003
「ごめん」
僕は小さく言って、手放した。
ばさり、とノートは音を立てて火の中へ落ちる。ばちり、と火が爆ぜた。
「……もう、いいよね」
もう何もかもがどうでもよかった。全てを消し去りたかった。
ノートは見る見る間に火に包まれ、白から黒へと変わっていく。
その中に書かれたものも、全て灰に変えていく。
「……ごめん」
僕はもう一度呟いた。その後も、同じように「ごめん」と続ける。
誰に謝っていたのだろう。今は、もう分からない――。
***
「うおっ、雪の部屋変わってねぇ! ゲームキューブとか懐っ! 昔はよく遊んだよな」
部屋に入ってくるなり、秋人はそんな声を上げる。そして部屋を縦横無尽に歩き回っては「うわこれ懐かしい!」だとか「まだこんなの持ってたのかよ!」だとか異常とも言えるハイテンションである。
雪は、その一方で頭を抱えていた。
(どうして、どうしてこんなことに……っ!)
ベッドの上にはいつも通り、そこは自分のポジションなのだと鎮座している。その視線は雪や秋人へ向けられ、秋人が何かを物色するたびに適当なコメントを打っている。
(な、なんなんだこの状況っ!)
そして、その中で唯一絶賛混乱中なのが雪である。
「カナちゃん。雪のえっちぃ本の隠し場所とか知ってる?」
「えっとね、知ってるけど教えたらボクが雪くんに怒られるからだめー」
「じゃあアルバム見ようぜ。なぁ、雪、アルバムってどこにある?」
「わわ、アルバムはボクも見たいなっ! ねぇねぇ、雪くん、アルバムどこ?」
「…………あのさ」
ようやく雪は口を開く。よく考えれば、今日帰ってきて初めての発言だったかもしれない。そんな雪の言葉に、秋人とカナは揃って首を傾げた。
「どうした、雪。……はぁーん、なるほど、昔の写真を彼女に見せたくないんだな。大丈夫だって、昔は昔だからよ!」
「大丈夫だよ雪くん! ボク、どんな雪くんの姿を見ても好きだよっ!」
「くぅっ……! 熱い、熱いよっ! くそっ、雪! クーラーをガンガン効かせてくれ!」
「…………えーと、あのさ?」
今度は疑問形。雪の思考はそろそろ冷静になりつつあった。
「おう、どうした雪」
「君達、何しに来たんだっけ」
「そりゃあ、雪の過去を明らかにしに来たんだよ!」
雪は目を細めて天を仰いだ。そして、大きな溜息。
秋人の言っていることは間違いではない。確かに、昔を思い出すために、という名目で今日は雪の部屋に集まっている。だがどうしてだろう、その言い方だと何かが違う。
「――今、明かされざる雪くんの過去。わああっ、ボクすごい気になるよ!」
「いや、明かされざる、だと何も始まらないんだけど」
思わず雪はツッコんでいた。ボケ倒しにも程がある。
(ああもう、もう少しどこかで時間を潰してればよかった……。飲み物を買うとか、食べ物を買うとか、本屋で立ち読みするとかでもいくらでも言い訳は立ったじゃないかっ)
雪は顔を上げて、壁に掛けてある時計を見た。針はもうすぐで一直線――午後六時になろうとしている。予定の時間までもう少し。それでも、そのもう少しの時間が、雪には果てしなく遠かった。
(早く、早く来てくれーっ! 春風ぁー!)
心の中で雪は叫び、どうしてこうなったのか、いわゆる現実逃避的に思考を今日の朝まで巻き戻していった。
◆
「おーきーてー。雪くん、おーきーてー!!」
「ううぅ……」
全身を揺さぶられる感覚と、明らかにカナのものと分かる声で雪は目を覚ます。
「なに……?」
「朝だよっ! 起きて雪くん!」
「朝って……」
雪は布団に入ったまま、うつぶせの体勢になり枕元の時計を覗き込む。眼鏡をしていない上に、暗くてよく見えない。寝惚け眼を擦りながら時計に目を近づけると、ようやく針が見えた。時計の針は午前五時を指すに至っていなかった。
「……ごじ」
「朝だよっ!」
「早朝だよ……」
雪は眼鏡をかけて窓を見上げる。まだ外は僅かに昏い。初夏とは言えどこの時間にはまだお日様も活動していない。
「もうちょっと、寝たいんだけど……」
雪はもう一度枕へと顔を埋める。
「ダメだよっ! さあさあ起きてっ!」
ずしん、と背中に圧迫感を感じ、雪は喉から息が漏れた。うつぶせになっている為、背中は見えない。だが、何が起こっているのかは想像がつく。
「か、カナ……何やってん、だ……」
雪は声が上手く出せない。背中の圧迫は正直そこまでではない。ただそれ以上に、カナが背中に乗っているという事実が雪を動揺させてた。
布団越しだが、はっきりとカナの体温は背中に感じてしまっている。そして、それはわき腹を包み込むように広がっている……つまり、カナは雪に馬乗りになっている。その事実と、視認できず妄想するしかない状況が、更に雪の冷静さを奪っていった。
「早く起きないとー……」
ごくり、と雪は唾を飲んだ。早く起きないとどうなるのか。知りたいような、知りたくないような。青少年にこの朝の刺激は強い。昨日の秋人の言葉がふと頭を過ぎった。
「こうだっ」
ふぅー、と微かな吐息が耳に触れる。
ぞわり、と体中に電撃が走るような錯覚。続けてカナは耳元に息を吹きかけてくる。触れるか触れないか、カナの体温すら直接感じ取れてしまうような距離。くすぐったさと羞恥が雪の体を縛り付ける。動くことなんてできない。そしてそれをまだ起きないのだと感じたのか、カナは小さく雪の耳元で「うー」と唸る。そして最後の手段に出た。
がぶり、と耳を噛まれた。ちろり、とだけ触れたカナの熱が一瞬で顔全体、体全体へと広がる。こうかはばつぐんだった。雪はもう寝ることなんてできなかった。
「――――なんでこんな朝早くから……」
とは言え、まだ太陽も顔を出すか出さないかの早朝である。精神的にはそうでも、肉体的には眠気を僅かに残している。雪は眠たい目を擦りながら外へ出た。
外は窓から見たのと同じ朝独特の昏さがあった。空は黒と藍の混じったような、不思議な色。遠くの山の陰から微かに朝日の赤い光が顔を覗かせている。
空気はほんのりと涼しい。昼間のじりじりとした初夏を思わせる暑さを考えれば、この涼しさは雪にとって意外だった。
「ほら、雪くん、こっち!」
パジャマから運動用のジャージに着替えたカナが雪の手を引く。されるがままに雪は引っ張られて歩いていくが、よく考えれば手を繋いでいるという事実に気が付き、雪は内心慌てたが手を離すわけにもいかず結局とことことついて行くしかなかった。
カナの格好と同じように、雪もしっかりとジャージに着替えている。学校の体育で使う冬用のジャージだ。暑いので半袖で行こうと思っていたのだが、意外な涼しさに長袖で良かったと雪は思う。
「ところで、こんな朝早くに出てきて何するのさ。ジョギング?」
「ちがうよー」
カナは半歩先を歩きながら、くるりと顔だけを雪に向けてにやり、と笑った。
「何その笑顔。不安なんだけど」
答えず、カナはぴょんぴょんと跳ねるように歩いていく。どうしてこう朝から元気なのか、と雪は昨日の爆睡を思い出すと疑問で仕方ない。
雪とカナが歩くのはいつも学校に向かう歩き慣れた道。だが、早朝の空気なのか、人がいないからなのか、まるで違う場所の様に感じる。新聞配達を終えて帰路につく自転車、数分に一度だけ通る車、ジョギングをする壮年の男性、犬の散歩をする女性、そして時折り聞こえてくる民家からの生活音。それらがすべて新鮮だった。
「あ、見つけたっ」
カナが立ち止り、正面を指差す。そこは公園だった。住宅街のほぼ中央にありながら、それなりの敷地面積を持つ、近所に住む者なら知らぬ者のない公園だ。もちろん、雪も知っている。昔よく遊んだ場所だ。
「ここがどうか……」
そう言いかけて、雪は公園にいる人物に目が留まった。公園には数人がいた。それぞれが別の事をしている。ジョギングをする人、運動をする人、ベンチに座り朝の空気を堪能する人、そして――
「春風……なんで」
その中の一人、雪と同じ色違いのジャージを着ているのは、見間違えることのない雪の幼馴染の一人、桜木春風だった。
「やっほー! おはよっ、春ちゃん!」
カナはぶんぶんと、手を繋いでいる方と逆の手を振る。春風もそれに気付いたのか、手を振って返す。
「ちょ、ちょっと! カナ、これどういうことだよっ。なんで春風がっ」
「えへへ、昨日ちょっと話したんだよっ」
「答えになってねえー! 僕が聞きたいのは、どういう話でこういうことになってんのかって――」
「雪君、おはよ」
良く通る声が、雪の耳に響く。見れば、雪のすぐ目の前に春風はやってきていた。小さく右手を上げて、軽くはにかんで。
「あ、あ……おはよ」
「春ちゃんおはよっ」
「あはは、カナちゃん二度目だよ。でもおはようございます」
ぺこり、とわざとらしく丁寧に春風は頭を下げた。いち、に、のさん。としっかり間を置いて春風は頭を起こし姿勢を正す。
すらり、とした立ち姿。長い髪は頭の高い位置で結ばれていて、大きなひと房の髪の束を垂らしている。学校の少しもっさりとした格好ではあるものの、まるで春風の為にそのジャージは作られたのではないかと思わされるほどの空気が春風にはあった。
春風は姿勢を真っ直ぐに正すと、一つ、二つ、と雪とカナをそれぞれに見やる。一瞬だけ雪は春風と目が合い、どきりとする。
「うん、ちゃんと準備はしてきたみたいね。良かった」
「えへへ、春ちゃんに聞いてたのちゃんと持ってきたよ。雪くんの分も」
「え、何の話……?」
もちろん、雪はそんなことを何一つ聞いていなかった。朝叩き起こされてそのまま、されるがままに連れてこられただけなのだ。聞く余裕なんてどこにもなかったのだ。
「え、カナちゃんから聞いてないの? えーと、わたしね、こういう活動してるんだ」
春風は左手を掲げる。そこには小さなスーパーで貰えるようなビニール袋が下げられていた。中にはいくつかの空き缶や、たばこの吸い殻が透けて見えている。
「カッコよく言えば奉仕活動、ってところかな? まぁ要するにただのゴミ拾いなんだけど。朝のジョギングのついでにね」
「ゴミ拾いって……そんな、」
「そんな?」
言いかけて雪は口を閉じる。続いたカナの質問にも「いや、なんでもない」と答えた。
――そんな、出来過ぎな。と雪は言おうとしていた。
そうも言いたくなるのは当たり前だ。春風は成績も優秀、容姿も十人が十人振り向くレベル。運動が出来ない、という話も聞いたことはない。ましてや、ジョギングをしているとなれば、それも間違いがないだろう。そこに、奉仕活動を積極的に行うなんて要素が加わるのは、まるで物語の中のヒロインだ。
(……でも、確かに春風はそんな感じ、だったな)
雪の記憶の中の春風は、確かに何でもできる優等生だった。秋人が行動力でみんなを引っ張るのだとすれば、春風は対照的に理屈でみんなを引っ張っていた。
例えば、小学生の夏休み、遠くの海に三人で遊びに行った時のこと。集合時間、持って行くべきもの、バスの時間と路線図、それらを全て調べ上げ、完全に仕切り切っていた。小学生のにしてあれだけの計画力は凄まじい、の一言である
「雪君もカナちゃんもこんな朝早くからありがと。ゆっくり楽しくやろうね」
「あ、うん……って、うん? え、僕もやるの?」
「そうだよ!」
元気よく答えたのはカナ。
「雪くんが参加しないとねっ!」
「……あはは、そうね。雪君もやってくれる?」
日がようやく登ってきたのだろう、朝日がちょうど春風を照らす。眩しさに、微かに目を細めそのままはにかんだ様に笑う。その姿が、朝日以上に、雪には眩しく見えた。
「――分かったよ」
だから、そう答える以外に、雪は選択肢を持ち合わせていなかった。
満足そうに春風は頷いて「じゃあ行こ」と公園に向かう。その後を二人はついて行く。
公園に入ると、春風は雪に寄って、いくつかの場所を指差す。
「ええとね。まず最初はベンチのところ、吸い殻とかよく落ちてるから。次に外灯の所にあるゴミ箱。ゴミが零れてたら中に入れて。後は、余裕があったら茂みのところ。よく奥にゴミが落ちてるの。出来る範囲でいいから。ゆっくりやろ」
「……う、うん」
正直、そんな説明は雪の頭に半分程度しか入ってなかった。
(春風の声をこんなに近くで聞くのは、本当に久しぶりだ……)
いつもは玄関越しに聞く春風の声。それが、今はすぐ真横から響いている。昔を思い返せば、こんな状況はよくあること。それでも、高校生になった今、ここまで近くで話すのは初めてだった。
(すごい、いい声だよな……。演劇部に入ってるってのも、納得だよ)
「――聞いてる? 雪君」
「あ、うん」
「うん。それじゃあ――」
「開始ーっ!」
言葉通り、カナの号令で早朝ゴミ拾いは開始された。
気がつかないだけで、意外とゴミは落ちているものだった。雪はたった数十分の作業をしただけで、カナから渡されたビニール袋に大量のゴミを収めていた。
(うわ、こんなところにも捨ててあるよ。ってか、植木の下に隠れてるって、普通じゃ勝手に入り込まないよな。誰かが隠そうとしないと……)
ゴミは春風が指示したように、至る所に捨ててあった。タバコの吸殻から、空き缶(時々中身入り)、雑誌、弁当の食べカス、片方だけしかないサンダル、同じく片方だけの軍手、はたまた何故ここにと思わされるような一升瓶なんかも出てきていた。
集めたゴミはまとめてゴミ箱持っていく。そこに入れるべきでないような、燃えないゴミなんかは別に分けて、ちゃんとしたゴミ捨て場に持っていく。まとめたゴミ袋を捨てたあとは、捨ててあるビニール袋を使って更にもう一度ゴミ拾いを繰り返す。
作業は黙々と――というわけではなく、カナの高いテンションでのゴミ拾い実況を騒々しく垂れ流しながら進んでいった。公園のゴミ拾いが一段落ついた頃に、ふと雪が空を見上げれば、そこには何時の間にか太陽が登りきっており、じわじわと初夏の熱気を地上に運びつつあった。
「ん。お疲れさま。だいたい済んだね」
最後に三人がそれぞれ集めた細かなゴミを一つの袋にまとめつつ、春風は「ん」と胸を反らした。
「はぁ~……結構疲れたよ。ゴミってこんなにあるものなのか……」
「そうね。放っておくと、すぐに溜まっちゃうのよね。ま、これでも今日は楽な方だったかな」
「これよりひどい時があるんだ……」
「うん。ひどい時なんて、自転車とか。あ、あとテレビとか電子レンジとかも」
「いやそれ不法投棄じゃん!」
想像してどんよりと気が重くなる。一升瓶ですら頭を悩ませるというのに、それではもうゴミ拾いではなくゴミ処理の域である。そんなものを片付けるとなれば、三人でも――
「ってかさ、春風はいつからこれやってたの?」
ふとした疑問。最初、このゴミ拾いの話を聞いた時から疑問に思っていたことではあった。だが、タイミングを逃して、聞くに聞けなかったことだった。
「んーと、中学に入るか入らないかの頃からかな」
「ええっ!?」
雪は驚いた。中学に入るか入らないかの頃、といえばまだ三人の交流もあった頃だ。それなのに、春風がこんなことをしている、なんて全く知らなかった。
「なんで……」
その言葉は自然に雪の口から零れ出ていた。春風は少しだけ恥ずかしそうにはにかんで、雪から視線を外す。
「一応ね、理由はあるんだけど……んー、それは秘密」
「え、何それ。気になるんだけど」
それもそのはずで、優等生の模範の様な春風が、更に優等生らしい行動を取っているに至った理由というのは気にならないはずがない。だが、春風はべーと舌を出して「だめ、秘密だもん」と念を押す。
「むー」
「ところでさ、雪君、台本はどう?」
春風はゴミ捨て場から近くにあった、タイヤを使った遊具へひょいと飛び乗る。両手でバランスを取り、背筋を伸ばして立つ。その姿は、今の大人びた春風の姿ではなく、どこか昔の――幼い頃の春風を思わせる。
「……正直、全然。秋は僕が昔みたいに書けるって思ってるみたいだけど、無理だよ」
昨晩を思い返す。全く手につかない作業。何一つとして思い浮かばない、無為に過ぎる時間。思わず雪は目を伏せて春風から視線を逸らした。
「ねぇ、雪君。無理して背伸びして、頑張らなくてもいいって、わたしは思うんだ」
「……え?」
「昔みたいにさ、自由に、楽しんで、雪君の好きなようにお話作ればいいんじゃないかな」
「……昔みたいに」
「雪君が頑張ってるのは知ってる。でも、やっぱり雪君がさ、楽しめないと意味ないと思うんだ」
「……楽しめないと、か」
そう言われて、確かに楽しめていなかった、と雪は思い至る。
文化祭までもう時間はない。出ると決まったからには早く下地を整えなければ。でも、台本が無ければ練習も何もできない。だから、急いで、とにかく急いで台本を仕上げなければ――と、雪は圧迫されていた。自分自身で、自分を追い詰めていた。
そんな状況が楽しいわけもなく、楽しめるわけがなかった。
「だからって、いきなり思いつけるほど、僕は――」
雪の言いかけた言葉を遮るように、春風はタイヤからぴょん、と雪の前へ降り立った。
「例えばさ、今日のこのゴミ拾いみたいないいことをするお話とかどうかな」
そして、ぐるり、と春風は公園を見渡した。その視線は、雪の作業した場所を順に追っているものだった。釣られてその視線を追って、先程までの作業を雪は頭の中で振り返る。ゴミを拾って、捨てに行く、という単純な作業。
「今日は楽しかった?」
一歩、二歩と下がり、春風はタイヤの上に腰を下ろした。そして、見上げるように、真っ直ぐに雪へ視線を投げる。
ゴミ拾いなんて、取り立てて楽しいイベントが起こるような作業という訳ではない。
正直に言えば、きついとさえ感じていた。早く帰って、登校までの時間をゆっくり過ごしたい。あわよくば二度寝したい。とも思っていた。
でも――
「――楽しかった、と思う。なんか新鮮だった」
春風は口角を上げて、「あはは」と笑った。そして、
「わたしも。わたしも楽しかったよ」
と、恥ずかしそうにはにかんだ。さあ、と風が吹く。それは、どこか雪の背中を押しているようにも感じた。
「大丈夫、どんなに時間かかってもいいと思うよ。雪君が満足できる、楽しめるものを作って。わたしも秋人君も、カナちゃんもぎりぎりまで雪君の台本待ってるから」
言って、春風はその名前の様に、春の風を思わせる、柔らかい笑顔を浮かべた。もちろん、それは懐かしいもの。かつて、すぐ隣にあった憧れの笑顔。
風はまだ吹いている。初夏の、どこか湿り気を帯びた、温かな風。それに合わせて、もう一つ暖かな風も吹いている。そんな風に押されるように、雪は自然と口を開いていた。
「本当に、僕でいいの?」
「うん」
春風は即答する。そして、
「雪君じゃないとダメに決まってるでしょ」
と、優しい口調で、まるで昔の様に言うのだった。
◇
『キーンコーンカーンコーン』
と、いつもと変わらぬ安定した音色を鳴り響かせ、気だるげな午前の授業は終わりを告げ、昼休みの開始を告げる。
「ふぅ……」
雪は溜息を一つ、ノートを閉じた。ノートの表紙には何も銘が振られていない。それもそのはず、授業で使うためのノートではないからだ。来週の文化祭で行う、演劇の為の台本ノートだ。
授業中、雪は授業そっちのけでずっと台本ノートに向かっていた。頭に残っているのは、今朝の春風の言葉。
『例えばさ、今日のこのゴミ拾いみたいないいことをするお話とかどうかな』
(でも、これで、本当にいいのかな……)
書けたのは最初の導入部分だけ。ノートにして、見開き二ページ程度。そこで雪の手は完全に止まっていた。書き始めれば、自然と手と頭は働いてくれる。だが、書こうとすればするほどに、この先を自分の思う方向で進めていいのかと、疑念が頭を過ぎる。それは一度認識してしまえば、毒が回るかのように次第に雪の思考を支配していく――
結局、そうしてようやく書くことが出来たのが、二ページ程度の物語だった。
「雪くんっ! ご飯だよーっ!」
正面のカナが振り返り、どん、と机に弁当の包みを置く。慌ててノートを端に避ける。
「うっす。今日も一緒にランチと行こうぜー」
それに合わせてか、秋人も昨日と同じく手にパンの包みとパックジュースを持ってやってくる。
(とりあえずは、ご飯を食べよう。うん、食べないと頭も働かないしね)
軽く頭を振って、雪は気持ちを切り替える。そしてカナから弁当の包みを受け取る。
「えへへ、昨日のキャラ弁はちょっと間違ってたって気付いたからね、今日のは普通だよ!」
「ちょっと……?」
カナの言葉に疑問を感じつつも、雪は弁当の包みに手をかける。まぁ、流石に昨日のキャラ弁ほどのインパクトのものは――
「今日のはね、ボクの自信作なんだっ!」
雪の手が止まった。嫌な予感が背筋を走る。ふと見れば、秋人は既に目を逸らして笑いをこらえている。
「どうしたの? 今日のは普通だから大丈夫だって!」
「…………」
雪は意を決して弁当の包みを開ける。出てきたのは昨日と同じ弁当箱。その上には箸のケースが一つ。うん、普通だ。ごくり、と雪は息を呑み、弁当箱の蓋を開けた。
赤い『LOVE』の文字が雪を出迎えた。
雪の思考がフリーズする。直球だった。どストレートだった。
「……愛妻弁当だ」「マジだ、愛妻弁当だ」「ウチのお袋でもあそこまで露骨にはしねぇぞ……」「す、すげえ。実際に見るとなんてインパクトなんだ」
いつの間にかできていたギャラリーがそれぞれに勝手な実況を口にする中、雪の思考は亀の歩く速度よりも遅くリブート成功。ようやく現実へ帰還。
横に来ていたはずの秋人へ静かに目だけで視線を向ける。秋人は腹を抱えて大爆笑していた。
向かいのカナへ視線を向ける。カナはなぜか集まったクラスメイト達に向かって照れていた。泣きたかった。
「秋。カナ。お願いだから、また外で食べよう……」
精一杯感情を押し殺した雪の声が、昼休みの教室に小さく流れて行った。
◇
「ははははっ! やっぱりカナちゃん最高だなっ!」
「えへへ、そうかなそうかな!」
昨日と同じ中庭にやってきて、早々と二人は昨日と同じようにそんなことを言い合っていた。
カナの作ってきた『愛妻弁当』は雪の胸に抱え込まれている。これをまた開くとなると思うと雪の気は重かった。
(まぁ、自分の顔を食べるよりはマシか……)
そう思い、雪はベンチに腰を下ろす。日差しを十分に浴びていたのか、ベンチは制服越しに分かるぐらい熱くなっていた。
「あ……」
弁当の包みを膝に置いて、雪は一緒にノートを持ってきていたことに気が付いた。銘の打たれていない、シンプルな横罫ノート。この午前中の間、雪が睨めっこしていたそれだ。
「ま、ともかく飯を食おうぜ。腹減って仕方ないんだよ……って、それなんだ? ノート?」
秋人も雪が持っているノートに気付き、覗き込んでくる。
「あ、いや、これは……」
雪は慌てて隠そうとしたが、逡巡してしまう。そもそも、ここは中庭で隠す場所なんてない。いっそ、秋人に見てもらった方が――
そう考えた瞬間、雪の口は自然と動いていた。
「これ、本当に、ちょっとだけなんだけどさ……台本、書いてみたんだ」
驚くほど素直に言葉は滑り出た。言い終えて、雪自身が何て言ったのかを理解できていないほどに。
「マジかよっ! すげぇ! さすが雪だよ!」
「それで、良かったら、だけど。読んでもらえない、かな」
続く言葉も、喜ぶ秋人を前にすると自然と出ていた。ふと、雪は今朝の春風との会話を思い出す。
(春風と話して、少し気が楽になったのかな……。春風とも普通に話せたし、昔みたいに自分の作ったものを、秋になら見せれるって、気がする)
雪はノートを握っていた手を緩め、秋人へと手渡す。秋人は受け取るや否や、手に持っていたパンを膝の上に置いて、代わりにノートを開いた。
『二人の願い事』
『――ここではないどこか。
その町には二人の少年と少女がいました。
一人は行動力に優れ、勇敢な少年アキ。
一人は判断力に優れ、賢明な少女ハル。
二人は町を回り、困った人からのお願い事を聞いては、助けて回っていました。
そんな彼らには目的がありました。
彼らには叶えたい願いがあったのです。
人に良い事をすれば、自分にも良い事が返ってくる。
彼らはそう信じて、ささやかでも少しずつ、良い事を積み重ねていたのです。
例えば、町のゴミ拾い。
例えば、ちょっとしたお使い。
例えば、犬の散歩でも。
そんな良い事を繰り返すある日、二人の元へ一人の女の子がやってきました』
「おおっ、えーと……ふむふむ……」
秋人の視線の動きに、雪は隣から注目する。左上のタイトルから、右下の現在書き上がっている部分まで、その一語一語への秋人のリアクションに必至で目を配らせる。
「……なるほど」
ややあって、秋人の視線が終点へと辿り着く。秋人はノートから目を離し、空を見上げ、そして大きな息を吐いた。
「ど、どうだった?」
なるべく冷静に、平坦に、と思いつつも出した雪の声はどこか震えていた。でも雪はそれに気が付いていない。秋人が何と答えるか、それだけが雪の頭を占めている。
「んーそうだな……」
秋とは顎を引き、目を細める。場に沈黙が訪れる。心臓が痛いほどに鼓動する。
ややあって、秋人の口が、にやり、と上がった。
「さっすっが雪だよっ!」
秋人はノート片手に万歳、まるでこのまま雪に抱きつきそうな勢いだった。そのあまりのハイテンションぶりに逆に雪が引くほどに。
「いやー、雪らしいよな、これ! なんかさ、懐かしいっていうか、昔もこんな話を書いてたよな!」
「あ……」
雪の胸の中で、何かがことり、と音を立てて落ちた。
「懐かしい感じだよ、ほんと。うん、いい話だと思うぜ」
「……良かった。自分じゃ、どうなのか分かんなくて、さ」
「ははっ、んなの気にしなくてもいいってのによ。『願い事を叶えてもらうために、いいことをする二人』、それで最初にやるのが『街のゴミ拾い』。うん、シンプルだけど分かりやすいよ。名前がアキとハルってのも気に入った!」
「それ、名前が思いつかなかったから秋と春風をそのままもじっただけなんだけど……」
「それがシンプルでいいんだよ! へへ、自分が登場してるみたいでなんだか恥ずかしいけどな」
秋人はその言葉通り少し恥ずかしげに、鼻を指でこすった。その姿に雪はどこか既視感を覚える。
だが、それはいつだったか――ふと浮かんだイメージは泡のように弾けて消える。
「ねぇねぇ、雪くん。ボクの役は?」
雪がそう考えているところで、カナもノートを覗き込む。雪はそんなカナの姿を見て、苦い顔をする。
「…………ええーっ! ボクの役が無いよっ!?」
「うおっ、マジだ。おいおい、雪、彼女を入れ忘れてるぞ」
「いや、ちゃんとあるよ。ほら」
と、雪は見つめてくる二人から目を逸らしたまま、広げられたノートの端っこを指差す。
そこには『お願い事をしてくる生徒:カナ』と書かれてある。
「ええー!? 普通の生徒役なの!? ずるいよぉー、秋くんと春ちゃんには名前あるのにー」
「だって仕方ないだろ。一般人のキャラクターがいないと話が展開しずらいんだからさ」
「ええー……。だってぇ、今日の朝一緒にゴミ拾いしたの、ボクだよぉ……」
「えーと、その、ほら。まだ途中だかし、後から重要な役になるかもしれないしさ」
「本当ぉ……?」
カナは雪に顔を寄せ、上目遣いでそう言った。目を合わせれず、雪は「う、うん。たぶん」とだけ答える。正直まだ先は全く考えていない。だが、そんなことを言えばカナに再び噛まれかねないので雪はそれ以上は口を堅く閉ざす決意をする
「つーかさ、朝一緒にゴミ拾いって、何? もしかして今日実際にゴミ拾いしてきたの?」
「あ、うん。もともと春風がしてるっていうからさ、手伝いにって今朝行ったんだ。まぁ、ほとんどカナに無理やり連れていかれたようなものだけどさ」
そこまで口にして、雪はふと台本の事が頭を過ぎった。そして、この話を書くに至った経緯、それを秋人に話してもいいかな、と考える。
「――それで、春風から『昔みたいに書いたら』みたいに言われたんだ。だからさ、昔を思い返して、今日やったゴミ拾いを合わせて考えてたら、こんな感じの話の流れになっちゃって」
雪はノートを指差す。そんな風に言ってもまだ全然書けてないので、話の流れも何もあったものではなかったな、なんて口にしてから思った。しかし、秋人はそんなことをこれっぽっちも気にする様子もなく、
「マジかよ! なんだよぉ、そんなことになってんだったらさ、俺も呼んでくれよー」
「いや、急だったんだよ。朝五時にカナに叩き起こされたんだよ?」
朝五時、という単語を聞いて秋人が「う……」と顔をしかめる。
「……朝五時はしんどいからパスだわ。うん、誘ってくれないで良かったぜ。しっかし、春風とそんな話をしたのかー、なるほど納得だなぁ」
「何が納得なのさ?」
秋人は袋を開け、中のパンをひと齧りする。そして、飲み込むと、改めて口を開く。
「雪が昔みたいな話を持ってきたってことがさ。春風とそんな話をして、んで、実際に昔雪が話に書いてたようなことをやって来たってんなら、そりゃ納得だよ」
「まぁ……うん、でもまだこれだけしか書けてないんだけどね」
「そこは仕方ねぇさ。昨日の今日で書くってのは普通無理なんだから。俺は雪の物語を久し振りに見れて良かったぜ」
へへ、と秋人は照れ臭そうに笑ってパンを再び齧った。
「……うん。そっか。続き、頑張って書かないとなあ……」
「んー」
秋人から視線を離し、雪も自分の弁当へと目を向ける。目に浮かぶのはあの赤々とした桜でんぶによる『LOVE』の文字。一瞬空けるのを躊躇うが、意を決して蓋を開ける。
二度目の『LOVE』は一度目よりインパクトに乏しかったのか、意外と普通に食べることが出来た。桜でんぶがほんのりと甘い。
秋人は昨日と同じく、手早くパンとパックジュースを完食すると「よしっ」と誰にともなく言った。
「どうしたの、いきなりさ」
「よし決めた!」
秋人はおもむろに立ち上がる。そして雪の正面に仁王立ち。身長の高い秋人が目の前に立つと、雪は完全に日を遮られてしまう。それはそれでこの日差しを避けることが出来るからいいなぁ、などと思う雪へ、秋人は正面から、
「雪が昔を思い出して話を書く、というのなら手伝わないわけにはいかないよな」
なんて言ってきた。
「はぁ、手伝ってくれるのは嬉しいけど」
確かに筆は完全に止まっている。手伝ってくれるのなら、願ってもない話だ。「でもどうやって?」と雪は口へおかずを運びながら表情だけで問いかける。秋人はそれを理解し、
「昔のことを思い出すってのなら、やっぱり昔話だ」
「……へ?」
昔話? 誰の? 僕の? と雪は脳内一人連想ゲーム。たぶんそしてそれは正解。
「よし。だったら春風も呼ぼう。ってことで、放課後は雪の家に集合な!」
と、秋人は声高々に宣言した。隣に座るカナが「やっほーい!」と万歳する。
それで雪は理解する。反論する余地などない。この二人を止めるなんて、自分には力不足だ。
諦めて桜でんぶに彩られるご飯を食べる。文字は『O』。うん、その通り。OTEAGEだ。
◆
(――そして今に至るわけである。回想終了)
と、脳内でモノローグを打ってみても、状況は何も好転していなかった。雪は改めて現実という名の試練を思い知る。
「すっげえ、雪って物持ちいいんだな。懐かしいものばっかりじゃねぇか」
「わわ、すごいのが出てきたよっ! 『6ねん3くみ ふじむら』って、これ雪くんの小学校の時の体操着だよね! うわーっ!」
何がうわーなのか、うわーと叫びたいのは僕の方だ、と雪は目を逸らして物思いにふける。要するに現実逃避。
六時を過ぎても外はまだ明るい。空気すら歪んで見えるほどの強い日差しと熱が外にはまだ強く満ちている。西日の良く入る雪の部屋では、斜めから差し込む日の光が、カーテンを通り抜けて大きな幾何学の模様を床に描いていた。
(もう夏だな……)
と雪は考える、が、それも現実逃避に他ならない。とにかく何でもいいからこの、六畳ほどの雪の部屋で行われている狂宴から目を逸らしたかった。
「うわっ、奥からもなんか色々出てきたぞ」
「ええとっ、サッカーボール、体育館シューズ、ノート、スケッチブック、あ、中学校の教科書だ。って、わわっ中学校の生徒手帳だよっ! 雪くん若いー!」
「本当だ。これ二年の時のか? 辛気臭ぇ顔してるなぁ」
「あーもうっ! さっきから好き勝手言って! アルバムはそこに一緒に入ってるから、見るならさっさと見てよ!」
耐え切れず、ベッドの上から雪は叫んだ。時計はまだ六時を少し過ぎたあたりを指している。時間の過ぎるのがとても遅く感じる。
二人は『にへへ』と妙な笑を浮かべて押入れの物色を再開する。聞いてるのか、聞いてないのか、いや聞いてるけど効いてないんだな、と結局のところ雪は脳内でそう自己完結して、諦めた。
(本当に、早く春風来てくれよー……)
放課後に雪の部屋に集まる、と秋人が一方的に決定してから、すぐに春風にも連絡をいれていた。とは言え、教室に戻って声をかける程度のことだった。春風の返事は簡単なもので「うん、いいよ」というものだった。
あまりに拍子抜けする回答に雪は脱力しかけたが、それを見て春風はくすりと笑い、
「でも、一応ね放課後は部活に顔を出さないといけないから、行けるのは七時ごろになるけど、それで大丈夫?」
と、しっかり付け加えていた。
(初めから僕の反応を見て面白がってるんだよ、もう。春風も秋も昔から変わらないんだから……)
幼馴染二人を思い、軽く気が滅入る雪である。
ともかく時刻はまだ七時にほど遠い。しばらくはこの惨状と付き合わなければならないのだ。
「お、あったあった。小学校に、中学校、普通のアルバムまであんのか。よし、カナちゃん! 学校アルバムなんて見ても面白くねぇし、普通のアルバムを見ようぜ!」
「分かったよ秋くん! ここに雪くんのきゃっきゃでうふふな写真が入ってるんだね!」
「……いや、入ってないと思うよ?」
雪は小さく突っ込みを入れたが、もちろん二人にそれが届くはずはなかった。
「わぁーっ! 雪くん、ちっちゃーい! かわいいー!」
「これはっと、雪が五歳の頃かー。うわー、確かに可愛いな。雪じゃないみてえ」
「ねぇ、秋。さっきから何気に僕に失礼じゃない?」
「ばっか、褒めてんだよ。言わせんな恥ずかしい」
そんな風に言う秋人の声のどこにも恥ずかしさは見えていない。むしろ面白がっている節しか見えなかった。
「こっちは四歳、ちっこいなぁ。昔からちっこかったんだな」
「かわいいー! 雪くんって女の子みたいだよね」
「あー分かる分かる。確かに小学校の時もなよなよしてて、女かと思ったもん」
「いやそれは流石に嘘だよね」
居ても立ってもいられず、結局雪もアルバム観賞会に参加する。秋人とカナの隙間から雪はアルバムを覗き込む。写真の中では小さな頃の雪がドヤ顔で大きくVサインをしていた。きちんとした正装をしていることからどうやら結婚式か何かなのだろうと想像はついたが、まるで写真の中の雪は、自分がその場の主役だと主張しているようだった。
「……自分の小さい頃の写真を見るって、なんか妙なダメージがあるね」
写真の雪と打って変わって、現在の雪は苦虫を噛み潰したような表情である。その頃の自分の元気が欲しい、と切に願わざるを得ない。
「……とにかくさ、昔を思い出すんなら、その頃の写真を見ようよ、せめて。この頃に僕はお話なんか書いてないよ」
「あっ、それもそうだね! 雪くん眼鏡してないもん!」
「僕って眼鏡の有無で話書いてるか書いてないか変わってくるの……?」
いや、確かに眼鏡をかけるようになったのは小学校に入って本を大量に読み始めてからだけどさ、と思うが、早々とページを捲り始めた秋とカナに雪はそれ以上の会話を諦めた。
ぺらぺら、とアルバムは捲られていき、一年、また一年と写真の中の雪は歳を重ねていく。そして辿り着いたのは、小学校の中学年ぐらいだろう、雪と秋人、そして春風が三人で並んでい移っている写真だった。
「わあぁ、すごい、みんなだっ! 雪くんに、秋くん、春ちゃんも! わぁ……」
写真は雪の家の前で撮られたものだった。中央に雪が恥ずかしそうに小さくピースサインを掲げ、向かって左に秋人が雪へ肩を回し満面の笑顔でポーズを決め、そして向かって右の春風が柔らかな落ち着いた微笑みを浮かべて立っていた。
「懐かしいな、これ。この頃が一番俺ら遊んでたよな」
「そうだね。ほとんど毎日遊んでた気がするよ」
「うん、楽しかったよね!」
「……いや、カナは違うでしょ」
危うく流すところだったが、今度は逃さずに雪はツッコミをいれる。放っておくと延々ボケ倒されるのは非常に疲れるのだ。
「あ、ほら、よく見るとさ、この写真の雪、ノート持ってるみたいだな」
「この頃は……うん、もう適当なものばっかりだったけど、何か思いつくことがあったら書いてたな」
それからの写真を見ても、雪はノートを必ず手に持っていた。時間が過ぎることでノートがくたびれていっても、お構いなしに写真の中の雪はノートを大事に抱えている。
「確かにさ、ずっと雪はノート持ってたんだよな。どこに行くにしてもさ、絶対持ってくるんだ。時々大事なもん忘れたりすんのにノートだけは忘れねえの」
「それを言えば秋だってそうだろ。ほら、ずっとサッカーボールを持ってるじゃないか」
「そりゃそうさ。俺とサッカーは……」
言いかけた言葉を飲み込み、秋人は「……この頃はサッカーが一番楽しかったからな」と口にした。そして「ほら、次の写真を見ようぜ」と、改めて写真へ向き直る。
「……ねぇ、秋。気になってたんだけどさ、部活はいいの?」
雪はそんな秋人の様子に、意を決して尋ねた。
今は文化祭の準備期間で、休みになっている部活動もいくつかある。クラスでの出し物もあれば、部活での部費稼ぎのために出展する部活動もあるからだ。また、春風の所属する演劇部の様な部活動は、この文化祭が主な発表の場となる。その為、文化祭に向けて気合を入れる部活動も少なくはないのだ。だが、雪の記憶では、サッカー部はそのどちらにも当てはまらないはずだった。少なくとも、先日帰宅する際にサッカー部はグラウンドでいつもと変わらず練習していたのだ。
それなのに、秋人は――一年生エースと呼ばれるほどの秋人は部活に参加しないでいいのか、と雪は素朴に、単純に疑問に思う。そして、部活を休ませてまで自分につき合わせているのなら、とどこか罪悪感もあった。
「あー別にいいんだよ」
だが、秋人の答えはさっぱりとしたものだった。その上で「んなことよりさ」と秋人は写真を指差す。
秋人のそんなざっくりとした態度に雪もそれ以上は何も言えず、仕方なく秋人の指差す写真を見る。それは先ほど見た三人で並んだ写真だった。これがどうしたのか、と雪は首を傾げる。だが、よく見れば秋人の指は写真の中の一部分、雪の持つノートを指差していることに気が付いた。
「雪ってさ、ずっとこのノート持ってんじゃん。大体この頃から。昔の雪の話思い出すってんならさ、このノートを探すのがいいんじゃねぇの?」
「それもそう、だね。一緒に入ってなかった?」
「あーどうだったかな。ノートとか教科書は色々出てきた気はするが」
秋人は再び押入れの探索へと戻り、次々と中から物を部屋の中へ放り投げていく。中学の教科書、小学校の教科書、読まなくなった漫画、古いゲームの箱、様々な授業ノートや、プリント類。それらが見る見る間に部屋の中に積まれていく。後から元に戻すことをふと想像してしまった雪だったが、考えるだけ気が滅入ると思考を放棄する。
そこで、雪はカナに目が行った。カナは押入れの中を探索する秋人をそっちのけで、変わらずアルバムへ見入っていた。さっきは秋人と一緒になって押入れ調査隊の一員となっていたのに。
「どうしたの、カナ? 写真に気になるものでもあった?」
「ううん。そうじゃないんだけどね、雪くん楽しそうだな、って思っちゃって」
「楽しそう?」
「うん、写真の中の雪くん、すごい楽しそうにしてるよ。どの写真も、秋くんと春ちゃんと三人で一緒にいて、本当にすごい楽しそう」
「そう……だね」
写真を見れば、確かに中にいる雪はどれもが楽しそうに見えた。泣いているものや、喧嘩をした後なのかツンとしているものも中にはある。それでも、その時々の雪は楽しそうにしている。
「……いいなあ」
ぽつり、とカナが零す。その声は、どこか少し愁いを帯びて、切なげに雪の耳へと響く。
「ボクも、みんなと一緒にいたかったな」
「……カナ」
「こうやって見てるとね、みんな、雪くんだけじゃなくて、みんな楽しそうなんだ。ずっと、ずっとそんな写真ばかり。ちょっとうらやましいな、って、思っちゃうぐらい」
そう言って、カナは照れ臭そうに「えへへ」と笑った。
「そんなの、別にいいじゃん」
「え……?」
カナがアルバムから視線を外し、雪へと向ける。カナの大きな目と雪は視線が絡む。ほんの少しだけ、心臓が高鳴るのを覚えた。でも、それはほんの少しだけ。
もう、たった数日だけど、慣れてしまっている。
「もうさ、カナはみんなといるじゃないか。別に昔を羨ましがらなくたってさ、今を楽しめばいいんじゃないかな。それに――」
「それに?」
「あー……えーと、カナは僕の彼女なんだろ。少なくとも、しばらくは僕とは一緒に居るんだろ」
雪は途中で恥ずかしくなり、最後は無理やり言い切る形になってしまった。カナから目を逸らす。恥ずかしさは後からじわじわと増してくる。
(何言っちゃってんだよ僕はっ!? これだと、ずっと一緒に居ろよ、みたいな意味じゃないか! うわあああああ恥ずかしいいいいいい)
心の中で雪は叫ぶ。出来ることなら窓を開けて叫びたいぐらいだった。だがそうするわけにもいかない。現実は現実なのだ。そう、時間は刻一刻と進んでいる。このまま現実逃避をするわけにはいかない。
と、雪は気を取り直しちらりとカナを見やる。
「でっへへへへへ」
奇妙な笑い声を出して崩れ落ちていた。
「も、もー雪くんったらあ。そうだよね、ボク雪くんの彼女だもんね。えへへへへへへへ」
カナはとろんと蕩けた目で写真の雪へ頬ずりをしていた。そして壊れたおもちゃの様に「でへへへ」「雪くん~」「ふへへへ」と繰り返す。
正直ドン引きである。タガが外れる、というのはこのことを言うのだろうか、と雪は突然思った。後で辞書を引いて確かめようと思うほどに、再びこの現実から目を逸らしたかった。
「――雪」
「……なんだい親友」
気が付けば押入れを探索していた秋人が雪たちの方を見ていた。その表情は悟りを開いたように穏やかだった。
「途中まではさ、『このリア充どもめ、親友を放っておいていちゃつくなんて爆発しやがれ』とか思ってたよ」
秋人はわざとらしく、目を閉じて少し俯き加減に大きく首を振る。
「でもさ、ごめん。俺が甘かった。雪、がんばれ」
「……もう負けそう」
絞り出した声は「ボクは雪くんの彼女だもんねぇえへへへへ」とカナの声に上書きされた。
◇
「春ちゃんまだ来ないねー」
十数分後、ようやく正気に戻ったのか、カナはちょこんと元のベッドの端に腰を掛けてそんな風に言った。
「……あ、うん。もうそろそろ七時だけどね」
それでも先程の後遺症もとい影響が残っているのか、雪はカナのすぐ隣にくっつくように座らされていた。雪の左腕はがっしりとカナの右腕に絡められている。おかげで言葉も軽くしどろもどろである。
「本当に早く来てほしいぜ……やっぱりこの空間は俺にはしんどい……」
勉強机の椅子に腰掛ける秋人が細々とした声で漏らす。雪は心の中でごめん、と呟いた。
「文化祭前だし、演劇部は忙しいんじゃ――」
そう雪が口にした時、ベッドの上に置いていた雪の携帯が着信音と共に振動する。これを機に、と雪はカナの束縛を脱出し、携帯を手に取った。液晶に表示されているのは『桜木春風』の文字。春風とは今朝のゴミ拾いの際に番号を交換していたのだ。
「春風からだ」
そう口にして、雪は通話へとフリックで操作する。
『もしもし雪君?』
通話口から春風の綺麗な声が響いてくる。
「もしもし、春風? どうかした?」
『ごめんね、ちょっと部活が長引いちゃって』
「いや、いいよ。部活はしょうがないからさ」
そう言って、頭の中では「いや、良くはないか。早くに来てくれていればこの惨状は回避できたのか……」と思いはしたが、思うだけに留める。
『ありがと。今、雪君の部屋にみんないるよね』
「? いる、けど?」
春風の言い方に雪は少し引っかかる。断言するようなそれ。確かに、雪の部屋に集まると事前に伝えてはいたが、春風の言い方は、それを確かめるものとは何かが違っていた。
「あ、春ちゃん!」
突然カナが窓の向こうを指差して、そう叫ぶように言った。雪も秋人も続いて窓の外に視線を向ける。
『あはは、見つかっちゃった。やっほー』
「か、帰ってきてたのか」
窓の向こう、家と家の空間を挟んで、更にもう一つ窓の向こうで春風は手を振っていた。
雪と春風の家は隣同士である。今ではそう利用することもなかったが、窓を介してのやり取りを昔はよく行っていた。
『ちょっと汗かいちゃったからさ、一回帰ったんだ。今からすぐ行くね』
見れば確かに春風は制服から私服へと着替えていた。窓から覗く春風の姿は、髪を高い位置で結んだポニーテール、動きやすいタイプのTシャツとスキニージーンズというシンプルな出で立ちである。シンプルではあるが、それがスタイルの良い春風には似合っていて、ユニクロのモデルだと言い張れるのではないかと思うぐらいだ。
春風は雪と視線を合わせ、ぱたぱた、と合図を送ると『切るね』と一言、携帯の通話を終了させた。
そのまま春風は手早く携帯をへと仕舞い、手をひと振り、窓の向こう――こちら側へと送り、部屋の奥のドアへと消えて――行こうとしたが、すぐに戻ってきた。そして、がちゃりと窓を開けるとこちらへ、同じく窓を開けるようにと手で指示する。
「――あ、ごめんごめん。ちょっと出る前にって思っちゃった」
「どうしたのさ」
窓から窓、部屋から部屋と十メートルほどの距離を隔てて雪と春風は対峙する。
(……昔は、こんな風にしてたな)
昔は事ある毎に、そして事がなくともこうやって話をしていた。いつしか話さなくなって、子供の頃だからできたのかもしれない、と考えたこともあった。でも、今こうして話せていることが、年齢は理由じゃないと教えてくれる。今も、昔も、思っているほどに何も変わっていないことを示していた。
「雪君の部屋に行く前にさ、聞いておこうと思って」
春風も同じようなことを考えていたのか、少し照れ臭そうにはにかんだ。
「何か持って行くようなもの有るかな? 昔のことを話すんだよね。わたしのアルバムとかもあった方がいい?」
「あ、そうだね。あるなら持ってきてもらえると嬉しいかな」
「うん、分かった。じゃあちょっと探してみる」
そう言って春風はバッグを置いて、窓の内側へと隠れていった。がさがさと音がしているのは、アルバムを探している証拠なのだろう。
とりあえず視界から春風が消え、雪はどうしようかと考えていたところで部屋の中に大きな溜息が響いた。
雪は春風の部屋から視線を外し、自分の部屋へと戻す。すると、椅子に座り、ジト目で雪を見る秋人と目が合った。
秋人は雪が自分に気が付いたと理解するや、もう一度大きな溜息を吐く。
「世の不条理ってのに気付いたよ……」
「はぁ?」
秋人は更にもう一度、今度は露骨にわざとらしく溜息を吐く。そして唇を歪め、雪へとじっとりとした視線を向ける。
「彼女がいるのに、それなのによ……家が隣の、それも窓越しに喋れる幼馴染がいるって、マジなんなの? これが格差社会か!」
「いや、そう言われてもさ……」
困るのである。自分がここに家を建てたいと言ったわけではない。気付いたら春風が隣に住んでいて、同じく気付いたら窓越しに喋れると分かっただけなのだ。彼女――カナに関しては、正直殆ど成り行きだ。いや、むしろそれすら怪しい。ぶっちゃけて言ってしまえば、カナと彼氏彼女の関係でいいのか、と思わないでもない。
とは思えど、そんな事を秋人に説明するわけにもいかず、雪は黙りこんでしまう。仕方なくカナに助けの視線を向けるが、目が合った瞬間に頬を染めて視線を逸らされた。わーお。何だか、僕、青春してる?
「くそっ、彼女とも目と目で分かり合う仲ってかよ! ちくしょう、この言葉は二度と使うまいと思ってたが、爆発しやがれ! 永遠にな!」
「え、永遠に爆発ってどういう……」
言葉の意味が解らず問いかけるが秋人は答えてくれず、口を尖らせ「もう、ゲームするわ……一人でスマブラするわ……」とテレビへと向かいゲームキューブの電源を入れた。
寂しげなその背中に、雪は声をかけることが出来ない。そう、勝者が敗者へと声をかけるのは侮辱以外の何物でもないのだ。……とまでは思わないが――むしろ自分が秋人に勝っているともこれっぽっちも思っていないが、三人でいるのに彼女といちゃいちゃしたのは流石に申し訳ないと、反省である。
「ああ、そうだ……」
画面に目を向けたまま、秋人は気怠そうに言った。ゲームキューブはようやく音を立てて起動を始めている。その為テレビ画面にはまだ何も映しだされていない。ただ、反射して移る秋人の顔だけがある。テレビに反射する秋人の顔は死んだ魚のような眼をしていた。雪は見ていないふりをして、こっそりとテレビから目を逸らした。
「……ノート。探してもなかったからー。春風にもー、念のために聞いてみたらー?」
完全に投げやりである。だが雪にはどうしようもない。何が悪いのか、きっと世の中が悪いに違いない。そんな風に無理やり考え、「う、うん。分かった」と、答えた。
「秋くん元気なくなったみたいだけど、どうかしたの?」
「カナ、お願いだからその話題はノーサンキューだ」
雪はカナにぴしゃりと、それでいて秋人に届かないような絶妙な音量調整を用いて言い切ると、窓の外へ再度顔を出した。
時間は既に七時を過ぎている。遠くに鳴いていたひぐらしの声も、今ではもう聞こえない。静かに夜の帳が下りようとしていた。電気が灯された春風の部屋は、まるで暗闇に浮かぶ船のようにも思えなくもない。
「春風ー」
雪は向かいの部屋へと呼びかける。「はーい」とだけ先に声がして、ややあって春風が窓から顔を覗かせる。
「どしたの、雪君? 何か別に用意するものでもあった?」
「ああ、それなんだけどさ。僕が昔ずっと持ってたノート、分かるかな」
「えーと、うん。分かるよ。雪君がお話を書いてたノートだよね」
「そうそう。それなんだけど、さっきから探してもさ、見つからなくて。もしかしたら春風が持ってるんじゃないかって思って――」
そう言いかけて、口を噤む。雪の思考は言葉とは裏腹に春風が持っているわけがないと理解していた。理由は分からない。あくまでも直感的なもの。
「分かった。じゃあそれも探してみるね」
「あ、ああ。よろしく」
ふと過ぎった考えを振り払えず、雪は視界から消える春風を見送って、視線を地上へと落とした。日の落ちた周囲は既に暗い。雪の家と、春風の家からから零れた明かりが、それぞれの庭を照らしている。
(――どうして……無いって思ったんだろう)
今思えば、春風の部屋に自分のノートが無いと確信を持って答えれる。時間が経てば経つほど――いや、思い出せば思い出すほどに、その思いは強くなっている。
だが、何を――
何を思い出しているんだろう――
瞬間、雪の脳裏にぱちりと火の爆ぜる音が響いた。
(そうだ……。今日の、夢だ。僕はノートを燃やした……?)
まるでスイッチが入ったかのように、雪の脳裏にいくつものイメージが駆け抜ける。
落とされたノート。爆ぜる炎。そして灰になっていくノート。
そして――自分が口にした言葉。
(ごめん……か。僕は、誰に謝っていたんだろう……)
ひゅう、と風が雪の頭を撫ぜた。昼間より、僅かに涼しさを帯びた夏の風。朝に感じたものとはまた違う、どこか夜を告げる匂いに満ちている。
風が通り過ぎても、雪の頭には不確かなしこりが残っていた。形のないそれは、まるで夜の闇の様に雪の心を疑問の色に染めていく。
(昔、何があったんだっけ……そもそも、僕はどうして書かなくなったんだ……)
しかし考えてもその答えは出てこなかった。静かに、夏の風が再び雪の顔を撫ぜて、また通り過ぎる。
「雪君ー? ごめん、こっちにもやっぱりないみたい」
いつの間にか窓から顔を出していた春風が、同じく顔を窓の外に出す雪へと声をかける。雪はその声でようやく春風に気が付き、慌てて顔を上げた。
「あ、そっか。ん、じゃあ大丈夫だよ。こっちもまた探してみるから」
「うん。じゃあそっち行くね」
春風はばいばいと小さく手を振って窓を閉めようとして――そのまま視線を止めた。
「ん? どうした?」
雪は考え込む春風へ質問を投げる。春風は返事も半端に「んー」とそのまま考えると、一つ頷いて、雪を真っ直ぐに見た。そして、
「こっちから行った方が早いよね」
なんてさらりと言いのけた。
「いや、ちょっと……」
危ないって、と言いかける雪を無視して、春風は自室の窓を軽々と超えると、その下にある屋根に着地する。軽い身のこなし。部屋から差し込む光が逆行になって、僅かに春風をシルエットにする。春風はそのまま、雪が制止する暇もなく、片足だけを引いたほとんど体重移動だけで屋根を蹴った。がた、と屋根の音が夜の闇に鳴った。
一瞬の静寂。本当にそれは一瞬だった。そして、あまりにも綺麗な跳躍だった。
綺麗な放物線を描いて、まるでバレエのワンシーンの様に、春風は対面の雪の家の屋根へと着地を決める。
「っと、来ちゃった」
春風は雪の目の前に立って、そう言うと「あはは」と笑う。
「来ちゃった、じゃないよ。全く……危ないだろ」
「でもこうやって幼馴染の家に行くのってなんだか憧れるよね」
「……普通に下を回ってくればいいよ。隣なんだし」
そんな風に雪は言うが、まだ脳裏には先ほどの春風の姿が焼き付いていた。
綺麗としか形容できない、春風の跳躍。
ジョギングをしている、と言っただけあって、引き締まった足で軽々と跳ねる。見ている方が感じるほどの浮遊感。明かりに照らされて煌めく、長い黒髪。そのどれもを取っても、正直なところ文句のつけようもなかった。
「……まぁ、とりあえず中に――」
そう言って、雪は自然に、窓のサッシに置かれた手を春風へ差し出そうと考えた。
だが、それは考えただけで思いとどまる。いくら幼馴染みとは言え、この年で手を握るのは恥ずかしい。ましてや、自分の部屋に招き入れるためと考えればそれはより躊躇われた。
そんな雪の逡巡にも気づいてか気づかないでか、春風は「じゃあお邪魔します」と窓に手を伸ばした――その時だった。
するり、と春風の伸ばした手が空ぶった。
どうして、と遅れてやってくる疑問。違う。遅れて理解するのは、ずるり、と何かが滑った音。
全てを理解するのは一瞬だった。
「あ――――――」
どちらの声だったか。小さく漏れたが暗闇に消える。
続けて、がたん、と屋根が響く音。その音で、雪の体から体温がさあ、と消え失せる。
がたた、と屋根がまるで楽器の様に続けて音を立てた。
目の前にいた春風が、再び遠ざかっていく。
「――――っ!」
ほぼ反射的に雪は手を伸ばす。
春風も滑り落ちる体を片手で支え、もう片方の手を伸ばす。
互いに伸ばした手は――がしりと、互いを掴み合った。
雪の体に、ずしりと体重がかかる。決して軽くはない。でも、重くもない。
「――んっ!」
雪は足に力を入れ、春風の手を引く。春風も体制を整え直すことが出来たのか、屋根にぺたりと座り込んでいた。
「――っ、はぁ……」
ようやく、雪の喉から息が漏れた。安堵に体から力が抜ける。
「……ごめん、油断しちゃった。ありがと」
春風は屋根の上、視線を落としたまま、少しだけ声を震わせてそう言った。雪はそれに何も返せない。荒れる心臓の鼓動を抑えるので精一杯だった。
少しだけ訪れる静寂。どちらのものか分からない、不安定な呼吸音だけが辺りに満ちる。
ややあって、雪も落ち着きを取り戻し、春風に改めて視線を向ける。
「……そろそろ、こっちに入ろう。そこは危ないよ」
「……うん」
春風は立ち上がり、片手で膝を払うと、窓に向かって足を進めた。
雪も春風を迎え入れるために、と手は繋いだまま、体を半歩ずらす。
そこで、後ろにいる誰かとぶつかった。
「え……?」
確認するために、雪は首を回して視線を向ける。そしてもう一度「え?」と言葉を漏らす。そこに立っていたのは、ゲームをしていたはずの秋人だった。険しい表情を浮かべ、窓の外――春風へと視線を向けている。
「……秋人君?」
それに春風も気づいたのか、少し呆然とした様子で声を上げる。
「秋、どうし――」
「危ねぇだろうが! 怪我したらどうすんだよ!」
秋人の叫びにも似た、大きな声が部屋に響いた。
「あ、秋……?」
雪は慌てて秋人を見やる。秋人は僅かに目を伏せ、下唇を噛み、どこか歯痒そうに拳を握っていた。その、いつもとは違う秋人の様子に、雪は心臓の鼓動が早くなるのを覚える。
「秋……ど、どうしたのさ。いや、春風は危なかったけど、何もなかったし……」
「…………」
秋人は何も答えない。変わらず、少し目を伏せて黙っていた。
「ご、ごめんね。わたし、大丈夫だって、思ったんだけど、暗いのを考慮してなかったみたい。心配、かけちゃったね……ごめん」
春風は窓に寄りながら、秋人を覗き込む。だが、秋人はそれを嫌がる様に「いや、いいよ。何もなければさ」と視線を逸らし、部屋の中へと戻って行った。
「……どうしたんだろう、秋。いつもの感じじゃ、なかったけど」
ぽつりと零した雪に、春風は一瞬だけ少し考える仕草を見せるが、結局何も答えなかった。そして、
「……うん、ごめん! とりあえずさ、改めてお邪魔します、でいいかな?」
春風はわざとらしく元気にそう言って、窓から雪の部屋へと足を踏み入れた。
◇
それから一時間半ほどの雑談を経て、四人は解散となった。
「ふぁー、みんな帰っちゃったね」
「そうだね」
残されたのは雪とカナの二人。開かれたお菓子、不揃いに並んだコップ。部屋にはがらんとした、どこか物寂しげな空気が漂っていた。
「なんだか、寂しいね」
ベッドに座っていた体勢から、そのままこてんと横になってカナが言った。
「……そう、だね」
四人でいた間、この部屋は騒がしかった。あれから四人で話しだしてからは秋人も、いつものテンションを復活させ、調子を取り戻していた。
春風は春風で、初めからネタを仕込んできており、持ってきた写真はことごとく雪や秋人があられもない状態のものという有り様だった。それを見ては秋人やカナが盛り上がる、というのが一つの流れになっていた。
雪は久しぶりに楽しいと思える時間だった。まるで、昔に戻ったような気がして、懐かしい気分にもなっていた。
それが一時間半程度続いた。雪は今思えば、一瞬の事のように思えた。楽しいときは過ぎるのが早い、なんて言うが、それにしては早すぎるだろう、と思うほどに。
そして楽しい時間が過ぎれば、待っているのは物寂しい時間である。楽しければ楽しいほどに、その後の反動は大きい。カナと居るのが決してつまらないわけではない。それ以上に、四人でいた時間が楽しかったのだ。
(でも、そんな事言ってる場合じゃないよな)
雪は机に向かうと、椅子に腰を下ろし卓上灯の電源を入れる。パッとすぐに机の上が明るくなる。そこに、雪はノートを広げる。書かれた文字が、明かりに照らされてきらりと輝く。雪は端から端まで、ざっと目を通すと、次の何も書かれていないページを開いた。
「よし、頑張ろう」
雪はそう誰にともなく呟き、ペンをノートの白い横罫の隙間へと向ける。
アイディアは、僅かにだが雪の頭の中にある。それは、今日四人で話せたからこそ、思い至った事。
(やっぱり、楽しい事、ってのが大事なんだな)
春風の言葉は今も雪の耳に残っている。
『昔みたいにさ、自由に、楽しんで、雪君の好きなようにお話作ればいいんじゃないかな』
今日四人で遊んだことは『昔みたい』で『自由』で、そして『楽しかった』のだ。
(……本当に、今日は昔みたいだったな)
遊びの余韻はまだ雪の中に残っている。
だから、だろう。感覚はかつてみんなで遊んでいた時のような気分だった。
(今なら、昔みたいに、書けるかもしれない)
かつて、自分が考えていたこと。自分が経験した事。自分が実際に作り上げたもの。
それらを雪は思い返し、この向かい合う物語と融合させる。
そうすれば――
言葉は自然に、物語は自由に動き出す。
雪はノートの先に見える、物語へと思考を集中させる。
友人を元にした二人の、願いを叶える物語へと。
カリカリ、とペンを走らせる音が部屋に響く。時計の針は、刻一刻と時間を進めていく。だが、雪も、それを見守るカナも、それを気に留めようとはしない。
夜が世界に満ち、向かい合う春風の部屋の電気が消えても、雪は机の灯りを消すことはなかった。