第2話:沈黙の観察、蠢く影
太子・玄宗が毒に侵されているという翠燕の診断は、宮中に激震をもたらした。医官たちは彼女の異端な見解に反発したが、李桂の冷徹な一瞥の前では、誰もが口をつぐむしかなかった。翠燕は、その騒動を意に介することなく、ただ淡々と玄宗の容態を観察し続けていた。
「では、解毒薬の調合に取りかかってもらう」
李桂の声に、翠燕は小さく頷いた。彼女は玄宗の寝台から離れると、宮中の広大な薬庫へと案内された。そこには、あらゆる薬草や希少な鉱物が整然と並べられていたが、翠燕の視線は、そのどれにも長く留まらなかった。彼女が求めるのは、特定の薬材ではない。むしろ、その組み合わせによって毒性を発揮する薬草の「逆」を読み解くためだった。
薬庫の隅で、翠燕はしゃがみ込み、床に落ちていたごく小さな葉の破片を拾い上げた。医官たちが見過ごすような、取るに足らないもの。しかし、翠燕の瞳は、その一片の葉に宿るわずかな匂いと色を、完璧に分析していた。
「この葉は……?」
李桂が尋ねた。彼の視線は、翠燕の指先に釘付けになっていた。
「宮中に自生する毒性の弱い薬草です。単体では無害ですが、ある特定の薬草と組み合わせることで、徐々に神経を麻痺させる毒へと変化します」
翠燕の声は、依然として感情の起伏がなかった。しかし、その言葉の内容は、李桂の心をざわつかせた。この娘は、単なる薬師ではない。まるで事件の現場を分析する探偵のように、微細な証拠から全体像を読み解いている。
数日後、翠燕は太子用の解毒薬を調合し終えた。その間、彼女は太子宮に滞在し、玄宗の回復を待った。医官たちは、依然として翠燕を訝しんでいたが、李桂は翠燕の言葉を信じ、彼女に全幅の信頼を寄せていた。
玄宗は、翠燕が調合した薬を服用し始めてから、徐々に顔色を取り戻していった。呼吸も安定し、わずかながら意識も戻った。医官たちはその回復ぶりに驚きを隠せない。翠燕の診断が正しかったことが、誰の目にも明らかになったのだ。
しかし、翠燕は満足そうな表情を見せることはなかった。彼女の無表情な瞳は、依然として宮中のどこかに潜む、真の陰謀の影を捉えようとしているようだった。
ある日の夜、李桂は太子宮の庭を散策していた。夜風がひんやりと肌を撫でる中、彼はふと、庭の奥に明かりが灯っているのを見つけた。そこは、普段は使われない小さな東屋だった。
李桂が近づくと、そこに翠燕が座っているのが見えた。彼女の膝の上には、一冊の古びた書物が広げられている。書物の内容は、珍しい薬草の図鑑のようだった。翠燕は、月明かりの下で、書物に描かれた植物の絵を、一点の曇りもない瞳でじっと見つめていた。その横顔は、昼間の無表情とは異なり、どこか静かで、そして微かに、柔らかな光を帯びているように見えた。
李桂は、気づかれないように彼女の背後に立ち止まった。そして、翠燕の耳に、ごく小さな、微かな音が届いた。それは、彼女がページをめくる音でもなければ、風の音でもない。誰かが、この宮中で、細心の注意を払って歩く、微かな足音だった。その足音は、東屋へと近づいている。
翠燕は、書物を閉じることなく、ゆっくりと顔を上げた。彼女の視線は、暗闇の奥に潜む「何か」を捉えている。李桂もまた、その方向へと視線を向けた。
暗闇の中に、人影が浮かび上がった。それは、太子宮に仕える、ごく普通の下働きらしき男だった。男は、何かを隠すように懐に手を入れ、あたりを窺いながら、そっと宮殿の裏手へと消えていった。
翠燕は、その男の背中を、無感情な瞳でじっと見つめていた。李桂は、その翠燕の視線の先に、微かな好奇心と、そして得体の知れない危険の予兆を感じた。
「何か、見つけたか」
李桂が静かに尋ねると、翠燕は彼の方を振り向き、小さく首を横に振った。
「いいえ。何も」
彼女はそう答えたが、李桂は知っていた。この娘の「何も」は、必ずしも「何もない」を意味しない。彼女の無表情な瞳の奥には、常に、隠された真実を見抜く鋭い光が宿っている。太子を蝕む毒の背後で、確かに何かが蠢いている。そして、その影を追う翠燕という存在が、李桂の心に、これまで感じたことのない、奇妙な興味を植え付けていた。