表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝都の奇妙な薬師  作者: 朝陽 澄
5/9

第4話:月下の告白、明かされる傷痕

老女官の体調は、翠燕が調合した薬によって徐々に回復していった。しかし、宮中には不穏な空気が漂い続けていた。太子・玄宗と乳母の相次ぐ病は、単なる偶然では片付けられず、何者かの明確な意図を感じさせた。李桂は、翠燕の分析と推理が、宮中の医官たちの知識をはるかに凌駕していることを確信し、彼女への信頼を一層深めていた。


その夜、李桂は翠燕に、彼女が普段過ごしている『杏林堂』の裏の小さな部屋で休むよう命じた。宮中に翠燕を滞在させることに、一部の医官や高官から反発の声が上がっていたのだ。翠燕は、その決定にも感情を動かすことなく、ただ静かに頷いた。


月明かりが差し込む小さな部屋で、翠燕は薬材の整理を続けていた。その様子を、李桂は戸口から静かに見守っていた。彼女の指先が、薬草の根や葉を慈しむように触れる。その姿は、昼間の無表情な彼女とは異なり、どこか人間らしい温かさを感じさせた。


「翠燕殿は、そのような細やかな作業がお好きか」


李桂が問いかけると、翠燕は顔を上げず、淡々と答えた。


「薬材は、一つ一つに個性があります。その個性を見極め、適切に扱うことが、薬師の務めです」


彼女の言葉に、李桂は眉をひそめた。彼女は、薬材には個性を見出すのに、なぜ自分の感情は閉ざしているのだろうか。


「そなたの言う『大切な者』とは、一体誰のことだ」


李桂は、以前彼女が語った「病で大切な者を失った」という言葉の真意を探った。翠燕の手が、ぴたりと止まった。部屋の中に、張り詰めたような沈黙が流れる。


翠燕は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、月明かりを映して、どこか遠い過去を見つめているようだった。


「私の、弟です。幼くして、原因不明の病に倒れました」


翠燕の声は、いつもと同じように感情がなかった。しかし、その言葉の奥に、微かな、しかし確かな痛みが宿っているように感じられた。李桂は、彼女の瞳の奥に、深い悲しみの淵を見た。


「当時の医官たちは、誰もその病を見抜けず、適切な治療も施せませんでした。私も、ただ、弟の苦しむ姿を見ていることしかできなかった……。あの時の無力感が、私の心を、凍らせたのです」


彼女の言葉は、まるで固く閉ざされた氷の扉が、ゆっくりと開かれていくかのようだった。無表情の仮面の下に隠されていた、痛ましい過去。李桂は、彼女のその告白に、胸の奥が締め付けられるのを感じた。


「だから、二度と、同じ過ちを繰り返さないために、私は薬学を究めました。どんな病も、どんな毒も、見抜き、癒せるように。感情に囚われず、ただ真実だけを追求するために」


翠燕は、再び手元の薬材に視線を落とした。その指先は、震えることなく、しかし、その背中からは、拭い去れない深い孤独が滲み出ていた。


李桂は、翠燕の隣に静かに歩み寄った。そして、彼女の顔をそっと持ち上げた。彼の冷徹な瞳が、翠燕の感情のない瞳をまっすぐに見つめる。


「しかし、感情を閉ざせば、真実を見抜けるとは限らぬ。時には、人の心が、真実へと導くこともある」


李桂は、翠燕の頬に触れた。その指先は、冷たく、そして少しだけ震えていた。翠燕は、その触れ方に、微かに目を見開いた。彼女の肌に触れる李桂の指先に、彼女自身の温もりが伝わってくる。


「そなたは、もう一人ではない。そなたが、どれほど深い悲しみを抱えてきたか、私には全ては分からぬ。だが、そなたの隣には、私がいる」


李桂の声は、月明かりのように静かで、しかし、どこか深い情愛が込められていた。彼の瞳には、翠燕への心配と、彼女を救いたいという切実な願いが宿っている。それは、これまで彼が誰にも見せたことのない、人間らしい感情の表れだった。


翠燕の無表情な顔に、再び、微かな変化が訪れた。瞳の奥に、揺らめくような光が灯り、硬く閉ざされていた唇が、わずかに震える。


その瞬間、部屋の外から、微かな物音が聞こえた。誰かが、この『杏林堂』の周囲を、忍び足で探っている気配。李桂は、素早く翠燕から手を離し、警戒するように視線を向けた。


「どうやら、まだ、私たちの相手は諦めていないようだ」


李桂の声には、冷徹な宦官としての鋭さが戻っていた。しかし、彼の心には、翠燕の告白と、その痛みに触れたことで、これまでとは違う、温かな感情が芽生え始めていた。翠燕もまた、その無表情の奥で、李桂の言葉と温もりが、凍りついた心を少しずつ溶かしていくのを感じていた。宮中の闇は、まだ深く、複雑に絡み合っている。しかし、二人の心は、この月明かりの下で、確かに繋がった瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ