努力は肯定されるべきじゃない
たとえば、何か凄い作品を見たとする。
なにがすごいのかわからないけど、とにかくすごい。
私は、その感動を、一番大事にしたいと思ってる。
美術館に行ったとき。
一番うっとうしいと思うのは、絵画のうんちくを垂れる素人客。
中途半端に知識だけがある母親だか父親だかが、息子だか娘だかに「この作品はね」などと解説を入れる。
価値観の植え付けは、子供にとっても不幸だと思うし、周りの客からすれば迷惑以外、何物でも無い。
私が一番嫌いな人種のひとつは、群れて美術館に来る奴ら。
マジで迷惑だから、絶滅して欲しい。
それはともかくとして。
超絶技巧の大道芸とかを見たときとかに、一番しらける感想は、なんだろう。って考える。
たぶんそれは「あんな難しい技を成功させるなんて、どれだけ努力したんだろう」とか、そういう種類の言葉。
馬鹿が「感動した! なによりも、あなたの努力に感動した!」とか言うけれど、それってつまり、努力以外には感動できなかったということだよね。
それは、たとえばスポーツの大会とかでもそう。
努力なんてのは、誰だってする。だけどそれは、努力を認めて欲しいからなんかでは、断じて違う。
オリンピックで、選手が努力を積み重ねてきた映像を流すのは、本当にどうかと思う。
そんなの、どうでも良くない?
努力した結果の圏外と、楽しんだ結果の金メダルだったら、私は金メダルの方がすごいと思う。
もちろん努力は、結果を残すために必要な場合が多いと思う。
だけど、努力のための努力ほど、虚しいものもない。
まあでも「頑張ってるから応援しよう」と言いたくなる気持ちも、わからないでもない。
個人で応援するのは、まあ好きにしたら良いと思う。だけどさ、やっぱりそれは理由にしちゃいけないと思うんだ。
だってそれだと、努力をやめた瞬間に、応援をやめるってことになる。
結果のための努力が、いつの間にか努力のための努力に上書きされる。そんなの、誰のためにもならない。
頑張っているから応援する。それがたとえ本心であったとして。
それでも努力は、否定されるべきだと思う。
少なくとも私個人はそう思う。よく頑張ったね。などと上から目線で、誠意を否定されたくない。
すごいと思ったなら、金を払え。
金を払うまでもないと思うなら、慰めの言葉など要らない。
結論:美術館に家族や友達を誘うな。