006
「じゃあちょっと飲み物でも買ってくるわ」
飽きるまで四人は川で遊び通し、ようやく小休憩となったあたりで秋人はそう言って、来た道を引き返していった。
川辺には三人が取り残されていた。その全員が満身創痍、力なくぐったりとしていた。
「あれだけ遊んで、よく動けるな……」
秋人はこの中の誰よりも活発に動いていた。それなのに、疲れたからとジュースの買い出しに向かったのだ。流石は体育会系と言わざるを得ない、と雪は感心する。
「ふあー、でも、楽しかったねっ」
カナの声が宙に抜ける。カナは自分のワンピースを干している、川の中ほどまで場所を占めている大岩の上にいた。まるで自分も日干ししているかのように、ごろんと大の字で寝転がっている。
「うん、そだねー」
いつもの張りのある声ではなく、緩やかにそう言ったのは春風。春風もカナと同じく、濡れた身体を乾かすために、カナとワンピースを挟んで逆側に寝転がっていた。
当の雪はと言えば、そこから少し離れた川沿いの場所で、小さな岩に腰を下ろし、二人を眺めていた。すぐ隣から聞こえてくる川のせせらぎが、浸かっている時とは異なり、別の涼しさを与えてくる。
昼をやや過ぎた日差しはピークを迎えているのか、じりじりと肌を焦がす様な熱気を地上へと降り注いでいる。こうしてぼんやりと座っているだけで、雪は自分の服が乾いていく感覚を覚えさせられる。確かに、カナや春風みたいに寝ころんでいれば乾くのは早く済むだろう。
「みんなやり過ぎだよ。高校生にもなってさ」
そう口にした自分の言葉がおかしくて、雪は笑ってしまう。一緒にはしゃいでいたのは自分もじゃないか、と。
「――でも、楽しかったよねっ」
再びカナが川原に声を響かせた。雪はそれに頷く他ない。結局、その言葉に尽きるのだ。
楽しかった。
何が、とか。どうして、とか。理由は幾らでもある。でも、そんな細かな部分より、何より、一言『楽しかった』という言葉が雪の純粋な曇りのない感想だった。
「昔は、こんな風に遊んでたよなー……」
ぽつり、雪の零した言葉に春風が「そだね」と短く応えた。そして、
「わたしさ、雪君が変わっちゃったんだって思ってた」
と続けた。
「え……僕が、変わった?」
思ってもいない言葉だった。「変わったのは、春風や秋じゃないか」という言葉が喉から出かかる。あの頃は、みんな横並びで、成績や部活による格差なんかなくて――
「うん。わたしだけが思ってたのかな。秋人君がどう思ってたか、分かんないけど……。雪君、高校に入ってから――ううん、中学の時から、何か変わったって思ってた。一緒に話すことも、一緒に遊ぶことも少なくなって。次第に話しかけずらくなって、雪君もどこか、壁みたいなのを作ってるような気がして」
「そんな、僕は……」
その先の言葉を雪は持ち合わせていなかった。口を噤み、次の春風の言葉を待つ。
「それでね、高校に入ってからは特に、雪君のことが分かんなくなっていってた。昔とは変わっちゃった気がして、もう別人みたいに見えて話せなかったな……。何だか、いろいろ話したいことはあるのに、いざ話しかけようとすると、理由が無いことに気付いて話しかけれなくなっちゃって」
雪の胸が鈍く痛む。同じことだ。春風のそれは、雪が感じていたそれと、同じだった。
「でもね、」
そんな風に言って、春風は体を起こした。そして、立ち上がる。大岩の上から、まるで舞台の上に立った女優の様に大きく手を広げた。
「今日はっきりと分かったんだ。雪君は、全然変わってなかったって」
「……春風」
「最初はね、雪君に彼女ができたって聞いた時。カナちゃんと楽しそうに喋っている雪君を見て、昔みたいだ、って思ったんだ」
春風はカナへと視線を下ろす。カナも体を半分だけ起き上がらせて、春風と目を合わせると、「えへへ」とほんの少し照れ臭そうに笑った。
「それから、秋人君も一緒になってお喋りしてるのを見たら、本当に昔の雪君だって思っちゃって、話しかけちゃった。あの時は文化祭のお仕事もあったから、ってのもあるんだけど」
「あの時は、確かに……」
(――そうだ、秋と話したあの時は、確かに僕も昔を思い出して、昔みたいな感じで、話してた)
春風は「んー」と大きく伸びる。
「それで、話してみたら、本当に昔のまんま。楽しくって、今日もこんなになっちゃった」
春風はくるりと回る。長い黒髪が太陽の光に煌めいて、それはスポットライトを浴びているようにも見えた。
「春風は、だから、今回一緒に出ようって、言ってくれたのか……? 昔みたいに、僕達と集まりたかったから」
「ん、そうなのかな。んー、そういうわけ……なのかなー。きっと、みんなで出るってなったら、劇になって雪君が台本を書くんだろうな、って思ってたから、かな」
「え……?」
雪はその言葉の真意を測りかねて、春風を見上げた。
「わたしね、」
春風は少し俯いてはにかんで、
「女優になりたいんだ」
ぽつり、と恥ずかしそうに――それでいて、どこか強い芯を持った声で、言った。
「女優さんっ! すごい春ちゃん!」
カナの上げた歓声に、春風は照れて頬をかいた。
「女優……だから、演劇部に?」
「うん。演技の勉強をしたくてね」
雪は驚いていた。春風が女優になるなんて全く思っていなかったのだ。
昔から春風は何でも出来ていた。勉強もそこそこに、運動もそれなりに。それは以前春風が語った――
「あ……だからあの時、『色んなことが出来るように』って、『物語の中だと何にでもなれる』って言ったのか」
「あはは、さすが雪君。察しがいいなー。演じることでね、わたしはキャラクターを追体験できるんだ。だから、色んなことも出来て、色んなものになれて。そんなのが素敵だなって、思ったんだ」
「そっか……やっぱり、すごいな。あの時は、普通に聞いてただけだったけど……そっかぁ、そんな風に考えてたんだ」
「でもね、雪君」
大岩の上、まるで舞台に立つ女優そのもののように、春風は雪を指差す。
「わたしがね、そんな風に思うようになったのは、雪君のおかげなんだよ」
「僕、が……?」
「雪君がさ、昔は色んなお話を書いたり、話してくれたり、したでしょ。わたしや、秋人君を登場人物にした話もいっぱいあったの、わたしは覚えてるよ。それでね、わたしも物語に出るような『ハル』に憧れたんだ。『ハル』みたいになりたいって」
「それで……女優を?」
春風ははっきりと、恥ずかしさを全く見せずに「うん」と頷いた。
言葉が出ない。嬉しいのか、恥ずかしいのか、それ以外の何なのか、自分の感情が分からなかった。
自分の書いたものが、誰かの人生に影響を与える、なんてありえないと思っていたから。
ましてや、それが憧れの対象にすらなっている春風にだなんて、思ってもいなかったから。
「まぁ、でも、あんまり上手くいってないんだけどね」
「上手くいってない、って?」
春風は視線を宙に向ける。青い空は変わらず、遠くまで伸びている。
「反対されてるんだ。女優なんて、出来るかどうかわからないものを目指さないで、普通に勉強して、普通に就職しろって」
「そんな……!」
意外な春風の言葉に、雪も言葉が零れた。
その悩みは、至って普通のものだ。雪の持つ、春風のイメージとはかけ離れている。
「だから、ってのもあったのかな。雪君たちと遊ぶと、昔に思ってた気持ちに戻れるんじゃないかなって。だから、今日は良かったな。楽しかったー」
春風は気持ち良さそうに伸びる。照りつける太陽の下で、春風のその姿は一枚の絵になっているようだった。
だから、
「春風なら、きっと大丈夫だよ」
と、雪は言ってしまった。
根拠のない、ただの気休めではなく、前よりもすぐ近くに感じる春風を鑑みての言葉だ。
「女優にぐらい、なれるよ。春風なら、大丈夫だ。僕が保証する」
「……ありがと、雪君。でも、保証って、どうしてくれるの? もし、わたしが女優になれなかったら、雪君はどんなことをしてくれる?」
「えっと……」
「……お嫁さん、ってのはカナちゃんがいるから、ダメだしね」
「ちょ、春風っ! 何言って……っ!」
「あはは、冗談だよ。カナちゃん、これからも雪君をよろしくね」
春風はカナへ視線を合わせるために屈んで、手を伸ばす。カナはその手を、ゆっくりと取った。
「……うん」
――その時、カナの口が更に動いた気がしたが、雪はそれを聞き取ることはできなかった。
春風はカナへもう一度笑って頷き、満足そうに大きく息を吐いた。胸の奥に溜めていた何かを吐き出すようにゆっくりと。
「あー、今日は本当に楽しかったな。いい息抜きになったよ」
「――なぁ、春風。演劇部でも文化祭、何かするんだろ?」
「うん。先輩が書いた現代劇。わたしも役を貰ってるんだよ」
「ヒロイン?」
春風は「ちがうよー」とけらけらと笑った。
「文化祭は大事な発表だから、主要な役は先輩たちばっかり。わたしは生徒A」
「春風が生徒Aかよっ。なんだか、似合わないな」
「あはは、そうでもないよ。わたし、先輩の演技とか見てると、すごい勉強することばっかりだな、って思っちゃうもん。だから、いいの。ちっちゃな役でも少しずつやって行こうって。それに、こうして雪君の劇にも出れるからね」
「……そっか。頑張ろうな。演劇部の劇も見に行くよ」
「ボクも見に行くよっ!」
カナも大きく挙手する。それを見て、春風は「あはは」と恥ずかしそうにはにかみ、
「じゃあ精一杯演技するから、期待しててね!」
と、大岩の端に立って、雪へ向かって声を張り上げて言った。次の瞬間、
「――――あ」
と、春風の体が大きく、傾いた。
水に岩肌が濡れていたのか、はたまた別の何かが原因なのか。事実は、春風が岩から足を滑らせたということのみ。
春風の足が、腕が、体全体が、宙へ投げ出される。
向かう先は、川の中央部。大きな岩に狭められた川幅は、流れを急にしている。
雪は何が起きたのか、瞬時に判断ができない。
「――春風ぁっ!」
秋人の叫びが遠くから響く。その声で雪はようやく思考力を取り戻す。
――だが、もう遅い。
春風の体は水面へ叩きつけられ、大きな水柱を上げた。
「あ……」
息が漏れる。
流れは早く、一瞬で春風の姿は水柱と共に消えていた。
――瞬間、雪の脳裏にいくつものイメージが走った。
高速で流れる水。その激しさに目を開けることもままならない。重力を失ったかのように体は流れに弄ばれる。息など、出来るはずもない。
イメージは雪の喉を締め付ける。まるで、自分自身が水に飲まれたかのように、雪の呼吸を奪っていく。余りにも凶暴で凶悪で理不尽な自然の力に、人はなす術を持たない。
そして、それが今まさに春風へと向けられている――
浮かぶのは最悪の想像。
――そんなのは嫌だ。
――みんなで頑張ろうと言ったんだ。
――劇を見に行くと約束したんだ。
「カナ――――っ!」
咄嗟に雪は叫ぶ。もう、一時の逡巡もない。
「春風を、助けてくれ――っ!」
刹那、初めから分かっていたかのように、カナは仄かににこりと微笑み、
――――世界の全てが停止した。
空気の匂いも、音も、何もかもが消え去っていた。
残ったのは、物理法則の失われた非現実の光景。
遠くの道路から飛び出そうしている秋人、空を飛ぶ鳥、流れる川の水、飛散した水、その全てが完全に静止している。
その静寂の空間で、カナが音もなく、岩の上から水面へと舞い降りた。
「――雪くん、さあ、春ちゃんを助けよう」
カナは静かに、それでいてどこか優しげに言って、雪の方角へと手を差し出した。
「…………うん」
動揺を理性で押さえつけ、雪も静止した水面へと足を乗せる。不思議な感覚が足に伝わる。アスファルトとぬかるんだ泥道の中間ほどの柔らかさ。不快感も何も感じない。ただただ、何も感じないという不確かな感覚が足を刺激する。
「春ちゃんは、ここだよ」
すたすたとカナは水面を歩き、下を指差した。そこには確かに、春風がいた。
身を守る様に体を丸め、水の中で静止する。その姿は、まるで氷に閉じ込められたお姫様を連想させる。
「さあ、雪くんが助けてあげて」
そう言うと、カナは水面へ向けて、掌をかざすと大きな円を描いた。次の瞬間、水面は時間を取り戻したのか、ちゃぷりと水を跳ねさせる。
水の中へ手を差し入れる。つい先程感じていたのと同じ、川の水の冷たさを覚える。
川はそう深くはない。深い場所で、雪の胸程度だ。それに流れが加わるからこそ、理不尽な凶暴さを孕んでいる。しかし、静止してしまえば、プールの様なものだ。先刻まで雪たちが遊んでいた場所とも安全さを比べるまでもない。
「春風……」
手を伸ばし、水の中ほどに眠る春風を雪は掴んだ。驚くほどすんなりと春風は水の中から引き上げられた。雪はそのまま春風を抱きかかえると、水辺の岩が平坦な場所へ寝かせた。
「良かった――」
雪は春風の体を見て、ほっと安心する。春風の体は再び水に濡れている程度で、どこにも怪我は見当たらなかった。
更に、どういう仕組みか分からないが、この静止した時間の中でも春風の胸は小さく上下していた。正常に呼吸していることに、雪は改めて安堵の溜息を吐いた。
「――何もなくて良かった」
カナが小さく呟く。
「――え?」
「どうかした? 雪くん?」
「いや……――」
どうしてか、雪の心に何かが引っ掛かった。見落としをしているような、忘れているような、そんな不確かな感覚。だが、今はそれを気にする場合ではない、と雪はカナへ視線を送る。
「ありがとう、カナ。おかけで助けれた」
「ううん、それが雪くんの願いなら、ボクは叶えるだけだからね。じゃあ、戻ろう」
カナはかつて、教室でのそれと同様に両手を差し出し、目を閉じて『願い』を込める。その瞬間、世界に音が舞い戻った。
「春風っ! 雪っ! …………良か、った」
秋人が駆け寄り――青ざめた表情で膝から崩れ落ちた。
◇
「――秋、どうしたんだろう」
春風とカナ、そして雪。三人での帰り道、言葉は自ずと投げ出された。
時刻は昼も半ばに差し掛かった頃。太陽もその角度を幾ばくか落とし、じりじりと肌を照りつける暑さから、じわじわと体の内側を焼く暑さへと変えている。
周囲では変わらず蝉の大合唱。遠くに見えるのは陽炎。空は未だに深い青に染まっている。その中を、飛行機がごうごうと音を立てて線を引く。
「秋くん、大丈夫かな……」
日差しに焼かれたアスファルトは異様なほどの熱気を保っている。もう一度あの水辺へと戻りたい、と思う。でも、それとは別に、もう戻りたいとは思わなかった。
思い返すのは、秋人の様子。
「『ごめん』って、別に秋が悪いわけじゃ、ないのに」
春風を助けたのは雪ということになっていた。それもカナの『魔法』の結果なのだろうと雪は特に疑問を持たない。だが、秋人は膝から崩れ落ちると、呻くように「ごめん」と何度も言っていた。「俺のせいだ」とも。
「何にもなかったんだからさ、大丈夫なのに。な、春風?」
「……うん、そだね」
あれからすぐに春風は目を覚まし、心配する三人を前に健常さをアピールしていた。だが、それでも秋人は「ごめん」と繰り返すばかりだった。
雪もそれには何も言えず、黙ってしまった。結局、そのまま秋人は、
「悪い、先に帰る。念のために春風を送ってやってくれ」
と告げると、その場を後にした。
そして取り残された三人も、それ以上遊ぶ気はとてもでないが無くなってしまい、しばらくしてから帰ることを選択したのだ。
三人、並んでとぼとぼと歩く。言葉は出そうとしても出なかった。口にすればどうしても同じ言葉ばかりになってしまう。答えなんて、ここで言い合っても出ないと雪は分かっていた。
次第に景色はかつて見慣れたそれから、今も見慣れたそれへと変わってきていた。行く道の長さに比べて、帰る道が短いことを遺憾なく思わされる。
(――ああ、今日はこんなふうに終わっちゃうんだ)
切なさが、胸に込み上げてくる。
雪の頭に過ぎったのは楽しかった時間が無為になってしまうかのような情寂感。そして、親友の気持ちを窺い知ることのできない無力感。
足は家へと真っ直ぐに向かっている。このままだと、後十分も待たずに到着してしまうだろう。
(でも、どうすればいいかなんて、分からない……)
どうにかしたい、という気持ちは胸にはっきりと感じている。だけど、その方法を雪は持ち合わせていない。
(くそっ……! 何なんだよ……!)
最期の曲がり角を曲がる。二つ並ぶ、雪と春風の家が視界に入る。知れず、雪は下唇を噛んだ。
「……それじゃあ」
門の前に立って、雪がようやく出した言葉は別れのそれだった。
「…………」
春風は黙って、目を伏せがちに少しだけ頷いた。それを、返事と取って、雪は玄関のドアへ手を伸ばす。
「…………あ」
息が漏れる様な小さな音が、その場に静かに響いた。
伸ばした手を引いて、雪は後ろを振り返る。
春風が口を手で押さえ、雪を見ていた。その表情は、驚いているそれだ。自分自身の行動が、自分自身で信じられないといったそれだ。
「――春風?」
「……雪君」
春風は俯き気味だった視線を、真っ直ぐに雪へ向け直す。そして、
「話した方がいいのか、話さない方がいいのか、ってずっと考えてたんだけど……」
と切り出した。
言葉こそ迷っているそれでも、その口調は芯のある春風ならではのものだ。
「……何を?」
「秋人君のこと」
短い言葉。予想通りの返答だった。
「わたしもちゃんと聞いたわけじゃないの。噂話程度の知識しかないし、もしそれが本当なら、部外者が関わるのは良くないと思ってた。それに、それが今日の秋人君に関係してるのかも、本当に分からない」
「秋に、何があったの?」
逡巡もなく、躊躇いもなく、雪は言った。
春風の語るそれは、雪の求めていた答えだ。それに甘んじること自体は躊躇われる。それでも、それが答えなら、選ばない理由はない。
空はまだ青さを彼方まで保っている。そうだ、まだ今日は終わっていない。
「……噂話だってことをまず注意して聞いて。実はね――――