+第九話+ 戸惑う心
「はあ……」
落花生を炒める香ばしい匂いに包まれた特務局で、小春は菜箸を持った手を止め、肺の奥底から息を吐き出した。
元厨房だった特務局は、磨き上げれば立派に厨房としての機能を取り戻したが、一層執務室らしさは失われていた。
だがそれを誰も気にすることはない。
特務局の主たる紹輝も、次々テーブルに並べられていく、湯気の立つ美味そうな料理に手を伸ばした。
「どうしたの、春。ため息なんてついてると、幸せが逃げるよ」
「作ったそばからつまみ食いをやめてください、鏡局長」
「毒味だよ、毒味。これって御上に持ってくやつだろう? 何かあったら大変じゃないか。ああウマっ」
口に肉まんの欠片をつけながらドヤ顔をする紹輝の横で、小春の幼なじみの豆豆も「そうそう」と深く頷く。
「あんたもなんでここにるのよ、豆豆っ!」
「良い匂いがしたから」
豆豆は肉に埋もれた小さな瞳をキラリと輝かせ、両手の肉まんを嬉しそうに頬張る。
「ここから冷正殿まで、どんだけ離れてると思ってるのよ。あんたの嗅覚は犬並ね」
「ほっとけ。んなことより、まさか最近御上にできた女が、雪姫じゃなく小春だったとはな」
予想外すぎる、と豆豆はほとんどない首を緩やかに振る。
「だ、だから違うって言ってるでしょ。私はあくまで、二人の恋を成就させるための月下老人なの」
危うく焦がしそうになった炒め物を、すばやく皿にあける。
紹輝ら二人の目が、面白いほど綺麗に次なる獲物へ向いた。
国王に恋人ができたらしい――
その噂は驚くほどすばやく宮廷を駆け巡った。
ただその相手を、ほとんどの官吏は雪姫だと勘違いしているらしく、政を始めたのも雪姫あってのこと、やはりあの方は素晴らしいと賛辞の声があちこちで聞かれた。
自分を朱閃と雪姫を繋げる仲介役と認識している小春としては、そうやって勘違いしてくれている方がありがたいし、噂から真実になってくれればとの期待もあった。
一から十を知っているのは、「ホウレンソウ」を実践すべき上司、紹輝と、相談役たる豆豆くらいで十分だ。
「でもさぁ……こうやって毎日毎日御上に昼餉を運んでく君のことが、全く注目されていないなんてね」と紹輝。
おそらく王の側近らの目は節穴だと嘲っているのだろう。
「でも良かったです。私が特務局員っていうのが幸いして、あの辺りをうろついていても、どこかの院や局に、雑用を押しつけられてしているようにしか見えていないようですし」
まさに不幸中の幸いというべきか。
王の恋人として宮廷中の視線を引き寄せる自分など、想像もできないし、したくもない。
「けど御上の本心はどうなんだろうね。もしかしてさ、御上は君に会いたくて、わざと昼餉を食されないんじゃないの?」
紹輝のニヤケ顔を尻目に、小春は二人に全てつまみ食いされないうちに、重箱へさっさと詰めていく。
「そんなわけありませんよ。朱せ……御上の御心にあるのは雪姫だけ。そういうくだらないこと考えているなら、どこかからか仕事をもらってきてくださいよ、局長」
ここ数日、まともな仕事を一切していない。
そのおかげで朱閃の様子を見に行けるのは結構だが、やはり官吏らしいこともしたいのが本音である。
「けどよ小春、お前最近、炎龍君ともよく一緒にいねぇか?」
豆豆の言い出したことに、小春は菜箸から料理を取り落としかけた。
豆豆はこう見えて、炎家系の中でも勢力の強い煉一族の長子。
炎龍とも炎家系関係の食事で何度か顔を合わせ、どうやら「君」づけ呼ばわりまでしているらしいが、まさかその繋がりから何か聞いているのではとヒヤリとする。
「そ、そそうかしら? たまたまじゃない?」
「昨日もどっか出かけてただろ。二人で」
小春は炎龍に付き合ってくれと言われて以来、時々強引に食事に誘われていた。
「強引」とはいえ正直、炎龍は女性の扱いは慣れているし、表面だけかも知れないが驚くほど優しいし、頭が良いせいか話も抜群に面白い。
オマケにあの妖怪のように整った顔――
仮にも朱閃の恋人役という義理さえなければ、あっさり陥落させられていたかもしれない。
実のところ、今や彼が会いに来てくれるのが少し楽しみだったりするのだ。
女誑しの危険な男とは聞いたが、意外にも彼は、朱閃のように接吻を迫ったり、肩やら腰やらベタベタ触れてきたりすることもない。
思わず彼は、本当に自分と誠実で真面目な付き合いをしたいと思っているのでは、と錯覚させられそうになるほど。
いや、だからといって本気で恋に落ちたわけではないけれど、と小春は思っているが。
「た、確かに食事に行きはしたけど」
「二股かよ、小春」
「違うったら! 向こうが勝手にっ」
本気で軽蔑したような目をする豆豆に弁解するも、掌から妙な汗がにじみ出てくるのはどうしようもない。
口ごもる小春に、豆豆の疑いの眼差しが一層強くなった気がした。
(だって……官吏を目指す間ずっと憧れてて、なおかつあんなに優秀で格好いい人に、嘘でも『付き合ってくれ』って言われたら、好きとか関係なしに、ときめいちゃうんだからしょうがないでしょっ。それに朱閃とはあくまで恋人『役』だし)
紹輝は頬を赤らめる小春に、どうしたものかとポリポリと指で頬を掻いた。
「まあ、春の気持ちは分からなくもない。アイツに対して、君みたいな顔をする子は大勢見てきたし。確かに炎龍は面構えがいいし有能だけど、唯一そこの手癖の悪さがねぇ。ワシ的に、いつか女に刺されて死ぬに五百元賭ける」
「っていうかそもそも、お前は絶対炎龍君の好みじゃない。遊び決定だな」
「う、煩いわね! そんなこと、私が一番よく分かってるわよ!」
重箱を素早く風呂敷に包むと、小春はそれを抱いて逃げるようにその場を後にした。
決して炎龍を好きになってしまった訳ではない(と思う)が、余裕に満ちた彼の掌の上で転がされているという自覚はある。
これ以上その事実を指摘されるのが、小春は心苦しかった。