+第十六話+ 李影の二胡
「どうなんじゃ、最近の武虎の孫娘の様子は」
ズズ、と蘇大師が茶を啜りながら、時折パチリと独り碁を打つ。
片手には碁の指南本を広げ、やたらと真剣な表情で盤と本を見比べていた。
傍に控える青年書記官は、背はさほど高くはないが、いかにも頭のよさそうな面立ちをしていた。
彼は呂涼牙。
彼もまた黄金世代と呼ばれる五年前の入官者ではあるが、二十一の時にやっと科試を通った自分は、十六歳で一発首席合格した炎龍や李影とは違うと、涼牙は常々謙遜していた。
だが彼とて、たった二十六歳で大師書記官になれるほど、優秀な人物なのである。
「それが蘇大師……配属先の特務局には嫌気がさしているようですが、全く官吏を辞める様子はなく、それどころか炎龍……失礼、炎侍中にまで宰相になってやる、などとケンカを売る無謀っぷりであると」
「あの男に勝てる者などおらぬというのに、身のほど知らずな。さすがはあの男の孫娘じゃの。官吏とは古来より男子の仕事。オナゴはオナゴらしく、家に収まっておけばよい。それが世の常、道理というものじゃ」
忌々しげに碁を打ち、石が盤を叩く音が強くなる。
「ですが、最近は妙な噂も。御上が真面目になられたのは、壕春厳のお陰ではと」
しばらくシンとなった室に、高らかな蘇大師の笑い声と膝を叩く音がが響く。
「わっはっは! 馬鹿を申せ、涼牙。御上が真面目になられたのは、全て雪姫殿のお陰じゃ。あの孫娘がむしろ、姫と御上の間のお邪魔虫にしかなっておらぬ。さっさと二人を引き離せ」
「ですが昼餉は壕女史の手作り弁当、夜は添い寝。おまけに壕女史の膝枕にご満悦な御上のご様子が目撃されております。ついでに接吻を拒絶され、ふて腐れているお姿も」
蘇大師の手が面白いほど微動だにしなくなる。
大師はパタンと指南書を閉じ、ゆっくりと窓辺へ向かう。
彼が考え事をするときの、お決まりの挙動である。
涼牙には、自分の上司が次に何を言い出すか、すでにある程度の予想はついていた。
大師はグルリと振り返ってビシリと指さす。
「壕春厳を何としてでも後宮へぶち込むのじゃ! 手段は問わぬっ!」
思った通りの命に、涼牙は顔色一つ変えず「御意に」と即答した。
◆……◆……◆
「危なかったなぁ……」
小春は雪姫への差し入れの包みを持って癒養宮へ向かいながら、先日のことを思い出していた。
会ったことがないなどと曰う紹輝とあのまま会わせていれば、きっと雪姫を傷つけてしまっていただろう。
何とか言い訳をつけて引き返させることには成功したが、雪姫に紹輝と「会える」と断言した以上、このままというわけにはいかない。
「はあ。鏡局長……本当に忘れたわけじゃないんでしょ……?」
炎龍にまで狐男と言われる紹輝が何を考えているのかなど、小春には分かるはずもなかった。
運命の再会をさせるつもりが、なぜこのような予想外なことに。
嘆息する小春が癒養宮の傍までさしかかったその時。耳に、美しい弦の音が流れてきた。
「二胡……?」
癒養宮の中からではなく、どうやら傍にある小高い丘の上から舞い降りてきているらしい。
相当の上級者であろうことは、二胡の名手と名高い爺爺を持つ小春にはすぐに分かった。
爺爺と比べても全く遜色のない音色に、風すら遠慮がちに吹き抜けて行くような気がする。
眼をこらして見てみれば、冷たい風に紺青色の朝服の袖を揺らす、端正な武官の姿が見えた。
見知った顔。
ハッと息を呑むほどに美麗な光景であった。
「武官さんが二胡までお上手なんて、本当に黄金世代は万能ですね」
小春がその武官に近づいて話しかけると、ピタリと音色が止まる。
「李侍長、こちらで何を?」
無感情な黒い瞳がこちらを捉えることもなく、李影は腰掛けていた石から立ち上がった。
「貴様には関係ない」
「もう終わりですか。せっかくなら、もっと聞かせてください」
話しかけるが、李影はまるで聞こえていないかのように片付け始める。
相変わらず、冷淡な男だと小春は苦笑した。
だが、彼の二胡は――
「あなたの二胡は、まるでお薬のようですね」
その言葉に反応するように、李影の動きが止まった。
しかし、眼を閉じて先ほどの音色を思い出して浸っていた小春は、彼のそんな様子には気づかなかった。
「心が癒やされて、スッと体まで軽くなる気がします」
まるで体の悪いものを取り除いてくれそうなほど、あの音色には力と優しさと温もりがあった。
「本当に……そう思うか」
無視されることを前提に、独り言のように話していたことに返事が返ってきて、小春は内心目を丸くした。
真摯な表情を向ける彼の手には、武官の持ち物らしからぬ、繊細で美しい二胡があった。
幼少期、爺爺に弾き方を教わったことのあった小春は、少し懐かしくなってそれに眼を細める。
「貴様も弾けるのか……?」
高級であろう二胡を、何のためらいもなく差し出され、小春は思わず受け取ってしまった。
「いえあの。な、習うには習ったのですが、私には向いてなかったようで……」
「弾いてみろ」
「え……。……はい」
彼はもしかすれば、小春の爺爺が二胡の名手であることを知っているのかもしれない。
それでこんなにも強く弾くことをすすめるのだろう。
気乗りしないままに差し入れを脇へ置いて石に腰掛け、弦に弓を滑らせる。
――ヒィィィビーゴー……ガッ!
「……」
おおよそ同じ二胡から発せられる音とは思えぬ不協和音に、その場はシンと静まりかえった。
さきほどの言葉は決して謙遜ではなく、小春には本当に二胡が向いていなかったようなのである。
上手に弾けたら、どれだけ素敵だろう。
そう思って懸命に練習したが、どうにも上達しなかった。
爺爺はあんなに上手なのに。
周囲の者にはそう陰口をたたかれるし、自分でもそれは自覚していた。
「あの……すみません……私、爺爺と違ってど下手で」
しかし、李影は小春を貶すでも笑うでもなく、隣にそっと腰掛けると、彼女の手を取って音を奏でさせる。
「手はもっと輪を思い描くように」
「こ、こうですか……」
「いや、もっと力を抜いて」
意外だった。
彼はとても冷たい男で、非常に取っつきにくい印象を持っていた。なのにこうして自分に丁寧に二胡を教えてくれる。
心なしか、徐々に音が良くなっていった気がした。
顔を少しでも横に向ければ、端然として座す秀麗な武人の顔がある。
高級人の嗜みである匂い袋も持たず、ただひたすらに清潔感のある香りだけが鼻腔をくすぐった。
緊張して腕に力がこもり、正直ものすごくだるい。
だが、あれほど憧れた黄金世代の李影に二胡を教えてもらえる機会など、もう二度と無いだろう。
そう思って、無意識に鼻息が荒くなるほど真剣に取り組む。
しかし、なぜ彼はこんな寒空の下で二胡など……。
ふとすぐそばにある癒養宮が眼に入った。
「もしかして李侍長……雪姫のために二胡を?」
小春に添えられていた、李影の手がスッと引き下げられる。
彼は立ち上がると、清流を思わせるような清らかな瞳で癒養宮を見つめた。
「こちらは風下だ。風に流されて、音など届いていないだろう」
李影の横顔がやけに哀しそうで、だがきっとそれは、二胡の音が聞こえていないだろうからというわけではなく、病弱な彼女の身を案じてのことであろうと思った。
李影も雪姫を強く想っているのだ。
李影は癒養宮は男子禁制だからと、決まり事に驚くほど厳格で、黄金世代の双璧と呼ばれるほど優秀な武官でありながら、思いを寄せる女性に対してはとても不器用な男に見えた。
「あんなにも素敵な二胡の音ですもの。届いてますよ、きっと……」
小春がそう言うと、わずかに瞠目した李影の頬がほんのりと赤く染まった。
心なしか嬉しそうにも見える。
「貴様がいると気が散る」
余計なことまで話しすぎた。
彼はそう思ったのだろう。
すぐに元の無表情に戻って、二胡を箱へ戻す。
「また教えてください」
立ち去る背中にそう声をかけてみる。
「今日より、少しでもマシになっていたらな」
そう言って腰に剣を差し、藤色の帯を靡かせて颯爽と立ち去っていった。
その後ろ姿にしばらく見とれる。
格好良い――
あんなにも美麗な男に好かれる雪姫が、小春はとても羨ましかった。
「本当におモテになるのね、雪姫。なのに選んだ相手があんな厄介な人なんて……」
そういえば李影は雪姫が襲撃された時、その護衛隊を率いていた長であった。
彼はあの事件のこと、そして体を張って雪姫を守った紹輝のことをどう思っているのだろう。
「小春!」
突然名前を呼ばれ、小春は驚きのあまり、手に持った雪姫への差し入れを危うく落っことしそうになった。
「な、なんでどこにいても嗅ぎつけてくるのよ……」
朱閃は小春に抱きつくと、彼女の手の中に大事そうに持たれた包みをまじまじと眺める。
「余へだな?」
包みへ手を伸ばす朱閃の手の甲を、小春は軽くパチンと叩く。
「違うわ。何でも自分のものだって思わないの」
「……なら、誰のものだ」と朱閃はわざとらしく叩かれた手の甲をさする。
「雪姫にあげるの。病弱なあの方のために色々考えて、体にとってもいいものにしたんだから。私の中の最高傑作っ」
小春はとびきりの笑顔で包みを天へ掲げて下ろすと、朱閃の「非常に面白くない」と書かれた顔があった。
「どうしたの?」
また今度は何に拗ねているというのか。
朱閃はつまらなさそうに、ギュッと小春に抱きつく。
「朝から体がだるい。そういえば頭が重いし、熱もあるような気がする。……そなたに叩かれた手も痛むし」
嘘ばっかり。
それにゴホゴホととってつけたような咳をする。
心配して欲しいのか、それとも何か差し入れが欲しいのか。
後者に違いない、と小春は思った。
「分かった。何が食べたいの?」
優しく問いかければ、朱閃はすぐに上機嫌になって笑みを浮かべる。
「そなたの作ったものなら、なんでも好きだ」
手の掛かる王様だこと。
そう嘆息しながらも、甲斐甲斐しく世話をしてしまう自分の性分がうらめしかった。
しかしこれはすべて彼に政をしてもらうため。
つまりは世のため人のため。
小春はあくまでそう思っていた。