001
2012年の『スニーカー大賞』に応募し、一次選考を通過させていただいた拙作です。
思い入れの深いものですので、こちらへ投稿させていただきたいと思います。
0/
『ごめんね』
そう、誰かが言った。
声はとても遠くか細いものだ。それでも、はっきりと僕の耳に届いてくる。
誰なのだろうか。
どうして僕に謝るのだろうか。
何度も、何度も、優しい声が耳に満ちては砂糖のように甘く溶けていく。
『きっと、また――』
声は更に距離を増す。もう、微かにしか聞こえない。
打ち寄せた波が引くように、代わって現実の冷たさが姿を現す。
そこで僕はようやくこれが夢なのだと理解した。
重力すら消えた、仄かに昏い空間だった。
まるで、夜明けのようだと、僕は思った。
『ごめんね』
小さな鈴のような声が空間に響く。
ふと、僕は目を向ける。
そこには誰かの影があった。
『また、いつか会えるよ――』
――彼女はそう言って、
僕の意識は現実へ引き戻された。
1/
高校生になれば何かが変わる、と藤村雪は思ってた。
雪が中学生の時、高校生はまるで別の生き物のように思えていた。大人で、カッコよくて、何でも出来て、自由で。まるで漫画や小説の様な世界があるのだと、信じ込んでいた。
でも現実はそう甘くはない。高校生になってみて、雪はそんなものが幻想だったのだと思い知らされた。結局、何も変わりなどしなかった。
ただ単純に通うべき学校が中学から高校に変わっただけ。具体的には、学校が少し遠くになって、朝起きる時間が二十分ほど早くなった程度。それでもバス通学や電車通学になったわけでもないので、結局朝起きて待ち構えているのは気怠い登校前の気分だ。
「いってきまーす」
雪が玄関に腰を下ろし、ローファーに足を通したところでそんな声が響いた。よく通る、綺麗な声だ。それは隣の家から聞こえている。
(春風か……)
隣の家には幼馴染がいる。しかし、仲が良かったのは子供の頃の話で、今となっては話すことすら滅多にない。
(いや、むしろ……僕が話したくないだけだ)
ふと思えば胸にあるのは気まずさだ。かつて仲の良かった幼馴染みと、今顔を合わせて何を話せばいいのか、分からないのだ。
軽快な足音は次第に遠のいていく。それを十分に確認してから、雪は玄関の扉を開ける。
朝日と、初夏を思わせる熱気に、僅かに目が眩んだ。そのまま冷房の効いた部屋に引き返してしまいたくなるが、雪は「いってきます」と呟いて家を後にした。
正直に言えば、学校はつまらない。行くか行かないかという選択肢があるのなら、間違いなく行かないことを選ぶ。そのくらいに雪は学校を面白いと思っていなかった。
雪が中学の時に抱いていた希望や理想なんて、今はこれっぽっちも残っていない。むしろ、どうしてあの時は高校に早く行きたいと思っていたのか、それすらが今思えば疑問になるほどだ。
雪が高校に入って理解したのは、理想は理想であることと、そして結局自分は下から数えた方が早いレベルの人間なのだと思い知らされる事実だけだった。
『出来る奴は出来て、出来ない奴は何も出来ない』そんな、逃げようのない現実は容赦なく雪に追い打ちをかける。
勉強にスポーツ。どちらにかすりもしていない自分がいる。
授業はついて行くのが精いっぱい。運動にしても目立たないように隅っこに避けている程度。周りを見てどうしてそこまでレベルが違うのか、と叫びたくなることも頻繁だった。そもそも、まだ最初の一学期も終わっていない今の時期、これから先を思えば頭は痛くなる。
(僕と同じ一年で、レギュラーに選ばれるようなやつもいるってのにね)
気が付けば、雪は学校の裏門を抜けていた。坂を上ると、サッカー部の早朝練習なのだろう、いかにも体育会系です、といった声がグラウンドに響いている。その光景をちらりとだけ一瞥して、雪は校舎へと向かう。
変わり映えのしない、毎日の光景。
雪の頭の中に渦巻いているのは、純粋な憂鬱さ。
ああ、今日もつまらない一日が始まる。
◆
つまらないと思えば、時間が過ぎるのはとても長い。
最後の授業を残し雪はそう考えていた。
「……それでは、文化祭の準備は――」
授業はLHR。来週の日曜に行われる文化祭について話し合いが行われていた。
(文化祭なんて、僕には何の縁もないな……)
雪はそう思いながら黒板から窓の外へと視線を向けた。視界に入ってくるのは、青々とした中に層の厚い雲の浮かぶ夏を思わせる空。見るだけで清々しくなるような光景に、クラスの話し合いもどこか遠くに感じてくる。
「ふあぁ」
思わず、欠伸が出る。続けて襲ってくる眠気。
黒板には既に見覚えのない内容が並んでいる。
(今から参加しても、どうせついて行けないよな……)
雪はそう心の中で呟き、眼鏡を脇に置くと机にそのまま突っ伏した。そして目を閉じる。
遠くから声が聞こえてくる。それが文化祭の話し合いなのは理解できる。ただ、その声は、とても遠い。遠く、果てしなく遠い。まるで自分の関われない場所にあるかのようにすら思えるほどに。
雪は暗闇に心を委ねる。それに呼応するかのように声も深淵に溶けていく。
(ああ、眠いや……。僕には関係ないし、寝てしまおう)
心の中の呟きを最後に、雪の思考は暗闇に落ちて行った。
「う……うぅ……」
雪は目を覚ますと、寝ぼけ眼に違和感を覚えた。
まだ視界は安定していない。ゆっくりとした動作で雪は眼鏡を取り、着ける。
「え……」
まず、空の色が目に付いた。
青々と広がっていたはずの空は赤く、まるで夕焼けの様に外を染め上げている。教室も浅い角度から差し込む光に綺麗に赤く染まっている。
教室にはもうクラスメイトの姿は無かった。黒板も元の黒々とした状態へ戻されている。
耳を澄まさずとも運動部のものであろう大きな掛け声や、ブラスバンドの練習音が遠くから聞こえてくる。
そこで雪はようやく気付いた。自分があのLHRの時間から寝入ってしまっていたこと。そして、完全に放課後に入ってようやく目を覚ましたということ。
時計の針は既に十八時を過ぎていた。LHRの時間を考慮すると、三時間は寝ていたことになる。
「わ、わわっ」
机の横に掛けていた鞄を掴み、慌てて雪は立ち上がる。
(なんで誰も起こしてくれないんだよっ!)
雪の心に浮かんだのは、そんな文句。教室に一人取り残された寂しさと、そうなってしまう状況に気付かず、悠々と寝入っていた自分への恥ずかしさから、雪は一刻も早く帰りたかった。そんな時、
「――危ないよ、そんなに慌てていると」
後ろから、鈴の様な声が響いた。
「……え?」
思わずそう口にして、雪は振り返る。
「おはよう」
そこで、机の上に座っていた少女は、そう言った。
それが、雪と少女の出会い。
これから始まる、たった一週間の物語の始まりだった。
◇
「おはよう」
「……お、はよう」
少女は机の上に座り、足をぶらぶらとさせていた。
だが、思考が働いたのはそこまで。雪は少女の姿に、言葉を失っていた。頭の中に渦巻くのは、単純に視覚として与えられる情報だけだ。
その少女は、一言で言い表すのであれば、不思議だった。
まず、目に付くのは少女の身につけている制服。彼女の着ているそれは、雪の見たことのないものだ。雪の通う高校では、男子も女子も制服はブレザーになっている。だが、この机に腰を掛ける少女の着るそれは、ブレザーではなく、どこかレトロとでも形容できそうなセーラー服だったのだ。
そして、次に目に付くのがその少女の容姿だ。一見して女性だと判別は付くが、その顔つきはとても中性的だった。彼女の容姿は非常に整っている。卵形の輪郭に、くっきり整った目鼻立ち。短く、おかっぱのように切り揃えられた髪型もそれを際立たせている。もし、どちらとも取れそうな服装であれば、美少年と間違われてもおかしくない、と雪は思った。
「藤村雪くん」
「な、なに……?」
突然名前を呼ばれ緊張する。彼女の持つ、どこか不思議な気配に気圧されているのだ。
(だ、誰だ……こんな女子いたかな……)
彼女はそんな緊張をつゆ知らず、雪を覗き込む。
「ずっと待ってたよ。雪くんに会えるの」
「え、えええっ」
雪は思わず仰け反ってしまう。がたりと、押された机が音を立てた。何か言おうとするが、雪の口は動かない。ぱくぱくと餌を求める鯉のように動かすだけだ。
(だ、誰だよ、この子っ!? 違う制服ってことは、転校生? でも、僕に他の学校の知り合いなんてっ!?)
そんな風に慌てふためく雪を見て、少女はにこりと微笑む。
刹那、さあ、と風が吹き込んでくる。少しだけ少女のスカートと、短い髪が揺れた。
「――雪くん」
「あ、ええと、」
少女は再び微笑み、右手を自分の胸に、そして左手を雪へとかざす。そして、
「ボクは、キミの願いを叶えにきたんだ」
そう言って、すた、と机から降りて、雪の正面に立つ。
風が再び、さあ、と吹き抜ける。初夏を思わせる、どこかぬるい風。
風が一通り通り抜けるのを待ったのか、彼女はすうと息を吸う。
「ボクは魔法使いなんだ」
彼女は静かに告げた。
「……魔法使い?」
「うん、そうだよ。ボクは魔法使い。雪くんの願いを叶えにきたんだ」
「……………………」
雪は一瞬で冷静さを取り戻していた。自分で自分の緊張が解れたことを認識するほどだった。
少女はにっこりと微笑んで雪をじいと見ている。胸に当てていた右手は今は左手と共に前――つまり雪に向けて伸ばされていた。『さあおいでよ、わくわく魔法ランド!』みたいに。
雪は直感的に理解した。
(――ヤバい。何言ってんだこいつっ!?)
雪の脳裏に浮かんだ単語は『電波』の二文字。先ほどまで感じていた、思考が停止するほどの緊張はもうどこにもない。脳内に鳴り響くのは危険信号のアラート。
関わってはいけない。痛い。痛すぎる。
(魔法使いだ? 何言っちゃってんのこの子! 制服もそのための演出か? ヤバい、ヤバすぎる。願いを叶えてあげます、とか言って幸運の壺でも出てくるんじゃないのかこれ!?)
そんな風に雪が思考を巡らす間も、目の前の少女は手を広げて笑みを絶やさず浮かべていた。それが雪にはとてつもなく不穏なものに感じ取れて、怖かった。
「えーと、あの、その、そういうの間に合ってるから……」
目線を逸らし、机の横に掛けてある鞄を掴む。鞄の冷たい触感が、まるで現実に引き戻されるようでどこかホッとする。
「ちょ、ちょっとー! どこ行くのっ」
だが、現実は甘くない。いや、これを現実と言うのであれば、正に雪は現実逃避したい気分だった。
雪の鞄を掴んでいない方の腕を少女が掴む。がっしりと、まるで抱きかかえるかのように。女子の温かな体温が雪の腕に伝わってくる。しかしながら雪の思考はそれどころではない。一刻も早く逃げ出したい気分で埋め尽くされている。
「ま、魔法使いとかさ、僕卒業したから。うん」
完全に目を逸らして雪は言う。
「待ってーっ! 雪くん! 信じてないでしょっ!?」
「信じれるかー! 魔法使いなんて!」
思わず雪は叫んでいた。
「いきなり何言ってるんだよ!? 人が起きるのを待って、魔法使いだから願いを叶えてやる
、なんて嘘くさいにも程があるよ!」
「ええっ、なんで、なんでぇ!」
なんでも何も、ここで信じる奴がいたら馬鹿だろう。とはさすがに雪は言えなかった。一刻も早くこの場を逃げ出したくて、何かが吹っ切れてしまっている雪だが、女子に向かって馬鹿と叫ぶのは流石に躊躇われたのだ。
少女は雪の手を全体重をかけて引っ張っている。それに対して雪は全力で離れようとする。まるで、大きなカブだと雪は思った。
「い、い、か、ら! もう、そういうのは、他の人にっ」
「だ、め、だ、よっ! 雪くんじゃ、ないと、ダメなのーっ!」
少女が引く様子は全くない。何故何如何して。僕にここまで執着するのか、僕をからかうことがそこまで楽しいのか、というか、僕がここまで拒否している時点で計画としては失敗なんじゃないのか、と雪は考えつつ、抜け出そうと力を込める。
「も、もーっ、ダメだってぇーっ!」
少女がそう叫んだその時だった。
「――へ?」
ずるり、と足が滑る。雪の体が宙に浮く。それに引っ張られて少女が、まるで引っこ抜けた大きなカブの様に追従する。
「う、うわっ!!」
「きゃっ!」
二人の決して小さくない叫び。それに続き、大きな落下音が教室に響いた。
「……あいた、たたた」
「いたぁい……」
滑った拍子で頭を打ったのか、雪は頭をさすった。じんわりと痛み、少し目が眩んでいる。
痛みが引いてくると、雪は違和感を覚えた。何かやわらかいものが、自分の上に被さっている。それに少しだけいい匂いも――
「ふっふっふー、これでもう逃がさないよー……いたたた」
「ちょ、ちょっとっ!」
状況を認識して、雪はこれまでにない動揺を見せた。
それもそのはず。この状況で動揺しないのなら男子としてどうにかしている。
雪は尻餅をつくような体勢で倒れてしまった。そこに少女が覆いかぶさるように倒れ込んできている。
要するに、まるで傍から見れば抱きついているような状況だった。そして更に付け加えるなら、実際に少女はがっちりと抱きついて、雪を逃がすまいとしている。
(な、なんなんだよこれっ!? 何の罰ゲームなんだよっ!)
少女の柔らかさが、制服越しに伝わってくる。仄かに香る、石鹸の匂いは女の子の匂いを連想させた。
「これで、やっと落ち着いて話せるね」
(話せないよっ。こんな状況で落ち着けるわけがないよっ!)
と、叫ぶのはあくまでも頭の中だけ。雪は完全に混乱していた。
「ボクはね、雪くんの願いを叶えにきたんだよっ!」
少女が雪に顔を更に寄せる。思わず雪は顔を引こうとするが、抱き締められているような状態ではどうすることもできなかった。
「ね、願いって……」
「願いは願いだよっ。雪くんの望むことっ!」
答えになってない答えに雪の思考は出口のないループに陥る。
(何なんだよこれっ、願いって、何!? ってか、だ、抱き付いて、ここまで迫ってくるなんて、何が目的なんだよーーっ!)
雪の視線はまるで挙動不審のそれのように忙しなく動いていた。それもそのはずで、話の内容は当然として、女の子がこれだけ目と鼻の先にいて平常心を保つなど無理な話だ。
揺れる視線で雪はちらりと少女を見る。同時にどきり、と緊張が走る。
少女の顔は雪の目の前にある。手を伸ばす――までもない。ほんの少し、顔を動かすだけで触れることができそうなほどに、まるで今からキスをするのではないかと思わされるほどに。少女の吐息が雪にかかる。それに、雪は更に緊張を走らせる。
「むーぅ、雪くん信じてないでしょっ」
「し、信じるも何も……」
不満気に口を尖らせる少女に雪は咄嗟に答えるしかできない。
「うぅ、分かった。雪くんっ!」
「は、はいっ」
(近いっ、近いって!)
雪は叫ぶこともできず、表情で訴えるが少女が引く様子はない。
「何でもいいから願い事を一つ言ってみて。信じてないみたいだから叶えてあげるっ」
「え、えええぇぇ……願い、って……」
少女の目は真っ直ぐに雪の目に向いている。雪も目を逸らせず、見つめ合ってしまう。
「何でもいいんだよっ! 雪くんの思いつくこと!」
更に顔を寄せる少女。
「あ、でも、悪いことはダメだよっ。ボクはいい魔法使いだから、いいお願い事しか叶えれないからねっ」
「え、えーと」
少女が引く様子は全く見受けることが出来ない。何か答えないと、この少女は自分を離してくれないのだろう、と雪は本能で理解していた。
未だ、雪は少女から目を逸らすことはできない。少女の目、もとい表情は雪の答えを待ち構えている。雪が何を言うか、期待に目を正に文字通り輝かせている。
(うわ、この子……)
きらきらと目を輝かせて、顔を寄せる少女に雪は見蕩れ始めていた。
近くで見れば明らかに分かるほどの、美しい顔立ち。中性的なそれだからこそ、どこか不思議な雰囲気の魅力がある。視線を下げれば、髪の下に覗かせるうなじにもどきりとさせられる。制服越しの温かく柔らかな感触も、心地よさを感じさせる。
(って、僕は何を考えてるんだっ)
ぶんぶんと首を振って考えを払う――ことは出来ないため、雪は目を瞑り、眼前の少女を意識から無理やり引き剥がす。冷静に、と心の中で呟く。
(そうだよ。冷静にならないと。こんなの、どうせ何かのいたずらに決まってる。僕なんかに、こんな子が構ってくるなんてありえない。それに、魔法使い、だなんて電波もいいところじゃないか)
「雪くんっ、お願い事は決まった!?」
少女がすぐそばで言う。目を閉じている為、姿は見えない。でもその姿はなぜか想像が出来た。楽しそうな顔で、僕の答えを待ち構えている。きっとそんな表情をしているのだろう、と雪は暗闇に少女の姿を浮かべてしまう。
――しかし、その楽しげな表情は、雪にとって、嘲笑のそれに見える。
(……結局、僕をからかっているだけなんだ。僕なんかに、誰かが構うなんて――)
思考は冷めてきていた。肌に覚える、温かな感触もどこかもう遠い。
「だったら……」
雪は呟くように、口を開いた。瞼はまだ閉じられている。
その暗闇の中、雪は上に乗る少女が反応したことを感じ取る。
「だったら?」
少女の返答。雪はそれを無視して、さらに口を開く。
「僕の彼女になってよ」
――どうせ、無理だって言うだろ。と心の中で続け、雪はようやく目を開いた。
どこか久しく思える夕暮れの赤みが雪の視界に戻ってくる。さあ、と吹く風が通り抜ける。
少女は、黙っていた。何も言わず、雪を見つめ返している。
それを見て、雪は小さく息を漏らした。自嘲に近いそれ。ああ、やっぱりそうだったのだ、と。結局自分はからかわれていただけなのだ、と。雪の心に黒い何かが蓄積する。
「……もう、いいよね。どうせ、願いを叶えるなんて嘘なんだろ。僕なんかをからかっても面白くないのに」
少女を引き剥がすため、雪は体を起こそうとする。だが、少女は黙って、雪の目を見据えたまま、動こうとしない。
きょとん、と。まるでそんな効果音を乗せるのが適切の様に、少女は雪を見ている。
「いいからさ――」
「――それで」
少女がぽつり、と口を開く。
「え?」
「それで、いいの?」
「はぁ? いい、って。何が?」
少女は目をぱちくりと瞬かせて、同じように言葉を続ける。
「だから、お願い事」
「え……」
「ボクが彼女になる、ってことでいいの?」
「はぁっ!?」
予想だにしない言葉に、雪は思わず叫ぶように言葉を漏らした。
少女は未だに、雪の目を真っ直ぐに見つめている。その言葉に嘘がないことを示すかのように。
「――そんなお願いでいいなら、簡単だよ」
そう言って、少女は自分から雪を離れた。そして、そのまま雪の正面に立つ。雪は半ば呆然と少女を見上げてしまっている。
「いったい、何を……」
そう雪が呟くとほぼ同時に、少女が雪へとその両手をかざし、目を閉じた。まるで、なにかを本当に『願う』かのように。そして、少女が何かを呟くように、口を開く――
刹那。雪の視界が完全な白に包まれた。
(な、なんだこれ――――――)
思わず雪は腕で目を覆う。だが、それで視界が戻ることはない。
完全に真っ白の世界。
赤く夕日に染められた教室の影も形もここには存在しない。
先程まで体を寄せていた少女もいない。
ただ、有るのは自分という存在だけ。
永遠にも思える時間が過ぎる。
その中で、雪はどこか不確かながらも、何かが書き換えられていくような感覚を覚えた。
まるで、自分以外の、この白に包まれている世界そのものが書き換えられて――
「…………ふぅ」
白い世界の中、少女の小さな吐息が響いた。瞬間、白い世界が元の夕焼けに染まる教室へと戻る。
「な――なんだったんだ、今のは」
そう呟く雪に少女はにこりと微笑んで、かざしていた手をそのまま雪へと伸ばす。
「願いは叶えたよ。これで、ボクは雪くんの彼女だね。よろしくっ」
「……へ?」
間抜けに声を漏らしながら、雪は少女を見上げる。少女は再び笑顔を浮かべて返した。
その笑顔を、雪はどこか『可愛い』と思ってしまった。
◇
夕焼けも姿を隠し、夜の帳が下り始めた頃、二人は雪の家の前に立っていた。
雪の横にはぴったりとくっつく少女の姿。傍から見れば、本当の彼氏彼女に見える光景だ。だがひとつ、雪の顔がどこか苦虫を噛み潰したような表情をしていなければ、である。
「あのさ」
雪が自宅を正面に、呟く。
「なーに?」
返事をするのは隣の少女。その声は誰が聞いても分かるほどに明るい。その声を聞いて、雪は逆に気が沈んでしまう。
「……ここ、僕の家なんだけど」
「うんっ!」
少女の元気のいい返事に雪は頭が痛くなった。
「えーと、僕、家に帰りたいんだけど」
「うんっ! ボクもっ!」
暗くなり始めた周囲に、住宅街の街灯も灯りを点そうとちかちか点滅を始める。時計を見れば、既に夜の七時を過ぎている。普段ならもうとっくに家に着いていて、夕飯に呼ばれるまでゲームでもしている時間だ。
「どーしたの? 入らないの?」
「いや、あのさ。それをどうして君が言うの」
少女は首を傾げて答える。「え、そんなの言うまでもないよね」と目が語っている。
「もーっ、ボクお腹すいたよー。雪くんが先に行かないなら、ボクが行くんだからねっ」
そう言って、少女はがっちりと抱いていた雪の手を離し玄関へと向かう。
「ちょ、待てって!」
慌てて雪は少女の腕を取る。
「えーっ!? なんでー、早く家の中に入ろうよう」
「だからなんでお前がそれを――」
「――何やってんのよ」
がちゃり、と玄関が開き、雪の聞き慣れた声がした。
「あ、母さん……。これはさ――」
玄関から顔を覗かせてきた母親に、雪は咄嗟に、ざっ、と少女と前に滑り込む。
(ああもう、面倒になってきた。どう説明すればいいんだよーっ!?)
だが、そんな雪の思いをよそに、母親は身をずらして雪の奥を覗き込もうとする。雪も必死でそれを防ごうとする。が、更にもう一つ雪のそんな思いをよそに、後ろに隠されていた少女はひょい、と雪を避けて玄関に躍り出た。
「ちょっと、何やって――」
「あら、カナちゃん。この子、何やってるの? そういう遊び?」
「……へ?」
目の前の光景に雪は固まる。今何を言った……? この自分の母親は何と言った? と頭の中に疑問が渦巻いている。
「えっと、そういう遊びなんだよっ、お義母さん」
「お義母さん!?」
「何よ、改まって」
雪の母親が疑問を浮かべて雪を覗き込む。
「いや、そういうんじゃなくて……」
「もう。遊ぶのはいいけど、もう夜ご飯にするから、二人とも早くしなさいね。家の前で騒がれると近所迷惑でしょ」
「ちょ、ちょっと、あの……」
雪が後姿に呼びかけるも、母親はそそくさと家の中へ入っていった。家の前に、玄関を開け放された状態で二人が取り残される。
「………………」
「雪くん、早くいこっ」
そう言って我が物顔で家に入っていく少女――カナに、雪は呆然とついて行くしかできなかった。
◇
「どういうことだよっ!」
部屋に入って、冷静さを僅かながら取り戻した雪は少女――母親によってカナと呼ばれた少女へと叫んだ。カナは雪のベットに腰を掛け、初めに出会った時の様に足をぶらぶらとさせていた。
「何が?」
「さっきのだよ! なんでウチの母親がお前の事知ってるんだよ!」
思い返せば、雪はまだこの少女から名前を聞いていない。それなのに、雪の母親は『カナ』と呼んだ。
「それに、何で家に一緒に帰ってくるのが当然みたいな反応だったんだよ!」
確かに母親は「二人とも」と言っていた。それは、自分とカナが家に入る――つまり、帰ってくるのが当たり前なのだと言ったのと同じことだ。
「うん、それはね」
混乱を明らかに浮かべる雪に対し、カナは冷静に口を開く。
「雪くんのお願い事『ボクを彼女にする』ってのを叶えた結果だよ」
「はぁ?」
「えっとね、少し都合のいいように使わせて貰った部分はあるんだけど、『彼女』って部分を最大限の形で叶えた結果が今の形なの」
「え、っと……」
至って普通に説明をするカナだったが、雪は混乱が抜け切れていない。むしろ、そのカナの言葉に雪は混乱を深めかけていた。
「だからね、ボクは雪くんの『彼女』として雪くんのお母さんとお父さん公認の仲、ってことになってるの。それで、『彼女』として雪くん寝食を共にできるようにね」
「は、はぁ?」
雪の喉から零れたのは、間抜けな声だった。
「恋人同士はずっと一緒にいる、ってのが一番だからねっ」
「………………」
雪の思考は停止している。理解が追い付いていない。この少女は何を言っているんだ、とカナを見るのが精一杯。そしてそのカナは見つめられていると勘違いしたのか、少し照れてはにかんでいる。
「えーと……」
「んー?」
ぱたぱたと足をぶらぶらとさせながら、カナが首を傾げる。
「……あの、魔法使いって、願いってやつ、マジだったの?」
「えへへ、すごいでしょっ!」
カナは笑顔で答える。雪は事が想像の範疇を越えていたことに気付き、天を仰いだ。
「マジかよ……」
「って、まさか雪くん本当に信じてなかったのっ!?」
「そりゃそうだよ! 魔法使いだの、願い事だの、普通信じられるか!」
「うそっ、ひどーい! ひどいよ雪くん! じゃあずっとボクを頭のおかしい人ぐらいに思
ってたんだ!」
「……そりゃ、そうだよ!」
一瞬、言うか言うまいか考えて雪は口にした。至って事実である。突然初対面で「ボクは魔法使いだから君の願いを叶えるよ」なんて言われても電波さんだと思って当然だ。
「ひっどーい!! まさか、本当にそう思ってたなんて……雪くんのこと信じてたのに」
「ってか、あのさ。カナ……でいいんだっけ。名前聞いてないんだけど」
ふと、しっかりとした自己紹介を受けてないことに気付き、雪は言った。
「うん、そっか。言ってなかったね。ボクはカナ。カナって呼んで。カナちゃんでもいいよ」
「……カナ、ちゃん。いや、」言って、雪は首をぶんぶんと振った。ちゃん付けで呼ぶのはどこか気恥ずかしいものがあった。「ええと、カナ、で」と、雪は言い直す。
「うん」
短くカナも答える。カナは名前を呼ばれたことを心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべていた。それを見て、結局雪は気恥ずかしい気分になった。
雪は顔を逸らし、ベッドから少し離れた勉強机に向かうと、椅子を引いて腰を下ろした。そして改めてカナへと視線を向ける。
「カナ、が魔法使いだって、のは……まだ信じられないけど、何となく分かった。というか、もう信じないといけないんだろうけどさ」
「むー、信じて貰わないと困るよう」
「そこなんだけどさ。なんで僕なんだ? なんで僕の願い事を叶えようとするんだ?」
それは純粋な疑問だった。
遡れば、教室でカナに迫られていた時から感じていたことでもある。
どうして『藤村雪』である必要があるのか。
もし、教室での出来事がただの悪戯であったとしても、それは同じことが言える。
『藤村雪』をからかうこと――広げて言えば、『藤村雪』に関わることにどれだけの価値があるのか。この件で言えば、『藤村雪』の願いを叶えることに、何の意味があるのか。
(――僕自身、そんなこと分からない)
「それはね、」
カナは向かいに立つ雪の目を、迷うことなく見て、何でもないことであるかのように、
「ボクが、雪くんの願いを叶えたいと思ったからだよ」
と言った。
「……あ」
雪の思考が止まる。思ってもいない言葉だった。
「ぼ、僕の願いを、わざわざ……?」
「うん! 当たり前だよ! 雪くんの願い事だから、ボクは叶えに来たんだよ!」
「………………」
カナは「えへへ」と雪に笑顔を見せる。雪はそれをどうしてか直視できず、目を逸らしてしまう。そのまま椅子をくるりと回転させ、机の上に視線を置く。
「だからね、雪くんの家に一緒に住めるようにもしたんだ。恋人同士が一緒にいるってのは、普通の事だけど、一緒にいると雪くんのお願い事を叶えやすくなるってのも考えてたんだよっ」
「……そっか、なるほど」
「だからっ!」
とた、と小さな着地音。そして、とてとてと足音が続く。足音は雪のすぐそばまで来ると、止まった。
直後、とさ、と背中に体重がかけられる。その温かな感覚から、カナだと雪は理解した。
「ちょ、何を……っ」
「雪くん」
雪の耳元で、カナが囁くように言う。雪は自分の心臓が高鳴るのを明確に感じ取った。
「ボクはね、ずっと雪くんに会いたかったんだ。一緒にいられるのが、ボクはすごい嬉しいんだ。だからね、雪くん。これから、よろしくね」
そして、頬に触れる感触。それを雪が理解するには時間がかかった。
「えへへ、じゃあボクはお義母さんのお手伝いに行ってくるね。雪くんはゆっくりしてていいからっ」
カナはそう言って、部屋を後にした。
階段を下りる音が、遠くから聞こえてくる。それが消えるまで待って、雪は顔を上げた。
最後まで雪はカナを見ることが出来なかった。
頬にはまだ感触が残っている。顔はどこか熱を帯びているような気すらする。
椅子から乱雑に立ち上がり、ふらふらとベッドへ向かう。思考は完全に定まっていない。
ベッドに腰を下ろす。ぎし、とスプリングが軋んだ。
「なんだよー……」
ベッドにはさっきまでカナが腰掛けていた温かみが残っていた。それで、更につい先程のことを思い出してしまう。
そのまま雪は後ろに倒れ込む。眼鏡を外すのも、どこか億劫だ。このままぐるぐると廻る思考を放棄して、眠りにつきたい気分だった。
「ちくしょう」
天井を見上げ、呟く。
目を閉じた。暗闇に浮かぶのは、一人の少女。きっと、しばらく消えることのないもの。
「あんなの反則じゃねーかよ」
呟いた雪の言葉だけが、部屋に満ちて、静かに消えていった。