傷つきし者よ、それでも明日の光へ向かえ
その夜、街全体が、まるでかつて誰かの頭蓋骨の内側に貼りつけられたまま剥がれかけた古い壁紙さながらに、じっとりと湿った沈黙のなかで息をひそめていた、とでも言うべきか、あるいは街とよぶことすらもはや正確ではなく、それはただの、人間という名の奇妙な動物たちが互いの体温を確かめるでもなく避けるでもなく密集している、意味の定まらぬ塊であった、と言うべきであろうか、ともかくそこには暗さがあり、その暗さのなかに、タカヒロという名の男が、街灯の光の輪のちょうど外側、影と光の縫い目のようなところに立っていた。
タカヒロは、自分の両手を見ていた。かれの両手は、長いあいだ水に浸かりすぎた紙のように白く、指の関節のところどころが赤みを帯びていて、それはおよそ人間の手とはかけ離れた、たとえば誰かが素人仕事で縫い合わせた手袋の中身を抜いたもの、とでも表現するほかない代物だった。その手が、震えていた。震えているというより、震えさせられていた、と言うほうが正確であって、なにかに操られた操り人形の末端部分のように、かれの意志とは無関係に、ただ小刻みに揺れていた。
見あげれば、ビルとビルのあいだに切り取られた夜空が、やはりなにかを拒絶するかのようにして黒く閉じており、星とよべるものはひとつもなく、ただ分厚い雲が、光のいっさいを押しつぶしながら低くたれさがっていた。あの雲は、いつか誰かが感じたまま言葉にできなかった感情の総量が凝固したものではないか、とタカヒロは思った。もはやそれを思う自分自身の内部も、あの雲と区別がつかなくなっていた、と気づいたのは、その思考のすぐあとのことであった。
タカヒロの背後では、居酒屋のガラス戸の向こうに、十数人の人間たちがいた。笑っていた、おそらく。口を開けて、喉の奥の暗がりを覗かせながら、笑っていた。その笑いの音が、ガラスを通してくぐもり、ほとんど別の音として届いてくるとき、タカヒロには、それがもはや笑いではなく、なにか巨大な機械の内部で複数の歯車が嚙み合うときに発する律動的な摩擦音のように聞こえた。人間が笑う、ということと、機械が軋む、ということとの、あいだに、もはやいかなる質的な差異も、タカヒロの耳には届かなかった。
かれがそこへ来た理由は、いまとなっては定かでなかった。いや、定かでなくなっていた、というべきか。理由というものは、それを実行する前には存在し、実行したあとには雲散してしまうもの、そういう性質のものとして世界は設計されているらしかった、少なくともタカヒロが経験してきた世界においては。かれは三十四歳で、独身で、週五日、データを整理する仕事をしていた。データを整理する、とはすなわち、存在しているものを存在していないかのように見せかけ、存在していないものを存在しているかのように見せかける、作業である、とタカヒロはひそかに定義していた。その定義が、そのまま自分自身の存在様式の記述になってしまっている、ということにも、かれは気づいていた。
かれの父は、かれが十一のとき、特段の理由も告げずに家を出て、それきり戻らなかった。母は、その後十年間、タカヒロを育てながら、一度もその不在について語らなかった。語らない、ということが、ときに語ること以上の重さで人間の内側に積もっていく、ということを、タカヒロが理解したのは、母が亡くなってからのことだった。積もったものは、いつかかならず、なにかのかたちで外に出ようとする。それがどのようなかたちをとるかは、制御できない。たとえば、こうして夜の街灯の縁に立って、自分の震える手を眺めているという、誰から見ても了解不可能な行為のかたちをとることも、おそらくは、あり得た。
街灯の光が、タカヒロの顔の半分を照らし、半分を影に置いた。その境界線は、ちょうどかれの鼻梁の上を走っており、明と暗の二枚の仮面を貼り合わせて作られた顔が、そこにあった。通りかかった女が、一瞬だけタカヒロを見て、すぐに視線を外した。その一瞬の視線のなかに、恐怖に似た何かがあったことを、タカヒロは感じた。恐怖、あるいは憐憫、あるいはその二つの区別のつかない感情、つまり、自分とは異なるものを前にしたときに人間が生理的に分泌する、名前のない液体のようなもの、それがその女の目のなかにあった。
タカヒロは叫ばなかった。叫ぶという行為が、もはやかれの身体の語彙のなかに存在しないかのように、ただ静かに立っていた。しかし、その沈黙の内部では、何かが回転していた。何かが、猛烈な速度で、音もなく、回転していた。それはたとえば、精密に設計されたが誰にも使われないまま放置された機械が、ある日突然、設計者の意図をはるかに超えた速度で自律的に動き出した、そのような回転だった。その回転のなかから、タカヒロには、声が聞こえてきた。父の声でも、母の声でもなく、かれ自身の声でもなかった、その声は、ただこう言った。生き延びろ、と。お前はまだここにいる、と。暗がりのなかで震えながらも、お前の手は、まだここで動いている、と。タカヒロは、その声を、はじめて憎むことなく、聞いた。




