カブトムシ
血が青かった。
僕はただ暑くて寝苦しい夜に水を飲みに起きた。
そうしてグラスを割って手を切ってしまったんだ。
ただ、それだけだったはずなのに。
茫然とする僕の指からポタリとまた青い液体がしたたった。
これは夢だろうか。
夢に決まっている。
当たり前だ。
これが夢ではなかったら僕の血が青くなってしまった意味がわからない。
落ち着いて目が覚めるのを待てばいい。
だってただの夢なのだから。
「ねえ、血でてるよ。」
後ろからふいに聞こえた静かな声は僕の全身を硬直させた。
一気にあがった心拍数と冷たくなった背筋。
「そんなに驚かなくても。」
振り向いたら黒い髪が揺れた。
真っ黒なセーラー服の少女がいた。
くすくすと笑いながら窓に腰かけている彼女が手を振った。
なんてたちの悪い夢なんだろう、血が青くてセーラー服の少女がいて。
誰かが言ってたけど、もし夢が僕の願望を表しているなら自分の趣味にがっかりだ。
で、この少女は誰だったか。
夢に出てきているということは僕の記憶にこの少女は潜んでいるはずだ。
「でさ、手。血が出てるよ。ニンゲンって手当するでしょ?」
おかしそうに目を細めて足をぶらぶらさせる彼女が、青い血が流れ落ちて汚れた床を指を差した。
僕はその指先から自分の手に視線を落とす。
血は乾いてきてコバルトブルーからネイビーに変わりかけている。
「だって、夢だろう?」
そう。
夢ならば血なんて放っておけばいい。
いつか醒めるのだから。
乱暴に袖で手を汚す青を拭うとピリッと小さく痛みが走った。
「あーあ、そんなに擦ったら痛いってやつっしょ?ニンゲンなら。」
彼女は面白そうに青い血を眺めていた。
なんだか少しムッとした。
「なんだよ、その言い方。痛いかなんて……」
あれ。
ちょっと待てよ。
痛い?
「夢……だよな?」
嫌な思考が意識に忍び込みそうになるのをバサリと視界に広がった真っ黒な長い髪が遮った。
窓から差し込む月の光が遮られて一瞬、黒が僕を覆った。
彼女は軽い身のこなしで窓から床に着地した。
「ああ、いいね。頭が働くっていうのは。」
彼女はニコっと微笑んだ。
僕の手を取った彼女はそっと青い血を親指で拭った。
他人の傷に触るなんて非常識なやつ。
感染症とかなんかなってもしらないぞ。
でも、まあ、いいか。
夢の住人に気を使う必要なんてない。
「はい、いいんじゃない。」
彼女に言われて青く汚れた手を見たら傷が無かった。
「え、傷は」
彼女は自分の手に付いた僕の血を無造作に黒いセーラー服の袖で拭っている。
ぼんやりした頭でまた、まあいいか、夢だしと思った。
「さっきから思い出せないんだけど、君って誰だっけ?」
そう。
記憶のどこを探っても糸口すら掴めない。
一度会ったら忘れそうもないのに。
「誰かの妹とかだったか?」
彼女は楽しそうに、でもちょっと悲しそうに声をあげて笑った。
だれだったか、もやもやするな。
確かにどこかで見たような見てないような、なんだかへんな感覚だ。
「あーあ、その手で顔触ったらさぁ、汚れるよー。」
彼女に言われて血のついたままいつものくせで耳の後ろを触っていたことに気が付いた。
「まあ、きれいにしてあげるよ。」
彼女はひらひらと手を動かした。
「はい、おわり。いいんじゃない?」
え、手を振っただけ?
「はははっ。そんなのできれいになるわけないだろ。」
彼女はふふんと得意げに腕をくんで咳払いをした。
「今日は特別な晩ですから。わたしのための夜ですから。」
気取って言う彼女に少し呆れてしまう。
幼い子供じゃあるまいし。
今日は特別に魔法が使える夜ですってか。
僕ももうちょっとマシな夢をみればいいのに。
「信じてないね?わたしが今なんでもできるっていうこと。じゃ、当ててあげる。」
「何をだよ。」
彼女はまた笑いながら僕の方に一歩踏み出した。
「小学生のとき、よく虫を捕ってた。」
そんなのだれだってそうだろう。
小学生の時は確かに虫捕りが好きだったと思う。
ぼんやりとしか思い出せないけれど。
今、僕は虫が嫌いだ。
視界に入れたくないくらいに。
「ああ、そうかも。で、なんだよ。」
「夏はカブトムシで。ケースに入れていつも自慢してた。」
彼女はなぜか思い出すように遠くを見ながら言う。
「黄緑のフタのプラスチックの虫かごを持ちながら走り回って。で、たぶんいつもオスが欲しかったんでしょ。」
ぼんやりとする記憶にちらりと鮮やかな黄緑が閃く。
そうだ、たしかに僕は黄緑のフタの虫かごを持ってカブトムシのオスを探していた。
それで、そうだ。
あれは小学生になったばかりで。
友達がたくさんできた初めての夏休みで。
なんでいままで忘れてたんだろう。
「カブトムシのオスをずらっと並べて遊んでたのかな。」
そうだ。
僕らは捕ったカブトムシのツノや体の大きさを測っていつも大きさを比べて。
アスファルトにチョークで書いた土俵で戦わせていたはずだ。
暑い日差しさえ気にせず、夢中で。
彼女の声は平坦に続いていく。
僕は目を閉じた。
今まで一度も思い出さなかった少年時代。
なんだかひどく遠くて胸が締め付けられるような息苦しさと甘さを感じた。
僕は小学生になると同時に田舎に引っ越した。
引っ越しばかりしていた僕には一人も友達がいなかった。
その町で迎えた初めての夏休み。
僕は一人、新しいプラスチックの虫かごとピカピカの網を持っていた。
忙しい両親は一緒に遊んでくれなかったけど、欲しいものはなんでもかってくれていた。
僕は友達が欲しかった。
引っ込み思案な僕はなかなかクラスに溶け込めなかった。
夏が近づくとクラスの男子の間はカブトムシの話でもちきりになった。
ああ、そうか。
カブトムシを捕まえれば仲間に入れるのかもしれない。
僕は一人必死にカブトムシを捕まえようとした。
でも、できなかった。
「父さん、カブトムシってさ。」
「なんだ、欲しいのか?買ってやろうか。」
買ってもらったのは意味がない。
それじゃ、仲間に入れてもらえないんだよ、父さん。
「母さん、あのね、カブトムシさ。」
「いやねえ、虫なんて気持ち悪い。新しいおもちゃにしなさいよ。」
新しいおもちゃじゃ意味がないんだよ、母さん。
僕がやっと手に入れたものといえば家の外の電灯にぶつかってきたカブトムシの雌一匹だけだった。
そうだ。
僕のピカピカの虫かごにたった一匹入っていた雌のカブトムシ。
プラスチックの檻で弱弱しく動いていた。
「どうして今まで忘れてた?」
頭の中でなにかが割れる音がする。
どこかがずきずきと痛んだ気がした。
「そう。あの時もうそのカブトムシの寿命は尽きかけていた。」
彼女の声が容赦なく僕の記憶を呼び覚ます。
「やめてくれ……」
「カブトムシは逃げ出そうとした。」
「やめろ、やめろよ……」
暑い日だった。
僕は弱弱しく逃げ出そうともがくその足をなんの感情もなく引きちぎった。
ただ無表情にひたすらに。
ただ涙に溺れながら弱っていく彼女を見ていた。
一本、言えなかった。
二本、聞いてほしかった。
三本、怒りたかった。
四本、怒ってほしかった。
五本、拒絶されたくなかった。
六本、いつも一人だった。
そうやって忘れた。
全部忘れた。
彼女と一緒に捨てた。
リセット。
「あああ、あ……」
記憶がズルズルと引き出されていく。
茫然とする僕の頬に冷たい手が当てられた。
黒い髪が流れた。
「思い出した?わたし、ね。痛覚がないの。だから痛くはなかった。」
黒髪を揺らして立つ彼女の正体はもうわかっていた。
「返しに来たよ。」
僕は動けないままに頬に当てられた彼女の手が温かくなっていくのを感じた。
それとともに自分の体温がなくなっていくのも。
視界が少しぼやけている。
「つらいでしょ?痛い?自分ごと捨てたくなった?」
僕は全身に走る静かな痛みに肩を震わせた。
本当はどこも痛んでいないのかもしれない。
「もらってあげようか?君を。換えてあげようか?すべてを。」
ああ、そうだ、こんなにつらい。
痛みも感じない体。
たくさんの記憶。
もう、いいんじゃないか?
頷きかけて、彼女の真っ黒な目にふと止まる。
でも、そうしたらどうなるんだ?
この記憶、痛みを彼女に背負わせるのか?
僕の痛みと記憶をまだ抱えさせるのか?
「どうしたの?虫になるのもいいもんよ。痛くないもの。」
彼女はそっと僕の頬に当てた手を首まですべらせる。
「虫は嫌?そう、そしたら私が殺してあげる。」
蕩けるように笑う彼女に一瞬見惚れて。
僕は選んだ。
「ありがとう。もういいんだ。」
彼女の体を引き寄せる。
指先から温かさが流れてくる。
視界が次第に色鮮やかに彩られていく。
はっきりした視界にうつる彼女は美しかった。
彼女はあっという間に窓枠に飛び上がる。
「ありがとう。」
「わたしは甘い言葉であんたの体をのっとってやろうとしただけ。復讐に失敗したただの虫。」
さよなら、生きれば?
「いいんじゃない?」
次の朝、玄関の前にカブトムシの小さな死体が落ちていた。