+第十話+ 朱閃の申し出
「私は別に、炎侍中のことなんて……。豆豆も鏡局長も勝手なこと言い過ぎだわ」
炎龍は確かにドキドキするほどかっこいい。それに科試首席の頭脳を持つ万能男。
だが、少し言い寄られたからと言って、本気になるほど浅はかではないつもりだ。
重い重箱を抱えたまま、小春は大息した。
厄介なことが、一つ一つ増えていっている気がする。
冷正殿の最奥、国王が政をする金龍の間があった。
いつもは複数の高級官吏らが王を手伝い、また解説をしているらしいが、小春が弁当を持ってくる昼時になると、なぜか官吏の姿が綺麗に消える。
だから小春がこの室で見るのは、いつも一人淡々と執務をする朱閃の姿だけであった。
その方が余計な噂が立たなくて都合がいいと、朱閃が人払いしてくれているのだろうか。
彼にしては気が利く。
「……朱閃?」
小春が声をかけると、朱閃はどんなに小さな声でも反応して顔を上げる。
先ほどまで険しい仕事用の顔をしていた朱閃が、ぱぁっと表情を明るくした。
「小春! 早く近へ!」
朱閃は大量の資料を横へ押しやり、小春を自分の隣へ呼ぶ。
そんなに焦らなくても、お弁当は逃げないのに。
そう小春は苦笑した。
「お邪魔します」
本来ならば、金龍の間の戸口で跪礼をしなければならないのだが、どういうわけか朱閃が非常に嫌がった。
とはいえズカズカと、仮にも王の執務室へ入り込むような図太さは小春にはない。
お邪魔しますと一言声を出すことを、一応自分の中での礼儀としていた。
風呂敷を解こうとする小春を、朱閃は愛おしい者を見るような目で見つめてくる。
自分が来るのを、いや弁当を余程楽しみにしているらしい。
彼の好きだと言う物を中心に、栄養の偏らないようほどよく調整したものにしてあるからだろう。
それもあってか、朱閃は食が細かったらしいが、小春の弁当はいつも全部平らげてくれる。
お陰で血色もよいし、規則正しく生活しているせいで、以前よりずっと健康的に見えた。
机の上に広げられる彩り豊かな重箱の中身を、朱閃はいつもほくほく顔で眺める。
「小春、余はこれが食べたい」
朱閃は箸も持たず、希望だけ言って口を開けて待つ。
どうやら食べさせろと言っているらしい。
ひな鳥でもあるまいし。
「朱閃……誰も見てないんだから、別に恋人ぶる必要ないでしょう。はい、お箸」
無理矢理箸を彼の手にねじ込むと、朱閃は明らかにつまらなさそうな顔をした。
拗ねているのか、箸を持ったままなかなか食べ始めない朱閃を放って、小春は自分の力作に手をつける。
「小春……少し考えてみたんだが……」
「ん?」
言いにくいことなのか、朱閃はたっぷり間を置いて言った。
「余の後宮に入らないか」
「……んっ!?」
小春は危うく、食べていたものを喉につっかえそうになった。
胸を叩き、慌ててお茶で流し込んで、朱閃を見やる。
「な、何ですって!? こ……後宮!?」
言われた小春より、言い出した朱閃の方がみるみるうちに顔を赤く染めていく。
後宮入りする。
それは実質、この関係を公のものとし、恋人のフリなどではなく、実を伴わせたいということ。
だがせっかく大勢が、朱閃の恋人を彼の本命である雪姫だと勘違いしてくれているのに、どうしてそこで無用なことをする必要がある。
何よりそんなことまですれば、本当に雪姫を嫉妬させる以上の関係になってしまうではないか。
小春には、自分を後宮に入れる利点が全く見当たらなかった。
まさか自分を夜伽の相手にしたいとでも……?
そういえば最近、また一段と抱きしめられたり、膝枕を要求される回数が増えている気がする。
全て華麗に断っているが、それが彼の中の欲求不満を増大させているのかもしれない。
朱閃を見やると、彼は照れたように俯きながら、箸をぐりぐりと回していた。
「だからその……常に余の目の届くところにいてほしいと言うか……会えるところにいて欲しいというか……。別に妙な意味ではなくほら……そなたがいると、こうして旨いものが食せるしな」
最後の一言が余計だったらしい。
小春は「なんだ」と納得したように嘆息した。
「呆れた。いつからそんな食い意地が張るようになったのかしら」
「悪いようにはせん」
どうやら彼なりに真剣らしいと悟った小春は、箸を置く。
無駄口さえ叩かなければ、見とれんばかりに美麗な彼をまっすぐ見つめた。
「ごめんなさい。その申し出は受け入れられないわ」
ピクリと朱閃の眉が動く。
彼が口を開くより前に、小春が言葉を紡いだ。
「朱閃、私ね……女宰相になるのが夢なの」
「よし、では洪をクビにして明日からそなたを宰相に」
「そうじゃなくって……っ!」
笑顔でとんでもないことを言い出す朱閃を、慌てて制する。
「この国はもっと、女性の力を借りるべきだと思うの。勉強なんてできないと決めつけて、家に閉じ込めるだけの一生を送らせるんじゃなく、一緒に国をよくするための対等な相手として見て欲しい。自分の力で宰相になって、女にだって男たちに引けをとらないんだってこと、私が証明したい」
ここへ来て、初めて口にした官吏になった理由。
少し照れくさかったが、朱閃は意外なほど真剣に耳を傾けてくれていた。
いつもそんな顔をしていれば、雪姫の見方も変わるであろうに。
「ま、まあ……そのためには、もしかしたら色々諦めないといけないこともあるかもなって思うけど。恋愛とか結婚とか。でもそれはそれで仕方ないかなって思ったりもするの。爺爺はガッカリしちゃうだろうけど」
「宰相になりたいから、だから余の後宮に入らないと申すのか?」
頬に触ってくる朱閃の手を「やめなさい」と振り払う。
「私なんかより、雪姫とはどうなの? 私たちのこと、嫉妬なさる兆しでもあるの?」
「ま……、まあまあだ」
「そ。効果があるなら良かった。お弁当食べながら、次の作戦考えましょっ」
自分と雪姫の間を取り持つことに喜びを覚えているらしい小春に、朱閃は複雑きわまりない心境であった。