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+第四話+ 上司の眼鏡

「ぎやあああああ! だ、大丈夫ですかっ!?」


 小春は大慌てで、踏みつけてしまった男の元へ屈んだ。

 急病かそれとも既に手遅れなのか。

 俯せに倒れた男はピクリとも動かない。まさか自分の一蹴ひとけりが、最後のトドメだったのだろうか。


 とにもかくにも、助けなければ。

 そう思って顔をのぞき込んだ瞬間、跳ね上げるように男は首をもたげた。


「ここ、どこ?」

「――っびっくりした……」


 あまりに突然上半身を上げた男に、小春は一瞬息を詰まらせた。


「ごめん、ごめん。ちょっと眼鏡落として……」


 男は声の主を探すように、辺りをキョロキョロ見渡す。

 少々癖のある、色素の薄い髪の男は、「一」の字のような細い目をしていた。


 埃を払い、よっこらせと立ち上がる。

 存外背が高い。傍で見上げると、首に痛みを感じた。


 帯の色は蜜柑みかん色。

 まだまだ若いようだが、既に中堅級の地位らしい。

 すごいこと……なのだが、李影や炎龍に比べればその程度のこと、と思えてしまう。


「いやあ、ワシ視力が弱くってさ。眼鏡がないと前が見えなくて。だからほふく前進」


「だから」の意味が分からない。


「悪いけど、ワシの眼鏡探して。結構マジでお願い。眼鏡を探すための眼鏡も無くしてさ、これはワシの中では非常事態なんだ」

「は、はあ……」


 本当に見えていないのだろう。自分にではなく、何もない空間に向かって彼はずっと話しかけている。

 

「……あの、っていうか、頭に乗ってますけど。眼鏡」


 小春が指さすと、男は一瞬惚けたように動きを止めた。


「え? あ、ほんとだ! よかったー!」


 まるで贈り物をもらった小児のように、はしゃぎながら眼鏡をかける。


(何この人……お馬鹿?)


 彼がどこの誰だか知らないが、こんな上司の下で働く、見も知らぬ部下を哀れむ。

 苦労しているに違いない。おそらく、ものすごく。


 頭に乗っていた細眼鏡を掛けた彼は、しっかりと目を開けた。

 ぱっちりと大きなおめめとはいかないが、細くとも存在感のある、美しい瞳をしていた。


 一瞬浮かべた彼の凜然とした真顔に、なぜか笑顔以上に惹きつけられる。


「やれやれ。助かったよ、ありがとう」

「い、いえ……」


 だがまたすぐに、ふわりと笑顔をみせる。

 これが彼の平常の顔なのだろう。


「君は……雑役婦じゃないみたいだね」


 眼鏡を掛けたかと思えば、今度はまるで品定めするかのように、こちらをジロジロと見てくる。

 確かに女官吏など異様であろうし、好奇の視線を送られるだろうことも、ある程度は承知していた。

 それでもあまり、気味の良いものではない。


「あの、それでは私はこれで……」

「ところでさ、ワシの局の前に立っているということは、君が新しいワシの部下ってことだよね。見たこともない、可愛い色の朝服も着てることだし」


 何もかも見透かしたようなその瞳と、口元の微笑みがやけに癪に障る。


「……壕春厳、なんでしょ? 君」

「部下って……それじゃあ、あなたが」

「そう。五年前に入官した君の上司、鏡紹輝きょう・しょうき。宜しく」


 嘘だ。

 そう思いたかった。

 初対面で、こんな間抜け感を惜しみなく発揮するような男が上司?


 五年前……。ならば豆豆ドウドウが言っていた通り、自分の上司は黄金世代と呼ばれた年の入官者らしい。


 だが、どうみても冴えないというか、頼りなさそうというか。

 まあ、黄金世代だからといって、李影や炎龍のようなずば抜けた才を持っているとは限らないだろう。


 勝手に期待しておいてなんだが、拍子抜けである。


「ってかさぁ春厳って名前、本当に本名なんだよねぇ!? あっはは! 女の子なのに、いっかつい名前! ご両親は馬鹿?」


 ムカ――


 久々にカチンときた。確かに自分の名前は好きではないが、そこまで言われれば愛おしくなってくる。


「鏡局長っ、あなたって人は――」

ゴウ家……か。ワシら、とっても仲良くできそうだねぇ。ほら、土と金って陰陽的に相性いいし」

「できるわけないでしょうがッ!」


 それが上司、鏡紹輝との初の顔合わせだった。





「そんなに怒らないでよ、春。名前のことは謝るから」

「……別に怒ってません」


 紹輝は眉をハの字にしながら、あからさますぎるほど困ったような微笑を浮かべていた。

 お茶を入れてくれようとしているようだが、茶器がないらしく、鍋に直接茶葉を入れ、勺でお椀に掬っている。


 見るからに、不味そうな茶であった。小春の見立てでは、茶葉自体はとても高級そうであるのに、なんとももったいない。


「五年前に入ったっていうことは、鏡局長は黄金世代なんですよね」


 折角入れてくれた茶だが、茶碗にぷかぷかと浮いた茶葉を見ると、口をつける気が失せる。

 そっと自分の前から脇へやった。

 

「ま、そんな風に呼ばれてたりするかもね。で、何? ワシがそうは見えないって?」

「はい」

「あれ、傷つくーっ」


 浮いた茶葉などお構いなしに、紹輝は茶を一気に飲み干す。

 おおざっぱと言うにも、限度がある。


「ここは、他に官吏はいないんですか」


 雑然とした古い厨房を見渡すが、紹輝の他に誰もいる様子はない。


「そうだね。別に人手のいる職場じゃないし」

「あの……ここって何をする局なんですか? 福祉ですか? それとも教育?」


 こんな風にのんびりお茶などしていてよいのだろうか。どこも忙しいと聞いているのに。


「そのうち分かるよ。日が暮れる頃には」


 奥歯にものが挟まったような物言いだ。

 どうやらこの男はどこか根が曲がってるらしい。よく見れば綺麗な顔をしているが、その辺りが彼の魅力を落としているように感じられる。


「そういえばさっき、ここに李影さんらしき方がいらっしゃっていました。まだお若い武官なのに、藤紫の帯をしていらしゃったので、多分そうじゃないかと」

「……へぇ。まあ、用事は大方察しがつくけど」


 驚くかと思ったが、紹輝は全く興味がないらしい。また勺で、茶葉のたくさん浮いた「湯」をすくう。


 もしかして李影はよく、ここへ来るのだろうか。


「お二人は仲良いんですか?」

「まさか。同期ってだけだよ。嫌な奴だし、炎龍も」


 紹輝はまな板の上に乗っていた本を開くと、徳利とっくりを手に取った。酒を飲むのかとヒヤリとしたが、なんてことは無い。


 彼が徳利を傾けてお猪口へ注いだのは、色鮮やかな金平糖であった。


「嫌な奴って……彼らが局長と違って仕事ができすぎるからですか」

「春、君さ結構ズゲズゲ言うよね」

「すいません」

「すいませんって顔してないけど……。まあいい。君があいつらにどういう幻想抱いているのか知らないけど、実際会えばクソみたいな奴らだって思うよ」


「そうでしょうか。実際彼らは若くして高地位につかれているわけですし。頭脳明晰、武術にも長け、人当たりも素晴らしいに違いありません」


 自分の言ったことがおかしかったのか、それとも読んでいる本が面白かったのか、紹輝はプッと吹き出した。


「なら、御上おかみのことはどう思う?」


 突然の問いに、一瞬虚を突かれた。


「御上……ですか。あの方のお噂はよく耳にしています。政もせず、賭博や酒に興じておられるとか。でもきっと、本当は悪い方ではないと思います。先代があのような人格者であられたのですから、そのご子息が悪い者のはずがありません」


 紹輝が鼻でフン笑う。

 顔を上げれば、どこか嘲笑を含んだ冷たい目で自分を見ていた。


「君は悪い意味で純粋だねぇ。よく人に騙されない?」


 確かに、疑り深いわけではない。

 けれど、ただの脳天気などと思われるのは心外であった。


 脇へ押しやった茶葉の浮かぶ茶碗を、そっと自分の前へ戻して掌で包む。

 冷めてはいたが、まだほんのりと温かい。

 まるで、人の肌の温もりのように。


「祖父はよく言っていました。誰にだって、良いところも悪いところもある。十割の悪人などこの世にいないのだから、たった一割でも、その人の良いところを見つけられる人間になりなさい。そしてどんな人に出会っても、その人を尊敬できる人間でありなさい、と」


 いつもはあっけらかんとしている爺爺が真摯に言った、とっても真っ直ぐな教え。

 幼い頃から聞かされていたせいか、いつも心の隅にその教えはある。


 ……このおちゃらけ上司相手にも、なんとかその教えを守れるようにしたいとは思うが。



 突然パタンと本を閉じ、立ち上がった紹輝を見上げる。


「そう。じゃあ会いに行ってみようか、御上に」

「え……そ、そんなこと……っ」


 できるはずがない。

 自分のような下級官吏が、十の従属国と四百万の官吏を従える秦周国王への謁見許可が得られるなど、万に一つもあり得ない。


「李影がワシの所へ来たのは、別にワシに会いにくるためじゃないってことを教えてあげるよ」


 こちらを見下ろす紹輝の、薄ら笑いに嫌な予感がする。



 だが小春は知る由もなかった。

 紹輝が自分に、荒んだ御上の心を変えてくれると期待していたことに。

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