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+第二十一話+ 涼牙の問い 

 ドサリ――


 府庫から出た李影は抱えていた地面に箱を落とした。散らばった本が泥に濡れても、李影はそれを冷たく見下ろすだけ。


 ほとんど消えかけていた焚き火の中へ枝を突っ込み、くすぶり始めた枝先についた小さな炎を見つめた。


――もうやめれば、李影……


 火を本へ近づけた手が、一瞬止まる。


 だがそれもほんの刹那のことで、本に移った炎がゆるりと表紙を焼いていく。あっという間に他の本にも燃え移り、灰色の煙を上げてメラメラと燃えていく。


 焼いているのは、歴史的に貴重な書であった。


 だが、林家系にとってよろしくないことの書かれてある書を、このまま放ってなどおけない。


『林一族を、絶対唯一として敬うべし。

 逆らうべからず。侮るべからず。

 命を賭して守るべし』


 それが、李家を含む、林家の流れを汲む傍系へ課された、千年と時を経て受け継がれてきた鉄の掟。

 何を馬鹿なと、他の者は笑うであろう。

 だが、林家傍系にとって、李影にとって、この掟は畏怖の対象そのものであった。


――李影よ。ぬしが雪姫を助けた英雄となれ


 世間の道理や正義など。国の法や規則など。

 あの方の一言が超越する。

 

 林家当主、三大公の一人である林太保の一言が。


「何も間違ってなどない……。絶対に」


 李影の目の奥に宿る哀しげな光は、しかし、決して揺るぎのないものであった。



「……あんなに笑ったのは、いつぶりだったか……」


 李影は、煙の上っていく青い空を、目を細めて見上げる。

 空気は未だ冷たく、頬を撫でる冷風に体がひどく冷やされた。


 だが、周囲は確実に温かな季節を迎える準備を整えつつある。

 それを羨ましく思う心があるのは、否定しようのない事実であった。




◆……◆……◆



「ぐぬぬ…………」


 朱閃は目の前に佇む、このいかにも『頭がいいです』と顔に書いてあるような男に早速苦手意識を抱いていた。


「どうされたのです、御上。それほど難しい問いではないかと」


 そう言った男の眉はキリリと上がり、澄んだ瞳は迷いや恐れなど一切ないように見えた。

 身長は平均より低いというのに、何なんだこの漂う万能感はと朱閃は身を縮める。


 炎龍を、天から才を授かった荒削りの秀才と言うなら、目の前の彼は、隙なく完璧に作り上げられた、精巧で緻密な秀才であるような印象を受けた。


呂涼牙――二十六歳。南西に位置する武汎ウハン地方一の秀才と聞き及んでいる。

 今日付で自分の書記官になったといって現れた。正しくは大師書記官との兼務のようだが。

 

 淡々とした口調で、表情はあまり動かない。

 涼牙は左に謎の薄汚い手帖を小脇に抱え、朱閃が広い執務室横に特別に作らせた書棚だらけの狭い学問部屋に、まるで己が主の如く毅然と佇む。


 彼も黄金世代の一人らしい。

 どうりで若いくせに出世が早い。


 第四席合格で四書五経を十歳で解したと聞いているが、最早何が凄いのかすらよく分からない。しかし、とてもつもなく凄いのだろうということだけは、朱閃も把握した。


 ただ、この何が起ころうと動じないであろう瞳の真っ直ぐさと不動ぶりには、ただひたすらに舌を巻いた。

 あらゆる事に対する知の豊富さと教養の深さが、彼に余裕を与えているのだろう。

 多くの官吏を見て、朱閃はそう感じた。


「呂涼牙と言ったか……? よ、余は国王だぞ? な、なぜそのような聴取をされなければならぬ……っ」


 圧倒的不利な空気の中、朱閃はちょっと涼牙を威嚇してみようと思いついて、少し遅れて机をドンと叩く。


 衝撃でコロリと硯から落ちた筆の墨が、自分の袖口についた。


「――……あ」


 また小春に叱られる、と慌てて手で擦るがシミは広がるだけ。しかも墨が手にまでついて最悪だった。


「そのままむやみに触らず、後で侍女に洗わせれば大丈夫でしょう」


 ジッと一部始終を涼牙に見られていたことと冷静すぎる助言に、朱閃は羞恥を覚えつつ、指についた墨を紙にこすりつけながら咳払いした。


「御上、私は質問にお答え願いたいだけのこと。あなたが壕女史のことを好いておられるのかどうか」


 一通り書記官の業務内容を説明したかと思えば、涼牙はこんなことを問うて来たのだ。


 小春が好きかと聞かれれば、好きに決まっている。

 むしろ大好きだ。

 接吻をたくさんしたいし、そんなことをしなくても、抱きしめたまま一日中愛でていたい。


 だが、虚け者と呼ばれ、チョイ悪系国王で通ってるつもりの自分としては、一人の少女への純粋な恋心を告白してしまうのは恥そのものであった。


 もし上手くいかなくて笑われてしまったらと思うと、色々と逃げ出したくなる。


「だ、だから…………、別にあのような女官吏のことなど、余は何とも思っておらぬ。暇だから構ってやっているだけだ。それだけだ」


 思ってもないことを口にするせいか、変な汗が額に滲む。

 官人と国王なのに、まるで立場が逆だ。


「しかし、私は御上と壕女史が仲むつまじく昼餉を食したり、御上が頻繁に壕女史のお部屋に通われているとお聞きしていますが」


 ドキンと朱閃の心臓が跳ねる。


 そんな場面を見られていたなど、想像もしていなかった。

 まさか、この間肉団子を無理言って食べさせてもらった所など、見られてはなかったろうかと冷や汗が垂れる。


「小……あの者は料理が上手い。だから弁当を作らせているだけのこと。他意は無い」


「しかし彼女は官吏。どうせならば、もっと腕の良い料理人を入れましょう。明日にでも――」


「よ、余計なことをするなっ、余はあの味が好みなのだ!」


「そうですか」


 涼牙は全て分かっている上で、自分の反応を伺うために言っているに違いない。


 だから頭の良い者は――黄金世代とかいう連中は嫌いなのだ。


 自分に限らず、馬鹿や凡人は彼らの掌の上で転がされる。


 そんな輩相手に、小春を好きと正直に言ってなるものかと、朱閃は拳を握る。


「最後に確認いたしますが、本当に壕女史のことは慕ってはおられないのですね?」


「な、ないと言っているだろう。しつこい……」

 

 世継ぎのために恋愛指導うんたらと涼牙は言っていたが、余計な世話以外の何物でもない。

 小春とのことは、自信はないが自分一人でなんとかする。


「ならば別に好いた女性でも?」


「い、今は女に興味はない。それより、政の方が大事だからな」


 朱閃は胸を張って開いた本を立てて見せるが、逆さだったと慌ててひっくり返す。


「しかし、いずれは興味の有無など関係なく、妃は必要となります。この際……壕女史を今すぐ正式に後宮入りさせてはどうでしょう」


「……」


 涼牙は、動揺を誘うようなことを敢えて言ったつもりなのだろう。


 だが、その件に関しては、朱閃はとっくに答えを出していた。


 朱閃は転がり落ちた小筆を、静かに元の位置に戻しながら口を開いた。


「それは……せぬ」


 初めて。本当に初めて涼牙が息を呑んだ音が聞こえた。


 十手二十手先を読む秀才の裏をかけた、と少しだけ優越感に浸る。


「小春は宰相になりたいと言っていた。民のためになることをしたいと。その邪魔を余はしたくないし、できるなら余も、小春と共に、小春の望む世を作っていきたい。政をまともに始めて、初めて知った。数万の民が飢餓に苦しみ、病に苦しみ、それでも懸命に作った作物や品を城へ献上してくれているのだと……」


 何気なく使っているものも、食べているものも、着ているものも今座っている椅子も、勝手に生えてなどこない。

 必ず、誰か民の手を伝って自分の元へやってきている。


「小春はいつも、弁当を作って来ては教えてくれた。この弁当に入った作物を作るために、どれほどの労力が必要か。どれほどの手間を掛けて余の元へと運ばれてくるのか」


 一つ一つ、丁寧に世のことを教えてくれる小春の一言一言は、どんな素晴らしい教本より、どんな優秀な師の言葉より染み入った。


 以前は自虐的で、俯いてばかりであった目を、朱閃は自信を持って真っ直ぐ上げる。


「ならば余たちも、民に何かを返さねばなるまい。貰うだけではただいたずらに民を苦しめていることにしかならぬ。受けた恩を政で返す。それが余の務めであり、支えてくれる者たちへ通すべき義だ。余は、そう思う」


 涼牙は、目を丸くしたまま口を薄く開いていた。驚き入るあまり、しばらく言葉が出てこないようであった。


 だが朱閃とて、自分が思慮深い王になったつもりはない。

 優秀などとも程遠い。


 しかし王としてのこの目を誰に向けるべきか、今ならはっきりと言える。


 自分にそれを分からせてくれた彼女にこそ、この国の宰相になって欲しい。

 黄金世代と呼ばれる彼らさえ差し置いて――


 そして自身も、彼女が全力で支えたいと思ってくれるような王でありたいし、炎龍や李影やこの涼牙以上の智と才を身につけたい。

 心から強く、そう思えるのだ。


 無表情だった涼牙の口元に、小さな笑みが浮かぶ。


「分かりました、御上……。あなたの壕女史への想いは、本物のようです。私も、全力で応援しましょう」


「……ああ、あ?」


 朱閃も彼の穏やか過ぎる微笑みに危うくつられそうになって、慌てて正気に返る。


「お、想……!? だだだから……小春とはそういうアレではないと言っているだろう、この分からず屋ッ! それでもそなた、国王書記官かっ」


 赤い顔で焦ったようにそんなことを言い放つ朱閃に、涼牙は微笑みを濃くするだけであった。



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