第7話:帝都の光、二人の約束
事件解決後、太子・玄宗はすっかり回復し、再び政務に励むようになった。宮中には、翠燕の功績が広く知れ渡り、医官たちは彼女の卓越した知識と洞察力に、もはや反発する術を持たなかった。翠燕は、名実ともに『帝都の奇妙な薬師』として、その名を轟かせていた。
しかし、翠燕は依然として『杏林堂』の小さな薬屋に身を置いていた。宮中からの破格の待遇や、高い地位の申し出も、彼女は全て辞退した。
「私の務めは、あくまでも病を癒すことです。宮中に縛られる必要はありません」
翠燕は、李桂の問いに、淡々とそう答えた。しかし、その瞳の奥には、以前のような無感情の壁はなく、柔らかな光が宿っていた。
李桂は、翠燕のその決断を尊重した。彼は、頻繁に『杏林堂』を訪れるようになった。時には、宮中の些細な体調不良の相談を装い、時には、ただ翠燕の隣で、薬材を整理する姿を眺めるためだけに。
ある日の午後、李桂が『杏林堂』を訪れると、翠燕が珍しく店先で、杏の木に水をやっていた。木には、小さな青い杏の実が、たくさんぶら下がっている。
「杏の実は、まだ酸っぱいか」
李桂が問いかけると、翠燕は振り返り、微かな笑みを浮かべた。
「ええ。もう少し熟せば、甘くなります。薬にも使えますが、そのままでも美味しいですよ」
その笑顔は、以前の彼女からは想像もできないほど、自然で、温かかった。李桂の心臓は、翠燕のその笑顔を見るたびに、これまでにないほど強く脈打つようになった。彼は、翠燕が少しずつ心を開き、感情を取り戻していく様子を、何よりも愛おしく感じていた。
「翠燕殿は、これからも、ずっとこの『杏林堂』で、薬師を続けるのか」
李桂は、一歩翠燕に近づき、尋ねた。
「ええ。この場所が、私にとって、一番落ち着きますから」
翠燕の視線は、杏の木から、李桂の瞳へと移った。その瞳には、もう過去の悲しみの影はなく、ただ、彼への確かな信頼と、そして、微かな期待の光が宿っているように見えた。
李桂は、翠燕の手をそっと握った。彼女の手は、以前のように冷たくはなく、温かい体温が伝わってくる。
「そなたのそばに、私がいても良いか」
李桂の声は、普段の冷徹な彼からは想像もできないほど、優しく、そして、どこか震えていた。彼の瞳には、翠燕への深い愛情と、共に生きていきたいという切実な願いが満ちていた。
翠燕は、李桂の瞳をまっすぐに見つめ返した。そして、彼女の顔に、最高の笑顔が花開いた。それは、杏の花が満開になるように、柔らかく、そして、温かい笑顔だった。
「ええ。あなたがいてくだされば、この『杏林堂』は、もっと温かくなります」
彼女の言葉に、李桂は翠燕をそっと抱きしめた。薬材の匂いと、杏の木の微かな香りが混じり合い、二人の体を包み込む。帝都の空は、夕焼けに染まり、二人の姿を優しく照らしていた。
翠燕は、感情を閉ざした無表情な薬師から、李桂の愛によって、心を開放した一人の女性へと変貌した。李桂もまた、冷徹な宦官としての仮面の下に、翠燕への深い愛情を秘める、温かい心を持つ男となった。
帝都の光は、これからも変わらず輝くだろう。そして、『杏林堂』の小さな薬屋には、二人の奇妙で、けれど確かな愛情が、ずっと静かに息づいていく。