児童残酷物語
1 ある母子について
矢古辺翔太は今年で7歳になるが、誰が見ても普通の少年だった。そして本人も、そうありたいと強く望んでいる。しかし、彼の家庭環境――引いては少年の母親がそれを許さなかった。
翔太にしてみれば、母親の渚がどこかおかしく、それに巻き込まれる自分や周りは至って普通、という見方である。そして実際、第三者から見ても別段間違ってはいない。矢古辺少年はあくまで、表層的には常識人に違いないのだ。
だが渚からすれば、自分こそが正しいというスタンスであるから厄介だ。彼女にすれば、たった一人の息子並びに周りの世界は病んでいる、という思想が根底に根付いている。
母親は、自分だけの世界では常識人のつもりでいる。
ともあれ――そんな考えの相違は、大概にして容易には相容れないものである。そうなると、自ずと力関係が重要となる。
要は、強い者の考えこそが正義となるという事だ。それが親子関係ならどうなるか?
広いようで狭く、一見甘く牧歌的なようで実は世知辛い世間では、家族の関係は本当に難儀である。
2 ひな祭りの惨劇
三月三日。とある小学校での昼下がり。
翔太のいる、ここ一年三組の教室において、【生活】の授業を利用し、恒例行事のひな祭りが催されていた。
教室の後ろのスペースに設置された段に飾られた雛人形を、生徒達が男女関係なく囲い、女性の副担任がオルガンで演奏する『ひな祭りの歌』に合わせて元気よく歌っていた。
そして、はぐれ者の数人が学校で準備された甘酒に手を伸ばしている。その中には四十代後半の担任教師の姿もあった。
ちなみに、この女子限定のはずの行事に男子が参加しているのは、副担任の女性教諭――ジェンダーフリーの信仰者でもある――の強力な口添えによるものだった。
演奏組の中には、微笑ましい顔をした翔太の姿があった。小柄な顔にキッチリ揃えた前髪、子犬を連想させるつぶらな瞳。
いつもは暗く影が差していたその顔は、今日に限っては嘘のように晴れ晴れとしている。彼が最後に明るい顔になったのは、一体どれぐらい前か、本人さえも忘れている。だからこそ、今日のこの行事を一ヵ月前から楽しみにしていたのだ。
母親の渚は今日の行事はおそらく知らないだろう。何も言っていないのだから当然だ。彼は完全に高を括っていた。
しかし曲が終わろうとした時、平和は終焉を告げた。
突然、乱暴な音が教室中に響いた。後方の扉がものすごい速さで引かれ、壁に激突したのだ。扉のガラスが砕け、近くの通路側にある窓も数枚割れた。演奏が途切れ、皆が弾かれたように教室の入り口を見やった。
そこには女性が一人立っていた。しかし、児童達にはそれが鬼に見えた。今日は節分の日ではないはずだ。鬼は内と言い間違えた覚えもないはずだった。
耐えられなくなり、咳を切ったように大半の生徒が泣きだす。
「翔太!」
長い髪を振り乱しながら、女は叫んだ。すると室内の嗚咽が鳴り止んだ。室内を激震するその声はもはや雄叫びに近い。
隣の教室からも教諭が顔を出すが、女が睨むと逃げるように顔を引っ込めた。
「翔太、どこにいるの!」
全員が沈黙している。その気迫の力は圧倒され金縛りに遭っているのだ。翔太はうまく群れの中に溶け込んで身を潜めている。
「手を、挙げなさい……」彼女は静かに言う。勿論、本人はダンマリを決め込むしかない。それに異論を持つ者などいない。
渚は大きく息を吸い、「翔太以外!」
一秒にも満たない刹那、彼を除くクラスメイトの全員が一糸乱れる事なく、ほぼ同時に挙手した。担任まで手を挙げた。
遅れて本人も手を上げたが、その遅れを見逃す渚ではなかった。彼に向ってズカズカ歩いて来る。他の生徒は逃げるように、彼女に道を譲る。いつもの事だ。翔太は覚悟を決めた。
まっすぐ向かって来た渚は、「翔太!」と叫び、大振りの平手を繰り出した。巨大なパーがものの見事に顔にヒットする。小さな体はよろめくどころか、後ろの壁まで文字通り吹っ飛んだ。その衝撃で、地震が起きたかのように、壁全体が一瞬軋んだ。
「翔太!」
もう一度叫んだ渚は、生徒の一人が持っていた甘酒の入った一升瓶を奪い取ると、それを一気にラッパ飲みする。そして口に含ませたそれをすべて翔太の顔に盛大に吹きかけた。
甘酒塗れになった顔は茫然と母親を見つめる。
「あなたは一体何をやっているの?」
「ひな祭りだよ、ママ」
「じゃあ、これは甘酒なの?」自分も飲んだのだから分かるはずだ。それに翔太はまだ、甘酒を一滴も口につけていないのだ。
「これはね、悪魔の唾なのよ」
渚の言葉に、翔太や他の全員が唖然とした。日常の世界において、どれだけの人間が、それも学校の教室という場所で、“悪魔”という単語を聞き慣れていないのかがよく分かる。
もっとも、翔太だけは母親の口からよく聞かされている。
「分からないの?この穢れた飲料を、翔ちゃんは飲もうとしたのよ。身も心を蝕み、悪行を重ねさせるそれを」
やはり、今朝のお告げは本当だったのよ、ブツブツブツ……。独白し続ける渚と翔太が母子の関係にあるのを知らないものはここにはいない。しかし、改めて実物を目の当たりにしたせいか、周りからヒソヒソと小声が漏れる。
「あのね、ママ。これは……」
「黙らっしゃい!」
渚は息子の頭に一升瓶を力一杯殴りつけた。瓶が粉々に砕けても、流血がないほど彼の頭は丈夫になっていた。
「こんな儀式に出るような子に育てたつもりはないわ!あなたは、光の子なの。神様に選ばれた数少ない天使の転生者なの!教祖様がそう言ったのを忘れたの?」
光の子?天使?転生者って何?周りから漏れる身勝手な噂話。これが数時間後には学年中に流布されるだろう。そして、頭のおかしな母親を持つ一年三組の矢古辺翔太は、やはり同じく、おかしな奴だと皆にバカにされるのだ。
彼にはそんな未来の幻像が、いつも母の言っている奇怪な力なんて持っていなくても、容易に予測できた。
彼女の背後に担任が、遠慮がちに話しかけてきた。
「あの……矢古辺さん。翔太君はこの日を楽しみに待っていたんです。行事もあと数分で終わりますので、最後ぐらい――」
言い終わらぬうちに、彼女の手により担任の口に甘酒の入った一升瓶がねじ込まれた。甘酒はもう一本あったのだ。
強制的に飲み終わるまで、渚の手は緩まなかった。
「今度、息子にこんな儀式に参加させてみなさい。硫酸という名の聖水を、ドラム缶一杯分一気飲みさせてあげるから」
違う意味で身を清められてしまう。この日を最後に、この担任は矢古辺家に対し、昔からの憧れだった――それは全シーズンのDVDボックスやノベライズを所持しているほど――金八先生並みの過干渉を妄想すらしなくなった。
硬直しながら一部始終を垣間見た副担任も同じ決意を持った。今年から教職に就いた、この若い教師もベテランの担任と同じく、現実の厳しさを、身をもって知ったのだ。
彼女が教室を出て行ってからしばらく、翔太は担任に懇願した。残り少ない髪はスーツとネクタイと同じく乱れに乱れ、遠い目をして彼は、心ここにあらずといった感じだった。
「先生、お願いです。一口だけでも下さい。ボクは絶対に黙っていますから」
顔を甘酒に塗れた少年の悲痛な訴えが教室に響く。しかし、それに同情はしてもその願いに賛同する者は皆無だった。
「ここには、先生を入れて三十一人の人間がいる。必ず誰かの口から漏れてしまう。秘密というのはそういうものだよ」
この担任が、今まで生徒を信じた例はない。
「矢古辺くん。先生はね、先月でやっと49歳になった。ちょうど、君の七倍生きた事になる。しかし、この歳になっても恥ずかしいのだが、私は正直まだ死にたくない」
「先生……」
「家のローンだってまだ残っている。娘もちょうど受験生だ。それに、妻は不倫をしていたんだ。かなり昔からしていたようだから、おそらく、娘も私の子ではないだろう」
さり気なく、カミングアウトをする担任。いつの間にか嗚咽を出しているが、明らかに涙は出ていない。しかし翔太は絶望の雨が涙腺から滴っていた。
「先生や他の皆も可哀そうだと思っているよ。できるなら、君と人生を交代してあげたいぐらいだ。でも現実ではそうはできない」
できないなら言わないでよ。翔太は嘯いた。
「矢古辺くん、すまないがどうか耐えてくれ。このまま耐えていればきっといい事が起きる。昔テレビのCMで流れていた。人生で幸運が訪れるのは大抵最後の辺りだと。それまで根気強く耐えて強い人になりなさい」
何もなかったらどうするつもりだ。どう責任を取るつもりなのか。翔太は薄情な担任の顔を冷たい目で見つめ続けた。
「許してくれ。先生や皆は、まだ死にたくないんだ」
できるなら、ボクはもう死にたいです。翔太は思った。
その時、終了のチャイムが鳴り響く。それと同時に、耐えきれなくなった担任教師は床に屈んだ。
そして、彼は未消化の甘酒を一升分嘔吐し続けた。
3 矢古辺家の部屋
翔太がアパート【たそがれ荘】の201号室に帰って来た時、母の渚はいなかった。帰宅してくるまでの時間を怯えて過ごすか、安心して過ごすか、その日の気分に合わせて決める。
当然、今日の彼の気分は前者である。
とは言っても、狭い部屋に置かれたに置かれたちゃぶ台や10インチの小型テレビ、AMラジオ以外取り立てて何もない質素とも赤貧とも言い難い我が家を見渡す限り、暇を持て余す術は限られている。宿題をやっつける事だった。
ルーチンワークの計算ドリルと漢字ドリルはなんなく終わったが、唯一手を付けていない肝心の課題を見て、改めて溜め息が出た。たった一枚の400字詰めの原稿用紙に溜息を出させる力があるなんて、夢にも思わなかった。
彼は部屋の奥に飾られた物体を憎々しげに睨んだ。まるで雛祭りの壇に飾れられた大きな頭の銅像は、母の渚によると、神の化身だという。それを初めて聞かされた瞬間に、一抹の迷いもなく嘘だと信じて疑わなかった。
ついでに、純金でできているらしいが、目が痛くなるほど眩しく輝いたそれは胡散臭いと。紛い物ほど、外面が良い。そんな、人を見る時の教訓を教えた本人が、疑う事なく、銅像に毎日祈っているのだから、本当に皮肉だ。
おまけに、教祖の名前も厳密には知らない。母曰く、天界から降臨してきたというその教祖の名は、人語では表現できないらしいので、彼女が銅像に唱える度に名称がコロコロ変わる。
(今日、ママは雛祭りを偶像崇拝とか言って怒鳴っていた。じゃあ、ママが毎日しているお祈りはなんなのさ……)
結局、それを指摘しても訳の分からないこじ付けを言うに違いない。はぐらかされるのがいい方だろう。下手を言うと一週間はお尻に座布団を括りつけておかないと座れなくなるほど折檻を受けるのは、目に見えている。
分かり切ったシナリオをいくら思案しても始まらない。
だが、この理不尽は何なのだろう?翔太は、心底に絡みつく不快感を持て余した。いつもそうだ。納得できない事があると、いつも頭の中を駆け巡る歯がゆさ。それを解明しないとこの気持ちは収まらない。このモヤモヤはなんだろうか。翔太を悩ます、この感情はいつの頃かは不明だが、彼の思考力を著しく発達させたよって、同じ年齢の子供の中では早熟な性格である。
しかし、そんな彼でも今抱いている、このモヤモヤを通り越した不快な不可解を言葉にはできない、それ自体にもいら立ちを抱かずにはいられなかった。
不意に扉が開く重い響きがした。渚が帰って来たのだ。
4 食パンが空を飛ぶ夢
「翔太、ただいま。約束の、買って来たわよ」
その顔は、雛祭りの鬼女とは違い、明るそうだった。それに前から頼んでいた“あれ”――母の性格からして、また何かこじ付けを言ってダメ出しするだろうと半ば諦めていた――を買ってくれたのは、翔太にとっても嬉しかった。
今日の一件を帳消ししてもよかった。
「約束のトースターよ。1,980円もしたんだからね」
(やったぁ!これで焼き立てのパンを食べられる!もう冷たいコチコチのパンじゃなくなるんだ!)
だが、電器屋の袋から現れた商品のパッケージを見て、待ち焦がれた歓喜は急転直下に落胆した。食パンを口に咥えた犬がデザインされたそれは、彼が期待していた代物とは少し違った。
「ママ、これ違うよ」
「何が?」
「これ、食パンしか焼けないやつだよ。ぼくが頼んだのは、オーブントースターだよ」
渚が買ったのは、いわゆるポップアップ式トースターである。パンがコンガリと焼けるとポンッと飛び出すあれだ。食パンを焼くのに特化されたそれはしかし、平べったいパン以外を焼くのには適さない。もっとも最近では何でも焼ける新作も売ってあるが、そんな事を、渚が知るはずないし、況や買う余裕もあるはずがない。
「これじゃあ、コッペパンとか、他の物は焼けない……」
「でもねえ、翔太……」
分かっている。オーブントースターは高い。パートをしているママには、そんなものを買う余裕なんてあるわけない。それも無理をして買ってくれたのに文句を言うわけにはいかない。
しかし、箱からトースターを取り出した彼女は、誕生日プレゼントを始めてもらった子供みたいに意気揚揚な様子だ。
「これすごいのよ。ほら見て!焼いた食パンが、焼け終わるとポンって飛び出すのよ!すごいじゃない」
自分より何倍も生きているはずの母親が、飛び出すパンを得意げに披露している。その陽気さは、正に小さな子供のそれだった。
(ボクは知っている。オーブントースターを持っているのに、あれを買う人は決まって、もっと一度にパンを焼きたいとか、食パンを焼くのにしか使わないとか言う。だけど、それは口実だ。あの人達やママは、あの飛び出すパンを見たいだけだ。中には、機械のバネを細工して、パンを天井まで飛ばして、それをお皿でキャッチする、なんていう芸当を夢想する猛者もいるんだ)
だが再三言うが、矢古辺家にはそんな余裕もない。
目の前で、トースターを恍惚に見つめる母親を、翔太は呆れかえるしかなかった。
5 コナンも作文も終わらない
翔太は作文の事を、渚に打ち明けられずにいた。現実逃避と分かっていても、テレビのアニメを見て気を紛らわすしかない。
10インチの白黒から映し出される小さな映像は、いまだにアナログのチャンネルである。トースターを買う前に薄型テレビを買ってほしかったと、今にして彼は思った。
「翔太、何を観てるの?」
「コナン」
幽霊のように背後に立って、見下ろしてくる渚に舌打ちしたい欲望を抑えつつ、ぶっきらぼうに答える。
「未来少年?」
「名探偵だよ」
「ミステリーなの?」
母親が眉をひそめるのが、後ろからでも分かる。渚は人が死ぬテーマには敏感で、そんなシーンや仄めかす台詞が出た途端に電源を切る。しかし、翔太は怯みたくなかった。
この作品は、犯罪を解決するのがテーマなのだ。
「うん。眼鏡の主人公がカッコいいんだ。真実はいつも一つ!って。それでどんな事件も、たちどころに解決するんだよ」
「翔太!」
どうやら地雷を踏んだようだ、と思った。
「止めなさい、そんなアニメ!教育に悪いわ!」
「どうしてさ?殺人事件は起きるけど、最後にはコナンが全部解決――」と言い終わらぬうちに、テレビのスイッチを消された。
「これはアカのアニメよ。間違いないわ」
「アカって?」お風呂の汚れの事だろうか?
「真実はいつも一つ!この台詞には、マルクス主義、引いては共産主義が内包されてる危険な思想よ!」
「……大袈裟だよ」そうか、その方面で来たか。
難しいテーマに加え、突拍子もない母の妄言には苦笑を堪えながら、翔太は心の中で失笑するしかなかった。
それにしても、あの決め台詞から、どうしてそんな論理の飛躍があるのか。だが相手が渚なので、合理性もへったくれもないのだろう。コナンも真っ青であろうハイパーロジックに、まだ小学一年の自分に解けるはずがない。
「いいえ!やっぱり、アルジャパラーニャ様のお告げは正しかったのよ。マスメディアの9割が社会主義者というのは真実だったわ。彼らは色々な番組にサブリミナル効果を仕込んで、一億総白痴化を画策しているのよ」
渚の言う、アルジャなんとか様というのは、彼女が現在心酔しているカルトの教祖の名前である。奥の部屋に飾ってあるチビデブの銅像の事でもある。言うまでもないが、彼に対するお布施の寄進により、矢古辺家の家計は逼迫の危機にある。
名前とは裏腹に、本人は日本人でハゲデブの中年オヤジである。翔太も何度か母に無理やり連れられて実物に会ったが、神通力どころか、カリスマ性があるようには到底思えなかった。
「わかったよ。もういい」この一件は、迷宮入りだ。
少年の判断は迅速である。話題をすぐさま切り替える。避けて通れない作文の宿題についてだった。
「ママ、パパはどんな人だったの?」
「何よ、急に?藪から蛇だわ」棒だよ。心の中で修正しておく。
「これ」
ランドセルから取り出して見せた原稿用紙の一行目には、『ボクのパパ』とあり、下に記載された提出期限は明日だった。本当は家族を題材に書くように先生に言われていたが、今日の一件で母親についての説明は不要だろう。
なので、主題を父親に絞ったのだが、肝心の本人は翔太が物心をつく前に他界している。今日まで、父親の話を聞かなかったのが、むしろ不思議なくらいだった。
「パパは、どんな人だったの?」
長い沈黙が流れた。渚はずっと天井に顔を向けたまま微動だにしない。彼女の開口を待ちながら、翔太は自分には父親なんていないのではと不安を抱きかけた。
「そうね。……あなたのパパは……優しい人だったわ。勿論私に対しても」渚の顔が変わった。彼は久しぶりに母の天使の顔を見て、心が躍った。この状態は永遠には続かなくても、たとえ束の間でも彼の心が安らいだ。
「翔ちゃんは覚えているかしらね?あなたが赤ん坊だった頃に、おたふく風邪に罹ったのよ」
そんな大昔を覚えてる人がいるなら、逆に会ってみたい。
「パパは一晩中、翔ちゃんの看病を絶やさなかったわ。次の日に会社から帰って来ても、ずっとあなたの傍を離れなかった」
知らぬ間に、翔太は眼が潤んでいた。今はいない父親に思いをはせたのだ。天井に吊るされたソケットから漏れる弱々しい光源に照らされる渚の切ない顔が、彼の悲壮感を一層引き立てた。
「でも……あなたが二歳の時、交通事故に遭って亡くなった。飲酒運転の車……信号に突っ込んで……あの人は私達を残したまま……もうどこにも……いないの」
途切れ途切れに伝えながら、渚はとうとう泣き崩れてしまった。翔太は慌てて母の元に寄って、ハンカチを寄越した。顔に似合わず豪快な鼻をかむ音が響く。しかも、そのまま返された。
「ママ……ボク、パパを殺した車が憎い。飲酒運転をした奴なんて地獄に落ちたらいいんだ」
「翔太……」とゆっくり顔を上げて言葉を続ける。「まったくもってあなたの言う通りよ。だから、パパは地獄に落ちたのよ」
「え?」
「飲酒運転をしていたのは、パパの方なの。この思い出を誰かに初めて話すと、決まってパパを被害者側だと勘違いするのよ」
渚はさっと立ちあがると、嫌でも分かりやすいため息を立てる。先刻出していた涙と、鼻水は嘘のように干上がっていた。
「パパはね、まず一つ目の信号で三組の老夫婦を轢いたの。6人の平均年齢は99歳。相手が相手だけに皆即死だったわ。次に合コン中のカップルを10人。さらに観光客の外人を12人。最後に2人のアルバイトがいたガソリンスタンドに猛スピードで突っ込んで見事に大爆発炎上したそうよ」
被害者の総合計は30人。パパ様、殺し過ぎだよ。
その後、30人分の賠償金や慰謝料、ガソリンスタンドの賠償などが借金として残った。もちろん、渚はそれらを物の見事に踏み倒し、当時まだ幼子だった翔太を連れて雲隠れした。
そして現在の生活に至るという。
「ママ。それを作文に書くべき?」
「改竄しなさい」
当然だが即答だった。しかし何かが間違っている。
「ママ?」
「何?」
「パパはなんで、お酒を?」
「正確にはアルコールじゃないわ。甘酒よ。あの日はちょうど雛祭りだったの。お父さんはね、根っからの下戸だったの」
なるほど、渚が甘酒をあんなに嫌悪する理由がそれだったのか。生まれついての合理主義者であり、将来は理系を目指す翔太だが、雛祭りの時の伏線が回収された納得から生まれるはずの爽快感は一向に湧いてこなかった。
父親が大量殺人者。そして母親は相変わらずのカルト信者。この事実から逃れられる伏線は、一体どこにあるのだろうか?
今の彼に見つける手立ては何もない。10インチのテレビの世界では、コナンに追い詰められた犯人が、視聴者らに同情を引くために動機を吐露していた。お決まりのバラードが今日は悲しく聞こえたが、翔太には、画像の端に表示された太文字の【アナログ】が心に突き刺さる。その時、少年は亡き父親に訴えた。
(パパ様。液晶、ほしい)
6 夕食と失恋の果てに
矢古辺家の夕食は質素である。翔太が持ち帰って来た給食残りのコッペパンと牛乳、そして渚がスーパーから持ち帰った賞味期限切れの惣菜の残りだけだった。
当然電子レンジはないので、そのまま食す事になる。
「ママ?」
「何?」
「御飯冷たいね」電子レンジが欲しいと婉曲表現した。
「まだ寒いから我慢しなさい。夏になれそのままでも食べられるようになるわよ」
渚はコッペパンを横半分に切ると、トースターにセットする。ワクワク感に満ちたその顔は、やはり満更でもない。
「それに、これを買ったから、しばらくは買い物を控えないと。今月の日曜日、また集会があるから」
「ママ、今度の集会休んだらダメ?」
「あたりきよ!」バンッとちゃぶ台を叩く。
「教祖様の有難いお告げがある日なのよ。それを休むなんて、不信心以外の何ものでもないわ」
「あのね、実惟ちゃんと遊ぶ約束したんだ」実惟ちゃんというのは、翔太の幼馴染であり、彼の片思いの相手でもある。
「悪いけど、日を改めなさいな。今から電話して」
「だけど……」と言いかけたが、皺を寄せ、両目が飛び出しそうな睨みを利かせる母親に抗う術など存在しない。
諦めて、時代遅れの黒電話をかける。チンッ、ジャラジャラジャラジャラ……。ホントに時代を感じさせる音だが、同じ現在を感じさせるなら、新しいコードレス付きの電話機が欲しいと願うのは我儘だろうか。少なくとも、この骨董品と母親とアルジャ何とか様の銅像が、翔太が友達を家に招きたくない理由である。
「はい、もしもし」タイミングが良いのか悪いのか、いきなり本人だった。いつものかわいい声に、一瞬彼の心は躍った。しかし、日にちの変更を伝えると、「そう……」と意気消沈させる声が空しく受話器から流れた。
「ごめんね、実惟ちゃん。でも今度は絶対にあそぼうね」
「翔ちゃんはいつもそうだよ。また今度、また今度って。これで10回目だよ。どうせ、今度もダメになるんでしょ?」
「違うよ!今度はきっと……。ママがいいって言うまで」
「翔ちゃんはおばさんが怖いの?そのせいで実惟と遊ばないなんて……意気地がないよ。意気地なし」そして電話は切れた。
「どうだった?つながった?」渚は能天気にトースターを眺めている。時間からして、そろそろ頃合いだろう。
「ふられちゃった」
「そう。もう、あんな子はやめときなさい。恋愛ごっこにうつつを抜かす暇があったら、集会に参加して少しでも雑念を取り除く瞑想に励んで煩悩を――」
ポンッ!ちょうど、パンが焼き上がった。有頂天に喜ぶ渚を見ているうち、翔太の中で今日まで鬱積していたものが、まるでマグマの如くわき上がって来た。それを止められるのは本人だけだが、彼にその気は毛頭なかった。
「さあ、焼けたわ。食べる前に、お祈りよ」ブチッ!
“お祈り”。母の言葉に出たその単語を聞いた途端、翔太の中で何かが音を立てて切れた。
7 キレる少年の心の闇
「翔ちゃん?」
ガタンッとした音に驚いた渚は、目の前に立つ我が子が睨んでも、能天気にもコッペパンを咥えたままだった。
「何なんだよぅ……」
そんな母親に我慢の限界を超えたのか、また更に臨界点を突破した翔太は母親を更に睨みつけた。
さすがの異変に渚は気づいたが、おそらく手遅れだろう。
「あら、翔ちゃん?どうしたの?」
「一体なんだようっ!」
翔太は突然叫び出すのを見て、渚の顔は蒼白と化した。
「どうしたの、翔太。冷静になりましょう」
「うるさあい!何が偶像崇拝はアウトだよ?自分だって似たような事をやっているじゃないか!」
翔太は、奥間に鎮座している銅像を手に取ると、首の部位に力を入れた。首はあっけなくもげ、渚の悲鳴が響き渡る。
「見てよ!こんな小汚い色の純金があるわけないじゃないか!こんなに軽いはずがないんだ!」
雄叫びと共にそれを思いっきり床に叩きつけた。本物であるはずの金の神像は跡形もなく粉々になった。
「あ、あんたはなんて事を……この、親不孝者!恥知らずの破廉恥!不信心者!恥を知りなさいな!」
「ママの頭の方が、よっぽどおかしいよ!ねえ、何でポップアップトースターを買ったのさ?普通ならオーブンを買うのに、パンが飛び出すのがそんなに珍しい?じゃあ、見せてやるよ!」
翔太は自分のコッペパンをそのまま口に咥えると、力一杯に母親に向かって吹きだした。ロケットのように飛来するパンは見事、テーブルを越えて渚の額に命中した。
「パパの作文だってそうだ!子供のぼくに、どうしてあんな辛い話をしたの?普通なら気遣って嘘を言うはずだよ!嘘も方便って言葉知ってる?知らないよね、頭のおかしなママなら!」
「翔ちゃん……今すぐ、教祖様の所へ行きましょう。少し疲れているの。たぶん外気の悪意を吸い過ぎて、心に邪気が――」
「今日の雛祭りはなんなのさ。恥ずかしかっただけじゃないよ。ボクは給食以外、水しか飲んでなかったから甘酒を楽しみにしてたのに……ねえ、どうして人の楽しみを邪魔するの!趣味なの?生きがいなの?それとも、気違いなの?」
「教祖様の邪気払いの術であなたの心身を浄化してもらうの。ねえそうしましょう」渚はオドオドと釈明を続ける。
「ボクには友達は一人もいない。とうとう、好きだった実惟ちゃんにも振られちゃった。どうしてだと思う?」
「さあ」
「全部ママがおかしいせいなんだ!」
そして彼は豪快にちゃぶ台をひっくり返した。トースターやコッペパンをはじめ、牛乳パックや惣菜が吹っ飛んだ。
「どうしてパパは大量殺人をして死んだの?」
そう叫びながら、10インチの小型テレビを壁に投げつけた。ボンッと音と一緒に煙が立ち上る。
「どうしてママは変な宗教に手を出すの?ねえ、どうして!?」
再び叫びながら、翔太は今日買ったばかりのトースターを持ち上げた。壁に投げつける気だと分かり、咄嗟に止めに入ろうとした渚の顔面にそれが直撃した。
「どうしてか分からないよお……皆皆、自分の事しか気にかけようとしない。そうだ!大人は汚いんだ!大人は汚いよ!ついでに、この社会も間違ってるんだ!全部狂ってるんだ!」
鼻血をポタポタ垂らす渚は「翔ちゃん、止めなさい!そんな青春ドラマに出てくる、絵に描いたような逸脱的な非行行為を繰り返す中学生を真似していたら、これから先どうなるの!?」と言うと、息子を羽交い締めにしようと躍りかかった。
しかし、母の強襲を小柄な体型を利用して難なく避けた翔太は、彼女の脛に渾身の蹴りを入れた。夜のたそがれ荘とその近隣の住宅街に、断末魔が響いては消えた。
悶絶する母親をよそに、少年は「大人は汚い!」や「ボクは一体誰なんだ!」を連呼し、それから2時間強暴れ続けた。
翔太が早過ぎる青春の暴走を繰り広げている間、隣人や大家からの苦情はなかった。彼らのアパートには、もはや二人のやり取りにすっかり慣れてしまった者しか残っていないのである。
日にちが変わる頃、やっと翔太は疲れ果てたのか、ゆっくりと床に伏し、数秒後には完全に眠ってしまった。
「パパ様……ボクらをほったらかして、なんで死んだの……」
寝言と共に、閉じられた目から涙が一筋流れた。
倒れた家具の山に埋もれたままの渚は、疲労困憊と茫然自失が入り混じった顔で、たった一人の我が子を静かに見つめていた。
8 和解の朝
翌日、翔太は7時きっかりに目を覚ました。つまり、いつも通りの朝だと体は勘違いしているのだ。しかし、目に飛び込んだ部屋の惨状で眠気は完全に吹き飛んだ。いつもの朝ではないと瞬時に分かるほど、ひどく荒らされていた。
ちゃぶ台はひっくり返り、畳は剥がれて木の床が露出し、おまけに奥の部屋にあったはずの襖がどこにもない。よく見ると、釈然としないが、なぜか壁にめり込んでいた。
「強盗?」
昨夜の記憶はまだまどろんでいるようだ。
真横に渚が立っていたのに気づかず、耳元に「おはよう、翔ちゃん」と声が上がり、翔太は悲鳴を漏らした。
見ると母親の顔が腫れている。いつもボサボサの髪もザンバラになっていた。その手には、首だけになった神像を抱えている。それはあまり可愛くないキューピーの出来損ないを連想させる生首を抱える母親は、なぜか聖母を想起させる。
荒らされた部屋と母親の姿に、彼はやっと昨日の自分が何をしでかしたのかを思い出した。日々の鬱憤が爆発した果ての暴走。遅れながら、彼の中に後悔の念が生れた。
「ママ、ゴメンね。怪我は大丈夫?」
カタカタカタッと音は聞こえなかったが、傾きかけたの首のぎこちない動きは、カラクリ人形それに似ていた。
「早く、朝ご飯、食べなさい」
たどたどしい喋り方なのは、歯がいくつか抜けてしまっているせいだった。痛々しいその姿は彼を余計に卑屈にさせる。
幽霊のような動きで台所へ消える渚を追う翔太は、ちゃぶ台の上にあるものを見て、我が目を疑った。なんとコーンフレークが盛られた皿があったのだから仕方がないだろう。しかも牛乳まで入っている。今まで朝抜きが当たり前だった翔太は、テレビのCMでしか目にした事のない、その破格の朝食に驚きを隠さなかった。
後ろに座るボロボロの母親に、途端に一つの疑惑が浮かんだ。それを聞くのは、いわゆる空気が読めないと言われるだろうが、一応質問せずにはいられなのが、翔太の性格だった。
「また盗んだの?」
「そんなわけないでしょう。ちゃんと買い物して買ったわよ。朝ご飯なしなんてかわいそうだし、体にもあまり良くないわ」
今までそんな優しい言葉を放つような母ではなかったし、増して自分を案ずるような事など物心をつく頃から既になかったはずだ。ますます昨日の非行に対する罪悪感が積もって来る。
それが涙になって噴火するように溢れてくるのもまた、少年の純粋さを物語っているが、逆にそれほど今までの境遇がひどかったと言ってしまえばそれまでだが。
「ゴメンなさい!」
「翔ちゃん?」
「昨日、滅茶苦茶に暴れて、ママにも怪我させて……ボクが我慢すればいいだけなのに……パパの事だって、正直に話してくれたのに、ムキになって嘘を話せなんて言っちゃった……」
小刻みに揺れる頭に小さな手が添える。
「翔太。あなたは我慢する必要はないのよ。我慢すべきは私の方だったの。なのに……自分勝手なママを許してね」
そして、流れる涙を拭き取る渚の声の調子はいつの間にか変っていた。いつもの旧ドラえもんにドスを利かしたような声ではなく、年齢を感じさせない若々しさと優しい響きが感じられる。
思わず、翔太は顔を上げる。
「怪我もすっかり治ったから平気よ」
バンソウコウが貼られた顔も鬼のようないつものそれではなかった。彼女の親戚曰く、四十代になっても若造りする必要がないのではと言わせるほどだったが、実際、今年で32歳になるはずの渚を見ても満更でもない。この時の彼女の顔は、控えめな表現でも二十歳そこそこの女性そのものだった。少なくとも、母親を見上げる、今の翔太には間違いなくそう見えるのだ。
「今いる教団も止めるわ。どうも胡散臭いと思っていたから」
それが嘘か本音か分からない。いや、それでも、これで生活費のほとんどをお布施に費やさずに済む。
「あっそれと、実惟ちゃんからさっき電話があったよ。いくじなしって言ってゴメンね、また遊ぼうねって」
「実惟ちゃんから?」
「うん、今度の日曜日遊べるようになったからOKしておいたわよ。だから翔ちゃんは何も気にしないで」
やっぱり許してくれた。翔太は母親のフォローに感謝した。
「ねえ、ママ?」
「なあに、翔ちゃん?」
「部屋を滅茶苦茶にして、本当にごめんなさい」
「もう忘れなさい。翔ちゃんも鬱憤が溜まっていたのよ」
「テレビも、壊しちゃった……」
「今度は液晶を買えばいいのよ。ちょうど来年にはアナログが終わるからちょうどよかったわ。お金も貯めてあるし」
早くご飯食べないと学校に遅刻するわよ、と言う母の後姿に新しい希望を見出した彼は、最後に言った。
「ねえ、ママ。トースターを壊したの、許して――」“くれる?”と言葉が続くか続かないかのその刹那、
「許すか、ボケェェッ!」
ヤクザのドラえもん声と鬼の顔に戻ってしまった渚は、自分の皿を一切の躊躇なく、突然の奇声にまだ笑顔が解けていない息子の顔面に投げつけた。哀れにもパイ皿を被ったコメディアンよろしく、翔太の顔に牛乳とコーンフレークがぶちまけられた。
パンが飛び出す、不思議なトースター。せっかく購入したそれが破壊されたのだ。渚はそれだけが許せなかったのである。
ともあれ、少年の純粋な心に、トラウマという名の傷が更新されたのは言うまでもない。
矢古辺家の朝は、こうして騒々しく始まるのだった。
(了?)
特典;もう一つのエンディング
早くご飯食べないと学校に遅刻するわよ、と言う母の後姿に新しい希望を見出した彼は、最後に言った。
「ねえ、ママ。今度、買ってきてほしいものがあるの?」
「何?高いのはダメよ」
「あのね。昨日、ボクだけ飲めなかったの。だから一度飲んでみたいんだ」
「なんだったけ、それ?」
「忘れちゃったの、ママ。甘酒だよ」
「ダメよ!」
ヤクザのドラえもん声と鬼の顔に戻ってしまった渚は、自分の皿を一切の躊躇なく、突然の奇声にまだ笑顔が解けていない息子の顔面に投げつけた。哀れにもパイ皿を被ったコメディアンよろしく、翔太の顔に牛乳とコーンフレークがぶちまけられた。
人の体を蝕み、かつての夫さえも大量殺人者に変えてしまった、悪魔の酒。その呪わしい甘酒を口に含もうと言う、無知な息子。渚はそれだけが許せなかったのである。
ともあれ、少年の純粋な心に、トラウマという名の傷が更新されたのは言うまでもない。
少なくとも、以後、雛祭りと甘酒は彼にとってはタブーと化すだろう。たとえひな祭りが女子だけの行事であると知ってからも、それが話題になる事は金輪際なかった。
矢古辺家の朝は、こうして騒々しく始まるのだった。
(了)
作家・新堂冬樹の作品に『カリスマ』というのがあります。壮絶な過去を持つ新興宗教の教祖が、自分の欲望のままに多くの人を狂わしていく話です。本作はその序章にあたる教祖の強烈な過去をモチーフに考えました。
勿論、本章もさらに面白いのでお薦めです。
さて、本作についてですが、書いていくうちに自分は不謹慎だなと心痛めつつ、結局は完成してしまい、自分は本当に不謹慎な人間だと、つくづく思い反省しています。