+第六話+ 王のきまぐれ
小春は真新しい朝服の胸ぐらを掴みあげられ、引っ張られた拍子に懐から桃饅頭の入った袋が落ち、中身がコロコロと飛び出した。
それに一瞬視線を落とした王は、忌々しげに饅頭を踏みつぶす。
「――っ」
王が靴をにじると、美しい形をしていた饅頭が、何とも醜くすりつぶされた。
「な……なんて勿体ないことをするの、あなたはっ!」
逆に胸ぐらを掴まれたことと小春の剣幕に、王は一瞬目を丸くした。
「今あなたが踏みつぶした饅頭は、民が丹精込めて作った小麦で作ったものよ!」
「だからどうした」
「だからどうした!? 百歩譲って少しの賭博くらいは許してあげる。でも、民の苦労を踏みにじるなんて、あなたそれでも国王なのッ! この大ウツけ者!」
――言い過ぎた。
そう思った時には、王の頬は怒りに引きつり、血走った目をしていた。
「貴様っ……許さんッ!」
王の手が、携えている腰の剣に伸びる。
それにはさすがの小春も全身の血が引く思いがした。
(爺爺――っ!)
ギュッと目を閉じる。
その瞬間――
「何をなさっているの?」
まるで小雪が舞い落ちるかのような、鈴を振るような美しい声が聞こえた。
「御上、どうさなさったの?」
そう不安げな表情を見せる女性は、柔らかそうで艶やかな黒髪を丁寧に結い上げていた。
肌は月の映った水面のように澄んでいて、指先を前で丁寧に揃える佇まいは百合のよう。
深窓の麗人は本当にいた。
二人の侍女に付き添われ、現れた優しげな美姫に、小春は指先が痺れるほどの衝撃を受けた。
「い、いや。何でも無い、雪姫……」
慌てて剣から手を退き、王は小春から離れた。
乱れた髪をなでつけ、衣服を直し、そわそわと明らかに落ち着かない。
さきほどまでの勢いはどこへやら、視線を心許なげに泳がせている。
「大きな声がしました。何か揉め事があったのでしょう?」
雪姫が小首を傾げると、一本ウン十万元しそうな上品な金の簪がシャランと揺れる。長い睫に囲まれた瞳は艶々と揺れ、寒さに紅潮した頬と唇に目が奪われて仕方ない。
なるほどこれが、世界中の男すら虜にできる美姫、雪姫――
宮廷の最奥に深窓の麗人がいると言われていたが、どうやら噂は本当であったらしい。
「べ、別に……たいしたことではない。気にするな」
(あなた今、完全に私を亡き者にしようとしてたじゃないっ)
小春は王にそう突っ込みたかったが、折角得た九死に一生の機を逃すわけにはいかない。
「雪姫、そのようなところにいては風邪を召す。さ、余と共に中へ入ろう。温かい茶も用意させる」
雪姫の背を柔らかく押し、優しい声と態度で接する。
先ほどとは打って変わって瞳が輝き、まるで別人のようだ。
おまけに酒臭いのを気にしてか、やけに口元を押さえている。
無駄だと言ってやりたかったが、やはり命が惜しくてやめた。
王は自分から、完全に興味を失ったらしい。
ホッと胸をなで下ろす。
「ですが御上、あちらの方は」
(わ、私のことは放っておいてくださいよ……っ)
雪姫に見つめられると、女の自分さえも恥じ入ってしまいそうになる。
「あれは……別に。いや」
王は面倒くさそうに小春を振り返ったが、突然何かを思いついたようにニヤリと笑う。
(何……? なんなのその不気味な笑顔は!)
その笑いがきな臭いこときわまりない。
隙を見て、さっさとこの場を去ればよかったと心から後悔した。
すべては雪姫の美しさに魅入られていたせい。
再び傍までやってきた王は、あろうことか小春の腰に手を回して抱き寄せた。
「ちょ……っ!」
「これは……余の恋人だ」
世界が凍った気がした。
◆……◆……◆
――頑張ってね、春! 玉の輿に乗れるよう、めちゃくちゃ応援してるから!
笑いすぎて涙をためた紹輝の顔が浮かぶ度、小春のコメカミがヒクヒクと怒りに震える。
あの男……他人事だと思って!
いつか歯が折れるほど強く殴ってやる! 折るなら絶対前歯を狙って折ってやる! そう固く決心する。
「余のことは朱閃でいい。敬語も免除してやる。いかにも仲むつまじい恋人らしいだろう」
皓朱閃、二十歳。
中肉中背、色白で細面。
幼少期より優秀な家庭教師より教えを説かれていたが、身につかず。
百戦錬磨の武官に剣を教わっていたが、身につかず。
酒は十五から飲んでいるが強くはなく、途中で水で薄められても気づかぬ味音痴。
賭博も弱く、負け続けると不機嫌になるためいつも周囲が気を遣う。
(とにかく、ざっと集めた御上の情報はこんなものだったけど……。基本空回りなのね)
小春はじっと朱閃を見る。
名前で呼ぶからとか、そんな程度で恋人らしいなど、この男は実は相当の恋愛音痴でもあるのではと思った。
先日のいきなりの恋人発言は、どうやら雪姫の気を引くための御上の(お馬鹿な)戦略らしい。
小春とて、そんな気まぐれで浅はかな王の戦略に乗ってやるほどお人よしではないが、見事雪姫の気を引けたら政をしてやってもいいと言われ、渋々首肯して今に至る。
「そなたの言うとおり、身なりを整えてみた。どうだ、これで良いか?」
ビシッと正装に袖を通し、髪もきちんと整えた朱閃は、思わず惚けるほどに美しかった。
黙っていれば、いかにも一国の王らしい威厳もある。
このあと、雪姫を交えての食事会があった。
そこでわざといちゃついて、雪姫をヤキモキさせようという陳腐な作戦らしかった。
というかその作戦、少しでも雪姫が朱閃に気がなければ成り立たないのでは、と思えてならない。
頭の方はイマイチそうだが、しかし、その一級の外見には目を見張るばかり。
眉目秀麗な王など、女の子の憧れ要素満載ではないか。
素材に問題なし! 中身は急ごしらえでも取り繕える!
「いける……! 絶対いけるわ、朱閃!」
力強く褒められ、気を良くした朱閃はポッと頬を赤く染める。
「そ、そうか? で、次は何をすればいいのか教えろ、春厳」
案外素直な性格なのだろうと、少し微笑ましく思う。
それに、よほど雪姫が好きなのだろうという事も伝わる。
二人をくっつけてやるのも、悪くはないかも知れない。政もしてくれるという約束もあることだ。
「そうねぇ……ほら、あなたって虚け者って言われ続けているじゃない? きちんと政をするようになれば、雪姫はきっと見直されると思うの」
その話になった途端、朱閃は視線を床へ落とした。
彼の目に、暗い影が差す。
「……政はせん」
「どうして。あなたは王なのよ?」
「別に余がしゃしゃり出る必要はないだろう? 余が政を放棄したところで、この世は何も変わらぬ」
「何言ってるの。あなたがするべきことは、たっくさんあるわ! もう子供じゃないんだから、ちょっとは自分の立場ってものを」
「炎龍や李影のような官吏がいれば、この国は回っていくではないかッ!」
突然の大声に、小春は驚いて息を呑んだ。
「余は…………仁帝と呼ばれる父とは違うのだ! 炎龍や李影とも違う。非凡な才などない。ただの……王と言う名の凡人だ。期待など、してくれるな……」
期待するなというわりに、どうしてそんな哀しげな顔をするというのか。
――幼少期より優秀な家庭教師より教えを説かれていたが、身につかず。
――百戦錬磨の武官に剣を教わっていたが、身につかず。
そんな彼には、黄金世代に入官した二人はどう映ったのだろう。
苦労せず科試を首席で通った文官と、若くして近衛の長にまで上り詰めた一流武官。
頑張って頑張って、死ぬほど努力した後にもし、それでも李影や炎龍の方が、余程王として相応しいと言われてしまったら?
朱閃はそれが怖かったのかもしれない。
だから馬鹿なふりをして、ずっと政には携わらないようにしていたのだろう。
彼は自嘲気味に額に手を当てる。
「余がこのような凡人であるから、雪姫も余を見向きもしない……。たくさん贈り物をして、良い医者をつけても……。余になどちっとも興味がないのだ」
彼女のしていたあの高そうな簪も、彼からの贈り物だったのだろうか。
小春はグッと拳を握ると、突如パンパンパンと強く手を叩いた。
朱閃が目を丸くして、つられるように顔を上げる。
「前を見て! 現実を見て! 国を見て! 今、多くの民が、あなたの力を必要としてる! 平凡? この世の九割九分九厘の人間はそうだわ! あなたの周りに優秀な人間が多く集うようになっているだけ! どうしてか分かる? あなたが王だからよ。あなたの代わりをするためじゃない、あなたを支えるために集まってきているの! 一人じゃできないことの方が多いから。だから……」
強く、朱閃の両手を握った。
彼は、虚け者などではない。ほんの少し、臆病なだけ。
「少しでいいから頑張ってみて。うまくできなくて、失敗するあなたを誰かが笑ったら、私がそいつを殴ってやるわ! だからお願い……そんな風にうつむかないで。この国から目をそらさないで。朱閃……」
訴えかける小春の、頬を一筋の涙が伝った。
小春はそれに自分自身が驚いたのか、慌てて涙を拭う。
それだけで、朱閃の胸の奥が熱くなって震えた。
こんな風に、自分を叱咤激励してくれた人がいただろうか。
自分のために、国のために、泣いてくれる人があっただろうか。
「ごめんなさい。何熱くなってるんだろう、私……」
涙を拭って濡れた瞳で微笑む、いじらしい彼女の頬を包み、目を閉じて唇を近づける。
「え? ちょ、朱閃、何するの……?」
寸前で胸を押されて止められ、朱閃は至近距離で小春を見つめた。
「接吻だ」
「せ、接吻!? 手は出さないって約束でしょっ!」
慌てて自分の腕の中から逃げていく小春に、朱閃は唇を尖らせる。
「なぜ嫌がる。……随分とお高くとまっているんだな」
もう少しだったのに、と朱閃は悔しくて仕方ない。
「おふざけは結構。さ、早く食事会に行きましょ。何としてでも雪姫を振り向かせなきゃねっ」
「え? あ……ああ」
雪姫よりも、振り向かせたくなってしまった女性ができたことを、朱閃は言えるはずもなかった。