一言くらい、言ってほしかった
二人で過ごす優雅なティータイムの時間。
今日も、彼は静かにケーキを口に運ぶ。
その所作は、いつもながら驚くほど丁寧で、無駄がない。
姿勢を崩すことなく、すっとフォークを持ち上げ、端正な顔のまま小さく口を開く。
唇がケーキに触れる度、私の心臓がドキドキと、わずかに跳ねた。
「……いかがですか?」
ゴクリと唾を呑み、思い切って尋ねる。
すると彼は一瞬だけ手を止め、紅茶を手に取った。
「大丈夫だ」
――また、それだけ?
涼し気な表情で目を伏せたまま、紅茶に口をつけるカミル様。
ほんの一言。一体、何が大丈夫なのか。
それだけで、私の今日の頑張りがすべて空気に溶けて消えていくようだった。
先週より、バターを控えて小麦粉の配合も変えてみた。
焼き時間も秒単位で見直したし、冷やし方も変えてみた。
先週より軽やかで、しっとりと、舌の上でほろりと崩れるように仕上げたのに。
「お口に合わないのでしたら、おっしゃってください?」
頑張って笑顔を作り、問いかけた。できる限り、いつも通りの声で。
でも、自分でもわかる。唇の端がひきつっているのが。
けれど彼は、顔を上げようともせず、いつものように静かな声で「いや、別に。問題ない」と返し、黙々とケーキを口に運ぶ。
まるで、さっさと食べてしまわなければならない、義務のように。
その瞬間、ぷつり、と私の中の何かが切れた。
〝別に〟って……、何?
〝問題ない〟って、何?
それ、返事になってないんですけど?
心を込めた感想が欲しいなんて、大それたことは言わない。
でもせめて、「美味しい」とか、「これは少し甘いかも」とか……何か、あなたの言葉が欲しかった。
私の中に募った思いは、しゅるしゅると胸の奥で渦を巻いて、やがて静かな諦めへと形を変える。
……もういい。
もう、お菓子を作るのは、やめる。
彼のために、喜んでもらいたくて、ずっと続けてきたことだったけど。
そんなのは、私だけが考えている、エゴなんだわ。
『――これは契約結婚だ。君を愛することはないだろう』
初夜に、夫からそう告げられたのは一年前のことだった。
私たちの結婚には愛がなかった。それは貴族同士の婚姻では珍しいことではない。
私の夫、カミル・リーベナウ侯爵は、若くして家を継いだ。
妻がいなければ体裁が悪いという理由で、家柄のよいヴァルトハイム伯爵家の次女である私、エーファが彼の妻となった。
整った顔立ちに、すらりと高い背丈。銀の髪に太陽のような金色の瞳。
そんな美しい彼を見て、最初は少し期待してしまった。
こんなに素敵な人の妻になれるなら、たとえ契約結婚でも悪くないかもしれない。
……そう思っていたのに。
あの夜、緊張しながら迎えた初夜で冷たく言われた言葉に、私は結婚生活に期待するのをやめた。
私の唯一の特技――それが、お菓子作りだ。
小さい頃から調理場に立っては、料理長や母の隣で泡立て器を回していた。
材料が混ざり合っていく感触が好きで、焼き上がる甘い香りが心を落ち着かせてくれた。
私は四人姉妹で、よく姉妹仲良くテーブルを囲ってお茶をした。
姉妹たちが「エーファのお菓子は世界一美味しいわ!」と言って喜んで食べてくれるのが嬉しくて。
だから侯爵家に嫁いできた今でも、気づけば自然と手が動いている。
材料の配合はもちろん、その日の温度や湿度、使う卵の鮮度やバターの産地にまで気を配る。
ほんの少しでも、前より美味しく――その一心で、私はいつも調理場に立ってきた。
契約結婚したカミル様に、せめて妻としてできることが何かないかと考えたとき、私にできるのは、やはりこれしかなかった。
だから週に一度の、彼と過ごすたったひとときのティータイムには、必ず私が焼いたお菓子を出してきた。
けれど。
カミル様に「どうですか?」と尋ねても、返ってくるのはいつも――。
「大丈夫だ」
「問題ない」
「別に」
そんな、素っ気ない言葉ばかりだった。
完食してくれるのは、ありがたい。一口食べて、フォークを置くような人ではない。
でも、心を込めて焼いた者としては、もうちょっと、こう……何か感想が欲しいと思ってしまう。
ほんの少しでいいのに。あれでは、美味しいのか美味しくないのか、まっっったくわからない。
あの冷淡で整った顔で静かに紅茶を口にする彼を、何度横目で盗み見たことか。
彼は感情をあまり表に出さない人だ。
それは知っているけれど……「美味しい」か「口に合わない」か、くらい、言えるはず。
でも、もういい。
今回こそは喜んでくれるかも……なんて、期待するのはもうやめよう。
ティータイムのお茶菓子なんて、彼はなんだっていいのだろう。
砂糖をどばどば入れたって、塩をたくさん入れたって、「問題ない」とか言うんじゃないかしら。
それに、どうせ私たちは契約結婚した夫婦。
愛もなければ、情もない。
数年後には離婚するのだし、彼のためにこんなに悩んで、神経をすり減らして、時間を費やす意味なんて、もうない。
というわけで、翌週から私は彼のためにお菓子を作るのを、やめた。
そうしたら、なんだかすとんと気持ちが落ち着いてきた。
もちろん、本音を言えばちょっと寂しい。でも、それ以上に、もう疲れてしまったのだと思う。
代わりに、屋敷の使用人にお願いして、市場で買った量産品のお菓子を出してもらうようにした。
侯爵家なのだから、もっと高級な菓子店に注文することもできるけれど、それでは意味がない。
私が自分で作っていたのと同じくらいのコストのものを選んでもらった。
そうじゃないと、フェアじゃないもの。
比べてもらうには、条件を揃えないとね。
そうして、その日の午後。
いつものようにティータイムの時刻になると、使用人が用意した市販のケーキがテーブルに並べられた。
色合いは美しく、形も整っている。
でも、どこか無機質で、整いすぎていて――ぬくもりがない。
先ほど私も一口味見してみたけれど、甘さがやたらと強く、舌にざらつく感触が残った。
使われている材料もどこのものかわからないし、香りもわざとらしく強い。
でも、彼にはきっと、これで十分なはず。
「今日のケーキは、いかがですか?」
今日もいつものように、「大丈夫だ」その言葉が返ってくるのだろう。
そう思いながら、努めて明るく微笑みながら尋ねる。
けれど本音は、少しだけ緊張していた。
本当に、これまでと同じように「大丈夫だ」と言われたら……。
ドキドキしながら、いつものように静かにフォークを取って、ケーキを一口食べるカミル様を見つめた。
すると――。
「……これ、いつものと違うな?」
その言葉に、私は内心で心臓が跳ねるのを感じた。
けれど、それを悟られないよう、笑みを作って頷く。
「ええ、そうですね」
短くそう答えて、それ以上は何も言わず、湯気の立つ紅茶にそっと唇を寄せた。
「……」
カミル様は、じっと私を見つめていた。
私にもっと何か言ってほしそうにしているけれど、彼も特に何かを付け足すわけではない。
でも、〝いつものと違う〟ということには、気づいたのね。
何を出しても無関心なのかと思っていたけれど、そういうわけでもないみたい?
けれど、次の週も、そのまた次の週も、市場のケーキを出す私に、彼は特に何も言わなかった。
「美味しくない」とは言わないけれど、その代わり「大丈夫だ」とも、「問題ない」とも言わない。
変わらず静かに、淡々とティータイムを過ごし、ケーキを食べて、紅茶を飲む。
そうして迎えた、更に次の週――。
いつものように、市場のケーキを出したところで、ついにカミル様が口を開いた。
「……もう、これは出さないでほしい」
その声は、いつになく低く、そして真剣だった。
「……え、なぜです?」
つい問い返すと、カミル様は苦しげに眉をひそめた。
「はっきり言って……美味しくない。君の作るケーキとは、大違いだ」
「……まあ」
その一言に、私は驚いて彼を見つめた。
私と視線が合うと、カミル様は恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……君が作ってくれるお菓子を……僕は、毎回楽しみにしていたんだ」
「え?」
恥ずかしそうに少しだけ頬を赤く染めて、ぽつりと呟くカミル様。
「……伝わっていなかったのだろうか?」
その言葉に、私はじっと彼を見つめたまま、思わず声を荒らげてしまう。
「ええ、まっっったく! 一ミリも! 伝わっておりません!」
「そ、そうか……すまない。だが、今更でも言う。僕は君のケーキが、一番好きだ」
「……まあ」
ばつが悪そうに頭をかく彼の姿に、思わず溜め息がこぼれる。
……そんなの、本当に、まったく、全然伝わっていなかった。
感情表現が乏しいにも、ほどがある。
「……もう、遅いです」
私はそっぽを向いたまま、そう言った。
けれど、胸の奥にたまっていた何かが、すぅっと溶けていくのを感じた。
「すまない……! また僕は君の気持ちを考えずに……っそうだ、明日! 明日も、時間をくれるだろうか?」
「え?」
慌てたように身を乗り出すカミル様。いつになく必死なその姿に、私は目を瞬かせる。
「明日も、君とお茶をしたい。お菓子は……僕が用意する。……付き合ってくれるだろうか?」
あまりに不器用な申し出に、私はつい笑みをこぼしてしまう。
「……いいですけど」
「ありがとう!!」
珍しく感情を露にして喜ぶ彼が、少しだけ可愛く思えた。
――そして翌日。
「うちの料理人に作り方を教わりながら作ったのだが……」
なんと、カミル様が自分でチョコレートケーキを作ってきた。
お皿の上に置かれたのは、どう見ても……不格好。
形も歪で、表面はところどころ焦げている。
ナイフを入れると、ぽそぽそと崩れてしまった。
……見た目はひどいけど、味は――いや、味見をしなくても、市場で買ったケーキのほうが美味しいのはわかる。
「ケーキを作るのがこんなに大変だなんて、知らなかった。君は毎回、あんなに美しく、美味しく作ってくれていたんだな……」
カミル様は申し訳なさそうに眉を下げ、それでもまっすぐ私を見つめて言った。
その声には、拙いながらも本気の敬意と反省の気持ちが込められているのが、伝わってくる。
「……それなのに、僕は……」
まるで心の底から、ぽつりと漏れたように呟くカミル様。
「ふふっ、食べてもいいですか?」
「あ、ああ……君のように美味しくはできなかったが」
私はフォークを入れ、小さく切ったケーキを口に運んだ。
――うん、やっぱり、美味しくない。
生地はパサパサで、砂糖が一部に偏っていて、甘すぎる。
本当に、料理人に作り方を教わったのかしら?
でも、それでも。
「カミル様はお忙しいのに……わざわざ作ってくださったんですね。ありがとうございます」
「……き、君の口に……合ったか?」
不安げなまなざしで尋ねる彼に、私はそっと微笑んだ。
「いえ、味は正直……ですけど、気持ちはとっても嬉しかったです。今度は一緒に作りませんか?」
「……いいのか?」
一瞬、彼の目に希望が灯る。私は微笑みを深めて、はっきりと頷いた。
「ええ、今度はちゃんと、感想を聞かせてくださいね?」
「ああ、もちろん。今度は、僕の気持ちを素直に口にするよ」
ああ、もう。
この人は本当に、不器用で、鈍くて、仕方ない人ね。
でも、私はそんなカミル様のことが……嫌いじゃない。
これからきっと、少しずつ、もっと甘くて、優しい時間が増えていく――そんな気がした。
お読みいただきありがとうございます。
母が「父がご飯を美味しいと言ってくれない」とぼやいていたので私が昇華しておきました(๑._.)و笑
この2人エーファとカミルが出てくる作品、ついにシリーズ化しました\(^o^)/
『旦那様、契約妻は終了です』
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