第6話:解き放たれる感情、新しい兆し
宮中を揺るがした毒の陰謀は、李桂の迅速な対応と、翠燕の卓越した知識によって完全に解決された。首謀者である外戚の重臣は捕らえられ、太子・玄宗の回復は確実なものとなった。宮中には、ようやく安堵の空気が戻りつつあった。
しかし、翠燕の顔は、相変わらず無表情だった。彼女は、医官や高官たちからの感謝の言葉にも、ただ淡々と頭を下げるだけだった。まるで、一連の事件が、彼女にとって何の感情も呼び起こさない、ただの「課題」であったかのように。
「翠燕殿は、まだ、悲しみや喜びを知らぬのか」
李桂は、事件解決後、静かに翠燕に尋ねた。彼女は、薬室で薬材の整理をしながら、首を横に振った。
「感情は、真実を見誤らせる可能性があります。薬師として、それは避けるべきことです」
翠燕の言葉は、以前、彼女が弟を失った悲しみから学んだ、彼女なりの処世術だった。しかし、李桂は、その言葉に深い悲しみを感じた。彼女が、どれほどの痛みを乗り越え、心を閉ざしてきたのかを、知っているからだ。
「しかし、感情がなければ、人の心を癒すことはできぬ。そなたの薬は病を癒すが、その心までは癒せぬ」
李桂は、翠燕の肩にそっと手を置いた。翠燕は、わずかに体を震わせたが、振り払うことはなかった。
「そなたの弟君は、そなたが感情を閉ざすことを望んではいないだろう。そなたの心は、決して凍り付いてなどいない。ただ、深い悲しみに蓋をしているだけだ」
李桂の声は、静かで、しかし、どこか切実な響きがあった。彼の瞳は、翠燕の瞳の奥に潜む、本当の感情を探ろうとしていた。
その時、薬室の窓から、一羽の小鳥が飛び込んできた。小鳥は、薬棚の上の止まり木にとまり、さえずり始めた。翠燕は、その小鳥を、どこか懐かしむような、柔らかな眼差しで見つめた。その表情は、李桂がこれまで見たことのない、彼女の「素顔」だった。
「その小鳥は、そなたの弟君か」
李桂が尋ねると、翠燕の無表情な顔に、初めて、微かな微笑みが浮かんだ。それは、ごく小さく、儚い微笑みだったが、李桂の心には、強い衝撃を与えた。
「弟は、小鳥が大好きでした。私が薬学を学び始めた頃、庭で一羽の小鳥が弱っているのを見つけて、治してあげたことがありました。弟は、その小鳥を見て、初めて心から笑ってくれた……」
翠燕の声は、感情を帯びていた。その瞳は、涙で潤んでいた。彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。それは、長年閉ざされてきた心が、解き放たれる瞬間の涙だった。李桂は、その涙を、そっと指で拭った。
「そなたの薬は、弟君の病を治せなかったかもしれない。しかし、その薬は、今、多くの命を救っている。そして、そなたの心も、癒されるべきだ」
李桂の言葉は、まるで翠燕の心に温かい薬が染み渡るかのようだった。翠燕は、李桂の瞳をまっすぐに見つめた。その瞳には、もはや無感情の壁はなく、深い悲しみと、そして、彼への確かな信頼と感謝の光が宿っていた。
「私は……李桂殿がいてくださったから、ここまで来られました。真実を見つけることができました。私の心は……もう、凍り付いてなどいません」
翠燕は、かすかに震える声で言った。その言葉は、彼女が李桂に示した、最大の信頼と、そして、新たな感情の芽生えだった。李桂は、翠燕の手を優しく握りしめた。その手は、冷たかったが、確かに温かい命の鼓動が伝わってくる。
宮中の騒乱は収まり、帝都には平和が訪れた。しかし、李桂と翠燕の心の中には、新たな物語が始まりつつあった。それは、互いの孤独を癒し、共に未来へと歩む、新しい「共生」の兆しだった。