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帝都の奇妙な薬師  作者: 朝陽 澄
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プロローグ:澱む水

帝都・長安の朝は、絢爛な光に包まれる。皇帝の居城である紫禁城からは、金色の瓦が太陽を反射し、都を彩る朱色の門や壮麗な楼閣は、まるで天上の世界のようだと謳われた。しかし、その華やかな表舞台の裏では、古くから澱んだ水のように、闇が蠢いていた。権力争い、嫉妬、陰謀——それらは、表向きの美しさとは裏腹に、人々の心を蝕む毒のように、静かに、だが確実に広がっていた。


都の東のはずれ、細い路地が入り組んだ一角に、ひっそりと佇む一軒の薬屋があった。軒先に杏の木が植えられていることから、人々はそこを『杏林堂きょうりんどう』と呼んだ。その店主は、齢十六、七にも見える若い娘、翠燕すいえん


翠燕は、その若さとは不釣り合いなほどの深い知識と、類まれなる観察眼を持っていた。どんな複雑な症状も、どんな奇妙な病も、彼女の無表情な瞳にかかれば、たちどころにその本質を見抜かれてしまう。そして、彼女が調合する薬は、まるで魔法のように病を癒す、とまことしやかに囁かれていた。


しかし、翠燕の顔には、感情というものがほとんど表れることはなかった。常に冷静で、どこか遠い場所を見つめるような瞳。喜びも、悲しみも、怒りも、彼女の表情からは読み取ることができない。まるで、この世のあらゆる感情から切り離されたかのように、彼女はただ淡々と、人々の病と向き合っていた。


その日の『杏林堂』も、いつものように静かだった。店内に差し込む午後の日差しが、薬棚に並べられた陶器の瓶や、薬草を乾かすための網を照らす。翠燕は、煎じ薬の匂いが立ち込める中で、黙々と薬材を分類していた。その指先は、細くしなやかで、迷いなく正確な動きをする。


突然、薬屋の扉が、音もなく開いた。そこに立っていたのは、一人の男。鮮やかな藍色の豪華な衣装を身につけ、その顔は、人形のように整った美しさを持ちながらも、一切の感情を映していない。彼の腰には、高位の者が持つことを許された、玉の飾りが揺れている。彼こそは、皇帝の側近中の側近であり、帝都で絶大な権力を握る**宦官・李桂り けい**だった。


李桂は、冷徹な視線で翠燕を捉えた。その眼差しは、鋭く、まるで獲物を定めた猛禽のようだった。翠燕は、薬材を分類する手を止めず、ただ一度だけ、その冷たい視線を受け止めるように、李桂の顔を見上げた。そして、何の感情も読めないまま、再び手元の作業に戻った。


「そなたが、『杏林堂』の翠燕か」


李桂の声は、低く、静かだった。その声には、宮中の高位の者が持つ、絶対的な威厳が宿っている。普段ならば誰もが恐れおののくその声に、翠燕は微動だにしない。


「御用件は」


翠燕は、淡々と答えた。その声は、薬材の乾燥した音のように、感情の起伏がない。


李桂は、翠燕のその無感情な態度に、わずかに眉を動かした。そして、静かに口を開いた。


「太子殿下が、原因不明の奇病に倒れられた。宮中の医官では、誰もその病を見抜くことができぬ。そなたの噂を聞き、参じた」


太子、玄宗。次期皇帝と目される、帝都の希望。その彼が、奇病に? 翠燕の無表情な顔に、わずかな変化が訪れたように見えた。しかし、それは一瞬で、すぐに元の無感情な顔に戻る。


李桂の視線が、翠燕のそのわずかな変化を捉えた。この娘は、噂通りの不思議な存在だ。そして、もしかしたら、この澱んだ水のような帝都の闇に、新しい風を吹き込むことができる、唯一の存在なのかもしれない。


物語は、この無表情な薬師と、冷徹な宦官の出会いから始まる。帝都の深い闇の中に潜む真実と、彼らの心に秘められた感情が、ゆっくりと明らかになっていく。

お読みいただきありがとうございました。

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