11.大雨
11.大雨
外は、雨だけでなく、風も吹いていて大嵐だった。
細い折り畳み傘は殆ど役に立たなかった。
地下鉄とは反対方向のシアトル系コーヒーショップへ逃げ込んだ。
店内には、突然降って来た雨をさけきたのだろう、滴をたらした客が点在していたが、静かだった。
松は、窓の外を見た。
雨はまだまだこれからだと言わんばかり激しく窓を叩きつけていた。
雨脚は弱まりそうになく、街路樹の細い枝が風に煽られて激しくうねっていた。
オフィスから出た直後より、ひどくなっている。
弱まるまでここで雨宿りするしかないな。
傘をたたんで傘袋に入れ、レジまで歩いていった。
カプチーノのカップを手に取って、いつもの窓際ではなく、座り心地のよいファブリック系のソファーに腰かける。
温かいコーヒーの泡に唇をつけながら、外を眺めた。
窓際のガラス張りの所に設えられたスタンドに一組のカップルが仲好さそうに肩を寄せ合っていた。
男は女の腰に手を回し楽し気に女の耳元で囁きかけており、女の方は頬を赤らめてうつむいている。
店内が空いているのをいいことに、恥ずかしげもなく人前でいちゃつくなんて恥ずかしくないのだろうか、あきれ半分ため息をつきそうになった。
はっと我に返り、ブンブンと首を横に振る。
いかんいかん。他人にかまけている場合ではない。
松は、一生を左右する大事な話を、大事な人にするつもりだった。
コーヒーカップをテーブルに置き、鞄の中から電話を取りだした。
そうして、アドレス帳の中から徳永さんの番号を探し当てて、通話ボタンを押した。
プルルルル…
コール音を聴いている間、もどかしいほど時間を長く感じる。
ここ数か月、彼に電話をかけても全く繋がらなかったので、電話をかけるのは勇気が要った。
『もしもし?』
三回目のコール音の後、聞き覚えのある低く響く懐かしい声が聞こえてきたので、胸をなでおろした。
「あ、わたしです、花家です。徳永さん、今、大丈夫ですか?」
『あぁ、少しだけなら』
まわりに遠慮しているような、ちょっと上ずった声。
『週末のこと?』
「はい、その件で予定をお伺いしたくて」
『木曜日にはそっちに行って、金曜まで予定があるんだけど、土曜はフリーにしている』
「ニューヨークへはいつお帰りになるんですか?」
『日曜の朝一に、成田からニューヨーク行に乗る予定でね。土曜の最終の新幹線で東京に戻る予定にしているよ』
「じゃ、土曜日は一日ご一緒できるんですね?」
『うん、そのつもり。久しぶりだし、デートにでもしようか』
その、他愛もない気安い調子に、胸が高鳴った。
「あっ、はい。楽しみにしています」
『どこか、いい場所ないか、探しておいてくれる?』
普段は聞かない甘えたような声が聞こえてくる。
「はい、探しておきます。それと、あの、お願いがあるんですが」
『何でも言ってくれ』
「あの、土曜日に、うちの親に会って頂けませんか」
『…えっ』
そう言った後、彼が息を飲むのが分かった。
「うちの親に会って頂きたいんです」
松は、尚も言った。
『それはその…そういうこと?』
彼は慎重に言った。
「はい、是非。会って下さったら、わたし徳永さんが日本にお戻りになるまで、三年でも五年でも待っています。合コンも行きませんし、お見合いもしません。だから、その代わり、親に会って頂きたいんです」
『本当に…?』
沈黙の後、彼は言った。
「はい、本当です」
徳永さんが、電話の向こうで
『ん…』
と、小さなため息をついたのが分かった。
それは、苦しいというより、思わず漏れ出てしまった、喜びの声のように聞こえた。
『ハナイエちゃんが、そうしてくれって言うんなら、是非にそうするよ。本当に、いいんだね?』
「はい、そうして欲しいんです」
『フフ…』
微笑んでいるのが分かる。
『土曜日、楽しみにしているよ』
「はい、わたしも楽しみにしています」
『また、メールする』
「はい、わたしからも連絡します」
じゃあ、と言って、電話は切れた。
松は携帯を閉じて、バッグにしまった。
とても簡単だった。「イエス」と言う事を、もっと難しく感じていた。
松はもう、徳永さんのものだ。もはや、揺れはしない。
家に帰ったら、徳永さんに会ってもらえるよう母に話そう。そして、日曜のお見合いはキャンセルしてもらおう。
徳永さんのことを、あれこれやかましく言いたげな母だったけれど、もともと東京一部上場の大会社にお勤めの徳永さんのことを、悪く見做す理由はどこにも見当たらなかった。
麗しい彼の外見を目の当たりにすれば、ウンと頷くに決まっている。どうか、神様。母をうまく説得できますように!
雨が弱まったのを見計らってカフェを出て、地下鉄に乗って帰宅した。家に着く頃はすっかり雨はあがっていた。松は気合を入れて、家に入った。
「ただいま」
玄関をあがると、母はリビングにもダイニングにもいなかった。探し回って和室で見つけた。母は桐の衣装ダンスをあけて、何組もの着物を広げていた。
「おかえり」
機嫌のよい顔で娘を見上げる。
「ね、この振り袖どう?これはあんたの叔母さんが若い頃に一度だけ袖を通したきり、着ていたいものなの。日曜のお見合いに丁度いいと思わない?」
母は嬉々として、この振り袖なら帯はやはりこれかしらね、着物をひろげながら、あれやこれやと嬉しそうに吟味していた。部屋中防虫剤の匂いで窒息しそうだったが、松は、自分のしなければならないことを思いだし、部屋の中に入ると、母に促されるまま着物の前に座った。
「この色の着物なら、バッグはこっちで、草履はこの色がいいわね。着物の色が派手だから、髪飾りは簪一本だけの方がシックでいいと思うんだけど」
と言って、黒っぽい漆塗りの簪を木箱から取り出す。
松は、着物もおしゃれも嫌いではなかったが、今回はそれどころではなかった。松は居住まいを正して正座し、正面から母親に切り出した。
「お母さん、あのね、次の土曜日に会ってもらいたい人がいるの」
松は言った。
「家にいててくれる?」
土曜日が空いているのは、前もって調べている。母は、「へ?」とでも言いたげな顔で松を見上げた。
「紹介したい人がいるの」
松は続けた。
「紹介したい人?」
その言葉がどういう意味をなすのか、母は理解したようだ。表情が変わるのを待たず、松は次の言葉を言った。
「そういうことなの。だから、日曜のお見合いは、申し訳ないけど、お断りして頂けないでしょうか」
母は、着物から手を離すと、生真面目な顔になって松の顔をまじまじと見た。
「おまえ、今更――」
「ごめんね」
松は、母が怒らないようになるべく機嫌をとるために、微笑みを作った。
「会ってもらいたい人は、徳永さんっていう方なの。前にも話したことあると思うけど」
「徳永さん?」
母はオウム返しに言った。
「そうよ、ウチの会社の親会社の人って、前に話したよね?今はニューヨークに駐在していて、丁度今、日本に出張で一時的に帰ってきているの。それで、週末こっちにくるので、お母さんと会って欲しいの」
「何で?」
母は、分かっているくせに、まるで分からないかのように、口を大きく開けて聞いた。
「何で会う必要があるの?」
「わたし、将来を考えて徳永さんとお付き合いしようと思っている。徳永さんの駐在が終わって日本に帰ってくるまで、お見合いもしない。それを、お母さんに許してもらいたいの」
シーンとなった。
母は何を考えているのだろう。生真面目な顔が、更に生真面目になり、頬に浮かんでいた機嫌のいい雰囲気は消え去った。
「あのねえ、松」
母は低い声で話し始めた。
「以前にも言ったと思うけど、今度のお見合いの相手は、そんじょそこらの人じゃないのよ。学歴も家柄も収入も申し分ない人なの。将来の相手なら、その人に会ってから決めたってかまわないでしょ。お見合いだけは、した方がいいわ」
「お母さんの言いたいことは分かるよ」
松は必死に訴えた。
「でも、もう決めたことだから。わたしは条件だけで、相手を決めているわけじゃない。わたしは徳永さんが好きだから、そうしたいの。好きだから、一緒にいたいと思ったの」
母親は、深く眉を寄せた。
松は、「好き」と言う言葉を使ったことを後悔した。なぜなら、「好き」という気持ほど、この家では軽くみなされることはないからだ。案の定母は、
「――そんな一時的な感情で」
と、言いだした。
「一時的な感情じゃない」
松は慌てて言った。
「と、徳永さんは、高学歴だし、東京一部上場の超一流企業に勤めているし、ニューヨーク支社長に気に入られて将来有望だし、よくよく考えてのことだよ。それに彼は、なんといってもイケメンだし」
「イケメン?」
「そうよ、お母さん、イケメン好きでしょ?」
松は、もちろんそんな理由で彼をえらんだわけでもなく、自分でも何を言っているんだ、と思ったが、とにかくウンと言ってもらえるように、母が好みそうな彼の条件をあげてみる。
「お母さん、韓流スター好きじゃない」
「それとこれとは、話は別ですよ。つまり、お前は顔がいいから、その徳永さんとやらに、コロっとまいっちゃったってわけ?」
「顔がいいだけじゃないよ。さっき言ったでしょ、高学歴で、一流企業に勤めているって」
「サラリーマンじゃない」
「今度のお見合いの人だって、サラリーマンじゃない」
「サラリーだけじゃぁね」
母は高飛車に言った。
「あの方は、それなりの資産家なんですよ。預金はどのくらいおもちか聞いてみた?」
「よ、預金?」
「そうよ、どのぐらい、お金を持っているか、知っていて当たり前でしょ?まさか、聞かなかったの」
「上場企業に勤めているんだから、貧乏なわけがないじゃない」
松に、給料一か月分のドレスをポンと買ってくれる人なんだ。お金に困っているわけがない。
「上場企業でもピンからキリまであるからね。家柄は?血筋は?」
「はっ?」
なんて質問をするんだ。
松は、答えられなくなった。
ほら、言わんこっちゃない、とでも言いたげな視線の母と目があう。しかし、これぐらいの質問は覚悟の上だ。松は、気持ちを立て直した。
「家柄や血筋は聞いたことないけど、帰国子女で英語がペラペラだから、それなりのご家庭の方だと思う」
「あら、帰国子女なの。それは聞いていなかったわ」
母は言った。
「まんざら、貧乏人の出でもないのね」
なんだろう、この見下し方。最初から、身持ちの悪い人間だと判断しているようで、松は気分が悪かった。
「わたし、徳永さんのこと、貧乏人だなんて一度も言った覚えないけど」
なんで、そんな言い方するんだと、松は、腹立たしさを抑えきれず、鋭い口調になってしまった。
「でも、わたしは裕福なご家庭でないと聞いていますよ」
「誰から?」
誰に聞くことがあるのか。
「ん?」
母はそう言って、視線を泳がせたが、怒り眼の娘に少しも動じている様子はなかった。
「興信所からそう聞いているけど」
「はぁ?興信所??」
訳が分からず、松は問いかえした。
「興信所って何???」
「あんたの言う、徳永さんという人の素性を調べたのよ」
母は、そんなこと当たり前でしょ、と言わんばかり。
「徳永さんは、中学生の時に、事業の失敗したのが原因で、ご両親が離婚されているようね。離婚後はお父様と同居されていたようだけど、十八歳の時に死別しているわ」
驚愕の表情を浮かべている娘に、母は畳み掛ける。
「弟さんが、暴力事件を起こして何度か警察のご厄介になっているようね。お母様とは再婚後は交流がないし。あんた、知っていた?」
松は、答えられなかった。聞いたことのない徳永さんの過去が、母の口から語られるとは露とも思っていなかったのだ。
「知らなかったのね」
母は言った。
「で…でも」
松は、喘いだ。
「ご両親が離婚しているから貧乏だとは限らないじゃない」
「あんたは、本当に、何も知らないのね」
母は目を見開き言った。
「それで本当に、その人と将来を考えているの」
「え?」
「馬鹿ね」
母は、はぁーっと、呆れたような溜息をついた。
「いつまでたっても、お子ちゃまなんだから…」
「どういう意味?」
「こんなこと言いたかないけど」
母は続けた。
「徳永さんはね、借金がおありになるのよ」
「借金?」
何を言っているんだろう、と松は思った。
「何で、徳永さんが借金するの?」
お金持ちではないけど、お金には不自由する身分ではないはずだ。どうして、徳永さんが?
「理由まで調べられなかったけど、生前、父親が懇意にしていた人に、毎月決まった金額を返済しているみたいね」
松は、借金の意味を考えた。
借金とはお金を他人に借りることだ。
松だって、そのぐらいのことはする。お財布を忘れて会社に行って、ランチ代を友達に借りたり、飲み代を立て替えたりするぐらいのこと、日常茶飯事だ。そう言った意味での借金ではないの?
「わたしだって、友達にお金借りるぐらいのことはするよ」
苦し紛れに言った。
「あんた、友達に、二千万の借金をするの?」
母は冷めた口調で言った。
「二千万?」
「その徳永さんとやらは、結婚したら、あんたにもその返済を手伝ってもらおうとしているんじゃないの?」
「そんなまさか。そんな話、聞いたことないよ」
「結婚してから、するつもりだったんじゃないの」
「そんなはずない!」
「じゃあ、どうして隠していたのよ」
「隠しているんじゃない。きっと、言う暇なかっただけ」
あの時は、本当に時間がなくて、家族のこととか、生い立ちとか、そんな細かな事を言う間がなかったのだ。彼に、やましいところがあるわけじゃない。
「そういった話は、次会った時に、してくれるはずよ」
「そう?じゃ、土曜にウチにおいでなすったら、お母さん、徳永さんに直接お尋ねしようかしらね」
「へ?」
何を?
「借金をなさっている身でありながら、どうして松に将来を見据えた交際を申し込んだのか、その理由を聞こうと言っているのよ」
「やめてよ、お母さん、間違っても徳永さんにそんな不躾なこと聞かないでよ!」
「どこが不躾なのよ?」
母は目を丸めて、まじまじと娘の顔を見た。
「借金がおありになるのは、事実なのよ。金目当てに近づかれているかもしれないっていうのに、その辺のところをはっきりさせておかないと」
「徳永さんは、金目当てにわたしと付き合おうと思ってなんかない!」
松は、叫んだ。
「そんなの、お母さんの勝手な想像じゃないの」
「色恋で頭が浮かれている間は、不利な情報は耳に入れたくないもんなんですよ」
母は、呆れ半分、ため息混じりに言う。
「あんたのお父さんもそうだった。貧しくても幸せな家庭を作ろうだなんて、最初は殊勝な事を言っていたけれどね。しかしね、お金がかかわってくると、人間の人格なんてものはあっという間に変わってしまうものなのよ。お父さんが、お母さんと結婚したのは金が目当てだって気が付いた時は、お前が生まれてからずっと後のことだった。あの頃のお母さんは若くて甘くて、それに気が付かなかったの。だからこそ心を鬼にして言うのよ。貧乏な人や目下な人との結婚は、不幸を呼ぶわ。後になって、後悔してからじゃ遅いんですからね」
不幸って…。そのワードは聞き捨てならなかった。松は、信じられない気持ちになって言った。
「じゃ、何?お母さんは、今不幸なの?お父さんと結婚して後悔しているの?あたしは、お母さんがお父さんと結婚してなかったら、生まれてこなかったんだけど」
「そういう訳じゃないけれど」
「じゃ、どういうわけ。お母さんは、わたしを産んだことを後悔しているの?」
「誰もそんな話をしていないでしょ」
母は、松のことをまるで子供が駄々をこねているかのような、うるさそうな顔になった。
「あんたは屁理屈ばっかり言って…」
「徳永さんはもしかしたら貧乏かもしれないけれど、目下な人じゃない!何も知らないのに、徳永さんのこと何も分かっていない癖に、文句ばっかりつけないで!」
「別に文句なんかつけてるつもりはありませんよ。徳永さんとやらに借金があるのも、警察にお世話になるような身内がいるのも事実なんだから、それを教えてやっているだけ。お前は、それを今知らされたもんだから、それがショックで、お母さんに八つ当たりしているんじゃないの?」
「・・・・・・」
「土曜日に連れてくるのはいいけれど」
母は、膝に広げていた着物をそのまま持ちあげ立ち上がった。そして、袖の長い着物を衣桁にかけて、よくみえるよう、長押にひっかけた。
「その代わり、日曜のお見合いは行きないさいよ」
「いやよ」
松はきっぱりと言った。
「お見合いはもうしない、わたしは―――」
「そんな強気なことを言っていられるのも今だけよ」
母は冷たい口調で松の言葉を遮った。
「お前は今まで、一人で何一つ決めてこれたことなんてなかったじゃないの。進学先にしろ、就職先にしろ、全部お母さんがお膳立てしてやらなきゃ、何ひとつとしてできやしなかったじゃない」
「それは、お母さんがそうしろって言ったから、従ってきただけで、別にひとりで何もできなかったわけじゃないわよ」
「何エラそうな事言っているのよ、今の会社だって、お母さんがお祖父ちゃんに頼んで今の社長さんに頼まなければ、入社試験さえ受けさせてもらえなかったの、もう忘れたの?」
「だから何だっていうの?」
松は噛みつくように言った。
「わたしが何も決められない人間だもんだから、結婚相手さえお母さんが決めるっていうの?」
「そうよ、悪い?」
母は、真顔で答えた。
「お前は、まだ世間を知らない子供なんです。何ですかその顔は。お金が全てじゃないなんて、子供じみた考えを持っていること事態、子供なんですよ。社会には階層というものがあって、上に行くにしたがって地位と財力が上がってゆくもんなんです。近頃の若い者は愛があれば何でも乗り越えられるだなんて少女マンガみたいなことを口にするけれど、そんな戯言は中学生のセリフですよ。とにかく日曜のお見合いだけはするんですよ、分かったわね」
反論の許さぬ強い口調が、ビシリと言い渡された。
松は、湧き上がってくるムカムカとモヤモヤで、吐きそうなほど気分が悪かった。
徳永さんに借金があって、それを打明けてくれていなかった事は非常なる驚きだったけれど、それ以上に、それを材料にして母が徳永さんを侮辱したことが、許せなかった。
怒りに滾る目で松は母の横顔をじっと睨みつけた。
「じゃ、何?その人に財力があるから、お母さんはそのお見合い相手の方がいいって言うのね?」
松は、冷ややかに尋ねた。
「向こうがウチより格上の相手だから有利な結婚ができるっていうのね?つまりは、ウチの方が向こうより格下だから」
「そうでもありませんよ。我が家は、××藩の家老の家系ですけど、先祖をたどっていけば京都の○○家の△△氏に繋がる格式がありますからね。先方は所詮、野武士上がりの成金ですもの。我が家の格式からすれば、少々財力が劣っていても、それで釣り合いが取れますからね」
「○○家の△△氏って千三百年以上の前の人じゃないのよ」
これは常々親戚が集まった時に語られていることだが、実は確固たる証拠はない。
家系図をさかのぼって調べることの好きな親戚のオジサンが、どうやら我が家は京都の〇〇家と繋がりがあるらしいと、根も葉もない噂をどこからか引き取って来たのを母はいまだに覚えていて信じているのだ。
おとぎ話レベルの拙い情報を、いまだ母が本気にとっていてそれをお見合いの材料にしているだなんて、驚くべき話である。
それに△△氏は、今の日本人なら殆ど人間に血の繋がりがあるんではなかろうかと思うぐらい、大昔の人ではないか。そんな話、誰が信じるというのであろうか?
「その話、先方は知っているの?」
まさかね、という思いで松は尋ねた。
「当たり前でしょ、ちゃんと仲人さんを通して知らせてありますよ」
「で、向こうはその話を、真面目にとっているわけ?」
まさか、そんなアホみたいな根拠のない話を向こうの耳にあえて入れたのかと思うと、恥ずかしくて穴に入りたくなった。
「当たり前でしょ。そうでなきゃ、承諾してもらえるわけないじゃない」
「…へ?」
「このぐらいのいい条件がなきゃ、あんたみたいな平凡な子、お見合いに応じてくれるわけないでしょ」
「・・・・・・」
松は、自分でも息がとまるのが分かった。
母の自分に対する評価はこれまで決して高くないものだったけれど、こうも面と向かって言われると、さすがにヘコむ。
「日曜は、午後一時で、場所は××ホテルよ」
母は松の傷ついた表情に目もくれなかった。
「着付けも髪のセットもそこで予約しておきますからね」
母は、そう言い残すと、“平凡な子”をひとりとりのこし、議論はこれまでだと言わんばかりに部屋を出て行った。
松は、目を瞑り天を仰ぐかのように首をのけぞらせ、空にむかって「うう…」と、呻いてから深く息を吐いた。なんだかひどく身体がだるかった。
翌日、出社して一番に瀬名さんの予定を知るために、部員の行動予定表を一番にチェックした。生憎、瀬名さんは金曜日までずっと出張と会議の連続で、殆ど部署にいなかった。
「花家さん、トクミツ部長が花家さんと個人面談を来週の月曜の午前中にしたいって言っているんだけど、大丈夫かな?ちょうどこの日しか時間とれなくって」
部長秘書席の乙部さんが、部員の予定が書かれてある出欠ボードを覗き込んで眉間に皺をよせている松に確認をとりにきた。松の表情は浮かなかった。
「来週の月曜ですか」
腕組みしてはぁーっと、溜息をつく。面接するのはいいんだけど、部長と話す前に、瀬名さんと例の件を話をしておきたかったんだけどなぁ。
「顔色悪いわね。どうしたの、悩み事でもあるの」
悩み事があるかだって?ええ、大アリですとも。
昨夜の母とのやり取りに疲れ切っていた松は、引き攣った作り笑いを浮かべた。
「ひょっとして今度の人事の事?」
乙部さんは、出張がちで不在が多い部長の代わりに部員のよろず相談も引き受けている。部内で起こったトラブルや下から上がって来た意見などを、乙部さんの方で聞き取ってから取り纏めて、部長の上奏する事も多い。悩みの内容を乙部さんに話しておけば、彼女の方からトクミツ部長に話を持って行ってくれる仕組みになっている。しかし…
「まぁ、そうなんですけどね」
と、答えてみるが、舌は滑らかには動かない。乙部さんに言ってしまいたいのはやまやまだけど。
「…そうなんですけど、まぁ、今はいいです。気遣って下さってありがとうございます。」
乙部さんには話せない。松は、乙部さんに、
「来週月曜日の個人面談は大丈夫ですので、トクミツ部長のそうお伝えください」
とだけ言って、自分の席に帰って行った。忙しいスケジュールで動き回っているのだ。こちらの都合で我儘は言えない。
とにもかくにも、来週の部長面接まで、瀬名さんと話をせねばならない。
瀬名さんが「内密に松だけに提示された“本社の経理のポスト”」が、トクミツ部長に筒抜けになっている事、それが理由で、部長が異動先を探している部員名簿から松の名前がすでに無いと言っていた事を、彼に説明したかった。瀬名さんは「考えて」と言ったけれど、これでは、松に選ぶ余地などないに等しいではないか。
その日、人事部での会議を終えて戻って来た瀬名さんが午後二時頃に席に戻って来た。支店の統合と、部の再編成に伴う仕事が大幅に増えて、彼も忙しそうにしている。
「三時半から本社との合同会議」に出なければならず、机の上の書類を大慌てで整理している。営業課から上がって来た申請書類も見ている間もないようだ。
「花家さん、ゴメン、これ見ている時間ないや。悪いけど、チェックして部長Boxに回しておいてくれる?」
松は「分かりました」と、申請書類のヤマを受け取るが、目の前の仕事で手いっぱいで、彼は、松の話したそうなそぶりに気が付かないらしい。
「会議、わりと長引いたんですね」
乙部さんが後ろ側の席でバタバタと音をさせて動き回っている瀬名さんに声をかけた。
「そうなんだよ!本当もう、時間かかっちゃってさ…昼も食べられなくって」
瀬名さんは、眉毛を八の字によせて苦笑した。
「ハラ減っちゃって…」
「あら、お昼も食べられなかったんですか?」
かわいそうに、と、乙部さんは言いたげだ。
「ちょっとでも、食べておいた方がいいですよー。今日の夜は、関西支店の人事課長と飲みじゃなかったでしたっけ。すきっ腹にいきなり飲むと、悪酔いしますよ!」
「何でそんなこと知っているの」
瀬名さんは、手を止めて彼女の方に振り返った。
「誰にも言ってないのに」
「フフフン」
乙部さんは自慢の鼻をうごめかして得意顔だ。
「わたしの耳は地獄耳ですからね~。部内で起こっている事で知らないことはないんですよ!わたしに隠し事しようったって、百年早いですよ。明日は東京でしょ?飲みすぎて、朝一の新幹線に乗り遅れないでくださいね」
「ハイハイ、わかりましたよ。乙部さんは本当に優秀だなー。トクミツ部長が、頭があがらない訳だ」
「何か言いました?」
「いいえ、何にも」
瀬名さんは肩を竦めた。
「怖い怖い」
と、言いつつも弄られてちょっと楽しそうに口元をほころばせている。
松は、乙部さんが話し終わるのを待って、瀬名さんに話しかけようとしていたが、瀬名さんは忙しそうにバタバタと机の上の書類にかまけて、松の方に目もくれない。ひととおり、整理が終わると、彼は、数個のファイルをビジネスバッグに詰めて
「じゃ、戻るのは金曜日の夜になると思う」
と言って、椅子から立ち上がった。
「えっ、金曜日の夜まで戻られないんですか?」
「できたら午後には戻りたいんだけどね、大阪での会議長引いたら、事務所に戻ってこないかも」
「大阪にも行かれるんですか?」
「うん、東京の次に、大阪での会議がはいっちゃってさ。直行で移動するから、水曜も木曜もこっちには戻れない。何かあったら、携帯に電話いれるかメールして」
「携帯ですか」
「急ぎならね。出先からも電話いれるようにするけど、何か問題ある?」
「い、いえ。多分ないと思います」
と、松は言った。本当は話したい事はあったのだが、時間がなさそうだったので、ひきとめることは憚れた。
「何かありましたら、携帯に連絡します」
「頼んだよ、じゃ、ヨロシク」
瀬名さんはそう言うと、サッサと出かけて行ってしまった。
松は溜息をついて椅子の上に腰を下ろした。
土日が休みである以上、彼とは、金曜日じゅうに話をしなければならなかったが、金曜日の夜まで戻らないという。
つまり今週は会えないというわけだ。
土曜に徳永さんと、超重要なデートを予定している以上、瀬名さんとは今週じゅうに話をしておきたかったのだけど。
『土曜がダメなら、日曜日に呼び出してみれば?』
モンモンとひとりで悩んでいたら、親切なアドバイスが降ってきた。
「呼び出すって、誰を?」
『もちろん、瀬名さんをさ。仕事の事にしろプライベートにしろ、とにかく一度ちゃんと会って話した方がいいと思うよ』
「いやぁよ、休みの日にわざわざ呼び出して会ってもらうなんて」
『嫌も何も、金曜も土曜もダメなら日曜しかないじゃない。部長と月曜日に面談するんでしょ?』
「そうなんだけどさ…」
『松から会いたいって言えば、瀬名さん、喜んで会ってくれるんじゃないの』
電話越しに気軽に言ってくるのは桐子だ。
彼女は前回の電話から、その後どのような展開になったのか気になっていたらしく、珍しく自分から電話を掛けてきてくれた。
松は、たまりにたまっていた、ストレスの原因、ここ数日で起こった出来事を、電話越しに桐子に一気にぶちまけた。
『何よそれ、親が言うから、日曜のお見合いに行くってわけ?』
桐子は、松の説明を聞いて、機嫌の悪い声をあげる。
「行きたくないよ!」
松は、吠えた。
「行きたくないに決まっているでしょ!!」
『行きたい、行きたくないじゃないよ、行くか行かないか訊いているんじゃん』
「行かないよ。お見合いやるって言ってんのは親なんだよ。行かないって言っているのに、勝手にするって言うんだもん」
『だからさぁー、それがアンタの弱い所なのよ。アンタが強い意思を持って、行かないって断言しない限り、折れたと思われて、勝手に話を進められてさ、気が付いたら結婚式の日取りを決められているって事に成りかねないよ』
「だからぁ、行かないってハッキリと言ってるでしょ!!」
『じゃあ、ほんっとに、お見合いはしないってことよね?』
「しないよ、するつもりない。絶対に行かない」
『ならよかった。だったら、日曜にでも瀬名さんとちゃんと会って話してみなよ。二人きりで会うの気まずいかもしれないけどさ』
「ま、そだね…」
『何、他にまだ何か問題でもあるの?』
「問題っていうか…」
松の声はどもる。
「徳永さんには、まだ、瀬名さんのことは話せていないんだ。この前、そんな事言う暇なかったし」
松は、言った。
『でも、土曜に会った時に話すんでしょ?』
「うん」
『じゃ、何を悩むことがあるの』
松は、渋っていたが、思い切って母が興信所を使って徳永さんの身上を調べているという話を、彼女に話した。母親から、徳永さんが二千万の借金を抱えている話を突然知らされ、松は未だ心の整理が出来ずにいた。本当なのかどうか、本人の口からキチンと確かめるべきなのだが、興信所の調べならば、おそらくそれは、事実に違いない。借金があるからと、それが理由で徳永さんへの想いが揺らぎはしなかったが、そんな莫大な額の借金がありながら、なぜそれを打明けてくれなかったのか、松は、それが気になっていた。
母との厳しいやりとりを再現しながら話したので、つい口調が厳しく、感情的になってしまった。桐子はおとなしく話を最後まで聞いていてくれた。
話終えると、桐子はしばらく黙っていたが、
『はぁーっ』
とため息をつくと
『そっか…あんたの親、そこまで調べていたんだ』
と、低い声で呟いた。
『あのさ…』
桐子は言った。
「ん?」
『ショウは、驚いているみたいだけど、興信所を遣って相手の事を調べたりするのはチラホラ耳にするから、それはビックリすることもないと思うよ』
「そうなの?」
えっ、ビックリする必要ない話なの?
母親の所業に憤っていた松は、ちょっと冷水を頭からかぶったような感じだ。
『うん、よく聞くよ。アタシ、高校がお嬢様学校だったから、親がお金持ちっていうコ、結構知っているけど、珍しい話じゃないよ。まぁ、お嬢様学校といったって、大企業の社長令嬢とかじゃなくて、中小企業の成金レベルだけどさ。ま、中途半端にお金持っていると、相手の懐具合が気になるんだろうなーって、漠然と思っていたけど。ショウのおうちは、お金持云々もそうだけど、御家柄とか血筋とか、そっちの方向にもこだわりがあるんだね』
「大した血筋じゃないんだよ」
松は溜息混じりに言う。
「たとえ遠い先祖がどこぞの家老だったとしても今はご覧のとおり一般庶民なんだし。それに、母親の言う“立派な血筋”って言うのも、殆ど、眉唾に近いレベルの話なんだよ。親戚が探し出した、古い家系図がひとつあるぐらいで、それも本物かどうか分からないし、そんなお伽話、事実かどうか分からない根拠のないものを持ち出して、お見合いの材料にしているなんて信じられないよ。本当は、先方が資産家なところを買っているくせに、ウチの家の方が、家格が上だから対等だなんていう上から目線な見方するなんて、信じられない」
『強烈だねぇ…』
桐子は呆れているというより、心底感心したかのような言い方だった。
『アンタのお母さんにこんな言い方するの悪いけどさ、徳永さんに借金があって貧乏なことをマイナスの材料にしているのに、お見合い相手がショウの家より資産家だから、この人にしておきないさいっちゅう言い草はスゴイよね』
そうなのだ。貧乏人とはつきあいたくないが、自分より金持ちとはつきあいは大歓迎だという、そのような自分本位の考え方が、松には理解しがたかった。
「ほんとだよ、そんな事を大真面目に口にするなんて、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいよ。どの面さげて相手の顔を拝めばいいかわかんない。まぁ、お見合いするつもりないから、そんなことにはならないだろうけど」
『そのお見合い、行かなかったら、どうなるの?』
「さぁねー、前みたいに何か理由をつけて、最悪、また延期になるかもしんない」
『延期になったところで、アンタ、行く気ないわけでしょ?』
「うん、ない」
『そうしたらまた、お見合いするだの、断れだの、モメなくちゃならないってわけか』
「そうなると思う。でもいくら親に頼んでも、聞く耳もたないだろうし、どうしたらいいんだろ…」
松は、途方に暮れた。
『向こうから断らせるように話を持って行くっていうのは?』
「断らせる?」
松は首を傾げた。
「会ってもないのに、どうやって断らせるの」
『いっそ、お見合いしてみるのよ。そんでもって、思いっきり嫌われるようなことをして、こんなヤツ、絶対嫌だって思わせるんだよ。アタシの友達は、嫌いな男にデートに誘われて、映画館で両足を前の椅子に投げ出して、思いっきり行儀の悪い所見せたら、効果テキメンだったって言っていたよ』
なるほど。箸の持ち方で百年の恋も冷めるっていうから、行儀が悪くて下品な態度を見せるのも有効かもしれない。だが。
「それは無理と思う。行くとなったら、振り袖着させられることになっているから」
振り袖姿で映画館の前の座席に足を投げ出すなんて技は、サーカス団員でない限り無理だろう。
『もしくは、思いっきり相手のプライドを刺激してみるとか』
桐子は名案とばかり続けた。
『お宅様は資産家でいらっしゃるようですが、家柄はそれほどでもないでしょ、なーんて言ってみるっていうのはどう?鼻の高い男なら、ギャフンとなるかもよ?』
「んー、それもアリかもしれないけど」
なんか気がすすまないな、と、松は溜息をついた。
「無関係な人を無駄に傷つけることは気がすすまないよ。確かに、したくないお見合いには違いないけど、向こうに罪はないじゃない」
『でもさぁ、親に言ってもラチがあかないんでしょ?』
桐子は譲らなかった。
『それじゃ、向こうに直に本音を言って破談にするしか方法ないじゃん。“アタクシ、お宅様よりお金は持っておりませんの。結婚するとなれば、財産目当てに嫁ぐことになりますが、お宅様より、当家は千三百年前の先祖の家格は上ですので、釣り合いは取れていると思いますわ。それでもよければ、お嫁に行ってあげてもよくってよ、オホホ”って、ぐらいのこと言ってもバチあたらないんじゃない?だってさ、松のお母さんが向こうを見下しているのは本当のことじゃん。事実をそのまま口にしてどこが悪いっちゅうのよ』
松は、桐子が言った通りの事を、お見合いの席で口にしている自分の姿を想像してみた。
改まった席で、気取った連中が、気取ったもの言いを繰り広げる中、建前抜きに本音をバッサリ言うことができれば、どれほど気が晴れることだろう。まあ、最後のオホホは言わないと思うけど。
「・・・・・・」
『ごめんごめん、怒んないでよ』
黙りこくってしまった松が、怒ってしまったと思い、桐子は慌てて宥め口調で謝った。
『冗談だよ、ま、そんな大口たたければ苦労しないよね』
「桐子は他人事だから、そんなに気軽に言えるのよ」
松は、自分で想像して自分で震えた。
「爆弾を投下するのはカンタンよ。それでも、その後の事を考えなければの話よ。“それでもかまわないので、結婚しましょう”だなんて言われたら、どうしてくれんのよ?」
そうとも、爆弾が不発に終わったらどうしてくれるのだ。
『まさかぁ、そんな風に見下してくる女と、結婚したがる馬鹿な男がいる?』
桐子は馬鹿にしたように言った。
『プライドの欠片もないも同然じゃないの』
「そうだね、そんな男なら、尚更お断りだわよ。のしつけて返すわよ」
松は、大いに同意し、驚き呆れた未だ見た事のない見合い相手の顔を想像して、ふたりは笑い転げた。
『まぁ、お見合いは、断るとして』
桐子はお腹をおさえ言った。
『問題なのは、人事の方よね。断っちゃったら、リストラされるって言うんなら、その話を受けるしか道ないじゃんよ』
「そうなんだよね…」
徳永さんは、どう思うだろうか?
『瀬名さんがショウのこと好きで狙っていて、ショウのために自分と近い本社の経理の席をもってきたとあっちゃ、徳永さんとしてはいい気分しないよね。自分は、親会社とはいえ別会社にいて、手は出せないし、しかもニューヨークのような遠いところにいるとなっちゃ』
「でも、どうしようにもないんだよね…」
松は呻いた。
何度も考えたが、それでもやはり、トクミツ部長に迷惑はけたくなかったし、自分がリストラされるような憂き目も遭いたくなかった。
『まぁ、今回ばかりは仕方ないか。徳永さんも、スーパーマンみたいに、今すぐ日本に帰って、松を攫っていくわけにはいかないんだろうし』
その言い方が、桐子がまだ会社に居た頃、
「非の打ちどころのない3Kの徳永さん」
という雰囲気ではないように思えて、松はちょっと悲しくなった。
「桐子」
『ん?』
「ひょっとして、徳永さんのこと見損なった?」
『へ?』
桐子は突然話を変えられて、キョトンとしていた。
『何で?』
「だって、徳永さん、桐子のタケシ君みたいに用意周到じゃないんだもん。桐子のタケシ君は、桐子と付き合う前から、事前に桐子の親に挨拶して、自分の資産状況を説明したりとかするような人なんでしょ?一方、徳永さんは、あんまり自分の事を話さないばかりか、二千万の借金を隠してたわけだし」
『ああー、まぁね』
松が何を言いたのか察して、桐子は頷いた。
『タケシはもともとソツがない性格だからさ』
「徳永さんみたいに、脇甘くないよね」
『確かに、タケシはそういった事、用意周到だし、徳永さんはタケシと比べたら、ちょっとぬけているけど、タケシが回りが、ビックリするような万全な技ができるのは、借金みたいなマイナス要因がないからなんだよ。まぁ、徳永さんが持っているようなキラキラした素養もないけどね。徳永さんも、松の親に反対されるような事情がなかったら、また違っていたかもよ?借金のことは、もし本当なら、やっぱ言いだしにくい事だったとは思う。進んで打明けることはしなかったかもしれないけど、隠すつもりはなかったのかも』
「そっかな」
『とにかくさ』
桐子は言った。
『お見合いの人には、どちらにせよ断るとして、人事の件は、徳永さんには事前にちゃんと話しておいた方がいいと思う。事情が事情なんだし、ちゃんと説明したら、分かってくれるんじゃない?』
「うん…」
『元気出しなさいよ』
桐子は明るく言った。
『少なくとも、徳永さんとは気持ちがちゃんと通じ合ったんじゃない。それが一番大事なことでしょ?』
「そうだね」
色々あって、忘れていたけど、徳永さんが
“将来を前提として付き合って欲しい”
と、言われた時の事を思い出して、松は顔を赤らめた。
『好きな人と、両想いになるって、奇跡的なことだよ』
桐子は言った。
『今度こそ大事にしないと』
「うん!」
それは本当にそうだった。
殆ど諦めていた恋で、夢のように現れてきてくれた徳永さんと、心が繋がったのだ。こんなに幸せで奇跡的なことはない。
それからしばらく世間話をして、電話を切った。
桐子は、
『また、事後報告しなよ!話聞くし、出来ることなら何でもするから』
と言ってくれた。
<12.雨のち嵐> へ、つづく。