12.雨のち嵐
12.雨のち嵐
日曜のお見合いは中止になったのか、延期になったのか、はたまた決行されることになったのか、松は聞いてみようともせず、母の方も一言も口にしなかった。
徳永さんからは、何度か電話がかかってきて短い会話を交わすこともあったが、興信所の件やら借金の事は、いっさい話さなかった。いずれ、彼の方から話してくれるはずだ、と、松は徳永さんを信じていた。
金曜の午後になった。
「外回りの人達、戻ってこれないかもねェ」
オフィスの窓の外を眺めながら、乙部さんが呟いた。
松も、空模様を見て眉間に皺を寄せた。台風が近づいてきていて、外は嵐を予兆させる風が吹いていたが、お昼頃からくすぶっていたどす黒くて低い雲が、いましがたからポツリポツリと大粒の雨を地上に降らせはじめた。
乙部さんが部内に一台設置されてあるテレビをつけて天気予報にチャンネルを合わせる。夜には大型の台風が日本列島を直撃するであろうと、天気予報士が指し棒で天気図を指し示し、説明していた。
「出張の人、無事、帰ってこれますかね?」
松は言った。
「瀬名さんのこと?」
乙部さんが振り返る。
「彼、今日は、雨で、電車が止まるかもしれないからって、昨夜わざわざ自宅に戻って、今日は、自家用車で出かけているはずよ」
「そうなんですか?乙部さんって、本当に何でも知っているんですね」
「昨日瀬名さんから電話がかかって来た時、たまたま私が取っただけよ」
乙部さんが説明した。
「で、明日は台風で電車がとまるかもしれないから、自動車の方が身動きとりやすいんじゃないですかって、勧めておいたの」
そんなやりとりがあったのか。うーん、さすが乙部さんだ。台風が近づいていたことは知っていたけど、自家用車を使った方がいいだなんて考え付きもしなかった、と、松は感心した。
「今日は、早退した方がいいかもね」
乙部さんの予感通り、午後の三時に、地下鉄の一部の路線が不通になり、会社から早期帰宅命令が出た。
「花家さんも早く帰ったほうがいいんじゃない?」
本当は、時間ギリギリまで瀬名さんを待っていたかったけれど、帰宅命令がでてしまっては仕方がない。それに嵐はひどくなる一方で、これ以上電車が止まってしまわれたら帰りつけなくなってしまう。
部内の人々が、パソコンを片づけ始めた。鞄を持って、チラホラと帰り支度を始めたので、松もそれに倣い、そそくさと帰り支度をして、外に出た。
裏口から外にでてみると雨がジャンジャン降っていた。守衛さんが、
「××腺が不通になっているらしいよ」
と、教えてくれた。
「××腺が?」
「ああ、土砂崩れがあったって。早く帰らないと、このあたりもすぐに風が強くなるだろうって、今のニュースで流れていたよ」
××腺は、松が使っている路線だった。
××腺が使えないとなると、△△腺に乗らねばならないが、自宅から一番近い△△腺の最寄駅は、家から歩いて一時間以上あった。もちろん、駅からタクシーを使うという手はあるが、この天気だ。簡単に捕まるだろうか。
とはいっても△△腺に乗るより方法はない。
松は、いつもの地下鉄の方とは違う△△腺の方に歩いて行った。傘を広げていたが、あまり役に立たず、足元はすぐにびしょ濡れになった。
パッパーッ
数メートル歩いたところで、背後から車のけたたましいクラクションが聞こえてきた。いったい誰だよ。傘で風を必死にさえぎっていたので道路の方を見ることができず、無視して歩いた。白っぽい車が、松の歩いている舗道の真横で止まった。
「花家さん!」
聞き覚えのある声が、自分の名を呼ぶ。
「え?」
松は足を止めて、声のある方向に身体を向け、傘の下から車の方を覗き込んだ。窓は開かれていた。運転席から瀬名さんが身を乗り出して、自分に向かって声かけていた。
「乗って!」
彼は雨音に負けない大きな声で言った。
「えっ」
「花家さん、××腺だろ?××腺止まっているよ。車で家まで送ってあげるよ」
「で、でも…」
「△△腺のホーム、今、人でいっぱいだよ。すぐに乗れないと思う」
彼はそう言って、すぐそばの△△腺の入り口がある階段の方向にチラと視線をやった。そこは中に入りきれなかった人達が外まであふれ出ていた。
「…ウッ」
「さ、乗って」
瀬名さんは言った。
「早く、ここ車庫前で路駐できない場所なんだよ」
松は、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。
バタンを音がして、車が滑らかに進み始めた。足元が濡れていたので車を汚すのがなんだか申し訳なかった。
「あ、ありがとうございます」
松はハンカチでぬれたところをあちこち拭いた。
「台風がくるとは聞いていましたけど、こんな早い時間から電車が止まるとは思いませんでした。助かります本当に」
「今日は、早く終わったんだね?」
瀬名さんはほっとした様子で嬉しそうだった。
「三時頃に地下鉄の一部が不通になって帰宅命令が出まして、早く出てきたんです」
「そうか、じゃ、車で来ていてよかったよ。こうやって花家さんを拾ってあげることが出来たしね」
その口ぶりは、前回彼と話したときに感じた甘い響きが含まれていて、松は身体を固くした。本来なら、こんな風に瀬名さんと密室で二人きりになるのは避けるべきだが、話しをするならこんなによい機会はない、今日こそは、松は自分の本心を、彼に打ち明けなければならなかった。
道路は混んでいた。
街の中心部にある交差点の手前、いつもは立ち止まることの少ない場所で渋滞に遭った。××腺が止まった事でおそらく道路も混みあっているのだろう。瀬名さんは、チッとか、フゥー、とかブツブツいいながらハンドルを操作していた。車内はしばらく沈黙していた。
交差点を抜けて、車が走り出したところで、瀬名さんが先に口を開いた。
「来週の月曜、トクミツ部長と面談なんだって?」
部長スケジュールは部員が特別ログインできるネット画面に、部長秘書の手でupされているので、それを見たのだろう。
「はい」
先に話を切り出してくれて助かった。
「例の件、考えてくれた?」
瀬名さんは言った。
「本社の、経理の件」
「ええ。それで、ずっと瀬名さんとお話ししたかったんです」
「うん」
「あの…」
非常に言いにくい話だった。
何から言おう?
瀬名さんの気を悪くさせず、なおかつ、円滑に話をすすめなければならない。
松の希望は、好きな人と付き合うことができて、リストラの憂き目に遭わず、瀬名さんを含めた周囲の人全員に迷惑をかけずに仕事を続けたい、それだけである。
「あの、えっと、その」
松はどもった。
「実は先日、トクミツ部長と立ち話をしたんですけと、わたしが瀬名さんから本社の経理に推薦されている事をご存知だったようなんです」
とり急ぎ、一番気になっていたことを話す。
「トクミツ部長が?」
瀬名さんは、「え?」 という顔になった。
「はい、あの」
松は続けた。
「トクミツ部長は、部の再編成後、今の部員がちゃんと異動先を確保できてリストラに遭わないよう尽力されていらっしゃるみたいなんですが、わたしの行先が既に決まっているならば、わたしの席は用意しなくてもいいんじゃないかと、そんな風におっしゃられて」
瀬名さんは車のスピードを緩めた。車は、赤信号で一旦止まった。
「トクミツ部長がそんな風に言ったの、花家さんが本社の経理に推薦されているって…」
「はい、瀬名さん、この件は内密って仰っていましたよね?」
瀬名さんは、おかしいな、と呟いた。
「あの…」
「で、結局のところ、花家さんは本社の経理を受ける気はあるの?」
瀬名さんが言った。
「あ、あの、瀬名さんがせっかく推薦してくださっているので、キャリアアップのよい機会ですし、あの、お引き受けしたい気持ちはあるのですが…」
別段、この仕事自身には抵抗はない。
それに伴う諸々のことが気になるだけで。
「あの」
松は、隣でハンドルを握っている瀬名さんの方に首をひり、思い切って尋ねることにした。
「やっぱり、なんで、わたしが本社の経理の椅子に選ばれたのかわからないんです。わたしのような支店の三年目の一社員が、本社に異動になるなんて納得いきません」
「前にも言っただろ、コレは、次期社長の川崎常務matterの話なんだよ」
「だから、何で川崎常務なんですか?わたし、常務に便宜を図っていただく理由もないと思うんですけど。そもそも、わたしがそのお仕事をお引き受けしたら、まわりから不自然に見えるんじゃないかと、その方が気になっているんです」
「どこが不自然なの」
瀬名さんは、松の言葉が全く理解できないようだった。
「つまりですよ、ウチの支店に限らず本社にだって、経理の達人みたいな人は沢山いるのに、なぜ私だけがそこに異動できるか、皆、不思議がるんじゃないですか」
「ああ、そういうことか」
瀬名さんは、肩を揺らして息を吐きだした。
「それについては心配する必要は全然ないよ。花家さんだけが特別待遇を受けるように見えるかもしれないけれど、花家さんは、この仕事を受けるだけの理由がある。この際、オフレコを前提に言うけど今度の人事は、川崎常務からのお願いでもあるんだ」
「は?お願い?」
「オレが経理課に配属されていた頃、書庫にばっかりこもっていたこと覚えている?」
「はい」
忘れようはずがない。未でも、書庫にこもりっぱなしで何をしていたのか、まるで見当がつかない。
「あの時、人事部長からの命令で、書庫で保管している帳表を、総ざらいしていたんだ」
「?何を総ざらいしていたんですか?」
「過去二年分の営業課のデータだよ。実は、うちの社が長年採用してきた会計帳表の見にくさにつけこんで、不正処理をしているんじゃないかっていうリークが、人事部宛てに何度もあってね」
「不正処理?」
松は、思わず声を高めた。
「うん、それもそういったタレコミは一度や二度じゃなくて、人事部でも長年にわたる懸案事項になっていたんだ」
この話は、P/LやB/Sを毎日目を皿のようにして不正がないか、おかしなデータがないかチェックし続けていた経理課の人間にとっては、聞き捨てならない話だった。
「不正って、誰がどんな」
「別に、ミスを発見して、花家さんや経理課の人達を責めようってわけじゃない。どうしてそういったことが起ってしまうのか、我々人事部の人間では分からなくてね、それで、おかしな操作がないか、不正に相当するような何かがないか、人事部長から経理課に行って、営業課の帳表類をチェックしてこいと言われて、オレは書庫にこもって、洗いざらい調べていたってわけ」
「じゃあ、瀬名さんが人事と経理課と二足の草鞋をはいていたのは…」
「変に思われていたかもしれないけど、ずっと、各営業課の帳表類をチェックしまくっていたんだよ」
と、彼は白状した。
やっと腑に落ちた。
人事と経理と二か所に席をおいているナゾの人物だった瀬名さんが、何を目的として経理課にやってきたのか、やっと理解できた。それで彼は、経理課にやってきた当初、毎日書庫にこもりきりで本来の仕事に目もくれず、毎日過去の帳表と顔をつきあわせていたのだ。
「そうだったんですか」
瀬名さんが人事から時期はずれに経理にやってきた謎がやっととけた。
「で、その話と、今回の人事と、何か関係あるんですか?」
「関係なかったら、今話さないよ。もし不正が見つからなかったら、今度の人事には全く関係なかっただろう。でもそうはいかなかったんだよ」
「重大な不正が見つかったっていうことですか?」
恐る恐る尋ねてみる。
「重大といえば重大だが、原因は、単なるシステム上の欠陥だったんだよ」
と、彼は言った。
「システムの欠陥?」
「そう、誰が悪かったと問いただせば、システムの欠陥をそのままに放置していた会社が悪かったと言わざるを得ないという内容のものだった。もともと、そういった不正に見えることが起ってしまうような作りのシステムに問題があったんだ。不正処理だろって問いただせば不正なんだけど、システムに欠陥があったんだから、こちらとしても追及のしようがなくてね」
「欠陥って、どんな欠陥だったんですか?」
「うん、旧システムでは、営業サイドで正常操作をしても、経理側に正確に反映されない部分がいくつかあったんだよ」
松は、自分が入社してきた、まだ右も左もわからない頃、当時の経理課長から
「このあたりのデータを目を皿のようにして見ておかないと、モレがあるんだよなあ」
と言われ、散々残業させられデータの拾い出しをしたことを薄ぼんやりと思い出した。確かに、松の会社が使っているシステムデータは、古すぎる上に見にくすぎた。
「で、オレは調査の結果を人事部長に報告したんだが、いかんせん、問題が浮き彫りになって、システムの盲点が見つかったとしても、だいたいウチの会社が使っている経理システムはもともと親会社主導で作られたものだし、親会社の意向を無視してシステムを改善することはできなかったんだ」
と、彼は右折信号の前でとまったまま、直進車が通り過ぎるのを待ってから、見事なハンドルさばきで右折した。道が直線になってから彼はまた話し始めた。
「で、どうしようかと悩んでいたところ、その話が社長の耳に入って」
「社長って、ウチの浪野社長ですか?」
「浪野社長がその件を、会計システムの責任者である親会社の川崎常務に話を通してね、ちょうど親会社で古いシステムから新システムに移行させようという話になっているから、システムの欠陥を改善することになっているからちょうどいいタイミングじゃないかっていう話になったらしい。何なら、どういった不正な経理処理があったのかもっと詳しく調べて来いっていう川崎常務から逆に御達しがあって、その話が再びオレに降りてきってわけ。それで、花家さんに帳表の星印を拾ってもらったり、アンケートを配って集計してもらったり、テスト運用をお願いしたりしたんだよ」
「じゃ、この話は、波野社長の命令でもあったということですか?」
「そういうこと」
「それで?」
言葉を詰まらせて瀬名さんに、続きが聞きたくて、松は促した。
「それで、そのう、その後、どうなったんですか?」
「不正経理に関わった人間がどうなったかってこと?結論的にはおとがめなしで、不問に処すって、社長および人事部長から命令が出た」
「・・・・・・」
「やっぱりそれは、故意でやっていたとは言い切れない内容だったからなんだ。それでも不正が明らみに出れば、当事者は面子を失う結果になる。社内審査会にかけられれば、最悪首が飛ぶ者もいるかもしれない。中には家族持ちでローンを抱えたやつだっているんだよ。表にでてしまえば、庇いようがない。だから、見なかったこと、知らなかったことにしろって」
「・・・・・・」
「オレとしても、誰かを吊し上げたかったわけじゃない。システムも新しくなれば、こういった不正処理が行われることもなくなると思う。不正っていう言い方は正しくないな。不適切なことが起ってしまうようなシステムを採用している会社が悪かった…、と言うべきなんだ」
「それで?」
「浪野社長もそれでオーケーということで了承した。川崎常務はシステムの責任者だし、次期社長でもあるから、彼も同意したんだ。その上で、この件に関して、人事部長と役員以外に“詳しい所”を知っている人間をどうしようかという話になったらしくて」
“詳しい所”というのは、具体的に
“誰”が、“いつ”、“どの件を”、“どの様に”計上したか
といった詳しい内容だろう。
瀬名さんは詳しくそこまで知っているのだ。
「ま、そういった成り行きで、川崎常務も、オレの希望のひとつも叶えてやろうという気分になったらしくて」
「口止めって意味ですか?」
松は、ズバリ言った。
「花家さんも、関係者でしょ?」
瀬名さんは、チラリとこちらを見て言った。
「いろいろ資料あさって、調べものするの手伝ってくれたし、本当のところ、気が付いていたんじゃないの」
まるで“同じ穴のムジナでしょ?”と、言われたような気分だった。
確かに、薄々、データを引っ張り出す作業をしながら、
「ひょっとして、このデータは、そうかもしれない」
と、思ったことはあったけれど、ケセラセラな性格の松は、深く考えようとしなかった。
「でもわたしは、個人名を特定するところまで関わっていませんよ」
「それでもだよ」
彼は言った。
「トクミツ部長は?」
「え?」
「トクミツ部長はこの件はご存知なんですか?」
「トクミツ部長は、人事部長から内々に聞いているのかもしれないな。オレからは報告していないが、花家さんの話からすれば、多分耳に入っているんだろうね。となると、彼も部外者ではないってことだったんだろう。実質、オレの上司なわけだし」
「…作業は、わたしだけでなく乙部さんも手伝ってくれたんですけど」
乙部さんはカンが鋭いから、松以上に何か気が付いているのかもしれない。
「知っている。彼女、派遣なのに優秀だよね。今度社員に採用されるんだって?トクミツ部長と一緒に本社についていくそうじゃない」
そうなのか。
乙部さんが社員に引き抜かれたのは、彼女が単に優秀だからではない。いや、優秀だから、こういった内密にしておかなければならない事柄もまかせられるのだろう。いやいや、では、今度の関係者は、皆、口止め料の代わりに昇進することが決まっているのだろうか?
「川崎常務からのお願いというのは、こういう意味だったんだよ」
瀬名さんは言った。
「川崎常務はウチの会社の次期社長だ。この件に関わった連中を本社の、彼の目の届くところに居てて欲しいのだと思う」
そういうことか。
松は、大いに頷いた。
来年以降と思われていた部内の再編成が前倒しに今年の九月に行われるのは、川崎常務の社長就任に合せてのことなのだ。この再編成で部員はバラバラになってしまうが、ドサクサにまぎれて松や瀬名を異動させるには、ちょうどいい機会なのだろう。松が東京出張を名目に呼び出されたのも理由があったのだ。川崎常務はこの件に関わった松が、どんな人物か見ておきたかったのだろう。
「最初から仰ってくれればよかったのに」
松は言った。
「まあね、でも、オレが何をしているか誰にも言わなかったのは、営業課の連中に下手に敬遠されないためだったんだけど」
瀬名さんはばつが悪そうに苦笑した。
「そのために、花家さんにはインフルエンザに罹るほど残業させてしまって悪かったと思っているよ」
「インフルエンザに罹っていたのは瀬名さんもじゃないですか」
「アハハ、まぁそうだけど」
意味不明のデータのチェックや、なぜ関係のない親会社の管理課の仕事を、やらなければならなかったのか、松はずっと疑問だった。それが今やっと理由が分かって、松はやっと眉が晴れた。
「ごめんね」
瀬名さんは言った。
「えっ」
「この前、考えておいてって言ったのに、これ、殆ど、決まった話なんだ」
「やっぱり、そうですか」
「悪いけど、断ることは、あんまりしないでほしいんだよ」
「ああそうですね」
謝られても、ここまで詰められている話ならば、松とて断りようがない。
「でもわたしもサラリーマンですから、会社が決定することには逆らえないと言いますか、お受けするしかないのかなとは思っていました」
「じゃ、受けてくれるんだね」
今度の話が瀬名さんのプライベートな気持ちから、松を異動させようとしたのではなく、次期社長である川崎常務の希望ならば、松としても受ける以外に道はないではないか。
「はい、お受けします。」
「よかった」
瀬名さんはとてもホッとしているようだった。
「断ることも考えていた?」
「そうですね、えっと、その、もし選択の余地があって、どちらを選んでも瀬名さんやトクミツ部長にご迷惑がかからないのなら、考えた方がいいのかと思ってたんですけど」
「と言うより、受けてしまったら、オレと付き合わなくちゃならないと心配していたんじゃないの」
からかい口調で彼は言う。
「あー、そのえっと」
追及されて松は、どもりながら白状した。
「ハイ、それも考えました」
「アハハ、前に言っていたでしょ。オレの“あの申し出”に関係なく考えてくれていいって。もちろん、好きな人と同じ職場で働きたい気持ちは強いけど、それとこれは別。オレはね、社長でも役員でもないから、そこまでするほど力はないし、本社のイスをエサにキミに無為強いするつもりもないよ」
「…すいません」
瀬名さんは、爽やかに笑っていた。
松が「イエス」と言ったので、ご機嫌になったのだろう。瀬名さんを傷つけずに穏便に済ますことが出来たが、この打ち解けた雰囲気は少々マズイのではないだろうか。
「ところで」
「ハイッ」
しばしの沈黙の後、突然話しかけられたので肩が飛び上がってしまった。
「そんなに驚かないでよ」
瀬名さんは笑う。
「本当に、オレのこと警戒しているんだね」
「いや、そんな、警戒だなんて」
している。しているに決まっている。もう、バレバレで恥ずかしい。
「ところで、徳永さんとは、うまくいっているの?」
「ええ?ああ、はい」
「・・・・・・」
「あの…」
「いっているんだ」
カマをかけられたのに気が付いたのは、瀬名さんがニヤリと笑ったのを見たときだ。
「・・・・・・」
「徳永さん、ニューヨークで忙しそうじゃない。ニューヨーク支社長に相当可愛がられているらしいね。この前、川崎常務がニューヨーク支社長の斎賀さんと役員会の時に話したって言っていたけど、斎賀さん、あと五年はニューヨーク勤務になりそうだって、この前、家族を呼び寄せたらしいよ」
「そうなんですか?」
後三年って聞いていたけど、五年なのか?
「上のお嬢さんが来年高校生だから、大学受験のことを考えたら単身赴任かなぁって最初は諦めていたらしいんだけど、一年でもいいから一緒に暮らした方がいいと思うって、全員でニューヨークに引っ越すことにしたんだってさ」
「へぇ」
「他の駐在員にも、家族を呼び寄せることを勧めているらしい。やっぱり家族は一緒にいなきゃって言うのが、彼のポリシーみたいで」
「家族思いなんですね」
「家族の存在は自分のモチベーションに大きく左右するよ。花家さんは独り暮らししたことある?」
「いえ、ないです」
「オレも就職してから一人暮らしになったけど、一人って言うのは、ホントにキツイものだよ。それまで家族にあれこれ干渉されて、早く家出たいって思っていたけど、いざひとりになると、食事やら掃除やら片づけやら、なんやかやと、細かい所をひとりでやらなくちゃならない。ま、家事をしてほしいだけじゃなくて、精神的にも、ひとりっていうのはやはりツライものがあるね」
「瀬名さんでも、そう思うんですか?」
思わず本音が出てしまった。彼のような心臓に毛が生えているような人でも、ホームシックになるのだろうかと思ったのだ。
「オレだって人の子。家に帰って家族の顔を見れば、何も言わずとも癒されたりするんだよ」
「そうですよね。すいません、瀬名さんのような自信に満ち溢れているような人でもそう思うのかなぁって思っただけなんです」
ハハハと、取り繕う。
「別に、自信に満ち溢れているわけじゃないけど」
瀬名さんは、照れているのか、謙遜しているのか声を濁した。
「そう見せておかないと、自分が保てないっていうのもあるしね」
瀬名さんのような“強健そうに見える人”でも、実は努力でそのように見せているのだろうか。
「でも、ずっとそれも続くわけじゃない。やっぱり、パートナーには側に居て欲しいもんなんだよ」
パートナー…
「心許せる相手と一緒にいたいって思うのは当たり前のことじゃない?」
松は、何も答えなかったけど、彼の言いたいことは理解できるような気がした。
激しく打ち付けていた雨の音が、弱まり、道路は郊外に差し掛かって、車はスピードをあげた。瀬名さんは、以前に松の家に着た道をすっかり覚えていて、車は、ナビなしで道に迷わずまっすぐ家の前に到着した。着いた頃には、雨はかなり弱まっていた。
「ついたよ」
「すみません、本当に助かりました」
「どういたしまして」
松は、シートベルトを外して、車の外に出ようとした。そして、お礼を言おうと瀬名さんの顔を見ようとしたとき、ものすごく疲れた顔をしているのに気が付いた。え、さっきまでそんな顔で運転していたの?
「瀬名さん、ひょっとして、今、ものすごく眠たかったりします?」
「え?ああ、うん」
彼は目を瞬かせる。
「瞼が半分しまりそうになっていますよ」
松は言った。
「よかったら、ウチに上がってお茶でも召し上がって、休憩されますか?」
さすがに家まで送ってもらって、居眠り運転しそうな人をそのまま返すわけにはいかなかった。瀬名さんも、遠慮しないところを見ると、相当眠たかったようだ。
「お言葉に甘えていいのなら」
と、言った。
松は、急いで家の中に入って行った。幸い、母屋は誰もいなかった。松は普段、母夫婦が暮らす離れではなく母屋で食事をしたりくつろいだりする。この時間は、母も義父も離れだし、夜の早い祖父母はもう寝床に入っている。
「どうぞ」
玄関脇の座敷で、瀬名さんにお茶を出すぐらい、なんでもなかった。松は、瀬名さんに座布団をすすめた。彼は、凝ったつくりの和室をキョロキョロと見まわしていた。松は、台所で、急いで暖かいお茶を作って持ってきた。
「そう言えば、瀬名さん今日は一日運転だったんじゃなかったんですか。お疲れだったんじゃありません?」
「運転は平気なんだけど、渋滞ばっかりで」
彼は苦笑いを浮かべた。
「ちょっと疲れたかな」
「すみません、気が付かなくって。あ、ごめんなさい、コーヒーの方がよかったでしたっけ」
「いや、今日はお客さんのところでコーヒーをしこたま飲みまくって、胃がボロボロで」
瀬名さんは笑って言ったけど、相当ツラそうでまゆ毛を八ノ字にさせている。
「暖かいお茶は助かるよ、ありがとう」
彼はそう言うと、手先でお湯呑を包むように持ち、ごくごくと飲み干した。お代わりをすすめると、遠慮せずに、おいしそうに二杯目も平らげた。
「水分を取ったら、元気出たよ」
瀬名さんは笑った。
「ありがとう」
「こちらこそ、送っていただいて、ありがとうございました」
ほんの十数分ほど部屋にあがってもらっただけだけど、元気になってくれたようで、松は嬉しかった。
「じゃ、もう帰るわ。台風で道もまだ混んでいると思うし」
「お構いも出来なくて」
瀬名さんを車まで見送った。さっきより目元がはっきりとしていて、少し元気になったようだ。
「じゃ、月曜日に」
松は、瀬名さんの車が角を曲がって行ってしまうのを見届けてから部屋に戻った。
玄関の扉を開けると、そこに母が突っ立っていて、こちらを見ていた。
「び、びっくりした」
見下ろすように立ちすくんでいる母の視線に驚いて、飛び上がる。
「御客様だったの?」
母が言った。
「ああ、会社の人。今日は台風で早退命令が出たんだけど、××腺が止まっちゃっててさ、丁度車で来ていた瀬名さんにここまで送ってもらったのよ」
「瀬名さんって、前にも雨の日に、ここまで送ってくれた人?」
母は思い出すように言った。
「そうよ」
わたしは答えた。
「トクミツさんが部長になった後に、人事部から異動してきた上司なの」
「…何で、家に上がって行ったの?」
「え?」
わたしは止まった。
「上がって行ったって、ほんの十分ほどの間だよ。今日一日運転してて、すごく眠そうにしていたので、眠気さましてもらうために、上がって、お茶を飲んでいってもらったんだけど」
「そうなの?」
母は、訝しそうに眉を顰める。
「何?」
松は不思議そうに見返した。
「部屋も綺麗に片付いていたし、粗相もしなかったし問題ないよ。それに、前に、せっかく家まできてもらったのに、なんで家に上がってもらわないのかって、お母さん言っていたじゃないの?」
母は、
「そう言えば、そう言ったわね」
と、答えた。
へんなの、と思いながら、三和土から上がろうとしたところ、
「お前今、」
と言って娘を呼び止めた。
「ん?」
「その人と付き合っているんじゃないでしょうね?」
「はっ?」
意味不明の事を言いだす母親について行けず、目を白黒させる。
「あの瀬名さんって人が好きになってしまったんじゃないでしょうね?」
「何言っているの?」
松は、驚き呆れて口を大開にあけて固まった。
ついこの前、徳永さんと将来を考えているといった話をしたはずなのに、なぜこのような事を考え付くのか全く分からない。
「なんで、そんな風に考えるの?わけわかんない」
「徳永さんに借金があるって聞かされて、お前、あの人に乗り換えようとしているんじゃないの?」
はぁぁぁぁあ????なんだそれ????????
「そうでしょ?きっとそうなんでしょ!お前、あの人に乗り換えようとしているんでしょ!」
「お母さんは、瀬名さんに乗り換えて欲しいわけ???」
松は頭を掻きむしる。
「だっダメよ!!絶対許しませんからね!!!」
母は眉間に大皺を寄せて仁王立ちになる。
「ゆ、許すぅ??一体何をよ???」
「お母さんがせっかくお前のために興信所使ってまで色々教えてあげたっていうのに、なんでまたあんな男を選んでくるのよ」
「あんな男って、瀬名さんのことそんな風に言わないでよ」
たとえそういう目で見ていなくとも、聞き捨てならない言い方に我慢できなかった。
「あの人、わたしの上司なのよ」
「上司だろうがなんだろううが、絶対ダメです!お前、知っているかどうか知らないけど、あの瀬名さんとやらは、H大学らしいじゃないの」
「は?何ソレ、それがどうしたっていうの??」
「H大学だなんて、たかだか地方大学じゃないのよ」
「だから?」
「それに瀬名さんの親は、両方とも高卒らしいじゃないの。実家は借家で、父親は中小企業のしがない課長職だし、母親は喫茶店でパートで、妹は就職できずアルバイターなのよ。アンタ知らないでしょ?」
松は、背中がゾクリとするのを感じた。目の前で何かに憑りつかれたかのように豪語しているこの人は、何を言っているのだろう。まさか。
「な、何っているの?どうしてそんな事知っているの??」
「調べたに決まっているでしょ」
「まさか、興信所で?」
そこまで手回しがいいわけないよね?
「当たり前じゃないのよ。お前は放っておくと、すぐにあっちこっちで悪い虫にひっかかってくるんだもの、こうやったわたしが見張っていないと、危なっかしいったらありゃしないわ!」
松は、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「悪い虫?」
顔は蒼白になり、松は、あらんかぎりの力を込め唸る様な怒鳴り声をあげる。
「誰が悪い虫だって?いったい誰の事を言っているの?」
「お前が、今この家に連れこんで来た、あの瀬名さんって人に決まっているでしょ!あんな身分の低い人、お母さんは決して認めませんからね。二度と家に上げないで頂戴!!」
ジャリ。
と、人の足音が聞こえた。
松は玄関扉を背にして三和土の上に立ったままだった。背後の気配を感じ、まるで幽霊の存在を確認するかのようにおそるおそる振り返った。
そこには、ついさっき、見送ったばかりの瀬名さんが、どういうわけだか、半分開いた扉の向こうで、こちらを見て立ちつくしていた。
「さっきから、何度か表のインターホンを押したんだけど、返事がなくて」
彼は、言った。
「ドアが開いているのが見えたから、これだけ渡そうと――――」
瀬名さんの手には、見覚えのある携帯が握られている。それは松の携帯だった。おそらく、助手席の上に鞄から滑り落ちてしまって、気づかずにいたのだろう。途中で気付いた彼は、わざわざ車を反転させて届けてくれたのだ。
「あ、ありがとう…ございます…」
松は、携帯を受け取るために近づいた。瀬名さんは、物凄く衝撃を受けたような顔をしていた。顔は蒼白で、唇も震えている。
「わざわざ、すみませんでした」
松は、携帯を受け取って礼を言った。
「いや…」
彼は、松を見て、それから彼女の母親の方を向いて言った。そう言った瀬名さんの目は、驚きと共に、どこか軽蔑の眼差しが見え隠れていた。
「お取込み中だったみたいで…こちらこそ失礼したね」
“お取込み中”と言う言葉に力がこもっていた。
「・・・・・・」
瀬名さんはそう言い残すと、
「失礼しました」
と言って、踵を返して車の方に戻って行った。
「瀬名さん!」
松は、雨の中を背を向けて行こうとしている瀬名さんを追いかけた。どうしよう、どうしよう、今の会話、絶対瀬名さんに聞かれてしまったに違いない。
瀬名さんは、無言のまま運転席に座ると、バタンとドアを閉めた。そして、エンジンをかけ、松の方を一目もくれず、車を走らせて去ってしまった。
呆然と車を見送る松。
何てことを聞かせてしまったんだろう。
恐ろしさのあまり、膝が震えてガクガクとなる。どうしよう、あんな人を愚弄するような言葉を聞かせてしまって、瀬名さんはどんなに傷ついただろう。瀬名さん、ものすごく驚いた顔していた。きっと今頃、相当怒っているに違いない。
松は、混乱した頭をかかえ、のろのろと家の中に引き返してきた。水滴を体中に感じたが、身体が震えるのは違う理由からだ。
「かえったの?」
母が陰気な顔で尋ねる。ハッとして頭をあげたが、彼女は、バツの悪そうな表情を浮かべてはいたが、さして気にしている様子でもなかった。
「おやショウちゃん、そんなに濡れてちゃ風邪ひくよ。お風呂にはいったら」
奥から、私達の怒鳴り合いを聞いて、事の一部始終を見ていた義父が姿を現して、松に声をかけた。
「・・・・・・」
「あの人大丈夫かね」
義父は、母に向かって言った。
「今の会話、聞かれちまったんじゃないか?驚いていたし、顔色悪かったし。忘れ物を届けてくれたんだろ。なのに、あんな事聞かせちゃって、あんな風に返しちゃって、マズかったんじゃないの」
と、義父は、母にぼそぼそと呟いていた。
「いいのよ!」
どこか、せいせいしたような言い方。
「お陰で、二度と近づかれずに済むじゃないの。いい厄介払いだわよ」
「でも…」
母と義父は、そんな事を言いあいながら、離れへと姿を消した。
厄介払い…
母は、いったいどういうつもりなのだろう?
抵抗されようが、傷つけようが、気にくわない相手をどんどんと排除しさえすれば、それで満足なのだろうか?そうすれば娘は、やがて折れて、おめがねに叶った相手と結婚すると思い込んでいるのだろうか?
瀬名さんの胸中を想像すると、察するに余りある。どういった理由であれ、瀬名さんはわたしを好いてくれて、労を取って、リストラの憂き目に遭わないよう、本社の経理の仕事まで勧めてくれた上司なのだというのに。
松は三和土の上から、上に上がることはできなかった。
ここは、ワタシの家だっけ?
なんだか居住権さえないような気がする。
鈍器で頭を思いっきりどつかれたかのような衝撃が、ガンガンと攻め寄せて来た。絶望が吐き気と共に込みあがってくる。
しんどい、苦しい。息が出来ない…
気分が悪いというもんじゃない。
松は、三和土の上でしゃがみ込み、膝に頭をうずめ、呼吸が戻るまでじっとしていた。
<13.桜舞う日> へ、つづく。