005
(……そして、今に至る、と)
雪は炎天下の街路を歩きながら、そんな事を考えていた。
茹だるような暑さとはこういうことだ、と断言できるほどに日差しは強く、容赦なく雪の肌を焼いていく。暑さに気を取られ、気が付かなったが、辺りには蝉の合唱が鳴り響いていた。前には陽炎が待ち構えている。夏本番はまだ先だと安心していた矢先の猛暑だ。
更に追い打ちをかける様に、何となく覗いたスマフォの画面には、くっきりと信じがたい二桁の数字が並んでいた。信じないわけにはいかない――が、信じたくない。『36℃』と表示された二文字を、雪は見間違いだと言い聞かせて、そっとスマフォをポケットに仕舞った。
一気に、精神的にも肉体的にも、白旗を上げたい気分だった。
それでも歩みを止めるわけにもいかず、雪はとぼとぼと前を歩く秋人と春風の後に続く。
前を歩く二人は、この暑さの中で平然とした様子である。その上、余裕があるのか、秋人は鼻歌交じりに軽やかなステップで足を運び、春風に至っては汗一つかく様子もない。
そんな二人を目の当たりにし、雪は現実の厳しさを思い知る。自分とあの二人は根本からして違う。少なくとも、体力の面で。
そんな二人は、この夏に合わせたような涼しげな出で立ちだった。
先頭を歩く秋人は、涼しげな水色をベースにしたデザインTシャツを、ひざ上程度の丈であるカーゴパンツと合わせ、どこか外国のものと思われるサンダルを履き、シンプルにコーディネートしている。背の高く、がっしりとした体格の秋人には非常に似合っている格好だ。
春風はと言えば、柔らかなピンクのノースリーブの上からグレーのゆったりとした男性物の半袖パーカーを羽織り、七分丈のスキニーデニムに、ローカットの青いスニーカーを合わせている。おまけにたすき掛けにした小さな革の鞄は、初めからその格好合わせて作られたかのように似合っている。スタイルのいい春風は、そんなシンプルなコーディネートでも、いや、だからこそなのか、十分にその魅力を引き立てていた。
そんな二人が先を歩くものだから、周囲の視線は自ずと前に向いている。後ろを歩く、雪とカナには特にそれが顕著に目についてしまい、いっそこのままフェードアウトしようかと思ってしまうほどだ。しかし、それはカナの様子に憚られた。
横を歩くカナは、つい先ほどまでの眠気もどこへやら、元気いっぱいに手を振り足を振り頭も時々振ってスキップ同然のハイテンションである。
そのカナの出で立ちはといえば、いつものセーラー服を今日は着ていない。代わりに身を包むのは、女の子らしい、一言で済ませるなら可愛らしい、まるで絵の中の少女然とした服装だった。
目を引くのは白みがかった水色のワンピース。その腰には飾りリボンが添えられ、シンプルさをワンポイントで引き立てている。頭には鍔のやや狭い麦わら帽子をかぶり、夏らしさを演出している。すらりと伸びた足を引き立てるのは、ほんの少しだけ高いヒールを持ったシンプルな編み上げサンダル。
知らず、雪は隣を歩くカナをまじまじと見てしまう。いつもがセーラー服だから私服が新鮮なのか――パジャマ(Tシャツ)姿も見ているわけであるが――その女の子らしい格好目を引くのか、雪は気付かないうちに、更に視線をカナへと固定してしまう。
ワンピースであるため、大きく見せているカナの腕は驚くほどに細い。まるで触れてしまえば壊れてしまいそうに華奢なそれは女の子を意識させる。そして、カナの肌は透き通るという形容が適切なほどに白く、そして綺麗だった。それだけじゃない。肩口から、うなじ。更に視線を上に、整ったたまご型の輪郭。ぷるんとした頬。そして――
(……――――っ!)
ようやく、カナに見蕩れていたことに気が付き、雪は慌てて視線を外す
(な、何だろう。カナが、いつもと違う雰囲気がする……)
一度意識してしまったせいなのか、楔を打たれたように雪の思考は縫い止められる。妙にカナを意識してしまっているような気がして、もう隣へ目を向けることが出来ない。顔が熱くすら感じてくる。心臓の鼓動もハイペース。それはカナのせいなんかじゃない。そうであって欲しい。きっと、この茹だるような熱気のせいだ――
「カナちゃん、今日可愛いね」
「うわっ、いきなりびっくりした……、なんだよ突然」
いつの間にかカナとは逆向かいに歩いていた春風と目が合う。春風はそのまま雪の方へと自然と体を寄せる
「今日のカナちゃん、いつもと違うなって思って。雪君気付いてた?」
ちょうど雪に届くぐらいの声量だった。その意図を察し、雪も声のトーンを下げる。
「うん。いつもセーラー服だから、私服だとなんか新鮮だな、って」
「もぅ、雪君そういうことじゃなくてっ」
春風は言いながら雪を肘で突つく。
「カナちゃんのワンピすごい似合ってるよ? でもそういうことじゃなくてーカナちゃん今日お化粧してるの気付いてた?」
「化粧?」
春風は大きな落胆にも似た溜息を吐いた。そして「まぁ、でも雪君だしな」とぼそりと呟く。
「ほら、カナちゃん見て。カナちゃん、肌が綺麗だからいつもはしてないみたいだけど、今日はファンデ塗ってるよ。あと、唇。グロス入れてる。どっちもナチュラル系統だから分かりにくいけど」
雪はその春風の言葉のあとに「彼氏だったらそのくらい気付かないとダメだよ」という無言の圧力がかけられているような気がして、カナへと視線を向ける。
「…………」
「でしょ?」
春風の言葉に雪は頷かざるを得ない。まじまじと見るのは躊躇われたが、それでも言われてみればと、カナが化粧をしているのはすぐ理解することができた。
帽子の影になっていることもあり分かりにくいが、真っ白な頬はほんのりと赤みを帯びている。唇も淡い紅色がその艶やかさとぷるんとした張りを際立たせている。
そんなカナに不覚にも――本当に不覚にも、雪はどきりとしてしまった。
再び顔が熱くなる。今度は完全な自覚込み。雪の頭の中には春風の「可愛いね」がリフレインする。
「雪君、カナちゃんとデート行った?」
「わ、わわっ。な、なんで……」
「……その反応じゃ、行ってないな。ま、予想通りか」
鼻をつんと上げて、春風が視線で雪を弾いた。「カナちゃんと付き合い出したのもついこの前からだもんね」と一人ごちる。
「それが、どうしたのさ」
責められているような気分で、雪はやや口を尖らせる。
「もう、分かってないなあ……」
一方の春風は呆れ顔である。はあやれやれ、と顎と肩を振るうだけで見せつけてくる。
「いい? カナちゃん、きっと雪君とデートに行きたいって思ってるよ。それで自分の私服の可愛い格好を見て欲しいって。でも、雪君とお出かけする前に、わたしたちと遊ぶことになっちゃった。私服を見せるチャンスは来たけど、二人っきりじゃない。どうしよう。全力で行くべきか、いかないでおくか。うーん、でもやっぱりお化粧はして、おめかしもして、雪くんに可愛いところを見て欲しいなっ」
最後はカナのモノマネ入りである。さすが演劇部、と雪は関心する。
「分かった? 女の子って、難しいんだよ。ちゃんと見ててあげないと、すぐに離れて行くんだから。それに、気付いたらちゃんと褒めること。でもあんまり露骨だと逆効果だからね」
春風は雪へと迫りつつ、とうとうと語る。
「せっかくできた彼女なんだから、大事にしないとね。うん、はい。じゃあ彼女と喋ってきなさい!」
そう言い切ると、春風は歩く速度を上げ、すたすたと離れて行った。その後ろ姿はしゃんと伸びていて、どこか満足気に見えた。
春風を見送って、雪は改めてカナへと視線を向ける。カナは変わらず、ハイテンションで街をきょろきょろと見渡しながら歩いていた。
(春風の言ってることはもっともだよな。彼女と喋れ、か……)
春風の言葉を思い返し、雪は足を進め、カナのすぐ横に並ぶ。
「――これ、どこに行くんだろうね」
そこに、雪はぽつりとカナへ話しかける。
「うん、どこなんだろうねっ。ボク楽しみだなぁ」
カナは雪を見ると、にっこりと笑う。頬と唇に入れられた淡い朱が、太陽に煌めいた。その笑顔に雪はどきりとする。だから、雪はつい、
「……カナ、今日化粧してるんだね」
なんて言ってしまう。
「えっ!? 気付いた……?」
「うん、もしかしたらそうかなって、思ったぐらいなんだけど」
「えへへ、ほんのちょっとだけどね」
そう言ってカナは嬉しそうに破顔する。その様子に雪は指摘されるまで気が付かなったことで少し罪悪感を覚えてしまう。春風の言葉が耳に痛い。
(そうだよな……彼女のことぐらい、ちゃんと見てないと、ダメだよな)
成り行きで――雪の『願い』によって創られたイレギュラーな関係。そんな始まりでも、雪の中でカナの存在は既に大きい。雪はもうカナを『願い』抜きにしても『彼女』として見ていた。
(ずっと一緒に居るから、かな。何だかんだ騒々しいけど、居心地はいいんだよな)
「朝から急いで支度したから、変になってないか、ちょっぴり不安だったんだっ」
「全然、似合ってるよ」
それは掛け値なしに、雪の本心だった。気付いてあげれなかったから、感想ぐらいは素直に言いたい、と思う気持ちの現れだった。
カナは「良かったー」と溜息一つ、恥ずかしそうに「えへへ」と笑った。その笑顔で、雪も、ほんの少しだけ気が楽になる。
「でもさ、よく化粧する時間あったよな。朝はあれだけバタバタしたのにさ」
「あ、実はこれ魔法でしたんだよ。着替える時に一緒に、えいって」
「……魔法、便利だな」
そう口にして、雪はカナが魔法使いなのだと、思い出す。完全に忘れていたわけではなかったが、ここ数日の台本作業で『願い』の方が先にきてしまっていたのだ。
(願い……)
「そう言えばさ、僕の願いを叶えてくれるって、結局なんなんだ? 『彼女』でいることだけじゃなくて、まだ別に叶えて――くれるんだろ?」
ふと脳裏に過ぎったことを、雪は口にする。それは、いつしか抱いていた疑問だ。
どうして、自分なのか。それはカナから聞いている。
『ボクが、雪くんの願いを叶えたいと思ったからだよ』
始まりのあの日、カナはそうはっきりと宣言した。答えとしては不十分だが、雪はそれである程度の納得はしていた。
しかし、その先はまだ全く見えていない。雪のどんな願いを叶えようとしているのか、そしてカナは何を目的にしているのか。
(うがった見方なのかもしれないけど、僕の願いを叶えることが、カナにどう関係するのかはやっぱり気になる)
いくら仲良くなり、初めに願ってしまったようにカナを『彼女』として受け入れつつあっても、雪はその部分をまだ理解できていない。
(……いや、違う。カナが、僕の中でもう、彼女だからなんだ。願いなんかがもう気にならないぐらい、馴染んじゃってるから、別のことが、見逃していたことが目に付くんだな。その上で、理解したいって、思ってるんだ。僕は)
カナは少しだけ「うーん」と考える。そして、一番始めに出会った時のよう、カナは静かに、
「そうだね、この辺りで雪くんにははっきり言っておいた方がいいのかな」
と告げる。
「ボクはね、雪くんの『願い事』をいくつか叶えてあげたいって思ってる。僕が『彼女』でいることも……そうだね、その一つだよ」
その言葉に、雪はずきりと胸が締め付けられる。それでもカナは言葉を続ける。
「でも、ひとつ。ボクには初めからひとつだけ叶えてあげたい雪くんの『願い事』があるんだ」
「僕の『願い事』……?」
「うん。ボクはその『願い事』を叶えたい。それが、ボクの――きっと、雪くんが気にしている、ボクの目的だよ」
「それって、何なんだ?」
雪の問いかけにカナは黙って首を振った。
「……教えれないのか?」
「……うん。教えたら、きっと、意味がなくなることだから」
その言葉の意図は分からない。それでも、雪は「そっか」と頷くしかなかった。
「ごめんね、雪くん。何も言えなくて。でもね――」
カナはふっと表情を緩め、
「きっと、もうすぐそれは叶うと思うよっ」
と、元の口調で言った。
「もうすぐ……って、いつなの、それ?」
「ごめん、それも教えれない。でも、ボクにはわかるよっ、雪くんの、本当の『願い事』をもうすぐ叶えれるって」
「本当の――願い」
「それまで、ボクを信じてもらえるかな。きっと、ボクは雪くんの『願い事』を叶えてあげる。もし、それ以外にもボクに出来ることがあれば、なんでもするけどねっ!」
「期待……期待しておくよ。僕は、自分で自分の願いが、分かんないし」
それは、先日から雪の頭を悩ませていること。突き詰めれば、今日のこの目的地不明の遠足の原因だ。
「うん、ボクは雪くんの為ならどんなことでも頑張れるよっ。だから、待っててね。今できることは……これくらいだけど」
カナは裾を掴んでいた手を離し雪の手を握る。そして小さく何かを呟いた。雪の手にカナの温かな体温が伝わってくる。
その温もりは手から胸へ、胸からは心臓を介し、血液を送るかのごとく雪の体全体を次第に包んでいく。それは、まるでカナに包まれているような気分を錯覚させる、柔らかく、どこか優しい感覚だった。
「これって……」
「今のボクに出来る、ちょっとしたおまじない。雪くん、ずっと台本書いててあんまり寝てないよね。疲れ、取れたかな?」
そう言われてみれば、と雪は首や肩をぐるりと回す。すると、多少強張っていたそれらは滑らかに動く。更に体中に覚えていた疲れそのものもどこにも感じない。ぐっすりと眠れた次の日の朝のような気分だった。
「――ありがとう、カナ。……うん。ここまでしてもらったら、僕も頑張らないとな」
カナは大きく頷いて応えた。
「っと、春風と秋はもうだいぶ先に行ってるや。僕達も急ごう」
雪は手を繋いだまま、カナに先を促し、歩みを早めようとした。だが、カナは「ちょっと、待って」とその手を引いて雪を振り向かせる。
「待って。おまじないね、まだ、終わってないの」
カナは少し目を逸らして、もじもじとしてそんなことを言う。だが、雪は晴れ晴れとした気持ちで、それに気付かない。
「あ、そうなんだ。うん、じゃあよろしく――」
雪の言葉を待たず、たっ、とカナが足を踏み出す。
雪は咄嗟の事に反応が出来ず――もとい、何をするのか、と疑問にも思っていなかった。
カナの繋いでない方の手が、雪の肩にかかる。
「…………え?」
一瞬だった。
肩を押された、と思っただけ。
その次の瞬間には、頬に柔らかい何かが触れていた。
「――――!」
たっ、とカナは一歩下がる。それでも片手は未だ繋いだままだ。もし、解かれていたら、雪は逃げていたかもしれない。
だから、思わず、雪は繋いでいない方の手で頬に触れていた。そこで顔が熱を持ったように火照っていることに気が付く。
呆然と、雪は頬に触れた手を下ろそうとして、掌が目に入った。
薄く、淡い朱色が、そこには写っていた。
それは、ついさっきまで、どこかで見ていた色。
そんな雪の様子を前に、カナは少しだけ恥ずかしそうに、
「えへへ、元気の出るおまじない」
と、小さな朱色の唇を動かして、はにかむと頬を同じ色に染めた。
◇
「とうちゃーく!」
それから三十分ほど歩き、道路から少し外れ、目的地らしき場所に到着したと思った途端、先頭を歩いていた秋人がこちらへ向かって万歳の体勢を取り、大きく叫んだ。その声は、周囲の木々に木霊した。
雪たちは川辺に立っていた。目の前には川幅十メートルほどの大きな川が広がっている。
川辺には大きな岩が無数に転がっている。そのせいで流れが場所によっては強いためか、水のせせらぎはそれなりに耳に響いてくる。
水の流れがある為か、気温もどこか涼しげだ。岩を伝って川まで行けば、より涼むことが出来るだろう、と一目で雪は感じた。
「ってことで、今日の目的地はここでしたー! ま、途中から分かってたかもしれないけどよ。昔はよくここで遊んだしな!」
確かに歩いている最中に、雪は薄々感じていた――思い出しつつあった。
雪たちの住む住宅街から歩きでおよそ一時間弱。決して遠くない場所。だからこそか。かつて、雪たちは夏になれば事ある毎にこの場所へ遊びに来ていた。海やプールに遊びに行くより遙かに手軽で、そして何より他に人がおらず自由に遊ぶことが出来たからだ。
「うん……懐かしいな」
「だよな。昔は本当にここでよく遊んだのによ。俺も雪達以外とはここに来ることなんてなかったから、数年ぶりってところか」
それは雪も同じで、秋人や春風以外とこの場所へ来ることなんてなかった。今日来なければ、また数年単位で来ることはなかっただろう、と思うほどだ。
「昔にみんなで遊んでた場所だったら、雪君も思い出しやすいだろうって。ね、秋人君」
春風の言葉に秋人は「おう」と胸を張って返す。
雪は周囲をぐるりと見渡す。
川を左右から包む山の木々がまず目に入る。見上げれば、更に上へと昇るための道路が見える。逆に足元は、強烈な夏の日差しを十二分に浴びて熱を持った石が無造作に敷かれている。足元が焼けるような感覚、それを中和するように川を流れる水の音は涼しげで心地いい。
そのどれもが、雪にとって懐かしかった。一つ一つを見る度に、雪の記憶は呼び起こされていく。
だが、それと同時に雪は違和感を覚える。
(ここは、すごく懐かしい。――でも、なんで……僕はここの事を、忘れてたんだろう)
昔はそれだけ、この場所で遊んでいた。
毎年のように、夏になれば毎日のように。飽きるまで、日が暮れるまで遊んでいた。
当時の雪たちにとっては、決して忘れることのない、あまりにも当たり前の事だった。
(――それなのに、今日この場所にやってくるまで、忘れていた)
思い出した今となっては、その疑問は明確な形となって雪の中に居を構えている。
忘れるべきでないことを忘れていたという、掴みどころのない違和感。
(それに、どうして、僕たちはここに遊びに来ないようになったんだ…………)
かつての記憶を思い出したという晴れやかさと共に、雪の心にはどこか、そんな靄がかかったていた。
「とりあえずよ、今日はここで遊んでゆっくりしようぜ。そしたら、何か思いつくかもしれないだろ」
秋人はそう言うが早いか、サンダルのまま川へと足を突き入れる。
「うひゃー、冷てぇー! ほら、早く雪たちもこいよー! 流れの早い部分にさえ行かなけりゃ、安全だからよー、っと!」
秋人はその大きな手を川に差し込むと、水を掬い上げて撒いた。大きな水飛沫を上げて、川の水が雪に向けられた。
「うわっ!?」
「わわっ、雪くん直撃……」
カナの解説通り、雪は真正面から顔に水を受けてしまっていた。眼鏡は雨の日のフロントガラスよろしく水滴に濡れている。違うのはワイパーがないことか。要するに雪は頭から水を滴らせるほどにびしょ濡れである。
「あ、秋ーっ!」
もう、ヤケクソと勢いである。雪は顔も拭わずそのまま秋人へ向かって突進。思いっきり体当たりをした。
ばしゃーん、と大きな水飛沫が辺り一面に舞う。乾いた川辺の岩にいくつもの黒い斑点が模様を作る。
「こんのやろっ、やったな!」
尻餅をついた秋人が、同じく尻餅をついている雪へ水を被せる。雪もやり返す。もう二人して全身ずぶ濡れ。下着まで水が染みているのが分かる。
だが、もうそんなことは御構い無しだ。雪は水をすくっては、ばしゃこーん、と秋人へぶちまけ、秋人もそれに応じる。
それをしばらく繰り返して、二人は爆笑した。大口を開けて、全力で笑う。
「ば、ばっかだろーーっ! まさか体当たりしてくるやつがあるかよ!」
「それ言ったら秋もじゃないか! いきなりなんて不意打ちすぎるよ!」
「っていうか、水冷てぇーっ!」
「でも気持ちいいやー!」
そして、また爆笑。髪も、洋服も、ぐしゃぐしゃのびちょびちょだ。雪なんて眼鏡もズレて間抜け丸出しだ。それでもどこか心の底から楽しくて、二人は全力で笑い合う。
「二人ばっかりずるいよーっ!」
そこに、カナはそう叫ぶと、先程の雪なんて目じゃないほどの突進で雪へと体当たり、そして川へ二人一緒にダイブ。再び大きな、水飛沫が舞った。
「ぶ、ぶはーーーーーーーーっ! カナっ、こんにゃろっ!」
カナは体当たりのあと、そのまま雪へ馬乗り、そしてマウントポジションをとっていた。雪はもうヤケクソに、カナの足を抱えるように掴む。
「秋っ!」
「おうっ!」
秋人はそれだけで察し、カナの両腕を掴んだ。そして二人合わせて立ち上がる。
「ふあっ、何、なにっ!?」
両手両足を掴まれ、カナが宙ぶらりんに吊り上げられた。そして、
「「せーーーーのっ」」
と、勢いの良い掛け声と共に、カナが宙に舞った。
そして、ばっしゃーーーーん、と大きな音が響き、再び水飛沫――もとい、水柱が立った。
「ぶ、ぶふぇーーーーっ! 何するのーーっ!」
投げ込んだ二人と同じように、カナも頭から水を滴らせつつ、叫ぶ。そして、反撃と立ち上がろう、とした時――
「って、ちょっと! カナちゃん、立ち上がったら、ダメーー!」
「ふぇ?」
春風の慌てふためいた叫びに、カナ自身も含め、全員の視線がカナへと集中する。
カナの姿は完全にびしょ濡れ。整えられていた髪も、不格好びったりと額に張り付いている。同じように、濡れたワンピースも肌に張り付き――
「ぶふーーっ!?」
そこで雪は現在のカナの状況に気が付いた。
カナの着ている服は、白みがかった水色のワンピース。見るところから見れば、白に見えなくはないほどの淡い色だ。
要するに、そんな色のワンピースが水に濡れて、ぴったりと肌に張り付いていたりなんかすれば、下が透けて見えるのは必然だった。
くっきりと、はっきりと、カナのワンピースの下には可愛らしい飾りのついた下着が、姿を見せていた。
「――――っ!」
とてもではないが、直視できず、慌てて目を逸らす――と、秋人がガン見していた。
「秋っ! み、見るなーーっ!」
咄嗟の行動である。雪はまるでラグビーのタックルのように、低い姿勢で秋人へと突っ込んだ。
「ぐえぇっ!?」
真横からの攻撃を予想していなかったのか、はたまたカナに注目しきっていたのか、秋人は首を締められた鶏のような声を上げて川に倒れた。それでも、顔はカナへと向いていたので、無理やり百八十度回転させた。
「か、カナ、今のうちに」
今のうちに何なのか、雪もよく分かっていなかったが、秋人を押さえ付けながらとりあえず口走っていた。少なくとも、秋人の目にカナの姿を晒すよりはマシだ。
「ほら、カナちゃん、こっちこっち」
「あうぅ~」
春風の手招きに、カナは胸を手で抑えながらびしゃびしゃと水を掻き分けて川を出た。
そこで秋人の視界にカナが入ってしまうと気付き、改めて雪は秋人の顔を九十度回転、正面に据えさせた。
「もう、そんな格好で水に入ったらダメよ」
春風は自分の着ていたグレーのパーカーを脱ぐと、カナに羽織らせる。そしてさりげなく、雪と秋人の視線を遮る様に、カナの前に立った。
ただでさえゆったりとしていて、それでいてカナより少しだけ背の高い春風のパーカーは、カナが着ると丁度ワンピースと同じぐらいの丈があるようだった。濡れて透けてしまっているワンピースを隠すにはぴったりで、カナは袖を通すと前のファスナーも閉めようとする。
「あ、ちょっと待って。そのまま完全に着ちゃうと中が濡れたままで気持ち悪いでしょ? もうワンピみたいに着るなら、今のを脱ごっか」
「そっか。春ちゃんのお洋服も濡れちゃうもんね」
雪の思考に電流が走った。「脱ぐ」という単語は青少年には刺激が強いのだ。雪はあくまでも平常心を装おうと、口の中を噛んだ。そこで、ふと目の合った秋人がにやりと意地の悪い笑みを浮かべたので、そのまま三秒ほど水に沈めた。
「別に私のはいいんだけど。どうせお父さんのだし。適当にいいのがあったから借りてきただけだもん」
「おじさんのをそこまで着こなせてたんだ……」
男物を軽く着こなせるというその発言に、改めて春風のスタイルの良さを実感する。その上、パーカーを脱いだ春風は、ノースリーブにスキニーデニムというラインの強調される格好で、実際にスタイルがいいことを全身で主張していた。
「ともかく、えーと、向こうの木陰で着替えてきて。脱いだ分は、あそこのおっきな岩の上にでも干しておけばすぐ乾くと思うから。こっちの男共はわたしが見張ってるね」
森の茂みが下りてきている木陰と、川の中央にどでんと陣取る大きな岩の二か所を指差し、春風はにやり、と不敵に笑った。「ここは任せて先に行け」みたいな笑みだと雪は一瞬だけ感じてしまう。本当に頼れるお姉さんである。
「うんっ、ありがと春ちゃん! えへへ、でも雪くんになら見られてもいいけどねっ」
そう言ってカナはたたた、と駆けて行った。雪はそれを力なく見送ってしまう。去り際に何を言ってくれやがるんだ、と頭を抱えたい気分だった。……実際に今は秋人の頭を抱えているわけだが。
「ま、ともかく。二人とも女の子をあんなふうに扱っちゃダメだよ。特にカナちゃんみたいに可愛い格好してる子は色々大変なんだから。あー、まぁ、最初はカナちゃんが自分から行っちゃったわけだけど」
「……う、うん」
春風にそう言われては――もとい、言うまでもなくアレはやり過ぎだったかな、とは雪も思いつつあった。その場の勢いでやってしまったとはいえ、軽く反省である。
「まぁ、でも――」
そう言いつつ、春風はスニーカーを脱いでいた。続けてショートソックスも脱ぎ捨てる。言葉と行動の繋がりのなさに雪は眉を寄せる。
「一番はわたしがおいてけぼりなことっ!」
春風は素足で河原を駆ける。そして、跳んだ。
まさに跳ぶ、という形容が適切な程の綺麗な跳躍。
しなやかな体躯が雪と秋人の目の前を通り抜け、一瞬の後に、大きな着水音を響かせた。
「あははっ、水、冷たいっ!」
春風は走り幅跳びの着地に失敗したような尻餅の体勢で、腰ぐらいまで水につかって座っていた。きっと、デニムはすでにびしょ濡れ、それどころか中の下着ももう手遅れだろう。それなのに、春風は全く気にする様子もなく、
「気持ちいいねー」
なんて、まるで半身浴をしているみたいに言った。
「おいおい、自分から来るなんて、アレか? 押すなよ、絶対押すなよ? みたいなフリってことか?」
秋人が悪役めいた口調と声色で言う。しかし、未だ雪にほとんど押し倒された体勢なのでどうにも格好悪いのが否めない。
「ふっふっふ、その状態で言っている秋人君こそ、そのフリなんじゃないかな?」
「な、なん……だと……!」
「雪君、じゃあ秋くんの頭……じゃなくて上半身を持ってね。わたしが足を持つから」
春風は水を掻き分け、秋人の足へと向かうと、その足をがっしりと掴んだ。雪もそれに合わせ、体をようやく秋人の上から移動させた。
「す、雪っ! 助けてくれ! ……はっ、ま、まさか、お前裏切る気か!?」
秋人の頭側へと回り込む。秋人の視線による訴えは全て棄却。雪はそのまま秋人の脇に手を差し込むと、その腕を引き上げる。春風も続いて秋人の足を引いた。
「や、やめてくれ。お、俺が何をしたーーっ!」
雪は鼻で「ふっ」と笑う。
「秋、お前はカナの見てはいけないものを見た。これは、その罰だーーっ!」
「あ、あれは不可抗りょ――」
「「せーーーーのっ」」
どっーーーーぼーん、と川に大きな水柱が立った。あまりにも大きなそれは、投げ込んだ二人も巻き込む。それでも
「ぷっ……ぷぷっ……」
「「あははははははははっ!!」」
二人して大爆笑。もう濡れてようが、濡れてまいが、どうでもよくなる。一つ一つが楽しくて仕方ない。
秋人がややあって、顔を出す。だが更にそこへ雪と春風揃って、再び集中放水。
「ちょ、ばか、やめ……っ、くそっ、こんにゃろぉーーーーっ!」
反撃開始、と秋人は顔をガードしつつ、浴びせられる水へ敢えて突っ込んだ。そして、
「うおおおっ、体育会系をナメんなーーっ!」
「うわああっ」
「きゃぁっ!?」
川の中程へ、二人を引きずり倒すようにして放り投げた。
浮遊感と、着水の衝撃。雪の視界が水に歪む。
一瞬、空が見えた。水のレンズを通しても、そこは突き抜けるほどに蒼い。
周囲には光が煌めいている。揺らめく天井はまるでステンドグラスを思わされる。
知れず息が漏れる。泡沫は地上へと真っ直ぐに登り、水面にぶつかって消えた。
「――ぷはぁっ!」
戻ってくる音と現実の匂い。失っていたものを取り戻そうと、雪は大きく息を吸う。
「……けほっ、けほっ、もう、秋人君ったら――」
同じく自ら顔を出した春風がそう言いかけて、目を見開いた。雪もその視線の先を辿り、同じく同じ結果を辿る。
「す、す、ぎ、く、ん、ボ、ク、もーーーーっ!」
大きく跳ねるように走るカナの姿がそこにはあった。
ぶかぶかの春風(もとい春風のお父さん)のパーカーに身を包み、素足でぺたぺたと河原の岩を蹴る。その姿は、一枚しか服を着ていないようで、そこはかとなく扇情的だ。
そして勢い良くつけられた助走で、先程の春風よろしく体をくの字に折った大ジャンプを決め――
ることはできなかった。
半端に宙を駆けたカナはそのまま体をエビのように丸めたまま、雪の顔面へ素足を直撃させた。要するにライダーキックが雪へめり込んでいた。
次の瞬間、雪は水の中に再び叩き込まれていた。その刹那、雪の目にカナの白い足とその奥にささやかな布切れが見えた気がしたが、水の厚みに押し潰され、そのかすかな映像は霧散する。
再び訪れた不自由な空間。音が水に呑まれ消失する。
先程とは打って変わり、視界は泡の白が支配していた。
だがそれは一瞬。世界は水と光を次第に取り戻す。
道を手にいれた光は、乱反射を繰り返し雪の視界を光に包む。
ぱちり、ぱちり、と泡が消える度に世界はその景色を変えて行く。
それはどこか幻想的で、雪は永遠に見ていたい、と思った。
どこか懐かしい、とも思った。
――そして、そこで、雪は何かの声を聞いた。
(――誰だろう、秋? 春風? それもと、カナ? 誰? 誰なんだろう? 分からない……でも、聞いたことは、ある気がする。とても甘い声――)
だが次の瞬間、その声を打ち破るように白い腕が伸ばされた。
続いて、姿を表したのはカナ。伸ばした手で雪を掴むと、カナは水面へとその体を翻す。
(――そうだ、僕は、前にも同じようなことを――)
瞬間、雪は音を完全に取り戻した。
目の前にはつい数瞬前と変わらない夏の川辺。秋人がニヤけ顏でこちらを眺め、すぐ隣には春風が頭から水を滴らせ立っている。違うのは、雪に抱きつくようにしがみ付いたカナの姿があること。
「あっはっはっは! カナちゃんやりすぎだって!」
秋人はそう大きな声で笑った。続けて、春風もけらけらと笑う。
「みんなばっかり楽しそうでズルいよーっ! ボクも遊ぶっ!」
カナは雪の首に手を回し、後ろから抱きついている体勢だ。濡れたパーカーが背中へ押し付けられ、雪は妙に緊張してしまう。カナはワンピースの代わりにパーカーを一枚だけ着ているのだ。どうしても意識するなと言う方が無理がある。
「ひゅーっ! ナイス熱々バカップルめ! そのまま爆発しろ!」
「うわぁ、カナちゃんエロい……。お父さんのパーカーもそう使われたら満足よね……」
「好き勝手言ってくれて……」
雪は背後のカナへ軽く目配せ、カナは大きく頷いた。
「「反撃だー!」」
雪とカナ、二人の声が重なって、再び水飛沫が舞った。