10.葛藤
10.葛藤
金曜の夜に東京から戻り、土日を家で過ごした次の月曜日、松はいつもより早く家を出た。
一時間も早いとホームも電車の中も人が少ない。
電車待ちの間、久しぶりに桐子にメールした。
『緊急に相談したいことがあるの。今週、ゴハン一緒にできないかな?』
彼女に連絡をとったのは結婚式以来、二か月ぶりだ。
新婚カップルを邪魔するのは無粋と気遣い、電話もメールも控えていたが、ここ数日の予想できない出来事に対処できなくなり、さすがの松も、信頼のできる人間に相談したくなったのだった。
席に着いて始業までの静かな時間を利用して出張報告書を書いた。
早々に書類を作成し、瀬名さんの机の上に置いた。
レポートさえだせば、今回の出張に関わる案件は全て終わりだ。とりあえずひと段落。松は、机の上にたまった書類を片づけ始めた。
不在の一週間、松の仕事をフォローしていた部長秘書の乙部さんの筆跡の書類が机の上に山積みになっている。
それらを一枚一枚片づけるうちに、瀬名さんの自筆メモのついた書類が底の方から出てきた。
『要、熟読』とマジックでデカデカと書かれたその紙に目をおとすと、書類の首題は『今年の十月以降に組織改編について』となっており、以下の内容を読むと、いくつかの支店が統合され、松が所属する部もまた、人員の配置換えが行われる予定になっている、ということがつらつらと書かれてあった。
組織の再編成は、来年の春になると聞いていたが、この秋に変更になったのだろうかと、その紙を見ながらぼんやりと考えた。
九時近くになり、まわりの社員が出社してきた。
松は乙部さんのところに行き、留守中の業務について、お礼を述べた。
「ああ、別に大したことないよ、あれぐらい」
乙部さんは機嫌よく答える。
「それより、東京どうだった?」
忙しかったですけど、充実していましたよ、お土産のお菓子食べて下さいね、と、世間話をした後、乙部さんは松の手に握られている書類に気付いて声のトーンを落とした。
「あ、その書類見た?花家さんの居ない間に、トクミツ部長からも部員全員に発表があったんだけどね、今年の秋からウチの支店も隣の支店と統合になるんだって」
「そうみたいですね。で、この書類によるとここの支店は、なくなっちゃうってことなんでしょうか」
「なくなりはしないけど、規模を縮小して一部の業務を、本社に戻すようなことを言っていたから、人員の配置換えを行う事になるって」
そう言って乙部さんは、松に近くの椅子に座るよう促すと、もっと声を潜め言った。
「うちの部は、いったん解体されて、組織再編ですって。トクミツ部長は、本社に戻るって。近いうちに、私達ひとりひとりひとりと面談をするって部長は言っていたけど」
「えっ、そうなんですか」
「で、わたしもね、よかったら一緒に本社にこないかって、内々に部長から打診があったの」
乙部さんは言った。
「ええ?」
松は盛大に驚いた。
「そうなんですか、でも乙部さんは…」
「そうなのよ、わたしは派遣でしょ?」
乙部さんはここでちょっと言い淀みつつ、話を続ける。
「でも、トクミツ部長が、正社員としての雇用を検討してくれるって言うんで、本社についていくことにしたの」
「それ、本当ですか」
「部長にくっついていくのはいいけど、場所が本社になるんなら家から遠くなっちゃうから、ちょっとムリって思っていたの。自宅の近場で転職するしかないかなぁって一瞬諦めたんだけど、部長からそう言って下さったんで、考え直したの。正社員になればお給料も上がるし賞与も出るし、住宅手当も出るから、部屋を借りたりできるしね」
松は乙部さんをまじまじと眺めた。なんだかとてもうれしい気分になった。
「社員に昇格ってことですよね?」
乙女さんは、頬を緩ませていた。
「お、おめでとうとざいます」
「ありがとう」
乙部さんは笑顔で礼を述べた。
いくら希望があって、勤続年数が長くとも、誰もかれもが派遣から正社員になれるわけがない。
いやいや、こういったことはめったにない。
これは一重に、乙部さんの実力と人格と、長年の努力の賜物なのだ。
「なんか、乙部さんのことを今、むちゃくちゃ誇らしく感じました。乙部さんが派遣だなんて、今までもったいないって思っていたけど」
見ている人は見ているんだなー。
「さすがですね」
「それよりさ」
乙部さんは、それはおいておいてと話を区切り続ける。
「花家さんはどうするつもり」
「どうするとは?」
「そのうち、トクミツ部長から個人面談があると思うけど、希望があるなら事前に考えておいた方がいいと思うよ」
「でも、解散後、どんな組織になるか、まだ分からないんでしょ?」
松は、あまり深く考えていなかった。
「それに、辞令が出たら、それに従うしかありませんし」
「確かに、花家さんは経理だから担当している営業課にひっついていくこともありえるかもしれないけれど、上はこれを機に、大幅な人員の配置換えも考えているみたいだから、異動したい部署があるんなら、いい機会だし、言っておいた方がいいかもよ」
「異動したい部署ですか」
「そうよ、経理じゃない部署に興味があるのなら、今度の面談で話を通しておいた方がいいかもよ。まぁ、その気がないのなら、敢えて口にすることもないけどさ」
ここまで話が進んだところで就業開始のベルが鳴ったので松たちはいったん席に戻った。
「おはようー」
という声とともに、瀬名さんが姿を現した。
おはようございます、と松も挨拶して、席に着く。
瀬名さんは、机の上に置かれた、松の出張報告書に早速気が付いたようだ。
「おおっ、早いねー」
瀬名さんはササっと書類に目を通している。
「東京はどうだった?」
「はい、忙しかったですけど、色々と新しいシステムについて勉強することができました」
彼は、二、三出張について松に質問を繰り返していたけれど、
「花家さん、ちょっといい?」
と、言っておもむろに立ち上がった。
そして、返事も聞かずに、先に立って一番近いミーティングルームに歩きはじめた。
「すいません、午後でもかまいませんか?」
今日のこの時間は、月に一度の、地下から運ばれてくる山のような大量の帳表を切り取って仕分けし、各課に朝一に配布しなければならない時間帯で忙しかった。
「午後一に打ち合わせがあってオレも昼からは時間ないんだ。悪いんだけど」
瀬名さんは時計に目をやる。
「三十分でいいから」
松は、同じ作業をしていた人達に頭をさげると、手を止めてしぶしぶ彼の後に付いて行った。
部屋に入ると、瀬名さんは椅子に座るよう促した。
机を挟んで向かい合うと彼は早速、『要、熟読』と付箋のついた例の書類を松に差し出した。
「これ、もう読んだ?」
「あっ、はい。ええと、店舗が統合されて、組織変更になるって聞きました」
「うん、この秋から、うちの部はいったんバラバラになって、隣の支店と統合されて新たな部を編成することになっている」
と、瀬名さんは言った。
「そうですか」
「トクミツ部長は本社に戻ることになっているし、オレも本社の人事に行くことになっている」
瀬名さんも本社か。
本人も前から言っていたから、やっぱりそうなんだな、と思った。
「花家さんも、近々トクミツ部長から個人面談があると思うけど、異動したい部署があるなら、これを機に申し出ておいた方がいいと思う」
「希望を出せば、転属できる可能性はあるのでしょうか?上から辞令が出ればそれに従うしかないかなって思っていたんですけど、希望は通るものなんでしょうか?」
「まあ、会社も色々と人員の配置を考えているんだが、本人が全く望まない部署に配置換えしても業務の能率が悪くなることもありうるから、あらかじめ希望は聞いておくということだ。もちろん、叶えられるかどうか、保証はしかねるけれどね」
「そうですか」
と、松は答えたが、松は今の仕事に慣れているし好きだったので、特に異動の希望はないなー、という感じだった。
「花家さんは、経理の仕事が性に合っているようにオレは思っているんだけど」
瀬名さんは言った。
「自分ではどう思う?」
「ああはい、そうですね。経理の仕事は好きですので、このまま担当の営業課にくっついて行ってもいいかなって思っています」
「ふーん、そっか」
と、彼は言いちょっと間をおいて続けた。
「あのね」
「はい?」
「実はね、今年の十月から、本社の経理部に正社員の空きがひとつでそうなんだ。どう思う?」
「?どうとは?」
言われている意味がわからなくて、問い返してしまう。
「その仕事に興味ないかって意味だよ。本社の経理業務はここと違って経営面のチェックも同時に行っているんだ。煩雑なことが多々あるけど、これまでここでやってきた経理の仕事とほぼ似たようなものだし、大きな仕事に携われる分、遣り甲斐を感じられるとは思うんだけどね」
「ええ?」
いきなりな話に戸惑う。
「もし、興味があるなら、個人面談の前に僕から上に話を通しておくけど」
「どういうことでしょう」
松は事情が分からず、首を傾げた。
「だから、本社の経理に内勤事務の空きがひとつあって、花家さんがその席を希望しているって、トクミツ部長に言っておいてあげるって言っているんだよ」
「じゃあ、この話はトクミツ部長はご存知ないんですか?」
「あぁ、実はこれ、東京の親会社の川崎常務matterの話なんだ」
「川崎常務って、この前瀬名さんが言っていた、ウチの次の社長に決まっている、親会社の常務ですよね?」
この前、東京で川崎常務と会って、五分ほど話をしたが、彼はおくびにも、そんな話をしなかったけれど…?
「そうだよ。実はね、次期が前倒しになって、川崎常務は、来年からでなくて今年の秋から社長に着任することになっているんだ」
考え込んでいる松に、瀬名さんが説明する。
「えっ、そうなんですか。なんか急ですね」
「本来は来年の春からだったんだけど、今回の組織変更がこの秋に早まったのに伴って、社長の交代も同時に行われることになったんだよ。人事もそれに合わせて動いている。経理のポストにひとつ空きがある件については、オフレコで常務からオレに直接話があったんだ」
「オフレコ?」
「うん、ひとり優秀な経理の実務に長けている社員をよこしてくれって言われた。だから、これは花家さんだけに話している」
「わたしにだけ?」
「そう、花家さんにだけ」
瀬名さんは念を押した。
「えっ、それってどういう…」
ちょっと目元の雰囲気が変わった瀬名さんの真意を読み取りたくて、彼の顔を凝視した。
東京一部上場の親会社の常務のような、いや、間もなく我が社の社長になろうかというエライ人が、人事部の人といえど、支店の一社員に過ぎない瀬名さんに、なぜそのような話を振ってきて、平凡で大したスキルのないわたしを推薦してくるのだろうかと思った。
「どういうことですか、なぜわたしが」
「もちろん、花家さんに本社で仕事をしてもらいたかったから」
彼は臆面することなくサラリと言ってのけた。
松は固まってしまった。
「せっかくの組織変更があることだし、これを機に本社の配置換えも大幅に行わるから、それに乗じてじゃないけど、花家さんには良いポジションじゃないかと思ってね。本社経理のポストに空きがあることが知られれば、椅子取りゲーム状態になってしまう。だから内緒で、花家さんに先に話をもってきたってわけ」
「なんで、どうしてわたしがそんな」
優遇されるのだ。松は、驚き戸惑った。
「良い話だと思うよ。本社の経理で業務経験を積めれば、キャリアアップにつながるし」
キャリアアップ?
今まで考えたこともない言葉が、瀬名さんの口から出て、松は一層戸惑った。松は、混乱して返事が出来ない。
「そりゃ、下心があるかないかって言われれば、ないとは言えないけれど」
瀬名さんはばつが悪そうな感じだけれど、口角を上げて、どちらかと言えば、いたずらっ子のようなひょうきんな表情を浮かべている。
「この話は、オレの花家さんへの気持ちや、この前の申し出とは関係なく考えて欲しいっていったら、カッコつけすぎだと思うけど、まぁ、本音を言えば、ただ、好きな人のために何かしたかっただけ」
“好きな人のために”
というフレーズが胸に響く。
そんな重い言葉をくっつけたれたら、増々判断できなくなってしまう。
「ち、ちょっと待ってください、わたし、あの時お返事しなかったけれど」
松はどもった。
「わたしは、瀬名さんのことは」
「別に、今、好きになってくれなくていいんだよ」
瀬名さんは松の言葉をさえぎり、簡潔に言った。
「想いが通じるのが、もっと先になってしまってもいい。ただ、可能性だけは残しておきたいっていうオレの気持は理解して欲しいんだ」
「そんな、だって、待たせた挙句、お断りするようなことになるかもしれませんよ」
「それでもかまわないよ」
と、彼は言う。
「経理にポジションがあるのは事実なんだし、花家さんの能力なら会社の役に立てると思っただけだから。川崎常務から話があって、自分の近い所に、能力の高い社員がいたので、単に推薦したってだけの話だ。花家さんが負担に思うことは何もないよ。純粋にやりたいか、やりたくないかで判断して欲しいんだ」
そう言われても、松はやはり言葉を返せなかった。
そのように言われても、もし彼が自分に好意を持っていなければ、いいや、松がもっと事前に彼の気持ちを断っていれば、このような面倒くさい労をとるとはやはりあり得ないと思うからだ。
「トクミツ部長は今週はずっと出張だから。面談は来週になると思う」
瀬名さんは言った。
「返事は、今週中に聞かせてくれないかな」
松は、ハイともイイエとも言わず、椅子の上で固まっていた。告げられた事に対して整理ができず、混乱していた。
「花家さん?」
怪訝そうに瀬名さんは首を傾げていた。
「あっ、はい」
松はポカンとひらいた口を閉じた。
ついこの前、松は同じような台詞を、別人から言われたことを思い出していたのである。
「あ、はい、分かりました。今週中にお返事致します」
我に戻って、返答をする。
「じゃ、忙しいようだから、この話はこれまで」
と言って、瀬名さんは席を立った。
先週からいろんなことがありすぎて、頭がパニックだ。
松は椅子から立ち上がると、瀬名さんの後に続いて、フラフラとした足取りで会議室を後にした。
なんとも言えない気持ちで、その日の業務をやり過ごした。
やれやれと帰宅して食事とお風呂を終えて、部屋に戻ってからようやくこの一週間の出来事を冷静に振り返った。
うだうだと考えながらベッドに寝転んで携帯をチェックした。
桐子からメールが来ていた。朝送ったメールの返事だろう。早々に開封した。
>ゴメン、今週は忙しくて一緒にゴハンできそうにないの。急ぎの話なら、電話できくけど?
と、書かれてあった。
松は、お言葉に甘えて、早速彼女に電話をかけた。
『モシモシ~』
機嫌のいい桐子の声が聞こえてくる。
久しぶりの懐かしい友人の声にほっとする。
『ショウ、久しぶりだね、元気にしている?』
「元気だよー」
残業続きだった頃に比べると、クマも消えて体重も体調もだいぶ元に戻っていた。精神状況の方は、桐子と最後に会って以降だいぶ変化はあったけれども。
『ところでどうしたのよ、何か変わったことでもあったの?緊急に相談したいことだなんて、ビックリするじゃん』
ひとしきり世間話をした後、桐子が切り出してくる。
松は、早速、たまっていた膿を吐きだすかのように、
これまで桐子に報告していなかった徳永さんとのやりとり、
先週の東京出張で突然徳永さんに会った事、
彼から交際を申し込まれたこと、
そして帰宅して、母親からこの日曜日にお見合いがあると告げられたこと、
そして極め付け、上司である瀬名さんから好きだと告白されて、その上、
“本社の経理にポストがあるからキャリアップしたいなら推薦する”
と、言われた事を一気にまくしたてるように打ち明けた。
桐子は、松の口から告げられた長い話を、ずーっと電話越しに我慢強く聞いてくれていたが、松が、
「…そういうわけなの」
と、話を締めくくった気弱な声を聞いて、
『は?』
と、無愛想な声を出した。
『わたしには、アンタが何を悩んでいるのか、サッパリわかんない』
桐子は言った。
「え?」
『なんで、イエスってすぐ言わなかったの?』
「へ?」
どの件について言っているのか分からず、アホな声が出てしまう。
『だから、徳永さんに“付き合って欲しい”って言われた時になんで、すぐにイエスって言わなかったのかって、言ってんの!』
「えっそんな」
『ショウが、今でも徳永さんのことが好きなら、万々歳じゃないの。何をグズグズ迷っているわけ?』
「あの時は時間なかったので、徳永さんすぐに出かけないといけなくて、返事をする暇が…」
『でも、“お付き合いしたい”って言うぐらいの事、三秒で済むじゃないの』
「そりゃ、そうだけど」
『ひょっとして、何か未練でもあるわけ?』
「未練?」
『その瀬名さんって人によ』
「そんなことないよ。言っているじゃない。瀬名さんはただの上司で、好きでもなんでもない人だから、考えたこともないよ」
『そうでもないんじゃないの?』
桐子は厳しい声で問いただす。
『徳永さんと音信不通だった間、少なくとも、瀬名さんを次の候補に考えていた時期あったでしょ?あんた、瀬名さんにちょっとでも気持ちがゆらいでしまったんじゃないの』
「そんな、ゆらいだこともないよ」
『でも、お断りしなかったんでしょ?後ろめたさがあったんじゃないの』
え、そうなのかな。
桐子の言葉に、自分のかつての行動にハッとさせられた。
そうなのだろうか。
さして意識していなかったけど、徳永さんから交際を申し込まれた時、少なくとも、瀬名さんの事が思い浮かんだことを思い出した。
『その上、瀬名さんから本社の経理のポストを推薦してもらって、更に気持ちが動いているんじゃないの』
「動いてなんかいないよ」
『じゃあ、どうしてすぐに“お断りします”って言わなかったの』
「仕事に関わることだもん、私情は挟めないよ。瀬名さんと付き合えないから、お受けできませんって、言える状況ではなくてさ。それに、瀬名さんは、彼が私に告白したことについては、関係なく決めて欲しいって言っていたし」
『瀬名さんは、あんたと一緒に働きたいのよ』
桐子は、そんなことも分かんないの、と言いたげな口調だった。
『同じビルの中で、しょっちゅう顔あわしたりしたいのよ。その上、あんたがその仕事を好きになってくれたら、自分の株はますますあがるってわけでしょ?魂胆がミエミエじゃない』
「魂胆だなんて」
『まぁ、社内でキャリアアップしたいのならいい機会だとは思うけど』
桐子は言った。
『その点については、わたしが口を挟むべきではないけれど。でもさぁ、経理のポストに就いたら、ニューヨークにいる徳永さんと交際しながら、瀬名さんの好意を受け取って本社で働くことになるわけでしょ?そうなったら、アンタ自身、気まずくなりはしない?』
そうなのだ。
そこが、一番悩ましく、かつ、判断しかねるポイントであった。
『徳永さんは、ウチの会社で間借りしていた間、フロアじゅう、ううん、支店じゅうの殆どの人が、徳永さんが松の事を好きだって知っていたからさ、瀬名さんもそのことは知っているんでしょうよ。でもって、恋敵はニューヨークにいるわけだから、距離的には瀬名さんの方が有利なわけでしょう。今のうちに、松を近くに呼び寄せて手なずけておこうって腹積もりなんじゃない?時間がかかっても考えて欲しい、なんていう余裕シャクシャクな態度は、そうとしか思えない』
「手なずけるだなんて」
桐子の歯に衣着せぬ物言いに苦笑いが浮かんだが、いずれにせよ、瀬名さんの申し出を受けたら、松の気持ちがどうであれ、間違いなく、瀬名さんに、期待をもたすことになる。
そういう状態が正しいとはやはり思えなかった。
桐子のいう通りかもしれない。
瀬名さんの申し出を受けてしまえば、かえって気まずくなるかも。と、松は思った。
当たり前の事を、当たり前に言われて、松はやっとわが身に置かれている状況がはっきりと理解できた。
同時に、胸のつかえが下りた。
松は、徳永さんと殆ど縁が切れてしまったと思っていた間、考えていた以上に、瀬名さんを“次の候補”としてみなしていた自分に気付き、恥じ入った。
人は、寂しくなると、人恋しくなるものだ。
身近にいた、年頃の素敵な男性に、松も、人並みに心惹かれていたのかもしれない。
そう思うと、逆に徳永さんに対して、曇りなき気持ちで「イエス」と言えるかという疑問も湧き上がってくる。
松は、ふと、徳永さんの口から、瀬名さんとのことを尋ねられるようなことがあった場合、正直に、瀬名さんから告白されたことを打明けられる勇気が持てるだろうか、と、思った。
『しかし瀬名さんって人もナンだねぇ、付き合ってもいない、ただ好きな子のために、関東支店の異動希望を取り下げちゃうなんて、よほど松にいれこんでいるのね』
「でもさぁ、いくら好きな人のためと言ってもさ、ちょっと不自然だと思わない?」
松は不思議に思っていたことを口にした。
「そもそも瀬名さんが人事部の人だからって、なんで、本社の経理のポストを私物化するような真似ができるんだろ。どれだけ瀬名さんが川崎常務のお気に入りだとしてもよ?」
『普通に考えたら、まずあり得ないよね。その点については、彼はなんて言っているの?』
桐子が尋ねる。
「瀬名さんは、次の社長である親会社の川崎常務が、本社の経理に空きがひとつあるから、優秀な人をひとり物色して欲しい、みたいなことを言っていたけど」
『なんかニオウわね~』
桐子が胡散臭そうな言い方をする。
「ニオウ?」
『何か、水面下で何かありそうな気はする』
水面下か。
『ま、こういう話は、人事ではよくあることよ。上の人が考えて決めることだもん。あれこれ考えたところで事情は変わらないけどさ』
桐子は続けた。
『ショウは打算的に物事を決められるタイプだと思わないけれど、決断する時は、自分の気持ちに正直に判断するのが一番だと思う。ショウの将来に関わることだもん。アタシがどうこうしろと言えないよ』
「そうだよね、ごめん」
『謝ることないよ、こっちこそ相談してくれたありがとう。それよりさ、お見合いの方はどうするの?』
桐子に言われて、また口を噤んでしまう。
こちらの方が、どちらかと言えば、難問だった。
『断れる?』
桐子は心配そうに尋ねる。
「断るしかないよ。徳永さんにイエスって言うなら、お見合いも合コンもできないもん。したくもないし」
『でも、親は徳永さんのこと、反対しているんでしょ?』
まるで、徳永さんのような稀にみる優れた3高の男性を嫌がるなんて、どういう思考回路してんの、と、言いたげだった。
桐子はその理由を聞かせて欲しそうだったが、「姓名判断の結果がよくなかったから、反対されている」なんていうバカバカしい理由を恥ずかしくて、親友の桐子にでさえ口にできなかった。
「親はさ、徳永さんのことを知らないし、お見合い相手の方がものすごく好条件で素敵に見えているから、徳永さんの存在自体を邪魔に思っているだけかもしれない。会ってもらって、彼自身を見てもらえれば、また状況は変わると思うんだけどね」
松は、なるべく前向きに考えながら言った。
『それがいいよ。徳永さんの目を疑うような素晴らしい外見を目の当たりにしたら、否が応でも気持ち変わるんじゃない?』
桐子は電話の向こうで大きく頷いているようだった。
『で、徳永さん、ショウのご両親に会ってくれそう?』
「事情を話せば会ってくれると思う。ううん、話さなくともお願いしたら会ってくれると思う。今週末にはこっちにくるから、その時、お願いできるし」
自分でストーリーを組み立ててみる。
『そっか』
桐子は、松の決心が固まった様子を感じて、少し安心したようだ。
『うまく行くといいね』
「そうなるように祈っていて」
そんなやり取りを最後にして、電話を切った。
週末に徳永さんがこちらに来るまでもう待てなかった。
すぐにでも電話をして
「お付き合いさせて下さい。週末にこちらに来られる時に親に会ってもらえませんか」
と、お願いしたかった。
時計を見ると、もう十二時半だった。
徳永さんに電話をするにも、親に話すにも時間が遅すぎる。
明日、出社したら瀬名さんに会って、お申し出を辞退するってハッキリ言おう。
仕事は、早めにあがって、夜、徳永さんに電話をして、その足で、すぐに親に話してお見合いを断ってもらおう。
てきぱきと翌日のスケジュールを頭の中で組むと、落ち着くことができた。
わたしには徳永さんがいる。
わたしは徳永さんが好きだ。
だから、三年ぐらい待つのだってへっちゃらだ。
あの時の徳永さんの表情、「付き合って欲しい」ってってくれた、あの優しい微笑みと、ギュッとしてもらった時の温もりを思い出しながら、松はベッドに入って目を閉じた。
翌日出社してきて、朝一に瀬名さんのスケジュールを確認した。
生憎彼は、一日出張で不在だった。
仕方ない。瀬名さんへの返事は明日以降に持ち越そう。
乙部さんから珍しくランチに誘われた。久しぶりだったので、おしゃれなカフェに食べに行った。
「ちょっと、小耳にはさんだんだけど」
ランチが運ばれてくる間の時間を利用して、早速乙部さんが話しかけてくる。
「トクミツ部長から、チラって言われたんだけどさ。今回の配属替えの事で」
「何かあったんですか」
乙部さんの口調から、あまりいい話ではないことがうかがえる。
「大幅なリストラが計画されているみたいなのよね」
「リストラ?」
「まぁ、部長はリストラとは、ハッキリ仰らなかったけど」
乙部さんは言った。
「会社から早期退職制度を促すらしいって」
早期退職制度とは、退職金を上乗せするかわりに定年を待たずに早くやめるという制度である。
「以前も、早期退職制度で何人か辞めて行ったけど、今回は、若手社員にも通達が出るかもしれないって」
「それって、私達にもですか?」
入社三年目の若い自分に関係ある話なのだろうかと、松は目を丸くした。
「分からないけど、上は既に残って欲しい何人かは目星をつけているみたいなの。対象外になってしまった人は、そういう流になるかもしれないって」
「な、なんで乙部さんがそんな話を知っているんですか?」
松は驚きの叫び声を上げた。
「だって、いずれ知られる話だし、わたしは部長の秘書だから、なんでも事前に情報が入ってくるの。それでね、もうすでに何人かは、部長から内々にポストを提示されているようなの。花家さんは、トクミツ部長からお話しあった?」
「トクミツ部長からですか?いえ、部長は昨日は出張でしたし、今日もいらっしゃらないでしょ?内示どころが、話す間もありません」
「そっか、先週、花家さんいなかったもんね。じゃあ、近々お話あるかもね」
「あるかもねって」
乙部さんは、“内示”があることを前提に話しているけれど。
「話がなかったら、どうなるんですか?」
「なかったら、故人面談の時に、早期退職制度の適用を検討してくれないかって、言い渡される可能性は高いと思う」
「ええええ!そうなんですか!!」
あまりにも吃驚して、松は椅子から転げ落ちそうになった。
乙部さんは、やだ、何やってんのよ、と、松を椅子に引き戻したが、それどころの話ではない。
「ど、どうしよう…わたし、ク、クビになるかもしれないんですか???」
「待って、そうじゃなくてね、花家さんは大丈夫だって言いたかったの」
乙部さんは、松のあまりの狼狽えように驚いたようだ。
「だって、トクミツ部長は、花家さんは心配しなくても大丈夫だからって言っていたから」
「へ?」
どういうこと。
「部長は、部員皆が、リストラになんないように色々と骨を折っているみたいよ。どうしても考えてもらわない人もいるかもしれないけど、なるべく次の席に就けるようにあちこち出向いて探してくれているみたい。花家さんもそうだよ。ただ花家さんは、別口でとある部署から引き抜きがあるだろうから、大丈夫なはずだって、そう仰っていたの」
「別口?」
「うん、誰か、他の人からそういった話されなかった?」
思い当たるのは、昨日の瀬名さんとの会話だった。
本社の経理の話だ。彼から直接言われたのだ。
でも、これは川崎常務からのお達しであって、トクミツ部長は知らないって言っていたけど…?
乙部さんは松が何か口にするのを、じっと待っていた。
松は思わず言ってしまうところだったけど、内容が内容なだけに、いかに親しい乙部さんであっても、やはり打ち明ける事は出来ないと、思い止まった。
瀬名さんからお誘いをうけた本社の経理の仕事は、人に知られてしまっては、椅子取りゲーム状態になってしまうので、内内に彼が松のために用意してくれたものだ。
それに、この話をするなら、経理課に何人かいる内勤事務の中で、松だけを特別扱いされる理由を、乙部さんから尋ねられることになる。
まだ、色々とはっきりとしていない状況で、いや、自分の気持ちはかたまってはいるのだが、徳永さんにも瀬名さんにも、そして親にも自分の気持ちを未だ伝えていないこの状況で、うかつに他言することはできなかった。
「い、いえ、聞いてないです」
う~ん、心苦しいが、今は黙っておくことにするか。
乙部さんは、昨日、瀬名さんと松が二人きりでミーティングルームで打ち合わせをしていたのを見て、何か話があったのだろう勘付いていたかもしれなかったが、松が何も言わないところを見て、それ以上つっこんで聞いてこなかった。
その日、瀬名さんは外出先から直帰すると連絡があり、帰社してこなかった。
終業近くになって、出張先から戻ってきたコート姿のトクミツ氏と廊下ですれ違った。お互い目があって、松は、「お疲れ様です」と、挨拶した。
「ああ、そうだ、花家さん」
思い出したかのように、行ってしまう直前にトクミツ氏が立ち止まって松を呼び止めた。
「来週にでも、キミと個人面談をしたいと思っているんだけどね」
「あ、はい」
松は、答えた。
「先週、部員皆に発表したんだけど、秋から組織を改編することになってね、その関係で」
「はい、そうらしいですね。乙部さんから聞きました」
「リストラの噂があちこちにたっているみたいだけど、僕としては、なんとか全員あるべき席へ移れるようにしたいとは思ってはいるんだ」
「はい」
「花家さんのことも、考えているんだけど――」
と言って、トクミツ氏は言い淀んだ。
「――はい」
「花家さんは、瀬名君から新しい部署を紹介されているって、話を聞いているんだけど」
トクミツ氏は声を潜めて言った。
「本社の経理なんだって?」
今日、乙部さんから聞いたとおりだった。
トクミツ部長は知っているのだ。
知られているのなら仕方がない。
松は、確認するためにトクミツ部長に詰め寄った。
「部長、どうしてその話をご存知なんですか?」
「人の口に戸は立てられないって言うでしょ」
はは、と口もとをほころばせトクミツ氏は言った。
「こういう話は、自然、人の耳に伝わるもんなんだよ。特に人事の話は人の面子に関わるものだから、割合早い段階で気を利かせて、耳にいれてくれたりするもんなんだ。伏せておくと、後々面倒なことになりかねないからね」
「…そうですか」
本社の経理のポストに関しては、ものすごく極秘事項のように感じていたので、トクミツ氏が知っていただなんて、ほっとしたような、気が抜けたような、ヘンな感じだった。
「だからね、花家さんは、新体制の部のメンバーに入れない計算で今やっているんだよ。それでいいのか、確認しておきたくてね」
「えっ、そうなんですか」
「本社の経理なら、キミのスキルにとっても悪い話じゃないと思うし、いい話だと思うんだけど」
ちょっと待て、ちょっと待ってよ。
すっかりその気の口調のトクミツ部長に松は狼狽えた。
アタシは新体制のメンバーに入っていないの?となると…
トクミツ氏は、松の石化した表情に驚いて
「おや、いい話なのに、興味ないの?」
と、言いたげな顔になって首を傾げている。
「本社はここからさほど離れているわけでし」
トクミツ氏は是非にと推奨するような言い方をした。
「通勤には問題ないよね?」
「はい、でも、わたしもまだ聞いたばかりの話で、突然で。まだ、全然決めていなくて」
「まぁ、来週、面談をするから、それまでにハッキリ決めておいてくれる?」
トクミツ氏は言った。
「あ、はい」
「ヨロシクね」
そう言って、トクミツ氏は、片方の唇の端を上げてニヤっと意味深に笑った。
その笑みを見送りながら、彼が
“瀬名さんが松に特別な便宜を図る理由”
について考えているのではないかと思うと、誤解されているようで何ともイライラした。
違う、わたしは、瀬名さんとはそんな仲じゃない!
松は、「部長」とは呼ばずに、「トクミツさん」と、課長時代の時のように、名前を呼んで彼を引き留めた。
「ん?」
トクミツ氏は松の声に反応して振り返った。
松は、「本社の経理の話は受けないつもりなので、わたしを新しい編成メンバーの方に加えて下さい」と、言おうと口を開いた。
ところが、彼と目が合った瞬間、松の声はのど元で止まってしまった。
トクミツ氏の目は憔悴しており、いつもの覇気がなく、元気がなかった。
乙部さんが、ここ数日、部員の新しいポストを探すために、部長は右往左往しているのよ、といった言葉が胸に迫ってくる。
新しいポストを探し出せなければ、リストラの道が待っている。
部員がそんな目にあわないために、部長は寸暇を惜しんで走り回っているらしい。
新しい席は、全員には行き渡らないのかもしれない。
それでも、どこかの仕事にありつけるように彼は、頑張っているのだ。
もし松が、本社の経理の話を断ったらどうなるのか?
部員の中から、松の代わりの誰かが、いや松自身が、リストラの憂き目に遭うのではと考えると、その言葉を言う事が出来なかった。
「花家さん?」
トクミツ部長が言った。
「あ、いえ、出張先で雨に遭われたのかなって思って」
と、松はなんでもない調子で言った。
「ああ、これね」
トクミツ氏は自分のコートの肩についている雨粒を軽く掌で払った。
「今ちょうど降ってきたところ。地下鉄からここまでの道で、降られちゃってね」
「そうですか、雨なんですね。お疲れ様でした」
トクミツ部長は、疲れた顔に軽く微笑を浮かべるとそのまま足早に事務所の方に戻って行った。
松は、その後、すぐに退社した。
外は、既に大雨になっていた。
松は、折り畳みの傘をひろげて、ビルの外に出た。
<11.大雨> へ、つづく。