



「瀬名君の推薦で、本社の経理に行かないかと誘われているんだって?」



 俯き加減だった顔を、さっとあげた。松の顔色の変化を徳永さんはじっと見守っているようだった。



「川崎常務のお膳立てらしいね」



 徳永さん、どうしてそれを知っているんですか、というセリフが喉が渇いてへばりついて出てこない。松はアワアワと口をパクつかせた。



「東京で、出張中のトクミツさんと会ってね。詳しく教えてくれたよ。花家さんは瀬名君に気に入られて、今の部が解散した後は本社の経理に行くことが本決まりだって」



「トクミツ部長がそんなことを?」


やっと出た声で喋れた台詞がこれである。



「まぁ、瀬名君がどんな手を使ったかは、詳しくは知らないけど」


 徳永さんは変わらず柔らかく微笑んでいたけれど、目だけは何かを見据えるようにギラリと光っていた。


「おそらく、川崎常務に上手く便宜をはかってもらんただろうけど――――まさかハナイエちゃんが、うっかりその話に乗るだなんて思いもよらなかったよ」




 うっかり…


 何か、その言葉にはトゲがあるな。




「あ、あの、その話はですね」


額に汗を感じながらも、できるだけ気軽な感じで言ったつもりだが、徳永さんの凍ったような笑顔にぶつかって声がうまくでない。



 ああ、やっぱり徳永さんにはもっと早くに打ち明けとけばよかった。


 物事がややこしく説明し辛くなる前に言っておけば、余計な誤解をされずに済んだのに。



「別に、瀬名さんの事をどうこう思っているわけでなくて、話の流れ的にたまたまそうなっただけで」


説明にもならない説明をする。



「瀬名君に迫られているの?」


まどろっこしそうに眉をひそめて、話の乱脈をすっ飛ばしてズバリと言う。



 別に迫られているわけじゃない、



 と松は答えようとしたが、それは事実ではいということに気が付いた。実際、松は、瀬名さんから交際を申し込まれているではないか。



 松は、


「瀬名さんがどう思っていようが、わたしが好きなのは徳永さんです」


と言おうと口を開きかけたとき、



「どんな事情があったか知らないが、本社の経理の話はダメだ」


彼が、きっぱりと言った。



「へ?ダメ??」



「ダメだ。本社の経理のポストは諦めてくれ」



「な、な…」


いったいどうなっているのか分からない。


「なんで、どういうことですか?」



「瀬名君についていきたいわけじゃないでしょ?」


徳永さんは冷たく言う。


「オレとしてはキミにはそんな場所に行ってほしくないし、それに本社の経理のポジションはマズイ。あそこは一年もたたないうちに、部署ごと東京に移転するのを知っていたか?」



「ええ?」


初耳だった。そんな話、聞いていない。



「川崎常務は、この秋から松の会社の社長になるが、例外に漏れず親会社からの天下り社長だ。東京の親会社とのパイプ役を期待されている。おそらく来年から、職能部門ごと東京に移転することになるだろう」



「東京に移転?」



「ま、こちらに大きな顧客を抱えている営業部門は残ることになるらしいがね。トクミツさんはこちらに残るようにと、早速に話があったと言っていたし」



 松は、目を見開いた。


 いったいどういう話になっているのか。


 突然のことに、ついていけいけなかった。


 東京に移転?


 なら、そうなった際、松も東京に行くことになるのだろうか?



「ハナイエちゃんは支店枠での採用だから」


徳永さんは言った。


「たとえ本社が東京に移転されても、ハナイエちゃんが東京に転勤になることにはまずならないと思う」



 え、そうなのか。となると、つまり。



「だいたい支店採用の内勤職が本社に転属になること事態不自然なんだ。本社が東京に移転するとなっても、ハナイエちゃんが一緒に付いて行くことはないだろう…」



 そう言って彼は、身体をこちらに向けて、手をあげて松の頬をついと触った。



 徳永さんは松の頬を撫で続けた。大きくて優しい徳永さんの温もりは、心地いいはずなのに、話の内容が松の体をますます固くさせてゆく。



「ついて行くことはできなんですか?」


松は言った。



「そうだ、できない」



「で、では、そうなった場合、わたしは、こちらに残ることになるのでしょうか」



「そうだろうが、それは、こっちに席があればの話だ」



「え?」



「席がない場合は、リストラの対象になる可能性が高いとトクミツ部長が言っていたよ」



 リストラ?



 恐ろしい言葉を耳にして、松は震えあがった。


 やはりわたしはクビなのか?



「わ、わたし、やっぱりクビになるかもしれないんですか?」


松は叫んだ。



「本社の経理に移ってしまえば、そうなる可能性が高いだろうね」


徳永さんは静かに言った。


「トクミツ部長も昨日、上からその話を聞かされたばかりだったようだ。ハナイエちゃんは本社の経理に移ると聞いていたけど、その先にリストラの道が待っているかもしれないことを知っているのだろうかと心配していたよ」



「・・・・・・」



「ま、彼も、キミがリストラされた後も、将来別な就職先を考えているのなら、横から口を挟むのは野暮かもしれないと言っていたけど」



「別な就職先?」



「瀬名君だよ」


冷静に話していた口が歪んだのが分かった。


「トクミツ部長は、ハナイエちゃんが瀬名君と特別な関係にあると思っているみたいだね。まぁ、そう考えるのも無理はない。本社の経理の席をキミ一人のために用意する周到さを見れば、キミと彼がそういうか関係で、いずれキミが瀬名君の元に永久就職するものだと考えたって不思議はないだろう」



 相変わらず笑顔だったが、顔全体がかたまっているのがわかった。


 青ざめた額は、思いっきり不機嫌ですって書いてある。


 永久就職先?


 瀬名さんのところに??


 松もあわせて真っ青になる。


 やっぱり誤解された。瀬名さんと特別な関係なのだと誤解されてしまった!


 ど、ど、ど、どうしよう…


 徳永さんが怒っているのを見たのは初めてではないけど、この顔は相当怒っている。



「弁明は?」


と、彼は言った。


「何か言い訳したいことある?」



「・・・・・・」



「何て言われたの」


驚きのあまり真っ青になってモノもいえず口を金魚みたくパクパクさせるしか能のない松に、徳永さんは冷静に尋ねかける。


「瀬名君に、何ていわれて本社の経理に誘われたの?」



「今までやって来た業務とほとんど変わらないし、経営面に携われるからキャリアアップになるからって…」


徳永さんに凝視されている前では、言葉が上手くでてこなかった。



「キャリアアップ…なるほどね。確かに、キミが彼のものになってしまうことを、彼は、キャリアアップとみなしているのかもしれない」



 そんな恐ろしい言葉を口にした徳永さんの口元は冗談めかしていたが、目は笑っていなかった。怖いものさえ感じる。松は慌てて否定した。



「待ってください、わたし、そんなつもりは」


松は叫んだ。


「瀬名さんのものになるつもりだなんて」



「本当に?」


そう言って徳永さんはずいと前のめりに松の顔を覗き込んだ。


「本当に、そう思っているの、オレはキミを信じていいの?」



 穏やかに語られているその声には、淡い疑いがにじんでいる。整った唇は美しく弧を描いていたが、もはや目は笑ってはいなかった。冷たい指先。背中に冷や汗を感じた。



「信じていいの?」


彼は再び言った。



 松は、説明しなければならなかった。彼に、瀬名さんの誘いに乗ろうとしたのは決して彼の好意を受け取る意味合いではないことを、説明しなければならなかった。説明すれば、きっと理解してもらえるに違いない。そう確信していたはずなのに、彼の怒りに燃えた視線に、恐怖さえ感じ、足がすくむ。


 彼は今、裏切られたと感じているのだろうか?


 目の前にいる女を、二股をかけたアバズレ女だと思っているのだろうか?


 松はつばを飲み込んだ。



「あ、あの、瀬名さんから交際を申し込まれていたのは事実です」


松はようやく言った。


「じ、事実ですが、瀬名さんからは、本社の経理の話は瀬名さんの気持ちとは別に考えてくれと言われていました。それに、この話を受けようと決めたのは別に理由があったからです」


松は、勇気を振り絞って話を続けた。



 徳永さんは、


“交際を申し込まれていた”


 というところで、たちまち苦虫をつぶしたような顔になった。



「別の理由?」


彼はおっそろしく低い声で言った。


「どんな理由?」



「そ、それは言えません」



「言えない?」


徳永さんの片眉が釣り上がる。



 川崎常務が不正処理されたデータの集計に関わった人達を優遇するために、松を本社の経理にひっぱるという話をすれば、彼は松が瀬名さんの心に(なび)いたのではないと信じてくれるかもしれない。しかし、この件は極秘事項である。徳永さんは親会社の人とはいえ、松の勤める会社とは全く別だ。そんな人に、今度のことを安易に口にすることはできなかった。



「は、はい。川崎常務がわたしを本社の経理にお膳立てしてくださったのは、その、何と言いますか、業務的な…理由があったんです。詳しくはお話しできないので言えませんが、本当に瀬名さんとは関係ないんです」



 しかし、この言い訳がマズかった。彼は、肩眉を吊り上げて、


「業務的って何なんだ。まさか、川崎常務はキミを愛人に囲うつもりではないんだろうね」


と、不機嫌さを増して言った。



「ち、違いますよ!」


松は真っ赤になって叫んだ。


「川崎常務とはこの前東京に出張した際、五分ほど話したきりで他に接点はありません!」



 なんか、侮辱されたような馬鹿にされたような気がしたが、不機嫌全開の徳永さんを前にして何も言うことができない。なんだって、業務的な理由が愛人になるんだ。



 徳永さんは、


「ふーん」


とだけ相槌を打ったが、面白くなさそうに視線を逸らせる。まるで、自分の持ち物を他人に無断で触られたかのような、嫌そうな表情を浮かべていた。



「と、とにかく、瀬名さんから、わたしが本社の経理に行く話は川崎常務のお願いだから、断って欲しくないって言われてしまって、最終的には断れなくなってしまったんです」



「断れなくなった…」


彼は繰り返した。


「じゃ、今からでも断るつもりはないってこと?」



「う、分かりません。ただ、わたしが最終的に本社の経理に行こうと決めたのは、他にも理由があって…そ、その、今更、支店に残りたいって言ったら、トクミツ部長のご迷惑になるのではと」



「は?トクミツ部長に?なんでさ」



「トクミツ部長は、部が解散した後も部員があるべき場所に就けるよう、部員全員の次の席を一生懸命に探してくださっているみたいなんです。それでも、どうしてもリストラの対象にならざるを得ない人が出てしまうらしくて。ですから、わたしのように本社の職能部門に席があって、よそに行くことができる人間がいたら、そういったリストラの対象になる人を極力減らすことができます。今回は、わたしのような若手も早期退職制度の対象になっているらしいですから、わたしひとりのためにトクミツ部長の手も煩わすこともないと思ったんです」



「なるほどねぇ、つまりキミは他人のため、トクミツさんのために身をひいたわけだ」


徳永さんは呆れ半分、やれやれと言った具合に肩を竦めた。


「全くお人好しなことだな」



「・・・・・・」



「でも、そういった美徳が評価されることは期待できるだろうか?このまま本社の経理に行ってしまえば一年後にはリストラされてしまうんだよ」


徳永さんは言った。


「せっかくの気遣いが仇となって還ってくるということだ」



「・・・・・・」



「ま、リストラされても瀬名君のところに永久就職するつもりなら、それでもいいのかもしれないがね」



 松は、ガバリと顔をあげた。



「徳永さん、何を言っているんですか?」


さすがの松も、叫ばずにはいられなかった。


「わたしさっきから言っていますけど瀬名さんとは――――」



「どう否定してくれようが、昨日オレは、東京でトクミツさんから散々、花家さんはきっとそのつもりでいるに違いないって、聞かされたんだ。その時のオレの気持ちがどうだったと思う?いったい、どういう事情なのか、オレの方が説明してもらいたいぐらいだよ」


徳永さんは、聞いたことのないような悲痛な声をあげた。



「本社が東京に移転するだなんて話は、わたしも今の今まで知らなかったんです」


松は、額に汗をうかべ一生懸命になって弁明した。


「もしそれが、一年後にリストラされるのが本当なら、わたし、今度の話は辞退しますよ」



「辞退だって?辞退なんかできるの?」


徳永さんは言った。



「えっ?」



「辞退できるのかってきいたんだ。キミはさっき、本社の経理の話を受けなければトクミツ部長に迷惑をかけることになるって、さっき言ったばかりじゃないか」



「そ、それはそうですが」



「それに、今回は若手も早期退職制度の対象になっているんだろ。支店に残ったとしてもハナイエちゃん自身がリストラされる可能性もある」



 一番キツイところをつかれて、松の胃はギューッと縮まったような気がした。いくらトクミツ部長が頑張ったところでどうしようもない事態になることもある。



 

 じゃあ、どうしたらいいの。




 松は徳永さんの言わんとしていることが分からなかった。やはり本社の経理の話を受けた方がいいと彼は言っているのだろうか?



「あの川崎常務という人はね」


徳永さんは言った。


「経費節減と社のフットワークを軽くするために、支店の統合と縮小を任されて次期社長に抜擢された人なんだよ。縮小とは、つまりは人員削減のことだ。リストラの対象をしぼりだして実行に移すことが彼の使命なんだ」



「・・・・・・・」



「理由は詳しくは知らないが、ハナイエちゃんはおそらく川崎常務に良くにも悪くにも、目をつけられてしまっているんだろう。さっさと厄介払いにしてしまおうと考えているのかもな」



 厄介払い?


 つい最近どこかで聞いたセリフだが思い出せない…



 松は、脂汗を感じた。とにかく、ワタシはほぼリストラされるということ?決まった話なの??松は二の句が継げなくなってしまった。



「あ、あの、じゃ、どうすれば…」



「さあ、どうしようかね」


そう言って、徳永さんは、再び手をあげて青くなっている松の頬を美しい指でなぞり始めた。


 いつもなら彼の熱い体から伝わってくる官能的な感覚も、神経が麻痺してしまったのか何も感じられない。


 徳永さんの黒くつぶらな瞳は松の表情をとらえて、決して離そうとしなかった。



「いっそ辞めてしまう?」


冗談とも言えないような言い方で彼は言う。



「え?」



「真面目に働いてきたハナイエちゃんのような優秀な社員をリストラするだなんて、大した会社じゃないよ。こちらから見切りをつけたらどう?」



「そ、そんな」


どうしてそんな酷い言い方するの?とそんな言葉が口から出そうになったが、徳永さんは相変わらず、何かを求めているかのように松の頬を指でなぞり続けている。


「辞めるだなんて、そんな」


松は喘いだ。



「イヤなの?」



「だ、だって、今のご時世、簡単に再就職だなんてできないし…」



 そう、今の会社は祖父のコネを使って、やっと面接にこぎつけることが出来た唯一の会社だった。そう簡単に次の就職先だなんて、見つかるわけない。



「そうでもないでしょ?」


徳永さんは言った。


「就職先はある」



「どこか、心当たりでもあるんですか?」


徳永さんは、なんとも確信を持っているかのような口調だった。


「わたしが再就職できそうなところをご存知なんですか?」



「オレのところに就職してしまえばいい」彼は言った。



「え?」



 オレのところ、って、どこ??


 一瞬、徳永さんの勤めるニューヨーク支社に仕事があるのだろうかと思った。



「会社をやめて、オレと一緒にニューヨークにこればいい」


理解の及んでいない松に、徳永さんは説明を続ける。



「ええ?」



 徳永さんのところは別会社だから、いったん辞めてから採用すればという意味なのかなのかなと考える。



「ニューヨークで、オレと一緒に暮らさないか?」


と、彼は言った。



「?」



「結婚して、一緒にニューヨークに行かないか」


結婚と言う言葉が、初めて徳永さんの口から出た瞬間だった。




 松は、徳永さんを見た。相変わらず、黒曜石のように輝く美しい目が、こちらに向いている。




 松は、混乱した頭で考えた。




 今、結婚って言ったよね?




 徳永さんと結婚??




 結婚するって???




 いつか彼と結婚するだろうと思っていたが、それが今すぐにとは、考えてもいないことだった。




「え、えっと…」


と、言ったきり松は答えることが出来ない。


 ふたりはしばらく見つめあったまま動かなかった。


 松は、深く息を呑み、その言葉を口にした彼の心の奥を推し測ろうと、彼の目ばかりを見つめていた。一方、徳永さんは相変わらず松の頬を美しい指先でなぞっていた。徳永さんの愛撫はとても暖かで、凝り固まっていた思考がゆっくりと溶けるように動きはじめる。




 …徳永さんとの結婚。




 わたしは徳永さんと結婚するんだ。




 素晴らしい話だ、天にも昇るような話ではないか。




 好きな人と結婚して、家を出て、新しい家庭を築くことができるのだ。




 これ以上の未来があるだろうか?




「そうだ、オレと結婚してニューヨークで暮らすんだ」


と、彼は再び言った。


「そこに行けば、きっと幸せになれる」


その声は甘く、松の心の奥底の琴線に触れていった。




 松は息を呑んだ。


 ふたりはまだ見つめ合っていた。


 松は徳永さんが好きだった。


 徳永さんとずっと一緒に居たいと思っていた。


 それが松の希望(ねがい)であり、予定していた未来だった。


 その証拠に彼は、今、松に結婚を申し込んでいる。


 徳永さんは相変わらず松の目を見つめていた。




 頭上から桜の花びらが舞いおりていた。


 徳永さんは、両手で松の頬を優しく包み込むと低い声で、ついにこう言ったのだった。



「ショウ、好きなんだ。ずっとそばに居て欲しい」



 徳永さんは、両手を持ち上げて松の頬を包んだ。


 徳永さんの黒く誠実な瞳が近づいてくる。


 彼の呼吸が、松の前髪をかるく揺らしていた。


 松は目を閉じた。彼の右手が松の髪を梳き、左手が後頭部にそっと添えられた。


 その瞬間、彼の唇が、松のそれにかさなった。




 温かく柔らかな感覚。


 乾いた唇につたわってくる湿り気。


 包み込まれるような優しさ。


 その間、徳永さんは、松の名を呼びもう一度、「好きだ」と、囁いた。






 物事というものは、不完全なように見えて、結局、こうやって、全てうまく運ぶものなのかもしれない―――





 この日、この場所で彼と共に居た、この幸せな瞬間を、一生忘れないだろうと、彼の唇の感触を感じながら、松は、そんなことを、ぼんやりと考えていた。






<14.桜散る日> へ、つづく。





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