+第十四話+ 襲撃の記憶
「四年前、十五の時でした。当時紹輝様は十二衛府の一級兵をなさっておいででした」
雪姫が、降り出した粉雪と同調するかのように、緩やかに話し始める。
紹輝は、入官時は武官であった。
この時代、文官と武官の境界は明確ではなかったのである。
文科試と武科試の点数の取り具合や面接によって、どちらにも配属され得るし、その後の人事異動で文官から武官、また逆になることもあり得た。
「わたくしは私用のために一時帰郷しておりました。その護衛を担当してくださっていた隊にあの方もいらっしゃったのです。とはいえ、わたくしにとっては大勢の士官の中の一人で、あの方もただご自身の仕事をなさっていただけ。名前も存じ上げぬどころか、言葉を交わしたこともございませんでした」
馬車の小窓から覗けば、大勢の武装した武官がいたことを雪姫は思い出す。
景色がよく見えないわ、とガッカリしたこと。
そして、整然と歩く武官らの中に、一人気だるそうに歩く茶色い髪の男に、なぜかおかしみを覚えたことも。
「ですが故郷を出て、再びこの宮へと馬車を走らせ、山を越え、途中休憩のために車を降りた時……何者かに襲われたのです」
不意うちの、まさに一瞬のことだった。
まるで鎌鼬のように鋭い空気が襲来したかと思った瞬間、同時に本能が命の危機を感じて戦慄が走った。
「兇漢の姿は見えませんでした。本当にとっさのことで」
もう、だめだと思った。
ここで自分の命はついえるのだと。
「気づけば私の目の前には誰かが佇んでおられました。何が起こったのか。なぜわたくしは無傷なのか。……その方が地面に両膝をついた時に初めて気づいたのです。その方の胸には深々と矢が刺さり、それは私を庇ってのことだと……」
それがさきほどまで気だるそうに歩いていた、茶髪の武官であったことにもすぐに分かった。
ひどい出血をし、全身震えていた。
自分を抱くように抱える、雪姫の指先が腕に食い込む。
窓を見つめたままの彼女の、背中に垂れる長く美しい髪も震えていた。
小春は思った。彼女は思い出しているのだろう。
命を狙われた、あの時の恐怖を。
それでも雪姫は顔を上げ、声の震えを押し殺すように話を続けた。
「長旅でしたから、大勢の武官たちも休息できると気を抜いてしまっていたのでしょう。紹輝様だけがとっさに異変に気づき、わたくしを庇いながら兇漢に反撃されたのです。ですが矢には毒も塗られていたらしく、一時は意識を失われて……。奇跡的に意識は取り戻されましたが、後遺症として視力を……っ」
声を詰まらせ、頬をぬぐうようなその仕草に、後ろ姿ながら彼女が涙を流したのだと分かった。
手巾でも差しだすべきだろうに、衝撃で体が動かなかった。
「そんな状態でもあの方は、私の身を案じて声をかけてくださった。『大丈夫でしたか』と『お怪我はありませんでしたか』と。わたくしが傷ひとつ負っておりませんと申し上げると、あの方は『ならばよかった』と微笑んでくださった。本当はとても苦しく、痛かったでしょうに……どうしてそこまで他人を思いやれるのかと思いました」
一つ大きく呼吸すると、雪姫は空を見上げた。
「あの方はきっと、わたくしでなくとも身を挺して助けられたでしょう。大丈夫かと優しくお尋ねになられるでしょう。それでも…………わたくしはあの方を想うと、愚かしいほどに胸を躍らせてしまうのです」
こちらを振り返った彼女の、湿った睫毛と濡れた瞳。
紹輝は正当六代家出身と言えど窓際官吏で、雪姫は王家と姻戚関係のある一族の令嬢。
炎龍や李影ほどの名声を得ていれば別であろうが、普通は別の王一族と結婚する。
彼女ほどの身分の女性ならなおさら、本人の意志など尊重されるはずもない。
会いたくとも会えない寂しさと、結ばれない運命への哀愁が滲む。
それでも強がるように笑顔で肩を竦める雪姫を、小春は応援したくなってしまった。
(あーでも、ダメダメダメ! 私は雪姫と朱閃をくっつけなきゃいけないのに……。いい話すぎる。あぁ、でも…………どうしようっ)
身を挺して守るなど、自分にくっついて『かまってくれない』などと拗ねるような男にはできぬ芸当。
(これはとんだ伏兵だったわ……局長……)
今後の事を考えながら小春は頭を抱え、ハッと重要な事に気づいた。
「あの……あなたを救われたのは、李侍長じゃ」
そのはずだった。
報紙でも書籍でも、そのように書かれてあったはずだ。
英雄は李影だと――
雪姫は困ったように、苦笑いする。
「そういうことになっているのです。あの時の小隊を率いていたのは李影様。その方を差し置いて下級兵の紹輝様がわたくしを救ったなど、聞こえが悪いからと林太保直々のお達しで。あの場にいた者以外、麗蘭や紅玉、御上でさえ真実を存じません」
林太保といえば、確か武官出身の高級官吏。しかも相当の狸親父らしく、数々の醜聞の絶えない人物だ。
確かに彼なら、他人の手柄を自らのものにすることも厭わないであろう。
李家は林家系にあたるゆえに、林太保は紹輝から李影へと話をすり替えたに違いない。
おかげで李影はますます順調に昇級し、紹輝は視力を失い、軍から追い出され、肥溜めとも言われる窓際局に籍を置くハメとなった。
まあ、紹輝があそこへ追いやられたのは自業自得の部分もあるのだろうが、と小春は思う。
「でもそれ、私に話しちゃっても大丈夫なんですか」
「どうしてか春姫……あなたなら、信じられそうな気がしますから」
そんなにも信じ切ったような純真無垢な瞳を向けられれば、誰であろうと裏切ることなどできるはずもない。
雪姫はもう一度窓の外を見やった。
「できるなら……、もう一度お会いしたいものです。もう一目だけでも……っ。あのとき言えなかった、ありがとうだけでも伝えられたら」
彼女の見やるそちらは、特務局のある方向。
いつもそうやって窓から外を眺めているのだろうか。
見えもしない彼の姿を思って――
雪姫の言葉に胸が締め付けられる。
だから、小春は言ってしまった。
「会えますよ、雪姫! あなたが特務局へ何か依頼さえしてくだされば……。掃除でも、何でも結構ですから。ですから……!」
雪姫の大きな目が、一層の輝きを湛えて見開かれる。
朱閃と雪姫との間を応援すると言った約束と、相反することは分かっていた。
それでも、彼女の恋心をこのまま放っておくことなど、小春には到底できはしなかった。
(ごめんね、朱閃っ!)
今日持って行く桃饅頭は、愛情も数も割り増しにするから! 思いっきり甘えてくれていいから! と心の中で朱閃に深く謝罪した。