+第十三話+ 雪姫
門から一歩足を踏み入れた先に広がる光景に、小春は息を呑んだ。
小春も一応正当六大家ということもあり、田舎住まいでもそこそこの邸宅に住んでいた。
それでもこの宮は造りが全く、別次元に格上であった。
「こちらは御上が病弱な雪姫のために建てて下さった宮、癒養宮です。人払いをしてくださるおかげで、静かに休むことができ、雪姫も本当に感謝しておいでですわ」
麗蘭がそう言った。
やけにゴテゴテしい神獣の屋根飾りは朱閃の趣味であろうが、全体的にはとても落ち着いていて、冷正殿を背にすればこれ以上高い建物など無い。
空は広く、空気も心なしか美味しい気がした。
(雪姫のためだけに、こんなもの建てちゃうなんて……。心底あの方に本気なのね)
ひたすらに感心しながら、まるでおのぼりさんのごとく首を忙しなく左右へ動かしていた。
「ですが雪姫も、私たち女官くらいしかお話相手がいなくて寂しくございましょう。春姫がいらしたこと、きっとお喜びになられます」
スラリ長身の、麗蘭の高い位置からの瀟洒な微笑みに、小春は憧れを含みながら顔を上げて微笑み返す。
「そういえば麗蘭さん、さっき李侍長を雪姫を救った英雄だっておっしゃってらっしゃいましたけど、あれって四年ほど前に雪姫のお命を狙った矢から、身を挺して守ったっていうお話のことですか?」
一時、国中で大きな話題となった。
王家と姻戚関係にある彼女が、何者かに襲われたと。
だがそれを当時彼女の護衛を担当していた李影が救ったことで、彼を英雄視する者も多い。
関連書物は勿論、彼のような武官になりたいとの志を持つ若者もどっと増えた。
「……ええ。あの時私はご同行しておりませんでしたが、まことに恐ろしいことです。勇敢な李影様がいらして本当に良かった」
麗蘭は胸に手を当てて柳眉をひそめる。
あの時の犯人は、まだ捕まっていないと聞いた。
一体誰がそんなことを企んだのだろう。
確かに恐ろしいことだと小春は思った。
「雪姫、失礼致します」
麗蘭が洗練された手つきで、寝室の戸を開ける。
「っ、小春……っ」
いち早く自分の名を呼んだのは、どこか焦ったような顔をした朱閃だった。
寝台で休む雪姫の傍で椅子に掛けていたらしい彼は、汗まみれの顔でガタリと立ち上がると小春に懸命に弁解する。
「ち、違う! これは決してそういうことではなく、ただ週に一度はここへ様子を見に来ているだけで……ゆ、友人として見舞っているだけだから、本当に何も」
「うん、それはいいけど、李侍長がずいぶん探し回ってらっしゃったわ。どこかへ行くときくらい、行き先を言ってあげて」
朱閃は「善処する……」と言いながらも、どこか肩を落としているように見えた。
「お顔を合わせますのは、三度目ですね。春姫」
「そのままでいいですよ、雪姫っ」
起き上がろうとする雪姫に、小春は慌ててそう言った。
だが雪姫はふんわりと笑うと、
「起き上がりたいのです。今日はなんだか体調が良いので。さ、どうぞこちらへ。麗蘭、お茶のご用意をしてくれる?」
「はい、ただ今」
「さ、お二人とも早くこちらへ」
雪姫は隣の部屋へ小春を案内すると、高級そうな箪笥からつぎつぎと楽しそうに簪やら鏡やらを取り出し、珍しいものもたくさん見せてくれる。
雪姫は顔色もよく、やけに楽しそうで、本当に自分が来たことを喜んでくれているらしいと思った。
雪姫の侍女たちは彼女より年が上だし、そもそも『友人』という対等な関係ではない。
同じ年で同じ目線で語り合える小春のような存在は、おそらくほとんどいなかったのだろう。
と同時に根っからのお嬢様ってこういう感じなんだ、と小春は新鮮に思う。
小春は自分の家に友人が来ることはあまりなく、外で一緒に虫取りやら木登りやら鬼ごっこをしたことしかなかったのである。
こうして小さな卓の上でたくさんの女の子らしい小物を広げ、見せ合いながらはしゃぐのも、結構楽しいものである。
官吏に洒落たものは不要と、実家に色々と飾り物を置いてきたが、爺爺に送ってもらって、雪姫と交換したり鏡の前でオシャレしあったりするのもいいかもしれない。
「ほんと、どれも綺麗です………………ってもう、重いッ!」
椅子に腰掛ける小春の後ろから、彼女の腹に手を回し、肩に顎を置いて抱きつく朱閃に、小春はこめかみに青筋を立てて振り返った。
椅子に座るよう麗蘭に何度促されても、朱閃はその状態から動こうとしなかった。
小春もしばらく放ったらかしにしていたが、いい加減、肩にかかる体重が辛い。
「何? 何をすねてるの、あなたは」
「……なぜちっともこちらを向いてくれぬ」
朱閃は捨てられた子犬のようにシュンとして、上目遣いで小春を見つめる。
「なぜって、それはそうでしょ。あなたの方を向いて欲しかったら、あなたの方からもっと積極的に雪姫に話しかけなきゃ」
小声で助言してみるも、
「だ、だから……そうではなく」
「じゃあ何」
語気を強めると、朱閃はムッとしたように口をつぐんだ。
じゃあ離れてくれと思うが、その気はないらしい。
おまけに小春の髪に鼻をつけて匂いを嗅いできたりするものだから、小春はくすぐったくてしかたない。
雪姫がクスリと花が綻ぶように笑う。
「わたくしはお邪魔でしょうか、御上?」
「い、いえいえ違うんです雪姫! これは何というか……そう! 御上ったら雪姫がお綺麗すぎて照れてるんです。ね?」
「違う」
「朱閃っ……!」
自分が来るまで、普通に雪姫と会話していたのではないのか。
自分がここへ来たのは間違いで、二人きりの方が話せるのだろうか。
色々と訳が分からなかった。
「御上と春姫は、本当に仲がよろしいのですね。とても羨ましい」
雪姫の口調は明るかったが、その表情はどこか哀しげであった。
まさか朱閃に脈あり……? と一瞬思ったが、考え直す。
そういえば、彼女は自分の上司に好意を抱いている……らしいのだ。
まさかそんな可憐で物憂げな瞳で思い浮かべているのは、今頃局で必死に眼鏡を磨いているあんな男のせいだというのか。
真相が知りたい。
だが、それには後ろのイジけ虫が邪魔だ。
まさか雪姫を好いている男の前で、彼女の想い人の事を聞くことはできまい。
それにどうせここにいても、このままずっと自分にくっついていじけているだけだろう。
「ねぇ朱閃、はやく李侍長のところへ行ってあげて。寒い中、あなたを宮の入り口でずっと待ってらっしゃるんだから」
朱閃は無言で腕の力を強める。
つまりは「ここにいたい」と、行くことを拒絶しているということ。
だが、対処法も心得ている。
「あとで何か作って、お部屋に持って行ってあげるから」
一瞬にやけたかと思ったが、すぐに元の表情で窺うように小春を見やる。
「そなたが……持って参るのか」
「え? ええ」
そう答えると、今度こそ、面白いほどにパッと朱閃の表情が華やいだ。
「なら……仕方あるまい。やれやれ、今日も政を頑張らねば!」
(食べ物につられるなんて、単純な人……)
俄然張り切りながらも、絶対来るのだぞと何度も念を押しながら出ていった朱閃に、小春はハアとため息をついた。
今日一番疲れた気がする。
まるで野良猫にでも懐かれた気分である。
朱閃を見送るために麗蘭も室を離れ、小春は雪姫と二人きりになった。
しみじみと彼女を見つめる。
大きくぱっちりとした瞳に透き通るような肌、それに髪は黒々と美しく、赤みのある唇には色気も滲む。
雪姫は微笑みながら手鏡を両手で持つと、小春が映るように左右傾けてみせる。仕草までいちいち可愛い。
ある意味犯罪だと思った。
これでは朱閃でも炎龍でも、世の男らはひとたまりもあるまい。
「春姫、わたくしに何かお話があるのですね?」
雰囲気は柔らかいが、とても聡い女性であるらしいと悟った。
「いえ、あの……雪姫には好きな方がいらっしゃるのかなぁって思ったりして。所謂、女子話がしたくて、ほほほ」
雪姫は少し笑顔を曇らせると、カタリと手鏡を置いた。
「わたくし、実はあなたに少し嫉妬しています」
「え? わ、私に……?」
なぜ自分なんかに。
家柄的にも容姿的にも頭脳的にも、彼女は自分を遥かに上回っている。
「わたくしが思いを寄せている方について、うっかり口を滑らせてしまったと麗蘭から聞きました」
「……。ええ」
つまり、彼女が紹輝を好いているというのは全くもって事実。
なぜこんなにも可憐な少女が、あんなぐうたら男を恋慕うのか。
「あの……ちなみに、鏡局長のどういったところがお気に召されたのか伺っても?」
雪姫は立ち上がると、ゆっくりと窓の傍へと歩いて行った。
外は少し曇り始めていて、少し薄暗い。
「紹輝様は、とても目がお悪いでしょう?」
「ええ、あれがないと困るって今もたくさんの予備眼鏡を磨きまくってるくらいです」
というより、集めることに喜びを覚えているようにも見えるが。
しかし、初対面では眼鏡がないからと這って帰ってきたくらいであるし、それだけ目が悪ければかなり不便だろう。
「あの方の視力は……わたくしが奪ったのです」
驚く小春の視線の先には、哀しげに睫毛を伏せる雪姫の横顔があった。