02
「うひぇいっ!」
開けた扉の裏側からいきなり耳元に吐息と共に低く囁く声が吹き込まれる。
思わず飛び退いて見上げれば、長身の銀髪が陽の光の元に現れる。
「兄さん!」
そこには兄が微笑みながら立っていた。男の子が産まれなかった我が家に養子に来た兄さん。
我が家の執事夫妻が事故で亡くなってしまい、ほとんど私と兄妹のように育った彼を、父はそのまま我が家の養子、そして跡継ぎとして迎え入れた。優秀な兄は今では領地経営で惜しみなくその才能を開花させている。
我が家が一般的な子爵家に比べて裕福なのは、このなんでも出来る兄のおかげだった。
「やっぱり!領地にいるはずの兄さんの馬車があるからここにいると思った!なんでいるの?何かあったの?」
「ふふっ。『何かあった』ですか。貴女が伯爵家の婚約者候補として呼ばれたとお義父様から聞いたからですよ。流石にお茶会の前日には間に合いませんでしたが、こうして当日には間に合いました。もう少し遅ければ迎えに行こうと思っていたんですよ?」
均整のとれた身体を少し折り曲げて、上から覗き込まれるように微笑みかけられる。
昔から私はこの兄の有無を言わせない微笑みは好きなんだけど、圧が私に向くのは苦手だ。全部見透かされてる気がする。
「心配してくれるのは有難いけど……ちゃんとこうして帰ってきたし……」
「おや。帰ってきただけで許されると思っているのですか?三ヶ月ぶりにレイラにお会いできたというのにこの事態。先程お義父様には会ってきましたが、二度とこんな事にならないように少し強く抗議しておきました。私の可愛い妹があんな家に嫁ぐなど、世界がひっくり返っても有り得ません。」
「……え……お父様……泣いちゃわなかった?」
姿勢を戻した兄に、恐る恐る訊ねる。
兄はにっこり笑って答えなかった。
あぁ……可哀想なお父様……
「そんなに心配しなくても事情は把握してますよ。仮にも伯爵家からの縁談なら簡単に断れるはずはないですから。」
「兄さんの抗議は反論の余地がないから怖いって前にお父様が涙目で言ってたよ。」
「おやおや。私が抗議するのは私の大事な妹に対する事だけですよ。お義父様は人が良すぎますからね。今回のように貴女に関わることは釘をさしておかなければ。」
「でも……」
「さぁ、玄関で立ち話もなんですから中に入りましょう。久しぶりに会えたのですから二人でお茶でもしませんか。どうせろくでもない話でゆっくり飲めていないのでしょう?伯爵家での事も根掘り葉掘り聞かなくては。」
兄に背中を押されて、屋敷の中に入る。相変わらず有無を言わさない笑顔が怖い。
さりげなくエスコートしてくれる兄の所作は洗練されていて、たまに出る社交界で令嬢達の視線を独り占めするだけの事はある。
今は領地での仕事が忙しくて、ほとんど王都の社交界には顔を出していないけれど。
「お父様は?帰ってきたことも報告しないと……」
「後でも大丈夫ですよ。今頃お義母様に慰めてもらっている頃でしょうから。」
「……あー……後にする。」
「ふふっ。ええ、今は私と二人の時間ですよ。どうぞ、こちらです。レイラと飲もうと思って良い茶葉を手に入れたんです。」
テラスに出ると既にお茶の準備がされていた。
相変わらず、兄さんは予知能力者なのかな?
私が帰ってくる時間をどうやって読み取ったのだろうか。
疑問に思いながらも兄が椅子を引いてくれるので、お礼を言いつつ腰掛けようとした。
その時にさりげなく肩に置かれた手が、じわりと逃げ場を塞ぐような重みをかけてくるあたり、これから伯
爵家での出来事を全て聞かれるのだと予想出来た。
あー憂鬱。こうなった兄はあの伯爵より段違いでめんどくさい。
内心冷や汗ダラダラだが、顔には出さずに伯爵家にいた時と同じように笑顔を貼り付ける。
兄に隠すのが無意味なのは重々承知だが、そうでもしなければ悪態が口から出てしまう。
色々と。本当に色々と。
そうこうしている間に兄がメイドからポットとカップを受け取って淡々と準備を進めていく。
元執事の息子は伊達じゃないといえばいいのだろうか。
「………兄さん……メイドのお仕事取っちゃだめだよ。」
「久しぶりにレイラにお茶を入れてあげられるのですから、今日くらいは許されますよ。あぁ、妹の世話は私が全てしますから、あなたは下がって大丈夫ですよ。ここまでありがとうございました。」
優雅にメイドを下がらせると、私の前に良い香りの紅茶と淡い黄色のクリームでデコレーションされたケーキが置かれる。
伯爵家ではフルーツのタルトだったが、兄さんチョイスはクリームケーキ。
この絶妙な被らなさが有能たる所以なのだろうか。ケーキからはほのかなレモンの香りがする。
あっさり系を選んでくる辺りが流石である。
「さて。これで二人きりになれましたね。準備も済んだことですし、早速聞かせてもらいましょうか。伯爵家で何があったのかを。」
私は全て兄に話した。
冒頭の茶番から戦略的撤退のために伯爵家の家令さんまで巻き込んで脱出してきたことを。話が進むにつれて兄の笑顔がどんどん濃くなるのを見て見ぬ振りをしながら。
……怖い……怖いよ兄さん。
私に向けられた感情じゃないから耐えられるけど、本人が目の前にいたらその冷たさに泡吹いちゃうよ。
「なるほど。分かりました。えぇ、とても良く出来た茶番劇です。レイラ、よく無事に帰ってきましたね。私の妹は本当によく出来た子です。誇りに思いますよ。」
兄が立ち上がって私の隣に来ると、目線を合わせて頭を優しく撫でてくれる。
なんだかんだこの優しさに甘えてしまうのだから私も大概ブラコンなのかもしれない。
しかしここで油断したのがいけなかった。
不意に覗き込むように近づいたかと思うと、クイッと顎を指先で上げられる。
至近距離で見つめ合わされて、心が警報を鳴らす。兄の目が笑っていない。本気で怒っている目だ。
「縁談という話だけでも腹立たしいのに、書類上の妻ですか。仕事は出来るだろうだと?ふざけた戯言を。私の大切な妹を雑務に使うなどと。伯爵が愛人を孕ませるのは結構ですが、あの汚い手が貴女に触れることがあれば、私があの家を潰してあげましょう。」
「………兄さん。落ち着いてよ。そんなことしたらお父様の胃に穴が開いちゃう。慰めるお母様も大変になっちゃうよ。私はちゃんと逃げてきたでしょ?ね?」
「………そうですね。そうでしたね。私が傍にいられないばかりに、大変な時間を過ごさせてしまいましたね。」
兄が指を離して私の前に屈んだ。少し申し訳なさそうに私を見つめる兄の瞳からは、怒りが消えていつもの優しい色に戻る。私はフォークを手に取ると、一口分のケーキを掬って兄の口元に差し出した。
「そんなに気に病まないでよ兄さん。兄さんのおかげで私達は安心して暮らせてるんだから。兄さんに任せっぱなしでごめんね?今度私も領地に行くから。」
私のフォークから兄がケーキを食べると、そのまま私の手からフォークを取り、今度は私にケーキを掬って口元へ差し出してくる。
差し出されたそれを、私は兄を見つめながら大人しく食べた。
「いいですね。貴女から私のそばに来てくれるのなら、こんなに嬉しいことはありません。せっかくですからこのまま私と一緒に領地に帰りましょう。領民も喜びます。お嬢様に会いたいといった苦情がそろそろ来る頃でしたから。」
しまった。兄の目が嬉しそうに輝き出している。
「このままは流石に……無理だよ。伯爵家との話は終わってないし、お父様の了解も得ないとだし。」
「…………ちっ。ではこうしましょう。3日以内に全て私が綺麗に片付けます。お義父様の説得も並行して進めましょう。どうせならこのまま家族全員で領地に移り住むのもありだと思いませんか?必要であれば手続きは全て私が行います。」
舌打ち聞こえてるからね兄さん。紳士がしちゃダメでしょ。
「兄さんストップ。行き過ぎ行き過ぎ。お父様達までは無理だって。」
「ではお義父様には胃に穴を開けてもらって、療養という形をとりましょうか。伯爵家が1つ潰れるくらい造作もないことです。」
「戻ってきて兄さん。あーもーセレスティン!」
「!? もう一度呼んでください!なんて愛らしいのでしょう!やっぱり今すぐこのまま帰りましょう!」
間髪入れずに椅子ごと抱きしめられて、圧迫感に私は淑女らしくないカエルの潰れたような声をあげる。
出る出る。今食べたケーキが胃から出ちゃう。ついでにタルトも。
この暴走シスコンを止める為に私が犠牲になるのは致し方ない事だが、それが伯爵家のためになるのがなんだか癪だった。
……くっ……こんなことになるならフルーツタルトをおかわりでもすれば良かった……!
ひとしきり兄が満足するまでこのまま抱きしめられていることにする。
兄の抱き人形にされてから数分。今や兄の膝に横抱きで乗せられて抱きしめられ続けていた。
苦しい。物理的に。
私の頭頂部に顔を埋めて微動だにしない兄をどう宥めて離してもらうかを考えていると、先程下がったメイドがこの状況を見ても顔色を変えずに入室してくる。
そうだよね。兄さんがいる時は日常茶飯事みたいなものだもんね。我が家のメイドは優秀だ。
「ご歓談中失礼します。お嬢様にお客様が見えております。伯爵家より使いの方ですが、お通ししますか?」
「追い払ってください。」
「兄さん。だめだってば。用件は?直接は会えないから、手紙持ってたら受け取って。伝言なら聞いて来てくれる?」
「かしこまりました。」
礼をしてメイドが下がってから、流石に兄の膝から降りる。寂しそうな兄の瞳を無視して、自分の椅子に座り直した。その際にちゃんと椅子を引いてくれるのだから、兄は私に甘い。
「しつこいですね。貴女に断られたと気付いていないのでしょうか。私の目の黒いうちは嫁ぐ事など万に一つも無いというのに。」
「それは同感。兄さんの目は綺麗な空色だけど。」
「言葉のあやというものです。欲しければいつでも差し上げますよ。」
「やめて。」
「ふふふっ。」
ちゃっかり兄が自分の椅子を私の隣に置いて、近距離で再び残りのケーキを差し出してくる。
そういえば抱き人形になってから食べられていないんだった。
あの有無を言わせない笑顔で向けられたケーキを口に含む。レモンクリームの爽やかな香りが鼻を抜けていってとても美味しい。
同じフォークで兄も自分で一口食べていた。
私のケーキなのに。
視線の意味に気付いたのか、嬉しそうに兄が微笑むとまた私にケーキを差し出した。最後の一口だが結構大きい。
ほとんど突っ込むようにケーキを口にねじ入れられて、口の中がケーキでいっぱいになる。
なんとか咀嚼して飲み込んで、兄を睨んだ。
そんな私の口の端を指先で拭うと、その指を兄はペロリと舐める。色気爆発の仕草だが、私にとってはいつもの兄のイタズラなので当然無視する。
「兄さん。いつも言うけど、窒息しちゃうから危ないでしょ。」
「その時は私が人工呼吸をしてあげますよ。心肺蘇生も心得ていますから安心してください。」
「そういう問題じゃない。」
この兄には何を言っても無駄なのは分かっているけれど、言わずにはいられない。現に私は顎が外れそうになっているのだから。
「ただいま戻りました。お待たせして申し訳ございません。手紙を直接渡すのだと屋敷内に踏み込んで来られたので、力ずくでお帰りいただきました。」
どことなく晴れ晴れとした空気を漂わせながら、メイドが戻ってくる。その手にはトレーに乗せられた手紙と封蝋された書状が見えた。受け取ったのか奪ったのかは定かではないが、お願いした通りにはしてくれたようだ。
「よくやりました。後でボーナスを支給します。」
『ボーナス』という兄の言葉にメイドの目が輝いたのを、私は見逃さない。
「ありがとうございます。こちらが伯爵家からの手紙と書状でございます。」
粛々とトレイの上に置かれた手紙たちとペーパーナイフを差し出すメイドは、服の乱れ1つない。
力ずくと言っていたがどうやったのだろうか。やはり我が家のメイドは優秀である。
私が取るよりも早く兄がペーパーナイフを手に取ると、まずは手紙の封を音もなく開けてくれる。
なにその無駄な刃物捌き。妙に怖いって。
中の手紙だけを渡してくれる兄に礼を言って内容を確認する。
読めば読むほど目眩がするその中身に、この場で燃やしてしまいたくなった。
こんなものを兄さんに見られたら………
「………ほう。なんとも面白い内容ですね。」
終わった。私ではなくお父様の胃が……
いつ背後に回ったのだろうか。私の肩越しに手紙を読む兄の声が絶対零度になっている。
それもそうだろう。何故か私はあのアホを愛していることになっているし、私が逃げ出したのはマリーとアルフレッド伯爵が仲睦まじくしているのを見ていられなかったからと手紙に書かれている。
どう解釈すればあの状態を仲睦まじくなんて思えるのだろうか。
そして極めつけは婚約と結婚に当たって、子爵領の3割割譲と毎年の税収の一割を伯爵家に支援するという誓約書に父がサインしろというものだった。この書状なのだろう。
自分と結婚するのだからそれくらい差し出して当然とばかりに記されている。私を金のなる木とでも見ているのかな?
これはマリーと何かしらあったのだろう。
なんて悠長なことを考えている場合ではない。
後ろが怖い。振り返らなくても兄の周りが吹雪いているのが分かる。
もう私は何も言うまいとばかりに兄に手紙と書状を渡すと、にっこりと笑顔を貼り付けた。
「兄さんのお好きにどうぞ。」




