プロローグ
プロローグ
初めてのニューヨーク滞在。
当初は徳永さんが勤めているオフィスからほど近いホテルに滞在するつもりだったけど、実際に泊まったのは初日だけで、残りの三日間は徳永さんの勧めに応じ、彼のアパートに移動した。
最初はものすご~く遠慮したのだが、
「そんなにお給料もらっていなんだから、少しでも旅行代を節約したら?」
と、言われた上、
「大丈夫だよ、襲ったりしないから」
と、笑顔とセットで付け足されてしまい、素直に従うことにした。
徳永さんのアパートは一部屋が八畳ほどの2LDK。ゲストルームには、バス、トイレが付いていて、ひとり者の旅行者が寝泊まりするにはもったいないほど広い。セミダブルのベッド、清潔なシーツ。家庭的な彼の家の雰囲気にすっかり気をよくしたわたしは、長旅の疲れを癒やすため、早速ベッドに寝ころがって手足をのばしくつろいだ。自分のテリトリーに受け入れてくれた彼の心遣いがとても嬉しかった。
そんなわけで、朝昼晩、彼の部屋を拠点にあちこちニューヨーク観光にくりだした松であったが、その間、彼と同じ屋根の下でずっーと食べたり寝たり、落ち着かない新鮮さをと感じることになったのである。
「落ち着かない新鮮さってナニよ」
と、桐子がにやにやしながら言う。
「いい年して、歯の間にモノが挟まったような言い方しないではっきりと言いなさいよ。要は、普段着姿の徳永さんが、カッコよかったってことでしょ?」
まさにその通り。
水も滴る何とやら、って言葉があるけれど、レオナルド・ディカプリオの方がカッコいいなんて、誰が言ったのか。
オフィスでは目にすることのない日常の徳永さんにドキドキしっぱなしだったのはもちろん、お風呂上りのTシャツとスウェット姿を目の当たりにしたときは、何度顔のニヤけをこらえたかわからないぐらいだったのだ。
「今夜は、メトのオペラを観に行こう」
と、彼が言い出したのは、ニューヨーク滞在の最後の日の前日のこと。
「メト?」
「メトロポリタン歌劇場の事だよ」
すんごくウキウキした声。
「いい席が取れたんだ。素晴らしい当代のプリマドンナが来るそうだから、これは観に行かない手はないよ」
オペラなんて観に行ったことないけど、徳永さんがいいと言うのなら行かない手はない。でも…
「じゃあ、今日は、着て行く服でも見に行こうか」
と、彼は松の不安を引きとってくれた。
その日は休日だったから、観光ついでに、二人で街に繰り出し、ちょっとおしゃれなブティックに入って、あれこれとドレスを吟味した。店員さんは色々と持ってきてくれるけど、日本人のわたしにはどれもこれも大きすぎた。
サイズの合う服を並べて着比べてみる。最初に手に取ったベビードール風のターコイスグリーンのドレスが体に合うように思えた。ちょっと子供っぽいかもしれないけれど、形が好みだし、もってきた細身のパンツと黒のパンプスを合わせたら、可愛くなるかも。
「それより、あっちの赤い方がいいんじゃない?」
今まで黙って鏡の後ろの椅子に座っていた徳永さんが、突然口を挟んできた。
もう一枚の赤いドレスとは、体のラインがはっきりと見える、ドレープが美しく波打った光沢の美しいベルベットのワンピースだった。みるからに上質で素晴らしい代物だったけど、胸元がきまり悪いくらいに深くローカットしていた。
「うん、似合うんじゃない?」
鏡の中には、見慣れない自分が頬を赤らめていた。服の威力で、三段階はレベルアップした女になっている。
っていうか、半端なく色っぽすぎやしない?
戸惑う本人をよそに、彼は有無を言う間を与えず、これにしなさいと店員にチェックを促した。
わたしはオロオロと、赤くなったまま胸元を戸惑いがちに胸元を引っ張った。
気持ちを察しくれた店員さんが、同色のシフォンのストールもってきてくれた。広げてみると、ほどよいスケ感があって、胸を隠せるのに丁度いい。首に巻くとなんともいい感じ。
あわててこっちのシフォンもお会計のところに持って行こうとしたのだが。
「そんなストールはいらないじゃない」
と、押しのけられてしまった。
「でも、寒いし、スースーするから」
「劇場の中は暑いから、そんなショール必要ないよ」
と何度申し出ても、頑な調子で譲ろうとしない。
「それに、そんな肩掛けなんか羽織ったら、せっかくのドレスが台無しじゃない。これだけでいいよ」
徳永さんはそう言って聞く耳もたず、財布からカードを取り出すと、さっさとチェックしてしまった。
「えっ何しているんですか。わたし、払いますから」
「いいんだよ」
彼は、財布をだそうとしているわたしの手を抑えてにっこり笑う。
「コレ、マトモに買ったら君の一ケ月分の給料ぐらいするよ」
「そんな…日本に帰ったら、きっとお支払します」
と何度も言ったのだが、彼は必要ないと、全く聞き入れてくれなかった。
「せっかくひとりでニューヨークに遊びにきてくれたんだから、その記念にもらっときなよ」
夜になって劇場に行った。生まれて初めて行く外国の劇場。美しい装いで着飾った人から、普段着の人まで色んな種類の服装の人達がいた。薄暗い場内に格式の高い雰囲気。席はバルコニーだった。
歌劇がはじまると、たちまちそれに釘付けになった。
美しい男女が抱き合いながら、愛の言葉を述べあっていた…
当代一のプリマドンナという呼び声は嘘ではなく、その声を聴きほれている間に、あっという間の三時間が終わってしまった。
「連れてきてくださって、ありがとうございました」
感動して流れてしまった涙を手の甲でぬぐいながら徳永さんに礼を言った。
「こんなに感動するとは思いもしませんでした」
「気に入ってもらってよかったよ」
徳永さんも満足と見えて、にこにこしていた。
「その服、買ってよかったね。すごく似合っているよ」
本当は、とても気恥しかったし、劇場に居ている間、すごーく胸元が見られているような気がしていたが、おしゃれな人達が沢山いたので、気後れすることなく堂々としていられた。
雰囲気のいいレストランで食事をしてから、ほろ酔い気分で帰宅した。
「じゃ、明日は空港まで送って行くから」
「おやすみなさい」
わたし達は笑顔でおやすみを言いあい、互いの部屋へ戻って行った。明日は朝一に家を出ねばならなかった。荷造りは殆ど終えていたが、買ってもらったドレスを詰め直すために、トランクを再び空けた。
美しいベルベットのドレスは月光を浴び、鈍い光を放っていた。ドレスのちくちくとした気持ちの良い触り心地を感じたくて、頬に当て、猫のように楽しんだ。今夜は、徳永さんが素晴らしいと感じられるものに、感動することができて、ものすごく幸せな気分を味わうことができた…いつもよりずっとずっと徳永さんを身近に感じることが出来た幸せな夕べだった。
名残惜し気にドレスをたたみ、トランクに詰めるために、脱ぎ散らかしたパンプスを拾い上げるために床にかがんだ。ふと、ベッドの下におちているキラリとした細長いものに気が付いた。
それは、たわいのないゴールドのリップだった。キャップをあけ、光の方を向いて観察してみたると、使いさしのエスティーローダーの口紅であることがわかった。ちょうど、今日来ていたドレスに似合う綺麗な、それでいて派手なローズレッド色の口紅だった。
わたしは、その口紅を手に取ってしげしげと眺めた。
アレルギー持ちのわたしは、日本製の口紅しか使っていない。それは、全く見覚えのないものだったのである。
手に口紅を持ったまま、ぐるりと部屋を見回してみる。
この部屋は、徳永さんのアパートの中にあるゲストルーム。独立したシャワーブースやトイレまであって、来客がある場合は、必ずこの部屋に通すのだと、彼は言っていた。
今の今まで、この部屋に通された誰かのことを気にしたことはなかった。駐在員が日本からやってくるお客や家族を、自分の家に泊めることは珍しいことではないと言っていたからだ。事実、ここに通される際、この部屋は数日前に「お客」があったばかりなんだよ、聞かされたばかりだった。
であるならば、この口紅は、わたしが来る前にここに泊まった人の忘れ物な可能性が高いのだけど。
「そっか、その”お客”って、女の人だったんだ…」
見てはいけないものを見たような気になり、慌ててそれを元あった場所に戻そうと、ベッドの下にかがみこんだのだが、そこに、口紅のほかに、別なものが横たわっているのを視線の先に発見してしまったのであった。
それは白っぽい女性用のセカンドバッグのような化粧ポーチで、引き寄せてみると、ファスナーが空いたままになっていた。
見る気はなかったのだけど…
いや、見たいという好奇心が理性を圧倒してしまったに違いない。
中から漂ってくる香りに、口紅はここから滑り落ちたのだと容易に想像できた。中には、コンパクトや紙おしろいなどが無造作に詰め込まれてあった。
口紅をここに戻した状態にしておいた方がいいのだろうかと、中に少しだけ指を入れたとき、クシャクシャに丸まったレシートの切れ端が飛び出してきた。
知らない間に、わたしは、その紙の塊の皺をのばして見ていた。
それは、レストランのレシートだった。
見覚えのある店の名前。さっき徳永さんと一緒に立ち寄ったオペラの後に入ったあのレストランだ。
日付は、わたしがこのアパートにやってくるたったの三日前で、時間は夜の23時になってきた。
間違いない。
この部屋に泊まったこの化粧ポーチの持ち主の女性は、わたしやってくる三日前に、あのレストランで夕食をとったのだ。
胸がドキドキと打ち始めた。
徳永さんはこの口紅の持ち主の女性とこの店で食事をした。
今まで想像などしたことのなかった、徳永さんの私生活を垣間見たような気がした。
あわてて、レシートの塊を元あった場所に押し込み、口紅もその中に押し込んでファスナーを閉めた。
そして、ベッドの下の元あった場所に戻しておいた。
ドレスと靴をトランクに詰め込み、何も忘れ物がないかを入念に確認してから、床についた。翌朝、徳永さんは、荷物を運びだすのを手伝うために、部屋の中に入って来た。
「忘れ物ないかな?」
「はい、ありません」
「そっか、じゃあ行こうか」
わたしは、その化粧ポーチのことは彼には話さなかった。そして、何事もなかったかのように飛行機に乗って帰路についた。
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