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伏線のない物語

向き合うもどき

作者: 融点

お読みいただきありがとうございます。

 一人で学校から帰ったのは、いつぶりだろうか。

 友達と喧嘩をした。それだけの理由なら単純に翌日謝って終わりだろう。ただ一番怖いのは、喧嘩もしていないが明らかに敬遠されている場合だ。

 ...電話だろうか。電話で話したほうが、メッセージよりかは感情が伝わるだろう。

 家に帰ってきたものの、することは特にない。いや、あるにはあるのだが今は手のつけようがない。

 ...だめだ。何もしたくない、が何もできないのも嫌だ。ここにいるのが辛い。自分として存在しているのが辛い。本当のことがわからないのが辛い。

 こういう場合、他の人に相談して解決するのは自分の場合滅多にない。だってそれでアドバイスされたとしても

『話してみたら?』

 みたいなことで大抵終わるからだ。ただそれしかアドバイスしようがない。ゆえに今自分にできることはそれしかないのかもしれない。

 時計を見る。変な空気が流れ始めたのは昨日のことではないはずだ。現在午後四時。だからまだ長くても十六時間くらいしか経っていないはずだ。

 電話しようか...いや、やっぱり勇気が出ない。

 第一、あっち側が怒っている確証もない。もし怒っていないとして、突然電話がかかってきたら鬱陶しいだけだろう。

 そんな感じに人と向き合うことから逃げている自分がいた。ただそれを自覚したのはメッセージを送ったあとだった。

『もしかして怒ってる?』

 あんまり長文を送ると電話と同じように鬱陶しい。ベストなのは短文で感情が伝わるメッセージである。ただそれが難しいから、『素直になること』は僕にとって難しいことなのだ。

 面と向かって話せれば、どれほど楽なのだろう。

 苦しみに紛れて送ったメッセージを見て、思わず送信を取り消そうになった。しかしここで取り消したら永遠にまた迷いが続くだけだろう。

 ベットに寝転がった。寝転がるというよりは、うつ伏せで手足を広げて、現実逃避を象徴するような体勢だった。

 まだ日は落ちていない。だから天井に張り付く蛍光灯に明かりを灯す必要もなかった。ただもう二時間くらい経てば、もうあたりは暗闇に包まれてしまうだろう。今は紛れもなく冬なのだから。

 ...はやく、春にならないだろうか。

 春になればクラス替えもある...いや、そうすると余計に距離感が微妙になるだけだ。

 一度向き合ってしまった以上、もう目を背けることはできない。

 なにか気分転換になるようなことはないだろうか。そう思って、背筋を使って起き上がり、あたりを見渡す。正確に言えば、『気分転換になること』ではなくて、『気分転換の代わりになること』だった。

 しかし僕は知っている。それは結局『代わり』でしかなくて、意識を完全に集中させることなど絶対に不可能なのだと。何があっても、不可能なのだと。

 よくよく考えてみれば、面と向かって話して済む話でも、明日を迎えるまでの時間、心の中は不安で満たされているままだろう。そう考えてみれば、そこまでこの状況は深刻ではないのではないかとも思える。

 ...いや、周りの事柄との共通点が見つかっても、今この時起こっていることは何も変わらないのだ。

 

 自分にとっての、周りとの共通点が見つかったところで、コンプレックスはコンプレックスのままであるように。

 

 僕は安心したいという欲が強すぎる。だから前を向いて物事に果敢に向き合っているつもりでも、実際は解決策というよりは楽になる方法を探していることのほうが多い。そしてそれに気がつくのはどんなときも、選択を誤った後だ。

 結局、僕がメッセージを送ったことも、結果的には向き合っていても、行動としては逃げなのかもしれない。それがなんだか嫌で、ただ取り消すこともできずに時間が過ぎていく。

 こういうときは意外とすぐに時間は過ぎていく。何もできずに過ぎていく。まったく時間が流れないよりはいいと思う。ただ問題は過ぎた後、何もできずに時間を無駄にした罪悪感が僕を襲うのである。...でも必ずその『嫌なこと』が過ぎてしまうなら、時間が止まるよりはいいだろうか。

 とりあえず散歩にでも行ってみよう。空を見たらもしかしたら気分が変わるかもしれない。

 そう思い、部屋の扉を開けて玄関へ戻った。靴を履いてドアノブに手をのせるまで、体の動きは鈍いままだった。いや、多分外に出て冷たい空気が頬に触れたから、外に出た途端体が軽くなったように感じただけだと思う。

 そんなに時間も経っていないのに、空はさっきとはまったく違う顔を見せてくれた。淡いオレンジ色をした夕日が、地球に鮮やかな弧をもたらしているように感じた。この光の線という弧が集まって、空は赤い夕方を演出していた。

 散歩に行くとき、僕の場合はルートを決めることはない。決めたくもない。ただただ思ったところへ、右へ、左へ、前へ...。

 どうしようもないとき、逃げたくなるというのは本当だ。でもわかっている。僕には逃げる勇気がないというより、逃げる気力がないのだ。

 逃げたところで報われないということがわかっているから、というよりか、...本当に、その理由もわからない。

 周りに相談したら、何かはわからないが色々理由を問われるから、嫌なのだ。結局相談している相手も、自分とまともに向き合ってくれていないと思えてしまう。

 ...しかし、それはただの我が儘である。我が儘を無理矢理正当化して、自分は被害者なのだ、自分は困っているのだと、知らない間に押し付けているだけなのかもしれない。

 でもそう思っても、結局被害者ぶろうとしてしまう自分が嫌いだ。

 被害者ぶっているわけじゃない。『ぶろうとしている』だけなのだ。ただの、机上の空論である。

 ふと我に返ると、郵便局の前にいた。郵便局を目印に道は左右に分岐している。目の前の赤い丸ポスト。左にあるのは緑色の草。右にあるのは灰色の石ころ。今ここにいるのは灰色よりも廃れた自分だった。

 灰色だって、廃れているわけではない。灰色は灰色自身で自分の存在価値を認識しているはずだ。

 正直なところ、僕だって自分の存在価値くらいあると思っている。今ここで生きているのだから。

 ...僕は知っている。自分の心は正常なのだということを。

 周りに心配される立場になりたい。そうすれば、あのときは辛くて人と接するのが難しかったなんていう言い訳ができるんじゃないか。そう思って、冬なのにベランダで風に当たり続け、風邪をひこうとしたことは多分去年にもあった。

 いや、今年はないか。

 それに気が付いて少し心が軽くなったものの、それは二秒も続かなかった。

 駄目だ。散歩したところでどうにもならない。帰ろう。ポストに背を向けて、地味にうつむきながら足を動かしてみた。

 今ここで、運良くばったり会えたら...。違う、わかっている。

 ―漫画の主人公には、僕はなれない。

 もしかしたら逃げる気力が出なかったというより、遠慮しているのかもしれない。逃げるのは漫画の主人公の役目で、漫画の主人公がやらないと成功しないのだから、と。

 結局僕の行動範囲はこんなもんか。でも行動範囲が広くても、何も変わらないだろう。

 

 

 午後五時。まだあれから一時間しか経っていない。...返信は、来ていないだろうか。

 ベッドに座り、スマホを手にとってアプリを開いた。...メッセージが、来ていた。

『別に』

 ...このメッセージはもはや、僕との友人関係の終わりを告げていた。だって、こんな曖昧なメッセージを送られてきて、明日から何を話せばいいんだろう。でもどこかに、多分なんとかなるだろうと期待してしまっている自分がいる。

『ほんとに?』

 そう送ろうとして、すぐに文字を消した。相手だって苦しみに紛れて送ったメッセージかも知れない。それを確認するなんて関係を悪くしに行っているも同然だ。今送るべきなのは、もっと相手の気持ちを考えた文章にほかならなかった。

『ごめんね、なんか今日僕が変な空気にしちゃってたかも...』

 一応、語尾に三つピリオドをつけて送信した。何なんだろう。今回についてはこれで解決したはずだ。

 ...これは僕にとって解決しただけであって、自己満足に過ぎないのだろうか。

 何度気をつけても、結局自己満足で終わるのだろうか。

 その時、別の友人からメッセージが来ていたことに気が付いた。

『今日の社会のノートみせてくれない?』

 もう学校の話をしないで...。そう嫌悪感を抱いてしまったがすぐに思い出した。今日この友人は学校に来なかったことを。だとしたらこれは学校の話ではなくて勉強の相談という類に入るのかもしれない。ただもちろん、僕が勉強の相談にのるつもりはない。

『ちょっと待ってて』

 既読スルーと思われると困るので念の為そう送った。

 もしこの友人のように今日学校を休めていたら―。

 いや、そんなことを考えるのはやめよう。僕は立ち上がってゾンビのような歩き方でバッグの方へ向かった。意図的に力を抜いていると、何故だかわからないが少し気持ちが軽くなることがあるからだ。

 線を境目にファスナーを左右に裂くあれはスライダーというらしい。スライダーもファスナーの部品の名前だが。スライダーを動かす手で弧を描いてその黒いリュックサックをあけると、そこから教科書とノートが顔をのぞかせていた。整理されているともとれないものの乱雑だともとれない、何も感じられない荷物の入れ方だった。色でいうと赤というよりは青って感じの雰囲気がある。そこに手を入れてガサガサと社会の授業のノートを探すが感触だけでわかるならそれは超能力者と同等だった。部屋の電気もあたっているので視覚情報は感触より圧倒的に役に立っている。

 ページ数など気にせずに一番左のページを開き、ぱらぱらと右手で紙をめくっていく。白紙のページが出てきたところの一ページ前が最新ということだ。やがて見開きの白紙のページが出てきたので、左手の親指を使って一ページ前に戻した。ベッドにそのまま置いて写真を撮って、友人に送信した。

 まださっきの待つことを求めるメッセージはまだ読まれていないらしかった。つまりこのメッセージは無駄である。ただ僕がそのメッセージを取り消すこともしなかった。

 無駄なものがあっても困らないなら、そのままでいいと思うからだ。このままにしておいて困るのは強いて言ってもこのスマホの容量くらいしかない。今このメッセージを取り消す手間から逃げることと地味に容量を増やすこと、果たして僕にいい影響を与えるのはどちらだろうか。結果、どちらも限りなく僕に与える影響はゼロに近いのだから、そもそもこの問題を気にする必要はない。

 ...あっても困らない無駄、か。きっと僕とあの友人の間に流れる変な空気を拭うことは、あってもいいというより、あったほうがいい無駄である。もっと言えば無駄ではない。

 それなら、僕がそれから逃げてしまう理由はなんだろう。行動を起こしたところで、心がそこから逃げているのに変わりはないのかもしれない。どうやっても拭いきれないこの気持ち悪さ、嫌悪感、虚無感、空虚、無気力、すべては今日ずっと、僕にまとわりついている。

 なのに、時間は必ず流れていく。止まるよりはいいと思っていたこの時間も、『充実していない』という言葉で言いくるめられてしまうのだろうか。

 ...なのに、こんなことを考える時間だけはあっという間に流れて、今日の大部分を遠慮なく、容赦なく使ってしまうのだ。

 ベッドに仰向けで寝転がって両手を広げる。座った状態から後ろに倒れたので膝から下が、正確に言えばももあたりから下がベッドから宙に投げ出されている。

 もう今日は返信を確かめたくない。そう思うのは関係が壊れることが怖いからだろうか。それとも、目の前の現実に向き合うのが単に面倒くさいからだろうか。

 理由が何であれ、その時の自分の頭の中に現実と向き合うのが怖いからという選択肢はなかった。

 あの友人の返信を確かめることがなければ、この友人の返信を見ることもないだろう。お礼のメッセージに対してなにか反応をするのはあまり得意な方ではないから一つ、小さな問題が蓄積されるかもしれない。

 『どういたしまして』がそれに対する答えということくらい、僕は知っている。

 

 

 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ...

 頭の中で鳴り響く高音は二万ヘルツよりも低いはずだ。でもいくら周波数が低くたって頭に鳴り響くこの音なのだから、止めるしかない。

 頭の先にある、白く丸い目覚まし時計はどこか近未来的な雰囲気を出している。それに伴うベッドの茶色は白と対比できそうなレトロ感がある。でもそのコントラストにうっとりしたところで、この気だるさが吹っ飛ぶわけでもない。もはや余計体に染み付いてしまう。

 起きるときは一気に起きたほうがいい。やがて誰かが来てしまうのだからさっさと身を起こそう―

 肌に比較的温度の高くない氷がそのまま付くようなちょっとした痛さがある。足を出すとより一層だ。服を通してもそれは伝わってくる。一度ベッドに座ってその後両手を使って、足裏全体を使って立つ。こんなにも基礎的な人間の運動方法なのに、それをためらってしまう原因はなんだろうか。...おそらく、友人関係のトラブルなんてあからさまな原因がなくたって、同じことを毎朝感じている。そのことを自覚していないのはノンレム睡眠のときに見る夢を覚えていないように、毎朝ぼーっとしているからだ。

 ため息をつこうか。でもため息を付くと家族にその音が聞こえてしまうかもしれない。音がならないようにため息をするのは僕にとってはただの吐息だ。特に意味はない。

 ...幸せが逃げると言われるため息には、実は自律神経を安定させたりいい効果があるのだという。この寒い朝、緊張をほぐすという意味ではため息は重要な役割を果たすと思う。

 でも正直、ため息は僕に関してはあまり意味をなさないのがいつものことだ。意味がないなら無理にこなしてもそれこそ意味がない。

 目の前にあるクローゼット。そこから制服を取り出して着替えなければならない。僕にとって特にワイシャツは冷たく、腕の部分が直接肌に触れるから着替えるのをためらうことがある。でも着替えることは生徒にとっては必ず『しなければならないこと』だ。校則なのだから。だから今まで続けてこられた。

 ...着替えるというのも一種の習慣だろうか。しなければならないという一見マイナスなことも、意外と自分の生活にいい効果を与えているのかもしれない。

 そういえば、カーテンを開けていなかったな。紺色のカーテンの隙間から、上から、下から、白い光が浮き出る。波のような柔らかい形ではなくても、それはどこかこの小さい部屋に安らぎを与えていた。

 

 

 何故か自分で整ったように感じるこの体。何故か歩いているうちに自らその整然とした様を踏み荒らしているような気がする。それは学校を行くのをためらっている本能の学校へ行かないための言い訳だろうか。

 ―これ以上行ったら、自分が自分でなくなる、と。

 どこか過剰に表現しているその本能だが、実際体はもう学校へ向かっていた。一回来た道を引き返すのは本能的に難しい。ためらってしまう。ということは、自分の中で『行く本能』と『行かない本能』の二つの本能が存在しているということか。

 行かない本能は、この寒さと友人トラブルが原因なはずだ。中身は難しくても答えは単純なことである。

 ただ行く本能はなんだろう。この先にあるものに対する好奇心の現れだろうか。絶対に問題を解決するという強気な姿勢だろうか。それとも、歩くことを渋っていることに対する単なる反動だろうか。

 今回に関してはきっと三つ目、遠慮をカバーするための感情だろう。行くことをためらえばその理由を問われるからだ。

 ...もしかしたら今は、寒さが嫌いという感情はないのかもしれない。あのことさえなければと想像してみると、案外明るい日々がそこには待っている気がするからだ。寒くても別にそれくらいいいんじゃないか、と。解決してしまえば、そう思うこともできないのに。なんて不都合な感情なのだろうか。

 ただ手袋もしているものの、その網目を縫って、そして糸そのものに冷たさが伝わって、今になればほとんど意味をなさなくなっていた。

 左側にあるのは名前も知らないテニスコート、その近くには淋しげな公園、道路を挟んで右側には昨日社会のノートを見せた友人がいた。憶測でしかないが調子が悪いようには見えない。僕の場合風邪だったりしたら熱が下がっても一週間は長引く。だから察するにあの人の休んだ理由はそれ以外の病もしくは家庭事情か何かだろう。そう思った。

 その友人に見つからないようにゆっくり歩いて距離をとろうとしているのは、見つかって昨日はありがとうと感謝されるのが嫌だからだろうか。ただそういう理由があっても、〜だろうかとかいう話すときに使う言葉を心のなかで使っている時点で、僕はそれをわざとらしいという言葉でまとめてしまう。だからそれが真理なのかわからず、なんで距離を取っているのと聞かれても答えに困るだろう。

 人と話すって難しいな。

 歩道を歩いて先にあるのは今度は横断歩道である。横断歩道って向きが違ったら縦断歩道とか言ったりしないのだろうか。

 いや、おそらく横断歩道の指す横断というのは南北方向の移動ではなくて、道路を進む車や自転車だったりからみた横断なのだろう。道路目線が基準といったところだ。

 信号機の上の方にある黄色い人間が直立しているマーク。床が抜けてその人が落ちるとバランスを崩したようなポーズをとる。背景が赤から黒に、黒から緑に変わった時、僕は歩き出さなければならなかった。

 白のはしごをわたって反対側の歩道に着く。僕が学校へ行くときの歩道はすべてしっかり舗装されている。意図的に踏み荒らそうとしても踏み荒らせる場所なんてない。でも一見凹凸がないように見えてももしかしたらこのコンクリートには、長年培ってきた経験という凹みがあるのかもしれない。

 僕にあるのは経験という凹みではなくて、欠点という歪みである。

 少しでも歪みがあれば、横から押されたときにもっと歪んでしまう。果たして微塵も歪みのない人間などこの世にいるのだろうか。

 歪という感じは『不正』と書く。あたかも漢字自体が、歪みが欠点だということを象徴しているようだった。

 歪みが欠点、だということを。

 ―この世界は、歪みに満ちている...。

 完全な平面を成せば、真横から押されても余計に曲がるのではなくて、もっといい感じに潰れるだけだ。理論上は。昔切腹が武士にとっていいことであったように、消え失せてしまうなら歪みで満ちるよりかは潔く潰れるほうが、かっこいい気がする。清々しい気がする。

 しばらく道を歩いた先にある白いビルの前のコンビニ。カラフルに色褪せているその建物から遠ざかるように右に曲がれば、多くの人にとっての学校への道の共通点にそのままつながっている。ゆえに人も多い。でもその人達はほとんど全員同じ制服を身にまとったこの学校の、生徒だ。

 そしてその制服を自分も着用している。ただ一つ、周りと比べてイレギュラーなのは今ここにある毎日は抱かないであろう感情だった。

 一つでも不純物があれば組織は崩れてしまう。目立ってしまう。一人が問題を起こせば、組織に問題があるとされる。でもその事実を目の前にして思うのは、僕というのは全体に対して無視できるほどちっぽけな存在なのだということだった。

 自分にとって歪みでも、はたから見れば何も起きていないようなものなのだ。大昔宇宙人が地球に来ていても、そのことに現代の人間が気づかない可能性はきっとゼロではない。どれだけ大きな出来事が起きていても、それの評価基準はきっと絶対的なやり方ではなく、相対的なやり方で決められているのだ。全体の規模にもよる。

 ...いつの間にかその群衆に飲み込まれ、直後には校舎の目の前に立っていた。右側には灰色の棒とその上にある丸い時計。見上げると針は八時十五分を指していた。いつもどおり、だ。

 都合の悪いことに足が重いという感情はその時なかった。止まることなく進んでいく体を止めようとすることもなかった。チャイムが鳴るまでのタイムリミットは五分、絶対に間に合うと分かっていても、その五分で教室まで行かなければならないという妙なプレッシャーがどこかにあったからだ。学校のプレッシャーは、友人のプレッシャーに勝ってしまったということだろうか。

 上履きを履く。階段を登る。職員室の隣の部活の連絡黒板を確認する。すべての動作を終えるのに二分もいらなかった。つまり残された三分ちょっとが僕に今残された猶予である。

 その猶予を弁解の時間に使うと微妙なところで終わる。そんなことくらいは理解できる。席はえっと...真ん中に三列くらい挟んでいる。から微妙な雰囲気になることは、きっとない。

 リュックサックを机に対して直立させる。そのままにしておくお倒れるのでスライダーを上に引っ張ってそれを防止する。そのままファスナーを開けてノートと授業で使うファイルだったりを取り出して、左手で力ずくでそれらを明るい赤茶色の机の中に入れる。机はちょうどノートが二冊入るくらいの幅だ。意図して設計されたのだろうか。

 これくらいの時間帯は、朝に現れる倦怠感はほとんどどこかへ行ってしまっている。反動が来るのはもう少し後だ。

 後ろの席はいない。前の席の人を振り向かせるのは気が引けるとか以前に単にめんどくさい。友達と関わるのがめんどくさいわけじゃない。話す気力が出ない。

 ...そんなんで大丈夫だろうか...?

 こう漠然と思った理由はなんだろうか。僕は今日、しっかり向き合って話そうと決心してきたとでも言うのだろうか。

 ―でもその疑問を理由に向き合うことから逃げるのは、自分を正当化しているのと同じで、表向きの『向き合う』をせっせと片付けてしまった証拠である。

 キーンコーンカーンコーン。

 若干音程を変えてもう一度それは流れたが、はっきりと僕の耳に入ったのははじめの方だけだった。

 学級委員は若干のんびり歩いてもちょうどいいくらいだった。教壇に立つのと同時に全員が静かになった。

 朝学活を始めるということをクラスメートに告げた後、今日の予定を日直に話させ、加えて教科係に明日の授業ごとの、持ち物など教科連絡を書いておくことを求めた。終わりも始まりも生活委員が号令をかける。終わりの方の礼をするときには、このクラスの副担任の先生が教室に来ていた。

 担任の先生は、別の用事があるのか。

 よくあることだ。ただついこの前は『電車が遅延した』というちょっとだけ珍しい理由だった。遅延することが珍しいくらい、よくあることなのだ。

 まあ、遅れた理由すべてが僕たちに告げられるわけでもない。あたり前のことだ。

 朝学活が終わる。単純に心苦しかった。

 キーンコーンカーンコーン。その時のチャイムは教室からでてもいいという、僕に逃げを与えるものだった。

 キーンコーンカーンコーン。今度ははっきり聞こえた。

 

 

 .....

 

 

 

 

 

 

 逃げた。結局逃げた。友人から逃げた。

 現実から逃げた。世界から逃げた。自分から逃げた。

 昨日の悔いはどこへ行ったんだ?昨日の出来事から僕は何を得たんだ?

 

 あの苦しみは何のためだったんだ?

 

 こんなにも行動を起こせずに終わるのなら悩まないほうが良かった。課題でもしとけばよかった。

 ...今日は、金曜日だ。

 何がしたかったのだろう。僕は何を目指して昨日あんなにも悔いを持ったのだろう。

 時間を無駄にしている。体力を無駄にしている。人付き合いを無駄にしている。

 友人は消耗品ではない。

 この思いもいつか役に立つって、誰に話しても言われるだろう。

 ―それって、とりあえず終わらせるための鎮痛薬ですよね...?

 ―人を救った気持ちになるための酒の肴ですよね...?

 そんなことを思ってしまう自分が嫌い、というふうにも思えなかった。自分が嫌いというよりただの欲求不満に襲われた。

 信頼を、失いたくない...

 あの人は勇気のない人だって、思われたくない...。

 この欲求不満にどんなふうに対処しようと、それは一時的に痛みを抑えるためだけに用意されたガイダンスにほかならなかった。

 自分を、騙していることと同義だ。

 自分は、物語の主人公ではない。

 迫りくる次の授業、チャイム、号令、もはや過ぎた後も焦る自分をどこかで友人は見ていただろうか。

 見ていないか。あの人はわざわざ授業中に後ろを向くほど、不真面目な人ではない。

 

 

 一人で学校から帰ったのは、二日連続である。

 友達と喧嘩をした。それだけの理由なら単純に翌日謝って終わりだろう。ただ一番怖いのは、喧嘩もしていないが明らかに敬遠されている場合だ。

 家に帰ってきたものの、することは特にない。いや、あるにはあるのだが今は手のつけようがない。

 まともな答えを得られないと分かっているのに、この感情を誰かに伝えたくなってしまう理由はなんだろうか。

 どこかで、直接話してきてくれるかもしれないと、卑怯な期待をしているからだ。

『友達が怒ってるかどうかわからないときって、ある?』

 こう聞いておけば、何があったのか聞いてくれると、分かっているからだ。

 僕には割と、優しい友達がたくさんいる。

 僕が他の友達とものすごく楽しそうにやっていたらあの人は嫉妬するだろうか。

 嫉妬させたら、戻ってきてくれるだろうか。

 ...戻ってきてくれたら、前よりも素直になれるだろうか。

 ただ一つ、僕は戻ってきてくれたときに関して、冷たく接してしまうかもしれないという心配は、なかった。

 風が吹く。部屋が明るいのは蛍光灯のせいではない。

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