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9.告白

9.告白



「時間があまりなくて」



 ゆっくりお茶でもしたいところなんだけど、一時間ほどしか時間がないという徳永さんを、情報管理課で予約してあった、手近な応接室に通した。



 そこは、午前中に役員向けのプレゼンが行われた広めの会議室で、延長した時を考えて午後まで使用許可をとっていたので、今は空いていた。





 松は、給湯室で淹れたインスタントのコーヒーを、徳永さんに出した。


 この部屋には広くて清潔で、座り心地のいい椅子が何客も添えつけられてあった。


 徳永さんは、そのうちのひとつに腰かけ、出されたコーヒーをゆっくりと飲み始めた。




 こんな風景、前にも見たことがあった。


 あれは、彼がニューヨークに旅立つ直前の国際空港での出来事だ。



「僕もここでカプチーノを飲んでいい?」


と、頼まれて、松は慌てて近くのスタンドでカプチーノを買って、彼に差し出した。


 彼は松の手からそれを受け取ると、唇に泡をつけつつ、


「美味しい」


と目を細めながら、それを飲んでいた。




 間近から見た、整った彼の横顔が印象的だった。




 高い鼻、長いマツゲ、りりしい眉、すっきりとした口元。




 どれをとっても、完璧だった。


 どの部分を見ても、理想の王子のような人だった。


 低い椅子が、彼の長い脚を持て余すかのように、何度も足を組み直していた。


 さらさらの前髪が、彼のきりっとした顔立ちを引き立てていて、長くて白い指が、美しい曲線を描いて紙コップにまとわりついていた。




 松は、あの日、恋をしていた。


 とても彼を愛しく思っていたのだ…




 コーヒーを半分ほど飲むと、徳永さんは紙コップを机の上に置いた。


 そして、両肘を椅子の肘置きにのせると、手をお腹の前で組んで、じっとこちらを見た。


 松は、落ち着かない気持ちで彼と向かい合っていた。





「急に訪ねてきてごめんね」


彼は言った。


「昨日の夜帰国して、今朝こっちに出社して早々、あれやこれやとバタバタで。お昼にやっと津山君と連絡が取れて、彼女、今日キミと約束しているって言うから、無理を言って、彼女に代わってもらったんだ」



 昨日の夜ついて、今朝から出社とは、相変わらず忙しないスケジュールだな。


 しっかり寝られているのだろうか、休息はとれているのだろうかと、彼の顔色をチラチラ伺いながら松は言った。



「お忙しいんですね」



「東京で定例の役員会があってね、今回は、ニューヨーク支社長のお供で来たんだ」


そうですか、と相槌を打とうとしたとき、


「…と、いうのは二番目の理由。一番の理由はね、ハナイエちゃんに会いたくて帰って来たんだ」



 何気なく言われた言葉に、胸がドキンとはねあがる。



 どういうこと?


 彼に強引に帰国させるようなことをやらかしたのだろうかと、松の心臓は早鐘のように早く打ち始めた。



「先月だったかな、津山君から、ハナイエちゃんが東京に出張で来るって聞いていたから。本当は、夏に、東京に一時帰国するつもりだったんだけど、ハナイエちゃんがこっちに来るっていうんなら、それに合わせて前倒しにしたってわけ。来週いっぱいまで日本にいるよ」




「そ、そうなんですか」


と言いつつも、徳永さんの顔がまともに見られなかった。


 そう言えば、この前の電話で夏に一度帰国するような事を言っていたっけ。


 この忙しい人が、わたしなんかの予定に合せて仕事に関わる予定を変更させてしまったかと思うと、身のすくむような思いだった。




 何の用なんだろう。


 わたしに何の話なんだろう?


 余程大事な事に違いない。




 松は、背筋に冷や汗が流れ落ちそうなほど緊張した。




「あ、あの」


松は手先が震えているのを隠すために、膝の上で両手を組み合わせた。


「そ、それで、わたしにご用って、何でしょうか」


震える声で尋ねる。



「ずっと、携帯の方に電話くれていたでしょ。着信があったのは、分かっていたんだけど、出なくてごめんね」



「出なくてごめん」


であって、


「出られなくてごめん」


じゃない。


 仕事で忙しいからではなく、彼の意思で電話に出なかったのだ。




 松は、いよいよこの時がきてしまったのだと思った。


 今日、やはり彼は、別れ話をしにやってきたのだ。


 あんな風に、度々電話をしてくるのは迷惑なのだと、関係はハッキリ終ったのだと、私などに、少しも好意などもっていないのだと、そう言い来たのに違いない。



 そう思うと、キュッと胃の腑のあたりが冷えるような感じがした。


 軽い眩暈も感じる。


 だけど、まだ、うちのめされたわけではない。


 終わりを告げられる事は常に予感していたではないか。




 覚悟を決めて顔をあげ、徳永さんの顔を視界にいれた。


 いつもと変わらない誠実に輝くふたつの黒い瞳が、こちらを向いていた。




「はっきり仰って下さい」


続きをどのように言おうかと躊躇っている徳永さんに、松は言った。


「気にせず、はっきり仰って下さい。わたし、何を言われても大丈夫ですから」




 松の腹の座った目に、徳永さんは何か弁明したそうな雰囲気で言葉を選んでいるのか、組んだ足をぶらぶらさせている。



「この前、ニューヨークの自宅の方に電話くれたでしょ」


と、彼は言い始めた。


「日本では夜の七時頃だったと思うけど、あの電話くれたの、ハナイエちゃんだよね?」




 心臓がうるさく鼓動している。



 あの日の、あの電話。



 彼は、松が電話をかけたあの日、彼女の知らない女の人が、電話口に出てきたあの電話のことを言っているのだ。


 非常識な時間帯に、厚かましく自宅の電話のベルを鳴らした松を、やはり、彼は、怒っているのだと思った。


 松は、あの時、名乗らなかったし、かけてきた相手が、自分であることも知られなくなかった。


 諦めの悪い性質の悪いストーカーだと思われるに違いなかったからだ。




 松は焦って言い訳を探そうとしたけれど、目の前の彼はもう、すっかりお見通しのようで、問いただそうともせず、松の返事を待ってもいなかった。



「電話に女の人がでたでしょ」


彼は、松が気になっている事を、ずばり切り出す。


「あの人ね、オレの前の奥さんなんだよ」



「前の奥さん…」


 

 予想通り、離婚した元妻が彼の部屋に出入りしていたのだ。


 徳永さんの顔色は、後ろめたい雰囲気はまるでなかった。




「今は、フィラデルフィアに住んでいて、あの日、彼女は、結婚していた時に購入して、離婚後ほったらかしにしてあったある土地の件で家に来ていたんだ。あの土地、オレの名義だったんだけど、彼女が、それを、オレに代わって色々世話してくれていてね。で、最近になってやっと買い手がついて、売却の手続きが終わったんで、書類やら事後処理手続きのために、わざわざウチに来てくれたんだ。遅くなったんで、その日、泊まったんだよ。電話をくれた時は、朝一の飛行機に乗らなくちゃいけなくて、車で送っていくために、丁度家を出るところだったんだ」




 土地の売却だとか、事後処理手続きと説明されても、「だから?」と、いう気分だった。


 松が気になっていた事は、彼女が、カイ君の言っていた通りに「復縁」を望んでいて、そのために、彼の家にわざわざ泊まりにやってきたのではないかということだった。


 彼に用があったとしても、ホテルに泊まればいいではないか。




「だからね、彼女とは、今では、そういった関係では全くないんだよ」


と、徳永さんは松の疑念を知ってか知らずか、真摯な眼差しを投げかけてくる。


「全然ないんだ」


徳永さんは念を押すかのように付け加えたけれど、心を頑なにした松は、彼の真意をくみ取ることはできなかった。



「別に、言い訳してくださらなくって、いいですよ」


松は言った。


「わたしのために、嘘ついたりしないでください」



「嘘なんか、ついていない」


徳永さんはハッキリと否定した。



「でも、奥さんは、いえ、元の奥さんは、徳永さんと復縁したがっているんじゃないんですか」



「は?」



 鳩が豆鉄砲くらったみたいに、身に覚えがないような呆けた顔になっている。



「って、カイ君から聞きましたけど」



「カイ?ああ、またヨシミがそんな、テキトーなこと言っているわけ?」


徳永さんは盛大な溜息をついた。


「あいつが、キミにそんなこと言ったの?」



「でも、それは、本当のことなんでしょう?」




 いきなりカイ君から聞きだした話を出してマズかったかな、と思ったが、時間もないことだし、この際、ハッキリと溜まりっぱなしだったいくつかの疑問を、吐き出してしまおうと思った。




「だって、その方、前にも一度徳永さんの家に泊まりにこられたことありません?泊まったの、その時が始めてじゃなかったでしょ?」



「え?」


徳永さんは、何のことを言われているのだろうかと、眉を寄せる。




「わたしが泊めて頂いた、徳永さんの家のあのゲストルームのベッドの下に、女物の化粧ポーチが落ちてあったことがあって、その中に、つい数日前の、わたしと一緒に行った同じレストランの領収証が入っているの、見たことあるんです。あれ、その方のものじゃないですか」




「えっ…?」


徳永さんの表情が一気に固くなる。




「わたしがあの部屋に滞在させてもらったあの時、数日前にお客があったばかりって、徳永さん仰っていましたよね。それは、その人とは、女の人…つまり、徳永さんの元の奥さんだったんじゃないですか。その人と、夜にレストランで外食をなさって、徳永さんの家に泊まったんじゃないですか」




 突然、予想しなかった事実を持ち出されて、徳永さんはビックリして記憶を手繰り寄せているようだった。


 おそらく、松の口からこういった証拠をつきつけられるとは思ってもみなかったのだろう。




「ああ…!確かに、彼女を家に泊めことは前にもあったし、食事もしたよ」


と、徳永さんは言った。


 

 ヤッパリ、と松の気持ちは深く沈んだ。




「でも、さっきも言っただろ、土地を売却した後の、事後処理やらで、判子押したり、確認したりすることが多々あって。こっちが忙しいのを分かって、何度か、むこうからわざわざニューヨークまで出向いてきてくれたんだ。成り行きで家に泊めたり外で食事するぐらいのことはしたけど」


ここで徳永さんは言葉を切って、次を強調した。


「でもそれだけで、それ以上のことは何もなかった。彼女がウチに泊まったからと言って、復縁するつもりなんて全然ないよ」




 シーンとなった室内。


 松は、言葉が出てこなかった。


 徳永さんは、松の表情を見逃すまいと、じっと視線を釘づけにしていた。




「彼女は政治経済専門のジャーナリストで、フィラデルフィアに駐在して仕事をしているんだ。だからオレは、彼女の仕事に合せて一番近い、ニューヨークに転勤願いを出していた。だから、本来なら、今度の転勤は、願ったり叶ったりの結果だったんだけど」




「じゃ、なんで?」


松は、嫉妬に誘われてつい声高に質問してしまった。


「何で離婚することになったんですか」



「ずっと離れ離れで暮らし過ぎて、一緒に居たいと思わなくなってしまった」


 と、彼は言った。




「気持ちが冷めてしまったんだ。彼女とのことを簡単に説明するとね。上海からニューヨークに転勤が決まった時には、離婚しようと気持ちはきまっていたんだ。

 もともと彼女とは結婚後もずっと離れ離れでの生活で、その間結婚している状態とは言い難かった。オレがニューヨークに行ったとしても、ニューヨークとフィラデルフィアは隣合わせの州とはいえ離れて暮らすってことには変わりはない。結局、遠距離になってしまう。

 彼女に対してもそんな気持ちだったし、曖昧な関係をうやむやにしたくなくてね。実をいうと、海外駐在をこのニューヨークを最後に終わりにしようと決めたのも、それがきっかけで」





「え?」





「日本に帰りたくなったんだ。ずっと外国暮らしで、転々と各地を回って忙しく毎日をやり過ごしてきたけど、日本に戻ってどっしりと一か所に腰を据えたくなったんだ。まぁ、年齢も年齢だから、そういう風に気持に変化していったのは、不思議のないこととは自分では思っているけど。その点を考慮して彼女に離婚を申し出た。

 まぁ、せっかくニューヨーク駐在が決まった矢先の出来事だったから、向こうも驚いていたし、最初は反対していたけど、彼女は仕事のこともあって、この先もずっとアメリカに滞在したがっていた。

 それが決め手になって、最後には承知してくれた。土地の売却の事務処理は、殆ど終わったから、もう彼女がウチに訪ねて来ることはもうないと思う」


 と、徳永さんは断言した。そして、青い顔をして話に聞き入っている松を安心させるためか、


「だけど、もし、今度、彼女と会うような事があったら、事前にキミに報告するよ、それで許してくれないかな」


 と、言った。




 最後の言葉に驚いて、俯き加減だった顔を上げた。




「な、何でわたしの許可がいるんですか?」


松は非難をこめて言った。


「徳永さんは、わたしに遠慮することないじゃないですか」


そうだ、遠慮なんてないはずだ。


「だって、だって、わたしは」


 


 そうだ、わたしと徳永さんは付き合っていないのだから、と言おうと口を開きかけたとき、徳永さんは、時計をチラと見やり、もの言いたそうになっている松の半開きの唇に、彼は指先をそっと押し当てた。




「ゴメン、時間ないんで、手身近に話させてくれる?」



「ハイ…」


あまりに真剣な眼差しに、松は、言われた通りに言いかけた口をつぐんだ。



 徳永さんは指を松の唇からそっと離した。


 組んでいた足も下ろし、両肘を膝に置いて前のめりになってこちらを見ていた。



「本当は、こんな話は、もっと落ち着いた場所でゆっくりしたいところなんだけど…」


そう言って、苦笑を浮かべる。



 その時の笑った顔。


 口元による可愛らしいシワが好きだった。


 ああ、徳永さんだ。懐かしい徳永さんの笑顔が目の前にあるのが、何とも不思議でならなかった。



「オレ、ハナイエちゃんとは、付き合っちゃいけないって、ずっと自分に言いきかせていたんだ」




「え?」




「さっき言った理由と同じで、オレはニューヨークにいるのに、キミは日本に釘付けだから、遠距離になってしまう。自由に会ったり話したりすることはできない。その上、オレは一度、結婚に失敗している。理由は遠距離だったから。結婚生活を続けてゆくには、一緒にいられないっていうのは、どうしても越えられないハードルだったんだよ」


徳永さんは、苦々しげに口元を歪めた。




「でも、ハナイエちゃんから好きって言ってもらえて、すごく嬉しかった。年甲斐もなく、飛び上がるほど嬉しかったんだ。これ、空港でも言ったよね」




 松は、頷いた。



「ありがとう、嬉しいよ、すごく」


と言った時の、徳永さんの照れたような満面の笑みを、松は忘れなかった。




「その上、遠いニューヨークに会いに来てくれたもんだから、本当に嬉しくて舞い上がっちゃって。正直、浮かれていた。だから、遠距離だの、めったに会えないだの、そんなことは大した理由にならないと思ってしまったんだ。今回こそは、大丈夫かもしれないって、ちょっと高をくくっていた。ところが、キミにお見合いの話が来たっていうのを聞いて、一気に現実に引き戻されたような気分になった」




 胸がぎゅっと苦しくなる。


 徳永さんも視線をそらせて、あらぬ方を見ている。




「ハナイエちゃんは、オレと違ってまだ若くて、これからいくらでも出会いがある身なのに、オレのような、ずっと遠方に行ったきりで何もできない男が、彼氏面するのは、いかがなものかと、思うようになって」


徳永さんは、辛そうに続ける。




「若い時みたいに簡単に好きという言葉を口にしていいものか、安易に電話したり、メールしたりするのも、どうかとも思った。

 そんな中途半端な気持ちでいるにもかかわらず、お見合いするなとも言えなくて、どうしていいか分からなかった。

 日本に帰って、キミのご両親にご挨拶して、お付き合いを許してくださいって言う事も考えたけど、必ず大切にするって断言できない自分がどこかにあった。

 ハナイエちゃんとは職場で一緒に机を並べていた時期はあっけれど、付き合っている過程があまりに少なかった。

 その上、遠距離だろ。

 引き止めることもできず、それでいて、別れたくない気持ちもあって。

 ぶっちゃけ、お手上げ状態だったんだよ。

 丁度あの時、プロジェクトが始まって半端なく忙しくなることもあって、成り行きにまかせてやれと、逃げたんだ。

 キミのご両親がキミのためを思って、お膳立ててくれたお見合いをやめろだなんて、やはりいえなかった。

 何事もなく、以前と同じように電話したりメールしたりしてはいけないと思った。

 もし、キミがお見合い相手の方が、オレより気に入って、ソイツを選んだとしても、何も言えないと思った…」



 松は、話しながら徳永さんの顔が、その時の感情を思い出しているのだろうか、苦しそうに変化してゆく様子を、じっと見守っていた。




「逃げた時点で、オレには何か言える立場ではなかったんだけど」


 と、徳永さんは寂しそうに言った。


「でも、キミのお見合いの結果がどうだったのか、すごく知りたくなって…キミがまだオレを好きでいてくれているのか、ものすごく気になって、それで、電話はしないと断言したのに、色々言い訳をつくって、キミに電話した」




 あの時、喧嘩になった電話のことを彼は言っているのだ。




「丁度、ヨシミから、あたらしい上司がやってきて、ハナイエちゃんが体調を崩すほど残業しているって聞かされて、気になっていたっていうのも、あったんだけど」




 瀬名さんの事を言っているのだ。


 瀬名さんとの間で保留になっている案件が思い出されて、松の心はヒヤリと揺れた。




「あのときね、最初、あたりさわりのない話をしていたけど」


彼は、降参したかのような苦笑を浮かべる。


「本当は、お見合いの結果がどうだったか、聞きたくてうずうずしていたんだよ」


徳永さんはここで言葉を区切って、松の方をジッと見ていた。




「あの時話していたお見合いは、あの後、わたしがインフルエンザにかかってしまって、また延期になってしまったんです」


松は、彼が聞きたそうにしている疑問を解くために、口を開いた。


「で、未定のまま、実を言うと、まだ、していないんです」




 しばらく間。


 徳永さんは、ちょっと胸をなでおろしたような感じにも見えたけど、頬の緊張感はそのままだった。




「…そっか」


と、彼は短く答えた。


 その短い答えと、無表情な顔から彼の感情を垣間見ることはできなかった。




「次、いつするのかまだ決まっていないんです。何度か延期になっているし、このままなくなっちゃっても、いいかなとも思うし、それに、いっそ断ってもいいかなと…」


松は、のろのろと言葉を続けた。


「徳永さんは、両親が勧めてくれているんだから断らない方がいいって言っていたけれど…」



「・・・・・・」



「でも、初めから可能性の薄いお見合いするのなら、無駄なことですし、好きな人がいるのにお見合いだなんて、そもそも先方にも失礼だと思って」




 再び口にした“好き”と言う言葉が、広い会議質に木霊したかのように響いた。



 わたしは、徳永さんが好きだ。


 今も気持ちは変わっていない。


 松は、後になって後悔のないように、それを今、伝えたのだった。



 当の徳永さんは、視線をそらそうともせず、真剣に意思に輝く松の目をじっと見返していた。



「たとえ、もう、徳永さんがわたしのことを好きだと思ってくれていなくても、わたし、このお見合いを断ろうかなと考えていました」


 と、松ははっきりと言った。




「それは」


徳永さんは、不安そうな、それでいて半分確信したかのような自信と相まった複雑そうな顔で、


「それは、今でも、オレと付き合いたいと思ってくれているってこと?」


と、言った。



「わたしの気持ちは、以前と少しも変わっていません。わたしは今でも徳永さんのことが好きです」


松は、しっかりと目を見て答える。



 それを聞いたときの徳永さんの顔は、一瞬安心したように胸をなでおろしたようだが、緊張してひきつった頬は固いままだった。


 徳永さんは、ハーッと深くため息をつくと、身体を起こして椅子の背にぐったりと体重をかけた。




「そういってくれて、本当に嬉しいよ」


彼は、いつかと同じ台詞を吐いたが、言葉とは裏腹に、とても戸惑っているようだった。松は彼のこんな表情が好きでなかった。それはまるで、松をお荷物だと言っているかのように感じられた。




 松の背後の時計がカチコチと時間を刻んでいる。


 暫く間があってから、彼は非常にツラそうな声を出して話し始めた。



「今の状態じゃ、オレは、キミに対して、何か言う資格ないんだ」


やがて彼は話し出す。


「ずっと、ハナイエちゃんを困らせたくないって思っていた。オレの事がなければ、お見合いだって、合コンだってもっと積極的に参加できて、楽しめるのにって思った。キミの人生の大事な時に、縛るような言い方は…できなかった。勧めておきながらお見合いの結果を聞きたがったのは、オレの我儘な気持ちからだった。あの時、突き離しておいて、何を言うんだって思っただろうけど」




「あの時つい、カッとなっちゃって」


 松は、あの時の会話を思い出し、感情的になってしまった自分が今更恥ずかしくなって頬を赤らめた。



「いや、オレの方がどっちもつかずだったんだから」


と、彼は詫びた。


「怒るのも無理ないって思いはしたけど、けれど、こっちの事情も分かってくれっていう気持もあってさ。ニューヨークに居るんだから、どうしようがあるんだってね。それでつい、“オレはキミには相応しくない”って言っちまって、電話を切ったんだけど、そのそばから後悔して…」


そう言って、徳永さんは、ハハっと唇の端を歪め笑った。そして、ツラそうな表情のまま、何か見るべきものがあるかのように松の背後に視線をやり、


「でも、やっぱり諦めきれなくて」


と、呟いた。そして、


「やっぱり、キミと会いたいとばかり思っていた」


と、ぼそりと言った。




 彼は、照れもせず、淡々と語っていた。


 松もまた、冷静な気持ちで聞いていた。


 彼の表情から、口調から、彼の言葉が嘘でないことが伝わって来た。


 彼は、本当は、松と会いたいと思ってくれていたのだ。


 お見合いを勧めたことを、悔やんでいたのだ。




 徳永さんは、松に視線を戻すと、今度は、静かではあったが柔らかく微笑んだ。


 彼の話から、これまでベールに隠れていて、疑問だったことが段々と晴れてきた。


 徳永さんは、不誠実だったわけでもなく、気持ちが冷めてしまったわけでもない。


 彼が、松と連絡を閉ざそうとしたのは、あくまでも距離的な問題として付き合っていくことが単に困難だと思ったから、それだけの理由だったのだ。



 その話を聞かされて、松は彼のことが嫌いになるどころか、むしろ気持ちが高まった。


 

 徳永さんは、まだ、松の気持ちが彼にあるのかどうか気になるほど、好きでいてくれるんだ!



 と、思うと、一瞬舞い上がりそうになった。が、二人を隔てている問題が、解決したわけではなかった。


 徳永さんは、あと三年はニューヨークに居なければならない。


 現実を目の前にして、松は何も言えなくなってしまった。




「ごめんね」


と、ぽつりと彼は言った。



「え?」



「本当に、ごめん」



 

 徳永さんは、困ったように眉尻をさげて、すまなそうな顔をしている。


 その表情から、彼が言いたくないけど、言わねばならない言葉を、口にしようとしていていることが、波のように押し寄せて来るかのようだった。


 と同時に、さっきまでの高揚感は一気に沈み、冷たい風が吹き込んでくる。




 ―――腹を括らねばならないのだろうか。




 言いにくそうに顔をこわばらせている徳永さん。


 彼に口を開かせるのか、自分から先に申し出るのか、どちらかなのかな、と思った。


 


 松は、彼を苦しめたくなかった。


 理解の鈍い、言い訳がましい人間だと思われたくなかった。


 ここは、自分から言わねばならない。


 松は、意を決して、先に口を開いた。




「あの、お話しは、よく分かりました」


松は、深く息を吸いこんだ唇が、わずかに震えていた。


「事情を説明して下さって、疑問に思っていた事が、解けました。このことを説明するために、わざわざ、わたしの都合に合せて、日本に出張を作って会いに来て下さって、お礼の言葉もありません。本当に申し訳ありませんでした」


松は、笑って明るく言おうと思ったが、失敗して、顔が引き攣り、苦笑いになった。ダメだ、このまま、彼の顔をまともに見ていたら、目元が潤んでしまう。



「ハナイエちゃん…」


松の表情の変化に気付いた徳永さんが、ついと身をこちらに乗り出す。


「今も言ったけど、オレは、キミを困らせたくないって思っている」




「それは、わたしもです」


松は、自分もまた、彼に対して誠実であらねばと、一生懸命になって言った。




「わたしも、徳永さんを困らせたくないです。

 ニューヨークに徳永さんが行かれて、わたしでない他の素敵な女の人が、徳永さんのおうちに出入りしていて、私の事、忘れちゃったんじゃないかって、ずっと気にしていて…ヘンなヤキモチやいて、恥ずかしかったです。

 でも、説明して下さって、嬉しかった。徳永さんの気持ちはよく…分かりました。でも、徳永さんが物理的な距離が問題だというお気持ちも、理解できます。

 わたしはその、今でも、徳永さんのことは…徳永さんについては、気持ち、変わらないですけど、好きなだけでは、やっぱり、何でも乗り越えられるってわけじゃないし、わたしも、徳永さんには無理させたくありませんし」



 グダグダと言葉がつながって行く。


 結論をなかなかいう事が出来ない。


 徳永さんは、一度はまだ、松を想っていたと告白してくれたけれど、それが口にされたことによって、二人を隔てている傷害が、かえって浮彫りになってしまった。


 やはり、ここは、美しく終われるように、こちらの方から、さよならを言うべきなのだ。



「だから、わたし」



「あと、三年あるんだ」


と、彼は松の言葉を遮り言った。



「へっ?」



「ニューヨーク駐在、あと、三年ある。日本に帰国願いは出してあるけど、まだ赴任したばかりで、よほどの事がない限り、戻ってこられそうにない。だから、本当に待たせて申し訳ないけど、後、三年待ってもらえる?」



「え、ええ?」



「年に何度か帰ってこれるように努力する。キミにも迷惑をかけることもあると思う。でも、もし、ハナイエちゃんが、イエスって言ってくれたら、お見合いも合コンもしないで、待っていて欲しいんだ」



 お見合いも合コンもしないで…?それって、



「どういうことですか」



「将来のことを考えて、オレとのことを考えて欲しいって言っている」



「・・・・・・」



 

 徳永さんの膝が、松の膝にくっつくぐらい、二人の間が近づいていた。



 徳永さんは、ソッと右手を持ち上げると、長い指で松の頬を流れていたものに振れた。


 いつのまにか泣いていたのだ。


 その暖かい感触に、ビクンと身体が反応した。至近距離に彼の美しい顔が目の前にあった。霞んでいて分かり辛かったけど、彼の目もとも薄らと赤くなっていたように思う。



「あ、あの…」



 突然の話の展開に、ついていけない。


 松は、真っ赤になり、次に下を向き、椅子の上でモジモジとし始めた。



 いやいやいや!



 あたし、振られるって覚悟していたのに、こんなのってアリ?




 徳永さんは、名残惜し気にしばしの間、松の頬の上をさまよっていた。


 くすぐる柔らかくて暖かい感覚が、心臓の鼓動を早めさせる。


 彼はすぐに大人しく手を下した。




「でももし、キミが、全くそのつもりがないんなら、今、この場で、手厳しく振ってもらって構わない」


彼は、言った。


「遠慮しなくていいから」



「いえ、あの、その、わたしは」


何を言っていいか分からず、松は、顔をあげた。



「でも、少しでも期待していいのなら」


彼は、壁にかかっている時計に再び視線を向けて、


「また、次会った時に、答えを聞かせてくれる?」


と、言った。



「次?」



「来週いっぱい日本にいるって言っただろ。来週末に、ハナイエちゃんのところにいくから、その時返事を聞かせてくれる?」



「えっ、こっちに来られるんですか?」


突然の展開に驚いて、松は、叫びそうになる。



「うん、アパートは引き払っちゃったけど、隣の住人だったあのご夫婦が泊めてくれるっていうから、お言葉に甘えようとおもってね。あそこ、JRから近いし」


と、突如実務的な口調になって彼は言う。


「もちろん、あっちにも仕事あるから、今、こっぴどく君にフラれてしまっても、いかなきゃならないんだけど」



「はぁ」


と、松は相槌を打ったが、どんなセリフも思い浮かんでこなかった。



「合コンもお見合いもせず、将来を考えて待っていてほしい」って言う意味は、そういう事ってことだよね?




 彼は、松の返事を待ちつつ、さっきからソワソワとしていたけど、自分の腕時計に目を落として、


「もう、時間だ、行かなくちゃ」


と呟いた。




「考える時間さえ、あげられなくてごめん」


彼は、紙コップの底に残っていたコーヒーを一気に口に含むと立ち上がった。


「悪いけど、返事は来週末に聞かせてもらってもいいかな?」



「あっ、はい」


松も、つられて立ち上がる。



「事前に、メールなり、連絡するから」


と、彼は言った。


「会ってくれるよね?」


彼は、ぼんやりして相槌さえろくに打たない松に、心配そうに問いかけた。



「あ、はい、もちろんです」


彼の不安げな声に、松はやっと我に返った。



「ありがとう」



 いつもの、あの爽やかな笑み。


 ああだめだ、この微笑みは。


 恥ずかしすぎて、首から耳まで真っ赤になるのが、自分でも分かる。



「じゃ、都合がついたら事前に連絡するよ」


そう言って徳永さんは、ついと、松を引き寄せると、いつか、空港でしたときのように、ぎゅっと彼女を胸に抱いた。



 懐かしい徳永さんの温もり。


 ずっと恋しく思っていて、大好きだったその暖かい感触に泣きそうになる。



 ほんの十数秒の間のこと。



 抱きかえす間もなく、彼の体が離れてゆく。



 徳永さんは、そんな松の名残惜し気な顔に、微笑みかけるのを忘れなかった。




「支社長が待っているから、いかなくちゃ」


と言うと、大きな手で彼女の頬についと触れてから、足早にそこから去って行ってしまった。



 

 まるで、嵐が去った後のように、その場に松は座り込んでしまった。


 今、何が起ったの?


 別れ話からの、突然の展開。


 何がどうなって、こうなってしまったか、わけがわからない。




 松は、しばらくその場を動くことできなかった。


 さっきまで、彼が座っていた椅子を眺めながら、この一時間の間で話された会話を、頭の中でずっと反芻していた。







 帰りの新幹線に乗り込んだ後も、頭はボーっとしたままだった。


 考えが気持ちに追いついて行かない。


 全くの音信不通から徳永さんとの再会、


 そして、突然の交際の申し込みに、松は、自分が今どこにいて、何をすべきなのか、自分の気持ちすら、分からなくなってしまった。




 いやいや、これは単に交際を申し込まれたわけではない。


 「将来のことを見据えて、後、三年待ってほしい」


 と、いうのは、実質的な結婚の申し込みであり、承知してしまえば、殆ど婚約したのと同然ということではないだろうか。





 婚約。





 その二文字が、頭に浮かんで顔に火が付いたかのようにのぼせ上がる。


 婚約、婚約、婚約!


 つまり、婚約が意味するところは、将来、結婚するということだ。


 あの、徳永さんと!!!





 徳永さん…。


 背が高くて、ハンサムで、爽やかで、優しくて、頭がよくて、頼りがいがあって、最初に会った時以来、一目見たときからなんてカッコいいひとなんだろうと一目惚れした人。




 彼の暴言に悩まされ、大嫌いだった時もあったけど、彼と知り合って数か月の間に、今では世界一好きな人という代名詞に入れ替わってしまった。


 年頃の女子なら誰もが憧れる絵にかいたような3高に、α(アルファ)がいくつもくっついたような人が、付き合いたいと言ったのだ!!


 将来を考えてと言ったのだ!!!




 ひとり赤くなり興奮しきって、新幹線の自由席の上で、足を無意味にばたつかせている不審な女に、ピーナツの袋を広げ缶ビールを傾けている隣の出張帰り風のサラリーマンが、怪訝な眼差しが投げかけてくる。


 松は、スイマセンと、軽く頭をさげて、足をひっこめた。


 もう、有頂天だった。


 バンザイ!


 と、諸手をあげて、そのへんを駆け回って、歓喜に満ち溢れたこの胸中を、誰彼構わずふれて回りたりたい気分だった。




 松は行儀よく座り直したが、高鳴る胸は抑えることはできない。


 全く、こんな事態になるなんて夢じゃないかと思った。


 つい数時間前まで、徳永さんは地球の裏側にいるものだと思いこんでいたし、二度と話すこともできないと覚悟していた。


 彼のいなくなった先の見えない未来を、どのように開拓してゆくべきかと、将来に不安を感じ、目の前の仕事を一生懸命やるしかないよね、と、諦め半分自分にハッパをかけて傷心を慰めていた。


 それが、いままで固い扉で閉ざされていたドアが開かれ、決して見ることのできなかった、もうひとつの未来の絵が目の前に差し出されたのである。


 それは、徳永さんと一緒にいられる、という素晴らしい未来だった。




 松は、携帯電話を開いて画像フォルダを覗いた。


 フォルダにいれっぱなしにしていて、あまり見ることのなかった思い出のニューヨークでの写真を再生した。


 セントラルパーク、タイムズスクエア、マンハッタン島、自由の女神、高層ビル群、懐かしい思い出がよみがえる。



 そのうちの一枚に、記念すべき徳永さんとのたった一枚のツーショット写真がある。



 近頃ではあまりそれを見ることはなかった。


 見ると辛くなってしまうからだ。



 松は、この写真をこれほど嬉しい気持ちで眺めたとこはなかった。


 まるで存在感を確かめるかのように、指の先で画面に触れ愛しむようになぞってみる。


 


 別れて半日もたっていないのに、もう会いたかった。


 恋しかった。


 今すぐ電話をかけて声を聞きたかった。


 徳永さん…


 松の心の中は徳永さんでいっぱいだった。






 帰宅して、「ただいま」と、家族に声をかける。


 フワフワして身に起った幸運に舞い上がったままの松は、リビングで新聞を読んでいる母が、「おかえり」と言ったことさえ、聞こえてなかった。


 そそくさと、二階の自室へ引き上げようとした松を、母は、階段下から呼び止めた。



「松、来週の日曜日、あけておいてね」



「来週の日曜?」


ピクリと反応して振り返ると、真面目くさった母親の顔が目の前にあった。



「例の延期になっていた見合い、来週の日曜日に決まったから」



「お見合い?」


彼方に飛んで行ったまま忘れ去られていた案件が、突然ふりもどってきた。



「そうよ、今度こそ風邪ひかずに体調整えておいてね」


と、母はそう伝えると、娘が何か言う間を与えずに、足早にリビングに去ってしまった。




<10.葛藤> へ、つづく。

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