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004

 『ぴんぽーん』と玄関のチャイムが鳴らされたことを、雪はまどろみの中で聞いた。

 目を覚ました雪を出迎えたのは冷たく硬い机だった。

 雪も二日連続での寝落ちとなれば、状況を把握するのは早い。すぐさま時計と、枕にしていたと思われるノートを確かめる。

 時計の針は八時を指していた。いつもなら慌てふためいて学校へ行く準備をする時間だ。だが、今日は急ぐ必要はない。文化祭の代休である。雪は続けてノートの確認へ入る。

 ノートには文字がびっしりと埋められていた。だが、そこを見て、雪は「はぁ」と大きな溜息を吐く。

(結局、大して進んでないや……)

 ほとんど徹夜での作業をしてこれだけしか進んでないとなると、と雪はノートを眺め、再び嘆息する。

 実際、雪はほとんど寝ていなかった。先日に引き続き、夜通し机に向かって台本を書き進めていたのだ。最後の記憶は五時ごろ。それ以降の記憶はかなり曖昧だ。

 階下からは聞き慣れた声がいくつか響いている。雪はそれを聞いて、今日の予定を思い出し、背伸びをした。

「……あ、っててて。机で寝ると、体が痛いな……」

 まるで体中の関節が棒になったような感覚だった。首を回せばボキボキと音が響く。

「うー……って、カナもこっちにいたのか」

 座ったまま簡単なストレッチを行っていると、すぐ隣でカナが眠っているのに気付く。カナはどこから持ってきたのか分からない小さな椅子に腰を下ろし、机の端に頭をちょこんと乗せ、すやすやと寝息を立てていた。

 雪はそんなカナの肩に手をやり、ゆっくりと揺さぶる。

「カナー。起きろー。秋も春風もたぶん来たぞー」

「うぅんぅ……眠いよぉ」

「眠いのは僕も同じだよ。ほら、今日はみんなと約束してただろ。遊びに行くってさ」

「うぅ……あそび……みんなと……?」

「そうそう。秋がどっかに連れてってくれるって」

「秋くんがぁ……?」

「そうそう。秋が……って、これキリが無いな……」

 直感的にそう思う雪。いつまで経ってもカナはまどろみの中から出てこようとしない。

 そうこうしているうちに、階下からは「おじゃましまーす」なんて声が響いて来ている。いつまで経っても降りてこない息子に、母親も友人の侵入を許したようだった。

「あーもう……こうなったら……」

 雪は意を決して――の前に、カナに「起きないとーどうするか分かってるかー」と念を押す。我ながらチキンハートである、と雪は思わざるを得ない。ただ、これから実行することを考えれば、我ながらよくやると思ってもしまう。

(うん、きっと眠いのが悪いんだ。だから一人だけ寝ているなんて許さん)

 と、雪は自分でもよく分からない論理展開を頭に、改めて意を決する。

「かーなー」

 そう呼びかけながら、顔を眠るカナの耳元へ近づける。カナはそれがくすぐったいのか「んうぅ」と身をよじらせた。それがどことなく、扇情的な感じがして、雪はこれから行うことがいけないことような気になってくる。

(いやでも、やられたことをやり返すだけだしな)

 そう、頭の中で言い訳を決め、雪はカナの耳元へ口を寄せた。

 そして、先日のカナと同じように、カナの耳をかぷり、と噛んだ。

「ふわゃわわわわわあわああわっ!?」

 こうかはばつぐんだった。カナは慌てて目を見開いて飛び起きる。その光景に雪は先日の自分もそんな感じだったのか、と微妙な気分になった。だが、それは序の口だった。

 恥ずかしさにふと逸らした視線は雪の部屋の扉の方へと向けられていた。しかし、何かがおかしい。イメージにある光景と、実際の光景が異なっている。具体的には、扉が開いて――

「お、おはよ。雪君」

「……すげえな雪。朝からフェティッシュだぜ……」

 そこには秋人と春風が並んで微妙な眼を浮かべて立っていた。

 雪は物理的にも、そして精神的にも逃げ場のない事を瞬時に悟り、どうしてこうなっているんだろう、と慣れも親しんだ現実逃避へと走る。

 きっと、始まりは昨日の昼――いや、それより前、昨日の朝まで遡らないといけない。


***


「願いが叶うとしたらさ、二人はどんなことをお願いする?」

 僕は秋人と春風へ尋ねる。

「俺はもっとサッカーが上手くなりたいっ!」

 元気良く答えるのは秋だ。短く刈り上げられた髪と、健康的に黒々と焼けた肌が印象的な、見るからにスポーツ少年だ。

「んー、わたしはもっとお勉強ができるようになりたいな」

 次に春風が答えた。対して、長い髪に透き通るような白い肌の女の子。

「そっか。やっぱり二人らしいね」

 僕は二人にそんな感想を言って、ノートへと目を向ける。手に持った鉛筆で、さっき聞いたことを忘れないように、とメモするために。

「へへっ、じゃあ雪、ちゃんと俺たちの願いを叶えてくれよ」

「でも、なんだか自分たちがお話に出るって、恥ずかしいね」

「そうかぁ? 俺はもっと出して欲しいぜ! 剣持ってドラゴンにずばばあーっ! とかやりたいしな!」

 秋は手を揃えて、剣を振る真似をする。それは春風に向けられていたので、春風は「もーっ! なんでわたしがドラゴンなのよー!」頬を膨らませた。

「ところでさ、」

 笑ってその光景を見ていた雪へ、春風が視線を向ける。

「雪君のお願いごとってなぁに?」


***


 目を覚ました雪を出迎えたのは冷たく硬い、嫌というほどに使い慣れた勉強机だった。

「う、ううぅ…………」

 どうやら寝ていたようだ、と雪が理解できたのは目を覚ましてから数分経ってからだった。視線を横に向けると、最後に記憶あった暗い夜空はもう姿を消しており、日の登りきった夏空が青々と広がっていた。

(えと、そうだ。そんなことより。台本は……)

 覚醒した頭はようやく台本の中身を雪へ思い出させた。

 台本ノートは机の上に、昨日と同じように広げられている。だが全てが同じではない。違う点を言えば、綴られている文章が始め数ページではなく、いくつか進んだノートの中頃にまで至っているところだろう。

「良かった。ちゃんと、書けてた……」

 雪は一人、ノートへ向かって呟く。最後まで追って読み直すと、次第に記憶が戻ってくる。確認が終わり、抜けている点はなさそうだと確信すると、雪はほっとため息をついた。

 ノートにはびっしりと文字が綴られていた。言うまでもなく、それは昨晩から雪が書き上げたものだ。ノート数ページに渡るそれらの文章は、順調に進みながらも苦戦したことを思わせるいくつもの消しゴムの跡と、最後にはそれも面倒になったのか、上から塗り潰された無数の文字が残されていた。

 だが、そんな昨晩の成果を見ても、雪は「ううん」と唸ってしまう。

(結構書いた感じがしたけど、実際は対した量じゃないよな……)

 自分の書いた文章を読み直し、雪は自分の力量不足を嘆く。一見、多くのページに文章が綴られているように見えるが、試行錯誤の中で結果としてそうなっただけで、実際は本筋に関係ない部分も数多く書いてある。それを省いて纏めてしまえば、分量は結局のところ半分も無いのだ。秋人に見せた部分を含めても、良くて劇の半分程度にしか満たないだろう、と分かっているからこそ、雪の心はこの外の夏空ほどに晴れ晴れとはしていない。

「どうにも、この先が上手く進まないんだよな……」

 雪はノートを手に、ぽつりと呟く。


『――そうして、いくつもの良い事を行った二人の願いが叶う時が来ました』


 ノートに綴られた文章はそこで途切れている。

「願い、か……」

 ぽつり、と雪は思考をそのまま口にする。物語はアキとハルの二人が、ついに願いを叶えてもらう場面だ。そこまでを順調に書き進めることは出来た。だが、『願い』を何にするか――いや、二人の願いは何なのか――秋人と春風の願いは、何なのかと一瞬だけ過ぎった考えが、雪の手を止めてしまった。

「秋と春風は、何を願うんだろう……」

 自ずと視線はベッドで眠るカナへと向けられていた。

 この不思議な少女は、自分を魔法使いだと言った。そして、雪の願いを叶えてくれるとも言った。

 だが、カナはまだ雪の願いを叶えてくれてはいない。

 カナに彼女になって欲しい、と願ったのは、勢いで口走っただけだ。初めからそう願っていたわけではない。そもそも、雪とカナはあの放課後の教室で始めて出会ったのだ。まずもって、『彼女になって欲しい』だなんて願えるわけがない。今となって思えば、カナは突拍子もないことをするが可愛いところもあるし、見た目だって十分に可愛い。『彼女』になってくれているのは、結果論ではあるが嬉しくある。

(でも――それは、僕の願いとは、何かが違う)

 今が満足いく形だからと言って、それは初めから雪の中にあったものではない。

「……『願いは、願うから、願いなんだ』」

 雪はぽつりとそんなフレーズを口にする。それは、自分の書いた台本にある言葉だ。『願い』を持つ二人が、その『願い』の為に努力をする、そんな場面でアキが言う台詞。雪自身が書いた言葉だ。

 でも――

(僕には、そんな願いは……ない)

 雪は、昨晩もこう思考していた。そして、自分自身の『願い』へ思い至り、筆が止まった。考えれば考えるほどに、それ以上手は動いてくれなかった。

  もともと、『願い』を物語に使おうと思ったのも、カナのことを、そしてその早朝に行ったゴミ拾いを参考にしたからだ。はじめは単純な思いつき。それでも、書き進めるうちに、それは次第に自分自身への願望は何なのかといった問いかけに変わっていた。

 二人が願うように、自分もこうありたい、と。

 そして、自分の願いはなんなのか、と。

(……分かんないや。ううん、ダメだ。とりあえず気持ちを切り替えよう。二人の願いに関しては……そうだな、学校で実際に二人に聞いてみよう。……うん、それがよさそうだ)

 雪は無理やり自分にそう言い聞かせる。だが、その考えはどこか雪の中にすとんと落ちる。まるで、過去にもそんなことを行ったような、という強い既視感が雪の頭を駆け巡る。

(――昔……なのかな?)

 どうしてか、素直に雪はそう思った。理由はない。ただ、昔――三人でよく遊んでいた時のなら、同じようなことがあってもおかしくないのかもしれない、と思った程度だ。でもそれは思った以上に、雪の心に綺麗に嵌め込まれてしまっている。

(とにかく、学校へ行かないと。もう時間も危ないし)

 ベッドを見やれば、カナは変わらず安らかな寝息を立てて、気持ちよさそうに熟睡している。

 これ以上のんびりしていては遅刻だ、と雪はカナの眠るベッドへと足を進める。近づけば近づくほど、カナの寝息ははっきりと耳に届いてくる。同時に、枕に頭を埋め幸せそうに眠るカナの寝顔が目に入る。その自由さに雪は真面目に考えていた自分が馬鹿らしく思えて、くすりと笑いが零れた。

「はぁ、全く。……カナ。起きろー。もう朝だぞー」

「んぅんむゅう」

「ほら、寝ぼけてないで起きろ」

「んぅんん。ダメだよぉ、すすぎくんー。やあん」

 仕方なく、雪はベッドの横に敷かれた布団から枕を拾うと、カナの顔面に落とした。

「ぐむぅぅぅぅ、くるすぃよぉ、雪くん、くるしぃ……」

「分かったら起きて。僕は先に下に降りてるから、着替えたら急いでよ」

 そう言って、雪は制服を掴んで部屋を出る。

「あぁーん、待ってよ雪くん~! あわ、わわわっ……痛い……」

 扉を挟んで騒々しい音が響いていたが、雪はもう無視してリビングへと向かう。放っておけば勝手についてくるだろう、と思いながら。

 そして、あの、不思議な魔法使いの少女は、自分のどんな願いを叶えてくれるのだろう。どんな願いを叶えようとしているのだろう。

(――それに、期待してもいいのかな)

 と、考えながら。



「願いかー、俺の今の願いは彼女が欲しい!」

 その日の昼のこと、ここ数日で慣れ親しんだ学校の中庭で、秋人は食べかけのパンを片手にそう宣言した。

「……えーと、春風は?」

「わたし? わたしはねー――」

「いやちょっと待てよ雪、突っ込みなしなの? え、このままスルー?」

「だって秋は真面目に答えてくれないだろ」

「真面目だってぇの! 彼女が欲しいのは切実だって! くそ、彼女持ちにはわからねぇんだこの気持ち。親友が彼女といちゃいちゃしててそれを見せつけられる気持ちも分からねぇんだよ!」

 なんかごめん、と思ってしまう雪だったが、口には出さないでスルーすることを決める。

 そんな風にしている間、カナは持ってきた風呂敷包みから丸く握られたおにぎりを出しては、くるまれたラップを剥がし、雪へと手渡していた。曰く、今日は時間が無かったのでおにぎりにした、らしい。

「けっ、彼女の手作り弁当何か食いやがってよ! 何がっ、何がっ……! 悔しくなんか、これっぽちも悔しくなんかないんだからな!」

 秋人は叫ぶと手に持っていたパンを一気に口に入れると、ジュースで流し込んだ。しかし、あまりに勢いよく詰め込み過ぎたのか、秋人は「げほっ、ごほっ」と咽ていた。だから目元にうっすらと涙が浮かんでいたのだろう。

「まぁ本当にさ、今の願いじゃなくてもいいから、昔にお願いしていたこととかってない?」

「……そうだな……ごほっごほっ、あー、ガキの頃だろ? あの時はサッカーが上手くなりたいとか、すっげぇー有名人になりたいとか、そんなことを考えてたんじゃねぇかな」

「なるほどなぁ。秋人らしいよ」

 確かに秋人らしい願いだ、と雪は納得する。秋人とイメージすれば必ずついてくる物がサッカーである。それは今も昔も変わらない。また、有名人になりたい、というのも目立ちたがりの秋人からすればそれはそれで納得だった。

「わたしは、もっと色んなことが出来るようになりたかったなー」

「色んなこと?」

 秋人とは逆にイメージしにくい回答に雪は眉を寄せる。

 春風はカナと並んでちょこんとベンチに腰掛け、膝に可愛らしい弁当箱を乗せて昼食を取っていた。一方、雪と秋人はベンチに向かい合う様に地べたに直座りである。

「うん。一番は勉強なんだけどね。知識があれば色んな考え方が出来るでしょ? 漢字が読めればどんな本でも読めるし、英語でもそれは同じ。植物や動物の知識があれば、景色を見た時にも困らない。逆にね、知識が無いとそんな選択肢が出来なくなるじゃない。難しい本も読めないし、外国の面白い小説も読めなくなる。そういうのはもったいないな、って」

「……はぁー。春風らしいなぁ」

「あはは、そうかな。真面目っぽく言ってるだけだよ。もっとラフに言うと、わたしは色んな職業をしてみたかっただけだもん。学校の先生とか、看護婦さんとか、スチュワーデスさんもかな、後は絵描きさんになってパリに行く、とかも憧れたな」

 秋人は二個目のパンを開けながら、「ベッタだなぁ~」と面白そうに言った。「でもいいのよ。こういうのはベタなのがいいの」と春風は同じように笑って返す。

「だって世の中には色んなことがいっぱいあるのよ。それを知らないままで終わらせるなんて、もったいないじゃない」

「すごいな……」

 雪の口から思わず言葉が漏れる。春風は「そうでもないよ」と否定をしてはにかむと、「物語ってさ、素敵だよね」と言った。

「雪君がわたしたちをモデルにお話を書いてくれてるじゃない? わたしね、それがとっても嬉しいんだ」

「あー、でもそれは分かるな。俺も読んでて『アキ』って名前が出る度に恥ずかしいんだけどさ、でも話の中でさ活躍してるのを見ると、なんか嬉しいんだよな。まるで、本当に自分がアキと同じことをしてるみたいで」

「そうそう。物語の中ではさ、わたしたちは何にでもなれるんだよね。雪君がわたしたちをモデルにしてくれたときは、嬉しかったな。だからね、わたしの願いは、たぶん物語のハルみたいに、何にでもなれるように――色んなことが出来るようになりたい、って感じかな。でも、ちょっと物語の中のハルは可愛すぎる感じだから、難しいけど」

 そして春風は「彼女がいるんだから、カナちゃんをもっと可愛く書いてあげないと」と付け加えて笑った。

「そうだよっ! なんか、ボクいつまで経っても脇役だよね! ボクも春ちゃんや秋くんみたいに活躍したーい!」

「そういわれてもさ……」

 雪はジュースを飲みながら、渋い顔で答える。カナ(の演じるキャラクター)が活躍しないのは雪も計算済みの話なのだ。一般人、それもアキとハルにお願い事をするキャラクター――要するに、依頼人がいなければ、話の展開的に難しいのだ。

「じゃあいっそよ、カナちゃんは俺たちの願いを叶えてくれる魔法使いだったってのはどうだ?」

 雪は思いっきり吹き出した。地面にジュースの飛散した後が黒い斑点となって模様を描いた。

「わぁお! 秋くん、それ名アイディアだよっ! どうかな、雪くんっ!」

(どうかな、雪くんっ! じゃないよっ! それほとんど本当の事じゃないかっ!)

 などとは口が裂けても雪は口に出すことはできないため、必死の形相を以て、カナへと訴える。

 それを何と取ったのか、カナは目を合わすと仄かに頬を赤らめ、秋人はその様子に「……くそ、リア充め」と吐き捨てる。勘違いも甚だしい、と思わざるを得ない雪だったが、言い訳をすれば藪蛇に成りかねない、口を噤む。

「まぁ、つーかさ、台本の調子はどうなんだ? 間に合いそうか?」

「……正直、分からない」

 雪は改めてジュースを口にする。甘いはずのジュースはどこか苦い味がするような気がした。、

「二人には質問したけど、それで書けるのか、って正直、分かんないな……。なんか、煮詰まっちゃってさ」

 今日、雪が二人へ『願い』について質問した。それは言うまでもなく、作中の二人の『願い』を考えた時、雪が先に進めなくなったからである。二人の回答を聞けば、参考になるかもしれないと思ったからである。

 だが、実際に二人が答えてくれた今、改めて雪は考え直してみたが、結果は同じだった。

 一度止まった歯車は簡単には動いてはくれず、停止し続ける機械は、錆びつくのが定め。

 雪は、そんなイメージを自分へと当てはめる。

 そして、実際に雪の思考はもう、動くことを止めてしまっている。次に待つのは、感覚が錆びついていくという恐怖と僅かな実感。

 ――書きたくない。

 そんな気持ちすら自然と湧き上がるほどに。

「……ん。ま、大変なのは雪だからよ、あんまり口出すと悪いかもしれないけどさ、大変だったらあんまり無理しないでいいんだぜ。楽しくやるのが一番だからな」

 そんな雪の様子に気を使ったのだろう。秋人は口調こそいつもの調子だったが、声のトーンをいくつか落とした、優しげな口調で言った。

 その気持ちは、雪にも純粋に伝わる。無理をするな、という言葉は正直ありがたい。楽しくやれるうちが、一番なのだということも分かっている。それでも――

(……なんだろう、な。正直言えば、もうやめたいぐらいだけど、本当にやめたいかって、考えたら、たぶん……やめたくはない。ここでやめるのは、何だか、イヤだ)

 それが答えのない問いであり、言ってしまえば単なる我儘だと、雪は心のどこかで理解していた。それでも、弱音を口にしないではいられなかっただけなのだ。秋人や春風、こんなに強い二人を前にして、雪は平然と意地を張り続けれるほど、強くはない。

(それに……弱音を吐けば、秋か春風があんな風に言ってくれるって、期待してた。……やだな、何だか格好悪いな)

 自分が格好いいとは、どう曲解しても雪は思えない。それでも、格好のいい二人の前で、格好の悪いことを見せたくはない。そんな気持ちが、雪の心の奥に根を張り、どうにか最後を踏みとどまらせていた。

(でも……続きを書けないんだったら、そんな気持ちも意味ないよな)

 雪は空を見上げる。空はとても高く、青々と広がっていた。その為か、日差しも強く、夏本番の気配を――時間の経過をすぐそこに感じさせてくる。

「――――んー」

 訪れた沈黙に、秋人は喉を唸らせて、雪と同じように空を見上げた。雪は秋人へと視線を向ける。自分と違う、このヒーローの目には、同じ空がどう見えているのか、そんな事をふと考えてしまう。

「そうだなー」

 ぽつり、と秋人は空に向かって言葉を投げた。返事をする者は誰もいない。晴れ晴れとした夏空は、憎たらしいほどに黙って地上を静観している。

 それは、かつて雪が肌に感じていた感覚と似通っている。下から見上げるしかない圧迫感。手を伸ばしても決して届かない虚無感。

 雪は空を見上げるのを止め、視線を打って変わって地面へと落とす。空をこれ以上、見続けることはできなかった。

「――よし、決めた!」

 突然、空を見上げたまま、秋人は言った。そして、おもむろに立ち上がる。

 雪は秋人を見上げる。同じように、ベンチに座る二人も秋人へと視線を集中させた。

「どうしたの、秋人君?」

 春風の言葉に秋人は大きく頷く。その表情は、よくぞ聞いてくれました、みたいな顔をしていた。

「決めた! 明日、みんなで遊びに行くぞ!」

 そして、わざとらしい大きな声で、そう宣言した。

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